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榎本まみ『督促OL修行日記』

督促OL 修行日記督促OL 修行日記
(2012/09/22)
榎本 まみ

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  著者は大学卒業後、大手信販会社に就職することができた。何年前のことかはわからないが、大卒でもそうは簡単に正社員として採用されない時代だから、ある階層の人々からは羨ましがられる存在であったかもしれない。本人もまあまあの会社に入社できたとの満足感もあったのか。ところが入社早々配属された部署が、電話での入金の督促。つまりキャッシングカードで融資を受けたものの期日までに入金してくれない顧客への督促と交渉の専門の部署であった。業務のなかの一部分としてではなく、朝の9時から夜の8時までこれだけをやらされるのだ。キャッシングカードとはクレジットカードとちがって現金の融資のみに特化したカードであるらしい。また当時は法律の整備がなされていなくてサラ金との情報共有がなかったこともあって、サラ金で金を借りられなくなった人がキャッシングカードを新たにつくって借金することもあったという。それも要因のひとつで、返済能力の乏しい人も多く、電話された客は大部分が不快がり感情的になって「死ね!」だの「ブス!」だのと罵倒を返してくる。そういう顧客相手の電話を「1時間に60本」のノルマを課せられてかけなければならない。新米OLとしてはたまらないほどのストレスフルな仕事であることは容易に理解できる。
  現に著者はその間体重を10キロ減らし、顔をニキビを多くつくり高熱にも見舞われた。医師の診断を受けても身体的には悪い個所はみつからず仕事が原因の「心因性」と自己診断するしかなかった。同じような業務内容の会社であっても、前もってマニュアルをたたきこんだり、わざわざ「強化合宿」をして社員に戦闘意識を植え込むことをしたりする社もあるようだが、榎本まみの会社ではそういうこともせずに、ぶっつけ本番で、新米OLにこういうきつい仕事をあてがったのだ。やがて榎本は業務にしだいに慣れていき、先輩社員からも知恵も借りて、債権回収の成績を上向かせていくのだが、読み物としては前半の著者の右往左往ぶり、それどころか地獄をかいま見たような憔悴が興味深い。安心できるのはこの時期のことを「過去形」としてコミック的に明るく書いている点だ。
  どんな仕事であっても、その仕事固有の「きつさ」があって慣れなければならない、耐性をつけなければならない。また当然技能を身につけないといけない。とろこが誰にもわかるようにそう簡単にそれができるものではない。
  榎本は自身を「洗脳されやすい」性格と分析する。街頭でのキャッチセールスに出くわしたときも容易に断れずに勧誘の言葉にずるずると引き摺られたという。また私には榎本にはどこかのんびりしたところがあるように見受けられる。(入社から間もない時期にかぎっては)社会の真ん中を歩めば誰かが助けてくれてどうにかなっていくだろうというような。延滞債権を督促するのは悪いことではないどころか「正しい」ことに決まっている。まさに社会の真ん中に流通する考えであるが、それを口汚く罵倒されると絶句してしまう。こんなはずではないという思い。それに大部分の顧客が榎本よりも年長であろうから混乱するのは、私の若い頃をふりかえってもよくわかる。また榎本は自身を弱いわりにはプライドが高いといい、弱さを防護するのがプライドであるという。そのプライドが顧客の言葉によってずたずたにされる。
  プライドを捨てることとそのうえに電話相手のプライドを尊重すること。いくら債権回収が「正しく」ても相手を怒らせてしまっては何にもならない。返済能力があってもへそを曲げられる。「すいません」を連発するとぞんざいに聞こえてしまう。「すいません」には具体例を必ずつけて「××につきましては申し訳ありません」という丁寧さが必要という。また「ありがとうございました」も忘れてはならず、「すいません」とのバランスが大事とのこと。言葉とともに感情面でも慣れなければならない、たいへんな仕事だろう。
  榎本まみ氏は後にこの部門の管理職に就いたそうだから、切り抜けたどころか会社員として成功した。だが離職率の高い職場だそうだ。ストレスによるのは勿論、逆に身に着けた対話能力を他の部門で生かしてみようとの誘惑にもかられるのではないか。私の推測だが。最後に「優良債権」のことを書いておこう。期日を忘れてしまって延滞になる人も多く、とくに男性の特定の「医療費」は電話で告げるとたちまちにして支払ってくれる。恥ずかしくて人に知られるのをおそれるためで、具体的には記さないが苦笑を誘う。
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愛、アムール

  人は自分自身のことがわかるのか、理性で律することのできる部分が人にはある。しかし、こらえにこらえていたものがどうしようもなくなって堰を切ってしまうこともある。短い時間のうちにそうなることを人は予測できるのか、それを見越してこらえるのか、そのこともまた広い意味での理性にふくまれるのか、さらにそこから遠ざかった地点で、他人はそういう人のふるまいや内面の変化を理解することができるものなのか。この映画の無気味さはそういう人間存在について鋭い問題提起を投げかけてくるところにある。答えは無論映画のなかからはえられない。私はこの映画を書いたような意味で「他人」として見ざるをえなかった。私の老いた母も現在寝たきりであり、映画のエマニュエル・リヴァと同じで境遇としては私と共通の部分はあるが、夫のジャン=ルイ・トランティニャンのとった行動はわからなかった。言い換えれば肯定も否定もできなかった。ただ悲痛で哀れであることを重たく受け取ったことは確かである。私の深刻さの自覚が薄いのかもしれないが、それだけが「わからない」ことの原因ではないと記さねばならない。納得はできたが理解できなかったといえばおかしいか。ミヒャエル・ハネケ監督は、人は時として正体不明のものに支配される存在だと訴えたいのではないか。
  この映画の結末は冒頭部分でわかってしまう。通報を受けたらしい警官隊がマンションの一室に駆けつけ、頑丈に施錠されガムテープで目張りまでされた部屋に突入する。すると老婦人エマニュエル・リヴァがベッドに横たわってすでに息絶えている。顔の周りには小さな白い花びらが飾られてある。リヴァと親しい者が花を置いたにちがいない……。この結末にたどりつくまでが映画の大部分であり、夫のジャン=ルイ・トランティニャンと妻のエマニュエル・リヴァが仲睦ましくつつましく暮らす様子から再スタートする構成になっている。
  二人はともにピアノ演奏家かその教師であったようだが、現在は引退して老後の生活に入っている。しかしリヴァが病に倒れる。省略するが、時とともに下肢不随になりさらには話せなくなり認知症も進行するという経過をたどる。この間トランティニャンはたえず付き添ってできるかぎりのことをする。入院させたり訪問介護の女性を雇ったりと。娘や教え子のピアニストが訪問して気遣いを見せるがトランティニャンは落ち着いた様子で応対する。老夫妻の一方が倒れればもう一方がそのように対応するであろうと思われる仕方であり、生活ぶりだ。だがトランティニャンのなかで何かが進行している。リヴァに快癒の見込みがないことへの絶望だとしたら、それへの自分の接し方を想定するのだろうか。トランティニャンは無表情だ。平凡で退屈ともいえる。老人だからそうなのかわからないが、映画を見終わってから彼を思い出すと言いようのない無気味さとなって返ってくる。絶えずカメラにさらされアップされるトランティニャン、この映像がこの映画の中心である。
  リヴァは入院を嫌がる。退院したあと絶対に再入院させないでくれとトランティニャンに強引に約束させる。これはわかる。人はプライベートな空間を欲するのだ。自分本来の住処にもどることが健常への復帰の第一歩であろうことをかたくなに信じるようだ。また幼児扱いされて、いくら介護といえども身体を他人にむやみに触れられることも嫌がるようだ。私の母もそういう傾向があって腑に落ちた。そういうリヴァの姿勢を見せられると希望がかすかにではあるが不可思議に湧いてくる。健常にもどるということでは必ずしもなくて、なにかしら抽象的な希望とでもいうべきものだ。これは前半に過ぎず、はかない時間であるのだが……。トランティニャンはやがて会話不能となったリヴァを前にして、子供時代のキャンプ生活でのつらい体験を語る。うろ覚えだが、嫌いな食べ物を出されて食べ終えるのに3時間もかかった、一刻も早く脱出したかったという。つまりは強い脱出願望であり、現在の妻の症状と自分の生活に当然かさねるのだろう。妻の死にはまだ時間的な余裕がいくぶんかはあると思えるにもかかわらず。 
  結末には夫のジャン=ルイ・トランティニャンが深くかかわっている。その行為が正しいかまちがっているのか、問題提起としてそれはふくまれるのは勿論だが、ミヒャエル・ハネケはそれを観客に突きつけたいのではない。安楽死や終末医療の問題でもない。人(ジャン=ルイ・トランティニャン)が孤独のなかで決断することの危うさと弱さ、もしかすると意識しないままで、巨大で不気味な何者かに圧倒され翻弄されるしかないさまを描きたかったのではないか。
   ★★★★

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クリスチャン・フリーデル、レオニー・ベネシュ 他

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『万葉集』巻四・603,604,608,611,612

思ひにし死にするものにあらませば千度(ちたび)そ我は死にかへらまし(603)


  「思ひ」を深くつきつめて悩みの淵に落ちることで死ぬものであったならば、わたしは千回も死んだにちがいない、という。「思ひ」は無論、笠女郎が大伴家持を報われないと観念した上で一方的に恋すること。それだけの「思ひ」の強さの表現であるが、家持にすれば途方もない脅しに映る。「死んでやる」と言われるのに等しいのではないか。家持は笠女郎と逢って、なだめすかし説得すべきなのだろうか。理想はそうかもしれないが、たいへん重く鬱陶しい作業になることは目に見えていて、逃げたくなる気にもなるだろう。

剣大刀(たち)身に取り副ふと夢(いめ)に見つ何の兆(さが)そも君に逢はむため(604)


  「剣大刀」はテキストによれば、この歌にある「身に取り副ふ」というような語句にかかる枕詞として使われることが通例だそうだが、ここでは「剣大刀」そのものが夢にあらわれたことを意味するという。笠女郎はそれは何の前兆か、あなた(家持)に逢いたいためかと自問自答する。刃物は笠女郎が自分を傷つけるためか、あるいは家持にその切っ先を向かわせるためか、両方かねて心中をぼんやりと笠女郎に教唆するのか、夢は普段の思いの積み重ねを土台として、そこから醒めているときには思いもよらない方向に仮定や空想のイメージを飛躍させることがある。醒めてからも本人を陶然とさせるものだ。「刃物を身に添える夢を見たのはあなたに逢いたいためだろうか」笠女郎は「剣大刀」の何たるかをそれ以上には明確にしないが、十分に露骨で脅迫的ではないだろうか。私も刃物にまつわる夢を見たことがあるが、後味のいいものではない。

相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(しりへ)に額(ぬか)つくごとし(608)


  「餓鬼」は仏教用語で、生前貪欲だった人が、死後の世界でその報いを受けてたえず飢餓に苦しめられ安寧をえられない存在に落ちること、その人々を指すという。奈良時代においてはすでにその像が大きな寺に置かれていたそうだから、笠女郎も家持も知っていただろう。たぶん醜く薄気味悪い像で、人々を気味悪がらせたであろう。家持を餓鬼像にたとえ、しかも後ろから「額つく」(額を地面にこすりつけて拝む)、つまりは正対できないという屈辱を刻む。家持と自身にたいする痛烈な罵倒であり、侮蔑である。家持にどう思われてもいいという破れかぶれでもあるか。笠女郎の「二十四首」をここまでとりあげたが、私が男性だからという理由だけでもないだろうが、疲れる。対して家持の返歌はわずかに二首。

今更に妹に逢はめやと思へかもここだく我(あ)が胸いぶせくあるらむ(611)


  あなたに今さら逢えないだろうと思うとわたしの胸はたいへん鬱陶しい、晴れ晴れすることがない、という意。逢えないことを残念がっていると受け取れるが、笠女郎に遠慮しているのだろう。ほんとうは「あなたに逢わずに済んでほっとしている。それでも私の胸はしばらくは晴れ晴れしないだろう」と読むべきだ。「ここだく」はひどく、「いぶせく」は鬱陶しくの意。

なかなかに黙(もだ)もあらましをなにすとか相見そめけむ遂げざらまくに(612)


  いっそのこと黙っていればよかったのに、どういうつもりでか二人は恋に落ちたのか、はじめから長続きしない恋とわかっていたのに、という意。ここへきて家持の本音に近い気持ちが発せられている。最初から一時的な関係にしよう、遊びにしようとわたしは思っていたのにあなたはより真剣で、より強い関係をにわかにわたしに求めた。またあなたは独占欲が強かった。それで辟易して逃げた、私が勝手に拡張して解釈すればこうなる。さらに勝手に拡張すれば、笠女郎は家持といっときも離れずに傍にいたい、他の女性との関係を許さないという強い態度に出たのではないか。あまりにああしろこうしろと女性に強要されると男性は息が詰まって逃げ出したくなろうというものだ。
  大伴家持は名家の出自で、歌の教養もあった。そこで若い女性ばかりではないにしても歌作りの素養のある人を集めて、頻繁に歌会を催したのだろう。そこで女性と知り合う機会がふんだんにあった。また家持は見目麗しい男性であったようだから、もてたようだ。ここでは引用しないが、多くの女性が家持に恋する気持ちの歌をつくって贈った。
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『万葉集』巻四・587、589,593、594,595

  笠女郎(かさのいらつめ)という女性が大伴家持に贈った歌が二十四首まとめられて載せられている。二人は短い期間関係をもったようだが、長続きはしなかった。原因は不明。家持のほうに気に入らないことがあったのか、飽きてしまったのか、最初から一時的な関係にするつもりで関わったのか、とにかくも家持のほうから別れを告げたように見える。はっきりと別れを告げたのか、それとも逢瀬を拒否しつづけることで、それをわからせようとしたのか、私には判断できない。だが笠女郎としてはもっと関係をつづけたかった。一旦は別れを受け入れたとしても後になって未練を断ちがたくなった。それとも別離がしばらくつづく期間においてもいつかは逢ってくれるだろうと勝手に思い込んでいたのか、その辺も私には詳らかにはできない。

我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我も思はむ(587)


二十四首中の最初の歌である。笠女郎が「形見」として何かの品を家持にプレゼントした。それを見てわたしを偲んでください、わたしもいつまでもあなたを思うつもりだ、の意。この歌を見るかぎりは逢瀬の余韻の幸福な感覚がまだあって、いい思い出ができた、これを支えにして生きられる。そう受け取れないことはない。つまりは別れを自らに納得させようとしている、寂しいものの、そうするしかないのか、という諦めがほの見える。弱気ともいえるのか。ところが笠女郎は自らのそういう態度をしだいに翻す。その変貌のさまが動的で痛々しくもある。

衣手を打廻(うちみ)の里にある我を知らにそ人は待てど来ずける(589)


  「衣手」は衣を打つことからくる「打廻」にかかる枕詞。「打廻の里」は所在不明という。そこに待ちつづけるわたしのことを知らないからあなた(「人」=家持)はこない。いったい、あなたは私の気持ちを真にわかっているのか、わかってはくれない。それを残念にも恨めしくも思うのだ。

君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも(593)


  「いたもすべなみ」はひどく、どうしようもなく、の意。希望のない恋であっても現在の自分の気持ちに忠実になるしかなく、苦しくても今暫くは待ちつづける以外にない。そういう自分を笠女郎は痛切に哀れんでいる。自己を客観視できたすぐれた歌だと思う。ずれるのだが、私はデートの待ち合わせのためか、ターミナルの一角の同じ場所に一時間ものあいだ立ちつづけていた女性を何回か見たことがあるように覚えている。私は同じ場所にずっといたのではなく、何回となくそこを往来してわかったことだが、少し痛々しい気持ちにさそわれたことも事実だ。傍目にはどうにもできないことだが。

我が宿の夕影草の白露の消(け)ぬがにもとな思ほゆるかも(594)


「夕影草」は夕日の当たる草で「影」は光をさす。「我が宿の夕影草の白露の」全体が「消ぬがに」のかかる序であるという。実景として思い浮かべても興趣がある。「消ぬがに」は消えてしまいそうなほど、「もとな」はひどく、やたらに、の意で「思ほゆるかも」にかかる。絶縁された相手をなお恋することほどつらいことはないだろう。思えば思うほど同時にその思いの虚しさが寂々として返ってくる。恋することにいちじるしく傾斜した「自分」が恋すればするほど虚無に近づく。積み木をいくら積み上げてもたちまちにそれを崩してしまう魔の手がある、恋の思いのなかにまさしくそれがある。こういうつらい恋なら早く切りあげたほうがよいのだとは誰しも思うところだが、一時の間はそうもいかないものらしい。同じ恋であっても天智天皇の訪問を待つ額田王には充実感があるが、この歌には当然ない。

我が命の全(また)けむ限り忘れめやいや日に異(け)には思ひますとも(595)


  実らぬ恋愛なら時間とともにしだいにその思いが薄まってついには昔話になるのが通常だろうが、ここではそんな知恵には笠女郎はふりむかない。わたしが生きているかぎりはますます家持への思いを募らせていこうという決意の宣言だ。「いや」はいよいよ、ますます、の意。「日に異には」は日を追うごとに、の意。憎しみがあり、頑固である。なんでわたしはこういう仕打ちを受けねばならないのか、わたしはなにも悪いことはしなかった、絶対に正しい、という道徳観もあるのかもしれない。一旦決意したらテコでも動かないという凄まじさがある。重苦しい。笠女郎のような女性から男性が逃げたくなる気持ちがここへきて少しはわかる気にもなる。

夕されば物思(ものもひ)まさる見し人の言(こと)問ふ姿面影にして(602)


  一途な思いを読みつづける笠女郎だが、この歌はその一途さのなかにもほっとさせる、やわらぐものがありはしないか。笠女郎の面影のなかでは家持はうつくしくやさしく、笠女郎をうっとりさせることを変えない。このことが実らない思いを彼女をしてなお持続させる支えになっている。つらさのなかにもわずかの陶酔がある。「言問ふ」は語り、しゃべること。家持は笠女郎にやさしく言葉をかけつづけたのであろう。それが笠女郎を動かした。私たちも結ばれないことを当たり前に納得して映像で頻出する女優やタレントを好きになることがある。つまりはファンというあり方だが、この歌では家持のファンとしての笠女郎が一面として浮かびあがる。だがこの歌は二十四首のうちでは例外の部類で、家持への一方的な執念はまだまだ綴られる。
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『万葉集』巻四・488,489

君待つと我(あ)が恋ひ居れば我(わ)がやどの簾動かし秋の風吹く(488)


  題に「額田王、近江天皇(あふみのすめらみこと)を思ひて作る歌一首」とある。近江天皇とは天智天皇のことで、この歌の読まれたときには額田は天智の側室の地位にあったようだ。「君」も同じく天智を指す。
  「待つ」という言葉の内実がたいへん濃密に感じられる。額田は側室であったからたえず天智といっしょに居られることはなかったであろう。また当時は夫婦であっても通常は夫は仕事のために外出が多く、不定期にしか帰宅できなかったようで、妻が夫の帰りを待ちわびる歌も多く残されている。そこには生活苦も多分に反映されていようが「待つ」ことが恋する感情に重なることも自然であったろう。額田には生活苦は無かったと思うが、天智の訪問の準備をいつもしておかなくてはならない、用意万端整えておかなければならないという事情であっただろう。前もって訪問の期日を使者の手紙で知らしてくることは逐一は無かったであろうと、私はかってに推測するのだが。<あの方はわたしを今でも目にかけてくださっているのだろうか、今度はどんなお話をされるのだろうか、わたしはどんな話をしようか、どうやって楽しい時間をすごそうか、とにかく早くお目にかかりたい>額田の「待つ」時間の内実を、私はあれこれと穿鑿してみるが、どうも追いつきそうに無い。それだけ濃密かつ切実な時間だと思われる。また他の一切合財を忘れてしまうようにごく自然に没頭してしまう時間であろうと想像する。
  「我がやどの簾動かし秋の風吹く」ここが解釈のわかれるところである。簾を動かした風が天智の化身であったり、天智訪問の前触れであるとする説がひとつ。もうひとつは天智とは、したがって額田が没頭する恋の時間とはまったく無縁の別の現実としての風であると説であるが、私は後者をとりたい。現実とはさまざまに展開する雑駁なもので、額田が天智を思って「待つ」濃密な時間も現実でありながら、簾を動かす風もまたありありとした現実だ。自分がたった今まで濃密な時間をすごし没頭してきたことを風による簾の小さな動きによって気づかされ、我に返った。こう読むほうが立体感があって、恋の独立性も読み取られていいと思うが。風が恋に連続していると読み取ると感傷的で甘くなってしまう。
  だが次の鏡王女(かがみのおほきみ)の歌は、額田王の歌を受けて読まれたもので、風の解釈が恋に連続するものとなっている。鏡王女は額田の母である。

風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし何か嘆かむ(489)


  風にさえ恋することができるとは何とも羨ましい。風であっても恋しつつ待つことができれば何も嘆くことは無い。意はこんなところか。額田の母だからすでに老齢に達していて、伴侶と死別したのかもしれない。恋する相手がいないことの寂しさを訴えている。これはこれで独立した歌で、額田の恋が苦しいものであったとしても相手がいるのはいないよりはよほど幸福だ、羨ましいと言いたいのだ。歌と歌の対話としてはずれているのか、いや人同士の対話とは元来ずれるものかもしれない。
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ゼロ・ダーク・サーティ

 2001年のアメリカ同時多発テロの首謀者でアルカイダの総帥とされるオサマ・ビン・ラディンは、2011年5月にパキスタンの某都市の隠れ家に潜伏しているところを、アメリカ軍のヘリコプター部隊に急襲され殺害された。この10年にも及ぶビン・ラディンへの追跡捜査の一端がCIA女性職員ジェシカ・ダステインの目をとおして描かれる。
  事実のおおよそはこの通りではないかとの感想を持った。脚色は施されているのかもしれないが、特に目新しい「事実」らしきものは私が見たかぎりでは無かった。つまりそういう装いがこの映画の狙いであり、十分に成功している。主人公はよくあるアクション映画のヒロインのような超人的な活躍とは無縁である。CIAという大きな組織の中のひとつのコマであって突出した動きをするのではない。つきとめられた情報を吟味し、さらにその情報を掘り下げてあらたな情報を獲得すべく、組織だった行動をするのみである。またビン・ラディンにたいする激しい復讐心を燃やすのか、といえばこれは不明だ。アルカイダの関係者と目される人物にたいして拷問をまじえた激しい取調べを行う職員がいるが、彼にはそういう復讐心があるのではと思わせるが、ジェシカ・ダステインには表立ってはそれは見られない。(この職員が疲れて、やがて本国のデスク勤務を志望してそれをかなえるのは皮肉である。感情をよりどころにするとその衰微も早いのではないかと、私は思った。彼はペットの猿が慰めのひとつであるが、その猿を殺害されてにわかに嫌気がさしたようだ。)ジェシカ・ダステインを支えるのは職業的執着なのだろう。
  緊張感が最後までよくつづくなかで、リアル志向に微笑させられる場面も捨てがたい。ダステインがパキスタンの軍事施設にはじめた赴任したとき、専用のデスクが用意されていてデスクトップ・パソコンもあるが、デスクにうっすらと埃がつもっていて、それを軽く手で払う場面。また基地の通用門までの通路に遮蔽物がほどこされていて、進入車はジグザグ運転しなければならない、つまり猛スピードで突進できない仕掛けになっている。また自動小銃を発射したあとに薬莢が落ちる音がクソ丁寧に拾われている。
  重要なことを記しておかなければならない。戦争にしろ、犯罪捜査にしろ、100%確実な情報はまず手に入れられない。偵察衛星が写真を提供したところで、あくまでそれは有力な情報獲得手段が増えたに過ぎないので、この映画の場合、ビン・ラディンの姿がそこに解析されないかぎりは「くさい」という段階にとどまる。また戦争であれば敵が意図的に誤情報を流すこともあり、それを真に受けたがために打撃を受けることもある。イラク戦争の引き金になったのはイラクの「大量破壊兵器保持」という情報であったがこれがガセであったことは周知のとおりだ。調査チームがつきとめた家にはたしてビン・ラディンがいるのか。ジェシカ・ダステインは勿論100%を主張するが、他のメンバーは60%や20%と言う。上層部に急襲を進言し、その判断を長く待つことになるが、キャスリン・ビグロー監督に戦争批判があるとすれば、まさにこの情報の不確実性によって軍は動かざるをえない、というところにあるか。
  職業的執着は人を鍛え上げ、変貌させる。ジェシカ・ダステインの進言ははたして「正し」いのか。批判の余地はあると思うが、私は硬質なものを受け取った。
  ★★★★
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(2013/02/02)
ジェレミー・レナー、アンソニー・マッキー 他

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