大洋ボート

将軍たちの夜(1966/アメリカ)

将軍たちの夜 [DVD]将軍たちの夜 [DVD]
(2010/07/28)
ドナルド・プリーゼンストム・コートネイ

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  ピーター・オトゥールがなかなか気持ち悪い。酒場で客の相手をする色白の女をいやらしい目で舐めるように追ったり、あるいは美術館でゴッホの自画像に出会って精神錯乱の兆候を呼び覚まされてか目まいを起こしたりと。彼はナチスの高級将校で、ポーランドにおいてはレジスタンス掃討作戦に腕をふるった男である。普段の立ち居振る舞いや作戦遂行にあたっては冷静なのだが、記したような意外な一面を見せる。このピーター・オトゥールとドナルド・プレゼンス、チャールズ・グレイの三人の将軍(高級将校)が、ワルシャワとパリで起こった女性殺人事件の容疑者として浮上する。女性はともにナイフで滅多刺しにされていて、犯人は変質者と思われる。事件の真相を追う役がナチス情報部のオマー・シャリフというお膳立て。
  この殺人事件の他にもヒトラー暗殺計画やら、後にピーター・オトゥールの秘書となるトム・コートネイの恋愛やらが出てきて盛りだくさんだが、つながりがなく緊迫感に欠ける気がする。ルキノ・ビスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者たち』も同じくナチス時代の話だが、登場人物それぞれの思いにもとづいての行動でばらばらであっても、ナチスの台頭という時代の切迫した推移を共通に意識したうえでの行動であり、なおかつそれらがからみあうからひとつの大きな流れとなる。だがこの映画の場合は変質者殺人がどうも浮いている。逆にいうなら、ここだけが面白くて他の部分は退屈だ。どうせやるなら総花的ではなく、もっとそこに焦点を当てて掘り下げるべきだったのではないか。なお、ピーター・オトゥールが犯人かどうかはここでは明かさない。
   ★★★
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ソルト

  アンジェリーナ・ジョリーが全編にわたって動き回り、暴れまくるアクション映画。壊しまくり、殺しまくるといっていいくらいだ。CIAに所属するスパイである彼女は、ロシアからの亡命志望者の供述によって二重スパイの嫌疑をかけられるが、拘束される寸前になって逃亡する。以後、考えられないような超人的な動きの連続で逃亡劇がえんえんとつづくが、のみならず、アンジェリーナ・ジョリーはロシアのスパイ組織に接触したり、アメリカ副大統領の葬儀の会場に潜入を試みたりする。
  アンジェリーナ・ジョリーの正体がなかなかわからないところが面白い。単発ものなので(これからシリーズ化されるかもしれないが)007シリーズのように主人公の真の身分がはじめから明かされないのだ。中盤になって彼女はたしかに二重スパイであることがわかるが、勿論それで彼女のやろうとすることが決定するのではなく、もうひと捻りあるという展開だ。アンジェリーナ・ジョリーは主役クラスの女優であり、悪役など滅多なことでは引き受けないであろうという、ある種の期待を視聴者は抱きながら画面に釘付けになるが、この期待が彼女のあまりにも破壊的かつ超人的な動きによって揺すぶられ、はらはらさせられる、そこが面白い。最後になって彼女は悪役ではないことがようやくわかり、辻褄が合うのだが、それも彼女の連続する動きを後追いしながらの結着となる。セリフや説明でないところが「ノンストップ・アクション」の面目躍如たるところだ。何というのか、無茶苦茶に岩盤にドリルで穴を開ける作業を繰りかえした果てに、偶然に鉱脈に行き当たるというような幸運の感覚がもたらされる。
  アンジェリーナ・ジョリーが一撃のもとに警官などの追跡者を打倒する場面がそれこそ数珠つなぎで映されるが、編集がたいへん巧みだ。実際の格闘なら、たとえばボクシングのテレビ中継を見ればわかるが、睨みあいからはじまって徐々に間をつめていき軽いパンチの応酬となる、KOシーンはまだまだというのが一般的な流れだと思うが、ここではいきなりのKOであり、またその数珠つなぎなのだ。それにカメラの位置が格闘を客観的に眺めるにしては少し対象に近寄り過ぎているのだが、これがかえってスピード感を演出する効果をあげている。カットごとの時間が短いことも含めて、こういうカメラと編集の方法はこの映画にかぎらず、現在のハリウッドのアクション映画がこぞって採用するものだが、それだけに練達の域にある。またいくら映画作法が高度化しようとも中心になって動く俳優の動きが鈍ければ興ざめるが、アンジェリーナ・ジョリーはその点でも合格点だ。他の例をあげれば「イーオン・フラックス」のシャーリーズ・セロンは動きが固かった。肉体の動きがふさわしくなければ編集の巧みさは「編集によるごまかし」に堕してしまう。このように俳優の動きとカメラ・編集作法がいいからたいへん心地よく、はらはら感も高まる。アンジェリーナ・ジョリーが高所から疾走するトラックの屋根に飛び降りるシーンがあるが、ありえないからといって失笑はできない。映画の連続性のなかの1シーンとして十分に受け入れられる。
  マット・デイモン主演の「グリーン・ゾーン」と同じように、新しい話題がなくても面白いというアクション映画。ロシアの一部の政治勢力がいまだに打倒アメリカを目標としているのかは不明だが、おそらくはロシアを席巻するほどの勢力とはなりえないだろう。
   ★★★★

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夏に聴く

ISLAND MUSICISLAND MUSIC
(1990/10/15)
細野晴臣

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パシフィック・ガーデン夏企画「PACIFIC GARDEN SUMMER COLLECTION」パシフィック・ガーデン夏企画「PACIFIC GARDEN SUMMER COLLECTION」
(2001/06/21)
オムニバスStella Mirus

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  お盆休みも終わって仕事となったが、相変わらず猛暑がつづく。仕事はなんとかこなしているが気力が減退していることは確かなようだ。そんな2、3週間であるが、涼しげな音楽を聴きたくなった。それもインストといわれる歌詞のない曲が聴きたくなって、かなり前に購入したCDを引っ張り出してきた。CDはそれほど手持ちがないので、思い当たる曲といえばこれしかない。細野晴臣作・編曲の「最後の楽園」。おそらく10年以上前に購入したもので、かつ当時の新作ではなくレコードしかなかった時代のCDによる復刻版である。しかし今聴いても電子オルガンと呼ぶのかが、新鮮な音を響かせてくれる。ちょっと幽霊屋敷を思わせる音色でその点が涼しげなのだが、無論それだけではなく、南の島へのあこがれも十分に喚起してくれる。人は涼しさを求めて何故わざわざ熱帯の島を思い浮かべるのか、気温の低い場所ならもっと適当な場所があるはずなのだがと考えてみたが、答えをもとめるのが面倒臭い。
  この「アイランド・ミュージック」というアルバムだが、冒頭に収められた細野さんの曲以外には、私の偏見であることは承知のうえだが、残念ながら心にひっかかる曲がない。私のCDアルバムの聴き方は最初の30秒か、一分くらい聴いてつまらないと感じたら即座に次にスキップしてしまうので、その乱暴さも影響するのかもしれない。
  もう1曲は加藤達雄という人の作・編曲の「モーニング・デュー」。特に涼しげというわけではなく、かえって暑さを感じさせる曲だが比較的気に入っていて、ときどき聴くことがある。この曲が最近なにかのコマーシャルで使われているのを聴いて嬉しくなった。これも新しいアルバムではないのだが。それにこのアルバムも冒頭の加藤さんの曲以外には強い魅力は感じられない。嫌味ったらしいが。というわけで、「涼しげ」なインストゥールメンタル鑑賞の時間はあっという間に終わってしまう。
Genre : 音楽 音楽
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墓参り

  今日8月13日から3日間が私の盆休み。ということで、今日は老母に請われて亡き父の墓参りに行って来た。以前なら母上一人で墓参に行くことも多かったが、母も80代なかばになって脚力が目に見えて衰えてきた。数ヶ月前に右膝の手術をしたのだが痛みが退いただけのことで脚力が以前に戻ったのではないから、引率者がいなければ階段の多い霊園での歩行はとても無理である。そこで私がついて行った。
  盆休みだから折からの渋滞に巻き込まれながら長時間を要して霊園までたどり着いた。霊園は山ひとつ分を買って造成したもので、頂上付近に事務所があり、その平面のわずかなスペースに車5,6台が留められる。墓参りだから長時間逗留する人もいないだろうから、そのスペースが順番に空くのを警備員の誘導に従って坂道で少しずつ近づきながら待ち、やっと到着した。まどろっこしいが、こうすることが母の歩行を最小限にする方法だから仕方がない。霊園の入り口にある比較的広い駐車スペースに留めたほうが健脚ならかえって早いのだが。
  事務所でお供えの花を買い、水を入れるためのバケツと柄杓を借りて父の墓所に降りていかなければならない。急な階段が厄介だ。手すりが敷設されているから母ものろのろしたテンポでどうにかこうにか降りられるが、見ていて冷や冷やした。歩みは当然ものすごく遅い。
  父上の墓の前に佇んだが、心がどうもそぞろだ。暑さと渋滞とじれったさに贅沢にも辟易していたようだ。やるべきことは最小限やった。花挿しのプラスチック容器を掃除し、墓石に水をやった。玉砂利の敷きつめられた四角い平面にはびこっている雑草を引き抜いた。少しそれをやっただけで折からの直射日光のために汗がどっと吹き出してきた。草取りは手で千切るのは容易だが根っこからすべてを取り除くとなると根気がいる、腰を据えてやらないといけない。母のいたわりによって私は救われた。完璧にはやらなかった。
  父の仕事を私は引き継いでやっているが、父ほどには成功していない。時代のせいにするよりも私の怠惰に起因するところ大である。そんなことを思いながら手を合わせた。
  母が久しぶりにカレーライスを食べたいと言ったので帰りにファミレスへ寄った。どこも満員で3軒目にしてようやくゆったりすることができた。
 
Genre : 日記 日記
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夏目漱石『行人』(2)

  二郎は自分では兄一郎の苦悩をやわらげる自信がない。そこで友人三沢の知人で一郎とおそらく大学時代からの親友でもあるHに、三沢とともに相談をもちかける。Hも一郎の衰弱ぶりを知っていて心配でその要請を引き受ける。Hは一郎とともに伊豆箱根方面に気儘な旅して、そこから二郎宛に長い手紙を書いて詳しいいきさつを知らせる。これが「塵労」の枠組みだ。一郎の思想は若い時代から引きずっている漱石のそれであり、現在の漱石がHとなってそれを噛み砕いて二郎に説明するように私には読めたのだが。また小説のうえではHは二郎やお直にたいして、一郎という人物はこういう風にあつかえばいいのではないかという自慢とヒントを与えている気もする。つまり頭の悪さなど気にせずにどんどん話し合えば兄一郎は胸襟を開く人だと。またHが暴力をふるわれる場面もあるが、ある程度そういうことも覚悟しなくてはならない、とも。そうはいっても多少の知識人的な素養がなければ一郎と膝をつきあわせて話すことは難しそうで二郎がひるむのは無理もないだろう。若い時代の漱石は気難しくてぴりぴりした空気を発散していたのか。
  一郎の知識人としての苦悩は、まずは科学文明の絶えざる発展を自分の頭のなかでなぞって繰り返すことにある。太古より文明はスピードアップを追究してきており現在もその追求をやめない。そのスピードは一郎にも嫌が応にも侵入してきて掻き乱す。たえずせかせかさせられるような感覚が、どこまでいってもついてくる。平常心を保つことができない、降りたいと思っても容易に降りられない。一郎を尊敬しその明敏さを認めるHは、一郎が馬鹿だからではなくその明敏さ故の苦悩だと解説する。私は知識人ではないので、文明のスピードと心中するまでに一体化させられる感覚はわかりようがないが、降りようとしても降りることがかなわないという苦痛は一種の精神病理として解釈すればわかる気がする。一郎は明治の知識人として時代のど真ん中にいるということだろうか。そして知識の累積のなかにいてへとへとに疲れた一郎は、当然別の場所に逃れてしまいたいと切実に願うようになる。ごく自然に思えるのは「考えない」ことの魅力だ。電車に乗り合わせた人を見ても、あるいは目の前の友人Hをみてもそのゆったりしたさまは、まるで仏のように眼に映るという。だが知識人である一郎に「考えない」ままで暮らすことはできない。そこで宗教的境地が俄然魅力を持って追究されることになる。
 

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんは果たしてこういい出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。
 「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食い留められそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさて置いて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もう既にどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くて堪らない」(p369)


  「気違」とは上記のように文明のスピードに一体化するまでに知識を吸収しつづけることの果てに見えてくるものだろう。その不安が「現在の僕は正気なんだろうか」と一郎をして言わしめる。そして宗教には這入れそうもないという一郎だが、結局は宗教的境地を求めることになる。ただしキリスト教とか仏教とかの個別の宗門に入信することを意味しない。それらを大いに参考にするらしいのだが、一郎が求めるのは個人としての心の安寧で、何かしら宗教的課題を背負って社会的実践に踏みこんだり、肉体を錬磨する類の修養に没頭することではない。旅先でどしゃ降りの雨の中へ歩き出す場面があるが、一郎の気儘さの表れという以上ではない。一郎が夢想するのは「考える」ことを放棄した果てに見えてくる自分の悠然とした姿だ。市井に生きようとすれば誰でもがせこせこして動き回ったり考えたりしなければならない。そこには一郎の理想郷はない。生まれつき決まり切ったコースを歩むと見える、たとえば下女のお貞さんでさえ一郎が羨ましがるようには落ち着いてばかりはいられないだろう。考え抜く場面もあるだろう。一郎はこの世とは隔絶された場所と時間にあこがれる。何もしなくてもよい、何も考えなくてもよい、一切合切を悠然と見下して受け入れられる世界で、この世の果てだ。当然、死が近接してくるが、それも黙って受け入れるのだという。「落ち着き」が最初から備わっていれば、そういう境遇を夢想することもごく自然にできるという。「自殺」するのではない。生にしがみつくのでもない。どちらでもかまわないという悠然たる態度の境遇を一郎は披瀝する。考えないことに憧れて考えを重ねていくと、考えなくても充足がつづく落ち着いた時間に自然に逢着する、そういうことだろうか。
  Hにたいして一郎は「神は自己だ」「僕は絶対だ」と激しく言い放つ。Hは一郎の得た「絶対」の境地について書く。
 

兄さんは純粋に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだといいます。一度この境界(きょうがい)に入れば天地も万有も、凡ての対象というものが悉くなくなって、唯自分だけが存在するのだといいます。そうしてその時の自分はあるともないとも片のつかないものだといいます。偉大なようなまた微細なようなものだといいます。何とも名の付けようのないものだといいます。即ち絶対だといいます。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音は即ち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表すと、絶対即相対になるのだというのです、従って自分以外に物を置き他(ひと)を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念も起らないというのです。
 「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非とも生死(しょうじ)を超越しなければ駄目だと思う」
 兄さんは殆ど歯を喰いしばる勢いでこう言明しました。(p382~383)



  私は実感としてなら半分くらいはわかる気がする。ゆったりした気分につつまれてこのまま眠っても死んでもいい、そんな夢想に到達したことがあったからだ。しかし一郎(漱石)の絶対は、実感を土台にしつつももっと突きつめようとする姿勢がありありと感じられる。論理化して固定することで実感を永遠のもととしたいのだろうか。半鐘とは小さな釣り鐘をさすらしいが、そんな音をにわかに聴くと、私なら落ち着きを失う。ましてやそれを「自分」だなどとはとても受け入れられない。半鐘のような音がないのが私の夢想の前提であった。一郎にしてもこういう境地に一時的にたどり着けても、やはり長い時間踏みとどまることは不可能なので「歯を喰いしばる勢い」で強引に論理化、固定化を焦るのだろうか。自然の経過に任せれば、かかる実感は追憶にならざるをえないと思われるが、それだけでも一郎のえた成果であり、危機対処の拠り所となりうるのだろう。
  一郎は『彼岸過迄』の須永市藏の発展形だと思われる。彼もまた外側の現象を頭脳の材料や養分として取り入れなければ気が済まなかった。一郎が絶対即相対の見地から物事を見るということとは少しニュアンスがちがう気がするが、頭脳の肥大化に悩むという点で同質と思われる。そして市藏もまた気分転換のために単身で旅行することになって、旅先から叔父への連続的な便りで締めくくられて小説は終わるので、この『行人』と同じ終わり方である。目に飛び込んでくる風景の面白さがつづられるが、『行人』でも一郎は小さな花や薄の下を這い回る蟹に注目する。絶対や相対などという哲学にこだわらずに、小さな発見が純粋な興味深さを生み出してくれるならば、それはたいへん貴重ではないかと一郎は思い直すようで、これはHの助言でもある。
  ただ漱石は両者にたいして一時的な慰安を与える以上のことはしていない。知識を吸収しながら、あるいは知識に呑みこまれながら進まざるをえない知識人の立場に戻らざるをえない人として彫琢するように思える。女性の問題がなんら解決の端緒につかないのも両者に共通している。
(了)



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