大洋ボート

イージーライダー(1969/アメリカ)

イージー★ライダー コレクターズ・エディション [DVD]イージー★ライダー コレクターズ・エディション [DVD]
(2011/01/26)
デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ 他

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  自由な空気がいい。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーがマリファナであろうか、麻薬の仲買をしてまとまった金を手に入れて広いアメリカをオートバイで旅する話だが、全編に当時流行ったポップスが挿入される。しかも「さわり」ではなく曲の頭から終結部までまるごと流される。私が好きだったザ・バンドの「ウェスト」が、かつて西部劇の舞台となったモニュメントバレーと呼ばれる奇岩が並ぶ砂漠を走行する場面で流れるが、ご機嫌な気分になれる。西部劇では背景であったが、ここでは風景そのもので、射ち合いなどはなく平和で自由で、夕日が洗い流すようにやさしく照る個所は、それだけでもこの映画の値打ちを大きく高めている。二人が(三人だったか)オートバイから降りて夕日を眺めやる場面は、だれでもそうするだろうなあと納得させる。それに例のハンドルの位置を高くして、前輪を従来よりもより前方にせりださせた改造オートバイのかっこいいこと。
  ストーリーはややこしくなくて単純だ。60年代後半のアメリカの若者層の時代的な様変わりや、それを苦々しく見るどころか憎しみさえ抱く保守層の存在が、映画としてたいへん効果的に描かれている。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーの二人もそういう若者層の一角で、保守層からもそう見られる。ベトナム戦争が盛んだった時期であり、若年層の一部は徴兵忌避をして逃げ出した。ヒッピーとなってマリファナを吸ったり、従来の家族の枠にとらわれずに男女が集団生活をする「コミューン」が形成されたりした。またとくにそれら若者層のような先鋭さとは無縁であっても、カトリックのために避妊が禁じられて子沢山になってしまった家族とも出会う。「ロードムービー」だからさまざまな人々と出会い、生活の一端を知ることになる。保守層をのぞいては疲れがうっすらと感じられるのではないか。一方、その保守層にとってはしだいにドロップアウトの度を増す若者層は、アメリカを内部から蝕んでいく存在に映って、真面目な危機感を抱かせたのだろう。
  二人が保守層から目をつけられるのは長髪のためである。これは同じ時期外国の音楽文化に影響されて長髪が大流行した日本とはかなりちがって、書いたような内容での反体制派の目印として長髪が保守層から見なされたのだ。保守層の政治的立場はともかくも、この映画で描かれるほど暴力的なものなのかは、私には不明だ。冒頭で記した自由の感覚、それと裏表になったピーター・フォンダらのあっけないほどのはかない生が印象に残る。ストーリーをこねくりまわすのではなく、当時のアメリカの現実を反映して当然のように出現した映画で、アメリカ映画の歴史のなかに刻まれる一本だろう。
   映像的な試みもある。「謝肉祭」の場面の撮り方はフェデリコ・フェリーニ監督の影響が強いのかなと思ったが、そのあと一連の短いカット割りの映像は創造的破壊として後世に受け継がれたようだ。空や風景に混じって一見無関係な女性ヌードが表われ、繰り返されるのだが、同じような映像作りが日本でもずいぶんとマネされたと記憶している。
    ★★★★
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窪美澄『青天の迷いクジラ』

晴天の迷いクジラ晴天の迷いクジラ
(2012/02/22)
窪 美澄

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  ドロップアウトすることの不可避さが描かれている、一時的であれ、恒久的であれ、人間は切羽詰ってしまうとそうせざるをえない存在であることが肯定的に、さらには奨励するように描かれている、そういう小説として読んだ。そうしてドロップアウトした先に束の間でもいいから休息があってそのうえコミュニティらしきものに出会えればなおいい、息苦しかった昨日までの自分を客観的に見つめられて少しは元気も湧いてくる。作者が読者に届けたいのはそういう人生(半生)経験なのだろう。毎日同じことを繰り返せば繰り返すほど苦しいのならいっそのこと自分の持ち場を放棄してみる、がらりと環境を変えてみる、そうすると予期しなかった風が吹いてくることもある、いいことばかりが待ち受けてくれているとはかぎらないが、希望さえ見えてくることもあるということだ。異論は格別に私にはないが、作者の掲げたいかかる主題が見えてくるのは第4章になってからのことで、これはかなり遅いのではないかと首を傾げたことも記しておかなければならない。
  それまでの3章は息苦しい。やすらぎをうることができない家庭環境や職場環境が三人の主要人物に沿ってこまかく描かれる。由人(ゆうと)は兄や妹とちがって何故か母から煙たがられおばあちゃんっ子として育つ。兄や妹との対立は解けるどころか成長するに従って固定化の一途をたどる。居場所がない由人はやがて上京し小さな広告デザインの会社に就職するが、ここが安月給のうえ猛烈に忙しいところで、ついには会社に寝泊りしなければならなくなって恋人にも自由に会えなくなって愛想をつかされる。その会社の社長の野乃花は十代で結婚したが、嫁ぎ先の環境や夫になじめずに赤ん坊を捨てて家出する。もともと絵画の才能があって都会生活での転変ののちにくだんの会社を立ち上げたが、単価の連続的な切り下げにあって、書いたように急速に経営が悪化していく。もう一人の主要人物の正子はこれも家庭環境が悪すぎる。姉が幼児期に死亡したことが母のトラウマになって、次女を同じ目にあわせるわけにはいかないと日常のこまごましたことに猛烈に干渉してくる。高校生になってようやく無二の親友を見つけることができるが、ここにも母は介入してきて仲を引き裂こうとする。
  ざっとだが、こんな具合で、ああこういうことってありそうだなあと読者を思わせるのには十分に材料がそろっている。子供にとっての家庭環境、大人にとっての会社の環境や経営状態、いずれをとっても子供や個人の力ではどうすることもできない大きい壁で、我慢をかさねるしかないが、それで報われるものでもなさそうだ。由人は先輩社員に心療内科への通院を勧められ、精神安定剤を処方される。先輩連中も仕事のきつさを知り抜いているのだ。このあたりは小説というよりもノンフィクション的な興味をそそられるのだが……。しかしながら3章にわたるこの深刻さが第4章になると急転して明るくなり、今まで読んできたのは何だったのかという気にさせられる。3人とも自殺未遂かその寸前まで行ってしまうので、たかがクジラ見物でそんなに明るくなれるものかいなあと、疑念を呈せざるをえないのだ。ほんの出来心として捉えなおせばいいのだろうか、ちょっとそれは無理ではないか。
  この3人が家族を騙って、クジラの迷い込んだ漁村のとある一家に宿泊させてもらって仲良くなっていくのだが、別に嘘をとがめだてしようとは思わない。ここは束の間の休息を3人とも満喫するようで読んでいて悪い気分ではない。
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古代ギリシャの「白」

  昨日の深夜はDVD『追いつめられて』(1987/アメリカ)を見た。何日か前に途中まで見ていたのでそのつづきだった。内容的にはサスペンスで、まあまあ面白かったが、アメリカ映画では類似のものがごまんとあるので物足りない気がしなくもなかった。そこで、眠かったがもう少しテレビをと思い、何気なくリモコンを切り替えてあちこちの番組を探ってみた。NHKでは『大英博物館』というドキュメントをやっていたが、これが少し見るうちにどんどん引き込まれていった。深夜やるからには再放送であろう、すでに見て知っている方もいると思うが。
  途中からだったのでエジプトの項目はほんの少ししか見られなかったが、ギリシャをとりあげた項目にきてかなり驚いた。私たちがすぐにイメージする古代ギリシャ文明とは、ミロのヴィーナスにしろパルテノン神殿にしろ、外観の色彩は白であるが、これが最新の光学的探査によって鮮やかな原色が何色も塗りつけられた極彩色であったことが判明したというのだ。ミロのヴィーナスはとりあげられていなかったが、ほかの女性像がコムピューター・グラフィックスによって着色された最初の状態が復元されて映し出された。全面的に解明されたのでもないらしいが、衣装はもちろんのこと、髪や目、さらには肌にまで着色がなされたという。パルテノン神殿は巨大な柱そのものとなっている並んだ女神像や天井や建物の上の部分が極彩色によって蘇った。そういえば、天平・白鳳時代以降の日本の仏像も元来は極彩色で長年月の風化によって色が剥落したというのだから、今さら驚くには当らないのだが。
  エジプト文明との関連性も興味深かった。ギリシャ文明は紀元前7世紀に突然奇跡のように出現したとともすれば考えられてきたが、多くのギリシャ人がその頃傭兵としてエジプトに移住し、帰郷するとともにその彫刻や建築の技術をもちかえった、その成果がギリシャの文明として結実したという。なるほどエジプトには多数の彩色壁画が残されている。
  ギリシャ文明(文化)がイコール白という概念が固定化されたのは18世紀なかばで、彫刻の色彩の剥落という事実があったにせよ、それに輪をかけるようにギリシャがヨーロッパ文明の起源であり「純粋」であり、「純粋」さが「白」として捉えなおされたという。ヨーロッパはアジアでもエジプトでもなく独自の起源を持つという優越主義が思想的背景としてあった。たいへん残念なことにこの誤った「白」のイメージが災いして黒ずんだ「汚れた」ギリシャ彫刻の多くが「白」を復元するために大英博物館によって、その表面がへらによって削り取られた。だから最新の科学的探査によってもその元の色彩は探れなくなったという。
  漠然とした先入観が突きくずされる快感を抱かせてくれた。
Genre : 日記 日記
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旅芸人の記録(1975/ギリシャ)

  贅沢な時間を過ごすことができた。4時間の長尺で休憩なしだからうとうとすることもあったが、疲れよりも幸福感のほうが勝った。人間とはこういうものなんだ、時によってはこうするしかないのだという運命を強く意識させられると同時にそれら人間=登場人物にたいするいとおしさがじわじわ形成された。そのいとおしさはたいへん穏やかでしかも堅固である。スケールも大きい。テオ・アンゲロプロス監督の映画作法の魔術にかかってしまったというほかない。
  悪人と呼ぶべき人もいる。また善人もいるが生活をしのいでいくためには汚れたことにも手を染めなければならない。悪人にしても変転する時代のなかで機転を利かせてうまく立ち回ろうとしたのであり、その動機はよくわかる。そういう悪人が彼一人ではなく、時代的傾向の一つであったと理解すべきだ。つまり悪人も善人もモラルの濃淡があったとしても懸命さをもって生きなければ生きていけないという思いを各々が抱いていた時代なのだ。1939年から1952年までの小国ギリシャの戦争とそれにつづく内戦の時代が背景で、10人前後の旅回りの小さな劇団の面々が主たる登場人部で、座長格の男の長女がヒロインのエレクトラ(女優名エヴァ・コタマニドゥ)である。
  物語らしい発端はヒロインが母と劇団の男との不倫現場に遭遇してしまうことだ。深夜、宿の外付けの廊下をゆっくり歩いていって父母の部屋をそっと覗いてみると父がいびきをかいている。だが母は不在で、目星をつけた男の部屋の前に行くと艶かしい声が漏れてくる。部屋の前で思わず泣き崩れてしまうヒロイン。あとで考えると以前から怪しんでいた様子である。以後の展開をみていくと父(夫)もまた長女よりも早くからそれを知っていて諦めていたかもしれないと思わせるものがある。この不倫現場目撃の場面だが、他の場面と同じくアンゲロプロス独特の長回しで、最初自分の部屋から出て靴音を響かせてゆっくりと廊下を歩み、やがて下の階へ階段を下りていってさらにそこの廊下をゆっくりと歩んで、という過程をたどる。実にじっくりとカメラが追随するのだ。この長さが「不倫」を視聴者にくっきりと刻み込む。やがて父はギリシャ軍に志願入隊するが、それを告げたときの母(妻)の高笑いに驚かされる。別れを悲しむどころではない。夫婦関係が終わっているどころか、この女、もはや壊れているなと思わずにはいられない。何故だろうか。不倫の相手の劇団員はどうやら親ナチスの立場であり、父とは相容れない。また融通が利かず貧乏劇団をやりつづけるしかない、そこについていくしかない夫や自分への嫌気が母を不倫に走らせたのかもしれないとも思わせる。しかしこれはわたしの推測でしかない。小説なら事細かな説明が施されてもよいのだが、また映画にしてもその種の説明をしたがる場合もあるが、この「不倫」に関しては説明的ではない。複数の映像と場面を記憶させ視聴者のなかでつなげあわさせることで、ああこうなんだろうなあと「説明」を超えて痛切に沁みわたらせる。アンゲロプロス監督の表現方法のすぐれたところである。また目先を変えて、俳優がカメラに正対してべったりした説明をながながする方法もとられる。
  母の不倫相手をヒロインは当然憎む。見る側の印象もけっしてよくない。その劇団員が父に代わって座長格に座ってもヒロインをはじめとして「旅芸人」をやめるわけではない。戦争中のことでギリシャ国民が総じて困窮に甘んじたのだろうか、おいそれと仕事が見つからないのか、それとも根っからの芝居好きなのか。衣装や道具の入った大きな鞄を抱えて町から町へと彼らは移動する。鶏が一羽、雪原にはぐれているのを発見すると彼らは嬉々としてとりかこむ。食用にするためだ。また売春やそれに似たこともあえてして糊口をしのぐ。このときの表現も巧みだ。不機嫌であろうヒロインはほとんど映さずに、ヒロインを見つめながらいそいそと脱衣し素裸になるまでの兵士を例によって長回しで映す。売春を逆の立場から見た表現で、男の表情は私自身に照らし合わせてもこういうものだと納得した、いや満喫したというべきか。しかしまた生きるとはたいへんなことなんだと慨嘆せずにはいられないのでもある。
  表現されるのは劇団員の生活だ。国中を移動し、宣伝の歌を高らかにうたい歩き、またことあるごとに歌や芝居の練習を繰りかえす。仕事であることは勿論、喜びや憂さ晴らしであろう。疲れや惰性でもあろう。その様子は固い芯棒として映画全編をつらぬいている。そして変転する時代との相関がある。ヒロインの弟はギリシャ軍からやがて戦後は共産ゲリラに転進する。また座長の男は戦後反共テロ組織と親密になるが、決定的なことを知らされてヒロインはついに座長の男への復讐に走る……。
  旅芸人のものだけではなく全編に歌が流れる。兵士の戦争疲れをみずから癒す歌であったり、戦後のアメリカの歌をおおっぴらに歌えることの喜びであったり、政治的プロパガンダの歌であったりと多種多彩だ。それぞれがひるむことなく自己主張する。反共組織の青年たちがソフトをかぶりスーツを着て町を練り歩きながら歌う場面もいい。アンゲロプロスは共産ゲリラに同情的かもしれないが、平等にあつかうということではなしに政治的連帯感のさなかにある者の喜びや高揚感は左右どちら側にも存在するということを言いたいのではないだろうか。私も右翼にこの点では共感できた。だが一方では、歌については「真実の歌」がどこにあるのかという問いかけをアンゲロプロスからなされているとも思った。
  印象に残った場面をもうひとつ記しておこう。ヒロインが共産ゲリラに連絡をとるために夜の街を歩く場面。警察官の巡回もあり、散歩を装うかのようにヒロインは町をゆっくりと歩く。まっくらななかで、ある建物の二階だけが煌々と明かりがともされ、やかましい管弦楽がもれてくる。戦後の解放感によるのだろう。やがて体をふらつかせた男女がそこから出てきて遠ざかる。ヒロインは画面の向こう側からこちら側へ歩いてくる。カメラは後ずさりするように移動してヒロインを遠景で撮りつづける。この間長回し。ヒロインがこれからやろうとしていることを忘れるではないが、映像美に魅せられた。一軒だけ明かりがともる夜の町の散歩、いいなあと思った。人間へのいとおしさとはじめの部分で記したが、それはこの映画の風景へのいとおしさにも重なるのだ。
★★★★★

テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)
(2004/03/20)
エヴァ・コタマニドゥ、コスタス・パウロウ 他

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