大洋ボート

『万葉集』巻一・64、65

葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ(64)


  作者は志貴皇子(しきのみこ)で、文武天皇の706年の行幸(天皇の外出)にお供をして、大和を旅立ち難波宮(なにはのみや)に滞在した。期間は九月二五日から十月十二日までの二十日足らず。太陽暦では九月二五日は十一月九日となる。今とほぼ同じ時期にあたるが、ずっと寒冷であったらしい。難波宮は現在の大阪市中央区法円坂にあたり、上町台地の北端部付近。当時は上町台地の東西の両側は海であり、現在の大阪市の大部分はなかった。葦原は難波宮付近の低地の一帯に広がっていたという。
  葦の生い茂った水面に鴨が浮かんでいて、その背には霜が降っている。まさか水鳥の背に霜が貼りつくことはないが、自分の身に鴨を置き換えて痛々しいほどの寒さを作って寂しさの表現とした。広涼とした葦辺に一羽の鴨が目に付く。視線はさらに鴨の背に。(一羽とはかぎらないが、群れから離れた一羽であったほうが絵になる。私は自然に一羽が目に浮かぶ。)さらに背後にある故郷の大和の広がりがなつかしさとともに記される。このように一首のなかに三ヶ所の空間・場所がこめられていて、その移動が滑らかである。秀歌だと思う。なお、テキストには大和の家の留守をあずかる妻を偲んでいると読むべきとの注釈があるが、私はそこまでは読みとれなかった。単に自宅付近の空間の広がりをぼんやりと思い浮かべるさまを受け取ったに過ぎない。そのぼんやりしたさまが背に霜のついた鴨というくっきりした画像と対比的でうつくしいと感じたのだが。
  妻帯者は留守にした自宅を思うときは必ずや妻を思い浮かべるのだろう。そこに思い至らなかった私は野暮であるのか。それと歌には解釈に定型があって、それを土台にして歌人は歌を作るのか。
  もうすこし書いておこう。志貴皇子のこの歌は寂しさの表現としてすぐれている。寂しさならそれを表現として追求する人はもともと寂しいのであって、たとえ自宅でくつろいでいたとしてもその寂しさは芯にあるものとしては不変であっただろう。故郷大和からのしばしの離別というたまたまの境遇を表現の装置として借りたとはいえないか。歌詠みとしてもとめる寂しさと実際的な寂しさがかさなった。それがこの歌の場合、ぴったりはまった。
  同じ行幸に付きしたがった長皇子(ながのみこ)の歌がつづいて載せられているが、まったく対照的だ。

霰(あられ)打つ安良礼(あられ)松原住吉(すみのえ)の弟日娘(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも(65)


  「霰打つ」は実景としても「安良礼」にたいする語呂合わせ的枕詞としてもどちらにしても面白い。長皇子という人は、志貴皇子の歌とはちがって故郷=自宅をはなれた解放感にひたっている。羽をのばしている。弟日娘というおそらく遊女であろう女性と仲良くなって、寝たあと二人で一緒になって外の風景を面白おかしく眺めている。霰が降ろうと一向に寒くない。歌としては無論深みはないものだが。編者はどういう心持でこの二つの歌を並列させたのだろうか。

万葉集〈1〉 (1976年) (新潮日本古典集成)万葉集〈1〉 (1976年) (新潮日本古典集成)
(1976)
青木 生子

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『万葉集』巻一・24

  古典は言葉がむつかしい。私はしろうとで注釈や口語訳がないと読解ができない。だがそこを乗りこえた気になると理解するどころか、感銘をおぼえ、古文独特の美しさを味わった気にもなれる。いにしえの人の心の動き方も現代人とそれほど大きなへだたりがあるとも思えなくなり、むしろ現代人がややもすれば無意識に閉ざしたきたであろう心の動きや闇の部分があからさまにされたようで、新鮮さを受けとることが大いにある。力不足で、無理解を露呈するおそれもあるが、少しずつ感じたこと、気づいたこと、気になったことを記していきたい。

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(は)む(巻一・24)

 麻続王(をみのおおきみ)は天武天皇の時代の皇族で、詳細は不明だが流刑にあったという。身分の高貴な方が漁労をしているのをみて人々は哀れみ、ある歌人がその気持ちを歌った。「打麻(うちそ)を麻続王海人(あま)なれや伊良虞の島の玉藻刈ります」(巻一・23) 麻続王は海人でもないのに藻を刈っていらっしゃる、という意味。「打ち麻」は麻続王の枕詞。「伊良虞」は愛知県渥美半島伊良湖岬とする他、諸説あるそうだ。24番はその歌に麻続王が応えた形式になっているが、二首とも同一歌人の作。(歌人名不明)
  皇族ともなれば食事の世話などは御付きの人がやってくれて心を砕くこともなかったであろうし、肉体労働とも無縁であったろう。そういう身分と境遇が刑罰を受けて一変した。そのときの屈辱と悲嘆がストレートに表現されている。刈った藻は自分で食することもあろうし、物々交換に供することもあるのかもしれない。とにかくも毎日「海人」をしなければならない。
  刑罰ということを離れても敷衍できる意味内容だ。たとえば秀才の誉れ高いものの口下手な人が、上からの指令で外回りのセールスをやらされるが一向に売り上げを伸ばすことができない。俺はこんな仕事には向いていない、できるなら辞めてしまいたいと、追いつめられた気持ちになるのかもしれない。また若い人がはじめて社会人となったときの戸惑いのなかにもそういう鋭い痛みがあるのかもしれない。皇族から海人への「転落」は、人生のはげしい転変を身をもって体験することで、現代人も多かれ少なかれ共有するであろう体験だ。以前の境遇が極楽気分であったり、高慢であったりするとその落差はよけいにこたえるだろう。
  「海人」をできれば即刻辞めてしまいたいが、自由が無いのか、逃亡の気力がうしなわれたのか、それもできない。ならば「海人」の仕事に慣れてしまうしか打開の道はない。そういううすぼんやりした光がみえるからこそ、おおいに屈辱であるものの「海人」にされたくらいでは自殺する気にもなれない。死から生に突き戻される。「うつしみの命を惜しみ波に濡れ」麻続王本人が読んだのではないにせよ、本人の労働するさなかの視線からの波のようで間近に感じられる。そこには涙も多量に入り混じっているのか。

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大沢在昌『語りつづけろ、届くまで』

語りつづけろ、届くまで語りつづけろ、届くまで
(2012/04/25)
大沢 在昌

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  坂田勇吉という青年が主人公のシリーズものの最新作。坂田は某大手食品メーカーのサラリーマンで宣伝担当をしている。今回は老人向けのやわらかいせんべい類の売込みが会社方針で、坂田は東京の下町の老人ホームや老人会に慰問におとずれ、せんべいを無償で配り試食してもらう。老人をむやみに「おじいさん」「おばあさん」と呼んではならない。固有名詞でかならず声をかけること、また同情を押しつけると反発を食らう、そういう先入見を捨てなければならない、というのが坂田のモットー。それにもともと坂田は老人と話すことが苦痛ではない。また勇吉は将棋の腕がそこそこで、ユキオさんという将棋好きの老人と仲良くなったことをきっかけで、老人たちとの良好な関係を築く。
  老人会のメンバーの身内で玉井という中年の男がいる。ホモ・セクシュアルで派手な服装をしていて「健康まくら」の全国販売を計画している最中で、この商品も老人が主なターゲット。そこで玉井は、老人の扱いが巧みに見える坂田に目をつけて、募集したセールスマンへの講演を依頼してくる。坂田の体験をセールスマンの参考にさせようとするのだ。自信は無いもののあっさり断れずに坂田は引き受けてしまう。だがつづいて刑事を名のる二人の男が坂田に近づいてきて、玉井はじつは詐欺師で、今回の「健康まくら」もその仕事であるとにらんでいるが、内偵捜査のために講演の依頼はもとより、玉井との接触をつづけてほしい旨頼まれる。数日後、坂田は講演会場の下見と打ち合わせのために玉井と都内の小さな会館で夜に待ち合わせるが、玉井はやってこずに代わりに身元不明の男の刺殺体を発見するハメになる……。長めになったが、ここまでが全体の4分の1くらいで事件の発端までの概略である。
  『新宿鮫』シリーズの鮫島刑事とちがって坂田は犯罪捜査にはズブのシロウトだが、何故か事件に「巻きこまれる才能」があるといわれる。また勇猛果敢さよりも恐怖心が先立つ人間として描かれる。警察組織なら、横割りや縦割りでおのずから組織が細分化されていて縄張り意識がありときには捜査方針のちがいもあって、警察内部から情報をとるにも鮫島は苦労しなければならない。秘密裏に一匹狼的に行動しなければならないこともある。だが坂田にはそういう組織的な複雑さはなく、複雑さといえば事件そのもののつぎつぎにあらたな事態が生起する意味での複雑のみであり、シンプルだ。また以前の大沢に比べて、犯罪にまつわる人々にたいする人間的興味がうすくなっているのではないかという不満がのこる。
  だが、きびきびした会話体は健在だ。会話のなかで事件の全体を俯瞰しようとする意志が最後まで持続する。この俯瞰図の完成を追わせることで大沢は読者の興味を最後までつなぎとめる。最初はぼんやりしていて輪郭がしだいに露わになっていくと思えば、ふりだしにもどり輪郭を書き直さなければならない。そして最後には細部の完成、つまりは事件の全容解明と犯人逮捕に行き着く。油彩画の製作過程を見るようではないか。読みやすい文体で、それでいてだらだらしないのも勿論美点である。
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アウトレイジビヨンド

  前作『アウトレイジ』の続編で、あいかわらずの暴力団抗争を描いている。冒頭では港に水没した車が引き上げられ、そのなかから暴力団担当の刑事と女性の死体が発見される。山王会の仕業と直感した刑事の小日向文世など警察組織は、警察への挑戦と受け止め、危機感をつのらせて山王会を弱体化させるために陰謀を画策する。山王会と関西系暴力団花菱会とを競わせ、抗争にもちこませようとするのだ。
  前作に比べてセリフが多めで、ハードボイルド系の小説を読むような空気が感じられる。漁夫の利をえようとする者、抜け駆けして自分だけ助かろうとして逆にそれが裏目に出て滅ぼされる者、少々不利でも和睦して生き残りをはかろうとする山王会の組長の三浦友和などなど、それぞれの立場によって動きと運命が分かれる。ひとりひとり(または少人数のグループ)に順番に焦点が合わさっていき、殺されることによって区切りがつき、次の人間に焦点が移るという仕組みになっている。組織の勢いがいいときは団結が自然に形成されてそこに安住していられるが、勢いが衰退すると運命をともにせずに自分だけはなんとか助かりたいという心理と行動が生まれる。だが所詮は大きな組織に対しては一人の人間は無力でしかない。激しい暴力のなかで、こういう寂しくも冷たい人間像がつぎつぎに描かれる。これも前作と同じだが、最後のほうでは人同士のつながりをつくりだし維持しようとする動きがビートたけしや中野秀雄から生まれる。
  1970年代の『仁義無き戦い』シリーズは、実際のやくざの話をベースにしてはじめて製作された作品群であったが、そこには反社会勢力にあってもひとりひとりには共感すべき言い分があるのではないかという社会にたいするメッセージがあった。けれどおそるおそるである。脚本家や監督や俳優陣にそういう緊張感とぎこちなさ、またそれを突破しようとする情熱が感じられた。だがいまどきでは時代的背景にもとづいたそういう緊張感は皆無である。「実際のやくざ」は数限りなく映画化されることで映画(芝居)の一ジャンルとして定着したので、俳優も監督も「これは芝居だよ」と余裕を持って作ることができる。芝居ならチームワークを維持することと他の俳優とがっぷり四つに組むことに専念すればよく、社会や観客の非難など気にせずによい。それどころか俳優陣はいずれも楽しんでやっているように見える。また見る側もそういうものだという割りきりが、いまどきは定着している。
  北野武監督はあいかわらず暴力にこだわりをみせる。群像による連続殺人を見せられるのだが、セリフによるおちついた「説明」のあとの銃殺や刺殺やリンチやらが観客が思うよりも一瞬早いことが、身体にすこし震えが来て魅力的かもしれない。といっても苦笑をともなうようなひねった暴力場面は今回は少なかった。某俳優がバッティングマシンによってリンチを受ける場面がそれにあたる。俳優のなかでは小日向文世や加瀬亮が目立ったが、これは見る人によってちがうだろう。
  くどいようだがもう少し。娯楽映画として見るのもよし、組織や人同士のつながりよりも自分ひとりの「生き残り」で精一杯といういまどきの社会の反映として見るのもよし、という映画だ。「逃げどく」は許さないという義侠心も最後にある。
   ★★★★

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(2010/12/03)
ビートたけし、三浦友和 他

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アウトレイジ ビヨンド(北野武監督) [DVD]アウトレイジ ビヨンド(北野武監督) [DVD]
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不明

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丑三つの村(1983/日本)

あの頃映画 「丑三つの村」 [DVD]あの頃映画 「丑三つの村」 [DVD]
(2011/12/21)
古尾谷雅人、田中美佐子 他

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  この映画も犯罪が主題だが、比較的丁寧につくられている。小さな山村が舞台で、村いちばんの秀才と一目置かれる青年(古尾谷雅人)が、家にこもって教員資格取得のために勉強をしている。衰弱気味の身体をいたわりながらのようでもある。時代は昭和13年ということで戦争の真っ最中である。教員になるためには当時は師範学校に行かなければならなかったのではと思うが、それ以外に検定制度があったのだろうか、私にはわからないが。
  古尾谷雅人はしだいに勉強一本やりの生活態度に飽きてくる。青年ならほとんどが性への興味をもつものだが、古尾谷も悪友の影響もあってそれを刺激される。さらにはその村には夜這いの悪習が色濃く残っていて、古尾谷は自警団のリーダーである夏八木勲が既婚者の池波志乃の家に押し入って堂々とそれをやってのけている現場を目撃してしまう。夫たちは徴兵されるやら仕事やらで留守が多く、女性にとっても「夜這い」はひそかな娯楽であったのだろう。古尾谷もこわごわ実践してみるが、女性たち(池波志乃や五月みどり)も大歓迎で見事にはまってしまう。時代や地方によっては(勿論個人単位でのちがいによっても)こういう性に対する「おおらか」さが当たり前のように存在したのであろう。もしかすると日本人にはたてまえとしての性にたいする厳格さの裏には、こういう「おおらかさ」の文化的基盤が根強く流れているのではないかと思わされる。
  だが女性をはじめとして村人の古尾谷にたいする態度が手のひらを返したように一変する事態が起こる。古尾谷が徴兵検査において不合格になるばかりか肺結核であることがわかり村中に知れわたってしまうのだ。当時は、結核は不治の病とされたが、同情するどころか古尾谷をまるで邪魔者・死人扱いする村人の態度もどうかと思われ、落胆し絶望し、やがて皆殺しに走ってしまう古尾谷の心情も半分くらいはわかる。しかしあとの半分はやはり描ききれていない。背景から皆殺しに至るまでの古尾谷の「飛躍」が人間的個性としては素通りされている気がする。そこを映画としての娯楽性や大雑把さで代替させている。結果、それなりの面白さでもあり、また後味の悪さをもたらすことにもなった。
  古尾谷が犯罪において秀才振りを発揮するところは、本人も「あく抜き」してすっきりした表情をみせて、なるほどと思うのだが。真夜中電柱によじのぼって電線を切断し、懐中電灯を角みたいに頭にくくりつけて弾薬の箱と猟銃と日本刀をたずさえて、村じゅうの家に押し入りどんどん殺していく。途中咽喉が渇くとヤギの下に仰向けになって乳を搾り飲み干す場面などは印象的だった。
  ★★★
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