大洋ボート

ショーシャンクの空に(1994/アメリカ)

ショーシャンクの空に [DVD]ショーシャンクの空に [DVD]
(2010/04/21)
ティム・ロビンス、モーガン・フリーマン 他

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   スーパーヒーローが活躍し仲間を引っぱっていき、周辺の人々をも巻き込んでいくという、いかにもアメリカ映画らしい映画。ティム・ロビンスは妻とその愛人を殺害したという嫌疑をかけられて終身刑となる。無実であったが、彼はまもなく傷心から立ち直り、図書館の充実など囚人の待遇改善をはかる中心人物となる。刑務所の所長や看守の面々も彼を厚遇する。ロビンスは元銀行マンで、彼らの確定申告やら所長の公共事業にまつわる裏金作りなどにその豊富な知識を生かして手助けしてやるからだ。知力だけではない、詳しい事情は忘れたが、看守と喧嘩をして懲罰房に収監されるが、そこでもへこたれない。知力だけではなく体力、闘志ともにありえないほどに充実している。まさにスーパーヒーローであるが、一見弱弱しい風貌のティム・ロビンスだけに映画の進行につれてのその変貌ぶりが痛快さをもたらしてくれる。ただし、最後のほうではそのヒーローぶりがあまりにも現実離れしてしまってお伽話みたいになってしまうが。
   印象的だったのは、モーガン・フリーマンが40年ぶりかで仮釈放されて娑婆の生活をはじめるところだ。刑務所の生活ではその一挙手一投足が看守の命令と規則によってがんじがらめになってしまっている。そこから解放されたのだから視聴者は、フリーマンはほっとしたのだろうなあと感慨を受けるが、フリーマンにとっては逆だ。「自由」にどう対処すればわからずにうつ症状に陥ってしまう。小売店で勤務する最中にトイレに行きたくなって上司に当たる男に許可をもらおうとするが、その男は許可は必要ないと当たり前に応える。うろたえてしまうフリーマン。「自由」が、生涯のほとんどを刑務所暮らしでつぶしてしまった男にとっていかに負担になるのか、また刑務所の仲間もそこにはいないから、それまで体験したことのない孤独感にも苛まれるのでもあろう。駆け足的にしか映画は触れないが、むしろ映画が終わった後、ここは考えさせられるところだ。公的に世話してもらったであろう部屋には、先に仮釈放された先輩格の男が少し前まで住んでいた。そして同じくうつ症状になって、壁に自分の名を刻んで首をくくった。フリーマンも同じことをしようとするが、そのときにティム・ロビンスのことを思い出して思いとどまる。このときにはティム・ロビンスはくわしい記述を避けるがすでに刑務所にはいずに「自由」を満喫している。「偉大」にみえるヒーローは果敢に行動し見事に結果を出すことによってヒーローたりうる。ヒーローについていこうという気を周りの人間に起こさせる。そういうところがいかにもアメリカ映画だと私が言いたい所以だ。だからヒーロー不在の感覚が蔓延すれば、その待望論が叫ばれる。「希望を持つことは禁物だ」とかつてモーガン・フリーマンは自分にもティム・ロビンスにも言い聞かせていた。10年ごとの仮釈放審査をことごこく却下されたからで、そんなフリーマンにロビンスは「希望」をプレゼントしたということだ。
   ニコラス・ケイジ主演の『ワールド・トレードセンター』と共通するものがある。瓦礫の下に埋もれたケイジの夢の中にイエス・キリストが出現する。イエスがそのときにケイジに生還の希望を与えたとするならばイエスの幻もヒーローである。ただこの場合は、日本人のほとんどはイエスをそれほど身近には感じられない思いがして不気味であるが。
   ほかには刑務所長や看守の悪人ぶりがよく描かれていた。一見、ロビンスや囚人と彼らは和気藹々の雰囲気をしだいに形成するが、自分たちの身が危うくなると手のひらを返したように冷酷になる。ロビンスの無実の有力な証人が囚人として事件から10年以上もたって入所してくるが、彼を所長以下がどうあつかったのか、彼らはまったく迷いの入る隙なく即断する。
   ★★★★
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道尾秀介『月と蟹』

月と蟹月と蟹
(2010/09/14)
道尾 秀介

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  テレビやゲームソフトに入りびたるのではない、たとえばソフトボールのように自発的に野外に集まってするスポーツの類いでもない。日用品や廃品を使って彼等はそこに独自のアイデアと創意工夫をくわえて組み合わせ、オリジナルの遊びの世界を形成する。そういう子供の遊びの一種閉鎖的な世界がこの作品ではよく描かれている。とくにここでは海や山など手付かずの自然が相手にされているので都会育ちの私のような読者にとっては新鮮である。またかつてそういう遊びに興じた人にとってもその手ごたえのようなものは懐かしさを喚起するのではないか。主人公の少年二人にとっても誇らしい気分だろう。
  だがこの物語は牧歌では終わらない。しだいに切羽詰ったものに遊びも変容してくる。彼らが学校や家庭の親など周囲の世界になじめないものを日々体感しているからで、その感覚がしだいに増していくなかで、遊びも子供なりの真剣さを帯びてくる。気分的な解放区であった遊びの世界はしだいに大人にたいする抜き差しならない反抗を決意させるよすがとなるのだ。また同時に同じ遊びを持続させ参加することで少年二人の友情も深まっていき、二人でともに「危ない橋を渡る」ことにもなっていく。遊びが宗教的密議にまでになるのだ。
  慎一は小学五年生で、鎌倉市に近い海辺の町に何年か前に引っ越してきた。父を癌で亡くし母と父方の祖父との三人暮らし。春也というクラスメイトも引越し組で同じ境遇によって彼等二人は自然に友人になっていく。つきあうにつれて春也が父の家庭内暴力に日頃から悩まされていることを知るようになる。また鳴海というクラスメイトの女子がいてやがて三人で一緒に遊ぶようになる。鳴海も慎一とおなじく片親であるが、母が死んだ原因が慎一の祖父の漁船に同乗したさいにフェリーと衝突して海に投げ出されたことにある。彼女は大学で魚類の研究にたずさわっていて、頼んでそのときはじめて慎一の祖父の漁船に乗せてもらった。祖父は命を取り留めたが片足の膝から下をもぎ取られた。こういう事情のもとにある慎一と鳴海の関係をクラス全員が知っている。クラスには慎一をいじめはしないまでもどことなくとおざけたい気分が蔓延している。なかには慎一の机に嫌がらせの手紙を隙を狙って差し入れる子供もいるが。こういうなかで別の物語が動きだす。たがいに独身の身分になった慎一の母の純江と鳴海の父が接近しはじめる。慎一も鳴海もやがて勘づくようになる。
  慎一はしだいに鳴海の父に憎しみを向けるようになるのだが、慎一と春也の遊びの世界を記しておかなければならない。彼らはペットボトルを利用して罠にし、浅瀬に沈ませてヤドカリなどの生き物を捕らえることに成功するが、これが彼らの独自の遊びのはじまりだ。子供の遊びはどうやら大人の目から隠れたところで盛んになるようで、ヤドカリをキーの穴に乗せて下から百円ライターで熱してヤドカリの身を剥き出しにしてしまうことを思いついてするが、これも廃屋の裏手の山に接した狭い空き地でする。ペットボトルの罠を「ブラックホール」空き地を「ガドガド」と呼ぶのも子供らしい秘密と親密さがこめられている。言葉をごく狭い範囲の隠語として発明するのも子供の好きな領分だ。
   さらに二人は慎一の祖父に連れて行ってもらった鎌倉は建長寺という寺の裏山にある十王岩という浅く彫刻がほどこされた岩に刺激される。その付近では鎌倉時代に罪人が処刑されたといい、強風が吹くと悲鳴に似た音が響きわたって不気味さをかきたてる。二人は「ガドガド」の山の急斜面をよじのぼって中腹に十王岩を思わせる岩を見つけ、そこを遊びの根拠地とする。雨水のたまった岩のすぐ近くのくぼみに水をかき出したあとにビニール袋にいれた海水と生け捕りにしたヤドカリを入れる。さらには岩全体をシュロの紐やビニールテープをつかって手製の注連縄とする。貝殻から追い出したヤドカリを粘土に固定してもういちどライターで燃やす。これが彼らの祈りの儀式だ。ものすごく手が込んでいて急斜面をのぼるだけでも息が切れるほどの疲労をもたらすが、少年二人はとりつかれたようにそういう遊びをつづける。もうそのころには慎一は母と鳴海の父が男女関係に発展していることを知っているのだが、現実の世界が苦しくて嫌なものになればなるほど、子供なりに自分でもわからないほどの執念を遊びの世界に投入してしまう。子供時代にここまでの体験は私にはないが、大人が隠密に行動することによってその分だけ子供をとおざける、大人はたとえば結婚が決まったならその段階で子供にも打ち明けるだろうがそれまでは言えない。大人の分別だろう。慎一はそれをなんとしてでも途中の段階で壊してしまいたいと思う。そうならばその思いを直に母に訴えればいいのではないかとも思えるが、やはり子供なのか。秘密にしつつもその思いを絶対のものにまで高めていく。そしてその思いを保障してくれるのが岩の神様、ヤドカリ=ヤドカミ様だ。そこを根城にして慎一は独りよがりな反逆の確信を得て地上に舞い戻る。
   神様を急ごしらえにでっちあげてみずからの破壊的な行動を許してもらう。子供の世界というよりももっと広く新興宗教的な世界だろうか。ただ子供らしいところは宗教にまつわる言葉があまりにも少ないことだ。また慎一の母にたいする思いがつよくて自然ならば、闖入者としての鳴海の父への憎しみはやはり自然で健全であるといえるだろう。
   もっともスリリングなのは慎一の鳴海にたいする思いだ。鳴海は父と慎一の母純江との結婚を受け入れる用意があるようだ。前半部になるが、鳴海も父と慎一の母との関係を疑っていて純江と慎一の家庭を知るためにたずねてきて食事をしていく。それがきっかけになって晴海も少年二人の遊びに参加するようになる。慎一は鳴海が好きで内心小躍りするが、それもつかの間、やがて鳴海は慎一よりも春也に好意を寄せるようになる。ここで慎一は子供なりの嫉妬地獄を体験する。慎一の主観に沿って書かれているので、晴海がどういう心の動きに見舞われたのか読者にはわからないが、もしかしたら晴海は慎一の父への憎しみを勘づいたのか、それともやはり父の結婚ににわかに反対しはじめたのかもしれない。すると意図的に慎一に冷たく当たることも子供であっても十分ありうる。それとまた不思議なのが、慎一のなかで晴海の父にたいする憎しみと晴海への好意がいささかの疑念もなく同居していることだ。将来を視野に入れれば必ず障害が発生する思いなのだが、なにかしらふわふわした気分に支配されている。遊びの別世界にひたりこむことによって夢想が自然に抱かれるのだろうか。もっとも子供といわず馬鹿な大人であってもこういう夢想にはしばらくは浸れるのだろうが。また好きな気持ちが曖昧であっても嫉妬だけは強烈にはたらくところは子供でも大人でも同じだろう。ただ慎一は小学五年という設定だから嫉妬がいびつな肉欲に発展することはない。
   子供の世界を描くことはむつかしい。いたるところで大人の言葉に置き換えなくてはならず、下手をすれば小学5年ではなくもっと年長の人に知らずになりかわってしまうこともあって、この小説にもそれを感じずにはいられなかった。子供の夢想にはそれほど言葉は詰まっていはいないのではないか。また物語にエンジンがかかるのが少し遅い気もした。だが私もちょっとくらいは齧ったことのある子供の世界の暗闇を思い出させてくれて、好感が持てた。
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孫文の義士団

  替え玉の孫文を乗せた人力車が香港の街を進む。これを清朝の命を受けた暗殺団がビルの窓から矢を次々放つ。あるいは銃弾、爆弾、あるいは地上の部隊が剣やカンフーで襲いかかる。この連続するアクションシーンがたいへん見ごたえがある。たとえばドニー・イェンというアクション俳優が屋根つきの歩道を出店のテーブルをつぎつぎに跳躍して疾走する。まるでエネルギーの塊である。うならせる。ワイヤーが使われていることは明らかだが気にならない。ドニー・イェンの肉体の力が抜群でその延長線上にワイヤーが使われているようにみえて決して不自然にはみえないのだ。それに古色蒼然とした20世紀はじめの香港の町並みも薄汚れてごたごたした雰囲気がよくでている。3階、4階くらいのビル郡がひしめき合うように道の両側に肩を並べて窓が無数にあるから、敵がどこにひそんでいるのかまったくわからない。実際の町並みを借りたのか、野外セットなのかはわからないが、後者だとすると大規模で、素晴らしい出来映えだ。
  だが惜しいことにはアクションシーンにおけるリズムがときどき停滞する。これは主だった護衛の武人がつぎつぎに討ち死にした際に、彼の名前や生没年月日が表示されて哀悼の意が表されるからだが、この時間が長い。どくどくと流れる血を体感している視聴者はそれをそのまま持続させてもらいたい、ハイテンポなリズムをそのままに刻んで突っ走ってもらいたいと願うので、それを裏切られた感覚に陥る。束の間だらけてしまうのだ。こういうことを考えると昨年見た三池崇監督・役所広司主演の『十三人の刺客』がいかに素晴らしかったか、あらためて痛感される次第だ。
  アクションシーンは後半に大部分が集中している。前半から後半にかけては香港に上陸する孫文をいかに守るかという香港の実業家や新聞社主宰による準備や、やがて孫文の護衛を買って出る人たちの人間劇がもっぱらだが退屈はしない。とくに実業家にふんするワン・シュエチーという俳優が全体の空気をひきしめている。
   ★★★
    09:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ミスター・ノウバディ

  いくつもの人生を同時並行的に生きられるという運命を授けられた男ジャレッド・レトー(ニモ)が主人公。彼はまた過去にさかのぼって自分の行動を変えられる能力も持つ、行動が代われば結果もまたおのずから変わる。彼以外は通常の人生を歩むとみえるので、彼独自の能力か運命にあたるのであろうか。今日の映画の世界ではこういうSF的設定は蔓延しているのでめずらしくもない。
  私は過去にもどって人生をそのままの状態でくりかえしたいとは思わない。また、過去の自分のままで過去の自分や周囲に何らかの改変をくわえたいという欲求も感傷をまじえたもの以上にはない。ただ過去において無意識だった問題を発掘し整理して現在につなげてみたいという欲求は少なからずあるが、そういう問題意識を刺激されることもなかった。つまりは凡作の評価しかできなかった。
  ニモは子供時代に両親の離婚にたちあう。そのさいどちらとともに生活するか選択をせまられるのだが、ここがこの映画の出発点になっている。最初の人生の分岐点にあたるが、彼は両方を選択できる能力があって、父母それぞれと同居するという二つの人生がはじまる。二人のニモは当然のちに別の女性と恋愛し結婚する。また母についていったニモは母の再婚と離婚に遭遇し、新しい父の連れ子の女性とも恋愛関係になる。つまりは総計3人の女性との関係を同時並行的に生きることになる。強いられる。しかもこの3人の女性はいずれも幼馴染で女性同士も子供時代は友達の関係である。3人の女性と将来結ばれたいという欲求を、未来を好き勝手に創造できるという能力で実現したことになるのか。
  サラ・ポーリー(エリース)との出会いがおもしろかったか。ニモは過去をやり直す能力を持っていて、ビーチで出会ったエリースに好印象を持ったが乱暴な言葉づかいでつきあいことができなくなる。そこでその場面にもどってソフトな言葉に切り替えるとつきあいがはじまるという仕組みになっている。だがエリースにはもともと恋仲の男がいて、過去の偶然の系列をニモが変えた結果ニモとエリースは結婚にいたるが、エリースはいつまでもその男が忘れられずにのちにうつ病に陥ってしまう。つまりニモには自分のありのままをさかのぼって修正することはできるが、強引で人の気持ちを理解しようともせず、またその方面での透視能力もないということだ。人の気持ちにまで手を突っ込んで変えられないのだ。ニモの能力は限定的でそのぶん人間的で平凡だ。お互いを理解しようとすることと自分の欲望とがぶつかりあうのが人間同士の劇の醍醐味であるはずなのだが、ニモとエリースの関係がここまでしか描かれないのは不満だ。
  ニモは過去をふくめていくつもの現在に生きている。ひとつの現在で呼吸していても同時並行するほかの現在がたえず念頭にあって、とくにその難題から逃れることができない。いちばん幸福そうにみえるジーンとの結婚生活のさなかにおいてもジーンの名を間違えるくらいで、心をちっともこちらに向けてくれないとジーンに悲しまれる始末だ。これでは幸福にどっぷりひたることはできない。私は現在はひとつのほうがいい。たとえ過去に不幸があったとしても時間の作用がその不幸をやわらげたり忘れさせてくれたりするからだ。現在が幸福であるとするならば、そういう時間の作用の結果として幸福はある。相対的に幸福でなかったならば過去の不幸も正確には捉えかえせないのではないか。また現在の不幸に正面から対峙するという姿勢も主人公にはなく、ただ別の人生の穏やかさに逃げられる、そのことでごまかしが効くと受け取れなくもなかった。ちっとも羨ましくもなく教えられることもなかった。
  ニモが死を迎える最後の人間だとか、ほかの人はすべて永遠の命を得たとか最初に説明があるが、さらなる展開もなく、おもわせぶりでしかない。
  ★★
    13:29 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

カフカ「変身」

変身ほか (カフカ小説全集)変身ほか (カフカ小説全集)
(2001/06)
カフカ

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  人や家族からたとえ短いあいだでもなんらかの理由で疎まれたことが誰にでもあるだろう。場合によってはそれが社会的な非難にまでひろげられることもある。そういう体験を重要なこととして、もしかすると自分一人にのみかかわることではなく、人間の根本的なありかたを解く鍵がそこにひそんでいるとみなすことも自由だ。するとその体験を再構成してみたい、想像力にもとづいて拡張してみたいという欲求に駆られる。彼にとっては周囲との和解よりも疎まれつづける非和解のほうがより真実らしく見える。カフカはそういう動機を中心に据えた作家だ。さらに彼は徹底してこの非和解を運命づけられた逃れようのない世界として、やがては死に直結するしかない世界として描く。何故そういう世界に突き落とされたのかとりあえずはそして最後まで当人にはわからない。世界は不可解そのものだ。そこから這い上がろうとする懸命の努力が文学的迫真性をもつがついには這い上がれないのだ。そしてそういう彼は被害者といえるが、この『変身』の場合は虫に変貌してしまったグレーゴル・ザムザのみならず、家族もまた被害者だ。薄気味悪い彼の面倒をみなければならなくなる、さらにグレーゴルのセールスマンとしての収入が途絶えてしまった結果父母と妹の三人は働かなければならなくなるので、彼の「変身」が家族全員を巻きこむ結果になる。その点、主人公ヨーゼフ・K以外の周辺の人物がかわりなく日常をおくることが可能な『審判』とはすこしちがう。
  グレーゴルは早朝目覚めたときにみずからが虫になってしまったことに気づく。背中はやや固い甲羅状で腹は蛇腹になっていてその下の端にシーツがひっかかっている。足は細くて無数にのびているといった具合だ。色は褐色で、大きさはあとで出てくるがドアのノブを立って口でくわえて回すことができるので人よりもかなり低い。あまりくわしくは書かれていないが、イメージするとゴキブリにムカデの足を合体させたような1メートルほどの怪物になろうか。だがそういう身体変化にかかわらずグレーゴルの意識は人間のままでまったく変化がない。よこたわっている場所が自分の部屋であり、仕事の時間に遅刻してしまったことも痛切に意識する。声も獣じみたものに変化するが、人間の意識でその変化を理解できる。これは悪い夢でもうすこし眠れば元通りの人の姿に帰れるのではないかと自分を慰めたりもするのだが、結局はそうはならない。
  グレーゴルは知る。部屋に閉じこめられたまま彼は不自由な身体で行動することで自分の身体変化や家族の自分にたいする見方や環境の変化を知る。発声ははやくも不可能になり会話もできない。天井に張りつくことができることを発見するが、さびしい慰めにすぎない。となりの居間に聞き耳を立てると家族は狼狽し落胆している。グレーゴルをどうあつかおうか、途方に暮れるようだ。だが当面はグレーゴルの面倒をみるしかないようだ。妹が健気にもグレーゴルの世話役を買って残飯混じりの食事を運んできたり、部屋の掃除をしたりする。グレーゴルにとっては妹だけが家族とひいては人間界とのつながりを証し立てるかぼそい存在だ。また希望だ。だが食欲は落ちていく。妹が運んでくれる残飯混じりの食事にもしだいに口をつけなくなっていく。以前は好きだったミルクが喉をとおらない。グレーゴルは人にもどれないどころか、しだいに衰弱をかさね、家族にも疎まれる存在でしかないことを、そして自分では何も変えられないことを痛切に知らざるをえない。知るとはこの場合、知識を得たり思考して考えをまとめることではなく、身体の変化や衰弱や家族の落ち込みを直接に気づかされることであり、擦り傷のような痛みを同時にともなうものだ。この痛みと「知る」ことの連続的な変化の肉付けがこの小説のふとい流れになっている。つまりグレーゴルも人間のままなのだから思考し認識を深めることが不可能ではないのだ。自分が迷惑このうえない存在なら、そういうことが身体能力的にできるかどうかは別にして自殺すべきではないかという決意に行き着いてもまったく不自然ではないが、直接は書かれず行間に託されている。「痛み」に耐えつづけるかのようなグレーゴルを読者は焼きつかされるのだ。
  視力も衰えさせながら窓に椅子をひきよせてグレーゴルは外の景色を眺めやる。絶望のなかの小休止ともいうべきか、ぼんやりできる時間だ。するとそれに気づいた妹は掃除のあとに椅子を元通りの窓辺に寄せて部屋をあとにする。また妹や母が部屋にきたときに醜い姿をみせまいとしてグレーゴルが身体をシーツですっぽりくるまる場面も微笑ましい。ついこないだまで兄であり長男であったという記憶が三人に共有されていて、よすがになっている。わずかではあっても家族としての交情が存在する。家族が我慢することが前提となるそういう細いつながりがいつまで保たれるのかはわからないが、グレーゴルとしては小さな交情の実現のたびに一安心するのだろう。そしてこれまたグレーゴルにとっては「知る」ことの大事な局面だ。グレゴールにとっては自分と周囲のごく狭い範囲での出来事がそのまま「世界」だ。その範囲での事象が彼を一喜一憂させるすべてだ。
  大破綻は劇的におとずれる。外に働きに出て久しい妹がバイオリンの練習をはじめたからだ。いつまでも気味悪い虫になった兄の面倒をみることに飽きたのか、自立の意志をもちはじめたのだ。グレーゴルが働き盛りだった頃から妹はバイオリンの演奏が好きでよく弾いていた。グレーゴルもそれを聴くことが好きで、たっぷり稼いで妹を音楽学校に通わせようと本気で考えていた。その望みが働くことの張り合いにもなっていた。それが今聴えてくる。おりからの経済的貧窮のためにザムザ家では三人の間借り人を受け入れたところだった。グレーゴルの隣室の居間を貸して家族三人は台所で過ごすという配置に変わり、妹は最初台所で演奏するが間借り人の希望によって居間に移動してあらためて演奏する。父母も同席する。だがまもなく間借り人たちは演奏に飽きてきた様子で煙草を吹かす。この一部始終をグレーゴルは知ることになる。音に耳を澄ますどころか、「気配り」をなげうって自分から愚かにも居間に這い出していくのだ。グレーゴルは最後まで人間だ。眠っていた正真正銘の欲望が妹のバイオリンの音色で目覚めさせられて湧出する。その音色のうつくしさはあらたで貪欲な食欲にもたとえられ、グレーゴルをふるいたたせ我を忘れさせる。バイオリンの音色の理解者は自分一人しかいない、他人に聴かせてもわかってもらえない、だから妹を誘って自分の部屋に来てもらって思う存分弾いてもらう、グレーゴルも賛美を惜しまないつもりだ。この欲求は妹や家族にとってはきちがいじみているが、グレーゴルにとっては「気配り」を投げすてたまごうかたなき欲望であり、欲望との一致の行動だ。それが絶対的に実現不可能なことすら忘れてしまえるほどの衝動だ。だから妹や間借り人が虫=化け物としての彼を間近でみたときどんな非難と軽蔑が待ち受けるのか考えてもみない。
  ある読者は自分の過去の特定の事象を思い浮かべて、あのときこうしておけばよかった、こうすればどうなったのだろうかと、悔いと物足りなさにからめとられながら感傷や空想に耽ることがあるのかもしれない。カフカの出発点もそういうたぐいだったのかもしれないが、そこからはるかに離脱しての欲望の確かさを掘りさげてつきあたったうえでのグレーゴルのこのときの行動であり、あまりの激しさのために絶望に跳ね返されることもグレーゴルを忘れさせる。そしてそのとおり同時的に絶望にぶちあたる。虫のグレーゴルが床を這うのをかなり遅れて発見した間借り人は怒り、軽蔑し馬鹿にした笑いがとまらない。父は虫を彼等の目からできれば隠したく思って彼等を寝室にせきたてる。そして妹だ。寝室のベッド・メイキングをしたあと居間にもどってきて言う。
 

「もうこのままではダメ。お父さんやお母さんにはわからなくても、わたしにはわかる。このへんな生き物を兄さんなんて呼ばない。だから言うのだけれど、もう縁切りにしなくちゃあ。人間として出来ることはしてきた、面倒をみて、我慢したわ。誰にも、これっぽっちも非難されるいわれはないわ」(p147)

  さらに妹はこのまま放置すれば、虫は間借り人も家族も追い出してこの家を自分一人のものにしてしまうだろう、家族の生活を不可能にしてしまうだろうとも追い打ちをかけて言う。兄はかつて家族のために精一杯働いてくれて助けてくれた、それには感謝するし、兄のいい思い出もいっぱいある、しかしこの虫は兄ではない、つまり兄は虫のなかで死んでしまった、そして虫は兄を食べてどんどん成長する、とでも言いかえることも可能だろう。耐えに耐えてきたものが心をこめたバイオリンの演奏を台無しにされて一気に噴出し憤りとして爆発したのだ。そういう思いをそれまでも抱きながらも妹は兄=虫として虫を遇してきたのだが、もう思考回路をねじ切るように虫を兄とは「別の生き物」と断定する。外見は虫でも精神は兄であり人間であることを妹はついに最後の段階では認めなかった。認めつづけるのは読者とグレーゴル自身のみだ。
  この見た目のたいへんなドタバタ劇、妹や家族の憤りはよくわかるし、間借り人に代表される第三者の虫にたいする薄気味悪さ、馬鹿らしさ、滑稽さ、虫を隠していた家族にたいする怒りや白眼視もわかる。追い立てられて自分の部屋にのろのろと戻るしかないグレーゴルの惨めさ、ばつの悪さ、そして絶望もわかる。それらが一つの場面で一緒くたになってなんとも言いようのない笑い、グレーゴルの絶望がほんの小さな点になるくらいにまで後退して読者はなぜか大きな馬鹿笑いにさそわれる。この中編小説の峠にあたる場面だ。
  翌朝グレーゴルは衰弱死する。肉体の衰えに輪をかけるように絶望と大破綻を身をもって知ってしまったからだが、カフカはもはや彼の生の惨めさをくりかえしたくなかったのか。人に疎まれるさなかで真性の欲望につきうごかされて実現不可能な望みを抱いて動き、さらに決定的に人に疎まれるという構造がここにある。またそれはグレーゴルにすれば潔い死とはいえない。惨めさをより小さくするために人は死を選ぶであろうからで、逆に彼はそれを大きくした。だが最後にはグレーゴルが望んだであろう場面が到来する。彼の死を機に家族三人は団結する。間借り人を追い出すことから始め、さらに久々に郊外に出かけていき新鮮な空気を吸う。そして父母は娘が成長して少女から成熟した女性になりつつあることをまばゆく見守る。結婚相手を娘のためにみつけてやりたいと自然に思うようになる。何も書かれてはいないが、これは虫に変身しても人間の心を失わなかったグレーゴルの願いでもあるのだ。

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