大洋ボート

異人たちとの夏(1988/日本)

あの頃映画 松竹DVDコレクション 「異人たちとの夏」あの頃映画 松竹DVDコレクション 「異人たちとの夏」
(2012/01/25)
風間杜夫、秋吉久美子 他

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  風間杜夫が吸い込まれるように浅草の町にあらわれる場面。そこから映画が生き生きとしてくる。浅草はかつて風間が子供時代を過ごした町だが、両親が交通事故にあってそろって死んでから実家はなくなった。それから三〇年ほどの歳月が過ぎて、風間はテレビのシナリオライターをしている。その取材の帰り道、地下鉄の表示板に「浅草」の文字をみつけて、ふと寄ってみたくなったのだ。演芸場に入ると、客席から聴き覚えのあるかけ声が聞こえてくる。近づくと顔にも覚えがある。記憶にある父(片岡鶴太郎)とそっくりではないか。「まさか」と思う風間。だが劇場がはねて、片岡のあとを追うようについていくと片岡は風間に向かって旧知のように「うちにこいよ」と気軽に声をかける。疑いながらも、なつかしさに駆られて同行する風間。夏の盛りの夜、クーラーもない安アパートの一室につくとそこには母・秋吉久美子の姿もあるではないか。
  この辺から、映画は風間杜夫の空想の領域に入ったことが視聴者にはわかる。盆の季節でもあるから、冥府から両親が一時的に子供の風間に会いに来たのだ。しかも両親は感涙にむせんだり、喜びを大げさに表現することもなく、実にゆったりとしている。生前と何一つ変わることなく仲のよいところをみせてくれる。立派に成長した風間を眼にして安心するかのようだ。窮屈さがなかなか抜けきれない風間だが、それから何回もアパートを訪れることになる。食事をしたり、「おいちょかぶ」に興じたりと三人はくつろぐ。
  盆休みに普段足がとおのいている両親に会いに実家へ帰るのと似ているが、どこかちがうのだ。あれこれ聞きただしたり、よけいな心配をしたりお節介を焼いたりはしない。病苦に衰弱するのでもない。自分たちが「死者」であり、相手が自分たちの子供であってもすでに生前に毎日接していた「子供」ではなく、立派な大人であり「生者」であることを知っている。「生者」の世界のこまかいことに口出しはしない、また実際的には何も知らない。ただ目の前にいる風間を見て、その成長した姿をみてゆったりしながら喜ぶ、それだけで二人にとっては十分であり、風間にとっても十分なのだ。大人になった風間の眼からみると片岡は威勢のいいすし職人であり、秋吉はずいぶんと色っぽい。また二人はくだけた言葉で話しあって、仲のいい夫婦がもつ得がたい空気を発散する。
  じわじわと泣けてくるのだ、片岡・秋吉の二人と風間の逢瀬の場面は何回かあるが、二人がこんなに仲がよく健康的で、お手本のような夫婦であったことを今さらながら気づかされる風間に、視聴者はいつのまにか寄り添うからだ。子供時代には無意識だった両親がこんなに立派だったとは! 風間によって美化された部分があるのかもしれないが、ただ死んだ両親をなつかしむというだけにはとどまらない。眼にしているのは死者でありながらも、そのふくよかな世界が現に生きている風間、あるいは視聴者には何と欠落していることか、そんな思いに自然に駆られてくる。
  映画のはじまりの部分では、風間杜夫はすでに離婚して全財産を妻と子供に持っていかれている。しかも仕事仲間の永島敏行に、前妻へのプロポーズと風間との絶好をうちあけられる。どうということもないというポーズをとる風間だが、実はこのことが風間にとっては大打撃であり、自殺願望をも引きずり出すようであり、そのことが両親への空想につながっていく。くわしくは書かないが、にわかに恋人になる同じマンションの住人・名取裕子も重要な役どころだ。
  夏といえば、酷暑やそこから逃れるリゾートなどがまっさきに思い浮かべられるイメージだろうか。しかし盆の行事の季節でもあり、最近はそれほど盛んではないが怪談がもてはやされる時期でもある。その意味で、この秀作も「夏の映画」の一代表作として定着するのにふさわしい。くどいが、ラスト近く「さようなら、お父さん、お母さん」という風間の言葉がある。そして片岡と秋吉の声だけがふたたびながれて映画はとじられる。しみじみする。
    ★★★★★
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聯合艦隊司令長官 山本五十六

  役所広司演じる山本五十六に好感を持った。山本は日米開戦に反対する立場であったという。アメリカの国力が日本と比べてあまりにも厖大すぎて、とうてい勝算がもてないからだ。したがってアメリカを敵にまわすことにつながりかねないドイツ、イタリアとの三国同盟締結にも反対であった。だが時代は山本が反対する方向へと舵を切ってすすんでいく。日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争の火蓋が切られるが、山本のそのときの立場は聯合艦隊司令長官で、軍事作戦の総責任者。戦いに反対した者が、思惑とは裏腹に戦いの勝利のために全軍を指揮しなければならなくなる。戦いたくない者が、勝てる見込みがないとみなすいくさに駆り出されるのだ。このジレンマ、目の前のいくさに気概のすべてを投入できないという二律背反が、役所広司からよく伝わってくる。   
  「一年や半年なら存分に暴れることができる。だがそのあとは自信がもてない」山本はこういう内容のことを近衛文麿に語ったという。山本についてそれ以上の詳しいことを私は知らない。だからこの映画で描かれた山本が、実像とどれほど一致するか、また隔たりがあるかについてはわからない。山本の人間像が映画の中心主題なので、ただ映画の一観客としてそれに触れて感応したことを記せばよいと思うだけだ。
  ミッドウェー作戦遂行においては山本(役所)は悲観的だ。東京がはじめて空襲を受けた昭和17年、アメリカ軍の航空基地があるらしいミッドウェー島(ハワイ諸島の北西部)攻略のため、日本軍は真珠湾攻撃以来の大艦隊を編成して同島付近に展開する。だが二匹目のドジョウはいないのでは、との心配を払拭することができない。戦果報告を部下とともに待つ間(戦艦大和の一室か)、山本は将棋に興じている。心をまるで目の前のいくさから逸らせるかのようだ。部下たちは山本の心の内部を知らないのかもしれない。だが山本への信頼は厚いようで、山本に寄り添う椎名桔平や吉田栄作の動きからそれはわかる。また山本は最前線の動きにたいしても作戦プランにたいしても口出しをつつしんで、それぞれの担当部署の人に任せたような気配も感じられる。つまり、山本もまた部下や軍のそれぞれの担当者を信頼していたようだ。そのことと、内心の戦争反対の立場は並存できるもののようだ。そして案の定、つぎつぎ無線で入ってくる戦況はかんばしくない、それどころか惨敗だ。だが山本はまるで用意していたかのように、心の動揺を封じ込める。この心の準備が将棋を指す所作によく表されていると思った。はたして緊張がみなぎる司令室でトップが将棋を指すという所作が実際にあったのか、私は知らないが、映画としては秀逸な場面だ。
  もうひとつ、というよりもそれよりも印象に残った場面がある。山本は甘い食べ物が好きで、一人で街の食べ物屋へ出かけていって、しるこを食べる場面だ。おばあさんと小さな女の子しかいない食堂。男手は戦争に駆り出されたのだろうか。椀を卓において暖簾のなかにもどる少女。少女の髪に赤いリボンが飾られている。カメラは少女の後頭部をアップで撮る。べつに変わりばえするのでもないリボンだ。だがこのとき山本(役所)はものすごくリボンに吸引されることがわかる。現在(当時)の時代やそのときの自分の置かれた立場がいやでいやで、どこかへ逃げていってしまいたいとの押さえに押さえた山本の心情が、ここではからずも露出したのではないか。逆にいうと、現在のあまりにも自分を制御してしまったことへの悔しさだ。そして山本(役所)はその制御をごく自然に忘れる。おかわりを希望して声をかけると少女が椀をとりにくる。両手で椀を少女に渡そうとする山本。だが山本は日露戦争従軍の際、指の何本かを負傷して不自由になっている。(左手だったか?)普段は用心しているはずのその指のことをここでは忘れてしまい、たぶん汁が残っているであろう椀を落としてしまう。ここは少し涙した。重圧から短い時間ではあるが山本は解放され、そのことを無念とともに知ったのだ。 
  この食堂の場面をきわだたせるために、山本の一家団欒での食事の場面も用意されたのではないかと思ってみたくもなる。そこではよき父を演じなくてはならないという山本の義務感さえみえてくる気がする。この義務感は戦場での山本にも通底するものだ。大きい煮魚がまず妻の原田美恵子から山本(役所)の手元に置かれる。すると魚の身を役所が箸で丁寧に切り分けて子供のそれぞれの皿に入れる。父の権威が自然なかたちで顕在した時代の表現でもあるのだろうが、どこかしら堅苦しさがただよう。
  模型やCGによる戦闘場面がそれほど多くないのも好感が持てた。またミッドウェー海上で炎上する空母群にしても臨場感があり、以前の戦争映画よりもずっとましだと思った。『男たちの大和』の戦艦大和の模型にはしらけたが。
    ★★★★
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無言歌

  教えられた。映画の主人公とその周辺の人たちが遠い場所から訪ねてきた女性に教えられるのとまったく同じように教えられた。
  主人公をはじめとする人々は中国西域の砂漠地帯に「労働改造」のために移住させられている。時代は1960年で、いわゆる「百家争鳴」の言論の自由が謳歌された時代が終わって、毛沢東が大々的に反右派闘争をはじめた頃だ。そのあおりを食って、反国家的な言動を公にした人々が糾弾され「右派」のレッテルを貼られて連れてこられたのだ。土地開墾の名目で劣悪な環境のもと日々苛酷な労働を強いられる。つまり私たちが日々おくる日常とはずいぶんとかけはなれた環境なのだが、それでもそのちがいを超えて、主人公らの感情の流れとその変化に寄り添うことができた。逆に言うと、私たちの一見平穏な環境においても十分に起こりうる感情の変化であり、沸騰なのだ。訪ねてくる女性も同じく、私たちの隣人であるのかもしれない。映画にふれて「教えられる」という感慨を受けとることはそう多くないが、今回はそれにあたる。いい映画を観た。
  四方は見渡すかぎりの地平線。これだけで、もう逃げ出せないなという絶望にうちのめされる。別に鉄格子で囲まれているのでもなく、住居は砂漠を浅く掘った壕で、10人ほどのベッドが並べられただけで余分な空間のない狭さだ。光を取り入れるための穴が無造作につくられている。烈風が吹きすさぶ寒冷の地で、収容者は一様に厚着で、毛皮のチョッキを着ける者もいる。開墾といっても砂漠の表土を農機具で掘り返すだけで、種をまく様子もない。こんなところではたして作物が育つかどうか疑問なのだが、収容者はただ命じられたとおりの行動に従うしかない。食事は一回につき穀物がわずかしかない薄い粥一杯で、生き殺しに等しい。そのために収容者はとくに高齢の人たちがつぎつぎに死んでいく。
  カメラはどっしりと構えて動かない。砂漠の広大さやらその地の光やら住居のなかの闇やらをあるがままに映し出す。ときおりは人間の移動に添うように手持ちのカメラが砂漠と住居の穴を往来する。そしてたえず聴こえる風の音。その淡々とした繰り返しだ。科白は少ない。昔話であったり、今日はだれそれが死んだというようなことだ。たぶん同じ環境に投げ込まれたならば私たちの誰もが口にするであろう言葉なのだ。特別な人はいない、なりようがない。だれもが同じ人間であることを否応なしに知らされるのだ。俺も近いうちに死んでいくんだなあ、つまらないなあ、と彼らが抱くであろう心境を想像してしまう。感情を高ぶらせても得はない、その境遇に不満や怒りをつのらせても何も実現しない。それならば何も目新しいことを考えることもない。苛酷さに耐え、慣れること、時間が過ぎ去るにまかせることくらいしか心身の方法は残らないのではないか。私たちはこんな劣悪な環境に投げ込まれたことはないのだが、平穏であっても、諦めや、挑戦的精神に蓋をすることが大いにある自分につきあたって、そこから映画の登場人物との共通点を見出すのだ。「長いものには巻かれろ」という言葉の指し示すものだ。だが映画はこれで終わらない。ここまでが前半で、重要だが前提に過ぎない。
  収容されている夫に会うために、女性が上海からはるばると訪ねてくる。ここから映画が力強く動きだす。残念なことに、その男は数日前に死亡してすでに土葬されたあとだ。問われた主人公はためらいののちにそれを告げると当然のように女性は号泣する。文字通りの号泣で女性は泣きやむことを知らない。それだけではない。墓の場所を教えてくれというのだ。主人公はもっとためらう。死者の骸が他の収容者によって食い荒らされたことを知っていて(飢えのために鼠や死者の肉が食われる)見せることが不憫で、教えようとはしない。墓は何百とあってしかも名前も記されないままに、土を浅く掘って盛りあげただけで同じ形をしていて見分けられない。主人公はそれでも墓の場所を特定できるのかもしれない気配だが、その事実を口実にして女性を引き下がらせようとする。だが真っ向から反抗して女性は引き下がらない。「墓地」へ出て行って、涙しながら手で引っかくようにして墓のひとつひとつを掘り返すのだ。ここは涙せざるをえない。そして教えられるのだ、私たちは。
  この女性にとっての夫の死はみずからの肉体を切り刻まれるのとまったく同じだ。堪えようのない痛みだ。そして何が何でも夫の亡骸と対面したいという望みだけが残ったのであり、それが実現できなければとうてい治まらない怒りであり悲しみなのだ。泣き叫ぶ、そして目的に向かっていちずに動く。ありったけの感情を爆発させて、ふらふらになりながら動く。眼に見えるこれらのことによって収容所の男たちも私たちも悲しみや怒りや、人間の尊厳の何たるかを痛切に知らされる。そして同時に、自分たちがあまりにも妥協的だったことを、人間の尊厳というものから眼を逸らしていたことを思い知らされる。(前半部で、ある男が裁判による離婚成立を知らせる手紙を元の妻から受け取って読む場面があったが、諦めが染みこんでいたのか、感情の変化はなかった)さらに知らされるだけではない。女性の行動を援助することは勿論、主人公ともう一人の高齢の男は、にわかに自分たち自身の尊厳と希望に覚醒し、絶望的な脱走を試みるのだ。私たちにももたらしてくれる覚醒であることもいうまでもない。
  この女性を演じるシュー・ツェンツーという女優がすごい。演技が巧いとか下手とかいう次元ではなく、そんなことを忘れさせて、ああこんな人間(女性)がこの世の中にいるんだなあという感慨に呑みこまれる。私もこんな人にかつて出会ったのかもしれないが、どうやら忘れてしまっている。それだから映画でのこの出会いが奇跡のように思えた。ワン・ビン監督の力の結晶でもある。
      ★★★★★
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