大洋ボート

盲獣(1969/日本)

盲獣 [DVD]盲獣 [DVD]
(2007/11/22)
緑魔子.船越英二.千石規子

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  盲目の彫刻家の船越英二が有名モデルの緑魔子を誘拐・監禁し、触感をたよりに緑の裸身像を制作する。船越の犯罪と制作を援助するのが船越の母の千石規子。まるでありえない話だが、原作が江戸川乱歩と聞くと納得するしかないか。しかし、そのことも含めてやはり作りがあまりにも粗っぽい。
  監禁された緑は隙を見て何回も逃走を試みるが、その都度発見されて失敗。さらには千石にたいして息子への異常なまでの愛情を指摘して、嫉妬をかきたてようとする。千石はまんまと乗せられて緑に息子をとられると思って怒り狂うが、緑との乱闘のさなかに頭部を打撲して死んでしまう。いよいよ逃走がしやすくなった緑だが、どうしたのか急変して船越との性愛に熱中する事態となり、さらにはサド・マゾの世界に耽溺し、船越ものっぴきならず引きずられる。
  身体障害者の隠微な愉しみの世界、息子をめぐる母と「恋人」の対立、性の世界の深淵等々、いろんな重いテーマが詰め込まれすぎている。そのひとつひとつの追求がありきたりで、もう少し見たいと思うと次の展開に移ってしまう。それぞれがごちゃごちゃに接木されているという印象がぬぐえない。
  1970年前後の日本映画はすべてではないが、暴力と性にこだわりを見せた。同時代のテレビ界の隆盛に押されて映画界がしだいに衰退していくなかで、映画制作者はテレビには無い世界を追求したかったのかもしれない。そういう世界が観客動員に資するとの目算があったのか、それともいったんその世界を追求してしまうと、もっともっとと前のめりになったのか、私にはつまびらかにはできないが、日本映画が暴力と性におおいにいろどられた時代にはちがいなかった。そして制作者(監督やシナリオライター等)の数も時間もかぎられていて、どうしても粗製濫造の傾向に陥りかねなかったと見える。この映画にしいて美点をさがすとすれば、増村保造監督の力のこもったクソ真面目さと、それに応えた船越英二と緑魔子のひたむきさであろうか。それにスタッフがおおいに工夫したであろう「アトリエ」に林立するオブジェの斬新さ。
   ★★
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星野智幸『俺俺』

俺俺俺俺
(2010/06)
星野 智幸

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  なかなか読み進めない小説だった。とくに序盤を過ぎたあたりから、作者が空想的な設定をして主人公や近しい人物らがその設定に最初は喜びながらもやがては翻弄されるさまが、設定の仕組みそのもののわかりづらさもあってよく呑み込めなかった。それと生活実感のちがいも認めざるをえなかった。なにかしら作者や主人公に共感できるものがあってとくに長編小説は乗ることができておもしろく読めるのだが、今回はそれがあるにはあったがわずかで窮屈さのほうが先に立った。主人公らは自分たちが落ちこぼれで不幸であるという自覚を痛切に抱いているが、私も境遇は似たようなものであるとしても、それほど「不幸」だとは自分では思わないのだ。私が歳をとったからでもあろう。だが主人公(二十代後半)の痛々しさは私の若い頃にまったくなかったわけでもなくその擦過傷のような記憶は残っていて、それが手掛かりにはなった。
  題名からして振り込め詐欺のことを書いた犯罪ものかなと思ったが、導入部はそのとおりの展開であるにしてもそのあとはぜんぜんちがう。永野均がマクドナルドで他人の携帯電話を盗んでしまい、登録してあった「檜山大樹」の母に連絡して自分の銀行口座に入金を依頼する。「母」は見事に騙されて振込みをする。それどころか永野のアパートに押しかけてきて世話をやいたり、愚痴やら世間話を垂れながす。つまりは「母」は相手が永野ではなく息子「檜山」と認識して露ほども疑わず、仕方なく永野は「母」を前にして自分は永野ではなく、息子「檜山」になって相手をする。書き方からしてその「母」が認知に支障があるのでもなさそうで、面食らった永野は念のためというのか、何年間か帰らなかった実家(近距離)を訪れる。だがそこにはすでに自分ではない「永野均」が住み着いている。正真正銘の母もいるが、訪問者を「永野」とは認めてくれず住み着いた「永野」とともに犯罪者扱いをして追い返そうとする。訪問者の永野は引き返すしかない。つまりは作者の設定として、永野からみれば永野と檜山はそっくり入れ替わっているのだ。しかし実家に「居座った」かにみえる「永野」が以前に「檜山」であったとしたならば「入れ替わり」には違いないが、その点は不明のままである。はじめの永野(=のちの檜山)の主観の観点から小説は進行する。ちなみに職場においては永野は檜山とのちに呼ばれるが、職場そのものは以前と同じだ。
  さらにここからが作者のもう一つの重要な設定で、訪問者の「永野」は実家の永野を「」(本文もゴシック体)だとつよく認識する。この認識は実家の永野にも同時に生起する。やがて二人は連絡を取り合い親密さを増していく。
  俺が相手をとして即座に直感し認識してしまうとはどういうことか。おそらくは自分を不幸だと自認してもがく人間だと相互に直感するのだろう。似たもの同士ということだ。実際にそういうことができるのかといえばできないに決まっているが、作者の小説的設定としてそれはあり、作中人物がそれにふりまわされるという展開になる。
  俺の関係は心に鬱積した不幸や憤懣をなんの遠慮もなくぶちまけられ、相手の不幸にも耳を傾けられる。職場の人間関係では理想的な職業人としての人間像を演じなければならない。同僚の陰口は言いあってもいいが度を越してはならない。また会社組織にたいする批判はつつしまなければならない、自分を不幸だと嘆くのもあまり本質的であってはならない。最初の永野の職場の家電量販店では売り上げを伸ばすことを要求されるのは無論だが、独断であまりに値下げをしてはならないし、かといっていちいち上司に伺いを立てるのも嫌がられる。総じてストレスが溜まるのだ。それに最初の永野(後の檜山)は写真が趣味でそれを生かした職業に就くことが理想であったが、それがかなわなかったという落ちこぼれ意識を払うことができないでいる。「後の永野」は市役所に就職できたはいいが、現在の職場は生活保護申請の可否を決定するケースワーカーという位置にある。これもストレスが溜まることが容易に想像できる。職場では「俺」は素裸の俺としては決してふるまうことができない窮屈な存在だ。
  俺の人間関係は拡張した自己ということの幻想だろうか。職場的(社会的)人間像からの解放を作中人物はいったんは勝ちとることができる。孤独なアパート暮らしにくわえて別の根城ができるのだ。仲間をえて自分らしい自分になった気になる。だが甘さが露出してくる。いくら告白したところで職場での事態は変わるものではなく、いい知恵が出し合えるのでもないことがわかってくる。俺は密着しすぎるのだ。のちに三人目のになる大学生のナオもふくめて、俺が自分の不幸を独力で打開することができないかぎり仲間のにも無論それはできないのだし、の不幸を俺が解決できないことも自明になる。つまりは(他者)の不幸を不幸のまま俺(自分)は自分の不幸のうえにさらに背負い込むという自体に発展する。さらにの認識には制限がないので無数のが三人の前に出現し苦しめることになり、ここからへの憎悪と殺意にまで発展するのは一直線に見える。
  自分の不幸を自分で解決できず、さらにそのうえにの不幸がかさなってくると感情が鬱積して捌け口をもとめることになる。人々が削除しあう社会関係が檜山(以前の永野)によって透視され幻想される。このあとは凄惨な事件の連続となる。ナオが何者かに殺された現場に檜山(以前の永野)が立ち会う場面には心理的な迫真性があってうそ寒い。一家皆殺し事件とか秋葉原の無差別殺人事件をモデルにした出来事などが連続し、やがては檜山は高尾山に「避難」して原始人のような生活に行きつく。
  人間関係の濃密であるがゆえのどうしようもない息苦しさを描いた作品で、鋭い問題提起がなされている秀作にはちがいない。だがケチをつけるのではなく言ってみたいこともある。
   私たちは弱い存在で、どんな近しい人であれ、他人の不幸をそっくりそのまま意識に受け入れてしまうとたちまち平穏さをうしなうのではないか。逆に言えば、平穏を保つためには他人の不幸が流入してくるのをほどほどにして遮断しなければならない。自分の不幸ならばどこかでそれをごまかしたり逃避しなくてはならない、不幸の意識をつきつめるとよけいに不幸さが募ってくるというものだ。職場的存在が癪ならば、それ以外のもう一人の自分を自分勝手でもいいから作ってしまうことで切り抜けられないものだろうか。檜山(以前の永野)は写真撮影に解放感を感じるらしいが、どうもそこがあまり力を入れて書かれていない気がする。親にしきりに結婚を勧めらるが、乗り気がしない、子供にも魅力を感じないという檜山の感慨を書いた部分。

  いや、子どもなんかはどうでもよくて、問題は俺が誰とも暮らしたくないという事実だ。(中略)本当の問題はいつだって、電源がオンになっているときに起こる。電源がオンになれば、プログラムで型どおりにしか動かず生身の俺など理解しない親という連中に関わらなければならないし、同僚と同僚らしくつきあわなければならないし、自分のキャラを立てる努力をしなくちゃならないし、自分を説明しなければならない。俺は絶えず俺でいなければならないのだ。生きている間じゅうずっとそんなことをしていたら気が狂うので、スイッチをオフにする必要がある。それで俺は一人の時間を大切にする。俺が俺をやめる時間に安らぐ。そのときに誰かがいたら、俺はオンでなくてはならず。俺は俺でいなければならず、電源の切れている時間は寝ているときだけという恐ろしい事態に陥る。(p62)


   現代の職場が苛酷さを増していることはうすうすではあるが想像がつく。それにしても主人公は人間関係に意識を密着させ過ぎてはいないだろうか。オフの時間において完全にオフになるのではなくて「もうひとりの俺」が始動する人物像が私の理想なのだが。二人の俺がいて一人の俺がダメダメであっても、もう一人の俺がまだいるんだぜという自負。だから人間関係においてはひとりの俺で十分というある意味楽な感覚があればいいと思う。唯我独尊と揶揄されてもかまわない。だが作者星野智幸には意図があって、そういう人物像をあえて選ばなかったのかもしれない。

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完全な遊戯(1958/日本)

完全な遊戯 [DVD]完全な遊戯 [DVD]
(2003/03/21)
小林旭、梅野泰靖 他

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  大学生の不良グループが、やくざのノミ屋から大金を騙し取る。この設定が面白い。ちんぴらやくざではないから乱暴一辺倒ではなく知的な匂いがする。自分たちだけで考えてはじめて実行するという自負といたずら心がそこにある。グループのリーダーは梅野泰晴という俳優で、当時は民芸という劇団の所属だったそうで、映画会社一辺倒でたたきあげた俳優にはない雰囲気を持っていていかにも青白いインテリ風で、適役だ。また小林旭はいかにもまじめな大学生で、犯罪グループに加わるのは不似合いな雰囲気もある。また、1970年前後の東映の犯罪映画と比べると俳優陣全体がおとなしい気もするが、時代的空気だろうか。
  競輪のノミ屋はレース結果を電話で取材して待機している客に配当金を配るが、そこには5分の時間差がある。電話連絡がくるぎりぎりまでノミ屋の葉山良治は客から掛け金をかき集める。だから葉山よりもレース結果をいち早く知って掛け金を投入すれば大もうけができる。ここに梅野らは目をつけて、まんまと成功させる。これは携帯電話やウェブサイトが当たり前になった現代では考えられないことで、当時は固定電話の普及率でさえ微々たるものだった。描かれてはいないが、ノミ屋に入る連絡にしても競輪場にある公衆電話の列に並ばなければならなかったのではないか。だから大学生たちは他人の所有する固定電話をそのときにかぎって独占しなければならないのでここが一苦労で、詳述しないがこれも計画通りに実行できることになる。
  この犯罪の実行プロセスが巧みに描かれている。競輪場の臨場感もあり、次から次へと連絡役のメンバーが役割をこなしていく場面も迫力がある。それに舛田利雄監督のカットごとの時間配分が的確で、スムーズな流れになっている。職人技だ。
  だがレース結果が大穴だったために葉山は支払い金が足りない。事前に何があっても払う、妹の芦川いづみでさえもカタにもっていけと豪語した葉山の言葉をとらえて、グループは小林旭をつかって芦川いづみを連れ去るのだ。身代金目当ての誘拐と同じである。この第二の犯罪以降はせっかくの大学生のワルぶりがあまりはじけなくて物足りない気がしないでもない。やくざの葉山良治が妹思いの真面目さで、大学生グループが、葉山が警察には連絡しないだろうと高をくくっていたずらの延長のような気分でいる、その両者の対比は面白いのだが、大学生における異常さや冷酷さが演技としてもっと突出してもよかったのではないかとも思えた。今日的基準で見るからかもしれないが。
  映画は映画館で見るのが本来的であり、映像や音響、音声など最高のものがそこでえられる。作り手はあくまで映画館で観客に観賞してもらうことを基準にして制作にたずさわっている。その点ではDYDで見ることは二番煎じにちがいない。だが特典映像やらの「付録」がついている場合は得をすることもある。本DVDには舛田利雄監督のインタヴューが収録されていて、当時の映倫は絶大な権限をもっていて、最初の完成体では上映許可が下りなかったという。上映されたのは修正版ということだ。当時の映画制作の難しさで、興味深かった。
     ★★★
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ノスタルジア(1983/イタリア・ソ連)

  物語がよく把握できなかった。科白に文学的、詩的な要素があって私にとっては難解であったことと、うとうとしてしまったことが理由である。またアンドレイ・タルコフスキー監督といえば必ずや評価される映像の美しさが前半部においては小出しであったことも私を弛緩させた。だが中盤以降になるとさすがに映像の美しさには目を見張るものがあって貴重な映画体験となった。それにこの映画の映像はDVDで見た『ストーカー』とかなり重なり合うところがある。つまりは廃屋や廃墟であり、その床や地面が水びたしになっていることである。物語としては『ストーカー』は立ち入り禁止区域となっている「ゾーン」への男三人の探検と帰還が骨格であり、『ノスタルジア』は主人公の詩人がロシアから女性を連れてイタリアへ移住もしくは亡命するところから始まり、そのあとも話としては『ストーカー』と共通するところは皆無である。にもかかわらず、映像が類似しているということは、そこにこそタルコフスキーが作品別の物語内容を越えて芸術的に彫琢したかった最たる部分があるのではないかと思われ、そこを中心にして感想を書いていってもさしつかえないのではないかと思えたからだ。
  少し触れた廃屋はイタリアに来て知り合った男の住居である。この男見るからにうらぶれた印象があり、また精神的な衰弱をきたしているようでもある。過去の映像がモノクロ(純粋なそれではなく微かに色彩があるように見える)で表現されるが、男の家の前にパトカーが停まっていて近所まわりで騒ぎになっている様子で、家族に異変があったのかもしれず、この「事件」が男を衰弱させたようだ。勿論男が住むかぎりは廃屋とはいえないのだが、印象は廃屋そのものである。壁はいまにも崩れかからんばかりで、ぼろぼろでぎざぎざになっている。しかも雨降りでもないのに雨漏り(水漏れともとれる)がはげしくて水が勢いよく床をたたきつける。床は書いたように当然水びたし。それでいてそこには壷やら花を生けた花瓶が画面の下部に目立つように置かれている。あきらかにタルコフスキーが意図して室内セットを造形したのだ。
  この映像に私は触発されるものがあった。これは「世界のどんづまり」を表現しているのだなと直感した。飛躍するが書いてしまいたい。人生にたいして誰でも希望を持つが、ある人にとってはそれは青春時代に頓挫する。希望は言葉としては残っていても忠実になれなくなり、堪えられなくなってもはやそれ以上は進むことができない、引き返さざるをえない。そういう固有の時間と場所がある人にとっては必ずあり、またそれを忘れる人もいるが、のちのちまでもそれに固執する人もいて観念的に培養される。廃屋が「世界のどんづまり」の固有性そのものではなくて、思索者=表現者のなかで廃屋として結実した造形的映像がその観念を喚起させるのだ。「どんづまり」だからこそ、もう一度そこへひきかえしてやり直してみたくもなる、思索したくなる、観念としてそういう作業をその人に何回も、あるいは生きるかぎり試みさせる。希望の頓挫したところを見据えてふたたび希望を見いだそうとするのだから、絶望にいろどられてはいてもこれは美しいし力強さもある。私の「勝って読み」と思われても仕方がないかもしれないが、この廃屋(じみた)の住居の映像はそこまで迫真性を内包していることだけはわかってもらいたい。また廃屋ではないが、主人公の幻想としてせまい岩場に囲まれた水の流れもある。彼はそこで寝そべりながら分厚い詩集に火をつけて、燃えるままに放置する。
  過去がモノクロ映像となってたびたび挿入される。主人公は故郷を捨てた。彼を愛し引き止める家族がいるにもかかわらず妻以外の女性(通訳だが愛人でもあるようだ)を連れてイタリアにやってきた。そのロシアに置いてきた妻や子供のまなざしも主人公をじんわりと見つめて少し悲しげでこれまた美しいし、美しいとしか言いようがないが、故郷を流れる川の水の澄み切ったさま、青々とした川底の水草さえくっきりと映し出す。のちにこの映像がカラーに変換されるのがまた心憎い。この川の水の映像は廃屋のそれとちがって観念的に彫琢されたものではなく、自然が野放図に露わにする美そのものであり、観念を超え観念からとおい、何かしらふっくらとした豊かさが表現されている。いとしくて身体ごとひたしてみたい欲求にかられるのではないか。だが故郷といい家族といい澄んだ水といい、そこには戻れそうもないという主人公の諦念の表現でもあるのだろう。
  主人公は例のイタリア人から教わったとおりのことをする。つまり干上がった池を、蝋燭の火をともして消えないようにして横断すればよいことがあるというので、実行する。まじないか宗教的な祈りなのか。だが主人公はいっこうそういうことを信じないようで、あるとすればイタリア人への敬意だろう。また自嘲的、自己憐憫的にみえる。外観は「祈り」であっても内面はそうではないのだ。冒頭に近く、教会で聖母像の前におびただしい蝋燭がともされている様子があったが、これはふりかえれば主人公のともすたった一本の蝋燭との対蹠的効果をも果たしている。
  最後には故郷の家が何回目かとして映されるが、カメラがしだいにとおざかると、驚いたことに周囲が石造りの巨大な廃墟の風景になってしまっている。すっかり小さくなる故郷の家。かつてしっかりした現実であり、うつくしい川もそばにあり主人公にとって美の源泉であった故郷や家族さえ「世界のどんづまり」の観念の枠に閉じ込められるということか。ここまでくれば「どんづまり」どころか「世界の崩壊」にさえつながりかねない大胆な映像の構図だ。これには意表をつかれた。イタリア人やら主人公の愛人やらの行動にはさして驚かなかったが。……映画を見る時間があまりとれないが、またこういううっとりさせる名画に出合いたいものだ。
★★★★★
  
ノスタルジア [DVD]ノスタルジア [DVD]
(2002/11/22)
オレーグ・ヤンコフスキー、エルランド・ヨセフソン 他

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この道は母へとつづく(2005/ロシア)

この道は母へとつづく [DVD]この道は母へとつづく [DVD]
(2008/08/08)
コーリャ・スピリドノフ、デニス・モイセーエンコ 他

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  6歳の男の子が孤児院を脱走して実母に会いに行くという話。話自体としては昔からよくとりあげられてきた題材であり、めずらしくもなんともないが、ここで描かれる孤児院なるものがかなり異様だ。公的機関なのか、認可を受けた民間の施設なのかはわからないが、人身売買に類することを隠微にやっているのだ。つまり外部からの養子縁組の申し込みにたいして施設の子供を紹介するのだが、それ自体はありうることとしても、高額の謝礼を申込者(将来の「親」)に要求してのちに、その金を院長と側近が独占するように見える。この施設自体が犯罪組織ではないにしても退廃的ではないか。主人公の少年が脱走したのち金づるを逃すまいとして二人は必死に追跡するが、その過程でも情報を知っていそうに見える人に金を渡して口を割らせようとする場面がある。金がものをいうとこの二人は高をくくっている。これらのことは社会主義崩壊後のロシアという国の現実を一面で反映しているのではないかと思われる。養子縁組を申し込んできたのはイタリア人夫妻で、つまりはそれによって外貨が流入してくるということで、国境が開かれたことで外貨獲得のチャンスがロシアという国に大衆的に広がったのだ。
  一人っ子政策をとる中国では子供の誘拐と人身売買を行う大規模な犯罪組織があるとの報道を目にしたことがあるが、そこまでではない。子供の全員が養子になれる「チャンス」をあてがわれるわけでもなさそうだ。また捨て子で自分の本名を知らない子供にとっては実の親と再会することは絶望的であり、養子になることは裕福な生活をおくれる唯一の「チャンス」であるらしい。施設の幹部が主人公の少年にこう言って説教していたが、それも理解できる。やがて中学、高校生くらいの年齢になると、養子になることもおのずから諦めなければならず、労働をしてそのなかから施設の代金を払わせられる。女性なら出稼ぎで売春をするらしい様子も描かれる。売春しても管理者は見てみぬふりをするのだろう。小学校低学年から高校生くらいまでの子供が、大げさにいえばすし詰め状態になっている。その息苦しい空気も伝わってきそうだ。
  少年は施設の金庫から書類を盗み出すことをたくらむ。もしかして自分の本名が記されているかもしれないから。字が読めないのであわてて勉強をする。やがて書類を盗み出すことに成功すると本名と以前に居た施設が判明する。施設の年長の少女にも助けられてそこまで電車やバスでやっとの思いでたどり着くが、その間約半日の旅程だ。何処の国でもいじめがあるようで、施設の内と外で少年はひどい目に合わされる。だが親切な人もやはり何処の国にもいて少年を助けてくれる。いいなあと思わされる。
  ロシアの民家の外観を映画ではあまり目にしたことがなかったが、みすぼらしい家はまだまだ残っていそうだ。
     ★★★
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