大洋ボート

親と子

  子供時代において両親の仲が悪いと子供に悪影響があるといわれる。また幼年期において母が暗いと子供も暗い性格になるともいわれる。そのときには何もわからないのだが、私自身その時々をふりかえると確かにそうだろうと思わざるをえない。良好な人間関係を知らないままで育ってしまうということだ。
  父母が良好な人間関係(それを定義することは今はさしおいて)を知らなかったとは思えない。父は知人と接しているときは母と普段接するときとはちがってにこやかで生き生きしているさまが子供の私にも自然に伝わってきたし、母も実家に帰って親兄弟と再会したときには、同様の光景を目にすることができた。そのときは私はなんだかそわそわする気分に引きずられたものだ。父母のそういう普段とはちがったくつろいだ態度が彼等にとっては「良好な人間関係」だっただろうが、一方、私にとっては何だか入って行きにくい異様な世界に映った気がする。父には子供時代は「ぼーっとするな」「人の顔を見て話をしたり聞いたりしろ」とよく言われたことを覚えている。実際私はそういう子供だったので、父母の生き生きした表情を垣間見たときは、うれしいというよりも彼等には私の知らない世界があって普段はそれを私から隠しているように思えて、戸惑いのほうが大きかった。勿論、父母は隠したのではない。普段目の前で抑えられて実現されないものが、環境や接する人が入れ替わることによって自然に発露したのだ。人と接するときの大人独特の作為的な幸福感がそこに入り混じったとしても、それがすべてではないことは子供の目にも明らかだった。
  父は行動的で社交的で会ったが、喧嘩っ早いところもあった。勤勉であったが遊びも好きだった。浪費家とまではいえないにせよ、仕事(自営業)が終わるとよく外出した。母は社交的ではなく、引きこもりというのではないが家にいることが多かった。また結婚生活に対して独身時代と比べての生活上の落差、つまり金銭的にも肉体的にも苦痛を感じた部分もあったように思う。希望といえば倹約と貯蓄だったろうか。また二人の共通するところは結構毒舌家であったことだ。そういう二人だからよく喧嘩をして、私は目撃させられた。一時は本気で離婚を考えたこともあったようで、私に離婚後父母のどちらと暮らしたいかと母に訊かれたこともある。離婚話は自然消滅したのだが、それは何故かはわからない。離婚に要するエネルギー(離婚後の生活の見通しも含めて)に尻込みしたのだろうか。離婚騒動は私にとっては寂しいものだったが、それを頂点にした両親のぎくしゃくした関係は、私という人間の人格形成に底深く影響したのではないかと今では思う。
  一緒にいる、別に楽しくはないが、道徳や世間体ばかりではない、どちらかといえばそちらのほうが安穏に感じられてともかく一緒にいる、子供には叱るときには叱るが無関心の傾向が強い。それに空想癖というのか、目の前にあることにかかずらうよりも、何かしら別のことを思う時間にひたっている母を見たことも多くあった気がする。子供時代の母は今から思えば、私にはそんな心性としてある。一緒にいたい、いなければならないと念じる、だがそれ以上に楽しくするにはどうすればよいのかわからない、自然にそれを相手に委ねてしまう。子供ならテレビを見せたり玩具を与えたりして糊塗する。……私が母から受け継いだ傾向でもある。子供時代の私は、一様ではないが、遊び仲間にたいしてそういう態度しかとれなかったのではないか。
  母からのそういう影響ばかりではなく、家庭の現実が反映して私のなかで母と父という二つの人格がうまく調和せず、調和しないまま同居していた。具体的な二つの人格のぶつかりあいを基点としながらも、そこから抽象化された心的な「不調和」だった。出口を見いだせないままトンネル内で渋滞しているような、しっかりこない心地だった。かといって、それを格別に異常とも思えなかったのだ。(良好な人間関係を知らなかったからだ)その異常さには当の父と母こそが苛立っていたにちがいないが、私にとっては不可避的に与えられた条件だったので、諦めも自然に備わったのだろうか。今もってその心性は私のなかに引きずられていながらも、うまく客観化できないでいるものだ。
  ともかくも、そういうものが私に備わった「自然」であった。子供なりに毒舌を口にしたし、遊びで秀でたジャンルがあるのでもなかったから、私は同年配の子供から見ると魅力はなく、逆に一緒にいることが苦痛に感じられる性格であったのだろう。例の「不調和」が相手の子供に本能的に嗅ぎとられて変な奴と思われもしただろう。長続きした遊び友だちはできなかった。こういうことだから自分を救うのは自分しかいない、自信を持たせるのも自分しかいない、という風に心的脱出路を見いだすしかなく、青年期にかけてナルシズム的傾向が身についていった。このナルシズムにおいては私は馬鹿に楽観的であったが、その楽観性は、母ではなく父の方の影響を受けたと考えられる。このナルシズムによって、私は人との親睦感の欠如という引け目から逃れられると甘く目論んだのである。
  尻切れとんぼになるが、稿をあらためてまた書いてみたい。

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感覚と記憶

 感覚がまず先にある。外界と自分、自分と自分との関係性を整理するために知識を動員して当てはめることになるが、それに先だって感覚(五感)がある。感覚によってまずは整理すべき材料が与えられる。だが関係性を整理し明瞭化することに不意に自信をなくしたならば、あるいはそれまで行ってきた整理の仕方に疑念を抱いたとしたら、どうすればよいのか。それは、それまで頻繁に使用してきた自己内の既存の言葉の秩序立てられた群れに不信感を抱くことにもなるのだと思うが、さりとてすぐさま別の系統の言葉にも移行することもできない。そんなときどうすればいいのか。

 安易に整理しないこと、判断しないことだ。できないと思えばしないほうがいい。だがそのときの情況を忘れてもならない。感覚として与えられた材料を忘れてはならず、来るべき未来にまで携えていかねばならない。未来においては自分なりの判断力を、つまりは言葉を構築しているであろうという希望とともに。だから未来はそのときから始まっているともいえる。何度も何度も、放置してしまった事態(過去)に関する記憶にたいして言葉の網を投げかけるのだ。そこでしだいに言葉が構築される、といえば楽観的に過ぎるか。

 感覚はしだいに膨張する。事態を正確に把握することは、その確信をえることで行動することにもつながっている。他面、逐次に与えられた感覚以前に行動への欲求があるとするならば、既存の判断に嫌気がさしてなおかつ別の判断が与えられないとするならば、以前と同系統の行動にはつながらない。自発性をともなった行動は無くなる。判断を回避したならば行動への欲求は当然鬱屈する。判断(正当性)に裏付けられた当時の行動そのものには魅力があり捨てがたいものだ。また少しずつ形成される新たな言葉によっても容易には過去はとらえられず、何度も頓挫する。失敗がまた失敗を生み出すのだ。そうした行動欲の鬱屈やら頓挫した言葉の断片などが、また絡みついた映像やらが、種としての感覚にかさなってひとかたまりになる。するともはや感覚と呼ぶことがふさわしくはなくなる。記憶と呼ぶべきものとなる。

 原初の感覚と現在とがつながっていると仮定しても、はたしてその感覚を現在において単独で取り出すことができるのだろうか。これは時間の経過が関係しそうだが、知らず知らずのうちに変形を蒙っているのかもしれない。それによほど意識的でなければ、単独としての原初の感覚には向き合わないものだ。記憶に、つまり原初の感覚に積み重ねてきたもろもろの試行錯誤をふくめての記憶に私たちは向き合うことに馴れてしまうからだ。錯誤ばかりではないというささやかな自負もあるのかもしれない。かずかぎりなく原初の感覚につきあってきたことで倦んでもいる。だがやはり、自己点検のためでもあるができるだけ先入観を捨てて裸形のつもりで、ときどきは原初の感覚(と見なされる感覚)に回帰することを試みなければならないとも思う。十分に汲み取られてはいないものが存在するからだ。

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抱擁のかけら

  緻密な構成には舌を巻くが、感情の盛り上がりにはとぼしい。そういう映画だ。とりわけヒロインのペネロペ・クルスの死が中盤過ぎにあるので、ここで悲しみの感情が主演のルイス・オマールなどによってもっとストレートにあるいは大げさに表現されるのではないかと思ったが、そうでもない。ペネロペの死を中心にした映画作りの話は、かつて映画監督であったルイス・オマールが息子に自分の過去である「話せば長い話」を聞かせる途中にある。それで次はどうなる?という興味にせきたてられるから、あまりそこでは立ち止まってはまずいと判断したのだろうか。実際、謎がまた謎を引き寄せるという作り方は巧妙で、視聴者を引っぱる力は十分にあるのだが、長い話を全体として解らせようとすることに力が傾注されすぎたきらいがある。部分的には十分におもしろいし、結論としての家族の再生、ボツになったいわく付きの映画の再編集による再生という話も悪くはないのだが、たいへんもの足りない思いがした。ペネロペ・クルスをめぐるルイス・オマールと資産家の老人との争いも、オマールの妻の嫉妬もよくある話とかたづけることはできる、だがそう達観してしまえるのは当事者のなかでよほど時間が過ぎてからだ。映画のなかの現在時の一九九八年?ならともかく、渦中にあるときの感情の坩堝が表現されていない。あるいはペドロ・アルモドバル監督はそれをあまりにも抑制しすぎている。

  とはいえ、前半から中盤にかけての話の進行はさすがに巧妙で、興味をかき立てられる。目の見えないルイス・オマールに若い女性が新聞を読んで聞かせると、くだんの資産家の死の記事にあたる。また同時期に資産家の息子が変名で共同脚本執筆の話を持ちかけてくる。そこで映画はボツになった映画制作直前の十四年前にさかのばり資産家とその秘書ペネロペ・クルスの関係を描きだす。ペネロペはかつてコールガール組織に登録していた。資産家は口には出さないがそれを知っている。一方ペネロペには重病の父を抱えていて手術のために急いで大金を用立てねばならなかった。そんな背景があって資産家とペネロペは関係ができてしまうが、ペネロペは念願だった映画女優の道をめざし、資産家も映画制作に出資して、つまりプロデューサーとしてペネロペを援助する。だがそこで出会った映画監督のルイス・オマールとペネロペとの間にまた肉体関係が、というよりも恋情をともなった関係が出来上がってしまう。それを知った資産家は当然おもしろくない。ペネロペをなんとかとりもどしたい、という思いから映画作りそのものをぶっこわしてしまいたいという思いに駆られてそれを実行する。このあとが話としてはなかなか面白い。ありえないことだとは思うが、映画そのものよりも映画女優に首ったけということであれば十分に説得力はある。映画作りの現場に自前のカメラを持ち込んで、しつこくつきまとう資産家の息子も気持ち悪くて際立っている。それにアルモドバル監督の赤を基調とした色彩も楽しめる。がっかりさせられながらも愉しむこともできるというところか。
  ★★★
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砂漠の流れ者(1970/アメリカ)

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(2009/07/08)
ジェイソン・ロバーズステラ・スティーブンス

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  アメリカンドリームというほどではないが、小さな夢を実現し幸福な人生を迎えようとしたまさにそのときにあっけなく死んでしまう男の話。西部劇であるが、そのなかではかなり上位にランクされるべき傑作だ。

  ジェイソン・ロバーズは何日もの間、炎天下の砂漠を死に瀕してさまよったあげく水の出る場所を発見する。仲間二人に裏切られて身ぐるみはがされたことが事の発端だったが、不幸が幸運に転じたのだ。さっそく町へ行って銀行に融資してもらい自分の土地にして、そこに掘っ立て小屋を立てる。そこは駅馬車の通り道のそばにあって、人や馬の休憩地にするのだ。水は有料。事業は成功する。また町に訪れた際に、ステラ・スティーヴンスに一目惚れする。この間の映像がいいのは、最初は、ステラが胸が大きくひらいたドレスを着ているものの淑女然として通りを歩いているところをジェイソン・ロバーズが見初めることだ。次に見かけたときには、ステラは男を連れて野外の階段を登る最中である。このときにステラが売春婦であることがロバーズにはわかるのだが、それでもうっとりした表情は変わらない。身分にこだわらない、中年男の純愛だ。またこの「純愛」はロバーズがお人好しなこと、仲間に裏切られた原因であるところの彼の殺傷嫌いともつながっていて、ロバーズの人となりを表すのだ。二人は仲良くなるが、ステラは間借りしていた酒場から追い出されてロバーズの小屋に転がり込むという展開になる。

  ジェイソン・ロバーズもいいが、ステラ・スティーヴンスがもっといい。明るく勝ち気で、大金持ちと結婚するという夢をあきらめない。その反面「純愛」を受け入れる素地も残っている。笑顔や、売春婦であることをロバーズに言葉の端で侮蔑された(ロバーズの嫉妬妄想による)ときの怒りの表情やらが印象に残る。恋愛の最中の女性の生き生きした表情ではないか。だが二人の生活は長くはつづあない。ステラは二人しての都会行きを望むが、ロバーズは裏切ったかつての仲間を待つために砂漠の小屋に残る……。もうひとりの重要な人物、好色な自称神父も映画に立体感を与えている。神父という立場を利用して、若い女性の不幸に同情しながらその肉体に執着する。セクハラも映画の空気に濾過されると笑いの種になる。

  最後のあたりでは自動車が登場して、ロバーズの小屋を素通りしていくさまが映される。時代の節目であり、ロバーズの商売も徐々に衰退する予感がもたらされる。しんみりする。その自動車で、サンフランシスコにいって大金持ちと結婚したステラ・スチーヴンスが帰ってくる。豪華な緑色のドレスに身を包んで。サム・ペキンパー監督としては暴力描写が少ない異色作で、かつ傑作だ。
  ★★★★★
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