夏目漱石『彼岸過迄』(2)
小説・エッセイ・戯曲「頭」(ヘッド)と「胸」(ハート)の対立と市藏はいう。前者は理性や生活上の常識であり、後者は自然にわきあがる感情やら欲望をさすのだが、ときには「頭」が「胸」を押さえつけなければ人生は成り立たない。それまでの彼の人生においては彼が「陰性で癇癪持」であったから発作のような「頭」を突き破らずはおかない「胸」の高揚は体験せずにすんだ。それでも両者の相克の渦中にいると苦痛と呼びうる体験はないではなかったから、高木にまつわる未曾有の激しい動揺は、彼にあらためて自身の「頭」と「胸」の対立と調整について再検討をうながした。「頭」の抑圧力の強さはあてにはならず「胸」の弱さはときとして弱さを突きやぶるものだと。そうして生活上の方便であるはずのそうした意識操作が、かえって「命を削る」ほどの苦痛をもたらすのだとの感慨を彼に与えるのである。
するとむやみに「頭」が抑圧するばかりではなく、いっそのこと「頭」が「胸」の思いを容認して合体してしまえばいいのではないか、ある意味楽になるのではないかとの思いは自然に浮かんでくる。嫉妬感情の爆発的展開を想定するのだ。市藏は蔵書の整理をするうち、友人に借りて読まないまま奥に押しこんでいた『ゲダンテ』という小説を発見して読み耽る。主人公がかつて愛した女性が結婚してしまった。その夫は彼の友人でもあるのだが、その新婚家庭に乗り込んでいって女の目の前で夫を撲殺してしまうという話だ。さらにその前に主人公は何回か社交界に顔を出して激しい発作の演技をして狂人の評判を取ることに「成功」する。私はしっくり理解できないが、前段的行動だと解釈した。殺人という究極の目的に自身を慣れさせるために、まずは「狂人」の演技をさらりとやってしまえるか、自身を試すのだ。もろもろの友人知人から白眼視されることにも慣れないといけない。連続殺人犯が犯行に先立って動物虐待をするのにあたるのか。ともあれ、そのようにして主人公のなかで「頭」と「胸」が対話し接近する。計画的犯行として「頭」は熟慮して「胸」は敷かれたレールに乗って前へ進めばよい。市藏は自分にこんなことが出来るのかと自問自答する。行為の後の道徳的痛恨も視野に入るが、要は堕落してしまえばやってのけられる、人間は思想的に一人一人ちがうようにみえても考えるほど大差はない。たとえば酒の酔いにはげしく「打ち勝たれた」ような心身の激変状態にあれば、堕落したとわかってもそこから逃れることはできないと考察する。
繰り返すが、高木と千代子が相思相愛であると決まったのでもそう見えたのでもなく、市藏もまたそれほど千代子を熱愛するのでもない。どちらかといえば千代子から逃げたいと普段思うのだが、それにもかかわらず市藏は高木にはげしく嫉妬する。嫉妬は不合理だからそこはやむをえないとしても、平静になってからむしろ嫉妬の感情を突きつめて想像の中で拡大させる。一見ものすごく異常であるにちがいないが、市藏に固着した思想的方法を揺るがす出来事であったから看過することができないのだ。市藏は利害損得で動く人ではない。そこに重なるものがあるとしても、思想的方法というある種抽象性を中心にして生きる人であるから、意識された困難はそこに濾過されて解決されなければならない。嫉妬は市藏を十分にたじろがせこわがらせたが、彼の裏側から眺めるとこうした予想を超えた感情の高まりは、じつは忘れるよりは愛しむべきものなのだ。みずからその暴発を中断させることで難無きを得たのだが、反面中断を無理強いさせられたような感覚が残り、是非ともその決着する姿を想像してみたいのだ。嫉妬を忘れるのではなく、想像のなかで解放させたいのだ。好青年に故ない嫉妬をする市藏はプライドが高くわがままなのだが、問題はそこを通過してしまっている。嫉妬をさらに延長させることは世間的には秘め事でありながら、思想上では明らかな課題である。人は自分という個性を逃れることは出来ないから、それまでの自分の方法によって打開の糸口を編み出すしかない。「頭」と「胸」の対立構造はだれにでもあるが、内実はそれぞれ個性的だ。けれどももし僕の高木に対する嫉妬がある不可思議の径路を取って、向後(こうご)今の数十倍に烈しく身を焼くならどうだろうと僕は考えた。しかし僕はその時の自分を自分で想像する事が出来なかった。始めは人間の元来からの作りが違うんだから、とてもこんな真似はしえまいという見地から、すぐこの問題を棄却しようとした。次には、僕でも同じ程度の復讐が充分遣って除けられるにちがいないという気がしだした。最後には、僕のように平生は頭(ヘッド)と胸(ハート)の争いに悩んで愚図ついているものにして始めてこんな猛烈な強行を、冷静に打算的に、かつ組織的に、逞ましゅうするのだと思い出した。僕は最後に何故こう思ったのか自分にも分からない。ただこう思った時急に変な心持に襲われた。その心持は純然たる恐怖でも不安でもなく、それらよりは遥かに複雑なものに見えた。が、纏(まとま)って心に現われた状態からいえば、丁度大人しい人が酒のために大胆になって、これなら何でも遣れるという満足を感じつつ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上において平生の自分よりも遥に堕落したのだと気が付いて、そうして堕落は酒の影響だからどこへどう避けても人間としてとても逃れる事は出来ないのだと沈痛に諦めを付けたと同じような変な心持であった。僕はこの変な心持とともに、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い文鎮を骨の底まで打ち込んだ夢を、大きな眼を開きながら見て、驚いて立ち上がった。(p266~267)
想像力が描きだす世界は独特だ。体験に基づきながらも体験の世界へ返しえない行動を描いてみせる。架空でありながら真実味もある。高木を撲殺する場面を思い浮かべるが、それは市藏の現実的意志そのままではなく想像的真実というべきものだ。一人の人間が現実と想像の二つの世界に分裂して、一方を想像のなかでまったく自由にふるまわせる、嫉妬という種を大きく開かせ、暴れさせることによってその方面の人格に面子を与える。かくして、想像的世界において自身に全能感を獲得させることによって想像世界は市藏のなかでくっきりとした像を結び、独立した世界として完結する。「純然たる恐怖でも不安でもな」い「変な心持」とは、あまりにもすんなりと殺人を想像してしまえる自身に向けられている。「堕落」という色に染まった後ろめたい世界ではあるが、自然な解放感もある。
私にも人を憎んだ体験がある。背景の物語は省略するが、当該のその人には何の落ち度も責任もなかった。嫉妬ということでは必ずしもないが、臓腑を鷲づかみされるようにいきなりその感情にとらえられた。さらに感情に身を任せたまま前へ進もうとする自身と、同時に急ブレーキをかけて引き返す自身があった。自分でもよく分からなかったからこそ、後に想像的世界のなかでその場面を何回も繰りかえした。殺意とは明確に判断はできない感情だったが、もしもその感情を固定させさらに発展させる環境的装置にとらえられていたなら殺意となったかもしれない感情と、とらえ返された。だが私はそう思うだけでは耐えられなかった。恨んでしまったその人を「殺す」のではなく、当初の感情も分離して、ただ一方的に「接近」するさまを何回も思い描いたものだった。私にも想像的世界はあったのであり、なにかしら世界を解く鍵を秘めているように思えた。……
想像的世界にどっぷりひたりこんでしまった市藏だったが、数日を経て母が千代子にともなわれて帰宅する。二人は相変わらず仲良しである。市藏はその後の千代子と高木の関係に変化があったのか、非常に気になるが口には出さず、表面を取り繕って歓談する。千代子もまた意識的に高木の話題を避けるから波風は立たない。千代子は市藏宅でさらに一泊するのだが、そのときの市藏の神経過敏ぶりがおもしろいというか、あきれてしまうほどだ。二人は一階の同じ部屋に市藏は二階で就寝するのだが、鎌倉も東京も夏は寝苦しく、また千代子や高木のことが頭をめぐってなかなか寝付かれない。しかし寝返りを打って下に音が伝わることが、千代子に内面を見透かされることになるかもしれないという妄想にとらえられて、彼は身体を動かせず堅苦しくも息を詰めている。市藏の一人称形式での語りでありながら、漱石は市藏の人となりを巧みに客観描写的に描きだしている。明くる日、市藏はついに高木の名を出して呑気気に千代子に話しかけるが、千代子は一変して彼が鎌倉から一足早く帰ったことを非難する。千代子はすっかり市藏を見透している。「愛してもいないのに何故嫉妬するのか」と泣きながら糾すのだ。
市藏と千代子の関係はこれ以後目立った変化はない。絶交するのでもなく以前よりも接近するのでもない。また千代子の縁談がすすむのでもない。そういう物語の進展を描きだすのがこの小説の目的ではなく、青年市藏の人柄と彼への周辺の人々のあたたかい眼差しを描きだすことが主眼になっている。松本は市藏を評して、外側から受けた刺激を内へ内へとぐろを巻くように取り込んでいく性向がある。つまり彼の中心である「頭」(思想)に次々と新しい材料が送り込まれて、それを如何に咀嚼してあらたに「頭」の一部分とするのか、格闘する。その作業は彼を苦しませ、いつか斃れるかと思わせるほどに彼を疲れさせる。心配する松本は軽薄才子になることを市藏に望む。それにはただ無心に、美しいもの、やさしいものに接することだという。「外にあるものを頭へ運び込むために眼を使う代わりに、頭で外にある物を眺める心持で眼を使うようにしなければならない。」と言う。市藏は生真面目だから「頭」の形成に日々神経を使うが、外部は「頭」の材料であるばかりではなく、それ自体で充足していておもしろいものだ、「頭」の材料にしてもしなくても。私はそう解釈した。
市藏は自身のそんな性向をよく知っているので、叔父の忠告や心配も理解できる。勧められるのでもなく、大学を卒業した後に関西方面に気儘な旅行をして、叔父松本に頻繁に便りをよこしてくる。明石では海で遊ぶ芸者衆や外国人のほがらかな様子がつづられる。思想的問題にくたびれ果てても、そこで解決の糸口が見いだされなくても、それを一旦放擲して休息をとることはできる。「おもしろいもの」は深刻な思想的営為とは別の系をもつ。その発見が市藏の治癒の過程だ。『彼岸過迄』は『心』のような事件性がない代わりに、漱石が壮年になって描いた若い時代の自画像としては虚構性がより少なく思われ、その点で私には親近感が持てる。
(了)