大洋ボート

暗殺の森(1970/イタリア他)

  映画は総合芸術と呼ばれたりもするが、主に力を発揮するのはやはり映像だ。この映画では後半部で二人の女性ステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダがダンスホールで手を取り合って踊る場面がそれにあたる。映像としてもっとも輝く。客がそれぞれ男女のペアをくんで踊るが、彼女たちだけが女同士。だがその艶やかなコスチュームと優雅な身のこなしに魅了されて彼女たちをとりかこむように客は見物する。やがて全員がひとりずつ手を取り合ってのダンスとなりホールを出て行きまた帰ってくる。ちょっとしたお祭り気分だ。そしていぶかしげに見守っていたジャン・ルイ・トランティニャンを渦を巻いて取り囲む。先頭には二人の女性がいる。まるで幸福な気分をトランティニャンに分けあたえようとするかのように。トランティニャンもおもわず降りそそいできた幸福に酔いかかる。おぞましい企みはやめて平凡に楽しく暮らしましょうよというがごとくに。うそ寒い感覚が映画のほとんどを占めるので、ここは視聴者を魅了する。
  トランティニャンはファシストの秘密組織に属していて、おりから反ファシスト組織の大学教授を抹殺する役目を負っていた。教授はトランティニャンの大学時代の恩師にあたる。新婚旅行の名目でパリにいる教授を訪ねるのだが、新妻のステファニア・サンドレッリは何も知らない。ドミニク・サンダは教授の妻。だがサンダはいちはやくトランティニャンの正体を見抜いてしまい、二人は肉体関係を持つ。見逃してもらいたいサンダと、サンダに魅了されて二人しての逃避行を約束するトランティニャン。トランティニャンはファシスト魂が身につかない小心者として描かれる。ラスト近くになってわかるが、ダンスホールの場面の直前にサンドレッリもサンダから彼の正体をうちあけられていた。こういう人物構成やらストーリーやらが頭にあるので、二人の女性の幸福をいわば「偽装」してのダンスホールでのトランティニャンにたいする誘惑は納得がいくし、その場面自体には言葉による説明がいっさいないだけに、映像としてよけいに輝くのだ。
  映画は暗殺計画が手はずをととのえられていよいよ実行される場面からはじまる。(その結果は書かないが、ドミニク・サンダの悲痛な眼差しが印象に残る)そしてその進行とともにトランティニャンの過去が時系列をばらばらにして描かれる。彼は何故ファシスト組織にみずから志願して入会したのか。時代の趨勢を彼なりに読んで勝ち馬に乗りたかった。また平凡さにあこがれたからだ。母は麻薬中毒で若い愛人がいる。父は療養中で妄想癖がある。さらに彼は少年時代にあやまって人殺しをしたこともある。「血で血をぬぐう」というセリフが出てくるが、より大きい惨劇に身を置くことでそういうことを実現できるかもしれないとも思うのだろうか。もっとも彼は及び腰であることは後にわかるが。プチブルらしいサンドレッリと結婚するのも平凡と出世をもとめるからで、がらりと身のまわりの環境を変えてみたいという願望にとりつかれたとみえる。ラストではファシズムの時代が去って貧しい暮らしに転落したトランティニャンの家族が短く描かれる。この品性下劣な男は訪ねてきた友人や見覚えある男を指さして「こいつはファシストだ」と貧民窟の人々に向かって叫ぶのだ。
  ベルナルド・ベルトルッジ監督には、人生の輝きはほんの一瞬しかないという諦念があるように思える。平凡で小心な男にもそれは訪れる。「ラストエンペラー」でも同様の感想を抱いた。
 ★★★★
暗殺の森 完全版【ワイド版】 [DVD]暗殺の森 完全版【ワイド版】 [DVD]
(1997/12/26)
ジャン・ルイ・トランティニャン

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完全なる報復

  司法取引が問題にされている。検事のジェイミー・フォックスは検挙された強盗殺人犯のうち主犯と取引して刑を軽くし、従犯を死刑にするという常識外の方針で臨み、裁判所も受け入れる。後にわかることだが、警察の捜査ミスで証拠材料が不十分にしかあがらず無罪の恐れがあったためだ。また検察局が「有罪率」の高さを維持したいという思惑もあった。だが当然のことながら、この判決には被害者はとても承服できるものではない。妻と娘を目の前で殺されたジェラルド・バトラーは復讐の牙を研ぎ澄まして、10年の歳月ののちに実行する。すでに釈放された主犯の男を殺害するのだ。
  司法取引とはいえ、死刑を主犯から従犯に移し替えるというこういう極端な例が実在するのかどうか私は知らない。また、是非はともかくもジェラルド・バトラーのとった行動は気持ちとしてはよくわかると言っておこう。印象に残るのは、バトラーがジェイミー・フォックスの娘(小学校高学年くらいか)に主犯殺害を撮ったDVDを送りつける場面だ。娘は習っているチェロの演奏会を終えたところで、おりからそれを撮ったDVDを心待ちにしていた。目にした途端、パニックに襲われるて金切り声をあげる子供。声ががかすれて十分に出ないが、なおその動作をつづけるしかない。見せ物としての映画が威力を発揮する場面だ。
  だがジェラルド・バトラーはそれだけではおさまらず、殺害範囲を司法、警察関係者にどんどん拡大していく。こうなると司法取引の問題は置き去りにされて、ジェイミー・フォックスおよび警察対連続殺人犯ジェラルド・バトラーのつばぜり合いに映画は一変する。それにバトラーがあまりにも能力がありすぎてスーパーマン的になってしまう。あまりにも粗い展開で、これといって驚く場面もない。出だしの問題提起は、アクション映画にとっての「薬味」でしかなかった。
  ★★
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冷たい熱帯魚

  厭なものを見てしまったという感覚に引きずられる。稀代の悪党にたいして小市民が単独でいかに立ち向かうかということが主題であるが、小市民的な従順さや臆病の殻を破り捨てるどころか、人間の倫理の根元まで破壊してしまわずにはいられない、殺すことや自分が転落することなどどうでもいい、ありったけの力を噴出させるにはいっさいの規制をとっぱらうしかない、死にたくない、負けたくないという大反転攻勢だ。つまりは相手の悪党よりももっと破壊的にもっと悪くならなければ悪党を打倒することができない。そんなように追いつめられてやってしまう主人公の突然の変化がたいへんあざやかに描かれている。と同時に、これでいいのかという疑問も湧いてくる。もっとまともな抵抗の仕方があるのではないか、映画のとおりなら主人公の行動はいってみれば破れかぶれであり、人間の弱さの表れでもあろうからだ。それは指摘しておかなくてはならない。だがその一方で、私自身が映画に描かれたような環境にたたき落とされたとき、どれだけの行動をとれるのかと言われれば、自信のある答えをにわかには返すことができない、そういう自分の部分も大いにあることも記しておかなくてはならない。私にも弱さがはびこっている。
  でんでんが演じる悪党は、埼玉の保険金連続殺人事件や愛犬家連続殺人事件の犯人が明らかにモデルだ。こんな悪党、とても居そうにないとそれ以前は思われたような人物だ。うまい話をもちかけて金を巻きあげたあげくその人を闇に葬る。死体の処理も手慣れたもので専用の家屋が用意されている。死体を包丁でバラバラに切断するのだが楽しくてたまらない様子で「これが肝臓だ」「これが」ちんぽだ」といって主人公の吹越満にみせびらかす。殺人の快感はセックスの快感にも共有される。そういうことを繰り返して膨張する。しかも普段はみてくれのいい熱帯魚店の オーナーとして堅気を装っている。倫理観などひとかけらもなく、連続殺人の生理的快感が染みわたっているのだ。
  吹越満は富士山の麓の町で小さな熱帯魚店を営んでいるが、娘の万引き事件のときにでんでんに助けられ、そればかりか娘をでんでんの店の店員として雇われることになる。この出だしがあざやかで、でんでんは親切丁寧だがおしつけがましいところがあり自分の言葉に酔うように喋りっぱなしで、どんどんことを運んでいく。またでんでんの店の従業員ときたらすべて若い女性で、しかも短パンに薄いティーシャツというユニフォーム。視聴者は胡散臭さをぷんぷん嗅ぎとってしまうが、吹越や妻の神楽坂恵は押し切られてしまう。そこへさらに高価な熱帯魚の共同購入の話が、でんでんから吹越やほかの熱帯魚店主にもちかけられる。吹越が殺人の共犯にされるのはそこからまもなくだ。
  ここからの吹越の態度は私たちにも身に覚えのあるところではないだろうか。最初に度肝を抜かれてしまって気が付いたときには後戻りできなくなってしまっている。そして従順にしていれば危害を加えられることはないだろうとの判断が恐怖とともにはたらく。これは私たちの日常にも共通点があるもので、妥協したり引き下がったりすることで生活を維持しているという側面があって、そういう身に染みついた態度がここでごく自然に露出する。だが、でんでんはそれを百も承知で、吹越をどんどんいじめ、いたぶることをやめない。吹越も娘が人質にとられたと同然の状態なこともあって竦む。
 「地球は46億年前に誕生して46億年後に消滅する」これは「解放」された吹越が妻を伴って訪れるプラネタリウムの字幕だ。この場面は2回出てくる。吹越は何を思うのか、説明はない。人間のちっぽけさと宇宙の気の遠くなるような営み。あるいは宇宙の壮大さを思えば、人間の存在や倫理など塵ほどの価値もないという妄想をはぐくむのだろうか。説明がないところがかえって無気味だ。死体処理の家屋は女神像がいくつもかざられて宗教施設の外観を呈している。ブラックユーモアだ。それに室内のおびただしい蝋燭。わずかしか映らないが、富士山の映像がまた少し寒くなる。うつくしく撮ることが慣例になっているような山だが、距離が近すぎてうすぎたなくみえる。園子音という監督に非常に興味をもった。

★★★★★

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アリステア・マクラウド「帰郷」「失われた血の塩の贈り物」

灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)
(2002/11)
アリステア マクラウド

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  マクラウドの文体の魅力について書いておきたい。もっとも翻訳文をつうじてであるが。「帰郷」は父の故郷であるケープ・ブレトン島に、父母にともなわれて子供が訪ねるという話。祖父母が健在で同島に暮らしている。子供は炭坑でいまだに働いている祖父を父と一緒に迎えに行って、祖父に抱擁されて服と身体を汚されてしまう。仕方なく職場のシャワーを祖父とともに浴びる。その帰り道での海の風景。丘を登るにつれて海の眺望が広がる。

僕たちはゆっくりと歩き、ほとんどしゃべらない。ときどき、おじいちゃんが足を止めて、今来た道をふりかえっている。ものすごくきれいな眺めだ。太陽は、まるでもう疲れたというように海のほうに向かっている。海はどこまでも青く、どこまでも広い。あまり広いので百個の太陽が落ちてもだいじょうぶそうだ。太陽は、海の青さと草の緑を分ける細長い砂浜を、おだやかな金色に染めている。緑の草原は海に転がり落ちるように続いている。(p104)

  沈みつつある太陽を「まるでもう疲れたというように」と表現するのは身に覚えがある。子供の頃、外で遊び疲れたとき、もうそんな時間かというくらいに早く時間が過ぎてしまって夕刻になる。太陽の色も白金色からオレンジ色にしだいに変わっていく。そのさまがまるで身体の疲れとぴったりかさなるように思えてくる。もう帰宅しなければならないという諦めもある。懐かしい気がする。もっとも、この短編では子供は疲れてはいないので、私の思い出を結びつけることはやや強引なのかもしれない。旅の緊張感は彼にあるのかもしれないが。だがそういうこととは別に、しだいに色を弱めて変化する太陽をそれだけで「疲れた」と表現することは巧いと思いたい。また、その太陽はここでは小さい。都会では地平線は見ることはできない。道に立てば、建物に両側をさえぎられて、落日は地平線をさえぎるとおくの建物の彼方に消える。空の空間がそれだけ狭い分だけ太陽もまた大きく見えるものだが、さえぎるものが何もないとやはり正直に小さく見えるものだろう。それに見晴らしのいいところに立てば水平線は直線ではなく円弧状に見える。また水平線の横の広がりだけではなく、縦にも海は長くなって見える。海はそれだけ広くなって解放感をもたらしてくれるが、海の広さを直接的にではなく「あまり広いので百個の太陽が落ちてもだいじょうぶそうだ」と、太陽の小ささを使って表現するところが、両者を同時に言いあらわすことにもなって立体的ではないか。
  「失われた血の塩の贈り物」は義理の祖父母に子供をあずけている男がそこに、つまりケープ・ブレトン島に訪ねていく話。彼は離婚し、その妻はのちに夫となった男とともに交通事故死した。そういう事情があってか祖父母は気をつかい、子供には彼が父であることを伏せている……。二つの短編の主人公はともに島にとってはよそ者であるが、島のうつくしい風景を描きだすのはやはり島を知り尽くしたマクラウドの眼差しそのものである。冒頭ちかく、主人公が港に立って、たった今スコールに見舞われて過ぎた風景をいつくしむように眺めるところ。

さきほど、横殴りの灰色の雨をともなって海から押し寄せてきたスコールは、不意を遅う盗賊のごとくたちまちいなくなってしまった。スコールの襲来を受けて、あらゆるものがあっという間にずぶ濡れになったが、今はその透明な水滴に、太陽が無数の虹を注入している。港の入り口のはるか彼方には小さなスコールが発生して、海の上を猛スピードで移動しているらしく、青い海が陸との境目の向こうで灰色に変わっている。雨と距離、それに目の疲れでそう見えるのか。(p136)


  これもうつくしい文章ではないだろうか。スコールが足早に移動するさまに感嘆しながら主人公は虹について語る。目の前に小さな虹がかかっているのかいないのかは文面上はわからない。まして「無数の虹」を見ているのではないことはあきらかだ。ならば何故「無数の虹」と書くのか。「ずぶ濡れ」になった地表のあらゆるところから水滴が飛散し、また雨上がりといっても霧状の水滴はいまだに降りつづいているのかもしれず、それらに太陽光があたってあらゆる場所に固有の虹が発生する。見る場所によってそれぞれにちがう虹が眺められる。一個所からそれらの虹のすべてを見ることはできないが、想像上で合算して「無数」と呼ぶのだ。だからここでの虹は大空にかかるものではなく地表近くにあらわれるものをさしているのだろう。草花に冠のようにかかる虹もあれば、見た目数メートルほどの虹もあり大小さまざまだ。私が今解釈を加えたようなことを内省させられるために、「無数の虹」のところで何回読んでも立ち止まらされる。複雑さをぎゅっとひとつかみで表現した簡潔さが、私にはすばらしく思える。スコールの素早い移動を見習うかのような視線の移動の早さもいうまでもない。
    23:29 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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