大洋ボート

『万葉集』巻二・107,108,109

  大津皇子(おほつのみこ)もまた有馬皇子と同じように謀反を疑われて極系に処せられた皇族である。有馬よりも時代は下って686年(朱鳥元年)10月3日、大津24歳である。天武天皇崩御後わずか25日目の事件であり、ときの持統天皇派の謀略ともいわれる。持統は次代天皇に長男の草壁皇子を引き継がせたかったが、大津皇子という人も次代天皇の有力候補と目されていたという。両者はともに天武天皇の子供で、系図によると草壁が第二皇子、大津が第三皇子で、大津の母は持統の同母姉の大田皇女(おほたのひめみこ)となっている。持統は第38代天皇の天智の皇女であり、天智と天武は兄弟であることは有名だ。このあたり古代皇族は近親者同士の結婚をくりかえしていたことがわかる。大津にとって持統は父の兄の子という観点からみると従姉弟にあたり、母の姉という観点からみると叔母にあたる。
  この大津皇子の事件を『万葉』もとりあげている。草壁の愛人であったとされる石川女郎(いしかわのいらつめ)を登場させ、大津が石川に手を出したことになっている。「姦通」事件といえるのかどうか。だがこの男女関係が主原因となって大津が葬られたとは受け取りにくい。事実ならば、大津非難の理由のひとつにはなるだろうが。

   大津皇子、石川女郎に贈る御歌(みうた)一首
あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに(107)
   石川女郎の和(こた)へ奉(まつ)る歌一首
我(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを(108)


  107番は、私としては不吉さを感じる。「山のしづく」という言葉が2回出てきて調子が悪く、歌の出来はいいとはいえないとは思うが、「山のしづく」には不吉な世界に深入りしてしまってもはや後戻りできない、そんな自分に変貌してしまったという無類の寂しさ、冷たさを受け取ってしまう。想像をたくましくすると、すでに肉体関係を持った両者が何回目かのデートの約束をしたが、事情があって女性が行けなくなった。それを知らずに男はいつまでも待っていたということになろうか。「山のしずく」は梢などから落ちる水滴で、大津の身体を冷え冷えさせてしまったのであろう。だが、それは待ちぼうけを食わされた、山のしづくに身体を濡らしてしまったというつまらなさ以上の感情が内在しているように思える。異母兄弟の女である人を好きになってしまったが、その気持ちをつづけよう、おそろしい世界に居つづけよう、そうであるしかないという暗い覚悟と諦めの表明であるように思える。
  この歌は大津自身の手によるものではなく、後代の作者によるものとの説もある。物語形成にあたって万葉編者が援用したのか、編者自身がつくったのか。そうかもしれないし、私は物語のフィルターから自由でないのかもしれないが。女性が男性をまちわびる歌は磐姫をはじめとして数多いが、男性がこのように女性を待ちわびる歌はめずらしく異様だとは別のテキストの解説にある。
  107と108はいわゆる「相聞歌」の分類がされていて108は107に応えた歌になる。会いにいけなかったことを申し訳なく思う気持ちもこめられているのであろう、冷たい「山のしずく」に自分がなりかわって、あなたを暖めてさしあげたいと親身に同情を寄せるのだ。応答としてはこれが精一杯なのだろうし、歌としても上出来の部類だ。だが、私にはこの応答はずれている気がする。記したような大津の暗い諦め、もっといえば地獄に落ちたような心境を石川女郎はわかっていないように私は受けとるのだ。私が男性なので同性に贔屓するのかもしれない。逆に、女性の待ちわびる歌を私は男性ゆえに心底まで理解しようとしないのかもしれない。そういう危うさをふりかえりつつも、こう書かざるをえないのだ。

大船の津守が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人寝し(109)


  大津が石川女郎にひそかに関係を持っている最中に、津守連通(つもりのむらじとおる)という占い師にみてもらったところ、二人の関係がたちまち暴露された。それを百も承知でわれわれ二人は関係したのだという意味。「大船」は津守の「津」にかかる枕詞。津守連という人は官吏の占い師だから、二人の関係がはやばやと皇族の耳に入る、自分は非難される、それを知りながら、私は石川を抱いたのだという、豪胆といえば豪胆、やぶれかぶれの歌である。この歌はさすがに後代・別作者の作ではないだろうかと疑ってしまうが。
  万葉編者は大津皇子に同情的で、大津を陥れたかもしれない石川には侮蔑的である。後年歳をとって容貌が衰えたであろう石川が大伴宿禰田主(おほともすくねたぬし)という人に声をかけて見事に振られるてんまつを物語にしているが、容貌云々ということではなく大伴宿禰田主もまた大津事件と石川の関わりを知っていて、石川を嫌ったのではないかとの推測に私は導かれる。万葉編者が大伴に唱和することで、歌集のうえで石川に意趣返ししたように見えなくはない。

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『万葉集』巻二・141

磐代(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ

  作者は有馬皇子(ありまのみこ)で第36代孝徳天皇の皇子。第37代斉明天皇の斉明4年(658年)、謀反の疑いをかけられて絞首刑に処せられた。冤罪とも皇太子時代の天智天皇の陰謀ともいわれる。ときに若干19歳で、これは辞世の歌である。題は「有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」となっている。もう一首は「家にあればけ笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(142)」。「磐代」は和歌山県日高郡南部町で海沿いの地。草木の枝を結ぶ行為は未来の幸福を祈る儀礼であった。護送中の身でありながら、刑護官のはからいでその行為を許されたのだろうか。生きていられたらこの松の枝をふたたび見ようと思うが、そんなこともないだろうという意味だ。
  死刑の決定がくだされた残りわずかな自分の命を真正面にみすえたたいへん素直に読まれた歌だ。残酷であり、読者をして深い同情にさそわずにはいられない。同情どころか、もしかして同情が深まれば有馬のもとへ行って一緒になってしまいたい、私も運命をともにしたいという気持ちにもなりかねない。歌というものは不思議な効力を持っている。歌にすることで、残酷さはそのままにそこに「美」がくわわるのではないか。魂を呼び起こして揺さぶる効力をこの歌はもっている。軽々しく書くのかもしれない、そういう危うさを抱きつつも、私は死=美という日本人の奥底に眠る伝統的な意識がこの歌にうながされてはじめて芽生えたのではないかと思ってみる。識者はどう認定するのか知らないが、辞世の歌としてはこの有馬の歌が日本の詩史のうえでは最初ではないか。少なくとも万葉集の順番ではそうなっている。有馬への同情は私ひとりのものではないだろう。そこに共同性を同時に感得し、自省にもうながされる。
  古代においては歌人という存在は政治的には無力であった。政治力を持つ勢力は皇族や豪族などにかぎられていた。歌人は有馬の事件にさいし皇太子の天智を疑い、怨んだとしてもそれを表明することなどできなかった。何人かの歌人がのちに有馬を悼み追慕しているが、言下にそういう政治的な思いを読み取ることも読者の自由の範囲だ。
701年か2年に山上億良が読んだ歌。

翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(145)

  別のテキストでは「翼なす」は「天翔(あまが)けり」とある。口語訳は「御魂は鳥のように 行き来しながら 見てもいようが 人にはわからないだけで 松は知っていよう」となっている。「御魂」は無論有馬皇子をさす。「松」も有馬が枝を結んだ当の松。空の広大さを視野に喚起させながら有馬への深い同情を刻みこんでいる。
  [追記]斉藤茂吉『万葉秀歌』によると、引用した有馬皇子の歌が書かれたのは処分が決定される以前の時間だという。それならば私の辞世の歌という解釈は誤っていることになる。見方を修正しなければならないのか。しかし極刑の予感が有馬において大いにもたれていたとも推察される。(2012、11、20)
 [追記2]極刑が言い渡された直後ならば、将来の幸福を祈る行為である草木の枝を結ぶということはしないと考えるのが普通だ。生存に一縷の望みをもったからこその行為であっただろう。「辞世の歌」と受け取るのは不適切と思う。はじめから書き直すのは面倒なので、この追記をもって訂正とさせていただきます。(2012,11,21)
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終の信託

 岸に押し寄せる波や窓を伝う雨粒の映像がときどき挿入される。これが映画を落ち着かせる効果がある。熱を冷ます効果といってもいい。誰にたいしてか、他ならぬ主人公の内科医草刈民世にたいして、その揺らぎに揺らぐ心と闇雲にもみえる行動にたいしてだ。そのひたむきさを冷たく突き放し、観客に客観視させる効果をもたらしている。少し大げさかもしれないが。
  似た意味で草刈と対照的にみえるのが不治の喘息患者の役所広司だ。彼は病の進行によってとおからず自分が死地におもむくことを知っている。そして苦痛の無いやすらかな死を迎えられるように、つまり健康体にもどる見込みのないかぎりは延命治療をほどこさないように草薙に懇願して、草薙の了承をえる。脳死状態ではないが人工呼吸の装置をつけてまで苦痛とともに生きたくはない、治療費もかさみ妻に金銭を残してやれない、妻は「ひとり立ち」できない人で自分がその願いを打ち明けても判断に苦しむだろう。そのために妻には内緒で草刈に死に際の措置をたのむのだ。ここには長期間病に苦しんできた人の確信的な願いがある。しっかりした土台がある。役所にとってはまた、子供時代に目の当たりにした幼い妹の死の記憶がある。妹は戦争中いた満州の家でソ連兵の銃弾を腹部に受けて苦しみながら死んだ。「トントントロリ」という母の子守唄を聞きながら長時間苦しんで死んだ。できれば自分もその子守唄を聞きながら死んで行きたい、発語力や視力がうしなわれても聴覚だけは最後までのこると役所はいう。子供時代に肉親の死を目の当たりにしてから役所はたえず死について思ってきた。やがては自分も妹のもとへ行くだろう、そのときのことも視野に入れて思ってきた。そいて回復の見込みのない喘息に罹患して15年も生きつづけている。
 このように役所は自分の最後にたいして確固たるイメージをもっていて揺らがないのだ。落ち着いた「冷たい自信」ともいえる。この役所の思想が草刈にとっては師匠として見える。不倫相手の同僚医師の浅野忠信に「失恋」したのちに役所は草刈にプッチーニの「私のお父さん」のCDを貸した。草刈は感動を覚えたが、役所はこの曲は娘が父に小遣いをねだる歌で悲劇ではなく喜劇だと教える。映画では省かれているが、役所はたぶん草刈の「不倫愛」を知っていたのであり、草刈にとっては悲劇であっても相手の浅野や周囲の目からみれば喜劇にも見えかねないと暗示したのだろう。15年も役所の担当医師であった草刈だが、このCDの件は草刈をして役所を見直すきっかけにもなったのではないか。
 草刈は失恋したことによって土台を喪った。それに比べて役所はなんと確固とした土台を築き上げていることだろう。草刈を冷酷にあしらった浅野忠信にしても担当検事の大沢たかおにしても是非は別にしてやはり土台を有してみえる。それに草刈もまた発作的に自殺未遂を起こして死を視野に入れた。死にたいして一旦は依存心を持った。このことがまた医師という立場からの死に対する見方とは別のなまなましさとして、じかに肉体に触れるものとして死をあらたに見てしまった。そうして死が共通項のように役所とのあいだにできてしまい、より深く役所を理解しようと草刈はするように私にはみえた。それは人と人のつながりをもとうとする衝動でもあるようだ。苦痛のない死を頼んだ役所にたいし草刈は了承し、その約束を果たす。
  脳死状態でないかぎり、呼吸器を装着されてただただ呼吸するだけにみえてもじつはその患者には意識があるのかもしれない。これはこの映画のもたらす痛切な問題提起だ。意識があるのだとしたら苦痛もある。ただどれほどの苦痛かは外部や医学的装置からはうかがいしれないのではないか。急性胃潰瘍の症状を昏睡状態の役所に見出してストレス(苦痛)の証左だとする草刈民代医師の診断にはふるえがきた。何も語らない役所の意識の果てまで草刈はついていこうとしたのだ。つながりをもちつづけようとしたのだ。私たちが普段ほとんど考えもしないことだが、人間の意識状態はまだまだ未解明で神秘性に富んでいて、そらおそろしい気がした。
  草刈は役所の症状を回復不可能だと断じたようであるが、これは周囲の医師からは異論が出るだろうことは草刈は知悉していた。だからこそ「殺人」容疑がかけられたのだが、草刈は専門医としての診断には自信があった。ただ延命治療が「無駄」だとは法律は応えてくれないものらしい。私は安楽死や尊厳死などの法律的、医学定義やもろもろの意見については不勉強であるが、私もやはり苦痛のない死を選びたいという思いは強く、その意味では草刈民代医師のとった措置には賛同したい。
 静かなしっとりとした空気のなかに、草刈民代医師の心と行動の一部始終がせつせつと胸に迫ってくる良質の映画だった。
    ★★★★★
    01:37 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

「ムビチケ」

  映画を見に行こうとして、午前中TOHOシネマなんばのホームページを開いた。席を予約するためで、「終の信託」12時10分をクリック。席もいいところを確保できたと喜んだが、つぎに不可解な記入要請。「ムビチケ」なるものの購入番号を記入せよとある。ムビチケってなんだい?「ムビチケ」のホームに移行することができたが、どうやって購入するの?わからずじまい。結局それ以上チケットの予約を進めることができず、いそいで当映画館へ行って当日売りをゲットすることができた。
  その「ムビチケ」を劇場の売店で購入した。なんのことはないプリぺイドカードである。先立って現金をいただこうという魂胆である。ちなみに「ムビチケ」はムービーチケットの略だそうな、ふん。商魂たくましい東宝さんだ。映画のネット予約も面倒くさくなったもんだ。それに商魂たくましいといえば「ムビチケ」とは直接つながりはないが、劇場へ行って驚いたことにはチケット販売の若い女性たちが全員姿を消していてチケット専用の自販機になっていた。これまた慣れるまではややこしいなあ。人件費が節減できて東宝さんにとってはいいんだろうけれど。
  他の系列のシネコンも右へ習えになるのか。なってほしくはないが、時間の問題か。
Genre : 日記 日記
    23:01 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

『万葉集』巻二・88

  第二巻の冒頭から四首は、編者が仁徳天皇の皇后磐姫(いわのひめ)の天皇へのせつせつとした恋心を歌ったものとしてまとめたものであるが、注釈によると古来からそれぞれ別個の作として伝承されてきたもので、自然な成り行きで磐姫と四首が結びついて伝説化されたとある。磐姫は仁徳の女性関係をはげしく嫉妬したといわれるが、歌を読むかぎりは磐姫という固有性に結び付けるべき特徴はない。家を長く留守にした夫を待つ妻の煩悶が読まれており、恋心であるかぎりは嫉妬もそこに含まれるのであろうが、それが激しさとして前面に出てくる風でもない。

君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(巻二・85)
かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なましものを(同・86)
ありつつも君をば待たむうちなびく我が黒髪に霜の置くまでに(同・87)
秋の田の穂の上に霧(き)らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(同・88)


  85の「行き」は名詞で旅。86の「岩根」は大きな岩、「まきて」は枕にするの意の4段動詞。87の「ありつつも」はこのままでの意。
  夫はいつ帰ってくるのか。予定の日を過ぎても帰ってこないのか。何かあったのかと心配になる。居所がわかっていればそこが近ければ「迎え」にもいく、夫の帰路が一本道ならば途中まで出かけることもできる。そんな風に作者の身になって想像してみる。結局はあれこれ思いながらも待つことしか自分にはできないとの考えに落ち着きかけるが、そのつらさ、心のつらさは耐え切れないもので、死んだほうが楽なのかもしれない。死んで待つことの重さから解放されたい、という鬱屈した気分だ。寂しさや心細さ、また経済的な困窮の問題が背後にあるのかもしれないが、それらを「恋」として自分ひとりの心の問題として純粋化するのだ。「我が黒髪に霜の置くまでに」は、私たちがともすれば「恋」を短期間の情熱の高まりととらえがちなのに対して、それを含みながらも「こうするしかない」という諦めや覚悟がある。「霜」は白髪を指すから長期間を見据えている。
  だが私がいちばん心惹かれるのは88である。「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞」の上三句は「我が恋」の序詞の形になっているが、これが映像としてつよく読者をとらえる。田の上にいつまでもはびこって退いてくれない霧の憂鬱さがどっしりと沈み込む。また、恋の煩悶の内容は何か、待つ身のつらさなのか別の事態なのか、それはわからない。恋のつらさといえばそれだけで読者に理解してもらえるという作者と読者の意識のつながりがこの歌の読まれた時代にはすでにできあがっていたと思える。比較的新しい歌であろうか。結果として字数の節約ができた。少し回り道になったが、もっと重要なことがこの歌にはある。田をおおう霧は形のうえではつらい恋の比喩となっているが、私の印象では主補が逆転していて田をおおう霧の比喩としてつらい恋が使われ援用されているように受け取れる。「秋の田をおおう霧のようにいつ消えてくれるのかわからない私の恋のつらさ」ではなく「私のつらい恋のようにいつ消えてくれるのかわからない秋の田をおおう霧」。そう読める。意味の相互関係を無視してそう読みたい誘惑にかられる。田をおおう霧を歌の中心的な映像としつつそこに「つらい恋」をこめる。ただ作者がこれを意識的にやったかといえばそうでもないのかもしれない。
  短歌にかぎらず詩の歴史にはこういう屈折点があって、表現領域の広がりや多様性が少しずつ獲得されていったのだろう。

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『万葉集』巻一・18

  私は暗誦力がとぼしい。気に入った詩歌があっても忘れてしまうことが多い。その代わりというのでもないが、詩歌がもたらす映像や空気を覚えることですましてしまう。だがそういう覚え方は本来的ではなくあやまって理解してしまうことにもつながる。当の詩に再会したとき従来抱いていたイメージの修正を迫られる。

三輪山を然(しか)も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(巻一・18)


  この短歌では雲の映像として覚えていた。作者は見たかったのは三輪山という低いなだらかなありふれた、しかしながら思い出深い山で、その姿を雲が隠してしまったので残念がっている作者の心を読んだ歌である。とくにこの歌がつくられたのは天智天皇の近江遷都にさいして、作者額田王も随行のために大和を離れなければならなくなったその当日にあたり、慣れ親しんだ土地の象徴といえる三輪山を瞼に焼きつけていきたい、名残を惜しみたいという思いがきわまった限定された時間である。額田王にすれば雲は邪魔者であるはずだが、私はなぜかこの雲をうつくしい存在として記憶にぼんやりととどめていた。だがそうではないのだ。
  この歌は言葉が流麗でたくみなところが長所だ。品詞分類は苦手だが「三輪山」「雲」「心」といった名詞に「しかも」「だにも」「あらなも」「べしや」といった副詞、助詞、動詞、助動詞などが無理なく付加されて、たいへん滑らかな言葉の流れとなっている。それに映像がじつは二重になっていることもわかる。ひとつはいうまでもなく山を隠す雲であり、もうひとつは作者が万感の思いをこめた三輪山という山である。読者はとくに三輪山にたいする思いが強くなければこの映像は見落とすことになるのかもしれない。私は仮想する。もし雲が三輪山を隠さなかったならどんな歌になっただろうかと。額田王だから立派な歌がつくられたのだろうが、現存の歌のもつ二重性の構造はもたなかったのかもしれない。故郷の思い出深い山をいつくしもうという思いと、雲がその姿を偶然にもここぞというときに隠してしまい残念がる思い、この二つの心がつながってひとつになり「心の動き」としての歌があらわれる。
  言い訳すれば、心の動きをたくみに読み込んだ歌のうつくしさが余韻となって、私における雲のうつくしさという誤解した映像記憶になったのかもしれない。雲の映像はのこるが、それはうつくしくはない。

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