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夏目漱石『彼岸過迄』(2)

小説・エッセイ・戯曲
05 /28 2010
  帰宅して目の前から高木をふりはらったおかげで、市藏は落ち着きを取り戻すことができるが、それでは終わらない。鎌倉での出来事を思想に関わる問題として彼はとらえかえす。高木と千代子の関係がどうなろうと、二人が結婚しようと高木のことをしだいに忘れてしまえれば平静にもなれる。だが逆に高木への嫉妬を梃子にした邪悪ともいえる恨みの感情を、彼は想像の中でさらに膨らませる。市藏の思想的方法の全体にとって高木への嫉妬はそれまで体験したことのなかった処理しがたい「部分」と化したから、忘れるのではなしに逆に膨らませることによって、彼の「全体」を見つめ直したいのだ。嫉妬の現場から退却したことによって、その懊悩から、もしかしたらの爆発的展開から彼は逃れることができた。ひとまずの平静を得ることができた。だがそこで、むしろ平静さを拠り所にして自身の嫉妬を、そのより発展した未来の形を片方では客観的に、もう一方では狂気と興奮を蔵した主観のなかで想像して描く。そのことは彼の全体を揺るがさずにはおかない危機としてふたたび彼の前に現出する。
  「頭」(ヘッド)と「胸」(ハート)の対立と市藏はいう。前者は理性や生活上の常識であり、後者は自然にわきあがる感情やら欲望をさすのだが、ときには「頭」が「胸」を押さえつけなければ人生は成り立たない。それまでの彼の人生においては彼が「陰性で癇癪持」であったから発作のような「頭」を突き破らずはおかない「胸」の高揚は体験せずにすんだ。それでも両者の相克の渦中にいると苦痛と呼びうる体験はないではなかったから、高木にまつわる未曾有の激しい動揺は、彼にあらためて自身の「頭」と「胸」の対立と調整について再検討をうながした。「頭」の抑圧力の強さはあてにはならず「胸」の弱さはときとして弱さを突きやぶるものだと。そうして生活上の方便であるはずのそうした意識操作が、かえって「命を削る」ほどの苦痛をもたらすのだとの感慨を彼に与えるのである。
  するとむやみに「頭」が抑圧するばかりではなく、いっそのこと「頭」が「胸」の思いを容認して合体してしまえばいいのではないか、ある意味楽になるのではないかとの思いは自然に浮かんでくる。嫉妬感情の爆発的展開を想定するのだ。市藏は蔵書の整理をするうち、友人に借りて読まないまま奥に押しこんでいた『ゲダンテ』という小説を発見して読み耽る。主人公がかつて愛した女性が結婚してしまった。その夫は彼の友人でもあるのだが、その新婚家庭に乗り込んでいって女の目の前で夫を撲殺してしまうという話だ。さらにその前に主人公は何回か社交界に顔を出して激しい発作の演技をして狂人の評判を取ることに「成功」する。私はしっくり理解できないが、前段的行動だと解釈した。殺人という究極の目的に自身を慣れさせるために、まずは「狂人」の演技をさらりとやってしまえるか、自身を試すのだ。もろもろの友人知人から白眼視されることにも慣れないといけない。連続殺人犯が犯行に先立って動物虐待をするのにあたるのか。ともあれ、そのようにして主人公のなかで「頭」と「胸」が対話し接近する。計画的犯行として「頭」は熟慮して「胸」は敷かれたレールに乗って前へ進めばよい。市藏は自分にこんなことが出来るのかと自問自答する。行為の後の道徳的痛恨も視野に入るが、要は堕落してしまえばやってのけられる、人間は思想的に一人一人ちがうようにみえても考えるほど大差はない。たとえば酒の酔いにはげしく「打ち勝たれた」ような心身の激変状態にあれば、堕落したとわかってもそこから逃れることはできないと考察する。
 

けれどももし僕の高木に対する嫉妬がある不可思議の径路を取って、向後(こうご)今の数十倍に烈しく身を焼くならどうだろうと僕は考えた。しかし僕はその時の自分を自分で想像する事が出来なかった。始めは人間の元来からの作りが違うんだから、とてもこんな真似はしえまいという見地から、すぐこの問題を棄却しようとした。次には、僕でも同じ程度の復讐が充分遣って除けられるにちがいないという気がしだした。最後には、僕のように平生は頭(ヘッド)と胸(ハート)の争いに悩んで愚図ついているものにして始めてこんな猛烈な強行を、冷静に打算的に、かつ組織的に、逞ましゅうするのだと思い出した。僕は最後に何故こう思ったのか自分にも分からない。ただこう思った時急に変な心持に襲われた。その心持は純然たる恐怖でも不安でもなく、それらよりは遥かに複雑なものに見えた。が、纏(まとま)って心に現われた状態からいえば、丁度大人しい人が酒のために大胆になって、これなら何でも遣れるという満足を感じつつ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上において平生の自分よりも遥に堕落したのだと気が付いて、そうして堕落は酒の影響だからどこへどう避けても人間としてとても逃れる事は出来ないのだと沈痛に諦めを付けたと同じような変な心持であった。僕はこの変な心持とともに、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い文鎮を骨の底まで打ち込んだ夢を、大きな眼を開きながら見て、驚いて立ち上がった。(p266~267)

  繰り返すが、高木と千代子が相思相愛であると決まったのでもそう見えたのでもなく、市藏もまたそれほど千代子を熱愛するのでもない。どちらかといえば千代子から逃げたいと普段思うのだが、それにもかかわらず市藏は高木にはげしく嫉妬する。嫉妬は不合理だからそこはやむをえないとしても、平静になってからむしろ嫉妬の感情を突きつめて想像の中で拡大させる。一見ものすごく異常であるにちがいないが、市藏に固着した思想的方法を揺るがす出来事であったから看過することができないのだ。市藏は利害損得で動く人ではない。そこに重なるものがあるとしても、思想的方法というある種抽象性を中心にして生きる人であるから、意識された困難はそこに濾過されて解決されなければならない。嫉妬は市藏を十分にたじろがせこわがらせたが、彼の裏側から眺めるとこうした予想を超えた感情の高まりは、じつは忘れるよりは愛しむべきものなのだ。みずからその暴発を中断させることで難無きを得たのだが、反面中断を無理強いさせられたような感覚が残り、是非ともその決着する姿を想像してみたいのだ。嫉妬を忘れるのではなく、想像のなかで解放させたいのだ。好青年に故ない嫉妬をする市藏はプライドが高くわがままなのだが、問題はそこを通過してしまっている。嫉妬をさらに延長させることは世間的には秘め事でありながら、思想上では明らかな課題である。人は自分という個性を逃れることは出来ないから、それまでの自分の方法によって打開の糸口を編み出すしかない。「頭」と「胸」の対立構造はだれにでもあるが、内実はそれぞれ個性的だ。
  想像力が描きだす世界は独特だ。体験に基づきながらも体験の世界へ返しえない行動を描いてみせる。架空でありながら真実味もある。高木を撲殺する場面を思い浮かべるが、それは市藏の現実的意志そのままではなく想像的真実というべきものだ。一人の人間が現実と想像の二つの世界に分裂して、一方を想像のなかでまったく自由にふるまわせる、嫉妬という種を大きく開かせ、暴れさせることによってその方面の人格に面子を与える。かくして、想像的世界において自身に全能感を獲得させることによって想像世界は市藏のなかでくっきりとした像を結び、独立した世界として完結する。「純然たる恐怖でも不安でもな」い「変な心持」とは、あまりにもすんなりと殺人を想像してしまえる自身に向けられている。「堕落」という色に染まった後ろめたい世界ではあるが、自然な解放感もある。 
  私にも人を憎んだ体験がある。背景の物語は省略するが、当該のその人には何の落ち度も責任もなかった。嫉妬ということでは必ずしもないが、臓腑を鷲づかみされるようにいきなりその感情にとらえられた。さらに感情に身を任せたまま前へ進もうとする自身と、同時に急ブレーキをかけて引き返す自身があった。自分でもよく分からなかったからこそ、後に想像的世界のなかでその場面を何回も繰りかえした。殺意とは明確に判断はできない感情だったが、もしもその感情を固定させさらに発展させる環境的装置にとらえられていたなら殺意となったかもしれない感情と、とらえ返された。だが私はそう思うだけでは耐えられなかった。恨んでしまったその人を「殺す」のではなく、当初の感情も分離して、ただ一方的に「接近」するさまを何回も思い描いたものだった。私にも想像的世界はあったのであり、なにかしら世界を解く鍵を秘めているように思えた。……
  想像的世界にどっぷりひたりこんでしまった市藏だったが、数日を経て母が千代子にともなわれて帰宅する。二人は相変わらず仲良しである。市藏はその後の千代子と高木の関係に変化があったのか、非常に気になるが口には出さず、表面を取り繕って歓談する。千代子もまた意識的に高木の話題を避けるから波風は立たない。千代子は市藏宅でさらに一泊するのだが、そのときの市藏の神経過敏ぶりがおもしろいというか、あきれてしまうほどだ。二人は一階の同じ部屋に市藏は二階で就寝するのだが、鎌倉も東京も夏は寝苦しく、また千代子や高木のことが頭をめぐってなかなか寝付かれない。しかし寝返りを打って下に音が伝わることが、千代子に内面を見透かされることになるかもしれないという妄想にとらえられて、彼は身体を動かせず堅苦しくも息を詰めている。市藏の一人称形式での語りでありながら、漱石は市藏の人となりを巧みに客観描写的に描きだしている。明くる日、市藏はついに高木の名を出して呑気気に千代子に話しかけるが、千代子は一変して彼が鎌倉から一足早く帰ったことを非難する。千代子はすっかり市藏を見透している。「愛してもいないのに何故嫉妬するのか」と泣きながら糾すのだ。
  市藏と千代子の関係はこれ以後目立った変化はない。絶交するのでもなく以前よりも接近するのでもない。また千代子の縁談がすすむのでもない。そういう物語の進展を描きだすのがこの小説の目的ではなく、青年市藏の人柄と彼への周辺の人々のあたたかい眼差しを描きだすことが主眼になっている。松本は市藏を評して、外側から受けた刺激を内へ内へとぐろを巻くように取り込んでいく性向がある。つまり彼の中心である「頭」(思想)に次々と新しい材料が送り込まれて、それを如何に咀嚼してあらたに「頭」の一部分とするのか、格闘する。その作業は彼を苦しませ、いつか斃れるかと思わせるほどに彼を疲れさせる。心配する松本は軽薄才子になることを市藏に望む。それにはただ無心に、美しいもの、やさしいものに接することだという。「外にあるものを頭へ運び込むために眼を使う代わりに、頭で外にある物を眺める心持で眼を使うようにしなければならない。」と言う。市藏は生真面目だから「頭」の形成に日々神経を使うが、外部は「頭」の材料であるばかりではなく、それ自体で充足していておもしろいものだ、「頭」の材料にしてもしなくても。私はそう解釈した。
  市藏は自身のそんな性向をよく知っているので、叔父の忠告や心配も理解できる。勧められるのでもなく、大学を卒業した後に関西方面に気儘な旅行をして、叔父松本に頻繁に便りをよこしてくる。明石では海で遊ぶ芸者衆や外国人のほがらかな様子がつづられる。思想的問題にくたびれ果てても、そこで解決の糸口が見いだされなくても、それを一旦放擲して休息をとることはできる。「おもしろいもの」は深刻な思想的営為とは別の系をもつ。その発見が市藏の治癒の過程だ。『彼岸過迄』は『心』のような事件性がない代わりに、漱石が壮年になって描いた若い時代の自画像としては虚構性がより少なく思われ、その点で私には親近感が持てる。
(了)
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夏目漱石『彼岸過迄』(1)

小説・エッセイ・戯曲
05 /27 2010
彼岸過迄 (ワイド版岩波文庫)彼岸過迄 (ワイド版岩波文庫)
(2008/07)
夏目 漱石

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  嫉妬とは愛情の裏返しということがよくいわれるが、そうであったとしても嫉妬のほうが後者よりもより強烈にはたらきかけることがある。男女間における愛情はたとえ「一目惚れ」がきっかけであったとしても、接触をかさねていくにつれてより愛が強くなったり逆に潮が引いていくように弱まったりする。そこでは自然な感情の満ち引きとともに理性や打算による思慮があって、もっと前に進もうかそれとも後退しようかとの選択に悩まされることがあるだろう。つまり決定を引き延ばして進路を曖昧なままにしておく期間があってもさしつかえない。これにたいして好意を持つ異性の近辺にもう一人別の同性があらわれて、つまり競争相手としてあらわれてその異性に愛情を注いだとしたらどうなるか。その人に好きな異性を奪われる可能性が急に出てくるので慌てる。愛の進路におけるゆったりした思慮に閉じこもってはいられなくなる。またそれ以前に強い不快に支配される。異性への愛情が曖昧な期間でもこの嫉妬の不快さ、締めつけられる感覚は強烈で、愛の感情とは別に人生のあらたな局面に立たされるといっても過言ではない。また理性的な人ほど嫉妬に苛まれている自分の状態を異性や競争相手から隠そうとする傾向がある。もっとも、異性が敏感であれば隠しようがないのだが。
  主人公の須永市藏も人生のそういう局面に遭遇する。私自身も恋愛体験は貧しいものに過ぎないが、嫉妬の針で突っつかれるような感覚に悩まされたことが一時期あったので身につまされる。
  市藏は大学を卒業したばかりだが、従姉妹の千代子とは子供の頃から親しく接していた。家族同志も良好なつきあいをつづける仲だった。それに母が千代子が生まれてすぐに「この子を市藏の嫁にくれないか」と千代子の両親の田口夫妻に強く頼み込む。田口夫妻も娘の将来をそんな早い時期に決めることはためらわれたが、将来における本人の意志を尊重するという前提の元で、母のこの願いを受け入れる。また市藏も千代子も成長期に入って親同士のこのやんわりした約束を知る模様である。それに後に明らかになるが、市藏は父と小間使いの間に生まれた子供で、生まれてまもなく父母に引き取られて養子として育てられたという経緯がある。母が市藏と千代子の縁組みを切望するのはこのことが作用している。市藏とは血縁がないが千代子は妹の子であるからつながりがあり、二人を結ばせることで母は市藏との血のつながりを間接的に回復させる形にしたいのである。肉親の情であろうか。市藏はこの出生の秘密を知らないが、しだいに疑念が暗雲となって形成されて悩まされることになる。大学卒業前後に事実を叔父の松本に聞かされてはじめて知る。
  この出生への疑念がきっかけの一つでもあるが、市藏は社会や人間への深い懐疑の持ち主であり、卒業後も人にすすめられても定職に就こうとはしない。「世間との格闘」に時間と神経を磨り減らすことをおそれる。友人の田川敬太郎によれば「退嬰主義の男」であり、市藏と同じく定職をもたない自称「高等遊民」の松本によれば、松本自身は社会の考えにあわせるタイプであるのにたいして市藏は社会全体を「考える種」にする人である。社会に順応するよりも一歩後ろへ下がって考えることを大事にする人である。書きおくれたが、市藏の父は子供時代に死去した。しかし高級軍人として多額の資産を残したのでその利子があって生活には困ることはなく、松本と同じく「高等遊民」をつづけることもできる。市藏には出世や金銭への欲望がいちじるしく欠けていて、母のいう「名をあげる」ことへの興味はないではないが、その内実を確信を持って満たすことはできない。詳しくは書かれないが、市藏は懐疑を梃子にして思想的格闘を演じる青年である。引きこもりではないがその傾向は少なからずあり、神経質で陰性だ。漱石自身の若い頃がモデルになっているのだろう。
  一方、千代子の父田口は事業に成功を収めて資産家となった人で、千代子もまた男性の立身出世を純粋に望む人で、社会に打って出ることを当然市藏にも望む。少なくとも市藏はそう解釈して、千代子との人生観の乖離を自覚して、千代子と結ばれたなら必ず千代子の期待を裏切るであろうという恐れを抱いている。だから千代子からは逃げたい。これは市藏の千代子との結婚にたいする理性的な判断であるが、もうひとつ彼は千代子への「熱烈な愛情」が不足していることも認めざるをえず、これは情の面での判断だ。だが市藏は千代子を決して嫌いではない。子供時代から家族ぐるみのつきあいがあって、遊んだり冗談や悪口を言いあったりした仲である。それに母の望みも痛切に知っているので、親同士と千代子とが相談して縁談をまとめてしまえば、自分が後で知らされたとしてもそれを受け入れるしかないという諦めもある。松本が市藏に語るところによれば、市藏親子は血のつながりのある普通の親子よりも何層倍も深い情の絆で結ばれた親子関係である。逃げたい、だがそれほどはっきりとは拒否の姿勢をつらぬくことはためらわれる。市藏は親子の情に縛られていて、悪くいえば「煮え切らない」のだ。反対に、千代子が別の男性との間で縁談が成立すれば市藏は胸を撫でおろすことができ、千代子を祝福する用意もできているつもりだ。
  市藏は千代子が自分にたいしてどんな気持ちでいるのか、千代子やその家族と自分の母が二人の縁談についてもしやより具体的に進行させないか、非常に気になる、知りたい。だがそれならば千代子やその家族もまた当然市藏の気持ちを知りたいはずなのだが、そこは市藏は衝撃を与えることをおそれて曖昧にしておきたい、自分の態度を決定しないうちに話が決着することを望む。市藏の無意識の狡さで、煮え切らないといわれるところだ。『心』の主人公の「先生」の青年時代もまた自分の気持ちを打ちあけることを不自然に引き延ばしつつ相手の女性の気持ちを知りたがったので、そこは同じである。一方、千代子はそういう市藏の気持ちのからくりを、市藏自身が想像するよりもはるかに深く見抜いている、従姉妹同士の親密さ以上の男女間の愛はついに自分にはそそがれないとなかば諦めている。だが男女間の気持ちはたえず動くもののようである。秤がどちらに傾くかわからず、この小説の興味もその辺にある。
  そんな市藏と千代子の間にあらわれるのが高木という青年である。この小説のもっとも緊迫する部分だ。田口家は鎌倉に別荘をもっていて夏休みの期間中に決まって一家で滞在する習慣なっていて、そこに須永親子も招待された。高木は千代子の妹百代子(ももよこ)の知り合いの知り合いという関係にあり、彼の一家もまた鎌倉に別荘を有していて、そのつながりもあって田口の別荘に入って交際することができた。高木はイギリス帰りということだからインテリかもしれない。「見るからに肉の緊(しま)った血色の好い青年」で、健康とはなやかさの空気を周囲にふりまく人であり、しかも社交上手で会話を楽しく進ませる能力にたけている。彼は結婚相手を探している最中でもあり、市藏もそれを知っている。高木は当然そういう眼で千代子を見て親密さを増そうとするのだろう。市藏の理性的な面からすれば両者の縁談がまとまれば、彼は肩の荷を下ろすことができるので歓迎すべきなのだが、事態はまったく逆になる。市藏は嫉妬の感情にじりじりと痛めつけられる。それまで彼は千代子を単独に思い浮かべたり、母や千代子の両親とのつながりのなかで千代子について考えたりしたが、「競争相手」を介在させて千代子を考えることはなかった。彼は適応できない。まして高木を頭のなかから排斥することもかなわない。不快であるどころか、嫉妬の炎で焼かれて一個の人間としておかしくなってしまうのではないか、変異するのではないか、そんな危機感すら市藏はにわかに抱くに至る。嫉妬とはこういうものなのだろう。競争相手が予期しない場面にいきなりあらわれて普段から意識している相手と仲良くすると、どうしても発現する。人は理性では割り切れないエゴイズムを懐胎していて、動物的感情を爆発させて反撃したい思いに思う先からとらえられる。実際に行動に移すことには距離があるが、感情の煮えたぎりは抑えられない。
  初対面にさいして市藏が自身と高木の人物像を比較するくだりがある。

彼は見るからに肉の緊った血色の好い青年であった。年からいうと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔付を形容するには、是非とも青年という文字(もんじ)が必要になった位彼は生気に充ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑った。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改まって引き合わされるのが、僕にはただ悪い洒落としか受け取られなかった。
 二人の容貌が既に意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか応対ぶりとかになると僕は更に甚だしい相違を自覚しない訳に行かなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹とか、皆親しみの深い血族ばかりであるのに、それらに取り捲かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えた位、彼は自由に遠慮なく、しかも或程度の品格を落す危険なしに己を取扱う術を心得ていたのである。(p234~235)


  だれでもがこういう場面に出くわすことがある。見た目も話しぶりもうかがえる性格も、自分よりも好ましく周囲の人から思われるであろう人と同席させられる。周囲の人は彼に興味津々で、しかも彼の巧みな話術に乗せられて楽しい時を過ごす。市藏の立場に置かれたなら、だれもが寂しさと劣等感をもたざるをえない。しかも市藏は普段は田口家を訪れたさいは自分が高木の位置を占めているのだから一層身の置き所がない。実際、その場では市藏は口数が少なくなって、会話の輪に入ろうとしない。高木が「千代ちゃん」と呼ぶのもおもしろくない。だが、だからといって市藏はにわかに千代子にたいして恋情を募らせようとはしない。そこはそのままで、「競争相手」として高木と接することに激しい懊悩を抱くばかりだ。高木も交えて田口一家と市藏は、漁師の舟に乗せてもらって遊ぶ機会もあるが、市藏は母を残して一足早く東京へ帰宅してしまう。千代子が彼を試すために故意に高木を彼の前に出現させたのではないかとの疑いも抱きながら。つまり鎌倉に来てから千代子にも理不尽な恨みを向けるのだ。(彼はそれを千代子の「技巧」(アート)と呼ぶ)そういう自分を見抜かれたくないという思いもあって、居たたまれなくなって市藏は帰宅する。

第9地区

映画館で見た映画
05 /11 2010
  ヨハネスブルグ郊外の「第9地区」に定住するエイリアンを,人間社会が「合法的」に別の人里離れた場所に移住させようとする、これが話のはじまりだ。同都市の上空に飛来し停止した宇宙船から人間は多数のエイリアンを救出して地上に住まわせた。だが二本足で直立するエビのようなエイリアンはグロテスクで、当然のように忌み嫌われ、人間社会からは差別の対象となる。店先には「エイリアンお断り」のマークが掲げられて、まるでかつての同国南アメリカのアパルトヘイト政策がそっくりそのまま引き継がれる。黒人もまた白人といっしょになってエイリアンを差別するという構造だ。この舞台設定が皮肉が効いている。
  第9地区は不潔きわまる。住まいともいえないような強風が吹けば飛ばされそうなバラックが林立し,バラックの外はゴミの山。現在の南アメリカの黒人部落もこんな風景かもしれないなどと考えてしまう。なんでもエイリアンは車のタイヤが好物だそうで(ほかにも好物がありそうだが不明)廃品をもちこんで漁るからだ。このエイリアン地区の薄汚さ、荒涼とした風景がこの映画の基調となっている。つっこみを入れたくなるのは、エイリアンは自給自足ができない様子なので、もしそれができれば人間社会もちがった対応をとるのではないかと思ったことだ。それにまたエイリアンはキャットフードの缶詰も好物でこの販売を牛耳っているのが黒人の犯罪組織というおまけもある。たぶんエイリアンは人間に全面的に資金援助をしてもらわなければ何も購入できないのだろう。人間も最低限の生活保障をするようで、見せかけの平和共存を維持していることになる。上空に停止した宇宙船を攻撃し撃墜しないのも、エイリアン独自の武器を没収せずに所持を許すのも同じことだろうか。
  軍事部隊まで引き連れたエイリアン移住担当チームのリーダー、シャールト・コプリー(役名ヴィカス)が第9地区に立ち入ったとき、あやまってエイリアンのDNAを体内に取り込んでしまい、左手の先がエイリアンそっくりの鋭利な黒い爪に変貌してしまう。ここから物語が動き出す。普通なら「感染」の広がりを恐れてヴィカスを隔離するのが人間社会だが、それに加えて、医療研究者は彼の肉体がバイオテクノロジーに資すること千金の値をもつとみて彼をわがものにしようとするのだ。ここが従来の変身ものとはちがう新しさとなっている。殺すか意識不明にするかして、冷凍保存して研究材料にしようとするのか詳細は不明だが、危機を察知したヴィカスは逃亡する。今までのチームリーダーが一転して重火器を持つ軍隊(傭兵?)に追われる身となる。ヴィカスの逃げ込んだところが何と「第9地区」。黒人にも狙われることにもなるが、彼はエイリアンの武器を使って応戦する。エイリアン専用の重火器やロボットが彼の保有するエイリアンDNAに感応して使用可能になったのだ。かくまってくれたエイリアン親子の大事な願い(ここは省略)にもこたえて獅子奮迅の活躍をするヴィカス。このあたりのアクションはCGをたっぷり使った昨今の映画と変わらず、退屈かもしれない。
  さてヴィカスはどうなるのか。ついに発見されないままに終わるのだが、識者や家族のインタビュウが最初と最後にある。後者においては識者は某国に拉致されたのではないかと推理する。彼の妻は家の前で発見した造花について語る。そしてひとりのエイリアンが手に持って見つめる同じ造花。視聴者にははっきりとわかるのだ。このエイリアンがすっかり変身してしまったヴィカスだと。ここはもの悲しい。ほんのわずかに残った意識が妻にプレゼントした造花を見つめている。やがては意識もなにもかもヴィカスはエイリアンになってしまうようだ。解釈は自由にできる。身はエイリアンでも心は人間のままだと見なしてもよいのかもしれない。だが私は身も心もエイリアンになってしまう、そのときにはヴィカスという人間は消滅すると読みたい。グロテスクなエイリアンが瞬間ではあるが可憐に映る。反差別を貫くのは容易ではないが、その辺に貴重なヒントが隠されている気がする。
  ★★★★

回想

自作エッセイ
05 /09 2010
  リズムは単調なほうがいい。1,2,3,4,1,2,3,4の繰り返し。熱と力を込めて打ち出すリズム。それを固守しつづけるとやがて出口が見えてくるような気がする。出口なるものがどんな相貌をしているのかはわからないが、リズムを打ち、踏みつづけることの苦闘からやっとこさ逃れられる、そんな気に漠然とさせられて、人から見ると随分執念深くリズムを刻んだものだった。一見すると、外部に働きかけているようだが、実際的にもそうにちがいないが、私がそのさいに依拠したのはこのリズムで、リズムの高まりが外部との関係の固有性や具体性に関わらず、その働きかけをよりよく有効にしてくれるという迷信を抱いていた。外部の具体性を観察するよりも余所見をするように内部のリズムを注視していた。つまり私は馬鹿だったのであるが、馬鹿から遠のくのには随分と時間がかかった。
  ことの起こりは反戦デモへの参加である。私の政治的意見は支離滅裂であったが、ベトナム戦争やら 安保条約にたいしては一応反対でった。高校一年の時であったが、多数派ではないにしろ、私と同じ意見の人も当時は少なくはなくその人たちのグループに誘われた。参加してみるとたちまち肉体がへろへろになって、こんな辛いことだとわかっていれば参加しなかっただろうと途中で後悔と寂しさに突っつかれた。両脇の二人とスクラムを組んで前の人のベルトをつかみ、同じく私の後ろの人は私のベルトをつかむという方式の隊列で、数キロの距離を緩い駆け足くらいの速度で「安保粉砕、日帝打倒」とシュプレヒコールをして進むのだが、これが傍から見るのとはちがって猛烈に体力を磨り減らした。普段の運動不足もたたった。デモが終わってほっとしたのは勿論だが、そこで私の政治活動は終わることはなく、むしろ始まってしまったのだ。数日たつと反発心が湧いてきた。俺の政治的意見とはなんとひ弱なものだったのかと恥ずかしさと反省の念に責められて、あと何回かは試してみようという気になった。そのうちに馴れてきて「安保粉砕、日帝打倒」の叫びは1,2,3,4のリズムに自然に合致してきた。
  単純なリズムだが、肉体の制限をかけられたうえ政治的観念を背負って走るとリズムはリズムの刻みを固守しようとして踏ん張り、そこにより多量のエネルギーが必要となる。リズムが力を獲得したにちがいないが、そこになにかしら人間的な向上をも私は委ねてしまった。マルクス主義には社会進化論的な見地があって、政治運動によって必ずや革命を通じて社会主義に到達するという金科玉条があるが、そういう「約束された未来」への歩みの基礎としても私はリズムを見なしたのだった。リズムが一番で、周囲はすべて雑駁物でやがてはこのリズムに収斂されるべき存在にしか見えなかった。つまり私はリズムを中心にして動き優越感にひたってもいた。
  十代後半がこういうことだったので、かかるリズムと政治運動は私の自己形成に深く関わってしまった。間違いだったと気づいてもそこへ引き返してやり直すことはできない。そして政治運動から身を退いた後も「リズム」は頑固に私のなかに居座った。いや、それを仕事や生活のなかに直接的に適用できないからこそむしろ幻影として私のなかに分離されて根を下ろした。私の仕事は当時も今も同じ物作りであるが、そこで大事なことは対象物に寄り添うようにして大事に扱うことであるが、一方私のなかのリズムはそんな細かいことは省略して前へ前へ進め、そのなかで酔えと命ずる性質をもっている。だから私には仕事よりもリズムが格段に面白く見えた。それと一体になれないことのもどかしさを日々痛感していたし、腑抜けの状態でもあったのだ。いったいあのころの自分とは何だったのかとよく考えた。政治論に関してはやらなければならないという思いはあったが、自然に興味を失っていくのは明らかでどうにもならなかった。あの頃の自分を考えるよりも幻想のなかでもいいからとりもどしたい、そちらの願望が強かった。
  自分一人の力で何とでもなる。何をどうしようという具体的目標はとくにない。リズムがふりまく陶酔と毒に没入すれば死だって知らぬ間に受け入れられる。私が恐いながらも憧れていた「リズム」である。

想像力

自作エッセイ
05 /05 2010
  暗闇のなかで人の集団が親しげに集まっている。人数はそれほど多くはないようだ。男同士か女も混じっているのかはわからない。車座になって酒を酌み交わすのか、ダンスをするのか、そこから発展して女がいるのなら乱交パーティに及ぶのか、あるい暴力的な集団リンチが開始されようとするのか、はたまた政治的な謀議のたぐいのために知恵を絞り出して確認し合うのか。
  こういう曖昧ななかにも熱気を帯びた人の集まりをたびたび想像した。過去形で書くが、現在においてもその痕跡は私のなかにある。ただかかる人の集団は暗闇のなかにあるからつぶさには見えない。見えないから逆にああでもないこうでもないと仮定を重ねていくが、決定には至らない。無論私の勝手な想像だから確たる根拠にもとづいてその映像の何たるかを決定することは、私にもその映像の側にも何も材料の一つもないのだけれど。ふりかえれば、むしろ決定したくはない、決められてしまうとありきたりでつまらないという思いが、私のなかに気づかずに巣食っていたように思われる。想像なら逆に私が気儘に決めてしまっても何らさしつかえないから。その映像が暗闇におおわれてかすかに窺うことしかできないことが、またどうにでも解釈を変えられることが私の非決定を最初から保障していたともいえる。また私はこの想像による映像に少なくとも何らかの刺激をもとめてきたことだけは確かである。
  私は日常の生活では漬かることのできない暴力や性にひそかに憧れていた。暴力や暴力的な性行為を即座に肯定する者では私はないが、日常における飽き足りなさや退屈さがこういう映像を呼び込んだといえる。日常になかなか腰が据わらないという自信のなさもあった。また「日常」という以前に、十代後半に政治運動にとびこんで活動した履歴があって、そこでは政治権力に対する暴力を肯定する立場に立ったので、その痕跡を体内に抱え込んでいて、その影響が多分にあった。私が政治活動をやめたのは単に疲れたからであり、その政治的な思想面に否定の刻印を押したからではない。今ではそれを否定できるが、そこに至までには十年以上はかかっているので、その間は以前の政治活動への内なる執着は少しずつ退いていく熱とともにくどくどとあった。自分から身を退いたものの、行動を何者かに中断させられたような気分もあった。だから私は未練がましい感情とともに政治的暴力や衣をはぎ取られた暴力そのものと、ごく自然に向き合う期間がしばらくつづいたのである。今から思うと、未練と客観的な立場に立つこととが私のなかでうまくバランスがとれていなかったし、そのことに自分でもなかば気づいていた。すると考えたり想像したりすること自体に厭気がさしてくるはずだが、想像や空想とは衰えても衰えたなりにあっさりと脳内に流入してくるので、大げさに言えば自分の肉体を滅ぼさないかぎりは寸断しようがなかった。
  想像と空想はなおつづいた。私が抱く映像は暴力のない世界ではないが、暴力が画然として存在する世界でもなく、暴力が影や臭いとして立ち昇ってくる世界だ。暗闇の幕がかかっているので確定することができない。人は暴力を知ることができる。別にその行為の実行者にならなくてもその被害者を知ることによって、目の当たりにしなくても、葬儀などによって死者を見ることによってできる。暴力の被害者とは負傷者や死者であり、死とは暴力によるものであっても病魔や事故によるものであっても死として平等で同一だからだ。死を知れば暴力を知ることができる。ならば私は暴力実行者の思想を知りたいのか、それはある程度は知っているので、それ以上詳しく知りたいとも思わない。だが反面、実行者の確信ある表情ややりとげたあとの勝利感、そこでの湯気が立つような感情のたゆたい、ほくそ笑み、そういうものに実行は拒否しながらも想像や空想でたどりついてみたいという願望は非常にうしろめたいが、ある。そうならば、暗闇での映像の人物群は私の部分としての「同志」なのかもしれない。これは政治運動の時代に私が暴力において不徹底であったという過去の思いの(暴力をふるわなかったのではない)反動からくるとも考えられる。だが私はやはり嫌だ。暴力者にすり寄りたいという感情は微弱であっても今も残り滓があるが葬り去りたい。それは自分の一部を形成するものであるらしいので引きずらないわけにはいかないから、距離をとったり形骸化することはやらないといけない。自然に、私の歩みはそういうふうに形成された。
  想像することそれ自体が魔であるとの反応が、今の私にはある。想像した瞬間に想像の世界からうしろで襟首をつかまれたように引き戻される。そういう瞬間だけは自分自身だと誇っていいのだと思う。暗闇の世界をかきまわすのはこれからだ。

戦いのイメージ

自作エッセイ
05 /03 2010
  岩陰に隠れるでもなく佇んでいる男が眼に浮かぶ。彼が眺めやるのは前方に果てしなく広がる空間である。砂漠と呼んでもいいだろう。彼とは誰か。私のようでもあるが、そうでない気もする。少なくとも私にとっては親和感が自然にわき上がる人物像だ。彼はやがてその広い空間に出て行く。そのための準備をしているのであり、それまでの疾走に対する休息をみずからに与えるようでもある……。
  こんなイメージがついこのあいだまでよく浮かんだ。私なりの戦いのイメージだったかもしれない。だがこの空想の戦いには具体的な目標は特になく、したがってかくかくしかじかの言葉の群れもない。戦いとは現在の自己を含む周辺と世界を自己の思い通りに変えようとして、世界や人々に働きかけるものであり、またその働きを妨害してくる人物や事象に対して、あくまでも働きと意志を貫こうとするものであろうが、そういう生々しさや臨場感はない。したがって妨害してくる対象に対する恐怖もなく、空想の呑気さを中心に置く体のものである。私はこの空想を愛したのか、自然にわきあがってきてほんのり陶然とするところもあったので、愛したといえるのであろう。またその男の姿に対して声をかけるかのように凝視したことも少なくなかった。凝視によって何か意味ありげな結論がもたらされるかのように。当然というべきか、私の凝視はたいした成果もあげることもなかった、つまりそのイメージはそれ以上の広がりと実りをもたらさなかったのであるが。
  私は現在において戦っていないはずはない。生活の維持と再生産という限られた目的のために戦っている。生活そのものとして戦っているのだが、それを否定したいという思いは絶無であるはずなのだが、理性面ではともかくも、この現在の戦いには、私はどこかしら欲求不満を抱いているらしくて、それがかかる空想をしばしば喚起させるのだと思う。もっと他の戦いの方法はないのかと無い物ねだりをするのかもしれない。自省して他人事のように私自身に対して考察を加えるのだが、私は戦いを支えるリズムを、しかも力強さと単純さを兼ね備えたリズムをぼんやりと空想したのだろう。無論リズムだけでは戦えない。具体的な目標とそれをささえる言葉がなければ戦いにはなりえない。それくらいは百も承知していたはずだが、好ましいリズムひとつで戦いになりうる仮想空間を無意識に呼び込んだのだ。その空想を味わうように眺めるとき、私は痴呆であったのかもしれない。イメージの中の空間が砂漠ならば、地平線がある。その彼方にあたかも具体的な目標物が、はたまた理想郷があるかのように、私は彼をしてそこへ向かって走らせようとする……。
  少し飛躍する。私がここまで書いたことが例にあたるのかどうかは別にして、人間とはとんでもないことを思い、あるいは悩むものだということを最後に加えておきたい。つまり常識とか標準的人間像とかで人間の行動を律することはできても、その心の奥底ではそれらに相反するものが煮えたぎっている。人間一人一人の表皮をめくれば顔をしかめたくなる歪さが潜んでいる。そういうことを想起せずにはいられない。それが行動に直結しないかぎりにおいて常識や道徳なるものが成立するのだ。 

seha

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