大洋ボート

欲望とは

  私は何がしたいのか。長い間にわたって自問を繰りかえしてきた気がするが、いまだにもってよくわからない。金銭、性、名誉、出世、道徳、知識、冒険、思いつくままに挙げてみて、いろんな方面に私の欲望と興味をそそる材料があるように思えもするが、どれかひとつをとって、そこに時間と精力をそそいでみろといわれたところですぐさま応答することができない。ひとつを撰んでしまうと、欲望の全体のかなりの部分が欠損してしまいそうな危惧がある。かといって対象になりうるすべての分野を同時的に獲得しようとして、それに値する、手を染めるに足る行動手段があるとも思えない。そんなことは不可能だろう。全面的に獲得できないまでもそこそこの獲得を実現できたならば満足すべきだという意見なら、それは私も承知のうえであり、すでに私はそうしたことをある程度は実現しているのであり、ここではその種の処世訓めいたことについて書きたいのではない。
  私は何がしたいのか。というよりも、したいという直前段階の欲望の根源性がよく見えない。上に挙げた事例には付け足すべきものがあることに思いあたる。友情、愛、神、公共的精神などなど、あらたな分野もあるが、かさなりそうな部分もある。付け足した部分もふくめて、それらすべての分野によき影響を及ぼしうる私のあるべきひとつの実践、そんなことを長い間、あれやこれやと夢や空想や荒唐無稽さもとりまぜて頭に思い浮かべてきた。それほど真剣ではなく、ぼんやりとした時間に漂うことが大部分だったかもしれない。だが長い期間、こういうことに時間を費やしてきただけに、個人的には看過してしまうには惜しい問題意識である。逆にこういう問題意識にこだわってきたために、出世のような現世的欲望をおろそかにしてしまったつけができたのかもしれない。
  高校生のころ、私は左翼であった。革命が根源的欲望であり、そのための日々の活動が欲望を実現させることだと考えて、迷うことなくのめりこんでいた。左翼をやめたあとも「根源的欲望」の影だけは残った。その影にふたたび中身を別のもので充填させようと踠きもしたのだったが。革命とは、それだけではないにしても破壊を不可避的に伴うものである。私の欲望に形を与えるべき空想にもこの破壊的要素は侵入した。「革命」という手近な材料があったために私は、空想だという断りをいれたうえでこれを許した。だが空想なだけに私にとってはシミュレーション以上ではなく、迫真性はなかった。空想をさらに深刻にすることにも熱心になれなかった。だが、この破壊性を「欲望の器」から除去すべきであるという判断にもなかなか移行できずに、私は長い間、だらだらしていたのである。さても、根源的欲望への思いは、生きている間は私にまとわりついてきそうだ。
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ドラゴン・タトゥーの女

  題名のドラゴン・タトゥーの女に扮するルーニ・マーラという女優がなかなか魅せてくれる。主役のダニエル・クレイグも悪くはないが、私はマーラのほうが印象に残った。というよりも他にはあまり見どころがないのかもしれない。
  彼女は精神障害者と認定されて、両親がいないためか後見人なるものが国家によって指定されて、財産を管理されている。生活状態もたぶん監視されるのだろう。そのスタイルは刺青は勿論、顔にピアスをしていて毒々しく、これはのちにわかるが少女時代にこうむった不幸な事件が影響しているようだ。そして最初の後見人が病魔によって倒れてから二代目に替わるが、この男がとんでもない変態男で、マーラは二度にわたって性的虐待を受ける。一回目は男から金をもらうためにいやいやながら応じるという態で、不良性を身に着けているからこそ対応できる。だが二回目には男に手錠をかけられベッドに縛りつけられてレイプされる。そのときのマーラの悲鳴が真に迫っている。上半身の衣服だけを着たままでシャツをぶらぶらさせる男の姿も気味悪くなまなましい。だがマーラは見事に復讐をとげる。あらためて男を訪れてスタンガンで気絶させ、性的虐待のお返しをするのだ。ガラスの棒を用意しておいていたぶる。今度は男が悲鳴を上げる番だ。悲鳴の競演である。その直前、訪れてきたマーラを見て、そんな事態になるとは夢にも思わない男が、反省を表すかのような、妙にしおらしい態度をみせるのも私にはリアルにみえて、苦笑しつつ、そういうものかなあと受け取った。このあたりはストーリー的には脇道の部分だが、私にはいちばん見ごたえがあった。またこの男は肥満体型で、『セブン』にもあったが、デヴィッド・フィンチャー監督は、肥満男の悶絶するさまが好きなのかもしれない。
  ルーニ・マーラは障害者と認定されながらもPCハッカーとしても凄腕で、新聞記者のダニエル・クレイグの調査を依頼され、さらにその次にはクレイグの助手をやらされることになる。依頼者はいずれも同じスウェーデンの老富豪で、はるか昔に行方不明となった娘に関する捜査をクレイグに頼む。やがて調査するうちに、その財閥一族やその周辺で奇怪な死を遂げた人々が浮上してきて、もしや連続殺人事件ではないかとの疑念がクレイグらにもちあがる。一族の男の遺品である手帳やら当時の古い写真やらを手がかりにクレイグら二人は謎解きに取りくむ。また当然、関係者の聞き込みも旺盛におこなう。だがこの捜査の過程が私にはそれほど身を乗り出すほどのものではなかった。古い写真をPCにスキャンして、ためつすがめつするさまは、もたもたしていて鮮やかさがない気がした。柔道の言葉でいえば「一本」とった個所がなかった。また異常者の猟奇殺人ということになるが、たとえばクリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』の薄気味悪さ、残酷さにはとおくおよばない気もした。それもこれも先に書いたルーラ・マーラの一連の出来事が、映画のもつエンターティエメント性を如何なく発揮して目立つからだ。
  忘れてはならない。CGによるタイトルバックの絵模様はよかった。どろどろした液体が人体や物体を流れ落ち、あふれかえるさま、同じようにして炎がゆっくりと燃え盛るさま、ビートの効いた音楽とも相まって、さあ、これから映画がはじまるぞというわくわく感をもたらしてくれた。
     ★★★
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ヒミズ

  新聞記事で読んだが、園子音監督は3・11東日本大震災のあとにシナリオを書きなおしたそうである。つまり本筋の物語の前後に地震の風景をつけくわえた。俳優の何人かが、瓦礫の山と化した街にたたずんで呆然とながめやる場面がある。これは俳優としての映画上の役柄を抜き去って、一個人としての素にもどって、あらためて瓦礫の街を眺めてもらおうという意図であろう。無表情のなかから押し殺したような沈痛さがうかがえる。また、ラストでは主役の少年と少女が、息を切らして走りながら「がんばるぞ!」と連呼する。その声はやけ気味で、被災して生き残った者はとにもかくにも生きていかなければならない、がんばれる人も精根尽き果てた人も生きていかなければならないという被災者にたいする応援メッセージだろう。それはまた物語の最後の部分で自殺未遂から生き返った少年の、これからの自身に対する叱咤激励にもかさなっている。だがいかんせん、物語と地震のつながりがこの部分だけでは弱い。それに、絶望した少年がその絶望をうっちゃらかして「がんばるぞ!」と叫ぶのは、あまりにも唐突だ。被災者にたいしての応援メッセージそのものは唐突であってもかまわないし、即応性をもとめられるのが応援メッセージならば的確な言葉探しが二の次になって、とりあえずは「がんばるぞ!」と叫ぶしかないのはやむをえないのではあるが。
  このように映画『ヒミズ』は地震と固有の物語との二重構造になっていて、地震の部分はオリジナリティがまったくないものの力強さは感じられる。反面、お話(物語)の部分はかすんでしまった感がぬぐえない。ゆでたまごなら、黄身と白身の二重構造が口に入れると見事に一体になってくれておいしいのだが、そうはなってくれない。
  染谷将太は中学生で、貸しボート屋をいとなむ両親の一人息子だが、父は放蕩壁があって借金まみれ。家出中だが思い出したように戻ってきて金をせびる。そのうえ「おまえなんか生まれなくてよかったんだ」といつも同じセリフをねちっこく言い放つ。母もそんな夫に愛想をつかして家出。どうしようもない家庭環境だが、同級生の二階堂ふみが考えられないようなおせっかいをやいてくれたり、どういうわけか貸しボート屋の周辺でテント生活をする人たちがいて、同情してくれたり、ときには手助けしてくれる。原作が漫画であるそうで、説明を大胆に省略してあらあらしく物語が展開するさまは園子音監督らしさがある。不満があるとすれば、父の光石研をもっともっといやらしく描いてほしかった。また重大事件を起こしてしまう染谷の絶望もいまひとつ鑑賞者の心に錘をおろしてくれない気がした。ここから「がんばるぞ!」に強引につなげられるのだが、その間の時間があまりにも短い。
   ★★★
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カミュ『異邦人』(2)

  レエモンに絶縁された女の兄がレエモンへの仕返しをたくらむ。事件の当日、ムルソーはレエモンに誘われてマリーを同伴してレエモンの友人マソンの所有するヴィラ(別荘にあたるか)を訪れる。そこはアルジェ郊外の浜辺にあり、ムルソーらは午前の快適な日差しのもとで泳いだり散策したりして休日を楽しむが、女の兄ら二人連れのアラブ人が待ち受けている。浜辺で鉢合わせになった両者はたちまち喧嘩になり、レエモンは相手の所持していた匕首で切られて負傷する。医者に行って手当てをしてもらって帰ってきたレエモンだが、アラブ人はまだ浜辺を立ち去らずに、岩影で暑さをしのんでいる。ふたたびレエモンとムルソーはこの二人連れと対面し喧嘩になりかけるが、事なきをえる。これはムルソーがレエモンのピストルを預かったさいにそれがアラブ人の目に入ったからと見える。アラブ人はゆっくりととおざかる。また短気なレエモンを制するためにムルソーはピストルを預かったのだが、返すのを忘れたのかそののちもピストルはムルソーのポケットのなかにずっとありつづける。
   このアルジェ郊外の刃傷沙汰からムルソーの殺人にいたるまでの描写が何ともいえず美しく、また不可思議だ。読者は午後になってからの酷熱をじかに体感することはできないのは当然だが、ただただ地上のすべてを溶かし倒すかのような太陽の光が一連のこの場面の中心であり、ムルソーをつうじてそこここの物象の逐一がぼんやりしてきてとおざかり、どうでもいいような感覚に浸潤される。友人が刃物で切りつけられたとはただ事ではない、レエモンは勿論、ムルソーの動揺も如何ばかりかと普通なら感覚してもおかしくないが、読者の私はそこに心が行かない。さらにこのアラブ人は最後には一人になってもまだ浜辺に居座りつづける。匕首で切りつけたときのレエモンの血を、さらにはその包帯姿を視認したにもかかわらず、まだ満足できないかのようだ。憎しみで凝り固まっているのか、ずいぶんと執念深いが、やはり読者の私はアラブ人の心を忖度する余裕がない。まるで人ではなく大きな石ころが眼に入るかのようだ。ムルソーがピストルを手にして退散する直前のアラブ人を眼にしながら「私は、引き金を引くこともできるし、引かないでも済むと考えた。」と重要な心の動きを語るくだりもあり、つまり銃撃の閫がこのあたりから低くなるのだが、そういうことも見逃しかねない。読者の私もまた太陽の光に毒されているのだ。その光に圧倒されるなかで事態が進行する。そしてムルソーがこの人を気絶させんばかりの太陽を避けるどころか、まるでそこが本来的な居場所であるかのように、引っぱられるように浜辺をうろつく。ヴィラに帰るよりも孤独を好んだことは確かだが、それだけでは説明がつかない。ムルソーは混乱と動揺を鎮めようとするのか、よりいっそうの別の混乱をもとめて平衡をとりもどそうとするのか、少なくともムルソー自身ではわからない、ただ大きな必然に導かれて太陽のもとに体を晒し続けることを選んだ、そんな読み取り方以外にはできない。苛烈でありながらも、苛烈さよりも「美しさ」を体感してしまう太陽の光。ムルソーは何も書かないが、読者が感覚する同じことを直感してぶったおれそうな光の真っ只中へさまよいこんでのではないか。そう思いたくもなる。文学の偉大さなのか、眼くらましをこうむるのか。
  ムルソーは孤独を好む人である。また善意の人とのつきあいも好む人だ。この両者は矛盾しない。母の葬儀から帰ってまもない日曜日、一日のおおかたをアパートの窓辺に座って、街やゆきかう人の様子をつれづれに眺める様子は好もしい印象をもたらす。さらには、アルジェは彼の生活の舞台であり、その気候も慣れ親しんだもので、さわやかな午前の光や「憂鬱」と表現される夕暮れ時や午後の酷熱等、控えめな語り口であってもムルソーには執着するものがある。それほど意識されているとも読めないが、逆にそれだからこそ、その執着ぶりにはムルソーのなかにすっかり根をおろしてしまった自然さを感じとれないだろうか。さらに、その気候への執着は「愛」と呼んでしまいたい誘惑にもかられる。
  たくみには表現できないが、人には後戻りできないときがある。ヴィラよりも酷熱の浜辺を選んだことは、最初は意志であったにせよ、困難さを克服しようとするにつれてさらに強固になるとともに最後には惰性になってしまう。最初の意志を覆すほどの気力もなくなってしまい、ますます酷熱のなかに呑みこまれる。肉体はいちじるしく衰弱し、風景のひとつひとつやつい先ほどまでの出来事がムルソーにとっての意味を喪失してくる。とおざかってしまった意志にかろうじて操られて歩く、現在の意志はからっぽでなにひとつ働かず統御できないままの身体の動きだけがみえる。後悔なんてしたくもない、そんなものが入り込む余地がないほどのなにかしらの大きな「必然」がムルソーを動かす。善悪をつきぬけた空洞のなかでのムルソーという存在。

  

焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。それでも、一歩、ただ一足、私は前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起こさずに、匕首を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きらめく、長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのはこのときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。


  第一部の最後の部分である。このとき、ムルソーは太陽に焼かれて気絶しそうになっている。太陽の熱と光線がにわかに強烈になったのではなく、ムルソーの耐久力が崩壊しかかる瞬間に入った、さらに輪をかけるのがアラブ人の匕首による太陽光のムルソーの眼への反射だ。これは偶然によるのか、アラブ人の憎しみをこめた意志、そのうえでの嘲弄なのか、ムルソーにはとりあえずはわからない。もはやそれはムルソーを葬り去ろうとする太陽光の一部、えたいのしれない凶悪な意志をもった太陽光の尖端的意志としかみえない。ムルソーは気絶を避けるには、この太陽光をうちこわさなければならない。アラブ人は刃物を抜いたが、立ち上がらずに寝転んだままだから即座にムルソーに切りかかる体制にはない、そこまでには若干の時間的空隙がある。だがムルソーにはアラブ人の真意を忖度する心の容量がすでに底をついている。レエモンからピストルを預かったさいに抱いた銃撃への心の準備、心の風景のなかに残滓としてある、直前の過去ではあるがすでにとおざかってしまった意志のひとつをとりだすしかない。ましてやムルソーはレエモンからピストルを預かったままだ。太陽光に対抗するためには即座に実行しうるなんらかの行為にしがみつかなくてはならない。それが「正しい」かどうかは、もはや思考する余裕がなくなってしまって立ちどまる暇がない。ムルソーが太陽光に焼かれて気絶してしまったら、アラブ人は安心してムルソーに危害を加えそうだが、はたしてムルソーがそこまで考えたかどうか、あやしい。ただ太陽に対抗するために闇雲に銃撃という行為に走ったと、私には読める。そうして行為した、行為にこめられた意志を解き放った。眠りそうになったみずからをそれによって覚醒させたのだ。一発目から少しの時間をおいての四発の銃撃は、覚醒をよりはっきりさせるため、自己確認であるだろう。そしてそれを終えてムルソーは正常な心の状態に戻る。あれほど辟易していた太陽光や銃撃の直前までの過去の生活を「幸福」とみなす冷静さがムルソーに帰ってくる。「幸福」という言葉がまるで唐突に出現するのも、この場面の不可思議な魅力の一つだ。
  ムルソーは法廷において無罪を主張したりはしない。自分の罪を認めるが、死刑を回避するために卑屈な態度をとったり、涙を見せたりはしない。正直さにつとめるが、法廷内外の自分へのあまりにもの無理解に呆然とする。そして情状酌量の面で、彼はきわめて不利な立場に追い込まれて死刑判決を下される。その後は、ムルソーの死との対話がつづられるが、第一部にもまして私には難解に映る。後日書く機会があるかもしれない。(了)
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カミュ『異邦人』(1)

異邦人 (新潮文庫)異邦人 (新潮文庫)
(1954/09)
カミュ

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  主人公ムルソーは魅力ある人物だ。正直で裏表がない。自分の思ったこと、考えたことを率直に行動に表す。人にどう思われるかなどということをくよくよ思案したあげくに行動に移すというタイプではない。世間体やら社会秩序やらから類推して自分がどうあるべきか、そんなことは露ほども考えない、とにかく欲望と必要に応じて行動し、口数は少ないが話すときはまともな言葉で応答する。ムルソーはまた差別主義者ではない。彼の住むアパートの住民には、人によっては相手になりたがらない人たちがいる。かさぶただらけの醜い犬と喧嘩ばかりしている独居老人だったり、自称「倉庫係」の女衒だったりするのだが、どちらにたいしても彼は親切であり、ときには相談にも乗ってやる。べつに博愛主義を旨とするのではなく、たんに可哀想だと感じたり、面白いと思ったりする自分の気持ちがあって、その延長線上に彼の親切はあるのだ。だから彼としては人が何と言おうと、その親切は彼のごく自然な気持ちを率直に表現した結果であり、それ以外の余計な物差しは介在しようがない。
  そしてまた彼はそういう彼自身の生き方に自信をもっている。当然というべきか、かなり楽観的である。後に彼はあやまって殺人を犯してしまい留置されることになるが、そのさいにもまさか死刑判決が下されるなどとは露ほども思わない。私が解釈するにその犯行は心神耗弱下のもとでの過剰防衛であり、本人もそう自覚していて、裁判所もそのように正確に判断してくれるものだと高をくくっているようだ。裁判所という社会組織やそこに反映されるであろう犯行にたいする世評がまったく視野に入らないのだ。楽観的というよりもこの場合は迂闊といったほうが適切かもしれない。さらに間抜けというべきか、ムルソーは裁判所や世間の指弾にたいしてあまりにも無防備だ。自分は内部を透明にしている、だからじっくりと見てくれれば真実はおのずから見えてくる、ムルソーはそんな思いだろうが、これが無残に裏切られる。
  ムルソーはまた生粋の無心論者である。裁判の過程で彼は一部の人からインテリ扱いされるが、学問をつうじてその思想をつくりあげたというよりも上に書いたような彼の生活や人との接し方から生まれ出てくる自然な信条というべきだろう。神父がときどき牢獄のムルソーを訪れてきて、神を前にして裸になりなさいとか、悔悛しなさいとか、神の顔を思い浮かべなさいとか、神父にしてみれば誠実かもしれないが、ありふれたことを彼に説き伏せようとする。だがムルソーは従わない。裁判の判決は受け入れざるをえないが、それ以上に人の命令におとなしくしたがう必然性がない。彼は死刑が確定する以前も以後も、何もすることがない牢獄でさまざまな想像やら空想やらにひたってきたが、神に関することがらはまったく思い浮かべなかった。彼にとってはこれまたごく自然であたりまえで、それがムルソーという人間なのだ。彼がもし信仰者であったならば、神父の忠告は受け入れたのだろうが、そうではない。なんでいまさらにわかに信仰者にならなければならないのか、死刑が決まったからといって内面までなぜ捻じ曲げなければならないのか。神父は人であり、神父という仕事をする人であるならば、それは人が人の奴隷になることだ。神に許されるとはどういうことか、ムルソーにはわからない。あるいはそういう幻想にひたることで少しは死の恐怖から逃れられるかもしれない、藁にもすがる思いで多くの死刑囚が神父の勧めに応じるのだろう。ムルソーも当然死はこわいのだ。だが決然と彼は神父を否定する。言葉というよりもその人格そのものを全否定するかのような激しさだ。個人の内面の自由を、自分というよりも個人の抵抗をつうじての全人類の内面の、さらには外面の自由を守りとおそうとの思いが、ムルソーからさらに作者カミュから伝わってくる、私にはそう感じられた。神父は傲慢なのだ。人間は、とくに犯罪を犯した人間はこうあらねばならないという型にはまった人間像を抱くが、ムルソーは渾身の力をふりしぼって反抗する、死の恐怖をごまかしたりやわらげたりするよりも「自由」を訴求する。
  正直で率直で、彼にしてみれば外面と内面のちがいなどはない。無防備なほどに自分を恃むことが多いから、人が自分をどう評価するのか気にしない。また親しくなった人とはそのつきあいは長つづきする。彼の友人はすべて彼を好感を持って見る。その反面、ソリの合わない奴とはつきあわない。もしその人が、物理的に近い存在ならばいっさい妥協することなく徹底的に反抗する。私がえたムルソーの人間像である。個人としていかに生きるべきか、そこには多くのヒントがある。
  ムルソーはまた一見冷たい男に見える。悲しいにしろ嬉しいにしろ、その感情表現を避けるからだ。禁欲的といえるのか、自分にとっての居心地のいい自分、自分らしい自分というものを知っていて、できるだけ感情的に揺れの少ない状態であろうとする。感情を放出することによって気分を変えたり、解放感をえたりすることをまるで知らないかのようだが、そういうことを彼は好まない。少なくとも人にわかるように態度に出すことを好まない。これはムルソーの第一人称で語られるこの小説の一見そっけない語り口とも一致している。だが彼に喜びや悲しみが無いはずもない。アルジェの午前の心地よい太陽のもと、再会したマリーというガールフレンドと海でたわむれる様からは、その喜びが素直すぎるくらいに伝わってくる。また後に裁判において彼の情状面を審議する場で、彼の母の葬儀の際の態度が問題視される。つまり、涙を流さなかったこと、とじられた棺桶を開けての母との別れを勧められたにもかかわらず拒んだことなどが、その「冷酷」さを証拠立てるものとして検事から糾弾される。ここはマリーとの再会の場面にくらべると少しひっかかる個所であり、読み解くのが難しいが、私たちは肉親の死に際して泣いたり最後の対面をしたりする光景にあまりにも慣れすぎてしまっている。ムルソーは奇異な人だとの印象をぬぐえないが、だからといって「冷酷」だと断定するのはあまりに牽強付会ではないか。小説の初めの部分であり、カミュは人物造詣にあたって謎かけからはじめたのではないか。ムルソーは養老院のあるとおい場所までバスでゆられてたどりつき通夜をすごしたから疲労している。だが悲しみが無いのではなく逆だろう。むしろ悲しみという謎と静かに対峙しているように思える。それに、母と養老院で仲のよかった老人が涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしたことを印象深い光景として語っていて、みずからの悲しみを代置していると私は読んだ。
  ムルソーの友情の厚さはわかりやすい。先に書いたレエモンという自称「倉庫係」(検事には「女衒」と呼ばれる)の男のために彼は一肌脱ぐ。レエモンが好きで、その窮乏を同情して貢いでいた女がたんに金銭目的で彼とつきあっているのがわかって、レエモンは懲らしめたいと願う。セックスの最中に唾を吐いて追い出したらさぞ痛快だろう。そのために女を「おびきよせる」手紙を書くことをムルソーに頼み、ムルソーも承諾し、後日レエモンのこの計画は見事に成功することになる。レエモンは評判の悪い男でムルソーの耳にもそれは入っているのかもしれないが、目の前の人の人となりに共感できればムルソーは自分のその判断を優先する。さりげない筆致で語られるが、世評を気にする人や臆病者にはまねができないつきあいだろう。さらにその後も、ムルソーのレエモンにたいする友情はもっと確固としたものになる。だがこのことが事件の「引き金」にもなる。
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