大洋ボート

メリメ「アルセーヌ・ギヨ」

カルメン (新潮文庫 (メ-1-1))カルメン (新潮文庫 (メ-1-1))
(1972/05)
メリメ

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  上流階級に属する女性の行動とそこに秘められた自分でもなかば意識しない心理が描かれる。作者メリメの身近に存在したであろう女性にたいする観察眼にもとづいているのだろうが、そこには鋭さとともに意地悪さも感じられる。
  翻訳者堀口大学の訳注によると時代は17世紀の半ばであるらしい。教会への帰依心の強いド・ピエンヌ公爵夫人が書いたところの主人公である。教会への寄進や貧乏な人への施しは無論のこと、身近にいる人の不道徳な行いを非難し、そこから抜け出すことをしきりに勧めたりもする。あと二人主だった人物として、かつてオペラ座の踊り子で飛び降りによる自殺未遂の末、ド・ピエンヌ夫人に手厚い保護を受けるのが題名にもなっているアルセーヌ・ギヨ。もう一人は夫人の幼なじみで、踊り子をしていたときのアルセーヌと恋愛関係にあったマックス・ド・サリニーという男性である。
  この時代の教会と世俗の関係については私は無知だが、ここではキリスト教的道徳観にもとづくであろう複数の異性との性的関係や「不倫」関係が非難される。これは弱まりこそすれ現代にあっても根強く存在する道徳観であって、そこだけ理解すれば読む段には足りるだろう。ド・ピエンヌ夫人も当然のごとくこの立場を固守する。
  ド・ピエンヌとサリニーとの間に互いに未婚であった時代に結婚話が持ち上がったことがあるが、ド・ピエンヌ(そのときは旧姓)の両親はサリニーを甲斐性不足と見てあっさり取りやめになる。そののち女性は現在の男性と結ばれるが、上流階級の同じ範囲の交際のなかにサリニーはずっと姿を現わしつづける。その間独身だ。サリニーは浪費家で賭博好き、遊び好きとくるから、その点でド・ピエンヌにとっては非難の的になり、そういうふしだらな生き方からサリニーを立ち直らせたいと念じて、説教じみたことを言い聞かせ、サリニーもたじたじとなるようだ。書き忘れてはならないのはド・ピエンヌはサリニーが自分にかなり前から「横恋慕」していると思っていることで、当然その要求も諦めさせなければならないと決めている。サリニーがほんとうにその思いを抱くのか、作者からの説明はないが、おそらくは憎からず思うであろうと見られる。(アルセーヌが一目見ただけで、それを言い当てる場面がある)ただそれほどのさしせまった深刻さはないようだ。また「横恋慕」されることにド・ピエンヌはじつは深い心地よさを感じていながらも、それを自分ではなるべく意識しないでいようとするようでもある。肉体関係は戒めるものの頻繁に会いに来てほしい、という虫のいい要求で、メリメは女性のそういう欲求を書きたいのだと思う。
  アルセーヌにとってはサリニーは唯一の相手ではないが、彼が去ったあとの追憶のなかで唯一の恋の相手となる。その時代なら踊り子という職業は低収入だったのだろう、それだけでは生活できずに見初められた男と愛人契約を交わしてはしのいでいった。そのなかの一人がサリニーだった。自殺を企てたのは関係を復活させようとして連絡したところサリニーに断られたからで、復讐かあてつけにあたる。複数の相手のなかから一人を思い出して恋するということもよくあることで、それ自体は非難できないことだろう。
  ド・ピエンヌは二人の過去の関係を劇的に知らされ、「瞋恚をもやす」(堀口の解説)。アルセーヌを保護する行動はクリスチャンという上辺を装った「虚栄心」であるとメリメは記す。そしてアルセーヌのような身分卑しい女性への軽蔑とあらたに湧いた敵愾心は彼女にとってはじつに自然な成り行きだ。ここからド・ピエンヌの次の行動がはじまる。二人への嫉妬にかき乱されるからで、もし二人の関係が復活したらと思うと穏やかではいられない、二人を引き裂こうとする。しかもむき出しにではなく「道徳」という偽善を装って。過去の二人の関係は神の見地からは不浄であり、それを追憶することは罪深く、忘れるべきで、ましてや復活させようなどとは金輪際企んではならない、小説の言葉どおりではないが、要約すればこんなところか。だがアルセーヌにとっては純粋にサリニーを「愛した」という思い出であり、美しさであり、プライドである。またサリニーにとっては自分を思慕してくれてそのせいで重傷を負ってしまったアルセーヌにたいする深い同情と愛情であり、これも人として自然で崇高な感情の発露といえる。だがこのときのド・ピエンヌは自分の落ち着かない感情のためにそれらのことがみえなくなっているのだ。
  このあとの展開は省略することにする。ただ彼女の家で二人きりになったときは、以前にもましてド・ピエンヌはサリニーを意識してしまわずにはいられない。
  「カルメン」「タマンゴ」「エトリュスクの壷」に比べると重要度は落ちるかもしれないが、駄作ではない。女性における言葉と心理の二重性には誰にでも思い当たるところがあるのではないか。
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しとやかな獣(1962/日本)

しとやかな獣 [DVD]しとやかな獣 [DVD]
(2005/09/23)
若尾文子、伊藤雄之助 他

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  登場人物全員が小悪人というブラック・コメディ。最後に出てくる税務署員の船越英二はむしろ善人の印象があるが、やはり魔がさして犯罪に手を染めてしまうので結果、悪人になってしまう。どういう悪事をなしたかがそれぞれの自己主張によって明らかにされる。そろって確信犯的で、少々の悪事をはたらかないかぎりはこの世で生き抜くことはできない、のし上がることはできないという居直りであり、平凡な生への怨みつらみであり、また自慢話の競演である。不正であろうとなかろうと贅沢をすることが、金によって人をしたがわせることが人生の目的であり楽しみであるという人生観である。だがせっかくいっぱしの悪事をはたらいたつもりでも、その成果をかすめとる悪人がしれっとした顔ですぐそばにいて地団太を踏ませる。「上には上がある」のだ。
  こういう自慢話やいがみあいが過去に起きたことや現在進行形の争いをひっくるめてごたまぜになってすべてが会話で表現される。団地の高層階に住む伊藤雄之助・山岡久乃夫妻のところへ芸能プロダクション社長の高松英郎があやしけな金髪タレントの小沢昭一と秘書の若尾文子をしたがえて乗り込んでくる。<おたくの息子さん(川畑愛光)に会社の金を横領された>というのだ。次には娘の浜田ゆう子を愛人にしている作家・山茶花究がやってきて<××子は何処にいるんだ>と言う。山茶花はまた伊藤に高額の金を貸しているが、返済してくれない。さらに川畑には名刺を勝手につかわれて飲み食いされる。高松も山茶花も血相を変えた様子だ。一方、伊藤雄之助は息子と娘が何をしようと家計を潤すのをほくそんで眺めている……。
  なかなか軽快であり、にやりとさせる心地よさがある。もしこれが外国映画なら字幕の洪水になってしまうか、省略的な翻訳になってしまうかで、おもしろさが半減したのではないか。こういう会話の多さを楽しむ映画は日本にはそれほどないだけに、変な言い方だが、日本人でよかったと思う。
  この映画がつくられたのは60年代前半で高度成長が軌道に乗りはじめた時期で、多くの日本人が所得を増やしはじめたのであり、また誰もがそういう時代の空気を感じ取っていたのでもあり<俺も俺も>と前のめりになっていた。あくせくしていたし、慌てていたのではないか。普通はそれを勤労によって実現しようとするものだが、この映画はそれを不正によって実現しようとする人々を描いており、この時代の陰画ではないかと受け取った。先頃他界した映画監督新藤兼人のシナリオで、彼の同時代批判であろうが、それを正確に受け止めたうえでさらに川島雄三監督や俳優陣がたいへん面白がって表現していて、一流のブラック・コメディに仕上げている。映像的に印象に残るのは、赤々とした夕日をバックにして浜田と川畑の姉弟が室内で踊り狂う場面。狂うことの自己肯定が生き生きと伝わる。踊りはツイストのようだが、音楽がエレキギターのような洋風ではなく雅楽器の鼓とコンガのコレボレーションであり秀逸だ。
     ★★★★
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メリメ「カルメン」

カルメン (新潮文庫 (メ-1-1))カルメン (新潮文庫 (メ-1-1))
(1972/05)
メリメ

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  この小説は二十代前半に読んだことがあるが、そのときの印象としては恋愛することの途方もない恐ろしさ、とくに相手が性悪な人であるならば何処へ連れ去られるやもわからない、人生を棒にふってしまうかもしれないという恐ろしさを生々しくぶつけられた気がしたものだった。今回読んでみてもその印象は変わらないが、忘れていたことがずいぶんあった。また当時は理解できなかったであろうことの発見も多くあり、はじめて読んだに等しいのかもしれないとも思えた。
  軍隊の伍長の地位にあったドン・ホセは殺人容疑で監獄へ護送中だったカルメンを口説かれて逃してしまう。これがはじまりだ。彼はカルメンにひとめ惚れしてしまったのだ。彼は今でいうスポーツマンタイプであり、また軍隊における出世を夢見る謹厳実直な人柄であったが、おそらくカルメンは彼がそれまで目にした女性のすべてが問題にならないくらいの美貌の持ち主だった。ひとめ惚れとはドン・ホセの場合、その感情に金縛りにあってしまうことを意味する。自分では何もできないが当の相手に言い寄られることによって、その感情にやすやすと乗ってしまう。罪人を逃した罪で営倉送りにされるドン・ホセだが、思うのはカルメンのことばかりだ。カルメンからパンとそのなかに隠した脱走用のヤスリを差し入れられるが、それも彼の思いに火をつける。
  カルメンの側からいえば彼女はドン・ホセをだましたのではない。結婚するとか愛しているとかは言わない。ただ脱走したいがために甘く短く口説いただけだ。また彼女は美貌の持ち主であること、多くの男が彼女に頼みごとをされると無力であることを体験的に知っているので、ドン・ホセはそれら多くの男の一人であって、いつものように機転を効かせたのだ。カルメンが彼に「惚れた」のではまったくない。たぶんしばらく会わなければカルメンにとってはドン・ホセは忘れ去られる男だった。積極的なのはドン・ホセのほうだ。営倉を出たあと同じ街にいるであろうカルメンを探し出し、念願の肉体関係をもつにいたる。このときはじめてカルメンはドン・ホセが自分に深く執着していることを知ったのだろう。
  ドン・ホセの側から見ればカルメンは彼を手玉にとっていると見えるのかもしれないが、カルメンにとってはそうではなく、ただふしだらで不道徳でそのうえ陽気で、さらにそういう自分を正直にさらけ出すだけだ。男に肉体をさしだすことに咎める心はなく、悪党家業に資するとなれば喜んでやってのけるのだ。強盗、密輸、殺人などの悪党家業が楽しくてしようがなく、またその楽しさはいったん仲間になればすべての人がそれを共有できると思いこんでいる。ただドン・ホセだけが悪党になりきれない、彼女にとっては唯一の例外の人物であることがのちにわかる。このことを、そしてそれによってカルメンはドン・ホセという男をはげしく嫌悪することになるのだ。ドン・ホセはカルメンの肉体を手に入れ、カルメンの身近にいられるようになってもけっして楽しくはない。独占欲が強く(それだけ強く愛するがゆえに)嫉妬強く、カルメンと関係を持った男を、さらにカルメンの夫までもつぎつぎと殺害する。こうして彼は悪党団の首領にまで登りつめることになるが、望んだのではなくあれよあれよという間にそうなってしまったというべきだろう。だが悪党稼業には最後まで彼はなじめない。警官に追われている最中、彼は負傷した仲間を抱いて連れて行こうとするが、カルメンの夫であるガルシアが足手まといとして殺害するのみならず、人相をわからなくするために顔面に十発以上もの銃弾をぶちこむ。こういう残酷性をドン・ホセは本能的に受け入れられない。
  カルメンの最後の恋相手であり彼女が望みを託した闘牛士リュカスも競技中に重症を負い、カルメンを絶望させる。ドン・ホセは悪党から足を洗ってアメリカへ移住して二人で静かに暮らそうとカルメンを説得しようとするが、カルメンは断じて応じない。そんなことをするくらいなら死んだほうがましだと応酬する。これは口喧嘩の次元ではなく本気だ。ドン・ホセはカルメンを手にいれ独占するために人殺しをし札付きの悪党にもなった。やれることはすべてやった。だがその結果は途中では面白くてもカルメンにとっては地団太を踏んで余りあるくらいの、さらにそれを上回る絶望をもたらすものであった。私はカルメンが<殺せるものなら殺しなさい、どうせあなたはわたしを殺せはしない>と高をくくってドン・ホセに言い放ったのではないかとも解釈したが、そうではないと思い直した。カルメンにとってはドン・ホセという男が、つつましい堅気の生活が、つまらなくてどうしようもない。リュカスが負傷してからはドン・ホセから逃げようとする意欲も喪失してしまったのだ。
  どんなに献身しても自己犠牲をはらってもふりむいてくれない異性がいる。ここぞとばかりに利用はするが、その核心部分にはまったくの無関心であるばかりか唾棄する。それを知るために私たちはときには高い授業料を払わされるが、この小説はそういうことの典型例である。ドン・ホセは授業料どころか人生を棒にふってしまい処刑場に消えることになった。彼がカルメンを殺害するのは最後にのこされた憐憫を蹴飛ばされたから、全人格を否定されたからだと受け取るしかないだろう。ドン・ホセの怨みつらみは作者メリメによってそれほどドロドロとは書かれていない。上澄み液のさらさら感さえあり、好感がもてる。
  語り手は考古学や民俗学の調査のためにスペインを旅行する学者のようだが、ドン・ホセの独白に入る前に、メリメは語り手にドン・ホセとカルメンとに遭遇させている。ドン・ホセはすでに指名手配された悪党になりはてているが、その義理堅さをやさしさを印象づける。またカルメンはジプシー独特の色黒い肌ではあるが、非常な美人であり男性になれなれしく少し下品であったという記憶を、語り手に刻みつける。この序章の部分が読者にカルメンとドン・ホセのいうなれば予備知識をあたえてくれて効果的だ。
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メリメ「エトリュスクの壷」

カルメン (新潮文庫 (メ-1-1))カルメン (新潮文庫 (メ-1-1))
(1972/05)
メリメ

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  嫉妬というものは一旦その罠にからめとられてしまうとなかなか抜け出すことができない、理性で制御しがたいものであることを私たちは体験的に知っている。そして過ぎてしまえば、それがささいなものであればしだいに忘失することが多いのだが、嫉妬した当人がこだわると忘れられないのみならず、当人に少なからぬ打撃を与える。とくにその出発点が誤解であるならば、知性における自信家にとっては自分の阿呆さ加減を思い知らされることになる。さらに若い時代においてそういうことを初めて味わうともなるとプライドをずたずたにされて、挫折感に陥ることにもなりかねない。この短編の主人公オーギュスト・サン・クレールがそれにあたる。ともあれ、嫉妬にからめとられてしまうと、冷静になって元の立ち位置に帰って事態を眺めなおすことがなかなかできないもので、誤解であるならば「真相」をさらに深くえようとして、誤解の傷口をいっそう広げることにもなりかねない。嫉妬は相手への憎悪と不信を増幅させる。
  サン・クレールは美貌と知性で評判の高い未亡人マチルド・ド・クールシーと恋人関係にあり、時期が来れば結婚したいと思っている。本人は社交界においてはこのことを決して打ち明けないが、二人が仲のよいことは彼とつきあいのある人たちにとっては周知である。「社交界」はこの短編では女性をはじめとして自慢話をしあうことがメンバーの楽しみであり、一方が秘密を打ち明ければ聴き手もそれに見合うように自分の秘密をさらさなければならないという一種不文律が存在するようだが、サン・クレールはそれにしたがわず、マチルドの名が出ても仲のよい知り合いであるということは認めてもそれ以上は言わず、素通りするのが常である。そういうサン・クレールの態度にメンバーは飽き足らなさを抱くらしく、あるときアルフォンス・ド・テミーヌという軍人がマチルドに関する噂をサン・クレールに吹き込んだ。あくまで噂で確証があるのではないと断ったうえでだが、サン・クレールがマチルドと知り合う以前にマッシニーという男がマチルドとねんごろであったという。マッシニーはすでに死去した男だが社交界のメンバーでありサン・クレールはじめ全員がよく知っていた。美貌の持ち主ながらあまりにも話下手でつきあわされることが苦痛このうえなく全員の軽蔑の対象になっていた人物である。またマッシニーはエトリュスクの壷をマチルドに贈呈したといい、サン・クレールはすでにそれをマチルドの別荘(二人の逢引の場所)で見ていて知っているが、マッシニーから贈られたものであることはテミーヌによってはじめて知らされたようだ。
  サン・クレールはテミーヌの話を鵜呑みにしてしまい、はげしく動揺する。マッシニーのような平凡な男と自分が女によって同列にあつかわれることが、彼の世界観を根本的に瓦解させるものだからだ。自分は社交界で誉れ高い男性のなかから(テミーヌもそのなかの一人)マチルドによって選抜され、自分もまたパリいちばんの美貌と知性の持ち主の女性を選んだ、そして二人はそういう自負のもと相思相愛になり幸福の頂点を極めているつもりだったが、テミーヌの言うことが本当ならば、マチルドという女はたんに熱心に言い寄ってくる男にやさしいだけの淫売ではないか。
  サン・クレールはマチルドを憎み、つきあいを御破算にしようかとも思うが、ここが恋心の理性ではどうしようもない勢いで、矢も盾もたまらずマチルドの別荘に急ぐ。いつものように肉体関係を持ちサン・クレールは幸福感をえるが、嫉妬はおさまらず、彼の様子を変に思ったマチルドが聞きただし、この時すぐにではないが、最終的に誤解は見事に氷解する。マッシニーを鼻にもかけていなかったことを出来事の細部にわたって説明してさらにダメ押しのために、マチルドは例の壷を床に投げて木っ端微塵にするのだ。サン・クレールはマチルドに泣いて謝る。正真正銘の涙で、マチルドもそれを見てさらに感動と愛情を深める。二人の関係は以前にも増して強くなる。ここまでくればめでたしめでたして通常の恋愛話である。だがここで終わらないところがこの短編のいいところで、印象深さを読者に刻みこむのもそのあとの展開である。だが私はストーリーを追いすぎている。

情熱にかられている場合、自分の弱みを傲慢の高所から見くだすと、多少自尊心の慰めが味わえる。そして一人言のように自分に言い聞かせる、〈なるほどぼくは弱いかもしれないさ、だがそれがどうしたというのだ!〉(p247)

  理性の延長上の情熱ではなく、理性をねじ伏せるに見えてしまう情熱への没入。マチルドに会ってはならないというのが理性の声だとしたら会いたいという「情熱」は破れかぶれだが、そういう情熱の高まりも若い時代ならではかもしれない。私にも覚えがある、いい描写だ。さらに誤解をそのままにサン・クレールが壷にたいして鍵をもってかちかちたたく場面。マチルドも見ていて、もうすこし強くたたくと壊れるのではないかとはらはらさせる。ここもすぐれた書きぶりだ。
  テミーヌは何故噂話をサン・クレールに吹き込んだのか。仲間に打ち解けようとはしないサン・クレールを揶揄したのか。いじめの快感があったのか。それとも自分も好きなマチルドのことを思って彼のほうこそサン・クレールに嫉妬したのか、そのあたりは不明だ。だがサン・クレールはマチルドを憎むとともにテミーヌにたいしても憎しみと憤懣を抱いたようだ。噂話を耳にしてからのち、サン・クレールは森で馬を駆らせていたときにふたたび彼と出会う。彼も馬上の人であったが、何故かしつこくつきまとうテミールに立腹して(細部は省略)決闘の約束をしてしまうのだ。決闘の日はすでにマチルドと仲直りしたあとなので、反故にしてもよさそうだが、サン・クレールは理性の人で約束を履行する。
  人間の神秘を私は感得した。またサン・クレールが哀れだとも立派であるとも受け取った。相思相愛の人であればその人と真っ先に話し合って誤解なり何なりを解くのが本来のあり方であるが、人は往々にしてそうはせずに第三者のいい加減な話を真に受けてしまう。サン・クレールもその幣に陥ってしまった。そしてそれを彼は自分の至らなさ、馬鹿さだと認識してかぎりない憔悴に落ち込んだ。知性に自信家であったサン・クレールであっただけに地獄にもひとしい責苦にさいなまれたのである。噂話をもちこんだテミーヌを怨むよりも彼は自分を責めた。選んだのではなく、彼の理性的心情が自然にそうさせた。誤解が解けたのちのマチルドとの幸福がつづいたとしてもこの憔悴はなおも彼のなかに持続した。メリメはずいぶんさりげなく小説を終わらせているが、知性や理性というものの持つ運命の一つの究極の姿をあらわに見せてもらった気がする。これは私には少ない部分だけに、哀れであると同時に爽やかさも微かにわきあがったところである。
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深呼吸の必要(2004/日本)

深呼吸の必要 [DVD]深呼吸の必要 [DVD]
(2005/01/28)
香里奈、谷原章介 他

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  若い男女5人が沖縄地方の小島に集結してさとうきび収穫のアルバイトに汗を流すという話。彼等はそれぞれが応募を見てやってきたのでお互いを知らない。また収穫の期限があって、それまでに作業を終えないと工場がひきとってくれないという事情があってだらだらとはしていられない。そんな厳しい労働のなかでやがて彼等のなかに連帯感が形成されるということが映画の主題のようだ。連帯感に難をつけるつもりはないが、ありふれた感じはある。また単純作業のきびしさがもうひとつ伝わってこないのが私としては不満だったが。
  さとうきび畑を所有するのは老夫婦でアルバイトのメンバーもその家で宿泊するが、老夫婦もときどきは作業に参加するものの主に作業を指導するのは彼等二人に依頼された青年の大森南朋である。大森は老夫婦との縁故はないようだが、その作業と指導の的確さは信頼をえていて、沖縄のみならず農作物の収穫の時期になると全国を飛びまわって農家の支援に当たる。また若い人たちへの対応も慣れている。作業のきびしさがやがては楽しさに変わることを若い人たちを見てきた経験から知っているのだ。また彼は沖縄のような自然豊かな地方へあえて来る人には都会における挫折体験が多くあって、それを忘れるために新天地を求めてのことだということも併せて知っているようだ。その一方で彼は自分の幸福を感慨深げに語り、もはや都会で組織の下で働くことはできそうもないと言う。大森の言葉には参加したメンバーはそれぞれに思い当たることがある。図星をつかれた気にもなる。作業に油が乗ってきた頃で、作業を終えた夜に宿泊する家の縁側で語り合うのだが、メンバーのひとり成宮寛貴は嫉妬も交えてか反発する。成宮は甲子園に出場してノーヒット・ノーランだったかの記録を作った球児だったが、その後大学に進学してつづいて野球をするが肩を壊して選手生命を絶たれてしまった。身体が小さいのになまじっか記録を作ったために人生を狂わされてしまったと打ち明けるのだ。女性たちには「そういえば」と成宮の顔を見て彼の有名だった頃を思い出す。そして不意に、成宮の話を中断するかのように買ってきたばかりの花火に点火して楽しむ。
  この場面に私ははっとした。そしてここだけが私にとってはこの映画を見た「収穫」であった。成宮は挫折感を引きずっている。そしてようやく話すことができ始めた、いうなれば自分の人生に向き合うことができはじめた瞬間ではなかったか。一方、そういう成宮の話を中断するかのようになぜ女性たちは花火を始めたのか。挫折感に籠ることの鬱陶しさをきらったのか、それともせっかく萌しはじめた連帯意識を成宮に確認させたかったのか。成宮はそんな女性たちの花火をどう受け取ったのか。話の腰を折られたと思ったのか、花火はさして美しいとも思わなかったのか、それとも孤独に籠ることの自分勝手さに気づかされ、連帯意識に沿うことの大事さを指摘され自己反省に向かい始めたのか。この場面は花火で終わってしまい、成宮寛貴がどう受け止めたのかは明らかではないが、後の展開をみると、成宮はどうやら連帯意識のほうへ舵を切ったようだ。またこの花火の場面は映像でもって語りかけるいかにも映画らしい場面である。
  さて私は成宮と同じような過去があるとして、同じく成宮のように二十代前半の年齢として花火に対してどういう反応を見せたか、私自身をふりかえさせられた。たぶん私は花火が邪魔だと思ったにちがいないのだ。私は自身の挫折を自身の言葉で明らかにしたいが的確な言葉がなかなかみつからない。そういうなかでは生きた実感が湧かない、宙ぶらりんの状態をいつまでも強いられるかのようだ。だが生活は否が応でも押し寄せてくる。人々と同じ職場で共同作業をしなければならない場面も当然にある。自分は人の役に立たなければならないし、人もまた自分の想定どおりに動いてもらわなければならない。そうして所定の作業を終えたときにはたしかに達成感がある。そこでは各々の過去の「挫折」は侵入しようがなく消失してしまう。だが私はそういう消失が嫌だ。また連帯感とはたんに共同作業から自然に形成されるものではなくて、それ以上の感慨が込められる。人は孤独を好みもしようが純粋に孤独ではけっして生きられないから、人とつながりを持たなければならない。人とつながることは生きることと同義であり、これを歓びとすること、歓びを共有し共有を確認しあうこと、これが連帯感だといえようが、「挫折」とどう回路をつけるのかがなかなか見つけられないのだ。また「挫折」を明瞭化する作業は連帯感とは一見別々にあるようにみえる。連帯意識を共有することこそが「成熟」に近づく一歩ではあるが、それを無理なく抱くことができれば生きることが楽にもなるのだが。
  まだまだこの問題意識は尾を引きそうだが、二十歳代の私はたいへんに愚かで未成熟であった、その反面なつかしくもある。この映画を見てあらためてそれに向き合わされたということを記してこの文を終えよう。
       ★★★
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