大洋ボート

ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ

 原作が太宰治であり、太宰をモデルにした小説家役の浅野忠信もでてくるが、太宰を掘り下げるというよりも、浅野の妻の松たか子に焦点を当てている、つまりは松が主演の映画である。浅野が数年にわたって馴染んできた居酒屋から金を盗み出した。怒り心頭の居酒屋の夫婦の伊武雅刀と室井滋が家まで乗りこんでくるが、松は気丈に応対して、二人の居酒屋で自分が働いて金を少しずつ返済することで伊武と室井に納得してもらう。

 働きはじめると、松の人気で店はおもわぬ繁盛振りをみせる。ここからが物語のはじまりである。小説家の浅野のファンである妻夫木聡と知り合ったり、かつての恋人の堤真一と偶然再会したりする。子供を抱える松だったが、ここで春がふたたび訪れる気配に直面するのだ。人生はひとつの選択しかできないが、放蕩癖があり女性関係にもだらしない浅野と結婚したことがよかったのか、松は迷う。それまで考えてもみなかった「自分探し」を、もたらされた偶然によって、忙しいなかで秘かにやってみる。だが、ついには恋にいまさら突き進むことができない自分を発見するというのが結末で、「自分探し」はそれまでの自分に戻る、それまでの自分をつづけることで幕が下りる。

 松のなかに動かないものがある。動こうとしたものは、はたしてあさはかな欲求だったのか、古い時代だから女性は貞操堅固だったのか、夫への義理か、小説家の夫への尊敬の念がはたらくのか、そういうもろもろが作用したのかもしれない。また夫との関係がまだまだ端緒についたばかりだという思いもあるだろう。だが映画は、松が動かない理由をはっきりはさせない。少なくともわかりやすい説明はない。これは根岸吉太郎監督の意思だろう。結婚して短いながらも家庭生活を松たか子は体験して、そこで何か言葉にはできない肯定的なものをつかんだのだ。書いたような家庭生活にはとても向かない浅野忠信の人物像だから、あたたかい愛情を素直に交わすことなど難しいにちがいなく、松たか子は耐えることも覚えずにはいられなかっただろう。だが忍耐というだけでは「肯定的なもの」は説明できない。また「肯定的」と書くものの、反面たいへんかぼそいものでもあるのだ。だがかぼそくても引っぱられる、大事にしたい。動かないものとはそんなことではないのか。視聴者としてはわからないようでわかる、そこはかとしながらも芯は松たか子のなかに見える、私はそんな自分勝手ともいえる解釈に促されつつ、松たか子を見守った。

 映像としては、浅野と広末涼子が心中をしようとする場面が印象的だった。森のなかの川の急流を見下ろす場所だが、なかでも浅野が睡眠薬を大量に飲んで木に首を紐でくくりつけて仰向けになったときだ。カメラは地から天への浅野の視線を代行する。杉の木立がまっすぐに伸びたその先に青空が、なんともあっけらかんとして映る。私はぞくっとした。冷たいといえば冷たい感触で、心中という地獄的な思いでさえ、なにかしらあたたかく映ってしまう。これは空という存在が人間的な思いになんのかかわりもなしに、それ以前にあるからだ。浅野がその風景を飲みこむようにする様子が、私は見た気がする。

 出演者のなかでは伊武雅刀と室井滋がいい。脇をかためるという言い方があるが、この二人は出番が多いだけにそれ以上に土台を形成している感がある。出しゃばらないという意味でもあり、清楚さを自然にかもしだすが少し危なっかしい松たか子を支えるのに十二分に貢献している。浅野忠信、妻夫木聡、堤真一にも好感が持てた。最後に松が浅野に言うセリフは「生きていさえすればいいのよ」。これは原作では主人公(太宰)に悪魔的に響いたが、映画ではそうでもなく、肩透かしを食らった気がしたが、これも私が太宰治に思わずこだわるからかもしれない。
★★★
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陸軍中野学校(1966/日本)

陸軍中野学校 [DVD]陸軍中野学校 [DVD]
(2007/12/21)
市川雷蔵小川真由美

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 市川雷蔵が冷酷非情のスパイを演じる。シナリオの内容からしても冷酷であり陰惨であるが、市川は視聴者にかすかだが確実な親近感を抱かせる。市川雷蔵は屈折した表現力をもった俳優だった。最終的には、市川は婚約者の小川真由美を敵のスパイとして殺す命令を受けて実行するのだが、それでも市川雷蔵のもつ表現力がはたらいて、無念さと悲哀を抑制したなかでにじませる。市川は行動的には、軍の命令にまったく反抗的ではなく従順そのもので、その意味で「優秀」で冷酷非情でけっして正義の士ではないが、なぜかそんな風に映ってしまうほどだ。出現しがたい不思議な魅力を有した俳優だったといえる。

 題名の「中野学校」は実在したスパイ機関であるらしい。その創設者の加東大介が、大学を卒業して陸軍に入隊した青年を中野学校にスカウトする。青年らは家族・友人・知人に何ひとつ告げることなく行方をくらます「不在者」の形をとる。市川もその一人だったが、どうしても納得できないのが市川の婚約者の小川真由美だった。タイピストの腕がある小川は陸軍に職をえて、市川の情報をとろうとする。だがそこは連合軍の無電文の暗号解読を使命とする部署だった。小川は以前にイギリス人の経営する会社に勤務していて、そこの社長にスパイになるようにそそのかされ、戦争に反対する気持ちもあって、従う。だから、市川ら中野学校のメンバーが苦労して、せっかくイギリス領事館から暗号のマスター・ノートを盗み出しても、小川の通報でたちまちにして暗号を変更されてしまう。

 中野学校の訓練の過程も描かれる。訓練の内容はやや貧弱にしか描かれないが、二人の自殺者が出ることが痛ましい。寂しさに耐えられなかったり、不祥事を起こしたりで、後者の場合は「自殺」ではなく、機密保持と学校の「見栄」のための極刑であり「自殺」の形をとらされたに等しい。同僚が剣を突きだしたところへ突進させられるという残酷さで、市川雷蔵は制止することなく黙って見守るのみだ。

 市川が小川を殺すのは、加東大介の「温情」の命令による。スパイの汚名を着せられて(名前を公表されて?)官憲によって処刑されるよりも密かに葬るのが、小川にとってせめてもの名誉だからと言う。二人しての逃亡もありうるところだが、この映画ではそうはならない。また、東宝の社長シリーズではさっぱりおもしろくない加東大介が、この映画ではきりりとして作品を引き締める役割を果していた。
★★★

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にっぽん昆虫記(1963/日本)

NIKKATSU COLLECTION にっぽん昆虫記 [DVD]NIKKATSU COLLECTION にっぽん昆虫記 [DVD]
(2009/07/17)
左幸子岸輝子

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 DVD化にあたって、フィルムがリマスターされていないせいか、暗い部分がべっとりした暗さで支配されて見づらい。また録音状態も悪く、この二つの欠点があわさって主人公・左幸子の生地の東北の貧しい農村の場面が理解しにくいものになっている。好色な人が多く、左も若いときから身持ちが悪く、子供に「鬼」と呼ばれる。左の父(そうではないかもしれない)の北村和夫も好色で、左とは近親姦とまではいかないにしてもそれに近い関係である。また北村は知恵遅れにもみえる愚鈍さで、妻には暴力的だ。これくらいしか私にはわからなかった。とくに出演者の多くが口にするズーズー弁には閉口した。

 おもしろいのは、左が上京して肉体を武器にしてのしあがっていく過程だ。女工から女中へ、そして何回目かの女中勤めの先が管理売春をする北林谷栄の家で、左はここで売春を強要されていやいやながら応じるが、それを機にやがて水をえた魚のように勢いをふるっていく。中小企業の社長の河津清三郎の愛人になったり、自らも管理売春をやってみたりと「出世」する。北林谷栄の目のとどくところで、しかも北林の管理下にある女性をつかってのそれは重大な裏切り行為そのもので、当然北林にはげしく非難されるが、左は眼中にない。(暴力組織が噛んでいれば、ただではすまないところだろう)そしてまた左も「配下」の女性たちに裏切られることになる。管理を逃れて、ひとりで「商売」をする女性がでてきたり、時代が経過すると、実の娘の吉村実子もまた一時的ではあるが肉体を売ることをする。母という立場は不思議なもので、自分がふしだらでも娘が同質の人間になることにはものすごい嫌悪を向けるのだ。このあたりの左をはじめとする売春業に身を染める女性たちの、しっちゃかめっちゃかな様子が、たいへん生き生きと描かれていて、この映画の長所になっている。

 映像的な特徴としては、新興宗教の集会やら、基地や安保にからむ政治闘争の様子、つまり人が大勢あつまる様子が左幸子の行動にからめて描かれることだ。左が乗ったタクシーがデモ隊にはばまれて進めず、左が苛立つ様子がたいへんおもしろい。つまり人がおおぜい集まって気勢を発しようとも、左はなんの影響も受けない。自分の商売という自己利益の追求にしゃにむになっているからで、政治闘争の熱気など、まるで無関係なのだ。左翼の勢いが盛んだった時代で、今と比較するとなつかしさ、古さを覚えるところだが。

 今村昌平監督が描きたかったのは、つつましさや倫理とはまったく無縁に、ときには八方破れになって力強く生きぬく女性の姿だ。左幸子は期待にこたえる熱演。
★★★

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絲山秋子『ばかもの』

ばかものばかもの
(2008/09)
絲山 秋子

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 たくみな小説だ。人間とはなんて脆い存在なんだろう、それでもふらふらしながらなんとか生きている。ときには、あれよあれよという間に地獄へ転げ落ちてしまう。ああ、俺にも若いとき、こんな感覚があったなと、まざまざと思い出させられた。しかし私は自分の若いころのことを少しか、大部分か、忘れてしまっている。切実さが直截に伝わってこないもどかしさがあり、それが自分でも歯がゆい感じにもさせられる。それに突き当たったこともふくめて衝撃を受けた。

 ヒデという主人公は地元の北関東の大学生で、大学はどうやら二流のようで東京へ出て就職したい希望はあるものの学歴がネックになってうまくはいかないだろうと自分で思っている。どちらかというと怠惰で、のんびりしたタイプの男だ。そんな彼が夢中になるのが、バイト先で知り合った額子(がくこ)という年上の女性で、女性の誘いに乗るままに仲良くなってしまった。冒頭から描かれる彼女の部屋でのセックスの場面が、全体の割合からするとわずかだが、じつにスパイスが効いている。ここでこの小説はほとんど成功したみたいに見える。

 映画によく出てくるようなうつくしさに装いを凝らした描写ではなく、即物的だ。あけすけで、不格好だ。ヒデはセックスをきわめたいという思いにとりつかれている。そのため額子をなんとかして「イカせたい」という願いで頭がいっぱいだ。「好きだ」という言葉もセックスの際にふるいたたせる類でしかなく、じつに陳腐だが、本人にとっては「好きだ」は、そういう意味では切実だ。うまく行為を果さねばという思いが渦巻いている。額子のほうはどうか。男を部屋に入れるからには男を好きにちがいないし、セックスもしたいのだろう。だが上辺か、身体を開きながらもふてくされた、馬鹿にした態度をとりつづける。男にとっては屈辱とも見えるが、遊びと混ぜこぜだと思えば気にしなくても済む。とにかくセックスは身体を動かすこと、「どすん」というような音がしそうだが、そんなことは書かれず、会話が見事にはまる。

「うっ、うっ」
額子が吠える。吠えればいい、俺のすてきな犬。俺の額子。俺の。俺の。
「額子、すげー気持ちいいよ」
「……」
「額子も気持ちいい?」
「っせーな」
 ああ、ここで額子がかわいい声を出したら俺はイクところだった、とヒデは思う。(p12)


額子が僅かに体をずらし、
「くせえ」
と言う。そういうな額子、おまえの分もあるんだぜ。ギョーザはもうすぐタイムリミットだ。なんとか食ってくれないか。ビールだったら今取ってきてやらあ。
「額子うまいよ、食うか?」
「……いらねー」
(中略)
額子って、終わったあとの方がかわいいよな」
「ばかもの」(p22)


 セックスによって相手と一体になりたいという思いはだれにでもあるだろうし、切実さがこもるだろう。上手になりたい、「イカせたい」のだ。「一体になる」ことはセックスにかぎられたことではないが、そこは若い人の盛んな本能があってどうしてもセックスが突出してしまいがちだ。また「一体になる」ことを除いてもセックスそのものへのコンプレックスもある。壁をぶち破りたいという思いだ。ところがこれが女性にとっては単に体を無闇にひっつけてくるだけのうるさい存在にしか映らないことも頷けるところだ。まして単に性交渉なら相手はだれでもいいと男女とも割り切ってしまうことにも通じるし、相手がそんな思いを抱いていると憶測もしかねない。だから幅広い意味で相手を「助ける」ことや「愛する」ことと、セックスによる一体化願望とはともすればズレが生じてしまうのだ。セックスにそうした「助けたい」や「愛したい」という感情を一緒くたに封じ込めたつもりでも、相手には伝わらないことが往々にしてある。また自分の怠惰がそうしたセックスと同伴すべき感情をおろそかにしたり忘れてしまったりもする。こういう分析がこの小説の冒頭の部分にぴったりと添うものなのか少し心許ないが、書いてみたくなった。

 やがて、ヒデの剥き出しの本能と、これも本能的にそういうヒデを嫌がった額子との関係はまもなく破綻してしまう。額子がヒデの下半身を露出させたまま、公園の木にベルトで縛りつけてそのままさってしまうのだ。だが後半部において二人は紆余曲折ののち関係を復活させる。省略的な書き方と私が書いたのはそのことにも通じていて、このときの関係を二人が見直したからだ。見えにくいが、愛情のかけらはあったことになる。

 中盤部においては凄まじい展開がある。地元の家電量販店に就職し,翔子というガールフレンドもできて同棲もし、社会人としての順調な滑りだしをしたかにみえたヒデだったが、アルコール中毒という地獄が待っていた。ここも、そうだなあと、私なりに唸らされた。若い日とはともすれば身体感覚を重要視する、本能的にもそうだろう。幸福に満ちた生活にあって、その幸福感を少しでも感覚的に延長し、拡大したいのだ。私の若い時代もそうだったが、そのときにはおもしろいかおもしろくないかという感覚的な二者択一を過大視する。やがては、人生はそんなにおもしろくはないものだという結論に自然に達すると「おもしろい」という尺度も、しだいに落ち着いたものに変貌していくのだが……。たまたまヒデは酒に滅法強い体質だった。酒量がどんどん増えていく。本人の記憶がとんだ時間のなかで、翔子はじめ友人らに乱暴狼藉をはたらいてしまう。忠告を受けるが酒をやめられない。人がみんな去っていく、会社も無断欠勤が多くなって辞めざるをえなくなる。鬱屈がつのるとまた酒。酒の快感はしだいにわずかな時間でしかなくなり、かわりに酒への飢えに支配される。それに飲酒後のどうしようもない倦怠と徒労、わかっていても、そのサイクルから逃れることができない。人間はほんとうに脆いものだ。結局は本人の決断で入院治療によって快復をえるが、だれにでも大小はあっても、なにかしら人生の経過のなかには予断をゆるさない罠が待ち構えているんだなあと、怖ろしさを味あわされた。そしてまた、そういう危機を克服しないかぎりは人はまともにはなれないのだ。アル中のような厄介さでなく、もっと小さなものであっても。

 ヒデが立ち直るよすがとしたのはプライドである。人に軽蔑されたくないという最低限のプライド。しかも自分では自分を激しく軽蔑する人間が。人の輪のなかにとどまっていたいのだ。これは実際に人が立ち去ったあとでも強く願われる。これがないと滑り落ちてしまう。説教くさい感想文になりつつあるが、挙げておこう。

 俺の体はもちろんアルコールを激しく欲していたが、それ以上にこのおばやんに軽蔑されることが怖かった。そうだ。俺はあらゆる人から軽蔑されることが怖い。両親に。ネユキや加藤に。いなくなった翔子に。額子に。そして額子の母親であるこのおばやんに軽蔑されたら、俺はまた死んではいけない理由を見落としてしまいそうだった。俺は何よりも軽蔑されることが怖くて、それ以上に自分で自分のことを軽蔑してきて、それなのに人から軽蔑されることを長い間、ずっとやってきたのだ。
「俺、今日は飲まないよ」
 自分の声ではないような気がした。なにかによって喋らせられているようだった。(p102)



 「おばやん」は額子の母。ちいさなおでん屋をやっていて、額子が姿をけしたあともヒデはそこに飲みに行っていた。これが額子との再会を可能にしたことは言うまでもない。

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ブラック・レイン(1989/アメリカ)

ブラック・レイン [DVD]ブラック・レイン [DVD]
(2006/04/21)
マイケル・ダグラス高倉健

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 公開から何年かのちにテレビで見た記憶があるが、そのときは日本人俳優の地位もここまで上昇したのかと、気をよくした。高倉健や松田優作がマイケル・ダグラスやアンディ・ガルシアとがっぷり四つに組んでいると見えた。また、大阪のようなたいして特徴のない都会にまでハリウッド映画がわざわざロケに来ることも嬉しいことだった。バブル全盛期のときで、日本の国際的地位もひときわアップしたのかもしれない。そういう周辺的な事情に幻惑されたのかもしれない、かつて見たときは小気味のいいアクション映画という印象を持ったが、今見るとそれほどでもない。駄作ではないが、今後どれだけ鮮度を保って、数あるアクション映画のなかで歴史に刻み込まれるか、微妙なところではないか。

 俳優人のなかでは松田優作が目だっている。はじめての悪役挑戦だったが、大成功だ。セリフが少ないわりに、ここまで存在感を出せたのは立派だ。彼のそれまでの作品を知らなくてもその好演ぶりは納得できるだろう。それまでの主演作品で形成されたイメージを彼自身があっさりとぶちこわして「この映画では悪役」と割り切ったのがよかった。悪役とは、「悪」にたいする理屈抜きの意欲ではないか、それをおしえられた気がする。映画の撮影中、すでに彼のなかで癌が進行中で、撮影終了後まもなく、松田は帰らぬ人となった。

 マイケル・ダグラスや高倉健はまあまあか。彼らの出演作品では他にもっとよいものがあるだろう。彼等二人がいっしょにうどんを食べる場面が二回あるが、二回目に、高倉がマイケルの箸の使い方を見て「うまくなったね」と褒める。くつろいだ気分がでていた。
★★★

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プラトン「ゴルギアス」

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))
(2002/01)
プラトン

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 裁判にのぞんでの演説=自己弁護の様子をおさめた「ソクラテスの弁明」や死刑判決の下りた後の友人との会話「クリトン」よりも時制的には古いが、プラトンの著作上からは、こちらのほうが新しいのではないかと推測する。前の二つの著作で展開されたソクラテスの論理体系が、ここではいっそう整理、深化されているとみえるからで、これはプラトン自身の内的欲求によると見る。そして、裁判などまだ日程にのぼらない段階にもかかわらず、ソクラテスは国家や政治家による自らへの迫害(たとえば死刑)を予見し、堂々と受け入れることまで表明している。死にのぞむことは、思想家にとって最大の危機である。とくに自分の態度如何によって死が回避される可能性があるならば、思想家もまた自分のそれまでの言説を変更してしまうかもしれなからだ。死はだれでも怖い。だが「知」を愛してやまないソクラテスはそれをするつもりはない。しないことを、あらかじめ悠然と表明する。言説をうちたてて護りぬくことが哲学者(思想家)の使命であり、「魂」を向上させることに他ならない。そのためには死を受け入れることも辞さないのだ。

 ソクラテスが追究するのは「正しさ」であり、「正しさ」と一体となった善であり美である。逆に排除と否定の対象となるのが「不正」であり、そこに付随した「放埓」であり、自己利益と欲望の際限のない追求であり、またゴルギアスのように弁論家を自称しながら「おべっか」を使うこと、お世辞を言ったり御機嫌をとったりして聞き手を気持ちよくさせて丸めこむことである。ゴルギアスについて言えば、ゴルギアスの弁論術は無知な聴衆を相手にしたときに効力を発揮する。たとえば、本物の医者とゴルギアスが医学に関して、ちがった意見を同じ聴衆に聞かせたならば、聴衆はゴルギアスを支持する、そういう自信をゴルギアスはもっていて、また彼の周辺の有力者も彼のそういう弁論術の力を認めるところだ。だが、これは聴衆が医学に関して無知であるためで、(ゴルシアスが聴衆の無知をあらかじめ見越しているためで)ゴルギアスもソクラテスの指摘によってしぶしぶそれを認めざるをえない。聴衆が医学に見識を有したならば、公平に両者の意見を吟味して医者の意見を採りいれるだろう。これは言論家として虚偽を吹聴することにあたるので、ソクラテスは「弁論術」を糾弾せざるをえない。

 私もそうだが、ソクラテスにたいして反論してみたくなる。出世して金銭を人よりも余計に得ること、政治家になって社会にたいして一定の影響力を行使すること、それは自己利益の追求というばかりではなく、家族や仲間、友人、知人にも幸福をもたらすことにつながるのではないか、出世や政治にかかわること、世渡りにはときに剥き出しの真実よりも「巧言」と呼ぶべき言葉が多くの場合役立つ。若い時代に哲学を勉強するのはいいが、いつまでも執着すると社会的な力はつけられない。少数の若い人を相手に「大道演説」をぶつのは本人は気持ちがいいのかもしれないが、見ていられない。すべて一致はしないが、読者からみて概ねこういう意見を代弁するかたちで、カリクレスという政治家が反論する。

 ソクラテスは自分が無力であることを知っている。家族や仲間を救い、幸福にすべき力を自分が持たないばかりか、自分さえ国家の大きな力を前にしては無力であることを知っている。ソクラテスはそういう人間ではないし、そういう力を目的にしないのだ。彼が中心に据えるのはあくまでも「正しさ」だ。社会や政治にたいしては、せいぜい法律のあまねき施行によって人々に平等をもたらすくらいのことしか主張できない。そして法律にたいするこういう希望も「正しさ」を梃子としている。ソクラテスが対話者にたいして効力を持つとするならば、ゴルギアス、ポロス、カリクレスなどが「正しさ」に色目を使うこと、目的はほかにあっても「正しさ」を装って飾ることを、果敢に暴露することにあった。

 災悪の大きさを、ソクラテスは順番において「不正」を人に与えながら罰されないこと、「不正」を与えて罰されること、人から「不正」をこうむることとしている。一番目では身体は無事であるが、懲罰を受けないから矯正の機会がなく、したがって魂にとっては不健全このうえない。三番目は身体は死刑判決を受けた場合には消滅するが、それでも自らが「不正」に手を染めたのではない以上、災悪はいちばん小さい、零であるとしてもいいくらいだ。この順番は、ポロスのような独裁者にあこがれる人物にとっては驚き以外の何物でもない。欲望や無際限の自由にたいする否定的立場だ。

 ソクラテスの「正しさ」は、個人が自身にたいして知的探究心をもち「放埓」を規制することで実現の途につく。欲望はむしろ外的対象に向けられずに知の構築に向けられて、知でありつづけることの支えとして使われるようだ。欲望は「欲望」というかたちをとらない。とったとしても、ほどほどにということだろう。だから「正しさ」はまた、死への果敢な態度表明を別にすれば、やたら禁欲的でかた苦しいものではないように私には思える。「正しさ」と個人が高度につりあいが取れる状態、明鏡止水という言葉があるが、ソクラテスの追究の果てにはそんな心身の満足の状態が私には想起される。それはまた愛の実現でもある。愛は多方向にはふりむけられない、いちばん実現可能な自己に振り向けられる「正しさ」としてある。それはまた自己満足ではない。彼の言説は彼の生涯にわたる演説によって広く知られることとなり、プラトンの著作にもなった。政治勢力の形成という目的には背を向けたが、とおまわりするかたちで政治家や私たちを撃つ。

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北辰斜にさすところ(2007/日本)

北辰斜にさすところ [DVD]北辰斜にさすところ [DVD]
(2008/09/05)
三國連太郎;緒形直人;林隆三;永島敏行;坂上二郎;佐々木愛

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 旧制第五高校と第七高校の野球の対抗戦が、それぞれのOBの尽力によって復活されることになった。すなわち現在の熊本大学と鹿児島大学の現役の野球部が試合をして、そこにOBが同窓会をかねて集結し、観戦するという催しだ。七校OBの三國連太郎にも誘いが来るが、彼はいったんは断る。戦場において、高校の先輩で何かと世話になった緒方直人を見捨てたという苦い体験があったからだ。三國はそのときは軍医で、負傷して動けなくなった緒方が担ぎこまれてきたが、転進命令によって置き去りにせざるをえなかった。この記憶が,はなやかでかつ陽気に盛り上がるであろう「復活戦」への参加をためらわせたのだ。

 旧制高校のとくに寮生活を中心とする青春の時期は、私はよく知らないが、独特のものがあるようだ。この映画でも「馬鹿の天才になれ」などと奨励される。バンカラ気質で、よく遊びよく学べ、というところだろうか。飲酒や、校歌をうたいながら踊ったり、じゃれあい半分の取っ組み合いがあったりする。同性愛の匂いもかすかにする。青春の普遍性を受けとれるが、今の時代以上に治外法権的な自治と自由があったということか。

 現役の選手たちは、当時のユニホームを着て試合する。三國の孫もピッチャーとして七校のマウンドを守る。三國自身も七校のピッチャーだった。そこで決して大げさではなく、予期せぬことが起きる。OBたちが口々に孫の選手の投球ホームが当時の三國とそっくりだと言い出すのだ。ここは私も心を動かされた。奥底の記憶がよみがえった、というよりも記憶が動き出したのだ。こういうことはたしかに生起しうるだろう。そしてそれをジャンプ台のようにして、それぞれの守備位置につく選手を「あれは誰それだ!」とつぎつぎになぞらえていく。なぞらえられた選手は全員が戦死者だ。ああ。これは幸運な再会だなあ、ほんとうの供養だなあと、私はOBの感動が伝播してくる気にさせられた。ここがそれこそ、この映画のいちばんの「盛りあがり」の場面だ。

 忘れてはならないのは緒方直人。試合がはねたあと、球場の目立たない場所で三國に向かってにこやかに笑いかけている。軍服ではなく高校時代の制服の姿で。緒方の姿は三國にしか見えないのだ。ここはつけたしではなく、制作者が最後の仕上げとして強調したかった場面だろう。
★★★

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空気人形

 だれかがチラシに書いていたが、痛々しい感覚がよく表現されている。それにまた、みずみずしさもある。ストーリーの展開はあるにはあるがゆったりとしていて、動きの少ない魅力的な映像がふんだんにあり、視聴者は立ちどまらされる。私にとってはある種のなつかしさ、若い時代にあった勤労すべき社会とうまくなじめないという困惑、また途方に暮れてしまうような徒労と倦怠、こういうものを思い出させてくれる。その奥に見えかくれするのが核心としてある痛々しさ、みずみずしさなのではないか。

 主人公は人形で、ペ・ドゥナという韓国人女優が演じている。レストランでウェイターをしている独身の板尾創路のペットで、セックスのはけ口である。ダッチワイフという言葉は古いのかどうか、そのものだ。この人形がふと「心を持って」しまって、アパートの一室からさまよいでて、さまざまな人たちと短い交流をかわすという童話的な話だ。服装も、黒の上下に白のエプロンという可愛いメイドスタイルだ。

 ペ・ドゥは虚空の一点を凝視しつづけるような表情を終始たもつ。寂しげであり、緊張の糸がぴんとはりつめられて繊細である。たいへん魅力的でもある。人形の世界から出てきて人間の「心」を持ってしまった当惑とこわさとはこういうものなのかと、不思議に納得できてしまう。ところで「心」とは何なのか、この映画では、それは他人と交流を持ちたい、愛し合いたいという欲求であり、裏返せば、それが満たされなかったときの絶望だ。人間はそういう心を持っているのか、本来ならもっていておかしくはないが、ここに登場する人物はそういうものと無縁だ。

 板尾創路は職場でミスをして、上司にあたるシェフにこっぴどく叱責されるが、へらへらした愛想笑いを絶やそうとしない。かじりついてでも職場にとどまろうとする姿勢がありありとみえる。「おまえの代用品はいくらでもいるんだ」と言われても驚かない。つまり自分もまた「代用品」に過ぎないということだが、プライドが傷つくこともない。何でもいい、それだけ職にしがみつかなければ生きていけないのだろう。愛以前の問題としてそれはあり、だから愛には目を向ける余裕がなくなっている。だが「心」をもってしまった人形のペ・ドゥにとっては「代用品」という言葉ほど痛いものはない。後半、しばらくぶりに板尾のアパートに帰ってくるペ・ドゥだが、板尾がはや別の人形とベッドで寝ているのを見てショックを受けるのはうなずける。

 ペ・ドゥはレンタルビデオ店にふらふらとさまよいこんで、そこでアルバイトをすることになって店員のARATAと恋人関係になるが、ARATAはやがてペ・ドゥが人形であることを知ってしまうと、それまでの「愛」を意識した真面目な態度を一変させる。魅力的な女性が人形であることを知ったとき別の緊張感が彼に走る。いろめき立つのだ。板尾ほど人形には狎れきっていないARATAだが、性への好奇とペ・ドゥの人形が重なる。人間に見えるペ・ドゥを人形扱いしてみたくなる。これも「心」をもってしまったペ・ドゥにとっては許しがたく、奈落に突き落とされた気にしかなれない……。

 生きるためには「心」や愛を摩滅させることも辞さない人間と、「生きる」必要のない人形が人間の世界に一歩踏み出して「心」をもってしまった、その位置の人形には「心」しか拠り所がないということの逆説、そういうことがみずみずしく表現された映画だ。人物関係の記述に手間をかけたが、映像もうつくしく、痛切だ。何度か登場する空き瓶や埃をかむったりんご、これらはゴミを入れたビニール袋の置き場といっしょに映される場面がある。つまりは用済みのたんなるゴミに過ぎないのだが、向こう側の人形の「心」の世界から透視すると、これほどうつくしい切ない存在はない。映像のこの見事な二重性。それにまたペンキの剥げかかったみすぼらしい公園のベンチと、向こう側にそびえる空を覆い隠すほどの高さのビルディング。この対比も社会の無気味さをよく伝えている。社会とは何か、それはとにもかくにも巨大な装置で、そこにぶらさがっていなければ生きていけない。一定時間、そこに身をおかなければならない。時間が過ぎたとき、年をとったとき、そこから逃れられる。そして公園のベンチに腰掛けて巨大ビルを眺めたとき、不可解さが起こらないはずもない。それを視聴者に端的に喚起させる映像だ。撮影は台湾出身のリー・ピンビン。

 最後になったが、板尾創路はうつろな表情がたいへん自然に出ていて、いい。テレビタレントよりも、俳優のほうがあきらかに向いている。
★★★★

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プラトン「クリトン」

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))
(2002/01)
プラトン

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 死刑判決がくだされて獄舎につながれているソクラテスのもとに、幼友達で支持者でもあるクリトンがこっそり訪ねてくるという小編。夜明け前でソクラテスが眠りから覚めたころだ。クリトンは獄舎の人に賄賂をにぎらせて、やすやすと侵入した。彼はソクラテスに脱獄をすすめる、外国での生活の準備も整っているという。クリトンをはじめソクラテスの支持者は、彼に死刑判決が下されたことが無念でならない。裁判にもちこんだこと、そこで無罪を勝ち取れなかったどころか、ソクラテスの不遜ともとられる態度も影響して最悪の結果を生じさせたことに腹立たしい思いがある。無力であり、自分たちとしては男らしさが欠けるとも言う。だからソクラテスのためは勿論、自分たちの名誉挽回のためにも是非脱獄させなければならないと決意を固めている。だがソクラテスはこれをきっぱりと断る。

それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだというのだ。(p111)



 有名な言葉だそうだ。「善く」はまた「美しく」や「正しく」と同じでなければならないと言う。ここでは「正しさ」を前にもってくるが、ソクラテスほど「正しさ」の身をもっての実践にこだわった人は、それほどいなかったはずだ。脱獄と判決に服することとを見比べて、後者こそが正しい道だとひるまずに断定する。前者は「ただ生きる」ことそのもののようだ。

 ソクラテスは国家や法律の秩序を重んじるというよりも絶対視した人であった。それら公的秩序を父母と子の美しい上下関係にまでたとえる人である。紀元前のことだから、国家や法律というものの整備や施行はまだまだ草創期であったのではないか。だからその秩序をあまねく行き渡らせること、逆に言えば、無法状態での支配や処断をすみやかに廃止することが、彼の「正しさ」の目標ではなかったかと推察する。ソクラテスの裁判など、今日的視点からみれば無茶苦茶なところがある。最初に罪の有無を決めて、有罪ならそのあとで被告の態度を吟味してから量刑を、死刑か罰金刑かを決める。陪審員にたいしていかに従順かを品定めする体のもので、陪審員は容易に感情に流されてしまう。この裁判では命が羽のように軽いのだ。だがそれでも当時としては、正式な裁判であり、そこで下された判決だから、ソクラテスは「正しさ」の選択として刑に服することをとった。

 ソクラテスは私的な復讐や仕返しを忌み嫌った。自分の望んだ判決が下されなくても、裁判は裁判であり「正しさ」のあらわれだ。一方において裁判の実施を善きこととしながら、判決が不服だからといって脱獄などしてしまうのは「正しさ」の瓦解ではないか。一旦旗を押し立てた「正しさ」は中途半端であってはならないのだ。正しさを身をもって前面に押し出すこと、現世に広く知らしめること、正しさのお手本とみずからが化すことが、ソクラテスの生きる目的であったように思う。それはまた、大衆など多数派の意見に服することでもなく、正しさは言い換えれば神であり、その指針にいさぎよく従うことを意味した。

 国家や法律がいつも正しいとはかぎらない。法律はどんどん作り換えられていくし、それにつれて国家の姿、大衆にたいするありようも変化する。そこに絶対的な正しさが前もってあるなどとは、とても言い切れない。そこは私でなくともソクラテスには違和感を抱くにちがいない。だから正しさの内容ではなく、それを主張するとともに実践に定着させるところ、そのどっしりとした外観が私たちに畏怖を呼び起こすのだ。

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