大洋ボート

告訴せず(1975/日本)

告訴せず [DVD]告訴せず [DVD]
(2006/08/25)
青島幸男江波杏子

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  青島幸男は選挙資金3500万円の運び役を頼まれるが、持ち逃げする。温泉宿にしばらく身を潜めた後、仲良くなった仲居の江波杏子とともに東京へ出る。金を提供した大物議員と金を受け取るはずだった地元岡山の議員と双方の関係者から追跡される身の青島だが、江波とともに小豆の先物取引で大儲けして極楽気分。これが中盤までのあらすじだ。
  こういう映画の結末は、たいていは追っ手に居所をつきとめられて金を奪い返されるどころか、もっとひどい目に遭うというのが相場で、本作も例外ではない。しかし極楽気分のほうが追われる恐怖よりも勝っている。これは新しい趣向かもしれないが、恐怖感がいっこうに盛り上がらないのはやはりもの足りない気がする。追う側もそれほど熱心には見えない。唯一、先物取引の会場で知り合いになった加藤嘉が青島の岡山なまりを言い当てて青島をぞくっとさせる。この加藤だけが無気味だが、出番が少ない。
  青島幸男は当時参議院議員だった。少し前までは歌謡曲の作詞やコントをつくっていたし、当時もテレビタレントしても有名だった。そういう彼に政界の暗部に身を落とす役どころをやらせたかったのか。当時見れば議員としての彼の身分と映画の内容との比較が面白かったのかもしれない。しかし俳優としては素人の域をいくらも出ていない。青島の顔立ちはハンサムでもなく恐くもない。少し陰気がかった平凡さの印象だ。そういう顔の人が魔が差して大胆な犯行にのめりこむのはいかにもありそうで、狙いはいいが、その興味もはじめの部分だけで賞味期限が切れる。
  ★★
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森枝卓士『図説・世界100の市場を歩く』

図説 世界100の市場を歩く (ふくろうの本/世界の文化)図説 世界100の市場を歩く (ふくろうの本/世界の文化)
(2009/09/09)
森枝 卓士

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  食材を得るためによく買い物をするが、ほとんどスーパーマーケットで済ましている。市場(いちば)と呼ばれる個人商店の集合所は、私の近所では絶滅してしまったし、個人商店にも滅多に行かない。スーパーでまとめ買いをしたほうが支払いが一度で楽だからだ。それに食材ならあらかじめ発泡スチロールとラップで包装されているから見た目清潔だし、段々に重ねても大丈夫。ということで日本では市場は少しずつ衰退しつつあるのかもしれないが、外国ではまだまだ健在である。日本にだって卸売市場はなくてはならない役割を果たしている。
  大きな市場から露天がいくつか集まったごく小規模のものまで、世界中の市場を訪ね歩いてできた本である。短い記事ごとにカラーやモロクロの写真が豊富に掲載されていてちょっとした旅の気分が味わえる。それに食に関する豆知識もおもしろく得られる。
  市場は人の集まりそうな場所に設営されるのが常識かと思ったが、そうでもないらしい。南アフリカはヨハネスバーグ郊外の草原地帯では木陰を利用していくつかの露天が集まって果物やら飲み物やらを並べている。周囲に家並みはなくドライブ客が目当てと思われるが、流行っていそうにない。自給自足の余剰分の食材かとも私は考えもしたが、著者はその辺は深追いせずに見たままを記して終わり、次の記事へ移るという方式だ。パプアニューギニアのポートモレスビーでは、豚肉をスーパーと同じようにトレイとラップに包んで露天で売られていた。ついこないだまで「石器時代 」の生活をしていた人たちが急速度に文明を吸収するようだ。著者とともに私も驚いた。
  私は何も知らないから驚くことが多い。パパイヤ、マンゴーといった甘い果実は東南アジアでは未熟期に細く切って調味料をつけておかずにすることが珍しくないとのこと。野菜感覚だ。熟した状態ばかりでは飽きるのか。それとも保存が利くからか。著者も言うように野菜と果物の区別という概念がくつがえされる気がする。この区別は糖度のちがいによる感覚的なものにとどまるのか。また、日本固有の食材だと思っていたものが外国でもポピュラーに売られていた。ベトナムのスルメ、スペインでの鮟鱇、等。
  著者の森枝さんが美味として挙げているのがイスタンブールで普通に売られているパンで、フランスパンやらコッペパンやら。世界中をめぐり歩いた人が素朴に「うまい」というのだから、間違いなくうまいのだろう。森枝さんにも小麦粉が上質なのか、焼き方が巧妙なのか、理由はわからない。しかしうまいことは確かで、食べ過ぎてしまうようだ。私も一度は食べてみたいものだ。素朴な感動が伝わってくる。さらにそのパンに鯖をはさんだ「サバサンド」は味が複合して、またうまいらしい。
  チーズに関するうんちくにはなるほどと思った。ヨーロッパでは何故チーズの種類が多いのか。牛乳(羊の乳もある)を熱して酸を入れると凝固する。それがチーズで、酸はヨーグルトが用いられるが、牛や羊の第四胃袋に含まれるレンネットという酵素をもちいることもある。胃袋だけとりだすことはできないから雄の子牛や子羊を殺す。何故成長した牛や羊ではだめなのかは書かれていないが、そうことでチーズの種類が豊富になるとともに子牛や子羊の料理も発達したのだそうな。
  受け売りばかりしてもいけない。私が思い浮かんだことがあった。中国の生ハムがとりあげられているが、作り方はヨーロッパとまったく同じでも味がちがう、中国の味だという。私は一度だけ上海に行ったことがあるが、豚肉の味がちがったことを思い出した。日本の豚肉は淡泊でぱさぱさしているのにたいして中国のそれは噛みごたえがあって何かしらどっしりした、土の匂いというのか濃厚な味わいだった。調味料によるのではなく肉そのものの味がたしかにちがっていた。品種や餌のちがいによるのかは私にはわからない。ともあれ生ハムの味のちがいはそこからきているのではないか。しかしここではヨーロッパの生ハムとの比較で、私はヨーロッパと中国いずれの生ハムも食べたことはなくい、その比較をうんぬんする資格はない。(普通のハムの輸入品を口にしたことはあるかもしれない)ただ単に中国の豚肉を一度味わったので、それを記しておきたかったに過ぎないのだが。
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ハート・ロッカー

  この映画は賛否両論にわかれるそうだが、私は否定派だ。主人公の爆弾処理係ジェレミー・レナーが好きになれないからだ。彼は腕自慢のうえ命知らずで、なるほど爆弾の恐怖に日々さらされるイラク市民やアメリカ兵にとってはたのもしいことこの上ない存在にちがいない。私がもしイラク市民であって近くにある爆弾を無事に取り除いてくれたならば感謝するであろうことは間違いない。だがそれで終わっていいのか。戦争の暴力は秀作『告発のとき』にも描かれたように人間の正常な精神性を失わせるに十分すぎる作用がある。戦争を繰りかえすごとにそういう意味での犠牲者を頻出させるもので、ジェレミー・レナーも実はその一人なのだが、この映画には正常性から発せられるべき人格的批判がない。むしろ戦争の英雄としてあつかっていて、射撃の名手をたたえるのと根っこの部分では同じだ。
  戦争がはじまってしまったのなら味方の勝利をのぞむのかもしれない。また勝利したなら、残存する敵勢力の動きを完璧に封じ込めるに越したことはない。「味方」のなかには多くの一般市民の存在もある。そういう議論はあるだろう。だがその種の議論をここでするのではない。映画や芸術というものは、もっと遠大な視座をもつべきで、そのうえで根本的に戦争を批判すべきではないか。人間は弱いもので、戦争のような苛酷な現実に、たとえ無傷で生き長らえたとしても人格を破壊されたり正常な感覚を麻痺させられたりするので、それにたいしては批判を怠ってはならないと思うのだ。
  初めの部分で「戦争は麻薬だ」というナレーションがある。そして40日ほどの任務期間が終わってジェレミー・レナーはアメリカ本国に帰還し、家族との団らんの時を過ごす。彼は子供に笑いかけながら「大人になると好きなことがだんだん減ってくる」と言う。私ははたして彼の一番好きな存在とはてっきり子供や妻のことではないかと思った。だが次のラストシーンに場面転換してなんだこれは、と思った。なにやら微笑みさえ浮かべながら再び軍服に身を包んで仲間とともに戦地におもむくジェレミー・レナーが映されるからだ。「戦争は麻薬」というナレーションと嫌に符合するではないか。麻薬には正常性をうしなわせるに足る快感と依存性があるという。爆弾処理とはつまり彼にとっての麻薬だ。言い難い死の恐怖とそこから生還を果たしたときのこみあげる歓喜、そして恐怖もまた彼にとっての快感となってしまっている。依存症が染みついているのだ。「除隊まであと39日」というような字幕が何回か出るが、私はその期間が過ぎれば重い肩の荷を下ろせてほっとすることができるという意味にとったが、そうだとするとはぐらかされた気がする。
  爆弾処理の任務の最中にジェレミー・レナーは防護用のヘルメットを外し、さらには同僚の無線連絡を受信するためのヘッドホンも外す。ジェレミー・レナーの周辺に不審な動きがあれば後方の同僚は直ちに伝えなければならず、ヘッドホンを外すことは命取りになりかねない。仕事が終わった後、同僚の黒人兵は怒りのため彼を殴打するが、彼はそれを逆恨みするのだ。ものすごい自信家でプライドも高い。宿舎でストレス発散のためになかばふざけた取っ組み合いをするが、ジェレミー・レナーはいつか本気になってその黒人兵を組み伏せるのだ。黒人兵の殴打による怒りは正しいのだが、ジェレミー・レナーはそれを頑として許さない。  
  悪口が大部分になってしまったが、戦場の臨場感がさすがによく描かれている。私がもっとも印象に残った場面は、爆弾処理の最中に、その周辺が立ち入り禁止にされているのにもかかわらず、イラク人が運転するタクシーが制止を振り切ってゆっくりと進むところだ。ジェレミー・レナーはふりかえって銃を構えイラク人ドライバーに照準を定め、さらにフロントガラスを銃弾で破壊する。だがドライバーの表情は微動だにしない。無表情のなかから不屈の闘志が透けてくる。恐怖心がこみあげてくるのはアメリカ兵のほうだろう。粗暴な兵なら射殺してしまうのかもしれない。腹に一物といった表情を固定させたまま指示に従ってゆっくり車をバックさせるイラク人であるが。イラクの街は今もこういう緊迫した状況が変わらないのだろう。
       ★★★
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フローズン・リバー

  女性二人がカナダからアメリカへの密入国の手助けをするという話。メリッサ・レオは夫に失踪されて住宅ローンの支払いに窮する。家には育ち盛りの子供が二人。たまらなくなって、夫の立ち寄りそうなところを訪ねると、夫は見つからなかったが彼の車が駐車場にある。そこはカナダ原住民保護区内のビンゴゲームの会場で、夫の車に乗る女が目に入った。原住民の女である。メリッサ・レオは当然車を取り返そうとするが、女に冒頭に記した仕事をもちかけられて、金が必要なメリッサは背に腹は代えられず乗ることになる。報酬は1200ドルで二人で山分け。  
  メリッサ・レオという女優の情けないやら悔しいやらの表情が真に迫って、いい。同情を誘う。それとは対照的な原住民の女のふてぶてしい態度。特異な事情がなければ、結びつきそうにない二人である。主婦メリッサは普通なら犯罪に手を出しそうもない。それがやがて二人は硬い友情で結ばれることになるのだから、人生どう展開するかわからない。奇縁である。
  カナダからアメリカへの国境越えは凍った河を利用する。警備がととのった橋ではまずい。ライトに照らされた凍河があらあらしくて無気味だ。雪原と氷の無秩序。だが原住民の女はルートを知り尽くしていて、二人はつぎつぎと密入国者を後部トランクに押し込んで越境を繰りかえしては、ブローカーに引き渡す。カナダ人は勿論、世界中から密入国者がやってくる。そしてパキスタン人の女性を乗せたときだ。彼女は大きなバッグを持ち込もうとした。これをメリッサ・レオはテロリストの武器と勘違いして女に内緒で途中で捨ててしまう。だがその中身は女の乳児だった。女を下ろしてそれを知った二人はあわてて凍河にもどるのだが、このあたりが本作の白眉だ。
  女二人は血の通った人間を運んでいたことに初めてのように気づかされるのだ。それまでは「モノ」を運んでいたかのように。メリッサ・レオの犯罪動機はローン返済の金欲しさだが、それも子供のためだ。家という子供の環境を維持するためだ。原住民の女にも義母になかば強奪された乳児がいる。自分たちに照らし合わせてパキスタン人の女が泣き叫ぶ気持ちは痛いほどわかる。ああ、なんてことをしたんだろうと。女二人は犯罪に関わるのは一時的だと自分に言い聞かせている。子供を護るという自分にとっては崇高な目的に席をゆずって自分を貶める。犯罪行為の最中は本来の「自分ではない自分」だ。目をつむっている。それが乳児の存在を告げられたことによって、束の間忘れていた本来の自分に劇的に戻る。私も見ていて虚をつかれた。しかも心を洗われた気にもなった。快感でさえある。また、このことがあって二人の女の間には、一時的な仕事仲間という以上の相互理解と友情が生まれる。
  このあとは警察の捜査がメリッサ・レオと女に迫ってきて、サスペンスは緩みなくつづく。物語の詳細は省くが、二人の女性の友情がたいへんあたたかい。家族という枠のなかにあるあたたかさが、さらに外の世界に広がって大きく形成されたような幸福感を、視聴者は体感することができる。
 ★★★★

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フォークナー『響きと怒り』(5)

  臭い泥を洗い流すために二人は雨に打たれながら小川の水を使う。そして小降りになったのか、二人はぎこちなくも重苦しい抱擁を草原でつづける。いずれもコンプソン家の敷地内だ。スイカズラは家屋と周辺の敷地をわける生け垣として植えられている。なおスイカズラは常緑低木で白い花が咲き、赤い小さな実をつけるという。
  

スイカズラのやつ 匂いが止まってくれればいいのに
  前はあの花が好きだったじゃないの(p296)


  なおもキャディを責める言葉を痴話げんかのように繰りかえすクエンティンだが、キャディは優しく母のようにそれを受け止める。そんななか垂れ込めるスイカズラの匂い。これは何度も出てくる。クエンティンは何度もふりかえり、その悩ましさ、苦しさを際立たせる。それは父の言う「不幸な時間」という抽象性にたいする具体的かつ固有の「不幸の時間」である。また匂いということであればベンジーが好きだったキャディの身体から発散される「木の匂い」(松であろうか)を受け継いでいる。そしてベンジーが嗅ぎつけたのとはちがう匂いである。ベンジーはキャディが結婚式のときにつけた香水をものすごくいやがったが、スイカズラは過去と現在ではまったく反対の価値を持ってクエンティンを縛る。ベンジーにとっての木と香水の両方の価値を有していて、悩ましくもありなつかしくもある。失われようとしてなお残照を照り返す純潔意識で、そこにとどまることに耐えられない。そしてスイカズラの匂いの彼方に映るのは水だ。スイカズラから逃れるにはそこへ行かなければならない。ボストンを流れる川であり、故郷の家の敷地を流れる小川でもある。イタリア人の少女と歩きながら彼は川が見えなくなってもときどき川を意識する。「水の匂い」ともいう。水は死とつながることは明らかだ。悩ましい生を浄化するものとして読者にはすっきりと理解できる。

だいたいこのあたりが、けさ僕が最後に川を見た場所だった。僕はたそがれのむこうに水を、その匂いを感じた。春になって花が咲いて雨が降ると、匂いがあたりに立ち込めた ふだんはそれほど気にならないのだけど 雨が降ると匂いはたそがれ時に家の中まではいってきた たそがれ時に雨がたくさん降ったせいなのか それともあの光それ自体の中になにかがあったからなのか それはわからなかったけど匂いはいつもたそがれ時に一番強く しまいに僕はベッドに横になって匂いがいつやむんだ いつやむんだと考えたものだった。ドアからの風は水の匂いがして、たえず湿気をそよがせてきた。ときには僕は いつやむんだ いつやむんだと何度も言っているうちになんとか眠ってしまうことができたけど やがてスイカズラの匂いがすっかり空気に混じり込んでしまい あらゆるものが夜と不安を象徴するようになってからは 僕は横になって目覚めているのでもなく眠っているのでもなく 灰色の薄明かりに満たされた長い廊下を見おろしていて そこでは安定していたものが影となり 矛盾となり 僕がしてきたことすべてが影となり 僕が感じ 苦しんできたことが 目に見える滑稽でいびつな影をまとい それらの影は意味もなくあざけって 主張するはずだった存在理由をみずから否定することを本性としながら 僕はいた 僕はいなかった 誰がいなかった いなかったのは誰か と考えるばかりだった(p327~328)


  一行目の川はボストンの川で、現にその傍をクエンティンと少女が歩いている。そうしながら彼はスイカズラにまつわる過去を切実な現在として見て、対峙する。思い出を繰りかえすほどに強度を増してくる。そういうことがある。まるで何の変わりもない生け垣の花が悪に変貌してクエンティンを責め立てるようだ。かつて好ましかったものが正反対の意味を帯びて迫ってくる。好ましい感情はぼんやりするほどに自然であったが、同じものが無力として、また純潔の化けの皮を被ったものとしてクエンティンをとりまく。クエンティンの意識そのものとして根をおろす。忘れられるならいい。忘れようとするのではなく、逆にどんどん引っぱり込まれる。
  私は自殺を淡いあこがれをもって眺めたことがあるのかもしれないが切実ではなかった。それに他の人の自殺に関してもそれほど深い思いを馳せたことも正直言ってない。それがここへきてクエンティンの自殺志向に引っぱられた。すると、まるで川に象徴される死がたいへんやすらかな「生」のように映るではないか。息苦しい生からの解放としての死、もうひとつの生に映る死、生と死の発散する気配がまったく逆転してしまう世界、自殺者の世界とはこういうものかなと苦い感慨をもたされた気がする。
  偉大な小説を読んだ。フォークナーは「純潔な青年」の典型的な像を彫琢して見せてくれた。フォークナーは骨太で粘り強いが、その追究のなかからガラス細工のような繊細さとうつくしさをもったクエンティンの人物像があらわれてくる。これほどの魅力ある青年像は、そうそうあるものではない。書き足りなさともどかしさの感覚が残るが、後日にゆずる。
             (了)
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フォークナー『響きと怒り』(4)

  自殺を決意してからクエンティンは、ハーヴァード大学の寮を抜けだしてボストンの街やら郊外やらを電車を乗り継いだり歩いたりして移動する。水死を確実にするために足につける鉄ごてを買い、それをここと決めた橋のたもとにおいたあとは何のあてもなくさまよう。パン屋にはいってパンを購入すると、そこにイタリア移民の少女がいる。彼は少女のためにパンを買って与えた後に、なおつきまとう少女を自宅に送り届けようとするが、彼女は英語が話せない。仕方なくクエンティンは少女を連れ歩いてあちこち訪ね歩くことになる。そうしながら彼は、キャディとの思い出に何度も行きつ戻りつする。とりわけ、キャディの「処女喪失」を彼が知ってから間もない頃と思われるが、雨の中で二人が言い争う場面は比類なくうつくしい。

ナタリーみたいなきたならしい子とキスしたんじゃないわ 雨が降っていて 屋根の雨音が 天井が高くていい匂いのするがらんとした納屋に ささやきを響かせるのが聞こえていた。
  ここかい? 彼女にさわりながら 
  そこじゃない
  ここかい? どしゃ降りではなかったけど 僕たちには屋根の雨音しか聞こえなくなって それが僕の動悸の音なのかそれとも彼女なのか 
  あの子あたしをハシゴから突き落として 逃げてっちゃったのよ あたしをおいて キャディがよ
  キャディが逃げたとき 痛かったのはここかい ここかい
  ああん
(p260~261)

 
  キャディの処女喪失を知ってからクエンティンは乱れる。にわかに、おそらくはそれまでつくったことのないガールフレンドをつくって遊ぼうとするのだ。その相手がナタリーという女性で、彼はナタリーを家の敷地内の納屋に誘って遊んだ。キャディが彼女を「きたならしい」と呼ぶのは身持ちの悪い女性と見なすからであろう。納屋に二人がいるところをキャディが見つけて詳細は不明だが、やがて二人は喧嘩になり、キャディがナタリーをハシゴから突き落とす事態が生じた。キャディが消えた後、二人は納屋で抱き合う。ナタリーの痛みを気遣いながら「座りながらダンス」をするのだ。クエンティンはおそらくは童貞でナタリーの肉体を強く意識している。引用した文は例によって時制が錯綜している。「ナタリーみたいな」以下はキャディとの会話、「ここかい? 彼女にさわりながら」以下はナタリーとの会話だ。クエンティンはだがナタリーの肉体をそれ以上に開くことができない。接触したということだけで大げさに考えている。ナタリーにたいして格別の気持ちはなく、ナタリーをダシにしたキャディへのあてつけ以上には発展しない、また触れあったということに歯を食いしばるような嫌悪感がにじみでる。ふたたびキャディが納屋にやってきてナタリーとの間に短いやりとりがあった後、ナタリーはにわかに激しく降りだした雨のなかを走って姿を消す。キャディと二人きりになったクエンティンだが、隣にある豚の囲いのなかの窪地の泥水に身体をぶつけるようにひたす。それは悪臭がして、雨と泥水でずぶ濡れになった全身をキャディに押しつけする。憎々しげなふりをする、あてつけだ。俺はおまえと同じように汚れてしまった、それもおまえのせいだ、どうしてくれるんだ、と言いたいのだ。無論、妹よ、おまえが好きで好きでたまらないという気持ちが基底にある。だがキャディは彼の気持ちを痛切に普段から理解しながらも冷静で、自分の行く末がどうこうというよりも混乱するクエンティンを落ち着かせようとする。妹というよりも母のようだ。

泥は雨よりも暖かく 匂いがひどかった 彼女は背中を向けていて 僕は彼女の前にまわった 僕がなにをしていたのかわかるかい 彼女は背中を向け 僕は前にまわった 雨が泥に染み込み 彼女の服にも染み込んでボディスが肌に張りついた ひどい匂いだった 僕はあの子を抱きしめていたのさ そんなことをしてたんだよ。彼女は背中を向け 僕は彼女の前にまわった。いいかい 僕はあの子を抱きしめてたんだ。
  あんたがなにをしようと 知ったことじゃない
  知ったことじゃないって そうかい じゃあ僕がそうさせて 知ったことにさせてやるよ。彼女は僕の手をたたいて払いのけた 僕はもう一方の手で彼女に泥をなすりつけた 彼女が濡れた手でぶっても僕はなにも感じなかった 僕は両足についた泥を拭き取って 背中を向けようとする彼女の濡れた硬いからだになすりつけた 彼女が指をひろげて僕の顔につかみかかるのが聞こえたけれど それを感じることはできなかった やがて雨が唇に甘く感じられるようになっただけだった
(p265~266)


  泥をなすりつけるのはいじめではなく、クエンティンは自分の痛切な心をキャディに汲み取ってもらいたい。心をなすりつけるように泥をなすりつける、そしてキャディの肉体そのものも愛しくて、じゃれ合いの気配に支配されかかる。冷静なキャディはされるがままではないが半分以上はクエンティンの乱暴を受け入れる。クエンティンはキャディに冷たくあしらわれたのではないことを知って束の間息を継ぐのだろうか。「雨が唇に甘く感じられるようになった」は彼の短い、貴重な息継ぎのようだ。だが甘さはとろけさせるほどではない。二人の言い争いと抱擁にならない抱擁は雨のなかでさらにつづく。草原で雨に打たれ、泥を洗い流すために小川に身体をつける。そして先に記したようにクエンティンはキャディに逃避行を懇願する。二人が近親相姦をしたと父に告げることによって。

そうしたら僕たちは逃げていかなくちゃいけないんだ 指弾と恐怖と清らかな炎の中を 僕たちはしたんだって おまえに言わせてやるぞ おまえよりも僕のほうが強いんだからな おまえにわからせてやるぞ 僕たちがしたんだってことを おまえはあいつらだと思っていただろうけど あれは僕だったんだ(p287)


  どんな罰を受けたとしてもキャディ、君がいれば僕にとっては清らかだというぎりぎりの思いが吐露されている。そして彼は力ずくでもその夢を実現したいと脅迫する。雨の中でナイフをキャディの喉に突きつけたりもする。だができない。ナタリーにできなかったと同じく、言葉を実行することができない。キャディの身体をひらくことも殺すこともできないのだ。あれこれと必死のポーズをとりながら、それを押しつけることによって彼は遠くへ行こうとするキャディを引き止めたい。変わってしまったキャディに「近親相姦」を仮初めにも受け入れてもらってさらに変わってもらいたいのだ。だがキャディは変わらない。クエンティンにたいする同情と感謝とすまない気持ちでいっぱいなのだが、彼女は自分は死んでしまったと言う。末っ子ベンジーの世話と兄クエンティンのひたすらな思いを受け止めることにキャディは疲労困憊したのだ。そこで家の外の異性という逃げ道を選んだ。男たちを愛してはいないという答えは、クエンティンを慰めるつもりだろうか。クエンティンはほっとするのかもしれないが、キャディはクエンティンみずからを葬り去るようなクエンティンの申し入れは無論受け入れられない。一方ではコンプソン家から出て行く決意も動かない。昔日のキャディはたしかに「死んだ」のだ。
  キャディは感情の高まりよって自然に、雨のなかで抱き合いながらクエンティンに胸や喉をさわらせて動悸を聞かせる。クエンティンはそれによって、キャディが懇願を受け入れないものの、みずからへの同情と性愛にきわめて近い熱情が発露されたことを理解する。満足はできないもののクエンティンは当惑する。ここへきて、キャディはクエンティンのされるがままになろうとする気配が生まれる。クエンティンの情熱にあらためて押されるのだ。強引にクエンティンが肉体関係を迫れば屈服するかもしれないし、無理心中も受け入れるかもしれない。だがそれは兄の強い願いに席を譲ろうと、自分が無になろうとするからで、自分から自発的にクエンティンと同じ志向をもつのではない。とどのつまり、どうにでもしてくれという姿勢だ。キャディのそういう姿勢をクエンティンは本能的に理解するのだろうか。これは意見の対立ではない。キャディが彼に下駄を預け、預けられたことを彼は知るのだ。ここはほんとうにうつくしい。兄妹の愛が頂点に達するところだ。だが、どうにでもしてくれといわれても、かえってどうにもできるものではない。クエンティンにとってはこの瞬間のキャディこそがいちばんうつくしいのだから、貴重なのだから壊したくない。だが壊したい思いも燻っている。クエンティンは壁にぶちあたる。キャディへの同情もさらに生まれるようで、それ以上はどうしても踏みこめない。放置すれば、キャディの別離の決意はふたたび揺るがなくなることも承知のうえで。
  クエンティンは妹の肉体をどうこうするという以上に、広い意味での純潔意識の持ち主で、父の言葉を借りれば「美徳の審判官」であり、妹キャディはベンジーの世話をしたり、クエンティンの気持ちを暗々裡に理解するという意味では「美徳の実践者」であったと私は見る。キャディの行いを普段から目にすることによってもクエンティンの純潔意識は高められたのだ。そしてそのとき純潔意識は安定していて、さほど厄介でもなく意識もされなかった。そしてまた二人の純潔意識はほかならぬ父の教えを受け継いだのでもあったであろう。純潔意識とはまた弱者や善意者にたいする非暴力主義も内包するのではないか。ドールトン・エイムズを口ほどには憎めなかったのも、彼が発散する空気が悪人じみたものだはなかったからだし、逆にジェラルド・ブランドという大学での知人にたいしてはクエンティンが錯乱していた最中でもあったが、その金満ぶりと派手な女性関係をはげしく侮蔑して殴りかかったのだ。そういうクエンティンだからこそキャディを辱めることはできなかった。彼は根っからやさしい人で、キャディをいたわったことにはなるが、彼のなかで彼の予想を超えて強固になっていた純潔意識が行為の「邪魔」をしたともとれる。キャディに無理強いなことをしなかったのはよかった。だが、このころから純潔意識が、というよりもそれを中心にした彼の意識全体が、彼にとっての逃れがたい重苦しい牢獄のような存在に転化する。キャディは去っていって、実現の当てのない純潔意識だけがクエンティンにのこされた。それを象徴するのがキャディの身体にふりかかり彼の鼻孔に絶えず流入してくるスイカズラの匂いだ。
  
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フォークナー『響きと怒り』(3)

  

我々はわずかのあいだ目を覚ましておいて 悪がなされるのを見届けなくてはならないのだ かならずしも目の前で見るというわけではないが すると僕が 勇気のある男ならわずかのあいだなんか必要ありませんよ するとお父さんが それをすることが勇気だと思っているのかね すると僕がええそうです お父さんはどうなんです するとお父さんが それを勇気と考えようと考えまいと 人は誰もがみずからの美徳の審判官だからね それをする行為それ自体より どんな行為より これは大切なことなのだよ そうでないと真面目に生きることができないからね(中略)するとお父さんが おまえは人間のあたりまえの愚行を恐怖へと昇華し 真実をもってそれを洗い清めたいと思ったのだろう(p340)


  悪や愚行といわれるのはキャディの性行為を指す。勇気とはこの場合自殺であるようだ。困難な行動への跳躍を「勇気」として自己評価する青年らしさを父は戒めるのだ。「勇気」は酔わせる作用がある。だが私には父が息子を全面否定しているようには読みたくない。言葉の表面では教え諭すばかりだが、うつくしくありたいと痛切に願う息子の心情は汲みあげられていると思う。また息子が自殺など決してしないだろうという予断は、息子への信頼があるからと思える。悪はこの場合ありふれていて自然なこととされ、そのことにやがて息子も気がつくであろうというのだろう。

だがおまえは自分自身の心の中にあるものがわかっていないのだよ 一般的な真実の一部分なのだが すべての人間の顔を ベンジーの顔すらも曇らせるあの自然な出来事とその原因の連鎖というものがわかっていないのだ おまえは有限性について考えようとしないで 理想ばかりを 一時的な精神状態が肉体の上に立って均衡を保ちながら 精神自身とそれが完全には捨てきれない肉体の両方を意識しているような理想ばかりを考えているのだよ だからおまえは死ぬことすらないだろう すると僕が 一時的ですって するとお父さんが おまえはいつかこのことがいまのように こんなにおまえを苦しめなくなるだろうと考えることに耐えられないのだ おまえは言ってみればこの経験が顔は少しも年を取らないのに 髪の毛が一晩で真っ白になってしまうような経験だとばかり考えているようだね こういう状況では自殺などしないものだ(p341~342)


  クエンティンの興奮と熱は早晩覚めるだろうと父は予想する。十代の女が性関係を持ち、やがてまもなく結婚する、なるほどそれほどに異常なことではないのだ。だがクエンティンにとってはキャディが、またキャディを愛した自分自身があまりにも愛しくて、反面それと同じくらい愚かしくてどうしようもない。悶え苦しむのだ。私のような読者には後者のクエンティンの自己認識がなかなかわからず、ただ彼の志向の美しさばかりに気を取られてしまうのだが。
  父の認識は正しいし、息子に生きろと説得するのは親としては当たり前だといえる。私も父の立場だから子供には自殺などせずに生きてもらいたいと言う。ただし、私はうつろなのかもしれないが、人生は(「時間」がではなく)それほど悪いことや不幸ばかりではないと言うだろう。コンプソン氏のように立派には語れないに決まっているが。だが一方で父は息子の妹への愛と苦しみと羞恥を正確に、どれだけの深さとしてつかんだのだろうか。この疑念も何度も読むうちに気づかされる。どうも父と息子にはズレがあるように思えてくる。
  それといまひとつの視点も浮かんでくる。父の言うように、認識を正せば「錯覚の愛」から覚めるのだろうか。そして人は正しさを指標にして生きるべきなのか。自己矛盾を書くのではなく、残念ながら人は必ずしもそうではないのだ。ドストエフスキー『地下室の手記』の主人公が言うように、人は正しさをもとめるよりも欲望第一に生きる場合がはるかに多いのだ。そしてクエンティンの欲望はもはや砕け散ってしまって実現を望むべくもない欲望へのさらなる執着としてあるのだ。
  キャディが処女喪失した時以来クエンティンの彼女に対する愛情はより深まった。傷つき失望もしたが、自分でも予想しないほどに。恣意的に深めるのではなく、ふりかえればふりかえるほどクエンティンのキャディへの愛は自然に強固になる、それゆえ破滅的になる。無論、結婚してクエンティンから遠ざかろうとする彼女に逃避行を懇願するのだから絶望的に決まっているが、それだからこそものすごく純粋化する。また、後戻り不能なほど愚劣化するのだ。クエンティンの立場からすれば、彼はいてもたってもいられないのだが、キャディに近親相姦を言い寄ったことで不幸から逃れようとしたのではない、自暴自棄的にキャディとともに不幸の谷底へ落ちたかった。私は最初、クエンティンは不幸な追憶のなかから美をとりだしてしがみつこうとするのだと思った。だが、どす黒いほどの羞恥心が全体をおおって美を押し殺してしまうのだ。美がわずかに上回ると最初は思ったが逆だ。美しいことに変わりはないものの。「おまえはいつかこのことがいまのように こんなにおまえを苦しめなくなるだろうと考えることに耐えられないのだ」父のこの指摘は図星だろうか。外れてはいないだろう。だが私には違和感がぬぐえない。父は息子がみずからの苦しみを過大視しているととる。難解であるが、むしろクエンティンは回復不可能なほど残骸と化したみずからをもてあましていてどうしようもない、そういう苦しみから逃れようとして自殺を目指すと見たほうが私には自然に映る。だが、どちらの認識にせよそういう認識を忘れてしまうほどに、クエンティンにとってのキャディの思い出は甘くも苦しい。
  私はクエンティンのような青年の純潔意識、性にたいする潔癖さをともすれば忘れてしまう。テレビをつければ無難な笑いにあふれているし、新聞の三面記事は殺人などの殺伐とした光景を押しつけてくる。社会とはそういうものかもしれない、自分にも部分的にそれらが混入しているのかもしれないと、怠惰にあるいはぼんやりと考えがちであるが、日頃のそういう自分からみると彼がとらえられたピュアな意識は随分ととおい気がする。だからこそ、分け入ってみれば衝撃的だ。

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フォークナー『響きと怒り』(2)

  第一章、第二章においては翻訳文ではゴシック体が多く用いられる。急な場面転換や一見無関係な独白を明示するためだ。(用いないこともある)原文ではイタリア字体が用いられているそうだ。

 (前略)というのも、ただ地獄に行くだけのことだったら、もしそれだけでいいのだったら。これで終わり、というふうに、ものごとがそれだけで終われるものなら。彼女と僕以外、そこに誰もいないなら。もしあまりにも恐ろしくて、僕たち二人を残してみんな地獄から逃げだしてしまうような、そんな恐ろしいことが僕たちにできさえしていたら。僕は近親相姦を犯しました と僕は言った お父さんあれは僕だったんです ドールトン・エイムズじゃなかったんです だからあいつが ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。あいつがピストルを僕の手の中に置いたとき、僕はやらなかった。だからこそやらなかったのだ。もしやっていたら、あいつも一緒に来て、彼女もいて僕もいるということになってしまう。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。そんな恐ろしいことが僕たちにできさえすれば するとお父さんが それも悲しいところなのだよ 人間はそれほど恐ろしいことなどできやしないのだ ものすごく恐ろしいことだって そもそもできやしないのだよ きょう恐ろしく思えたことも あしたになれば思い出すことすらできないのだ そこで僕が 一切のものからのがれることはできますよ するとお父さんは ほう おまえにそれができるのかね(p157~158)



  性の異なる兄弟姉妹のあいだでは性的禁制が自然にはたらくといわれている。ところがここに書かれているドールトン・エイムズをはじめとしてキャディは十代において複数の異性と性的関係をもったようで、それがあからさまになってからクエンティンににわかに近親相姦願望が芽ばえた。彼はキャディを独占したかった。「純潔意識」とは彼のキャディにたいする普段からの姿勢ではなかったか。兄妹間の自然に見える禁制にかくれて、キャディにたいする「純潔意識」が自分でも知らないほど強固にあった。プトニックラヴと呼ばれる質のものだ。そして同じ質のものを無意識のうちにキャディにも求めていた。自分がそうだからたぶんキャディにもそうなってもらいたいと。キャディはクエンティンのそういう思いを裏切ったのだが、クエンティンは追いつめられたようにキャディをますます好きになってしまうのだ。そしてまたキャディの「不純」という罪を、より大きな近親姦という罪を自らが背負うことによって小さくしよう、無くしてしまおうとするのだ。これはクエンティンが純潔意識を捨ててしまったのではなく、その逆で、純潔な愛をさらに持続させようとして少し身の毛のよだつような絶望的な夢を描いたのだ。勿論こわごわで、背伸びする気配が十分にある。普通いくら仲の良い兄妹同士であっても、どちらかが別の異性と仲良くなれば諦めてしまうものだし、自分も代替としての別の異性をもとめるものだろうが、クエンティンはそうしなかった。
  また書き漏らしてはならないことがある。引用文にはないが、キャディは妊娠してしまう。相手はたぶんドールトン・エイムズという男で、この事実をキャディはクエンティンにしか打ち明けない。キャディの「不純」は家族全員が知るところとなるが、妊娠は知られないままだ。その事実を隠すためにキャディは急いで結婚することになるが、こんな滅茶苦茶なことはない。そして父とのなかば想像上の会話においてもクエンティンは最後まで妊娠の事実を父にはばらさない。キャディを護るのだ。(キャディの妊娠を知ったとすれば、クエンティンの近親姦願望にたいする父の評価もややちがったかもしれない)
  「僕は近親相姦を犯しました」とはクエンティンは父に実際に言ったのだろうか。第二章全体を見れば言ったと見なしたほうが自然だが、私は想像の世界だと思いたい誘惑を捨てきれない。クエンティンと父との対話は普段からあったと見て、そこから汲み取られた父の思想にたいして挑発を試みているとも見たいのだ。「人間はそれほど恐ろしいことなどできやしないのだ」とは父のそれまでの人生経験や人間観察が元になっているのだろう。ただ父の歩んできた道のりについてはこの小説ではまったく触れられてはいないのだが。それに父はクエンティンが小心者であることも見抜いているように見える。ドールトン・エイムズとの対決の場面は後に出てくるが、クエンティンは最初から彼を「殺さない」という明確な意志があったのではなく、もしかしたら危害を加えるかもしれない、殺すかもしれないという可能性を心に秘めていたように読める。結果がどちらに傾くにせよ曖昧でこわごわだった。だが相手の腕っ節が上回ったためににべもなく撃退されて終わるのだ。父の普段からの彼に対する観察が「おまえにそれができるのかね」と言わしめる。「それ」とは訳注によれば彼の自殺願望を指すが、これが父と世界に対するクエンティンの最後のカードである。
  引用した個所につづいて父は、青春の煩悶など大したことはない、宗教や誇りは大した役にはたたない、そこに救いをもとめることはできない、という。「のがれられるとしたら」「何も助けにならないと悟ったときではなくて 自分にはなんの助けも必要ではないと悟ったときなのだよ」と。不幸を解消しようとしてもできないから不幸はありつづけるということだろうか。別の個所では、不幸の具体性は不幸のほうが飽きてきてしだいに記憶がうすれるが、時間の全体が不幸と化すという。「これで終わり」と感じたときから、そういう意味でのほんとうの時間が始まるともいう。また、不幸であっても死ぬよりも生きている方がましだ、生きている人間の間に不幸の差はあまりない、ともいう。人間は平等にできているということだろう。
  フォークナーはクエンティンに父の語りを回想させることで、両者の思想の争闘を描きだす。父はじりじりとクエンティンを追いつめる感がある。クエンティンの小心者であることを揶揄するのだが、それだけではない。牧師という職業にありながら、宗教は人を幸福にしうるほどの力をもたないという。そこには長い年月による経験ばかりではなく、体験に基づいた観察眼が内蔵されている気がする。だがクエンティンの自責意識からくる「近親相姦願望」という自己処罰の欲求に、彼はひそかに共感する部分があるのではないか。キャディを愛しあこがれることがそこには見えるからだ。これはうつくしい。審美眼(美とはこの場合倫理的、宗教的要素もふくむ)として好ましいのだ。審美眼はだれにとっても大切だと父は言うが、それは宗教的意識に近接するものではないか。それをないがしろにするのではなく、批判は別のところにある。父コンプソンは不幸の意識を行為によって変換することの不可能を説いている。行為、たとえば自己処罰によって不幸から脱出することの不可能なことを。たとえその行為が宗教的意識にもとづいていたとしても、だ。不幸という苦い認識をもちつづけろ!ということだろう。もうひとつある。クエンティンがあまりに純潔を尊重すること、その結果キャディが性交渉をもったことへの彼の過度な失望を戒める。「純潔」など自然に反することで、いずれ破られるもので、たいして気にするものではないという。これはクエンティンの認識の偏りを諭すのだ。
  
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フォークナー『響きと怒り』(1)

響きと怒り (上) (岩波文庫)響きと怒り (上) (岩波文庫)
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響きと怒り (下) (岩波文庫)響きと怒り (下) (岩波文庫)
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  「コンプソン家の没落」を描くといわれる長編小説だが、主人公はその家の子供たちである。年長順に列記するとクエンティン、キャディ(キャンダス)、ジェイソン、ベンジー(ベンジャミン)となり、ベンジーが三十三歳となる一九二八年現在で物語は終わる。クエンティンはハーヴァード大学に入学して数年後に自殺、キャディは十代で結婚したものの出産ののちに離婚し、その子を実家コンプソン家に預けてから失踪する。もっとも連絡は途絶えたことはなかったようで、娘への金銭的な援助を時々はしていた。母やジェイソンが保守的なため結婚相手以外の子(私生児)を生んだキャディを許せなかったと思われる。末っ子のベンジーは生まれて以来ずっと知的障害者で、泣いたり大声を出したりするのみで話すことができない。また日常生活も着替えや食事など援助がなければできない。そういうことで、コンプソン家を引き継ぐべき人はジェイソンをおいては他にはいない事態になる。父もクエンティンの自殺の何年か後に死去しているからだ。母は結婚以来病気がちでベッドに伏せていることが多く、ベンジーの泣き叫ぶ声に苛立ちを繰りかえす場面が多い。父の職業は何か。これがなかなかわからない。第二章においてクエンティンの友人の口から「会衆派教会の牧師」と第三者に告げられるのみで、その仕事ぶりはまったく描かれない。作者フォークナーによって不要だと切り捨てられたのだろう。そのかわり、第二章においてはクエンティンの回想と幻想と想像のなかで、父コンプソンの虚無主義的思想はふんだんに語られる。また同じく第二章においてクエンティンによって、コンプソン家の先祖は三人の将軍と一人の知事を輩出した由緒ある家系だと言われる。その通りというべきか、コンプソン家は屋敷のまわりに広大な土地を所有していた。それがクエンティンの名門ハーヴァード大学入学の資金を捻出するために、屋敷周辺の土地が売却され、「現在」においてはすぐ隣がゴルフ場になってしまっている。また最後のコンプソン家の主人であるジェイソンは農機具販売やら株式投資をやって糊口をしのいでいるのだから父や先祖と比べると小粒になっってしまった。「没落」といわれても仕方のないところだろう。
  最初からこまごましたことを書いたが、この小説の白眉は何といっても第二章にある。クエンティンの妹キャディに対する偉大ともいえるふりそそぐような愛情とその挫折が読者の胸を痛切に撃つ。クエンティンはずっとキャディが好きだった。キャディもそれを知っていたようだ。それにキャディはベンジーの世話も一家のなかでは一番に骨を折った。ベンジーもキャディに一番なついていたのだ。コンプソン家に雇われて敷地内に家屋ももっているディルシーという女性を中心とする一家もベンジーの世話をしたが、身内としてはキャディに勝る者はいなかった。だがキャディはベンジーの世話、それにクエンティンの気持ちやらが年を経るにしたがって耐えがたい負担に感じられてきて、逃亡と享楽の欲求に打ち負かされる。十代の半ばから異性との交際を繰りひろげることになる。そして結婚直前の時期に妊娠に気づかされる。そのことを知って「純潔」にこだわるクエンティンはキャディをなじるが、キャディへの愛情はそこへきてむしろ沸騰する。結婚などやめてベンジーも連れて三人で逃亡しようとキャディに提案するのだ。さらに二人が近親相姦をしたことにして罪をすべて自分が引き受けようとの敢然とした決意も打ち明ける。その嘘の告白を父にすれば公然とした「ほんとう」になる……。だがキャディはクエンティンのかかる破天荒な要求を受け入れられない。クエンティンに困惑とふるえるような喜びを見いだしながらも、やはり自分一人が自分の蒔いた種を始末しなければという思い、兄を巻き込むことはできないという思いで身売りするように結婚を急ぐのだ。クエンティンはキャディに結婚をやめさせようとする。その以前にはキャディの交際相手に決闘のまねごとを仕掛ける。そのことごとくの失敗による挫折感がクエンティンを落ちこませ、自虐にひたらせ、やがて自殺へと至る思考経路(記憶や想像や幻想)がたいへん粘り強く描きだされる。学生寮を出て大学のある町を電車に乗ったり歩いたりしながら、また知人や知らない人との束の間の交流も交えながら、彼は過去を心の中で繰りかえす。過去の同じ場面や言葉が少しずつ変化をつけて、また細部があらたに付け加えられて何回も出てくる。キャディとの関係という単一の出来事のなかに世界の謎がすべて詰めこまれているようにクエンティンは挑戦し、解きほぐそうとする。まさに現在も過去の渦中にあるように切羽詰まった感情と思想が吐き出され、私たちは圧倒される。堂々めぐりではなく、語り尽くされることによって何回も確認することによってクエンティンは少しずつ死との距離を縮めていく。螺旋的前進とでもいうべきか。
  第二章に比べて第一章はたいへん読みづらい。知的障害者ベンジーの口を借りて、彼の周辺に起こったコンプソン家の約三〇年の出来事を描きだすのだが、「連想」によって時制が無秩序に変換する。しかも時制は二つや三つではなくかなりの数に上り、それがいつの時代でどんな出来事が背後にあるのか、ベンジーの「ボク」という一人称形式で語られるから極端に省略されている。障害者にとって今日と昨日と明日は、十年前と今日は区別のつかないものか。読むかぎりは、ベンジーはほとんどの時間泣いたり声を出したりしている、つまり同じ状態にあるように見えて、たとえば川遊びをしたという目の前の出来事からの連想によって、同じ川遊びの別の時代に紛れこむ。障害者とは感覚による記憶は十分にありながらも、それらと現在の区別がつかず、過去も現在と同一視されるのか。私には関連する知識がない。ただコンプソン家の子供たちに起こった重要な出来事は、このベンジーの語りによってほとんど網羅されていて、カメラの役割を果たしている。
  第一章のこのような時制のめまぐるしい変化だけでも本作が難解という評判をとるに十分で、翻訳者による親切丁寧な訳注がなければ私などとても読み進めない。もっとも第二章で、クエンティンによって第一章のさまざまな出来事がすべてではないがふりかえられることによって読者ははじめてその意味が呑みこめたり、解釈をあらたにすることができる。ベンジーがキャディを好きなことも、たんに「なつく」という以上の気持ちであったことも第二章によって私は知らされた気がする。知的障害者にとって人々を区別してたった一人の人を「好き」になるということがありうるのか、実際上、また専門家によってどうとらえられるのか、私は何も知らないが、少なくともここで描かれた障害者ベンジーは、キャディやクエンティンによってキャディを愛する人として受け止められている。そして、ベンジーをそう思いなすことがキャディやクエンティンにとっての人生上の大きな負荷となり、特にキャディのその後の人生上の歩みに大きい影響を与えずにはおかなかった。訳注に頼らないとわかりづらいが、ベンジーは十代になってから屋敷の正門の前を歩く若い女性をあこがれのまなざしで眺めることがあった、そしてあるときそのなかの一人に襲いかかった。性欲の本能がそうさせたのだろう、それが契機となって彼は去勢手術を施されたという。そうした彼の本能的欲望とキャディとの関係は何も書かれていないが、何もなかったとは考えにくく、キャディをしてベンジーを同情させると同時に恐れさせたことも読者は想像せざるをえない。
  そして第三章、四章。これはまるで抜け殻の印象だ。キャディとクエンティンという小説の生命ともいうべき存在がなくなったコンプソン家で次男ジェイソンがえらそうにする。キャディの娘クエンティン(長男と同じ名前で、キャディが名付けたが、この名前の紛らわしさもこの小説の特徴で、他にもある。キャディの結婚相手はハーヴァード大学出身のハーバート・ヘッド、ベンジーの最初の名はモーリーで伯父と同名、さらにゴルフ場の「キャディ」も登場する)は母の血を引いたからか十代から異性関係がはげしく、これを母から頼まれたジェイソンが監視し、キャディが所有していた自動車を使って追いかけまわすというのが主なストーリーだ。またクエンティンには母キャディのようなベンジーに対する愛情など欠片もなく「キチガイ」と呼んではばからない。第二章と比べると緊迫感に欠けるが、この「純粋」さがまるでなくて荒涼とした空気がフォークナーの目に映ったアメリカ南部の現実ということになるのかもしれない。
  第二章を中心にもう少し立ち入ってみたい。

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