大洋ボート

愛の勝利を ムッソリーニを愛した女

  若い時代のムッソリーニの愛人となった女性が主人公の映画で、ジョヴァンナ・メッツォジョルノという女優の熱演が光る。視聴者を共感させ、ぐいぐい引っぱっていく。それにムッソリーニを演じるフィリッポ・ティーミも素晴らしい。攻撃的で偏執的で、冷酷な側面も併せもった政治家像を定着させて納得させる。
  イタリアの近・現代史については何も知らないが、映画によればムッソリーニは第一次大戦の頃は社会主義者であり、そのグループの有力なリーダーの一人であったらしい。例によってデモ隊と警官隊の激突があり、追われて逃亡するフィリッポ・ティーミ(ムッソリーニ)を目撃してジョヴァンナ・メッツォジョルノはすぐさま彼をかくまうという行動に出る。彼のグループに対する政治的支持がそうさせたのか、だがそれがメッツォジョルノの一目惚れの始まりであり、恋の地獄へと突き進ませる。二回目の逢瀬のときだったか、メッツォジョルノははや肉体をティーミにさしだす。政治的煽動者のもつ攻撃性は獣の飢えの匂いを発散させる。それが異性にはまた凡人にはないセックスアピールとして肉体に訴えかけてくる。甘く激しく上目遣いでティーミを睨みつけるメッツォジョルノ。それはティーミの発散するオーラの「真実」を一刻も漏らさず吸収しつづけていたいというはげしい本能の表れだ。むしろ女性=雌としての本能をみずからにかきたてるのだ。ティーミはまもなく、のちにファシストと呼ばれる政治的立場に転向し従来の居場所を失うが、メッツォジョルノは自分の店(服飾店だったか)を処分して全財産を彼に提供するのだ。メッツォジョルノが先導する二人の急接近には時間の間隙がまったくない、直情径行というのか。そして視聴者も普段の分別のようなものを忘れてものすごく共感させられる、もっと前へ、もっと奪い取れというふうに。のちにティーミが既婚者であることがわかっても、メッツォジョルノは入院中のティーミのもとへ押しかけていって、付き添っている妻に食ってかかるという場面もある。妻の立場を尊重し優先させるのが社会であり法律でもあるのだが、そんなことをメッツォジョルノは食い破ろうとし、視聴者もまた少なからず彼女の肩を持ってしまう。
  セックスの場面でのフィリッポ・ティーミも印象に残る。ゆっくりとした抽送運動をしながら、とおくを見据えるような眼差しをするが、ここには政治家としての野心がぎらぎらと光っている。そこに棚からぼた餅式に女性を手に入れてしまったという「悪」=後ろめたさを呑みこんでしまう快感もかさなる。のちにロシア革命を写すニュース映像に接して「独裁者レーニン」という言葉に打たれるティーミだが、野心実現のヒントを彼はみる思いがする。この二つの場面は見事に符号があっている。
  後半部はフィリッポ・ティーミのムッソリーニは退いてニュース映像のなかのムッソリーニとなる。顔は似ていないが、これは気にならない。ジョヴァンナ・メッツォジョルノにとってはもはや愛人でも一人の男でもなく社会的存在にまでなってしまったという画然性があるからだ。教会で結婚式まで挙げた二人だが、ムッソリーニが独裁者にのしあがってからはたぶん彼の力によって精神病院に幽閉される。メッツォジョルノのなかでも彼のことは意識からとおざかり、そのかわり彼との間にできた一人息子への思いを沸騰させるのだ。その眼差しは前半部の挑戦的なそれとはうって変わって、やつれはてながらも柔和で包み込むようなやさしさがある。一人の女優が一人の役のなかで連続性を保ちながら、一人二役を演じるのだ。対応するかのように息子役も文字通りフィリッポ・ティーミの二役。
  俳優陣はこの二人がもっぱらで、エキストラも多くなく、野外と室内のセットもそれほど目立つものはなく、当時のニュース映像や映画にかなり依存している。つまりは低予算の映画だが、そのことで映画の価値が減じるのではなく、補ってありあまるほどの女優と俳優二人の力が結実している。

★★★★
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カフカ「判決」「流刑地にて」

変身ほか (カフカ小説全集)変身ほか (カフカ小説全集)
(2001/06)
カフカ

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  「わしはいま、おまえに死を命じる、溺れ死ね!」「判決」の主人公ゲオルグは父にこう宣告された途端、橋から身を投じて文字どおり溺れ死ぬ、自殺してしまう。あまりにもあっけない、父の言葉にたいしてあまりにも従順すぎる死に方を選んでしまう。こんなことってほんとうにあるのかいな、と思って読者も面食らわされる。私は自殺を真剣に考えたことはないが、決意と実行との間にはためらいや迷いが介在するのではないか、実行までの間にどれほどかの時間が差しはさまれるのではないか、そんな感想を抱かざるをえないのだが、こんな死との異常なまでの近接はカフカの小説の底流に少なからずある要素だ。「審判」においては冤罪に巻き込まれてKはそれを晴らそうと動き回るが結局はかなわず執行者二人によって無残に処刑される。「変身」のグレゴールは気色悪い虫に変貌し、家族に毛嫌いされたすえ衰弱死する。いずれも自殺でなくても天寿をまっとうできずに早死にしてしまう運命にあるのだ。
  「判決」のゲオルグが自殺してしまうのは父の言葉によって父との信頼関係が壊されてしまったからだ。それを知るにいたるまではゲオルグは幸福感に酔い痴れていさえする。何年か前に母に先立たれて父は憔悴のどん底に突き落とされたが、かわって自分が家の商売を受け継ぎ以前にもまして繁盛させることができ、規模も拡大できた。また資産家の令嬢との婚約も整った。気がかりなのは一旗あげようとして何年か前にロシアにわたって商売をはじめた友人のことだ。手紙のやり取りをつづけているが、どうも友人の商売は左前らしい。故郷に戻ってきてはどうかと進言してみたいが、実際にもどってこられてもゲオルグと比較して彼は屈辱に苦しむのではないか。よけいなお節介と受け取られるのではないか。そんな気遣いがあってゲオルグは自分の成功のことを友人に知らせなかったのだが、婚約者とも相談してほんとうのことを告げるのが友情にかなうのではないかと思い直し、婚約の件を友人に知らせることにした。そしてそのことを話すついでに父の部屋に足を運ぶ。
  だが父の態度は話すうちに異常極まることが明らかになる。ゲオルグは父が朝食を食べ残したのを見て、父の不健康をおもんばかる。いつも店で顔を合わせ食事も同じ部屋で摂っているのだが、父の部屋のうすぐらさにあらためて気づいて自分の明るい部屋と交代することを提案する。そして休ませるために重い体をもちあげて椅子からベッドにまで運ぶ。だが父は息子への恨みが積もりに積もったかのように突然罵倒の言葉を吐き散らすのだ。伴侶に先立たれて滅入ってしまったのか、そういう自分を息子はちっともやさしく扱ってくれなかったとでも思うのか、婚約者もえて自分を尻目に幸福にひたろうとすることへの僻み根性か、わしはこんなに元気だと、ベッドに立ち上がって足を蹴り上げる仕草さえ見せびらかす。ゲオルグにとっては青天の霹靂で、とりわけロシアにいる友人と父がゲオルグに内緒で連絡を取りあっていたとの暴露はゲオルグに衝撃をもたらす。友人にとってはゲオルグの手紙はたとえ良かれと思って記したことも嘘のかたまりとしてしか受けとられかねない。友人との手紙上でのいきさつも商売に励んだこともゲオルグは良かれと思ってなしたことなのに、それをことごこく父に否定され罵倒された。その日そのときになってはじめてゲオルグは父の態度を一挙的に知らされるのである。そして間髪をおかずの自殺の決行となる。冒頭に記した父の言葉をもうすこし広げて引用するとこうなる。
  

「自分のほかにも世界があることを思い知ったか。これまでおまえは自分のことしか知らなかった!本来は無邪気な子供であったにせよ、しょせんは悪(わる)だったわけだ!——だからこそ知るがいい、わしはいま、おまえに死を命じる、溺れ死ね!」

  ゲオルグから見て、はたしてこれが父の正常な姿なのか、疑ってみても不思議ではないが、そんな間を惜しむように橋へ駆けていって飛び込んでしまうのだ。ドッキリカメラで嘘を言いふらされてお人よしにもそれを真に受けたかのような印象も残る。だが、人間関係における信頼の念を一方的に破壊されてしまったとゲオルグは本能として受け取るしかなかったようだ。そしてそういう残酷さのなかに滑稽さやユーモアと呼ぶべきものが色濃く残る。これは何か。
  カフカは創作上のモチーフとして死を抱え込んでいた。生前病弱だったこともあろうし、そうでなくとも社会的に蔓延する死の契機に着目しつづけた。だが死は突然やってくるもので私たちは自分の死を認識できないのだ。死んでから現状報告はできないから、せめて死の直前になってはじめてその切迫感に支配されて「死のリアリティ」を記すことができるのかもしれない。だからそれ以外の生の大部分においては私たちは死との距離を保っている。むしろこの距離に身をおくことによって私たちは十分に死を考察する余裕をえるのではないか。つまりは実際の死の「リアリティ」や実際上の死への欲望よりも作家は創作欲の噴出としての死にのめりこむのだが、やはりここには実際の死とはちがうという認識があるので、照れや空想癖をどうしても引きずってしまいユーモアとなって滲みだすのだ。カフカに自殺願望がなくても自殺を急ぐ青年を書きたいという創作欲との矛盾。やってしまいました、なにもわからないが書いてしまいましたという苦笑いであり、爆笑かもしれない。自殺は毀損した人間関係への唯一ではないがひとつの答えだろう。自殺しないことが大半の答えかもしれないが創作欲として自殺が選ばれるのだ。
  大部分の人は死にたくはないと思うだろうが、もしかしてたまらなく死にたいという人間がいるのかもしれず、それを創作として書く。「死にたくない」のは人間の根源的欲望でありまた倫理でもあるだろうが、創作という世界ではそれを無視して自由になって「死にたい人間」を書く。創作の欲望とは人生上において正当なのか、正常なのか、作者自身には即時的にはわからずとも創作として突破する。それが成功したとき私たちはきらめくような奇観に出会う。

  「流刑地にて」も「判決」よりも少し長いが、同じ構造を持つ作品だ。外国から招待状をもらった「旅行家」が処刑場に立ち会わされるという話で、処刑を執行する将校の自慢たらしくも残酷でオタクっぽい説明にながながとつきあわされる。将校は処刑を実行する機械を愛してやまない。囚人をベッドに縛りつけて上部の歯車箱で操作して《馬鍬》という針を12時間かけて身体に刻み込んでやがて死に至らしめるという仕組みの機械だ。その間《馬鍬》は囚人の裸体に罪状を書き込むという凝りようで、前司令官が開発した。前司令官はすでに死去したことが最初からあきらかになっているが、話し込むにつれて将校は前司令官の部下であるばかりか、一心同体なほどに前司令官に惚れこみ、また今も機械と死刑執行を愛してやまないことがわかる。高級将校をはじめ大勢の観衆をあつめての昔日の公開処刑を語るさまは、過ぎ去った栄華をなつかしむ様子だ。だが同時に将校は新司令官によって自分や当の処刑方式が冷淡にあつかわれつつあることも日々知らされている。そこでながながとした自慢話につれて将校自身と処刑方式を「助けて」くれるように、つまりは新司令官も将校も出席する会議で旅行家に擁護する意見を語ってくれることを依頼するのだが、旅行家はあっさりと断る。するとここでも急転直下、その答えを聴いた将校は囚人を放免しみずからが死刑台に上る、自殺である。
  「判決」が心やさしいゲオルグにそって書かれるのにたいして「流刑地にて」では傍観者としての旅行家が、いかにも時代遅れで残酷で悪趣味な将校の語りを冷静に聴きながすというわずかなちがいがあるのみだ。ここにも信頼を置いた人間関係の消滅がある。すでに前司令官との関係の絆が断ち切られた将校がわずかな回復の望みを外国から来た旅行家に託したのちに、それもついえて命を絶ってしまう。あれれ!と思わせる早さは「判決」と同じで、薄気味悪いギャグの味わいが付きまとうのも同じだ。

    15:59 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

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  新左翼過激派の運動が盛んだった1960年代後半から70年代初めにかけてが背景。大手新聞社勤務の妻夫木聡は週刊誌部門に配属されて少数過激派のリーダー松山ケンイチを知ることになり、取材対象としてかかわりながら交流を深めていく。その週刊誌は過激派の動向をとりあげることが多く、妻夫木もまた一種シンパシーを抱いていた。運動に参加しないことへの後ろめたさをもちながら。やがて松山は自衛隊からの武器奪取作戦を計画実行するが、実行部隊の学生があやまって自衛官を殺害してしまい、松山もその責任を追及されて長期の懲役刑を課される。実在の事件がモデルとなっていて私もよくおぼえている。殺された自衛官も気の毒だったが、ああこの男(松山ケンイチのモデル)の人生も終わったなあと、同情と軽蔑の念を抱いたものだった。だが私も当時は過激派の高校生活動家として動き回っていたから彼らの執着ぶりはわかる気がした。私はたいしたこともないチンピラ活動家であったが、主観的には一生懸命だったのであり、運動から身を引いたのちにもそのときの体験は謎をふくみながら尾を引いた。また私の場合は60年代のみの活動歴なので自衛官襲撃のような厳しい行動がさしせまることはなく比較的平穏に過ぎたのだが。
  当時のことをあらためてふりかえることにもなったが、映画としては全体に静か過ぎるところがあって乗っていけなかった。例えばである。松山は妻夫木にたいして「4月蜂起」計画を明らかにして妻夫木もそれを記事にするが、計画の日を過ぎても何も起こらずまったくのガセネタであったことが判明する。さらに松山は妻夫木に偽名を使っていたこともわかる。松山にすればガセネタでも世間に関心を向けさせ刺激をあたえるということで、有名週刊誌に記事が載ることは目的に沿うものであった。偽名は警戒のために正当だということだろうか。だが妻夫木にしてみればだまされ見下されて利用されたのである。怒りを爆発させて当然と思える場面だが、怒りの表現はあるにはあるが奇妙に見えるほど抑制されている。ときにはぶつかりあうのが人間関係だから不自然だ。ここで二人は絶縁するのではなくさらに友情に近いものに変わりゆくのだが、それにしてもと思わざるをえない。たぶん山下敦弘監督の映画スタイルへのこだわりがそうさせているのだろう。セリフの「間」が几帳面なくらい固守されているのもそれにあたる。セリフが吐き出される前の「間」、さらにそれに相手が応える直前の「間」。これが終始一貫出てきて、私にすれば鼻につく。考えながら立ち止まりながらも行動に行き着いたのだと言いたげのようだが、結局は武器奪取作戦を実行してしまうのだから「間」は停滞や空白やいくばくかの思考の切れ端を表現するものにしか過ぎないのではないか。そんなことはないと思うが、あの時代における、ありえたかもしれない別の運動の可能性をそこに代替させたいのだとしたら貧弱だ。
  松山ケンイチが作戦を実行してしまう心の傾斜はわかる気がする。当時の私もふくめて新左翼過激派は自分自身が実行の舞台にあがることを何よりも重視した。一種の偏向的傾向であったが、非参加やそれにちかい形での協力は無意識に見下された。だからガセネタや偽名使用をなじられるのには痛痒を感じないものの、松山は妻夫木にたんに活動家を騙る人物とみなされることをなによりも屈辱として受け止めたのだろう。だからこそ実行は勿論のこと、松山は妻夫木に自分の正体やのちには犯行のくわしいいきさつをうちあけることにもなる。実行にくわわることで松山ははじめて活動家、革命家として本物であることを自他に喧伝したかったのだ。実行部隊が倒れた自衛官を尻目に律儀にも「赤報隊」の赤ヘルメットやアジビラをばら撒くことも組織の存在を知らしめ誇示するためで、ただ犯行の成果をえたいのみではなく、これも当時の傾向だった。特に松山の率いるような小さいグループでは派手なことをやらかしてマスコミや世間にインパクトを与えたかったのだ。
  妻夫木はスクープをものにしたいとの思いで松山に闇雲に近づいていく。宮沢賢治やギターによる弾き語りなど共通の趣味も発見して取材対象者という以上の親近感をえたつもりになるが、これは危うい。記者としてのはやる気持ちが「友情」の形成を錯覚させたのかもしれないからだ。過激派をほんとうに好きだったのか、彼らへのシンパシーとは妻夫木にとって何なのか、どうも妻夫木はその自問自答をおろそかにしたのではないか。だがここでも映画は食い足りない。やはり山下監督の技法へのこだわりがそうさせるのか、妻夫木聡はそれほど喜びも表現せずまた愚かしい印象も伝わらない。たんにストーリーとしての通過点にしか見えない。結局妻夫木は松山に近づきすぎた結果警察にも連行され、新聞社も辞めざるをえなくなる。
  妻夫木が号泣する場面で映画はほぼ終わる。フーテン学生を潜入取材したときに知りあった男と偶然に再会したときだ、彼は居酒屋を営んでいて妻夫木は知らずにそこに入った。それをきっかけにして、その時代の全体がおそらく妻夫木に去来したのだろう。記者としての職業的活動も過激派メンバーとの交流も終わった。やりたいことをやるつもりだったのが、翻弄されるままに終わってしまったということだろうか。ひとつの時代と彼の若さもともに。
        ★★★
    23:53 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

菅首相の詭弁

  周知のとおり、菅首相にたいする不信任案は昨日否決された。昨日の午前の段階では可決される見通しが大きかった。サンケイ新聞もそう書いていた。ところが午後の代議士会において、菅首相が退陣表明を意味するかのような演説をぶったために小沢派、鳩山派の議員の大半が不信任案賛成から反対に転じて、否決となった。
  本音では政権与党の地位にながく居つづけたいのだろうか、そうならば民主党の面々は胸を撫で下ろしたにちがいない。
  そう思った矢先、今度は菅があれは退陣表明ではないと言い出した。私もてっきり退陣を意味するものだと、昼休みの時間に菅の演説を聞いていて解釈したのだが、ちがった。菅によれば「若い世代に責任を引き継いでもらう」と言ったが「復興と原発の冷温化にメドがつくまでは責任を担う」とも言った。(本日の参議院予算委員会での答弁である)それ以上のことは言っていないというのだ。前者は退陣を指すと思われるが、後者はしばらくの続投を指すということだろうか。つまりは退陣表明ではなく、退陣と続投の両にらみとうけとればよいのか。菅にすれば、いままでは続投一辺倒の意思表明しかしなかったが皆さんがうるさいので譲って、退陣も視野に入れることにしたということだろうか。退陣表明は皆さんの勝手な解釈と言わんばかりだ。
  しかし、こういう言葉による目くらましはよくないな。ただでさえ、政治家の言葉は美辞麗句をならべながらも抽象的で実質がないことが多い。言質をとられないための用心もあるだろうし、最終的に決定されてもいないことを決定したかのようには言えないだろう。希望に沿うような言い回しをしながらもあくまでも「努力目標」「検討中」などと答える。やむをえない部分があるにしても、そういう弁論術に長けた才を転じさせて悪用してはいけない。不信任案可決回避のためにひねりだした窮余の策だったのか。あるいは自分ひとりのためというよりも党のため、という言い分もあるのかもしれない。しかし、菅は代議士の面々が自分の演説を「退陣表明」と受け止めるであろうことを明らかに想像できた、まえもって知りえたのだ。人と人との話し合いでは常識が作用するので、そういう常識にもとづいて代議士会での菅の言葉をだれもが退陣表明と受け止めたのである。つまりは、菅は常識(良識)に唾したのだ。鳩山前首相などが詐欺師呼ばわりするのは当然である。
  政治家の嫌な側面を見せつけられた。これでまた民主党内でのごたごたが再燃するだろう。なるようになればいい。
Genre : 日記 日記
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