大洋ボート

原発再稼動問題

  野田首相はじめ政府首脳は、福井県大飯原子力発電所の再稼動についてどう考えているのか。どうやら再稼動させたい意向のようだが、メディアからはあまり強くは伝わってこない。伝わってくるのは大阪氏の橋下市長をはじめ地元周辺の自治体の長や大飯原発を管轄する関西電力の意見ばかりである。関電は無論再稼動させたいようだが、橋下市長はじめ周辺自治体の長は安全性を疑問視して再稼動反対に傾いているようだ。だがまるで再稼動が関電と地元および周辺自治体との交渉で決定してしまうかのような印象をもたらしてしまっているのではないか。ちなみに福井県の西川知事は再稼動賛成の立場であり、西川は政府に関西圏の自治体の長への説得を期待している。私も賛否はまずおいて、この問題にたいする政府の明確なメッセージを期待する者の一人であり、その意味では西川知事と同意見だ。
  私はどちらかというと再稼動してもらいたいという立場だ。再稼動がない場合の過度な節電や計画停電、あるいは予期しない停電等が嫌だからだ。経済と生活への負担が大きいからで、そうなれば「災害」とまではいえないにしても小さからぬ打撃になることは明らかだ。原発を全面的に停止させたままで明るい未来が開けてくるとは私には思えない。太陽光発電などの再生可能エネルギーが代替できるまでには相当な年数がかかるとはメディアが伝えている。それに「脱原発依存」という思想は実情を無視した感傷ではないかと疑っている。勿論再稼動には大飯原発が安全だというお墨付きが必要で、政府にはそれを発信してもらいたいのだが、安全でないというならば再稼動はすべきではないだろう。そこまでゴリ押ししてもらいたいとは思わない。
  ただ「安全」といっても絶対的な安全はない。去年並みの地震と津波がきても大丈夫とたとえ想定されたとしても、去年以上の規模の地震と津波が来ないという保障はない。シロウト考えだが、原発の電源喪失のさいの緊急電源装置の稼動を緊張感を持って用意・待機してもらいたいと考えるところだ。
  電力会社の情報開示が遅れる、変わる。新規の安全基準が作られていない、それを担って監督するあらたな行政組織がいまだ発足していない、原発における理想的な防災工事の完成には何年もかかる、等々、問題は山積みであるが、それらを万全にする時間はこの夏までには残されていない。だが暫定的な安全基準というなら作成できるだろうし、それを主導するのが政府首脳の役割であり、それこそが「政治主導」と呼ぶべきものではないか。さきほどテレビの討論番組で民主党の前原政調会長がまもなく(数日のうちだったか)野田首相はじめ主要閣僚が会合して原発再稼動問題での意思決定を公表するとの見通しを述べていたが、遅い気がする。
スポンサーサイト
Genre : 日記 日記
    11:37 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

中田宏『政治家の殺し方』

政治家の殺し方政治家の殺し方
(2011/10/26)
中田 宏

商品詳細を見る

  中田宏という人が横浜市長であったときにスキャンダルに見舞われたことは覚えている。女性問題がいちばん目だったが、ほかにも公金横領とかもあったらしい。もっとも私は新聞に掲載された『週刊現代』の見出しを目にしただけであり、当の雑誌を買って読んだわけではないので、詳しいことはまったく知らずに過ぎてしまった。いつもの売らんかなの姿勢が見え見えで、毒々しい印象が嫌だったが、その真偽のほどは時の経過がやがて明らかにしてくれるだろうと思ってわざわざ興味をもつことも馬鹿らしく思えた。それに政治家の真価を身の回りのことでともすれば押し下げようとするマスコミの風潮にもずっと苦々しい思いがあった。私は病院か何かの待合室にその種の雑誌がおいてある以外には滅多に目にすることはないし、また買うこともほとんどない。
  中田本人が著者であるこの本によってそのスキャンダルなるものの全貌をようやく私は知ることができた。中田は『週刊現代』にたいして名誉毀損の訴訟を起こし、全面勝訴を得た。女性問題にかぎって例をあげてもその記事の虚偽は明らかである。セクハラ行為に及んだとされる看護学校の女子学生との「合コン」の証拠写真は、市長時代ではなく中田が衆議院議員時代のものだった。それは「合コン」ではなくミニ集会で、その写真を撮影した女性も記事に書かれたような事実はなかったと証言した。この記事をはじめとする一連の中田スキャンダルが『週刊現代』に掲載されたのは2007年11月10日号から7週にもわたった。中田も書いているが、中田の心痛が察せられる。さらに翌年2008年の12月号には、中田の「愛人」なる女性が出現し、中田を婚約不履行で訴えたことが報じられた。私は知らないが、この女性(横浜市内のクラブに勤める源氏名「奈々」)は大向こうを張るかのように横浜市庁舎を舞台にして記者会見をし、それがまたテレビの全国ニュースで流されたとのことだ。
  だがこれも女性の虚偽が証明された。女性が中田と会っていたと主張する2004年の某日に中田にはアリバイがあったのだ。その日は中田の家族旅行の日に当たり、ホテルの領収書その他が保管されていた。さらにその女性は当の裁判に一度たりとも出廷しなかったそうで、中田は黒幕に金で雇われたのであろうと推測する。裁判自体の目的が勝訴にではなく、嫌がらせと中田のイメージダウンにあるという。たしかに裁判が決着するまでには一年以上の日数を要するから、その間は「灰色」となって中田を疑う人も少なくないだろう。ほかにも『週刊現代』の記事の虚偽が暴露されているが、いちいちとりあげてここに紹介するのも馬鹿らしい。知りたい人はこの本を読めばいい。
  中田はこの虚偽・捏造情報の発信元が横浜市議会議員の重鎮のA氏とその周辺であるとする。中田は横浜市の財政再建を旗印にして市政運営にのぞみ、公共事業の縮小、公務員数の縮減、さらに市内の一角にある違法風俗店の撲滅を政策課題として遂行していった。当然これらの利権にぶらさがる勢力にとっては中田の「改革」は不愉快で死活問題でもあり、そのまとめ役的な人物がA氏であるとされる。A氏なる人の実名が記されないのが読者としては物足りないが、訴訟等の面倒を中田は避けたかったのか。ともあれ、政治の世界とは、往々にして敵対勢力に打撃を与えるためには手段を選ばないことがよくわかる。
  それに『週刊現代』という雑誌のひどさ。いくら複数情報とはいえ、タレこみを真に受けて(というよりも意図的に?)その真偽の最低限の調査もすっ飛ばして記事にしてしまう姿勢は許しがたいものがある。『週刊現代』や『FRIDAY』は数十万部の売り上げを誇り、大手出版社『講談社』の財政を潤しているのであろう、社員の給料もそこからとどこおりなく支払われるのであろうが、また赤字の「良心的分野」も維持できるのであろうが、言い訳にはならない。ただ人目を引くために、売るために何を書いてもいいわけでは絶対にない。中田宏は一連の記事による心労によって自殺したいとは思わなかったが、自殺者の心境はわかる気がしたと書いている。まさに「ペンの暴力」である
    14:42 | Trackback : 0 | Comment : 1 | Top

少年と自転車

  身寄りのない子供を預かる施設から少年が父に会うために脱走する。ここから映画ははじまる。少年はみたところ十歳くらいだろうか。父に会いたくてたまらない少年はやっとの思いで父の住所を探り当てて、矢も楯もたまらずそのアパートにたどりつく。だが管理人によると少年の父にあたる男性はすでに引っ越したあとだった。しかし少年は納得できない。追いかけてきた施設の人も扱いかねて部屋を見せることにする。その場ではじめて少年は、父が部屋にいないことをようやくのように認めざるをえない。またその直前には施設の職員から逃げようとしてアパートの一階にある開業医に侵入してしまうことまでやらかす。ずいぶん意地っ張りで執念深くてわがままいっぱいの子供だなあという印象を否が応でも視聴者にもたらすにちがいない。家族、血のつながりのある存在が子供にとってどれほどかけがえのないものなのか、訴えかけてくる気がしたのだが、以後の展開をみるとそれだけではないのだ。
  この少年は父にあたる人に自由や躍動感といったもの、またそれを前提にした人同志のつながりを教えてもらったのだ。父にとってはそれは肉親としての子供とのつきあいや遊びやふざけること、つまり余暇でしかなかったのかもしれないが、少年にとっては父との生活は父がみなす以上のものとして記憶に刻み込まれたのだ。意地っ張りで執念深く、わがままなところもそっくり父から教え込まれたもので、父との生活の様子は映画では描かれないが、おそらくはそうした少年の個性は父が面白がってやまなかったのではないか。少年はそれをくっきりと覚えている。父が教えるとおりにすると自分も面白く、父がそれをみて喜ぶとさらに面白い。だから少年は、そういう行動や遊びを現在もつづけたい、人同士のつながりもそれをつうじてえたいのだが、少年にとっては父以外にはそれを手助けしてくれる人がいないのだ。施設の職員や里親になる美容師は、たぶん少年からみると抑圧的で、感覚的にいけ好かない。
  だが私たちは父にあたる男が少年にたいして病的なほどに冷酷であることをみせられる。だまって姿をくらませたうえに、ようやく少年が里親の女性とともに探し当てたときも、悪びれた様子もなく同居も定期的な面会も多忙を理由にむげもなく拒絶するのだ。少年はそれでも父を信じようとする。過去の父から受け取ったものがあまりにも貴重で現在の父もそれとまったく同じ存在としかみることができない。逆にいうと、冷酷で非人間的な父を受け入れることは少年自身の世界の全崩壊をもたらす。先述したアパートの件にしても、父がそこにいないというのは周りの人々の嘘で、父と自分とを引き剥がす策謀だと疑ったからではないか。つまり少年のなかでは父は永遠に善人であり、一見してそう見えないのは他の人の作為がはたらくからだと、少年は解釈したいのだ。父以外の人は中立でなければすべては敵ということになる。
  映画の展開部において少年は不良少年グループのリーダーの青年と知り合い親しくなる。盗まれた自転車を取り返そうと盗んで逃げる少年を追いかけるのだが、同じ相手に2回も盗まれかける。これこそ策謀で、数人の相手もものかわ突っかかっていく少年の向こう意気の強さにリーダーが目をつけたからだ。リーダーの青年は少年を褒め称え、下心をもっていっしょに遊ぶことになる。この出来事はほかならない父との再会の代替物として少年は直感する。青年が父のような存在に映るのだ。この出会いに少年は盲目的に没入する。寂しさから解き放たれる。いつもいっしょにいたいから青年の悪事への誘いも丸呑みする……。
  青年の冷酷さを知り、さらに駄目押しのように同時に父の冷酷さと二面性を知った少年の自傷行為は痛々しいかぎりだ。里親の女性が制止しなかったらどうなっていただろうとふるえる思いにさせられた。
  少年がまわりの人々のやさしさや冷酷さなどの真実の存在に目覚めるという成長物語であるが、それだけではない。後悔がのちのちもつきまとうであろうし、また記憶に刻み込まれた父との生活の快楽も繰りかえしふりかえらなければならないだろう。まったく忘れてしまうことなんてできないのだ。将来この少年に何が待ち受けているか勿論わからないが、目の前の事態に対峙するだけではすまされない重い人生を背負ってしまった、というよりも人生の大半を既に生きてしまったのかもしれない少年である。私の書き方はともかくも、いい映画だ。
     ★★★★★
    01:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

カミュ『ペスト』(2)

  パヌルー神父はオランのキリスト教信者の中心的存在であり、ペスト流行にさいして二回の演説をする。一回目のそれは、ペストという災いは人間の堕落と信仰における怠慢を見るに見かねた神が下したもうた人間への懲罰であるとする。自然は人間に恵みをもたらす反面、生活と生命を抹殺することさえある。これはともに神の意思であるとする見方で、パヌルーも火山の大噴火によって滅ばされたソドムとゴモラを例として挙げるように、キリスト教成立以来の公式見解である。それでは人はどうすればいいのか。反省を込めて以前にもまして心の底から神にたいして祈祷をかさねることだ。だがそれによってペスト禍がおさまるかどうかはわからない。神は人間の信仰を見守ってくださるが、神の御意思は独立したもので人間が自由に動かせるものではない。人の祈りと神の意思の因果関係は見えない。ペストを選択した神の意志の変更を祈りをかさねることで信じて待つしかない。それが信仰というものだ。だが人々はパヌルーの演説によって厳粛さに目覚めるのかもしれないが、にわかに心強さをさずけられることもなく、ましてやペストが早晩勢いを衰えさせることを期待するのでもない。推測でしかないが、肩を寄せ合ったり息を潜めることで、人々は恐怖から眼を逸らそうとするのではないか。パヌルーの演説は特定の人物をあげて非難するのではなく、オラン市民と神との関係性を語ったのであるからオラン市民のしいては人の神との関係性における平等性に、人同士の平等性に眼を向けさせることには効果があったのではないか、
  だが二回目の演説においてパヌルーは変わる。パヌルーもまた保険隊に参加して骨身を惜しまなかったが、判事オトンの男の子がペストに罹ってベッドで苦悶しながら死に至るのをリウとともに、その一部始終を見守ったからだ。この現実はパヌルーに衝撃を与えた。「神の懲罰」というが、何ゆえ神は罪のないましてや信仰の何たるかを知らない子供を標的に選んだのか。言葉の上で子供にも死後の永遠の命が天国で授けられるといってみても慰めにはならない。「神の不在」という疑念がパヌルーのなかでにわかに生まれる。そしてそういう機会をまさに彼は恩寵と呼ぶ。果てしない闇でしかこの世界はないのか、それとも神が全面的に差配するのか、それを決定するのは人間自身、パヌルー自身だという岐路に立たされたそのときに彼はやはりというか神の存在を選ぶのだ。その選択を強いられることを彼は恩寵と呼ぶ。災厄は人に対する懲罰だという彼の見解が二回目の演説では強調はされないように読める。神によるこの世界の全面支配をあえて信じようとすることが説かれる。果てしない闇は神そのものか、そうではなく神の加護がいまだおよばない領域がこの世界にはある。そうならば神の対場に立って、また神の代理としてみずからの肉体を差し向けることで闇と対決すべきではないか。
  私には信仰者の内面はわからない。だが人々の生活や幸福にたいしては無関心ではいられないだろうし、その安寧を観念的に引き受ける立場として信仰はあるのだろうから、人々の危機は同時に信仰の危機であるとみなす信仰者もいて当然だと思える。またそれがなければ、一般信者の信頼もえられないだろう。その危機の感覚は信仰者独自の領域で、よくはわからないということだ。
  カミュはメルヴィルの『白鯨』に触発されてこの小説の執筆にとりかかったという。『白鯨』のエイハブ船長もまた神の代理を自認して、とうてい勝ち目のないモービー・ディックに立ち向かっていったと私は読んだものだが、パヌルー神父もまたそれに類する破天荒な行動をとる。保険隊の規則には従うものの、彼はみずからがペストに罹ったときその治療を拒否するのだ。ベッドで小さな十字架像を見据えながら神との一体化を念じながら。そして彼はまもなくリウとその母の見守るなかで死んでいく。
  リウやタルーは無心論者で、パヌルーが保険隊に参加しても彼等の見解は互いに変更されることはない。リウは世界を理解することよりも目の前の患者を治療することが先決だという。これにはパヌルーも同意せざるをえない。思想的立場のちがいを超えてペストという共通の敵にともにたたかうのだ。たたかいのさなかにあってもその思想は歩み寄ったり無理な妥協をすることはない。これこそが連帯と呼ばれるつながりの理想的なありかたではないか。そしてパヌルーは見事というしかない最期をとげ、人々の記憶に刻み込まれるのだ。
  タルーは旅行者で裕福そうにみえるが、ペスト禍のオラン滞在をむしろ千載一遇のチャンスとみて保険隊に参加する。彼は死刑反対論者でさまざまな政治運動にかかわってきた。だがほとんどの政治運動には理想社会実現を早めるための殺人を容認してはばからない思想が内在していて、このことがそこから彼を離反させる。だがどうやってそういう殺人から無関係であることができるのか。現実に生きるかぎりは死刑判決や戦争や戦争に反対する立場からの殺人になんらかの縁がついてくる。いわば全員が伝染を蒙るペスト患者だという。そんななかで、どのようにして神なくして聖者たりうるか、「心の平和」にたどりつくことができるかを生涯の課題とする理想主義者だ。彼は主要な登場者のなかではいちばん若いようで、コタールをはじめ猫好きの老人やリウの母など、人への関心が強い。若いことは未来にあるべき時間が厖大にのこされているようにみえる。少しでも「心の平和」をかぎ分けるとその人に自身の未来像をたくすのかもしれない。わけなく老人の姿にあこがれたことは若いときの私にもあった。生きることは生活を繰り返すこと、それも普通かそれ以下の生活をする人々をみたほうが、生活の意味は外部からは見えやすい気がするものだ。だがタルーもまたペストのために生涯を閉じる。
  主人公リウにもどりたい。カミュはこれでもかこれでもかと思われるくらいにリウをして死に直面させる。統計としての厖大な死者数がある。また骸となって土木作業さながら十把一絡げに墓地に埋葬される死者の描写がある。だが死をリウに最終的に刻み込むのは彼が臨終をみとどける子供やパヌルーやタルー、そして電報によって知らされる妻の存在である。死は事実であるが、間近で見とどけた死や身内の死の知らせがより重大であり、その人に真に打撃をあたえる。そうしてリウに彼は敗北者であったという自覚をカミュは促す、さらに身近な死者のさめやらぬ面影が多くの死者の存在にまでつながり、忘却を拒絶させるのだ。また『ペスト』は第二次世界大戦下のカミュも参加したレジスタンス運動をも容易に思い起こさせる。たたかいの理想形をカミュは定着させたかったのだろう。

彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!(p431)


     (了)
    13:20 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

カミュ『ペスト』(1)

ペスト (新潮文庫)ペスト (新潮文庫)
(1969/10)
カミュ

商品詳細を見る

  オランという都市で伝染病ペストが発症し猛威をふるう。オランはアルジェリアの地中海に面した都市で、1940年代のことだから当時はフランス領だった。最初は鼠の死骸があちこちに発見されたことからはじまり、ついに人がつぎつぎ死亡する事態にまで至る。医師リウなどの進言によってペストの疑いが濃厚になり、県知事(オランは県庁所在地という記述がある)はオラン全市を戒厳令下同様の厳重な監視下に置く。つまり全市民の外部との交通が禁止され、外部からの人の流入も禁じられる。食料などの物資の搬入においても検閲を受けなければならなくなる。家族や愛人がたまたま旅行や用事で市外に出ていた場合、無慈悲にも帰宅が許されなくなり、長い期間の別離を強いられるのだ。春に発症したペストは夏には最悪期を迎え一日百人ほどの死者数にまで上昇する。罹患者やその疑いのある者は隔離病棟に収容される。この場合でも家族が引き裂かれる。隔離病棟は増大する一方の収容者数をまかないきれずに、学校の校舎や競技場までが臨時収用されてあてがわれる。
  作者アルベール・カミュがペストの惨状を実際に見聞したかどうかはわからない。また病毒の進行に関してノンフィクション的な詳細な記述を期待すると肩透かしを食らうのではないか。カミュはペストに関する文献を猛勉強した痕跡はうかがわれるが、この小説の目的はペストの猛威そのものよりも、それとたたかう医師リウを中心とした具体的な人間群像にあるようだ。ペストは「見えない敵」だが敵の弱点は、ペストが勢いをしぼませる年を跨いだ冬までついに解明されないままで、そんな中、ペストにたいする最良のたたかいとは何か、また戦いのなかでの意見を異にする人同士の連帯がいかにして成立するか、などに筆が傾けられている。別離と幽閉に苦しむオラン市民の一般的な心理状態もくりかえし記述されるが、主要な人物との形式的な区別はあるにせよ、両者は無関係ではない。とくに医師リウは妻を病気療養のために外部の病院に転地させた直後であるからリウその人の苦悶としても読み取れる。
  リウは謙虚であろうとする。治療の中心的役割を彼は引き受けるがヒロイズムや安っぽい勧善懲悪の観点からみずからの行動を峻別する。彼が行動するのはたまたま医師であるからで、善意がそこにふくまれるにせよ、あくまで専門家としての知識と方法がペストにいちばんの近接点にあるからだ。善意は主観的でありだれでも容易に抱くことができるが、客観的に眺めればそれが悪意に直結することもありうる。善意でもって殺人さえ厭わなくなるものだ。肝心なことは裏づけるべき知識だ。「ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない(p193)」だが当時の医学的知識の水準ではペスト撲滅の絶対的な方法は確立されていなかった。少なくとも当小説ではそのような環境下としてカミュはリウをさなかに置く。血清注射を施し、腫れ上がったリンパ腺を切開し安静にさせても患者はばたばたと死に呑みこまれていく。リウにしてみれば「際限なく続く敗北」だ。だがやるしかないのだ。1日の睡眠時間が四時間という疲労困憊のなかで同情も人情もかすれていく。感染の疑いのある人を警官や監視者を同行させて、嫌がる家族を尻目に否が応でも連行しなければならない。
  リウは職業としての誠実さだという。それとともに私はペストという難病にたいする職業的興味が彼を動かしていると読んだ。やがて「保険隊」が彼もそのなかのメンバーとしてつくられる。これは消毒や感染者の運搬や記録やらをボランティアが担う組織であり、彼は周辺の人物に参加を呼びかけるが無理強いはしない。唯一絶対の正しさをその活動に標榜しないからで、狭量な党派性のようなものから最初から脱却できていて、リウの人間的な魅力となっている。彼のいうには個人において幸福追求の具体的な課題があれば、ペストとのたたかいのさなかにおいてもそれを最優先することはなんら恥ずべきではなく保険隊の「善行」は二番目であってもよく、場合によっては断ってもよいという立場だ。ランベールというたまたま取材活動でオランを訪れていた新聞記者がいて、当然長期の足止めを食らう。記者にとってはペスト下のオランは絶好の取材対象にちがいないが、彼はパリに恋人を残している。脱出したくてたまらない彼は、非合法の工作を繰りかえす。市外に通じる出入り口を担当する門衛に、ある人物を介して口利きをしてもらおうとするのだ。リウはランベールを保険隊にさそったが、そういう事情を知ってその心情を理解し、手助けを具体的にするのではないが応援する。先述したようにリウもまた病気療養中の妻と引き裂かれているので、自分が医師という身分でなかったならば、ランベールと同じことを企てたかもしれないと思うからだろう。
  ランベールは恋人との愛という「偉大な感情」を閉鎖下のオランにおいて知った。スペイン内戦に共和国側の義勇軍として参加した彼は「偉大な感情」がなくても「偉大な行為」はとることができるという。外国の戦争への参加においても政治的正義の感情が彼を突き動かしたにちがいないが、それも今となっては「偉大な感情」ではないというのだ。愛のために死ぬこともできるというランベールにリウが共感しないはずもないのだろう。書くまでもなく幸福追求にちがいない。だがランベールの工作は渋滞してすすまない。そのうちにオラン滞在が抜きがたい現実として彼の眼に映じてきて、さらにリウと妻との別離の現状を知らされて彼も保険隊に参加するにいたる。ランベールは長期滞在の結果、自分もまたオラン市民であるという自覚が自然に生じてきて、ペストの惨状を見捨てて愛のために脱走することは「恥」だと思うようになり、後々の後悔までが視野に入ってくる。スペイン内戦に参加したときの公憤と同質のものが蘇ってきたといえるのだろうか。
  保険隊に参加してたたかうのは他に若い旅行者のタルー、市の臨時職員のグラン、パヌルー神父が主だったところである。コタールという男は自殺未遂者であり、グランに発見されて一命をとりとめた。犯罪者であるようだがペストによる混乱によって当局からの追及を免れて有頂天になる。彼は保険隊のメンバーではないが、リウやタルーとときどき街において出会い会話を交わす。一旦は死の寸前まで追いつめられた彼だが、オランの全市民が味わいつつある心細さや孤独をみずからが先んじて味わったという自覚があり、市民への「理解者」であり、それらが彼を優越感にひたらせる。つまりコタールは一見孤独ではなくなった。死の運命が全員に襲いかかることによって孤独の寂しさが雲散霧消してしまったらしい。だから彼はペストが猖獗をきわめ市民が斃れつづけることを願ってやまない。ペストにたいする姿勢や距離のとり方はそれほど多様ではないのかもしれないが、コタールのような極端な人もたしかに存在するのだ。昨年の巨大地震にさいしても自分の不幸と照らし合わせて、多くの人命の喪失を喜悦した人がいるようである。公の発言の場所ではさすがにそれに類した発言はみられなかったが。
  コタールのような人を登場させるのが文学のいいところだ。善男善女ばかりがこの世に存在するのではないことを、その存在が相対的なものとして人の現実があることを知らせてくれる。
    13:00 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
04 ≪│2012/05│≫ 06
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク