大洋ボート

影武者

  この映画が公開された当時の新聞評を部分的に覚えている。主演予定だった勝新太郎が途中降板して仲代達矢に代わったのだが、仲代を見ながらどうしても勝がダブってしまった。勝がやっていればもっと面白かっただろうに、と。おおよそこんな感想が記されていたが、私も今回初めて見て同じ感想をもたざるをえなかった。
  仲代は武田信玄の影武者。強盗の罪でつかまって死刑にされるところを顔が瓜二つのために目を付けられた。まもなく信玄が死んだためにその役割がさらに重要性を増してくる。信玄の遺言によって、その死を三年間は隠さねばならなくなって、仲代は二十四時間信玄を演じなければならなくなる。彼が影武者であることを知っているのは信玄の一部側近のみだから、敵は無論、味方の大部分を欺きつづけるという強盗上がりにとっては過大な役割を背負わされるのだ。だから視聴者からみると「信玄になりきれない信玄」である。おどおどしたり、逆に有頂天になったりする。また、影武者であることがばれそうになってあやうく切り抜ける場面もいくつかある。それらの場面に、スリルではなくユーモアを感じとってもらいたいのだろうという黒沢明監督の意図もよくわかる。だがやっぱりこれは勝新太郎にやってもらいたかった。仲代は演技達者な人だが、映画ではクールでニヒルという役どころが多い。演劇のことは知らないが、映画作品では観客を爆笑に誘うような役柄はあまり経験がないのだろう、板に付かない感じがした。たとえば、亡き信玄の愛馬に乗って疾走したはいいが、味方の軍勢が立ち並ぶなかで落馬してしまう場面があるが、ここは勝ほどうってつけの俳優はいないだろうと思った。落馬といえば「七人の侍」の三船敏郎がそれをする場面があったが、あれは面白かった。三船がもし若ければ彼でもよかったといいたくなる。
  物語の流れも悪い。影武者であることがばれて、仲代は金を持たされて追放されるのだが、そこで物語がぶっつりと終わってしまう。その後、武田軍が壊滅的敗北を喫する長篠の戦いへとつづくが、連続性がないのだ。武田勝頼(萩原健一)は「影武者」の時代が長くつづくのを、自分が総大将になる時期を遅れさせられる結果になるので嫌ったが、影武者追放のために策をもちいるでもない。影武者の仲代が自分で転んでくれただけだ。つまり萩原健一が仲代にもっと噛んでいれば、群像劇として面白さが出たのではないか。
  しかし、書いておかなければならないが、戦国絵巻としての映像(色彩と構図)の美しさは一級品だ。赤やくすんだ緑の軍旗、鎧甲の軍団が移動すると緑の少ない原野に鮮やかに映える。歩兵の群れも美しいが、騎馬軍団が画面を整然と横切るさまは蹄のどよめきも加わってより美しい。
  ★★★★

(現在、大阪市の敷島シネポップで、黒澤明監督作品が連続上映中です)

影武者<普及版> [DVD]影武者<普及版> [DVD]
(2007/11/09)
仲代達矢;山崎努;萩原健一;大滝秀治;倍賞美津子

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アイガー北壁

  1930年代半ば、各国の登山家が前人未踏のアイガー北壁ルートでの登頂を目指していた。ナチス政権下にあったドイツでも、それまで何人もの遭難者が出たにもかかわらず、国威発揚のためもあって、次なる挑戦者の出現に期待した。マスコミも注目したが、新聞社のカメラマン(女性)、ヨハンナ・ヴォカレクは幼なじみの登山家二人に白羽の矢を立てる。慎重だった二人だが、国民的期待に背中を押されるように、やがて挑戦することになる。
  真面目な姿勢が映画につらぬかれていて好感が持てる。俳優陣がいい。リーダー格のベンノ・フェルマンの眼差しや、ヨハンナ・ヴォカレクの明るさからしだいに深刻さを増していく表情など、大げさにならずしかも核心を外さずに演じている。創作方法もオーソドックスで見やすい。極端な顔のアップ、細切れのカットの連続、そういったものがなく、どちらかといえば古めかしい作り方だ。だが山場の登山、特に遭難の場面はどうか。あまり目新しさがなくて食い足りない。吹雪の寒さ、落石と雪崩、岩に打ち込んだハーケンと呼ばれる金具が体重の重みで外れそうになる。私は登山のことは知らないが、遭難事故とはたいていはそういうところから発生するようで、この映画でも同じだ。そこを問題にするのではない。撮り方が従来の山岳事故をあつかった作品とほとんど同じであることに不満が残る。とくに登山者をカメラが水平の位置から撮ることが多すぎる。セットか実際の低い岩山か、どちらかを使って撮影されたと思われるが、それをすぐさま連想させてしまうのが残念だ。落石や雪崩の場面など、下から(登山者の足下から)撮影することをもっと多く試みてもよかったのではないか。映画は過去の作品と物語は同じでも、撮り方によって新しく生まれ変われるものだが、本作はそこまではとどかなかった気がする。
  とはいえ、登山者に危機が迫るにつれて女性カメラマンのベンノ・フェルマンへの思いが「幼なじみ」から恋へ一気に駆け上る変化は真実味があった。山をぶち抜くトンネルの中頃に駅があり、そこから北壁に通じる展望台に出ることができる。ヨハンナ・ヴォカレクと救助隊は後一歩のところまで瀕死の登山者に接近するのだが。
  ★★★

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夏目漱石『こころ』(2)

  主人公は娘さんを最初に見たときから恋心を抱くが、それをなかなか打ちあけずにぐずぐずする。これは主人公の恋愛にたいする特異な接し方で、漱石その人のものでもあると思える。女性観や人間観として私からみればたいへん窮屈に映るものだ。ある場所では、主人公は自分たち世代の特色だという説明をするが、それだけとは思えない。そしてまた反面、ぐずぐすることが、主人公がそれを娘さんなり奥さんなりに何時言おうかと何時言おうかと毎日のように煩悶することが、この小説に小説としての迫力ある動きを与えている。
  片思いと決まったのではないから未練を引きずるのでは勿論ない。娘さんの素振りに冷酷さを見たのでもない、十分に脈があると踏んでいた。また自分の気持ちに熱さが足りないと見たのでもない。なにかしらKに追いつかれそうになって初めて、娘さんではなく奥さんに切羽詰まって打ちあける。これがいかにも遅すぎるのだ。恋心を男性からうちあけて、もし女性が好ましい返事を返してくれたならそこからつきあいがはじまり、お互いに気持ちを育てていく、そういう今日風の恋愛の風景は成立しようがない。何故か。主人公は、自分から言わないままで、娘さんのほうから恋心の確証がもたらされることを陰に籠もってじりじりと待つのだ。極論すれば、打ちあける前に相思相愛の状態が仕上がっていることを彼は望む。こういう恋心のあり方は奥ゆかしいのか、言い方を変えるのではなしに私には異常に見える。照れや自信のなさは恋愛につきものだが、主人公にもその傾向はあるのだろうが、それとは峻別すべきものがはびこっているようだ。縮こまりと頑なさ、それに虫のよさが窮屈に同居している。Kは勿論、下宿の二人の女性も主人公のこの性向を知らない。もし知ったとしたらどうだろう。主人公が娘さんを好きという恋心は二人の女性にとっては嬉しいにちがいないが、そのあり方だ。気持ち悪く取るのだろうか、真面目と思うのか、小説の範囲外のことで、そこまではわからない。好都合なことに、主人公から見れば、二人の女性は彼を「鷹揚」な人だと好ましく誤解してくれている。外面においては彼は奇人ではなく、二人の女性と世間話をして快活に時間を過ごせる人である。Kもまた主人公を自分のように学問探究一筋ではなく、学問と社会的つきあいとの両方に目配りの効く人物とみなして頼りにするようだ。
  この主人公の外面の「鷹揚」さが、小説の表面上を落ち着いたものにしている。主人公やKがあらたに加わっても、女性二人の生活は以前と何ら変わらない。たとえば娘は下手な琴の練習をずっとつづけて艶やかな空気をふりまく。主人公の衣服を買うために、二人の女性が主人公を連れていったりするのは、むしろ明るさが増すようだ。その一方で、主人公は外見を装う自分と、娘さんが好きだという「真実」を抱えた自分とに分裂する。この小説の鮮烈で、かつ深刻な中心部だ。
  真実をいつまでも二人の女性に黙っているのと同様に、主人公はKにも黙っている。この両者は同じではない。前者の延長線上に後者が位置するのは事態の推移や勢いもあるが、後者には嫉妬とエゴがさらに加わっている。先述したように、後になって主人公は後者を痛切な罪責意識でふりかえる。だが前者にたいしては主人公は後悔も反省もしない。偏狭な恋愛観であることは自身で承知しているものの、私はこういう人間だ、こういう態度で接する以外にはなかったとふりかえる。この両者の関係は注意しなければならず、また私が今回ひっかかった個所である。重複するとは思うが、ここをもう少し見ていきたい。

私はその人に対して、殆ど信仰に近い愛を有っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかもしれませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私は御嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。御嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛と不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕(つら)まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出来ない身体でした。けれども御嬢さんを見る私の目や、御嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。(p175)


  主人公が娘さんを見初めたとき以来の感慨を述べている。「宗教心」に似た恋心で、女性を思うと自分も高められる心地がした、性欲の方面を刺激されることはなかったと言う。私などは恋心において性欲を刺激されないということはまずないやくざな人柄であるが、この述懐は正直に受け取りたい。ただやはり「お嬢さんの顔を見るたびに」とあるように、主人公は女性の姿形に惹かれているので、ここは恋愛感情としては一般的で、おそらくはKもそうだろう。娘さんは美形なのだ。それに主人公はある事件があって人間不信に陥っていたさなかであるから、人を好きになる、なることができるということ自体が自分を落ち着かせ、据わりのよさを回復させることにもなった。
  その事件とは、この下宿に引っ越す直前ともいえる学生時代の出来事で、主人公は相次いで両親を亡くした。兄妹がいないので家屋をはじめとする遺産の管理を父の弟である叔父に任せた。たぶん実印やら書類やらを預けたのだろう。やがて叔父は娘、つまり主人公から見て従姉妹にあたる女性との縁談を彼にもちかけてきた。主人公がそれを断ると、知らないうちに遺産はすべて叔父の所有になっていて、主人公の元には毎年わずかの利子が支払われるに過ぎなくなった。これがきっかけで主人公は他人にたいする強い猜疑心を植え付けられる。人は普段は善良でも目の前に金をつきつけられたら転んでしまう、変わってしまうというのだ。恋心を抱いても主人公にはその猜疑心は消えずに沈殿したままだ。そしてそれが恋心のなかにときどき顔を出す。下宿の二人の女性に好意を持たれて遇せられることを主人公は直感するが、それでも彼は二人がぐるになって自分を丸め込もうとしているのではないかと疑いもするのだ。また、Kが主人公に恋心を打ちあけたのちに「覚悟」ができているとも言うのだが、それを彼は自分に先んじてKが娘さんにプロポーズすることではないかとの疑いももつ。彼が自殺してみれば「覚悟」とは死にたいするそれだと理解できるのだが。まだある。彼はプロポーズしないうちから、たとえそれをしても女性は本心を言わないのではないかとの疑いに絡めとられる。結果、奥さんにうちあけることになる。
  主人公のこういう猜疑心は、読者として心地いいものではなく、私はひっかかる。根深い人間不信を見てしまう。親戚にたぶらかされてにわかに形成されたたぐいの心でもないと思える。まだ読んでいないが、漱石を論じた書を目にすれば理解が深まるところがあるのだろう。
  主人公が心を奥さんに「擲(たた)き付けようかと考え」て、ずるずると延期する日々を説明するくだりがある。Kの来ないうちは「他(ひと)の手に乗るのが厭」、つまり二人の女性の狙いどおりになるのが厭だという「我慢」が働いた。娘さんが好きだという心は強くあった。また奥さんに言う勇気もあった。結果、優柔不断になったが、内心は燃えていたと言うのだ。

Kの来た後は、もしかすると御嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。果たして御嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどというのとは少し訳が違(ちがい)ます。こっちでいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだ位の哲理では、承知することが出来ない位私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に尤も迂遠な愛の実践家だったのです。(p222~223)


  主人公はものすごく手際よく自己を説明しているではないか。相思相愛がはじめから完璧にできあがっていなければ、結婚はおろか愛することさえできないというのだ。当時は見合い結婚が圧倒的に多かったのだろう。その時代に恋愛結婚を、それも形だけがそうであればいいのではなく、金などの力で押すのでもなしに、愛の実質をある意味贅沢にもとめるという理想主義にもとづく恋愛結婚を希求したのだ。しかも嫉妬心に苛まれながらその理想を手放さなかった。これは読んでいて、私には苦しくてとてもなじめない世界だ。嫉妬が苦しいのはわかるが、さらにそのうえに、恋愛にたいするこういう理想主義をまさに「道」さながら耐えながら希求するからだ。しかし主人公は、過去における自身のこういう理想主義を微塵も後悔はしていない。Kに「真実」に反したことを口にしてしまった主人公のそのことにたいする痛苦とは、次元を異にする問題である。
  読了後、ひっかかった部分だけをつつく形になってしまった。この小説には取り上げるべき問題がほかにも豊富にありそうだが、後日にゆずる。

    23:55 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

夏目漱石『こころ』(1)

こころ (ワイド版岩波文庫 (204))こころ (ワイド版岩波文庫 (204))
(2002/02)
夏目 漱石

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  この小説は二十歳代以来二度ほど読んだと思う。ぞくっとしたのは、やはり主人公の友人が同じ下宿の主人公の隣の部屋で自殺したくだりであった。頸動脈を剃刀で一気に掻き切ったKという友人の鮮血が襖に飛び散った跡を、主人公は驚天動地の思いで目撃するが、読者の私にもそれが目に見えるようだった。ただしそれはモノクロ映画で見るような黒い血の色だったと記憶している。今度読んで、それが夜明け前の薄暗さのなかで発見されたことをはじめてのように知って、やはりモノクロの血の色の印象に変わりがなかったことを知らされた。しかしその他のこと、とりわけ主人公の人間観やら心情やらは忘れたというよりも以前は曖昧な理解しかできていなかったことを知らされた。何も読んでいなかったのではないかと、恥じざるをえないところが多くあった。
  「先生」とある青年に呼ばれる主人公が青年宛に遺書を書いて自殺する。遺書にあたるのが「下」の「先生と遺書」で、そこで主人公とKの一人の女性をめぐっての三角関係がくわしく綴られる。主人公にはKを裏切った、自分がKを殺してしまったという痛恨の思いがあり、のちの生涯の全体にのしかかるほどの罪責感に苛まれる。長く生きた主人公だったが、明治天皇の崩御や天皇を慕った乃木大将夫妻の殉死に触発されて死の道を選ぶことになる。青年は偶然知り合った先生を尊敬のまなざしで注視して交際をつづける。そして先生をもっと知りたいと思い、その青年の思いは先生も承知している。主人公は青年の欲求を満たしてありあまるほどの長文の手紙を書いて、羞恥とともにあらいざらいぶちまける。
  前回読んだときには、青年から先生、先生から明治天皇や乃木大将へという先行する世代への尊敬の思いが糸として一本につながっている観があって、倫理的にうつくしいと感じた。また死を選ぶことによって人生を、自分はこうだと決定づけることもうつくしく感じられた。同時に縁遠さも感じたにちがいない。余生への未練を断ち切ることなんて私にはとてもできないという思いであっただろうか……。だが今回はその部分にはあまり動かされなかった。主人公は公平にみて醜い人間であること、Kの自殺によってそれが決定づけられてしまったこと、だが主人公もそれを骨身に染みて知っていて、何年たってもそれを正面から見据えることをやめない、逃れられない、当時も今もその切迫感のなかで生きつづけていること、その部分に動かされた。また主人公の、というよりも漱石の特異で窮屈ともいうべき女性観にもたいへんに引きつけられた。
  もうひとつ。「若さ」とは壮年になってもふりかえられるものだ。異性もふくめて周辺と積極的に、また「はじめて」関与していこうとするのが若さで、このとき世の中の厳しさや自分の甘さや醜さを痛切に知らされる。そして痛切さはあるもののそれを読み解くことが、人によっては即座にはできない。読み解こうとするうちにいつのまにか歳月がかさなっていく……。「若さ」の骨格は死ぬまで残るのではないか。若さの渦中にあるときは壮年の人の書いた若さは、無知や傲慢が手伝って同じ若さとして理解したくないという、そうまでではないにせよ縁遠いという気持ちがはたらくのではないか。私がかつてそうだった。だが自分がいざ壮年期になってみると、自分について考えることは自分の若さ(その時代もふくめて)を標的にして考えることと極めて近似していることに気づかされるのだ。すると壮年の人の書いた若さが、ずいぶんと身近に感じられてくる。この小説でもそんな思いをもった。若さは体力のすり減ると同時進行的に消滅するものでもないらしいのだ。
  主人公は明治のなかばの頃の大学生で、複数人数で一部屋に住む下宿から逃れて軍人の未亡人と娘の住む「素人下宿」に引っ越した。彼はその娘さんを見初める。また主人公には同郷で同い年で、同じ大学に席を置く友人Kがいる。Kは浄土真宗の寺の息子で医者の家に養子に出された。医学部に入学する約束で養家に大学に通わせてもらうが、その約束を破って彼は文化系の学部に入る。宗教的な「道」を極めようとの決意が固く、その方面の学問探究にのめりこむ。勉学の度が過ぎるあまり心身を衰弱させるが、それもまたKは意義あることと自負する。主人公はKを一目置くが、その衰弱ぶりに同情するあまり自分の下宿に引っ越すことをつよく勧める。良好な環境に住まわせることで、その「神経衰弱」からの回復を期待した。主人公の思惑はあたってKは健康を回復するが、そこへきて主人公にとっては厄介なことが起きる。Kもまた娘さんを好きになってしまうのだ。それはまたK自身にとっても厄介である。なぜならKは自己を虐めることをいとわない禁欲主義的な生活態度を旨とするから恋愛という一種大きな本能にかまけてしまうことは主義主張に反するのだ。その煩悶によってKは再び衰弱の下降線に落ちていく。迷いに迷い、たまらなくなってKは主人公に相談を持ちかける。俺を批評してくれと依頼するのだ。だが、そこまで来てもKは、主人公が以前から娘さんを好きであることをまったく知らない。ただ主人公だけが相手を恋敵であると意識し憎むという構図になる。相談されたときにも心の内を黙っている。さらに嫉妬にあおられるように悪辣にも、Kの普段の言説を借用してKを打ち砕く。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と。主人公にはKがくたくたに衰弱していることが手に取るようにわかるから、その言葉はまるでとどめを刺すようだが、残酷にも主人公は内心凱歌をあげる。
  もしこのとき主人公が自分の恋心を打ちあけて、なおかつ恋愛は人間にとって自然なことでありそれ以上に大事だという自分の普段の思いを吐露すればのちの展開はちがったのかもしれない。主人公はそのとき狭小であった。恋というエゴを優先するあまり友人を捨てたのだ。まもなく主人公と娘さんは内々に婚約を決めるが、そのときもKには知らせないままで、Kは未亡人(奥さんと呼ばれる)からその事実を知らされて数日後自殺する。このことからKの自殺は「失恋」だけではなく、友人たる主人公の虚偽と裏切りが密接にからんでいたと考えられる。主人公もそう考えざるをえず、先に記したように自分がKを殺したという罪責意識にずっと苦しめられるのだ。
  主人公は自分の「悪」に落ち着いて正面から向き合っている。隠したり飾ったりはせずに、正確な再現を旨として書いている。遺書だからということで、自分を死の世界に突き落とすために苛烈に表現するのではなく、正確さそれ自体が読者には苛烈に映る。嫉妬の炎が主人公を内側からかき立てて、ついにエゴにしがみつかせるという主人公の心の推移がよくわかる。自虐的であり、書くことによって、再現することによって、主人公は自分を容赦なく痛めつける。フィクションという前提をもって読むものの、よくここまで書けるものだと重い感動に引きずりこまれる。
  嫉妬とは、だれにでも経験があると思うが、制御の効かないものだ。性欲が肉体に宿る動物的本能だとすれば、それが精神面に反映したものが嫉妬ではないか。いや、性欲を、外に向かって行使しないことで抑制することができたとしても、嫉妬はそれによって内面を支配されただけで捕らえられたことになるから始末が悪い。嫉妬しまいと念じてもしてしまう。嫉妬することが無意味で不合理だとどれだけ思っても、すずやかな理性で内側を支配しかえすことがなかなかできない。また、嫉妬心を抱きながら、あたかも何でもないようにふるまうことほどつまらないことはない。萎縮してしまう。そこでありうるのは変な言い方だが、逆に嫉妬に一体化してしまうのだ。主人公は娘さんが好きで、そこへ近づいてきたKに嫉妬するのだが、主人公からみて娘さんには脈がありそうだから、引き下がるのは馬鹿らしい。恋愛感情の渦中にある主人公は行動したくてうずうずしているので、そこで嫉妬という後ろ暗い感情の力を借りて、Kに心にもないことを吐いてしまう。自己中心性だ。

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