大洋ボート

『万葉集』巻七・1238、1245、1250、1263

高島の阿度(あど)白波は騒けども我は家思ふ廬(いほ)り悲しみ(1238)

  「高島の阿度」は地名で、現在の滋賀県高島郡安曇川町にあたるという。「廬」は臨時につくる粗末な家。作者はあるいは人からその地の波の見栄えや音響のうつくしさをかねて聞いていたのかもしれないが、家族からはなれて暮すことは寂しく、波どころではない。妻を思う時間のなかに騒音として入ってきて邪魔をするだけという。「家思ふ」ことに没入できずに、その思いとまったく無関係な波の音が作者のなかで居座って、思いと並存している状態が歌われている。これまで触れてきた万葉の歌の中では視点がめずらしいのかもしれない。もっとも、万葉にかぎらず現在もふくめた私たちの「思い」の邪魔のされ方としては一般的である。

志賀(しか)の海人(あま)の釣船の綱堪(あ)へかてに心思ひて出でて来にけり(1245)


  「志賀の海人の釣船の綱」までが「堪へかてに」にかかる序。「堪へかてに」は耐えることができない、つまり綱に大きな力が加わって切れてしまいそうだ、ということだろう。「心思ふ」は恋人を思うことという。恋人に頻繁に会うことをみずからに禁じていた作者がついに我慢しきれなくなって、恋人のいる場所へ出てきてしまった。それほど遠い地ではなく、目と鼻の先の距離ではないかと推測する。だからこそ禁じることもその禁を破ることもみずからの心ひとつでどうにもなる。相手に会ってどうなったか、以前と以後で変化があったのかは歌の上ではわからない。それよりもひそやかな生活の目標を破ったことを作者は重視する。この時代は、みずからの恋愛沙汰が生活が重なりあう者たちに知られること、噂されることをおそれる傾向があったようで、認められた夫婦でさえも夫があまり頻繁に帰宅すると非難の目でみられたことが人麻呂の歌にも記されている。(当時は通い婚)またその非難は本人ばかりではなく近親者にも向けられたのだろう。だからそのおそれを承知で恋人に会いに行くことには勇気をふるう必要があった。
  共同体のなかにおとなしく没することの平穏と、そこから少しはみだすことの後ろめたさと快感が歌われている。言い換えると、小さな悪をなしとげたひそかな勝利感か。心の世界を拡大してその変化に着目し忘れまいとする。みずからが見る心の世界は人目からはまったく見えない。

妹がため菅(すが)の実摘みに行きし我山路に迷ひこの日暮らしつ(1250)


  直前の1249番は「君がため浮沼(うきぬ)の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも」。いずれも「柿本朝人麻呂の歌集に出づ」とある。声調からして二首とも人麻呂作と推測したくなるが。 
  妻のために菅の実を摘みにいって山道に迷ってしまい、その日一日を過ごしてしまった。日記風で内容的に特に取りあげるべきものが乏しいと見えるが、なにかしら余情がある。作者は採集行動に夢中になったあまり帰り道から離れてしまったのか、もともと土地勘のない場所に踏み入ってしまったのか、明らかではない。強引に解釈すると、普段抱きつつある欠損感や空白感が作用して「山路に迷」うことにつながってしまった。作者はそういう普段からのみずからの心とはからずもそれが表の行動に出てしまい失策として表面化した、それを不思議に思って着目するのではないかと私は受け取りたい。「山路に迷」ったことを大げさに悔やむのではない、また妻を愛しないのでもない。それと並存して空白感がたえずはびこる。歌にこめられた余情を無理に私なりに言葉にするとこうなる。言葉にしたい誘惑に駆られる歌であり、また短歌的抒情の奥深くに触れられる思いも持つことができるのではないか。菅の実は持ち帰って食料にするのか、それとも家の庭で栽培して最終的に藁にしようとするのか、わからない。

暁(あかとき)と夜烏(よがらす)鳴けどこのもりの木末(こぬれ)が上はいまだ静けし(1263)

  「暁」は午前4時前後、「もり」は山、「木末」は樹木の先端の部分、梢をさすそうだ。作者は昼間同じ空間を見て知っているのだろうから、夜であってもどのあたりに山があるかわかる。烏がしきりに鳴いているが山のあたりは静かだ、の意。音によって、その有る無しによって二つの空間が意識されることは万葉集の歌に数多いが、夜であることはめずらしいのではないか。「夜烏」という複合語も印象的だ。「夜雀」「夜燕」こういう複合語があるのかどうか知らないが、今のところ目にふれた記憶はない。烏の色彩の黒と「夜」がぴったりして面白い。歌全体としては、作者は山の静けさに惹かれている。この歌にも余情がある。
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『万葉集』巻七・1150,1158,1159,1179,1188

住吉(すみのえ)に家もが沖に辺(へ)に寄する白波見つつしのはむ(1150)
住吉の沖つ白波風吹けば来寄する波を見れば清しも(1158)
住吉の岸が松が根うち曝し寄せ来る波の音のさやけさ(1159)

  現在の大阪市にあたる地の万葉時代における海岸線は、現在よりもかなり内陸部に位置していた。大阪市内を南北に走る上町台地(難波宮付近を北端とする)付近までが海であったといわれる。おそらくは遠浅で、台地から眺める波が寄せ来る風景はさぞかし壮麗であっただろう。三首とも旅で住吉の地を訪れた人の手になるものとみる。いくらいい景色であっても普段そこに住んでいる人にとっては感動は少ないだろうから。現代は埋め立てや護岸工事がいたるところで施されて、遠浅の海を見ようとしても遠方まで足を伸ばさなければならない。私もさていつごろ見たのか、かなり前である。波頭を白馬の鬣にたとえた短編小説があったと思うが、これも記憶はおぼろだ。
  1150の「家もが」は家があればいい、の意。家があれば飽きるくらいに波と海をながめられるのに。「しのはむ」のシノフは賞美するの意。1158の風は向かい風か。風にあおられて波が勢いを増すのか、やや強い風を海岸で浴びるのも心地よいものだ。「清し」はすがすがしいの意。1159の松は「白砂青松」という言葉があるように海岸には付き物で日本人にはなじみある風景だが、この歌では視覚とともに聴覚も快感を受けとめるために動員される。波が遠浅の砂浜を行き来するたびに心地よい音を響かせる。夏ならなお爽快だろう。波をいっぱいに浴びる松の首根っこになってみたいと思うのではないか。

家にして我(あれ)は恋ひむな印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)が上に照りし月夜を(1179)


  「印南野」は兵庫県南部の明石川、加古川流域の平野部。「浅茅」は丈の低いチガヤで、チガヤはイネ科の雑草。平地に群生するそうだ。「恋ひむな」の「な」は詠嘆の終助詞。「月夜」は月そのものという。旅行者が旅先でうつくしい景色に出会うことは何もめずらしくはないが、この歌が少し面白いと思うのは作者が旅なれた人であり、しかも旅が好きではないかと推察したくなるところにある。おそらくは自費ではなく、たとえば役人か何かの職業にともなうものであろうが。何回も美しい景色に出会って帰宅以後もそれらを思い出すことを経験した。またそこに新たな旅の思い出が加わったということだ。時制としては、おそらくは見てからまもなくの浅茅の原っぱの上の月を「現在」としてもさしつかえないものを少し「過去」にしている。帰宅以後の時間が「未来」であることは当然だが、両者を歌の「現在」から距離をつくって自身の人生の流れるさまを見渡しているのだ。単一の風景を含みながらの人生の幸福感の吐露となっていると読んだ。

山越えて遠津(とほつ)の浜の石(いわ)つつじ我が来るまでに含(ふふ)みてありまて(1188)


  「山越えて」は「遠津」の「遠」にかけた枕詞。「遠津」は所在不明らしい。「含みてありまて」は蕾のままで待っていてくれの意。作者は同じ道を何回も往来していて、季節になると固有の場所にある岩につつじが咲くことを知っているらしい。おそらくは「石つつじ」のみならず、その道を歩むことで出会えるさまざまな花や風景が季節ごとに移り変わるさまのうつくしさになじんでいるのであろう。往来しながらそれらを愛でることがささやかな楽しみなのだ。わたしが来るまでは、つつじよ、咲ききらないでくれと願う。「山越えて」も単に枕詞と解釈せずに、実際に山越えの道があると受けとったほうが、出会いの喜び、つつじのうつくしさがいっそう引き立つのではないかとみるがどうか。言葉のリズムもこの歌はよい。

磯の上に爪木(つまぎ)折り焚(た)き汝(な)がためと我が潜(かづ)き来し沖つ白玉(1203)


  海人を職業とする人だろうか。しかし普段の仕事の上ではなく、妻のためにわざわざ「白玉」を潜って採ってきた。白玉は真珠をさすのか、願いがかないひと仕事を終えて焚き火にあたって暖をとる。妻も喜んでくれるだろうとの思い。そのときの疲労と充実感。いいものだ。
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三姉妹~雲南の子

  両親が不在の幼い三姉妹をドキュメンタリー形式で追う。中国雲南省の高地の農村が舞台で、たいへん貧しい生活ぶりだ。長女が11歳でその下が6歳と4歳だったか。とくに気の毒なのは長女で、下の姉妹を父母がわりに面倒を見なければならない。伯父伯母や祖父が近所にいて、まったくの孤立状態ではないが、家屋は独立しているので三姉妹は「家族」である。
  着の身着のままで顔や髪はうすよごれている。寒い季節か厚着で、室内でも常時長靴を履いている。しかし寒さの影響か下の姉妹の一人が足先に疾患を起こす。長靴を脱がせて長女が患部をみて拭いたりなでたりするが、その前だったか、どういうわけか長靴の底部を槌でたたいて壊すような仕草をする。靴の中に「悪」が潜んでいると思うのか、詳細は不明だが、無知ななりの長女の姉妹を心配する気持ちがあらわになっているように思えて目を引いた。長女は農作業と家畜の世話も大人と同じようにしなければならない。これに比べると下の姉妹は低年齢だからまだまだ子供でいられる。泣いたりわめいたり姉妹喧嘩をしたりで長女を戸惑わせる。おそらく下の姉妹は両親が不在であることや貧しいことの異常ささえわからないのだろう。
  子供は家庭環境を選べない。長女はあたえられた仕事をやるしかない。泣くことも逃げることもできない。そろそろ多感な時期にさしかかる年齢だが、まるで無表情である。多感さをみずから押し殺すかのようにみえる。希望がもてるのは食料はじゃがいもなど比較的豊富で、10代後半にまで達すれば、もういちど現在の生活を自分の考えで見直すこと、選び直すことができるだろうとおもえることだ。
  雲南省の自然がうつくしくカメラに収められている。山並みをおおう霧、大規模な段々畑、鮮やかな残雪など。豚、羊、ヤギなどの家畜のうごめくさまも面白い。それに古い家。外部は風雪に晒され内部は泥と煙で壁が汚れきっている。これらを目にするのも愉しめる。だが長女の奮闘ぶりを追うことと必ずしも重ならない、二兎を追っている印象がある。153分という時間もやや長い。
   ★★★

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『万葉集』巻七・1070、1081、1082、1088,1094

ますらおの弓末(ゆずゑ)振り起し猟高(かりたか)の野辺(のへ)さへ清く照る月夜(つくよ)かも(1070)

  「猟高」はテキストでは奈良市東南部の高円山付近の旧地名と推測されている。第2句までが「猟高」の「猟」にかかる序詞で、狩の最中の男性をあらわしている。野辺は野原のことだから、猟高の一帯を月が明るく照らしている光景だろう。「月夜」は一般的には月そのものを指しこの場合もそれにあたる。他には月の照る夜をさすこともあるという。古典の言葉はこのようにややこしい。するとこの場合、やはり月を賞美する歌になるのか。私は月そのものよりも、月(満月かそれに近い状態を想像する)の明るい光に照らされてぼんやりと輪郭をあらわす野原のほうにどうしても想像の視界がはりついてしまう。私は見たことがないが、街灯一つない地域では月の光線によって風景全体がぼんやりと浮びあがるほどに肉眼で確認できることがあるそうだ。深夜にあっても街灯だらけの都会住まいだから、あこがれを抱くのか。しかし古代人でも月光にたいしては霊妙さを感じたと思われる。

ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ我が居(を)る袖に露そ置きにける(1081)
水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜のふけ行けば(1082)

  月を愛でる時間をもつということは、万葉人にもそれだけ余暇ができたことになるのか。それとも歌の触手を余暇の領域にもひろげていったのか。歌を詠むことそれじたいも朝廷から委託された少数の人をのぞけば余暇における趣味であったと思われるが。「おもしろみ」は「おもしろし」のミ語法。「オモシロシは、元来、目の前が明るくなるような感じを表す形容詞」とテキストの注釈にある。だから明るくなることそれ自体が面白い、興味深いことでもあるのだろう。戸を開けて室内を照らしてくれる月光を愉しんでいたところ、寒さも忘れてしまって時間がたってしまった、気づくと袖に露がついてしまったというのだろうか。あるいは野外に長時間過ごしたのか、それとも想像で書いたのか。風流というのか、そこまでするほどの魅力が月光にはあるということなのか。「露そ置きにける」は寒さを表わすが、逆に月光のあたたかみというべきものを表現することに重心が置かれていると感じた。
  1082番は月光にたいしてもっとうっとりしている。「さやに見つべくも」は、はっきりと見られるほどに、の意。月の微弱な光で水底の玉が見えることはないだろうが、夜の更け行くにつれて、つまり暗さが増すにつれて月の光がますます冴えわたるという。その冴え冴えした月光を賛嘆する表現として「水底の玉さへ」はっきり見えるほどだと、もっと明るさを増した光とした。作者が月光に代わって玉を見つめているような気にさせられる。月光のなかに身をどっぷりと置くこと、あるいはそれを想像することの幸福感に作者はひたっていると思う。

あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る(1088)


  巻七は大部分が作者が明記されていないが、『柿本朝臣人麻呂歌集』から引用したとの注解が付されている歌が散見され、この歌もそのひとつ。「人麻呂歌集」は現存しないそうで詳細は不明だが、他の人とともに人麻呂の歌も収録されていたという。私は多くの人と同じくこの歌は人麻呂の作ではないかと思う。「なへに」はするにつれて、の意。川の瀬が心地よく響いてひきこまれるようにたたずんでいたところ、視線を移動させると弓月が岳に雲が立ち上っているという。瀬は音が主に意識されているのかもしれないが、視線もそこにとどまっている。そこから視線を山の上方に移すまでに時間がある。つまり引き込まれような風景が一つの歌のなかに時間を置いて二つ盛り込まれている。人麻呂の有名な歌「東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・48)も同様に、見とれるべき時間をはさんで風景がふたつ盛り込まれて賞美されている。「かぎろひ」は日の出直前のその一角の空の明るさであるから、吸い込まれて時間を過ごすのも当然で、ふと振り返ると西の空にまだ月が残っているという。力強さとともに共通点がある。

我(あ)が衣色どり染めむうまさけ三室の山は黄葉(もみち)しにけり(1094)


  この歌も「人麻呂歌集」からの採用で、私は自信はないが、これも人麻呂作と思ってみたい。注釈によると「うまさけ」は「三室」にかかる枕詞で、神酒(みき)の古語を「ミワ」と言ったことからくるそうで、「三室」は大和地方の三つの山をさし、この場合は三輪山がそれにあたる。紅葉してきた山の色で着ている衣服を染めようという、紅葉に感動しながらのおどけた表現であるが、不可能なことを願いをこめて歌にするところが、先進的歌人の人麻呂らしいのではと思うからである。例えば、黄土(はにゅう)で衣を染めようとの思いつきは不可能ではなく、「白波の千重(ちえ)に来寄する住吉(すみのえ)の岸の黄土(はにゅう)ににほひていかな(巻六・932)」という歌もある。それに比べると詩的表現として進んでいると思いたいのだが、大げさか。しかしうつくしい歌だと思う。
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『万葉集』巻六・964、1029、1032,1036

我が背子に恋ふれば苦し暇(いとま)あらば拾(ひり)ひて行かむ恋忘れ貝(964)


  作者は大伴坂上女郎。太宰帥であった大伴旅人が大納言に任じられて上京することになった。ときに天平二年(730)。それまで妻を亡くした旅人の身の回りの世話をするために坂上女郎も大宰府にあったが、旅人の上京にともなって同じく坂上女郎も帰京した。旅人よりも一足早く。
  「恋忘れ貝」は特定の貝をさすのではなく、二枚貝の片方、もしくは一枚貝のあわびをさすこともあるそうだ。同じくテキスト注解によれば「我が背子」は特定の男性をさしたのではなく、忘れ貝の名にひかれて興味本位に詠んだと考えられている。そうだろうか、このとき坂上女郎は「海路」(うみつじ)つまり船旅にあって浜の貝をみて詠んだと題にあるから貝を題材にした背景はうなずける。しかし直前の963番の長歌では「名のみを 名児(なご)山と負(お)ひて 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに」とある。筑前の名児山というところを超えたときに詠んだもので「なぐ」(心がおだやかになる)と類似の音を持つ山であっても、その名のとおりに私の恋心はちっとも穏やかにはなってくれないと嘆いたのである。つまりはこの時期、坂上女郎は恋心を抱いてもてあましていたのではないだろうか。それでは誰に? 大伴旅人その人にではないか。あるいは大宰府において知り合った異性である可能性もある。またそのころはすでに他界していた夫の大伴宿奈麻呂を偲んだのかもしれない。(宿奈麻呂は旅人の弟)いずれにしても恋心に心身を消耗させた坂上女郎のつらさが歌われているとみる。坂上女郎と旅人・宿奈麻呂とは異母兄妹であったが、この時代においては血の濃い者同士の結婚は頻繁に行われたようで、坂上女郎が旅人に恋したとしても不自然ではない。
  女性においては男性よりも恋愛の心身に占める比重がより大きいのではないかと、生意気を承知で推測する。恋愛の予感、恋愛の只中にある時期、またそこから後退する時期において恋愛は男性よりも女性においてより大きく作用し女性を翻弄するもののようだ。「君待つと我(あ)が恋ひ居れば我(わ)がやどの簾動かし秋の風吹く」(488)前にも引用した額田王の歌であるが、進行中の恋に没頭していた自身に簾に風が吹いて気づかされる、自分でも驚くほどの没頭ぶりであることを自己認識させられるのだ。知らぬ間に恋愛というそれまでは未知の時間帯に入りこんでいる様子がわかろうというものだ。実らぬ恋から撤退するときは男女ともに時間がかかるのだろうが、男性は感傷的で弱気でうじうじするものだが、女性においては例えば児島や笠女郎の一連の歌を思い出すと、戦闘的であることもあるだろう。坂上女郎の生没年は不明だが、旅人の没年は天平三年(731)で67歳であり、仮に10歳年下であったとしても天平二年では坂上女郎は56歳である。高齢だが、その歳になっても女性の恋愛感情は持続することの証左として964を読んだ。 

河口の野辺(へ)に廬(いほ)りて夜の経(ふ)れば妹が手本(たもと)し思ほゆるかも(1029)
大君の行幸(みゆき)のまにま我妹子(わぎもこ)が手枕(たまくら)まかず月そ経(へ)にける(1032)
関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを(1036)

  三首とも大伴家持の歌。1029は天平十二年(740)のもので、このとき家持は朝廷において内舎人(うちとねり)という地位にあった。なんでも天皇の護衛や宿営にあたる任だそうで、将来の高級官僚となるべき貴族の子弟が経るコースだったそうな。その年に藤原広嗣という人が謀反を起こしてときの聖武天皇は平定のために伊勢に赴き、家持も同行した。河口という地で野営して妻を思い出している家持である。戦を前にして部下を叱咤激励する役目でもあったかもしれない。また自身のますらおぶりをあらためて自覚しなければならない時節であっただろうが、家持はそんなことはおかまいなしだ。すくなくとも作歌のうえではそう見える。家持の生年は718年といわれるからこの年で22歳になる。妹とは坂上女郎の長女大嬢であろうか。すでにそのころ新婚であったのか。帰るべき場所をえた若い男性の幸福感が率直に歌われていて、私は好感がもてる。国家の一大事である戦よりもおのれの身の幸福に思いがどうしても吸い寄せられる、それをいつわらず遠慮なく歌にするところがいい。1036も同じ時期の歌で、不破という場所で仮宮をした。関がなければ家に帰って妻の手枕でくつろぎたいという。
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