大洋ボート

飛べ!フェニックス(1966/アメリカ)

飛べ!フェニックス [DVD]飛べ!フェニックス [DVD]
(2011/04/22)
ジェームズ・スチュワート、リチャード・アッテンボロー 他

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   乗客十数人を乗せた旅客機兼輸送機が故障し、砂漠に不時着する。おり悪く無線機も故障したばかりで連絡がとれない。捜索機を待つことも考えられるが、不時着地点はコースから大きくはずれた場所であてにならない。飲料水も残り少ない。さあどうするかということで、乗客の一人で自称「飛行機デザイナー」のドイツ人ハーディ・クリューガーが奇想天外な脱出の提案をする。機長のジェームズ・スチュアートは半信半疑だが、飛行機の知識が自分よりもクリューガーのほうが上回っていることを認めざるをえず、スチュアートをはじめ、のこされたメンバーはこの提案に賛同し作業にとりかかる。
   ロバート・アルドリッチ監督が重点をおいて描くのは、生還がこころもとない砂漠にとりのこされた人たちの心の葛藤だ。ジェームズ・スチュアートは水の配給を差配することくらいしかリーダーシップを発揮する役割がなく、屈辱と自責の念にかられる。またスチュアートをはじめ敗戦国のドイツ人に運命をゆだねなければならないことにも、メンバーは腑に落ちない思いを共有する。年配のイギリス軍人は徒歩での脱出を提案するが退けられ、単独でこころみはするものの結局あきらめて舞い戻ってくる。さらにはこの軍人の直属の部下がアゴでつかわれることに嫌気がさしていて、異彩をはなっている。彼は怪我をよそおって上官の動向命令を拒否するのだが、いったん自分のなかで嫌気を肯定してしまえば怠惰は定着してしまう。強い光と砂しか存在しない砂漠が、この部下の男の目をつうじてあらためてやりきれなく映る。最底辺からの視線だ。しかし、スチュアートとクリューガーの確執をはらみながらの協力関係は最後まで維持される。共通目的がある、いっしょに仕事をするとはこういうことだなあとの頼もしさは感じられる。メンバー全員も心をひとつにして作業に励むが、自然で納得できる。
   もうひとつの重点の「奇想天外の作業」だが、ここは残念ながらおざなりにしか描かれない感がある。人間劇のわきの風景以上ではなく、ほんとうにこんなことができるのだろうかという視聴者の素朴な疑問に答えてくれる丁寧さはない。『大脱走』が傑作だったのは、人間劇もさるものの、捕虜収容所におけるトンネル掘りの様子が、参加者全員のチームワークのもとたいへん精細に描かれていて、あれだったらやれそうだなと視聴者に思わせることができたからだ。そこにはぞくぞくさせる快感があったが、本作にはそれはない。できるかできないかは結果(映画の最後)をみてくれ、ということだろう。
★★★
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中野京子『名画の謎・ギリシャ神話篇』

中野京子と読み解く名画の謎 ギリシャ神話篇中野京子と読み解く名画の謎 ギリシャ神話篇
(2011/03/09)
中野 京子

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  ルネサンス期以降の有名絵画にとりあげられたギリシャ神話について丁寧に解説してくれる。ギリシャ神話についてはだいぶ前にブルフィンチという人の本を読んだだけでほとんど知らないのも同然だ。また絵画もここにとりあげられたものは図版でしか見たことがない。興味はあるものの休日が少ないので、美術館までなかなか足を運ぶ気になれない。そういう私のような無知無学な人間にとっては格好の入門書であろう。マスメディアからとはかぎらないが、流布されたものをこちらが無意識に脚色してなんとなく抱いてしまっているイメージ、もしギリシャ神話や絵画に関してそういうものがあるならば、心地よく打ちくだいてくれる効能がこの本にはある。
   神話の神々は野放図なまでに好色で淫蕩であったらしい。たとえばヴィーナスという女神。私がまっさきに思い浮かべるのはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』(1483年頃)であり、うつくしい裸身と整った顔立ちからそれだけで清楚な印象をもっていたが、神話に記されたヴィーナスは異性にたいしてはおそろしく貪欲であったようで、ほかの有名絵画でもそちらのヴィーナス像にむしろ忠実であった。ティントレット『ウルカヌスに見つかったヴィーナスとマルス』(1555年頃)では軍事の神様マルスと同衾している最中にヴィーナスの正式の夫の鍛冶の神ウルカヌスに侵入される場面が描かれる。ウルカヌスという神はヴィーナスには似つかわしくないと思うほどに老齢で容姿も悪いのだが、それだけに妻の品行が気になって執念深く付けまわしたのかもしれない。性行為の最中の気配が濃厚にただよう薄布一枚(シーツ?)しか纏っていないヴィーナスの体を、その布をはがして真面目くさく検分するウルカヌス。ベッドの下にはマルスが物音で気づいたのか、あわてて身を隠すという構図になっている。ヴィーナスはまたアドニスという狩が得意な美少年にも夢中になったが、これもルーベンスやティツィアーノという画家が描いている。
   少し元に戻るが、ボッティチェリの『ヴィーナス誕生』や『春』に描かれたヴィーナス像は、中野京子によるとルネサンス期においてキリスト教とギリシャ神話の人文学者による統合が主張され、ボッティチェリがその説に賛同した反映であるそうだ。教会勢力によってそれまで異端教として退けられていたギリシャ神話が、中間勢力によってひきこまれたのだろうか。『ヴィーナス誕生』のヴィーナスは聖母マリアにみえなくもない気がするが。もっとも裸身のマリア像は存在しないだろう。
   だがこの、キリスト教とギリシャ神話というヨーロッパにおける二大文化の統合の試みは例外的で、ごく短期間で終わった。以後は当然のように、教会勢力は有名画家にキリスト教に題材をとった絵を依頼し、それにたいしてギリシャ神話を題材にと依頼したのは王侯貴族や大商人などの富裕層であったという。(無論、同じ画家が両方の題材を描いた例は枚挙にいとまがない)宗教的禁欲にたいする性の野放図なまでの解放が、絵画のうえで意図された。中野さんがいうようにそれは芸術愛好であるとともに、それ以前に娯楽として人間の自然的欲求としてあったのであろう。私も人にとって娯楽は必要不可欠と思う一人だからこういう絵画の歴史は好きだ。ティントレット『天の川の起源』(1575年頃)はその意味では、目にした人はやんやの喝采を送ったのかもしれない。好色の神ゼウスが人妻に産ませた子が乳を欲しがるが、実母は体調不良で出ない。そこで切羽詰ったゼウスは正妻のヘラを「眠らせて」その隙に赤子にヘラの乳を飲ませるという構図。その赤子はのちにヘラクレスと呼ばれる英雄となる。また、そのとき飛び散ったヘラの乳は天の河になった。

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シベールの日曜日(1962/フランス)

  古い映画だからか、主人公ハーディ・クリューガー(ピエール)が精神障害者として、どれだけ正確に恋人のマドレーヌをはじめとして周辺の人々に認知されているのか気になった。今日なら医師によってもっと情報がいきわたされるのではないかと思う。最後のほうでやっとこさマドレーヌの友人の医師らしき人物によって彼が「危険」であることが知らされるのだが。また矛盾させるつもりはないが、物語としては障害者というカテゴリーにあまりこだわるべきではない。「死の世界」に強く魅せられることは、私たちにもきっかけさえあれば十分にありうることではないかという迫真力がこの映画にはある。ピエールは記憶喪失者であり、社会的不適合に悩みながらも、善良な人として恋人をはじめ周囲の人からあたたかく遇せられ、見守られている。
  冒頭に粗く加工された映像があり、そこではピエールは戦争のさなかパイロットであり、田畑を爆撃しているところで、まもなく恐怖におののく少女の表情がアップされる。はたしてこの少女がピエールによって殺されたのかどうかはわからないが、彼の記憶喪失はまさにここから始まっているのだろうなと思わせる。(記憶喪失とは、一種の無意識の記憶忌避かもしれない)そして現在のピエールの前にあらわれる少女パトリシア・ゴッジ(フランソワズ)が戦争期の少女とかさなって、ピエールをある種の興奮にかりたて、わくわくさせる。これは、ピエールの周囲の人よりも視聴者がいちはやく知るところであり、ピエールとフランソワズの二人きりの親密な交際ぶりも、フランソワズが子供で、まして彼の過去のことは何も知らないだけにかなりはらはらさせるものがある。
  フランソワズは父に捨てられ修道院に入れられた。二人づれを夜の駅で偶然見たピエールは尾行し、日曜日には父と偽って修道院を訪れてフランソワズを外に連れ出す。日曜日に限っては外出が自由なようだ。フランソワズは父に捨てられたことを知っていて寂しがり、たちまちピエールになついてくる。視聴者から見るフランソワズは多感で多弁で、早熟した色気さえ感じさせる。それに教会の尖塔のうえの風見鶏をプレゼントしてくれなどと無理難題も吹っかけてくる。挑発的で、ピエールから落ち着きを奪うのだ。
  二人が訪れる池の風景がぞくっとさせる。フィルムの状態はあまりよくないが、葉を落とした落葉樹を鏡のように映し出す。二人の姿もくっきりと映る。やがて波紋が広がってうつくしく揺れる。この場面はのちにも出てくる。「サンザシの樹の下で」の水面は危険な香りはしなかったが、ここではそれが立ち昇る。神々しくまた寒々しくかつ神経的だ。ただしこれはピエールからのみの視線だ。フランソワズは屈託なく気に入って池を「我が家」と呼ぶ。ピエールも同感するが、のちの展開からするとそこは「我が家」でありかつ「あの世」であるのかもしれない。それまで散歩がてら木々や池を見ることを吸い込まれそうになると言って嫌がっていたピエールだが、フランソワズの言葉によって気持ちが反転したのかもしれない。映像的にはこの池の趣向を凝らした場面が映画の中心部で、ピエールの周囲の人々との交際を映す日常に大きく付加された非日常といえる。
  フランソワズは父に捨てられたが、その前には離婚によって母に去られている。肉親どころか親しい人に自分は捨てられるのではないかととの強迫観念から自由になれない。また先述したようにピエールが障害者であることなどまったく知らないから、ピエールになにかとせっつく。ピエールにとってもフランソワズとの交際は、いたわられ同情されるという普段の人間関係からは、はみでていて新鮮だ。しかしながら、ピエールは戦争による殺人の擬似的記憶におびやかされている。人を救うことは重く、倫理だけではできない、自信と力が必要だ。そこまでのピエールの遠さ、フランソワズへの遠さ。逆に人殺しをしてしまうことは弱い自分への逃げ込みであり「自己回帰」になるというのだろうか。映画はそこまで答えてはくれないが、余韻が私にそんなことを思い浮かべさせた。
  ★★★★

シベールの日曜日 HDニューマスター版 [DVD]シベールの日曜日 HDニューマスター版 [DVD]
(2010/06/26)
ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ 他

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サンザシの樹の下で

  チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』や『あの子を探して』は私の映画視聴歴においてうつくしい思い出を刻み込んでくれているが、今回の『サンザシの樹の下で』もまたそこにくわわりそうだ。前二作同様また泣かされるんだろうなあと思って足を運んだが、やはりそうだった。とくにラスト・シーンは涙の総仕上げみたいで、イーモウ監督の視聴者をたくみに誘導していく術中に見事にはまってしまって涙がとまらなかった。とにかくうつくしいのだ。若い男女のいわゆる純愛ものであるが、悲劇に終わるから涙があふれるのではない。恋愛それ自体が男女二人において、十二分に節度と余裕が維持されながら高まっていく、そしてつきあいがつづくなかで揺るぎない共通の確信へとつながっていく、この過程がたいへん豊かで贅沢な時間になっている。時間がまるでとまるようにそこではゆっくりと流れる。いつまでもそこにとどまっていたいと視聴者に否が応でも思わせてくれる。ここが中心で、のちに悲劇が訪れなくても十二分に曇った心を洗い流してくれる、それが本作の涙の本質であろう。
  1970年代前半の中国で文化大革命の時代、女子高生のチョウ・ドンユイ(ジンチュウ)は下放政策によって農村に派遣されるが、そこで青年ショーン・ドン(スン)と知り合う。スンはジンチュウに万年筆をプレゼントしたり親切にしたりで、ジンチュウもスンに好感を持ち、少しずつ相思相愛になっていく。だが呑気なばかりではない。この時代は多くの人が毛沢東派によって迫害を受けたが、ジンチュウの父も「走資派」のレッテルを貼られ自宅には不在で、母も当局から睨まれている。スンの母も迫害に苦しんで自殺したことが、二人の会話のなかで明らかになる。露骨な政治批判は二人の口からは発せられないが、二人とも肉親にたいして信頼を寄せていることがわかる。そしてその気持ちが、二人が恋愛関係に一歩ずつ近づいていくことの楽しさと自信とも通低していることが視聴者にはわかるのだ。そして二人を称えるチャン・イーモウ監督の「熱さ」がたいへん静かで美しい映像美となって溢出する。
  ジンチュウがはじめて農村にやってきたとき他の生徒や村人とともに小川をわたる場面がある。ゆるやかな流れで浅瀬に並べられた石を伝うのだが、同じところをすでに仲良くなったジンチュウとスンが渡る場面が少しあとにある。薄暗くなった時刻か、小川の流れはよりいっそう静かになってまるで鏡である。スンは自分のもった短い棒をジンチュウにもたせて先導するのだが、川面に二人の影が微動だにせず、ほんとうにくっきりと映える。映像が深みをにわかに創出して別次元の感をあたえ、わたしは吸い込まれそうな気になった。二人にとってもこの場面は別次元、新たな時間を自覚させるようで、ジンチュウは棒をもった手を自分からスンの手に近づけていって、握り合う。じつに自然な動作にみえる。勿論美しい。
  美しい場面はほかにもいっぱいある。スンが健康診断と称して入院したとき、ジンチュウは見舞いに行くのだが、病院に宿泊することがかなわず、門の前で一晩を明かす。病室から門前に座りながら、ときおり病室を見上げるジンチュウと、それを病室から見下ろすスン。このときのカメラの角度が二人それぞれの視線の角度に忠実で、見えはするが余裕をもって視界にとらえることができないという窮屈さがよく表現されていた。さらに翌日である。ジンチュウのために部屋を用意したスンは、そこにやってくる。恋愛とは体を求め合うことだ。手を握り、キスをし、さらに体の深部を探りあうという過程がある。二人とも十分にそれを意識しているが。乱暴ではなく、うつくしいばかりの節度がある。節度とは行為にいたるまでの「間」のことだ。ベッドがシングルなので二人では寝られないので、どちらか一人がベッドを使おうということに決めて譲り合うが、やがて二人でベッドに体を横たえることになる。スンは勿論男性だからシーツの下に手を差し入れる。いいときになってジンチュウはスンの手をぎゅっと握り締めて拒む。スンはそれ以上にはすすめない。二人が互いの目を見つめ、少ない言葉を交わしながら、留まっていてもうつくしいばかりの時間を、何かしらおそるおそる壊していくような、さらにそれによってあらたなうつくしい時間が現出するような、そんな気持ちで、わたしは固唾を呑んで見入っていた。恋愛と性愛の醍醐味だろう。
  のちにスンが行為を中断した理由が明らかになるが、つまりジンチュウの妊娠を恐れたのであり、スンはその責任をまっとうする自信がなかったからということで「節度」ばかりではないのだが、そういう後日談がなくてもこの場面は十分にうつくしい。
  チョウ・ドンユイという新人女優に見とれてしまった。みずみずしい。これでもかこれでもかというカメラのアップに十二分に耐えられ、しかもなお視線を吸収する力は若さとスッピンによるのだろう。『初恋のきた道』のチャン・ツィイーのような闇雲に相手に突進していく役柄ではなく、おっとりしたところがある。それにあどけなさに加えて老成した空気も感じられた。今後の活躍が期待されるが、たぶん少しずつ変化していくのだろう。本作以上の作品には容易にはめぐりあえないかもしれないが。
  ★★★★★

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