大洋ボート

『万葉集』巻三・270,271、296,304

  万葉集には旅情を詠んだ歌が多くある。朝廷の役人であった人々は任務によって奈良盆地から東方は関東地方まで、西方は九州まではるばると赴かねばならなかった。乗り物はあったのか。海上交通はあったが、陸上だと身分の高い人をのぞけばやはり徒歩が主であったと思われる。単身でか複数でかさまざまであったろうが、だれでもが歌をものにするはずもなく、歌詠みの身としては単身者の自覚をもたざるをえなかったのだろう。周囲の雑音や意見に惑わされることがあったのかもしれないが、自分の気持ちを優先してそれをすくいあげ、正直に歌い上げることに腐心したのではないか。つまり歌詠みには孤独の影が常につきまとってきて、そのなかからの旅情の披瀝となる。
  旅情とは家族の団欒や都の賑わいをあとにしてきた寂しさであり、またあとにしてきたものへの懐かしさである。逆に旅の身にあってはじめて目にする景物への新鮮な思いや感動であり、そこから慰めをうることである。

旅にしてもの恋しきに山下(もと)の赤(あけ)のそほ舟沖を漕ぐ見ゆ(270)


作者は高市黒人(たけちのくろひと)。「赤のそほ舟」とは赤土を塗った官製の舟だそうだ。作者は海抜に近い高さから海を眺めているのか、それとも小高い場所からなのかはっきりしないが、私は後者からの映像が自然に浮かんでくる。海は少し高い場所から眺めたほうがより見晴らしがよいからであり、好みとして選んでしまう。「山下」は山の麓と推定されており、どの高さから眺めても意味は通じる。この山は当然海に面した位置にあるのだろう。「もの恋しき」は都や家族のことを思ってぼんやりしてしまったのだろうか。その間に舟が沖へ漕ぎ出していくのが見える。のんびりしているような、寂しいような、一艘のたぶん小さな舟が頼りないような、そんな印象を受ける。作者はこの舟に旅にある自分を仮託したのか。

桜田へ鶴(たず)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る(271)


  有名な歌だ。作者は前出と同じく高市黒人。「桜田」も「年魚市潟」も現在の名古屋市南区付近と推定されている。万葉の頃は現在とちがって民家も密集していなかった、鶴も飛来してきたということで高市黒人は広大な海辺の平地を一望したのであろう。作者の位置から近い順に年魚市潟、桜田、伊勢湾となるが、年魚市潟も目の前にあるのではなくとおくに眺められる程度で、そのために「潮干にけらし」という推量をまじえての断定の語法を用いた。鶴は干潮時の海辺で餌をあさる習性があり、小魚が海に逃げ出さないうちに、年魚市潟よりもより餌の多く残っているであろう桜田へ群れを成していっせいに移動しつつあるという風景だ。鶴がどれくらいの数なのかはわからないが爽快さがある。二句目で一旦切れているのが万葉の歌らしいのか、歯切れのよいリズム感がある。この歌では作者はもの恋しさにふけることはない。

廬(いほ)原の清見(きよみ)の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし(296)


  作者は田口益人(たぐちのますひと)という人。「三保の浦」は現在の静岡市清水区の入海で「廬原」も「清見の崎」も三保の浦にちかい駿河湾西岸の地名だ。地名が多すぎ、また「の」という音(字)が四回もでてきてリズムが悪いが、「物思ひもなし」にひかれて引用した。意味は「何の憂いもない」とされる。「ゆたけき」は形容詞「ゆたけし」の連体形で、ひろびろとしたさまでここでは海を指す。お勤めのかたわらで噂に聞いていた景勝の地を眺めて、いいなあと見惚れているのだろう。これも旅情だ。

大君の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ(304)


  柿本人麻呂が九州大宰府に下ったときに詠まれた歌のなかの一首。「遠の朝廷」は大宰府をさす。「あり通ふ」は継続して往来するという意味。「島門」は明石海峡と推定されている。明石海峡をとおって難波と大宰府との間を官船が行き来する。そこから人麻呂は国家の歴史に思いをはせる。「神代」はイザナギ・イザナミ以来の神話的時代をさす。明石海峡には漁労の舟も多いと思われ、それを詠んだ歌も人麻呂にはあるが(256)この歌ではそれを避けた。これは旅情と一括するには不適であろう。人麻呂ほど天皇や朝廷の運命を気にかけ、その繁栄を寿ごうとした人はいない。宮廷歌人として、また下級役人として、普段からそれを課題として思索に没頭したのであろうか。

日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
不明

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白夜(1971/フランス他)

  ロベール・ブレッソン監督作品をみるのは初めてだが、もっとも正統的な映画作りをする人ではないかと思った。言葉による説明が最小限にきりつめられて、もっぱら映像によってそれを理解させ、そのうえでさらに人物への感情移入へと観客をゆったりと引き込んでいく。人は見て、感じて、動く。そしてまた予期せぬものを見て、感じて、判断して、動く。こういう私たち誰でもがするであろう日常にある営為を思い出させて、人物の行動の全体を、ああそうだなあと無理なく納得させてくれる。若い男女二人にたいして、それはそうだなあとか、無理もないなあとか、こいつちょっと変だなあとかを、映像と人物の動きによって見事にわからせてくれる。気持ちがいいのだ。夾雑物が観客と登場人物の間から取り払われて、じかに接するかのような感覚にさそわれる。
  物語は、夜のパリで偶然であった若い男女が数日のうちに恋愛関係にまで発展しそうになって、さらに意外な出来事があって終わってしまうという、言ってみればありふれたもので、そこからえられる感興としては少ないのかもしれない。恋人との一年後の再開を約束して当の場所で待つ女性イザウェル・ベンガルテンだが、男はやってこずに悲嘆にくれる。そこへ画家の青年ギヨーム・デ・フォレがやってきて不審に思い、事情を聴いてなぐさめ知り合いになる。これがはじまりだ。翌日も翌々日も二人は同じ場所で会い、親密さを増していく。女は恋人だった男をあきらめなければならないのではないか、目の前の男に乗り換えるべきではないか、悪い男には見えない、そういう想いを背負う。一方、男は恋人が欲しくて仕方がなかった、画業にも身が入らず、町できれいな女性を見ればおもわずついて行きそうになるくらいだ。この巡ってきたチャンスをものにしたいという想いが充満する。見てくれは善良そうに見えても異性への飢えはかなりなもの、といった二人である。
  パリの夜の川を観光客を乗せた遊覧船がゆっくりすべっていく。明かりが幸福そうにきらきらする。青年画家がそれを見る視線そのままにカメラが船を追う。遊覧船から流れてくる生演奏の音楽。やがて橋をくぐる船。青年の幸福への羨望が手に取れる。ああ、こんな風に人の幸せをうらやましく眺めたこともあったなあと思い出させるのだ。だがまもなく幸福の感覚は青年に訪れる。人々がくりだし明かりがさんざめく夜の歓楽街でデートするからである。男女が肩を組んで行き交い、自分たちも同じようにする。幸福感が画面からほんとうに滑らかに伝わってくる。幸せに見える人々とまったく同じことをする、これ以上幸せを実感できることはないのだろう。
  だが青年は嘘をついている、乃至は女性に隠し事をしているのだ。女性は恋人の住所を知っているが、何故か自分からは会いに行こうとはせずに、青年に手紙を届けてくれるように依頼し、青年はそのとおりするのだが、一回目には女性がその部屋にいることがわかる。はてはかつての女性の恋人の「新恋人」かなと観客に思わせる。二回目にはその女性とともに別の男も顔を見せる。あれれっ、住所を青年が故意に間違えたのか、それともかつての恋人が転居した後なのか、観客には不明だ。(私が字幕を見逃したのかもしれないが)だがそういう事情を青年は女性にいっさい打ち明けないのだ。なるべく早く恋人を忘れさせようとの思惑があるからなのか、このあたりの説明はないが、説明を省くことで余韻を深くのこす効果が絶大だと思う。もしかすると女性は青年の胡散臭さを少しくらいは嗅ぎ取っていたのではないかとさえ思わせる。
  この映画、見てよかった。正統的な映画作りによって映画の長所が如何なく発揮されている。また洒脱で上品である。
    ★★★★★
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  父の墓が奈良県王子というところにある。母が季節ごとにお参りをしていたが、2年前から足が衰えて行けなくなった。墓までは車で行けても、階段が多いため歩行ができなくなったためだ。そこで、母が言うには、毎月位牌にお勤めをしてくれるお寺さんの土地に墓を移してもらうことはできないかと私はじめ子供に相談してきた。母本人もお寺に問い合わせした。そこに墓を移動できれば、参ることもわりと楽にできる。
  母をともなってお寺さんの敷地を見学したが、はじめの言い分とちがって共同墓地しか空きスペースがないとのことだった。せまい庭の一角に1.5メートル四方ほどの盛り土をして木札を立てただけの、ちょっと貧相な感じのするものだった。花が挿されてあり線香も供えられて煙がたちのぼっていたが……。それに共同墓地だから個人の墓石はそこにはかざることはできない。せっかく高額で購入したのにもったいない。母は共同墓地でもいいような口ぶりだったが、私は気分が乗らなかったので、現在のまま墓を移動させない希望を伝えて母にも了解してもらった。これからは私はじめ子供が墓参りをすることになるだろう。
  見晴らしのいい場所にせっかく買ったお墓だから捨てることはない。それにもしかして何年か後に母も墓に入ることになるとすれば、やはり見晴らしがよく日当たりもいい現在の墓のほうが母本人にとっても気持ちがよいのではないかと、私が愚考した末の結論である。母にはお寺の共同墓地への未練があるのかもしれない。また私の判断が正しいという自信はあまりない。 
Genre : 日記 日記
    22:10 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

佐々木美智子他『新宿、わたしの解放区』

新宿、わたしの解放区新宿、わたしの解放区
(2012/10)
佐々木 美智子、岩本 茂之 他

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  行動的な人である。そしてもてる。若い頃の写真が掲載されているが、美人で一目見て印象に残ってしまう人だ。だがもてる理由はそれだけではなくて交友を大事にして面倒見がいいからだろう。有名無名を問わず交友範囲がものすごく広く、しかも長続きしている。また読んでわかるが、じめじめしたところを表に出さず、つとめて明るさを前に出すから気分がいい。だからこの人を慕って人が集まってくる。『新宿発アマゾン行』(1994)という本を公にしたとき、その記念パーティに300人もの友人・知人が集まったという事実からしても人望の厚さ、広さがうかがえる。
  佐々木美智子さんは1934(昭和9)年生まれで、今年78歳になる。その半生を北海道新聞記者の岩本茂之という人がインタヴューしてまとめたのが本書である。自由の気風を何よりも大事にすることがこの人の軸心にある。10代後半で結婚するも、安定は望めるものの人生の先が平凡なものにみえて離婚して単身上京する。母に勧められ金ももらって山野高等美容学校に入学するが、そこをなんと1日で退学して、新宿でおでんの屋台をひらいて生活をしのぐことになる。このとき佐々木22歳(1952)。離婚については元のご主人はその後何回か会いに来たようで未練があったらしい。佐々木も夫であった方には不満や憎しみはなかったというから、現代風の離婚劇だったようだ。また美容学校を辞めたときの理由が、校長の挨拶での、客を見たら額に千円札が貼ってあると思えという言い草が気に入らなかったからで、まさに即決である。(入学金は談判して半額だけ返してもらった)屋台をひらいたときも何の見通しもなく老齢者の多いその集まりの場所に日参して粘った末、やくざの親分に紹介されてやっとこさ屋台を賃借させてもらったらしい。その親分とのトラブルもあったそうだが割愛。
  このように佐々木美智子という人には先々の生活について思い悩んだり用心したりすることが見受けられず、気に入らないことからはさっと立ち去ってしまう強さがある。また最低限の生活が維持できれば貧乏をいとわない我慢強さもある。楽天性と呼んでもいいのか。そうしてそれで生活がなんとかなっていく。小心者の私にはまねのできない部分で、気質が羨ましくもある。やがて屋台で演劇の関係者やら、さらに後の勤務先のバーでは映画関係者と知り合いになって、勧められて日活映画の編集部に就職することになる。さらに写真学校へ何年間か就学し、プロカメラマンとしての基礎をつくり、カメラや映画編集などの仕事(アルバイトもふくめて)に就く。60年代になると新宿のゴールデン街に飲みに行くようになって、68年3坪の広さの「むささび」という居酒屋を開業。また日大全共闘のシンパとしてときにはカメラをもってデモに随走した。私も当時は新左翼系の活動家だったので懐かしく、また気恥ずかしくもあり、このあたりから以降が私にとってまた多くの読者にとっての本書の読みどころではないだろうか。
  学生運動の盛り上がりは、自由の気風に憧れていた佐々木さんに火をつけたようだ。「むささび」には映画や演劇の役者。スタッフはもとより学生運動の活動家もやってきた。学生は金がないから低料金にし、さらにつけもたまったので儲からなかった。客は酔いが回ると喧嘩したり暴れたりもしたようだが、佐々木さんは生来の包容力でしのいでいった。嫌な客は入店を断ったことも付け加えねばならない。また飲み足りない客にはときには閉店後自宅アパートを開放することもあった。このあたりは有名人の名も出てきてエピソード満載の感がある。酒場ではないが、私もセクトのアジトで同じセクトというだけで見ず知らずの学生たちと夜の限られた時間だったが同居した体験があるので、それと近い空気は少しは知っている。      
  日大全共闘議長の秋田明大とは一時恋人関係だったようだ。また連合赤軍で「総括要求」されて殺された新藤隆三郎も客でその死の少し前「俺殺されるかもしれないよ」と佐々木さんに告白したらしいが、佐々木さんは何も知らないから深刻には受け取らなかった。後に事実を知ったときは勿論くやしがり、森恒夫や永田洋子をはげしく恨んだという。だが、巻末の足立正生(映画監督)のインタヴューにあるように、佐々木さんは自殺をほのめかす学生活動家をはげまして何人もの命を救ったというから見上げたものだ。この部分は本文には出てこないのだが、自慢話に受け取られることを嫌がったからだろうか、ともかくも私にはここは読んでよかったと思える部分だ。また後に秋田が参議院選挙に周囲からかつがれて出馬しそうになったとき、佐々木さんが強引に辞めさせたことも拍手だ。(本文にあり)周囲にもみくちゃにされることが目に見えている人だから、国会議員の秋田明大はテレビで見なくてよかった。
  佐々木美智子という人はリーダーと呼びうる資質の持ち主ではないと思う。だが人を吸い寄せる力があっていくつかの別々の輪ができる。するとその輪の良好な維持に才能を発揮するにはうってつけだ。輪と輪の人同士にもまたつながりができ、そこでもいい空気をつくる。輪の中心にいるのではなく触媒の役割を果たすのだ。
 「むささび」のあとは55坪の広さの「ゴールデンゲイト」でここも繁盛した。だが学生運動が衰退し内ゲバが頻発する困難な時代に入ったからだろうか、佐々木さんは閉店し一年間の休暇のためにスペインへ、さらにアフリカで過ごす。何のあてもないのに例によってたくましい。そして帰国後水商売を再開するも、1979年(45歳)から1993年(59歳)までブラジルに移住し、ここでも酒場やら図書館を開いて暮す。図書館は日本語の読み書きができない日系移民2世、3世のために開設したそうだ。帰国後は伊豆大島に居をかまえ某観音像と観音堂の維持管理をボランティアで引き受けている。この観音さまはブラジル移民と深い関わりがあることも記されている。
  佐々木さんはサービス精神のある人で、聴き手が何を知りたがっているか察知して先回りして答えている気配も感じられる。批判するつもりではないが、別の人が聴き手であれば微妙にちがった別の佐々木美智子像が表われたかもしれない。その一端は「付録」の足立正生など5人へのインタヴューにうかがえる。
    16:35 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

『万葉集』巻二・166、165、229

磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手(た)折らめど見すべき君がありといはなくに(166)


  反逆を疑われて処刑された大津皇子の妹、大伯皇女(おほくのひめみこ)が兄を偲んで読んだ歌で、二首のうちの二番目。「磯」は海ではなく、この場合は川や池の岩のあるところで「上」はほとりを意味するそうだ。馬酔木はツツジ科の低木で自生種、早春に開花するという。ネットで調べると白やピンクのあざやかな花がみられる。「手折らめど」の「めど」は推量の助動詞「む」の已然形に逆接の助詞「ど」がついたかたちで、花を手折るだろうが、という意味になる。つまり歌の現在の時間ではまだ手折ってはいない。「君」は無論大津皇子をさす。
  この歌を最初目にしたときは「馬酔木」という耳慣れない花の名のひびきが印象に残った。字義のとおり馬や鹿にとっては葉は毒になるために動物は食さないそうだ。この花の名が歌の中心に品よく座っていて安定感がある。だが「君がありといはなくに」が上代の風習にかかわっていることに、別の歌の注釈によって気づかされた。あなたが生きているとは誰も言ってはくれない――。死んだ人はたしかに死んだのであり、動かしようがない事実だ。これは死と生を截然と区別する現代ならあたりまえの死生観で、何の感動もうながさないはずだ。だが上代にあっては、人が死んだ直後には悲嘆する近親者にたいして、死者を何処其処で見かけたといってくれる人がいた、そういう風習があったそうである。柿本人麻呂の長歌(210)にもそのことが書かれていて、人麻呂はげんにその人の言った場所に足を運んだ。周囲の人の助けを借りて親しいものの死を時間をかけてゆっくりと納得する。葬礼にふさわしいいい習慣ではないかと私は思うのだが。ならば大伯皇女に向かって大津皇子が生きている、特定の場所で見かけたと、周囲の人は何故言ってくれないのか、それは大津皇子が罪人として殺されたことを誰もが知っていて、国家による決定にふれることを恐れるからだ。兄が死んだことと、その死を一般の人のようにはゆっくりと受け入れる時間を奪われたこと、この大伯皇女の二重の悲しみがこの歌にはこめられている。大伯皇女の孤独が際だつ。

うつそみの人なる我や明日よりは二上山(ふたがみやま)を背(いろせ)と我(あ)が見む(165)


  大伯皇女は大津皇子を二上山に葬った。二上山は奈良県北葛城郡当麻町の西にある山で現在ではニジョウザンと音読みされるのが一般的。雄岳と雌岳にわかれ、雄岳の頂上に大津皇子の墓があるそうだ。私も当麻町には行ったことがあるが、午後になると日が大阪平野の側に移動して日陰になって優美な姿を見せる。反逆者と決めつけられても皇族だから丁重に葬ることが許されたのであろうか。「うつそみの人なる我」は死の世界の人となった兄との大きい隔たりを自覚させられるのだろう、生きてしまった、生きていくしかない、という諦めとつらさの表現とみる。「背(いろせ)」は同母兄弟をさす。二上山を兄としてその面影をかさねながら眺めることになるだろうか、の意。
  当時においては墓を建立することは身分の高い層にかぎられていた。火葬も土葬もせずに棺にいれて山などに放置することが一般的だったとされる。また行き倒れになった屍も放置された。警察や保険所が手早く収容する現代とはやはりちがう。柿本人麻呂も行き倒れた人について読んだ長歌があるが(220)ここでは別の歌を挙げる。

難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも(229)


  河辺宮人(かはへのみやひと)という人が姫島の松原で若い女性の水死体を見て悲しんで読んだ歌で、二首の二番目。姫島は現在の大阪市西淀川区に地名が残るが、当時は海かもしくは湿地であったと思われ、現在よりも東よりであったとみるべきだろう。この娘さんは事故死したのか、それとも自殺なのか、もとより作者にもわからないが、娘さんだけに哀れさがいっそう際だってくる。引き潮になると死体が露わになるからなってくれるな、娘のその姿をみるのがつらいから、という意だ。放置された死体を目にすることも当時としてはめずらしくもなかったのであろう。それをボランティアの数人で穴を掘って収容するという習慣もなかった。つまりは冷淡だ。だがやはり人は哀れみの心をどこかで抱いている。それを喪うまいとする。そういう気持ちが屍を見てはからずも吐き出され、涙が出た。そう受け取った。
 
日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
不明

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レナードの朝(1990/アメリカ)

レナードの朝 [DVD]レナードの朝 [DVD]
(2010/11/24)
ロバート・デ・ニーロ、ロビン・ウィリアムズ 他

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   バート・デ・ニーロはじめ、原因不明の脳障害をわずらう患者が多数入院する病院に医師のロビン・ウィリアムズが赴任してくる。ウィリアムズはさまざまな試行錯誤の末にパーキンソン病のために開発された新薬を実験的に患者に投与する。すると患者は劇的な改善を見せて、健常者のレベルに近づく。だがさらにその先には予想外の展開が待ち受けている……。
  こんなに簡単に治ることがありうるんだろうか、大丈夫かなといぶかしく思ったくらいだった。患者にとっては奇跡であり狂喜すべきことは勿論だが、この映画自身が大丈夫かな、事実にもとづくと最初に記されてあったが、はたしてほんとうにそうなのかなと、見ている途中狐につままれた気分になった。だがやはり脳障害は一筋縄ではいかないことが後の展開でわかり、患者には悪いが、逆になにかしらほっとした気分になったことも、偽らざるところだった。
  ロバート・デ・ニーロがよかった。少年時代にその病気に罹って以来、30年間彼はベッドと車椅子で母親の介護に助けられながらぼんやり時を過ごしてきた。「嗜眠性脳障害」と仮に名づけられたとおりに、意識に何ひとつ浮かべることはなかった。それが薬のおかげでみるみる意識を取りもどしはじめ、少年時代に帰っていく。30年の眠りから覚めたという、喜びと当惑が同時にあらわれた表情が、ああこんなものかなあと私に思わせた。少しジーンとした。鏡を見ると顔は記憶にあるものとは当然まるでちがう中年になっている。落胆するのではなく、まじまじとみつめる。静かに喜びを噛みしめるのだろう。おそるおそる電気カミソリを頬にあてがう。さらに女性のうつくしさにも目覚める。
  人はおのおの知っていることと知らないことがある。俳優も同じで、知らないことなら、この映画では病人の所作がそれにあたるが、目の当たりにして模倣するしかない。そして知っていることなら、またその延長線上で想像できると思われることなら自分の引き出しからとりだしてみる。そして俳優というひとつの肉体のうえに両者を統一させてまさにひとつのものにする。こういう作業と存在が俳優の理想だということをデ・ニーロをみて納得した。健常者であるデ・ニーロが、にわかに健常者に回帰した病者を演じるのだ。
   ★★★
    22:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

『万葉集』巻二・207,216

  家族の死は大きな出来事である。私たちは毎日のようにメディアから人の死の報に接するが、ときには同情を寄せることもあるもののそれほど意識にのぼらせないままに済ましてしまうことが多い。忙しいし、自分の興味ある問題に没入したままであるし、それに疲れているので何も考えたくないという怠惰もあるだろう。理由はさまざまであるが、私たちは毎日慣れた生き方で毎日を過ごしていきたい、それを手放したくはないのだ。ただ死というものがこの世に存在し、だれもがその運命を回避することはできないということはだれでも知っている。そしてその大きさを身をもってはじめてのように知らされるのが、家族やそれに順ずる親友などのごく親しい者の死である。ぽっかりと大きな穴が開いて、自分がその中心にいるという抗いがたいずっしりした感覚、身近な者の死を、また死という事象全般をどう理解してようやらわからないまま、その感覚のなかに暫くは居つづけるしかない。おもえば、その人をものすごく頼りにしてきたことが今更のように知らされる。そういう日常が非情にも切断されて、以後はその人のいない人生を歩まなければならないという寂しさ、また重々しさがのしかかってくる。
  柿本人麻呂は妻に先立たれたとき長歌を二首創作した。その死を信じられない、というよりはにわかに信じたくない、何かにすがって抵抗しつづけたいという心情が切々と吐露される。

天飛ぶや 軽の道は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに みまく欲しけど やまず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船の思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵(いわかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠(がく)るがごと 沖つ藻の なびきし妹は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(づさ)の 使ひの言へば 梓(あづさ)弓 音(おと)に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに 音(ね)のみを 聞きてありえねば 我(あ)が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出(い)で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾の 道行き人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖そ振りつる(207)


  テキストの口語訳は次のとおり。( )内は枕詞。

(天飛ぶや) 軽の道は わが妻の住む 里であるので つくづくと 見たいと思うが 絶えず行ったら 人の目もあり しげしげと行ったら 人が知りそうだし (さね葛) 後にでも逢おうと (大船の) 将来を期して (玉かぎる) 岩垣淵のように 人知れず 恋い慕っていたところ 空を渡る日が 暮れてゆくように 照る月が 雲に隠れるように (沖つ藻の) 寄り添った妻は (黄葉の) はかなくなってしまったと (玉梓の) 使いが言うので (梓弓) 話に聞いて 言いようも しようもなくて 話だけを聞いておれないので わたしの恋しさの 千分の一だけでも 気が晴れる こともあろうかと わが妻が いつも出て見ていた 軽の市に たたずんで耳をすますと (玉だすき) 畝傍の山に 鳴く鳥のように 声さえ聞こえず (玉鉾の) 通行人も 一人として 似ていないので しかたなく 妻の名を呼んで 袖を振ったことだ


  当時にあっては夫が妻の住居にときどき訪れるいわゆる通い婚が通例であったらしく、人麻呂も例外ではなかった。あまり頻繁に妻を訪れると近所に噂としてひろまって、妻が非難されるので気遣ってひかえていたということだ。男たるもの勤勉でなければならない、それをつよく言い聞かせるのが妻の役目でもあっただろうか。勤労への社会的要請が町の女性や老人たち、留守を預かる人々に自然に浸透して徹底されていたと考えるべきだろう。人麻呂は「舎人」であったというから官舎に普段は居住したのだろう。帰宅もままならないなかで、ひそかに妻への慕情をはぐくみ維持してきた。そこへ「使い」がやってきて妻の死を知らせた。たぶん人麻呂はゆるされて急いで帰宅した。「軽の道」は橿原市南方の南北に走る道だそうだが、妻の家のある地名でもある。妻の遺体に対面したのか、葬儀は済ませたのか、それは不明だが、省略されているとみるべきだろう。そういうことがあったであろう後に、人麻呂は妻がよく行った市場に出かけた。もしや妻が生きていてそこにいるかもしれないというありえない望みに背中を押されて。愛情表現である。「我が恋ふる 千重の一重も  慰もる 心もありやと」。愛情の渇きと痛みを少しでもやわらげようと、妻のよく行った場所に立ってみてその幻影をさがしもとめた。その声が聞こえはしないか、似た人が歩いてはいないか、人麻呂はむなしく通行人(女性)を眺めたのだろう。そして妻はそこにはいないと思い知らされつつ、妻の名を呼び袖をふった。
  現代人の心と行動のありかたとまったく同じではないか。編者は「柿本朝臣人麻呂、妻の死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首」と題をつけた。この歌からは慟哭する人麻呂の姿を直接読むことはできないが、勿論人麻呂は泣きに泣いたのだ。そうしてしばらく後に平静を少しとりもどしてからこの歌を作った。「泣血哀慟」は器のそこに溜まっていて、歌は上澄み液にあたる。たいへんうつくしくもいたましい調べにいざなわれる。

家に来て我が屋を見れば玉床の外(ほか)に向きけり妹が木(こ)枕(216)

  妻がいなくなった空虚さがよく出ている。日々が過ぎ、ようやくのように落ち着いた気になっても、あらためて妻の死が心に染みわたってくる。妻がいる普段のときなら、妻が枕を寝床にきっちりと、つまり布団の頭が来る場所に頭と直角にすえてくれたのにそれがいたずらのようにずれている。斜めになっているのだろうか。枕は魂の宿るところと当時はみなされていたそうだ。
日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
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