大洋ボート

恋の罪

  わずかな胸糞の悪さとともに解放感を受け取った。主要な3人の女性がことごとく性のもつ魔力にぐいぐい引っぱられていって終着駅のようなところまで行き着いてしまう。その間の性の描き方があまりにも開けっぴろげで、性をどれほど好きなのかに関わらず、性のもつ浸透力にほとんど全面的に身をゆだねてしまう。また、ストーリー展開も意識的にこまやかさを排除して乱暴なほどで、コミック的だ。これが胸糞の悪さを私にもよおさせたのだが、現在の映画の基準からすればぎりぎりの過激さでもないのかもしれない。他方、解放感とは、みずからの性の欲望を解き放ちながら、同時に性の世界に強く執着する人々を知るところとなる神楽坂恵にもっとも顕著にあらわれている。神楽坂は男に肉体をもてあそばれたり、仲間とともに管理売春の組織に強引に入れられたりする。つまりは性にまつわる出来事をことごとく体験してしまうのだが、そのあとに解放感が奇妙さをともなっておとずれるのだ。ただし、やりたいことをやってしまった、もやもやが吹き飛んでしまったという意味での解放感であり「解決」という意味をさすのではない。セックスの密室性や、じめじめした空気、そういうものから隔たった場所に彼女は移動させられる。そこは明るい日差しがさしこむ漁港で、まるで何事もなかったかのようにあっけらかんとした風景なのだ。
  刑事の水野美紀は、廃屋でバラバラ死体となって発見された富樫真の捜査を担当することになる。富樫は昼間は大学講師であり、夜はホテル街で「立ちんぼ」をして客をとる売春婦という二重生活をつづける女性だった。(「東電OL殺人事件」がヒントになっている)水野もまた夫にかくれての浮気が現在も進行中で、事件を人ごととは思えない。一方、これとは最初は無関係に、平凡ながら人も羨む幸福な主婦生活をおくるのが神楽坂恵。作家の夫を仕事場に送り出したあとは夫の帰りを待つだけの退屈すぎる毎日で、「何かをしたい」という思いがつのってくる。そしてコンビニでのアルバイトののち、女性スカウトに目をつけられてグラビアモデルの仕事に誘われる。だがそれは上辺で、実際はセックスを強要させられての撮影だった。さらにさらにその仕事から足を抜けきれないまま、特に金銭目的ではなく売春をつづける富樫真と知り合うことになる。
  既婚女性が夫以外の男性と性関係をもつことはモラルに反するといわれる。また既婚であろうとなかろうと売春をすることも社会的な非難の的になる。近親相姦も無論同じだ。モラルに反するセックスを行う当事者も勿論そのことは知っているが、バレなければ何事もないとも高をくくるはずだ。そしてフォークナーの『八月の光』を思い出したが、性の深部においてはそういう社会的モラルの声は聞こえてこないものだ。セックスにいくらのめりこもうともセックスそれ自体の作用で当事者が道徳的に罰せられることはありえないのだ。むしろひとりの異性と関係を持つよりは多数の異性と関係を持ったほうが、多数の人を知ることになり、社会的な広がりをももつことができるという面白さがあるのかもしれない、この映画にはそういう主張もふくまれており、わからないこともない。
  問題は幸福とは何かだ。神楽坂恵は人からその生活を羨ましがられるが、当人にとってはそうではない。また水野美紀は浮気相手と夫とをうまく操縦しているつもりだが、気疲れがつのってきて逃避願望にとらえられる。セックスがだれよりも好きなのが富樫真で、母から淫蕩と呼ばれて心底から軽蔑され憎まれようと売春を止めようとはしない。神楽坂は富樫ほどセックスが好きではないようで、事件のあとだからではなく富樫のような道を突きすすむことができない。はじめに記した解放感とは、神楽坂恵が性の世界に没入したのち性の外側にふたたび浮上してきたときの私のみた印象だ。そのとき社会的モラルもふくめてようやく自己を客観視できる立場に立てたのではないか。これからどうすればよいかと、神楽坂は自問自答するようだ。自分もセックスは富樫ほどではないにしても好きなのにちがいない。だが何も頭に浮かべずにその道をすすんでいけばいいのか、わからないのだ。神楽坂も夫にバレてしまって(これが三流映画みたいな偶然)元には戻れないのだが、現実の生活の次元ではなくもっと抽象的な問いかけであるようだ。
  富樫が神楽坂に講義するところによると、言葉は肉体を持つという。「舌を出してみて」と富樫は言う。「舌」も「唾」も唾が「糸」を引くのもそれぞれの言葉が肉体をもっている。前後するが富樫は大学の講義で田村隆一の「帰途」という詩について語る。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という最初のフレーズが有名だが、私が読み取れば、言葉は肉体を持つとともに倫理性ももつという理解になるが、富樫は「性」という言葉を見事に肉体化したものの倫理性は「性」の内奥の空白によって、それを言葉から強引にそぎ落としたのだ。言葉の「肉体化」は人の世界を広げるが、それだけではじつに荒涼としているのではないか。つまりは私が記した「解放感」とはこの「荒涼感」と表裏一体のものでもある。
  園子音監督作品は『冷たい熱帯魚』につづいて2作目を見たが、いずれも全体的な流れがきわめてスムーズで心地よく、また力強く、このことが一抹の胸糞悪さをかき消してくれる効果をもつと思えた。
★★★★
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大沢在昌『新宿鮫Ⅹ 絆回廊』

絆回廊 新宿鮫?絆回廊 新宿鮫?
(2011/06/03)
大沢在昌

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  殺人罪で20年以上服役していた男が出所してきて、拳銃を手に入れたがっている。新宿署の刑事鮫島はこの情報をベテランの麻薬密売人で、かつ鮫島への情報提供者である男から入手した。その男は60代後半で、殺人罪であっても普通は10年余りで出所できるが、刑務所内での態度が非妥協的であったためにそれほどの長期刑を科されたという。男の狙いは何か。拳銃を欲しがっているからには特定の人物を殺すことが目的であるかもしれない。さらに拳銃を必要とすることは、相手の標的の人物もまた拳銃を常時携帯する人間であることを意味するのかもしれない。もしかするとその相手とは警察官ではないのか。情報提供者によると、その男はいったん標的を定めたらテコでもぶれない、どこまでも追っていくという凄みを体から発散させている。鮫島は例によって一匹狼的にこの情報を元に捜査を開始する。
  もう一人の主要な人物として陸永昌(ルーヨンチャン)という中国人がいる。彼は北朝鮮国境地帯からカンボジア・タイまでの中国大陸から大陸東南部までの広範囲の地域を行動半径として、売春クラブ経営のほか、高純度の麻薬を大量に買い付けて日本へ密輸出する。日本との行き来も頻繁で、新宿の暴力組織ともつながりがある。また残留中国人孤児2世、3世で構成されるの「金石」(ジンシ)なる組織があり、中国語と日本語が両方ともペラペラであり、普段はまったくの堅気の生活をしながら、いざとなればやくざ以上の暴力行使を厭わない。永昌とのつながりもある。最初に記した60代後半の男をはじめ、一見なんのつながりもないこれら人物や集団がしだいに一つのかたまりとなって犯罪の姿が浮き彫りになっていく。とりわけ最初の男と陸永昌とのつながりが最後には物語の核となる。
  大沢在昌の本をひさしぶりに手に取った。きびきびした会話の運びは相変わらずで、部分的に不明な点をその度ごとに明らかにしていくことで、全体像がおぼろげに浮かびあがってくる。省略を適度に効かせていることがスピード感にもつながっている。また新宿の小さな飲み屋があつまる街の一角の雰囲気などもこの作者独特のものかもしれない。歓楽のなかにある侘しさのようなものを私は感じ取ったのかもしれない。
  だが今回の長編は物足りなかった。これまで私が読んだ大沢在昌には犯人や被害者や周辺の人物への深い同情と哀れみが最後の部分で展開されて、それまでのスピード感とは別の深さと余韻を与えてくれたのだが、この『絆回廊』にはそれがかなり不足していると思えた。最初に記したいわゆる長六四(ナガムシ:長期刑をさす隠語)の男にしても古い人物像で、こういう人間を大沢は書き飽きているのではないか。また『金石』という集団にしても造形が足りない。中国残留孤児2世、3世の犯罪組織なるもの、もしかすると実在するのかもしれないと思わせる書きぶりではなかった。
    12:10 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

一命

 1962年製作『切腹』(監督・小林正樹、主演・仲代達矢)のリメイク版。リメイクという言い方が不適当ならば、原作が同じと言うべきか。『切腹』はビデオ録画で私も見たが、すごい迫力を肌で感じた。仲代達矢 が無理やりに切腹させられた娘婿・石浜朗の復讐を果たすために、当の大名屋敷井伊家に単身乗りこんでいって斬り合いを挑むという物語だが、仲代のすさまじい形相に驚かされた。なにかしら演技という範疇を超えたもの、復讐や暴力への本気度といったものを見せつけられた気がした。仲代達矢の代表作であるとともに日本映画のなかの名作でもあるだろう。テレビで映画を見ると映画館で見るよりも迫力が落ちるが、そのハンディは大部分吹き飛んでしまった。
  今回の『一命』で仲代の役を担うのは市川海老蔵で、仲代と比較するとその迫力にはとおくおよばないというのが第一印象であるが、むしろ狙いが『切腹』の仲代とはちがうことがわかる。同じ藩の亡き親友の息子である瑛太に頼みこんで娘・満島ひかりを嫁にしてもらった。ところが藩はすでに取り潰しにあって海老蔵も瑛太も浪人の身で貧乏生活。まもなく子供ができるが、子供も母も重い病気に見舞われる……。だが短いながらも幸福な期間があったことが丹念に描かれる。この家族の幸福と不幸のよりまざった時間への追憶の念が海老臓を動かしている。大名屋敷に乗りこんでいって斬り合うのだから復讐にはちがいないが、海老蔵の目指すのはむしろ斬り合った末の後追い自殺ではないか、そう思えた。過去への追憶にとらわれているという点では、鬼気迫る形相で多人数の侍に立ち向かっていった仲代と比べてはるかに内向きで、悪く表現すれば「軟弱」なのだ。
  瑛太が切腹させられたのは「狂言切腹」を逆手にとられたから。時代は江戸時代の初期らしく、幕府によって多くの藩が取り潰しの憂き目にあい、多くの武士が浪人となって落ちぶれた。そこで浪人武士のあいだで一時流行したのが「狂言切腹」で、大名屋敷を訪ねていって、将来の見通しが立たないからいさぎよく腹を切りたい、ついては玄関先をお借りしたいという申し出をするのだ。すると屋敷の側では同情してくれたり、事なかれ主義で金銭を与えて追い返すということが繰り返された。瑛太もそれを小耳にはさみ薬代欲しさにそれにとびついた。だが瑛太が訪ねた井伊家ではすでに「狂言切腹」の情報を得ており、財政面を懸念した家老の役所広司以下が「武士に二言は無用」と言って、残酷にも瑛太に実際に切腹をせまるという方針をとった。「武士道」を下敷きにして骨格がたいへんしっかりした物語だが、このあたりをふくめて物語の展開は『切腹』とほとんだ同じだ。
  眼を見張ったのはセットの斬新さだ。時代劇の武家屋敷というと、襖なら白地に松が描かれるのが通り相場だろうが、この映画ではそれを採用しない。たとえば客間の襖には荒々しい筆致で牛が描かれて、見る者(客人)の気分を動かすに十分だし、ほかの無地の襖もくすんだ藍色で、庶民の世界と隔絶したいかにも胡散臭い異様な空気をただよわせる。門構えにしてもこれまでの時代劇では眼にしたことのない鉄板の装飾がほどこされていていかめしい。それと対照的なのが海老蔵、瑛太、満島ひかりの暮らす貧乏長屋で、くずれかけた瓦屋根に草が生い茂っている。また蚊帳越しに対話する場面がうつくしい。闇の中で蚊帳の生地の藍色が冴えわたり、さらにその向こうに家族の誰それがいる。たよりない闇の中にそこはかとなく人の姿が浮かび上がる。たよりないと同時にあたたかい。この美しさに見とれて、私は会話の内容を忘れてしまった。この武家屋敷と貧乏長屋の対をなすセットもまた、物語の骨格同様しっかりしたものだ。
  最後に役所広司についてふれたい。この映画では武士道に対抗する言葉として「思いやり」が出てくるが、それを遮断するところに少し真実味が出ていた。『最後の忠臣蔵』の役所は「思いやり」がありすぎて嘘っぽかった。
 ★★★★
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