大洋ボート

カフカ『審判』(3)

  ヨーゼフ・Kは女性にもてる。この小説に潤いをもたらしてくれる部分だ。「逮捕」されてからのKはなんとしてでも人とつながりをもちたい、自分の訴えをわかってもらいたいという願いを切実にもつが、女性(異性)へのあこがれや執着は「逮捕」以前からKに根付いていたと思われる。そのうえで、人とのつながりをもちたいという願いがその欲望をさらに刺激する。一対の男女において欲望が各々においてあれば二人の結びつきは早く、この小説においてもそうなる。性愛は人間が本来的にもつ健全な欲望であり、いくら社会的にひどい目にあってもその健全さが保たれることはおおいにある。その本能的な発露がKにとっての健全さの自己確認であり、性愛の部分における自己解放だ。だがそれがそのまま社会的な解放に、この場合では「無罪」につながらないこともKはよく知っている。Kの無罪を認めたうえでKの行動方針に同調しないかぎりは、女性はKにとっての社会的解放の援助者には、ひいてはKの伴侶にはなりえない存在だし、そこまでに女性を変貌させる力は性愛自体には残念ながらない。
  同じ建物に部屋を借りるビュルストナー嬢、裁判所に寄食する既婚の「洗濯女」、さらにフルト弁護士の家政婦兼助手のレニという三人だ。この三人とは性行為までは行かないが、抱擁とキスまではほんの短時間でたどりつく。もっともKが「洗濯女」の逃亡の援助やレニの「自白すれば」という勧めを承諾すれば関係はもっと深まるだろうと推測できるがそこまでにはならない。Kはとくに禁欲的ではないものの、彼女たちの勧めに応じて冤罪を晴らしたいという彼自身の目的を下ろしてしまうほどには女性に入れあげないのだ。だから男女の物語としては発端で終わってしまってあとは何もないということになるが、彼女たちのKにたいするあこがれと同情は重要で、はっとするところがある。この小説の忘れられない美点になっている。レニは弁護士を訪ねてくる依頼者のだれとなくいい仲になるし、「洗濯女」にしてもそうではないかと思わせる。つまり彼女らの欲望はK一人に向けられるのではないが、それにしても不特定の「被告」にたいする彼女たちの同情と依頼心にはうつくしさがある。そしておおぜいの被告のなかのただの一人ではなく、その頂点に立つのがKであると、K自身が恍惚とともに思いなしていると私は読みたい。弁護士フルトはなかばはお世辞にしてもレニの心情を代弁する。フルト自身の感懐でもあるようだ。

  「(略)レニの変わったところというのは、たいていの被告が気に入ってしまうことです。気がうつり、好きになり、それにみんなからも好かれるらしい。たのしませるためでしょうが、わたしが承諾すると、おりおり話してくれますよ。あなたはどうやら驚いておられるようですが、わたしは不思議に思いません。ちゃんとした目をもっているなら、被告はたしかに美しい。それというのも、ある種独特の、いわば自然科学のようなあらわれであるからです。訴えられた結果ですが、外見に何かはっきりしない、何ともいいようのない変化が生じてきます。ほかの裁判沙汰とはちがっています。たいていはふだんどおりで、しっかりとした弁護士に面倒を見てもらえば、裁判にさほど影響されない。それでも経験を積んだ者には、大勢のなかから被告をきちんと識別できるのです。どうしてか、とおたずねになるでしょう。わたしの答えが呑みこめないかもしれませんね。被告は並外れて美しいからです。被告を美しくしているのは罪のせいではではないでしょう。なぜならば──少なくとも弁護士として申すわけですが──被告のだれもが罪人じゃない。将来の罰が美しく輝かせているのでもありえない。だれもが罰せられるわけではないですからね。とするとただ一つ、被告に課せられた審問のせいであって、それが身にまといついているからでしょう。美しい者たちのなかで、とりわけて美しいのがいるものです。ともあれ、誰もが美しい。ブロックですら、あの哀れなウジ虫ですら美しい」
  弁護士が話し終えたとき、Kはすっかり感動していた。最後のくだりでは大きくうなづきさえした。日ごろ考えていることを、みずからで確認したようなものだ。弁護士がつねづね、そしてこのたびもまた、裁判とかかわりのない一般的なおしゃべりをして、実際にKの件で何をすべきかという主題からそらしてしまうのだ。(p231~232)



  Kが弁護依頼を断りにたずねていった場面で、弁護士が話をそらすのをにがにがしくも思うが、それよりも私は被告を「美しい」と呼ぶフルトの言葉に感動を覚えるKに共感せずにはいられないのだ。非日常のなかで漂いながらたたかいをつづける者への応援であり、K自身が自分のありようを価値づけるにたる言葉でもある。カフカはフルトにこう言わせることによってKに自負を植え付けたっかたのだろう。Kの意志が固いので当然の成り行きであるがKとフルトは袂を分かち、それきりレニとも会えなくなるが、最良の人間関係がここに刻まれていると見ることができるのではないか。お互いの立場はゆずれないものの、それを承知のうえで、透明な隔壁を間に挟みながらの呼びかけあう人間関係。
  (了)
スポンサーサイト
    22:51 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

カフカ『審判』(2)

審判 (カフカ小説全集)審判 (カフカ小説全集)
(2001/01)
フランツ カフカ

商品詳細を見る

  Kは「頑固」一点張りでは打開の道が開けないことがわかってきて、叔父の勧めもあって弁護士を訪問する。ここでもカフカは読者とKをあきれさせる。フルトというその弁護士が語るところでは、私たちがイメージする今日の裁判制度とはまるでかけ離れているのだ。裁判は非公開であり被告は出席することはできるが弁護士は許されない。それ以前に訴状すら被告も弁護士も最終的に結審した後にしか閲覧することができない。そして弁護士という身分さえも法的に認められた存在ではなく、裁判所によってしぶしぶ「我慢されている」存在でしかない。だから弁護士は表だって検事や判事に質問したり反論したりはできない、訴状の不備を指摘することも勿論できない。では弁護士とはこの場合、どういう役割を果たせるかというと裁判所の判事や事務員との人的なつながりをつうじて情報を仕入れることや「鼻薬」を嗅がせて、つまり賄賂工作などをつうじて被告への心証をやわらげることにかぎられる。だがそれが必ずしも功を奏するとはかぎらず、あまり手を突っこみすぎると裁判所の当の人の感情を刺激してかえって逆効果をもたらすこともあるという。またフルト弁護士も例外ではなく、Kにたいする訴状を発布したような高位の検事や裁判官との直接のつながりはなく下位の人とのつながりしかなく、下位の人も高位の人とのつながりはない。下位の人においては役割と等級がおびただしく細分化されているので小さな裁判ひとつ取ってみてもその全貌を知ることもかなわない。推察するに書類や手続きが細分化されていてそのひとつひとつがそれぞれ別の人のところに持ち込まれて、裁判官ですらそれらをひとまとめにして閲覧・検討することができないということだろうか。だから裁判に立ち会える被告が裁判については一番よく知っていて、被告にたえず寄り添う弁護士がその次に知っている。裁判官はそれ以下の範囲の知識しかもつことができないという逆転現象が生じる。またそのような下っ端の裁判官や事務員は法律の知識にもうとく、弁護士に教えを請うこともある。「いい知らせ」を弁護士にもちこむこともあるが、それが法廷に適用されるとはかぎらず逆の事例もある。まことに彼等はわがまま勝手であり弁護士を便利屋のように使ったり侮辱したりする存在で、フルトはそのような人間関係をつうじてしか裁判に関わりを持つことができず、そのうえで裁判を有利に展開する「原則」などないとまではっきり言うのだ。
  まるで茫洋として、気が遠くなる話ではないか。結局のところ、フルトは独特の嗅覚があるのか知らないが、下手に動くことをおそれてKのために何もしてくれない、Kの裁判に関する「請願書」を作成したものの未提出のままでKをがっかりさせるしかなく、Kは弁護を断ることになる。カフカは何も書かないが、私は弁護士料をつりあげるための工作ではないかと勘ぐりたくもなる。
  Kは藁にもすがる思いだ。「逮捕」の先にどんなきびしい処分が待っているのか不安でしょうがない。打開の糸口をなんとか見つけ出したい思いで、たぶん賄賂など払わないと言った最初の頃の意気軒昂さは影をひそめるのだろう。Kは銀行の支配人であり取引先など知り合いが多いから、そのなかの一人「工場主」から裁判所の事情にくわしい画家ティトレリを紹介される。言うまでもないが、Kの逮捕の件はKの周辺では知らない人はいないからこういう世話焼きも登場してくる。画家は父の代から裁判官の肖像画を描くことを主な収入源にしているらしく、やはり裁判所に寄食する人の一人であり、日頃の裁判所の人とのつきあいからその方面における情報も自然と耳に入ってくる。だが彼の説明もKにまたしても絶望的な見通ししかもたらしてくれない。ティトレリのいうには、彼が裁判官に工作して得られる可能性は三通りあり、「ほんとうの自由と、見かけの自由と、引きずっていく場合」だ。「ほんとうの自由」とは無罪釈放をさすが、これは画家自身が一度も見聞したことがないから理論的にはともかくもきわめて実現性にとぼしい。「見かけの自由」とは、カフカの書きぶりは例によってながながしいが、私が解釈するに一審と二審との間における「保釈」にあたる身分であり、最終的な裁判の結論ではないから次の裁判が待ち受けている。「ひきずり」とは裁判を下級審においたまま長期化することにあたると思えるが、裁判そのものは進行するので「尋問」や家宅捜査も行われるということだ。二番目も三番目もいずれは未来に有罪判決が待っていて覆しがたいことがほのめかされる。また画家がその種の工作のためにKに資金を要求することも言うまでもない。
  弁護士もこの画家も裁判所にぶらさがって職分をえている。長年の経験に裏付けられた手法を心得ていて、暗中模索の反面こうすればこうなるという職業的勘も併せもっている、そうして自信たっぷりにふんぞりかえっている。「正しさ」に奉仕することなどその職分にひっかかる範囲にかぎってのことで、彼等は彼等の世界から逸脱することなど露ほども考えない。彼等からみればKはその世界の初心者であり「お客さん」であるが、幼稚な者とみなされる。Kが無罪であるという主張を実は二人とも最初から受け入れない。弁護士はそれをうやむやにするが画家は露骨に自信をこめてKにそれを告げるという表面上の応対のちがいがあるに過ぎないのだ。Kは打ち砕かれる。自分は無罪であり「正しい」人間だという自分にとっての自明さがまるでとっかかりをえられない。発する言葉が正確に受けとめられて反論されるならまだしも、Kにとっては受けとめられる以前にあしらわれる気がする、結論は始めから決まり切っていて門前払いを食らわされる。予想だにしない「裁判」の世界だ。だからKにとってはやがて「正しさ」を言いつのることが気恥ずかしさや息苦しさとなってはねかえってくる。そういうKの狼狽ぶりをカフカはこれでもかこれでもかと粘りっこく描きだす。たとえば、こういうことがある。画家の住まいは貧しい人の住む集合住宅の上階にあり、たった一部屋の間取り。ベッドと仕事に使うキャンバスですでに大部分が占領される状態で狭苦しく、Kの執務室と比べれば雲泥の差がある。そこでKが味わう暑苦しさは画家の態度と言葉が横柄で衝撃的で、Kに平衡感覚を失わせるからだが、さらに読者とKを面食らわせるのはそんな狭い部屋にもドアがふたつあって、ベッドを跨がなければ開けられないという常識外れの位置にあるそのひとつを実際に開けてみれば、そこは裁判所の事務局の廊下そのものなのである。ぞっとする笑いがこみあげてくるではないか。裁判官が画家ティトレリのモデルになるためにそこを開けてベッドを踏み越えてくるのだ。 
  「大弁護士」や上級審のことも、フルト弁護士や画家ティトレリによって触れられているが、彼等はその存在をうすうす知っているというだけで、会ったこともなければ見たこともなく、彼等の工作など効かせようがない。裁判自体がいいかげんなうえ、二層にも三層にも構造化されていて、裁判制度がいかに個人にとって不透明でつかみどころのないものなのかというカフカのだめ押しである。カフカの伝記的な事柄は私は知らないが、訳者あとがきによるとカフカは司法試験に合格した後、司法研修生などを経て小官吏の地位をえたということだ。それなら裁判制度の実際の運用のされ方を身近で目撃したにちがいなく、その杜撰さやまだるっこしさが個人の人権をどれほどないがしろにし、不条理感を抱かせるに十分過ぎるものか知り尽くしていたのではないか。『審判』に書かれた裁判制度がカフカが生きた時代のそれとどれほどの異同があるのかわからないが、カフカが有したであろう問題意識がカフカ独特の残酷さとユーモアを際立たせた小説作法において結晶した。さらにそれは何も裁判や法律にかぎられた範囲のことではなく、不条理感は私たちにとってもっと一般的で、私たちの存在基盤のなかに深く打ち込まれているのではないか、という苦い認識でもある。なにも「逮捕」というおどろおどろしい事態でなくても、いったん非日常性のなかに投げこまれるとそこからめったに脱出できない、それならば「非日常性」とそこで抱かされる不条理感こそが私たちの存在の本質だとカフカは訴えてくる。私たちは勿論日常のなかで多く生きているのであり、それがいつまでも覆されないことを願うが、外部からの作用によっていつそうならないともかぎらない。またそうならないまでもまた私たちすべてではないにせよ、過去において「非日常性」の爪に触れた記憶はあり、そこで発生した問題意識はながくつづくので、カフカとの縁を体感させられるのだ。
    14:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

カフカ『審判』(1)

審判 (カフカ小説全集)審判 (カフカ小説全集)
(2001/01)
フランツ カフカ

商品詳細を見る

  主人公ヨーゼフ・Kは30歳の誕生日を迎えた日の朝、突然「逮捕」される。これがこの長編小説のはじまりであり、Kはいきなり非日常的な時間のなかに投げこまれる。なにかしら地に足がつかないようなそわそわした感覚に以後ずっとつきまとわれる。逮捕の理由は何か、二人の執行者は何も知らない。ただ命令を受けてそのとおりに忠実に執り行うのだという。Kには怒りの感情がにわかにこみあげるよりももしかしたたちの悪い冗談ではないかと疑いたくもなる情況だ。しかもKのつとめる銀行の若い行員が三人も同行している。さらにふざけたことに二人の執行者は部屋を借りているKのために用意された朝食を無断で食べたり、賄賂を要求したり、隣室の女性の部屋に侵入したりする。三人の銀行員は調子に乗ってその女性の部屋の備品をあれこれかきまわして覗く始末。その反面、逮捕されたわりにはKは拘留されることなく普段どおりにその日も出勤を許可される。というよりも出勤を強要される。
  Kには逮捕される覚えはまるでない。少なくとも明らかな法律違反を犯した覚えはない。部屋の貸し主の女性は「高尚」な出来事と憶測するが、思想犯に類することが念頭にあるのだろうか。またKは銀行内のライバルにあたる頭取代理に誹られたのではないかとの疑念も抱かないではないが、作者カフカはそれらをうやむやにする。それよりも以後のKの冤罪を晴らすための孤軍奮闘ぶりとその挫折、無効性にこれでもかこれでもかという具合に精力的に肉付けをする。言いつのれば言いつのるほどにKに逮捕を命じた「高官」はとおざかる。最初からそれは不明でずっと不明のままだが、もがき苦しんで近づこうとするだけに「とおざかる」印象が尾を引く。だからKは孤独地獄につきおとされる。Kに同情を寄せる人はひとにぎりはいるが、大部分の裁判所の人々やそれに関係する人々にとっては、Kは仕事のうえで接するおおぜいのなかのひとりに過ぎず、日常の一コマとしてKをみるに過ぎない。Kが何を言おうと、どんなに奮闘しようと彼等は彼等の「上」からあたえられた職責にもとづいて淡々とKを遇する以上のことはしない。このちぐはぐぶり、のれんに腕押しとも例えられるような手応えのなさ、それでいながら一方では「逮捕」状態は依然として持続し、時間のいたずらな経過につれて確定判決はどんどん近づいてくる、真綿で首を絞められる。こういうKと周辺の人間関係をカフカはたいへんユーモラスにかつグロテスクに描きあげる。こちらは正しいことを主張するつもりなのに、まるで誰も彼もまともに相手にしない、対話が成立しない。とんちんかんと同時に絶望的な応えしか帰ってこない。だが他の誰に訴えればいいのか、誰もいない。もうこれは笑うしかない、しかし笑ってばかりいられずにむかついてくる。さらに生理的な不快感に苦しめられる。暗黒が口をひらく。
  私は読むにつれてKを断固応援する立場に自然になっていく。逃げるのではない。目の前に立ちはだかる暗部の中心に向かってどんどん言葉を発すればいいと思う。しかもたんに冤罪を晴らすためでなく、「俺はこういう人間なんだ!」という主張を、自己の根底に降りていってそこからふりしぼるように言葉を発することができたら、つまり洗いざらいぶちまけることができたら、しかもそれによって聞き手をひれ伏せさせることができたら、どんなに胸のすく思いがするだろうかと、ないものねだりのことを痛切に夢想するのだ。急迫してくる処分を前にしての限られた時間でのそれは生きるということ、根源的な言葉を発することがすなわち十全に生きることではないか。Kの口からはそれに値する言葉を読者はついに聞くことができずに終わるが、カフカはすくなくともその見えない輪郭は提示してくれている。その意志を受け継ごうとする欲求は、この小説を読めば強く湧いてくる。

  逮捕を宣告されてからのKの行動をもう少しこまかく見ていこう。Kは電話で裁判所への出頭命令を受けて出かけていくが、この裁判所なるものの光景がまるで奇妙きてれつだ。外見的に裁判所とひと目で見分けがつくような建物ではなく、それだけで独立した状態でもない。貧しい人の暮らす集合住宅の建物の中にあり、容易に見つけられずにうろうろしていると、そこで住む女性「洗濯女」がKを見つけて案内する。女性はKが逮捕されて呼び出された人であることをすでに知っている。夫とともに裁判所に職を得ているからで、やや広い部屋が裁判所にあたる。人数は明記されていないが、勝手に想像するに五〇人から百人くらいの人がところ狭しと並んで「低い壇」に向かっている。またバルコニーが部屋の上部に囲むようにしつらえられてあって、そこにも人々が低い天井に頭をぶつけそうにして窮屈にひしめきあっている。どうやら全員がKの裁判を知っていて待機している。Kは「予審判事」のいる低い壇にすすんで尋問を受けようとする。だがこの予審判事、うす汚い冊子に眼をとおしながらKを「ペンキ屋」と呼んでしまう。カフカは裁判官のずさんさをこの一言で示し、Kを怒らせる。Kはおおぜいの陪審員?に向かって「不当逮捕」と「公の不正」を堂々と弁明する。また逮捕当日の執行者の乱暴ぶりを暴露する。陪審員であるらしい聴衆はKからみて右と左に整然と別れていてそれぞれKの弁明にちがった反応をするが、どちらがKに同情的で他方がその反対なのか、Kにははっきりとはわからない。押し黙ったり笑ったり、ときには共感の拍手をしたりする。だがKの言葉は聴衆の共感をつかむまでにはほどとおい。結局Kはこの裁判もまた公正無私でなく逮捕を追認するだけの形骸化された日程にしかすぎない、陪審員も高位の人のいいなりだと断定して、判事の尋問を拒絶して憤然とその場を去るのである。
カフカはこれほどのおおぜいのおそらくは貧しい人が裁判所に寄食していること、しかもなんら主体的な判断をもたずに羊のように「上」からの命令に従順なこと、そのうす気味悪さ、酸鼻を描きたかったのだろう。陪審員はKの抵抗をまるで動物園の珍獣のように物珍しげに見るのだろう。途中退席はKにとって忍耐の限度を超えたからだが、その馬鹿馬鹿しさとあきれ果てた気持ちはよくわかるが、しかし反面「裁判所」の心証をはなはだ悪くしたであろうこともあとから予測できる構成になっている。
  カフカは裁判所、つまり国家の支配と監視が毛細血管のように民衆のすみずみまで浸透しているさまを描く。人々は自分が生きながらえるために無抵抗で従順でたいへん慎重で、しかもそれは目に見える規則によってではあるが、それに加えて長年つちかわれた直感や空気を読むことによっている。あたりに気を配りながらこの辺が妥当なところだろうかと、裁判所がふりまく独特の空気を嗅ぎ分ける臭覚がはたらくのか、もしくは個人的判断はいっさいさしはさまずに群れとして同じ行動をとることが大部分である。ヨーゼフ・Kは逮捕されて始めてそういう世界と人々を知る、しかも一挙にではなく少しずつ信じられない思いで理解させられるので、最初はあまりにも馬鹿馬鹿しい思いがする。自分は何らやましいところはなく「無罪」に決まっていると、正直に主張することしか思いつかない。正直であることが彼が今まで培ってきた常識でありまた正しさであり、主張はやがては認められるだろうとの確信がある。そういう彼を「ペンキ屋」と誤認した予審判事に怒りを覚えるのも当然のことだ。彼は「洗濯女」に向かって自分は裁判官に賄賂を贈るつもりはないと昂然と言い放つ。彼女の二人しての逃亡の願いにも耳を貸さない。また虚偽の「自白」をして裁判官の心証をよくしてはとのレニという女性の勧めにも応じない。しかしながらぶ厚い裁判制度の壁にぶちあたってKの常識と確信はしだいにくずれていく。孤立無援の蟻地獄に呑まれていく。と同時にカフカはKの目をとおしてあるいは客観描写として裁判所にぶらさがって生きる人々への同情も惜しまない。人の生とはなんとみすぼらしくかつ猥雑なものか、がんじがらめのものか、疲れさせるものか。人の群れのなかにいて人いきれにむせかえるとは不自由以外の何物でもない。だがそれ以上ではない。カフカはあるいはKはそういう人々に同情とある部分では共感を覚えつつも、ついに肯定することはない。馴染むことのできない世界である。

    07:08 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

原発問題

  専門知識がないと理解できないことがある。今でこそ、くどいくらいの報道で概要らしきことがぼんやりとはわかってきたのではあるが、今回の大事故があるまでは原子力発電所のことなどまともに考えようともしなかった。そして運転開始から約50年経過して無事に来れたあいだはそれでもよかったのである。思考のうえで怠慢だったのか、かならずしもそうは思わない。どこか科学技術にたいする楽観的な見方が無意識に多くの人に、そして私にもあった。もっと根本をただすと「未来」や人間というものへの無前提な信仰があった。人間は勤勉であれば必ず報われる、個人の次元でも、科学技術の開発と運用の部門でも、不可能を少しずつ可能にしていくことができる、そういう思い込みが私たちを漠然と支配していたのではなかったか。いくらでも突っこむことはできるが、時代的な気分であって、それを今さら出発点に立ち返ってひっくり返すことなどできない。逆に言うと「想定外」の規模の災害を理屈のうえでは認めつつも、その現実上の到来を私たちは想像しようとはしなかった。真面目に想像することに大儀を覚えた。ましてや「想定外」の災害に原発が耐えられや否やというような問題にたいしては、私が素人であることもあって思考の埒外に置き去りにしていたのである。
  人は思考する代わりに経験にもとづいて結論を出すことがあり、それは多くの場合まちがってはいない。たとえば60年以上この国に戦争がないからこれからもおそらくないであろうと予想することは自然であり、十中八九正しい答えであろうと思われる。外国にたいしては留保をつけても日本政府がみずからそんなことはやらかしはしないだろうとの信頼は多くの国民がもつところだろう。そしてその問題と今回の災害とをつきあわせれば、日本はながい平和の時代がつづいたので、そういう経験と、災害や科学技術の脆弱性の問題とを無意識に同一視してきたのではないか。またそれは怠慢というよりも時代の大きな流れに慣らされたやむをえない姿勢ではないかと思うところだ。
  だがこれからはそうはいかない。想定外の災害はいつかは必ず訪れる。日本に来なくても世界の何処かに襲来する。世界中に原発があり深刻な被害をこうむる可能性が高い。既存の原発は補修工事を、建設予定の原発は設計変更を余儀なくされるであろうが、それをも上回るのが「想定外」の災害の威力である。また、たとえ、そういうときが実際に訪れなくとも、もはやそういうことを考えざるをえなくなってしまった以上、科学技術にたいする信頼もきわめて限定的なものに落ちてしまったし、人間の「未来」への無前提な信仰も喪われてしまった。今回無事だった私のような人間の思考世界も楽観主義的な色合いはうすまらざるをえない。頭部に痛みのない切り傷を負ってしまったような世界観を一変させるに充分に足る今回の大震災と原発事故である。
  原発事故の収束にはまだまだながい時間を要するだろう。たたかいはつづく。
Genre : 日記 日記
    01:10 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
03 ≪│2011/04│≫ 05
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク