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プラトン「ゴルギアス」

外国古典
10 /12 2009
ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))
(2002/01)
プラトン

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 裁判にのぞんでの演説=自己弁護の様子をおさめた「ソクラテスの弁明」や死刑判決の下りた後の友人との会話「クリトン」よりも時制的には古いが、プラトンの著作上からは、こちらのほうが新しいのではないかと推測する。前の二つの著作で展開されたソクラテスの論理体系が、ここではいっそう整理、深化されているとみえるからで、これはプラトン自身の内的欲求によると見る。そして、裁判などまだ日程にのぼらない段階にもかかわらず、ソクラテスは国家や政治家による自らへの迫害(たとえば死刑)を予見し、堂々と受け入れることまで表明している。死にのぞむことは、思想家にとって最大の危機である。とくに自分の態度如何によって死が回避される可能性があるならば、思想家もまた自分のそれまでの言説を変更してしまうかもしれなからだ。死はだれでも怖い。だが「知」を愛してやまないソクラテスはそれをするつもりはない。しないことを、あらかじめ悠然と表明する。言説をうちたてて護りぬくことが哲学者(思想家)の使命であり、「魂」を向上させることに他ならない。そのためには死を受け入れることも辞さないのだ。

 ソクラテスが追究するのは「正しさ」であり、「正しさ」と一体となった善であり美である。逆に排除と否定の対象となるのが「不正」であり、そこに付随した「放埓」であり、自己利益と欲望の際限のない追求であり、またゴルギアスのように弁論家を自称しながら「おべっか」を使うこと、お世辞を言ったり御機嫌をとったりして聞き手を気持ちよくさせて丸めこむことである。ゴルギアスについて言えば、ゴルギアスの弁論術は無知な聴衆を相手にしたときに効力を発揮する。たとえば、本物の医者とゴルギアスが医学に関して、ちがった意見を同じ聴衆に聞かせたならば、聴衆はゴルギアスを支持する、そういう自信をゴルギアスはもっていて、また彼の周辺の有力者も彼のそういう弁論術の力を認めるところだ。だが、これは聴衆が医学に関して無知であるためで、(ゴルシアスが聴衆の無知をあらかじめ見越しているためで)ゴルギアスもソクラテスの指摘によってしぶしぶそれを認めざるをえない。聴衆が医学に見識を有したならば、公平に両者の意見を吟味して医者の意見を採りいれるだろう。これは言論家として虚偽を吹聴することにあたるので、ソクラテスは「弁論術」を糾弾せざるをえない。

 私もそうだが、ソクラテスにたいして反論してみたくなる。出世して金銭を人よりも余計に得ること、政治家になって社会にたいして一定の影響力を行使すること、それは自己利益の追求というばかりではなく、家族や仲間、友人、知人にも幸福をもたらすことにつながるのではないか、出世や政治にかかわること、世渡りにはときに剥き出しの真実よりも「巧言」と呼ぶべき言葉が多くの場合役立つ。若い時代に哲学を勉強するのはいいが、いつまでも執着すると社会的な力はつけられない。少数の若い人を相手に「大道演説」をぶつのは本人は気持ちがいいのかもしれないが、見ていられない。すべて一致はしないが、読者からみて概ねこういう意見を代弁するかたちで、カリクレスという政治家が反論する。

 ソクラテスは自分が無力であることを知っている。家族や仲間を救い、幸福にすべき力を自分が持たないばかりか、自分さえ国家の大きな力を前にしては無力であることを知っている。ソクラテスはそういう人間ではないし、そういう力を目的にしないのだ。彼が中心に据えるのはあくまでも「正しさ」だ。社会や政治にたいしては、せいぜい法律のあまねき施行によって人々に平等をもたらすくらいのことしか主張できない。そして法律にたいするこういう希望も「正しさ」を梃子としている。ソクラテスが対話者にたいして効力を持つとするならば、ゴルギアス、ポロス、カリクレスなどが「正しさ」に色目を使うこと、目的はほかにあっても「正しさ」を装って飾ることを、果敢に暴露することにあった。

 災悪の大きさを、ソクラテスは順番において「不正」を人に与えながら罰されないこと、「不正」を与えて罰されること、人から「不正」をこうむることとしている。一番目では身体は無事であるが、懲罰を受けないから矯正の機会がなく、したがって魂にとっては不健全このうえない。三番目は身体は死刑判決を受けた場合には消滅するが、それでも自らが「不正」に手を染めたのではない以上、災悪はいちばん小さい、零であるとしてもいいくらいだ。この順番は、ポロスのような独裁者にあこがれる人物にとっては驚き以外の何物でもない。欲望や無際限の自由にたいする否定的立場だ。

 ソクラテスの「正しさ」は、個人が自身にたいして知的探究心をもち「放埓」を規制することで実現の途につく。欲望はむしろ外的対象に向けられずに知の構築に向けられて、知でありつづけることの支えとして使われるようだ。欲望は「欲望」というかたちをとらない。とったとしても、ほどほどにということだろう。だから「正しさ」はまた、死への果敢な態度表明を別にすれば、やたら禁欲的でかた苦しいものではないように私には思える。「正しさ」と個人が高度につりあいが取れる状態、明鏡止水という言葉があるが、ソクラテスの追究の果てにはそんな心身の満足の状態が私には想起される。それはまた愛の実現でもある。愛は多方向にはふりむけられない、いちばん実現可能な自己に振り向けられる「正しさ」としてある。それはまた自己満足ではない。彼の言説は彼の生涯にわたる演説によって広く知られることとなり、プラトンの著作にもなった。政治勢力の形成という目的には背を向けたが、とおまわりするかたちで政治家や私たちを撃つ。

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