大洋ボート

南極料理人

 「南極ドーム富士基地」での一年以上にわたる隊員の生活が、調理担当の堺雅人の視線を中心に描かれる。そこは沿岸部の昭和基地から一千キロも離れた内陸部にある。隊員は八名。楽しみといえば、毎日の料理。食事時間ともなると、同じ食卓を囲んで陽気に食べ、かつ酒を飲む。各自好きな食べ物がある。それを腹におさめることが嗜好を満足させ、自分というものの確認になる。また日本での生活を思い起こさせ、過去とのつながりを持続させることにもなる。調理師の堺雅人は、毎日ちがったメニューで隊員を満足させなければならない。

 南極といっても、ペンギンやアザラシはいない場所だ。またオーロラの話題が出てくるが映されることはないので、もっぱら室内劇、つまりスタジオ撮影が大部分で、そこは少し不満の残るところだろうか。また零下五十度以下という極寒もそれほど表現されていない。言ってみれば、基地とは、高価な通信費を払って本土と連絡が取れたり酒が飲めたりと、自由は比較的あるが、脱出不可能な牢獄のような存在だ。

 その牢獄をいかにして楽しくするかが課題で、その課題の重要な部分を堺雅人が担っているのだ。同僚とはいえ、男八人が長期にわたって顔をつきあわす、一年以上帰れない、これでストレスが溜まらないわけがないのだ。そこは理性と忍耐力ある隊員がそろっているから、容易には崩れない。朝は、レオタード姿の女性の体操のビデオを流して全員で体を動かしたり、夕食後は、メンバーのある部分は麻雀に興じたりと、リラックスムードを工夫する。全員が家族的な仲のよさを維持し、また演出をして一年を乗り越えようとする。「家族」という思い込みでもあり、また「お芝居」でもある。だがそこはやはり緊張を強いられる。飽きも来る。肩の荷を降ろしたくなろうというものだ。

 そこで、せめて目先を変えようと、基地生活での日常の不満を食い物にぶつけてくる。地質調査や気象観測など、日々の仕事そのものはなおざりにはできないから、変えられるのは食い物ぐらいしかない。あるとき、伊勢海老が食材にあるという情報が全員に行き渡ると、いっせいに「エビフライ!」というシュプレヒコールで、堺雅人を催促する。伊勢海老なら、フライよりも刺身がセオリーだと堺は当然主張するが、隊員たちは譲らない。そういうことで、少しでも食の日常を変えてみたいからだ。そして馬鹿でかい伊勢海老のフライが出来上がり、全員が食するが、やはり刺身のほうがよかったという結論になる。

 こういう調理人・堺雅人と隊員の意見の違いや堺の工夫は随所に見られて、おもしろい。そして決定打は、堺自身が家族との生活をなつかしむ場面だろう。寝転んで家族と一緒にテレビを見ている。堺がおならをして後ろにいる妻や子が堺のお尻を蹴る、これが二回ほど出てくるが、こういう家族ならではのおもいきりだらーんとした、ありふれた日常がたまらなくなつかしい。これはわかる! 基地の生活が「家族的」だといっても、ここまでのくつろぎは得られないのだ。堺が仕事をサボタージュして(その理由は省略)ほかの隊員が調理した食事。油でべたべたした唐揚が出てくるが、堺はおもわず泣いてしまう。妻の作った唐揚とそっくりの味だったからだ。この涙もわかる。料理はあるときは旨さやセオリー以上に思い出につながるものだからだ。

 堺雅人は主演として安定している。八人のなかではただひとり女性的な顔立ちで、目立って得をしている。またそれが隊員をなごませるのにも適っているのではないかとみた。南極基地という、いわば異常な日常の風景をこまやかに拾いあげた秀作だ。

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角田光代『三面記事小説』(2)

三面記事小説三面記事小説
(2007/09)
角田 光代

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 この短編集の一番の秀作が「永遠の花園」である。というよりもこの一編がないと短編集全体も印象のうすいものになりかねない。やはり、これも異物混入という事件があって、そこだけ取りあげればまさに「三面記事」の陰惨さを免れないが、そこまでにいたる女子中学生同士の友情の変転ぶりはピュアなものがある。私自身の若いときをふりかえっても、これほど一途で「さわやか」なことはなかった。また周辺の環境や細部もよく書かれていて、透明感が醸し出されている。ただこの「さわやか」さは、主人公の思い込みの強さや「歪み」と表裏一体のものであることも忘れてはならないだろう。そこは「夕べの花火」と共通するところである。

 亜美という中学生が主人公で、菜摘という小学校以来の親友がいる。ふたりは二年になって同じクラスになれてより密着できるようになった。だが菜摘はそのときの担任の玉谷先生〈通称タマちゃん〉に「初恋」をしてしまい、敏感な亜美はたちまちそれを察知してしまう。菜摘は、タマちゃんへの給食の配膳を買って出たり、放課後になるとタマちゃんに近づいて何かと話しかける積極性を発揮する。タマちゃんも悪い気はしないようだ。二人の会話にも、タマちゃんはしきりに登場する。亜美はじつは親友という以上の感情を菜摘に抱きはじめている。世界で好きな人は菜摘しかいない、というほどに。菜摘がそこまでの亜美の気持ちを察して引き受けている気配はない、小学校以来の親友という仲のよさはつづいているのだが。亜美は内心、菜摘がタマちゃんのものになりはしないかと気が気でないが、表面上はそんなそぶりは見せずに、むしろ菜摘の恋の成就を願うようなことを口に出すのだ。

今年に入って菜摘は急激に大人っぽくなった。背丈ものびて、前は棒切れみたいだったひょろ長い手足が、今では透明な清潔感を醸し出している。今年に入ってから、菜摘が美しい少女であることに亜美は気がついた。道ばたで拾って大切にしていた石が、じつは高価な宝石だったと知らされたような気分を亜美は味わった。見せびらかしたいような、けれど隠しておきたいような、相反する気分である。(p138)


 「高価な宝石」のような菜摘といつも一緒に居ることが亜美の願いで、夏休みにふたりで東京に行こうという話しもしていた。書くのが遅れたが、二人の住む町は海辺にある。辺鄙だが、夏になると海水浴場がひらかれて、東京方面から若い男女が大挙押し寄せてきて街は活気と賑わいを見せる。亜美の姉は東京からやってくる男と夏がくれば関係を持ち、夏が去ればその関係は消滅するということを繰りかえしている。そういう姉を亜美は嫌悪しているし、それ以上に男性に対して生理的敵対心を強く抱いていることもうかがわれる。

 亜美は菜摘と相思相愛でありたいと願う。だが菜摘のほうはそこまでの思いがあるのかは亜美にはわからない。またそれを聞きただそうとするのでもない。ただ菜摘にやさしくする、菜摘の願いをとげさせるための手伝いを買って出ることで自分の思いを菜摘に気づいてもらいたいのだ。だが菜摘は動く。亜美に黙って動く。それは二人の間に距離を生じさせることになり、それに揺らいだ亜美は距離を縮めようとする。自分の思いを不動のものにしようとするなら動かなくてはならない。二人の東京行きの話が煮詰まらない段階で、菜摘は亜美に告げることなく、単独で東京へ行ってしまった。夏休みが終わり、ふたりは再会するが、亜美は変貌をとげている菜摘を眼にすることになる。微妙に、亜美に対してそっけなくなっている。この辺の描写は巧みだ。菜摘自身にとっては、東京行きでもたらされた出来事はショックをもたらしたにはちがいないが、通過点として早く忘れようとも心がけるようだ。つまり、口にこそ出さないが、また小説の客観描写もないが、菜摘は東京の郊外都市にいってタマちゃんに会ってきた。だが先生は体よく追い返したらしい。担任と女子中学生という関係ならば、常識的な対応といえる。またタマちゃんは今年かぎりでその町を去ることも二人は知る。

 ここからが事件である。亜美はタマちゃんを町に居つづけさせる方法はないものかと菜摘と相談する。だが中学生の幼稚さゆえに、そんな効果があると思い込んだのか、それとも単に復讐であってもいいと割り切ったのか、そこははっきりとしないが、先生の給食に抗ウツ剤を混入してしまうのだ。そのときにかぎって亜美と菜摘の友情は以前にもまして強まると見える。菜摘はいったんは忘れるという常識的な方法を選ぼうとしたのだが、亜美にそそのかされた、別な言い方をすれば励まされたのだ。

 事件は当然、被害者を生む。先生は入院する。薬を提供した別のクラスメイトは自殺未遂をしてやはり入院する。二人も学校と警察で取り調べられる、というように。そして亜美と菜摘の仲はこの事件をきっかけにして疎遠になり、やがて絶好状態になる。菜摘が逃げるのだ。菜摘は事件後にたぶん亜美という人の正体を知った。あまりに愛情が強いと何をやらかすのかわからないから、こわくなったのだ。

 たぶん、と亜美は思う。たぶんこれからいくつ年をとっても、父や母やクラスメイトたちがあの事件のことを忘れ、そっと大事に隠してある事件ののった新聞の切り抜きが変色し、この町を出てこの町のことなど忘れ、だれかに恋をしだれかと結婚したとしても、私は一日のうち数分だけ目を閉じて、きっとあのころに戻るだろう。色あせることのない記憶とたわむれるだろう。そうしてきっと、この先ずっと、あんなふうにだれかを好きになることはないのだ、その人のためにだれかが死んだってかまわないと本気で思うほど。(p176)



 感情の高ぶりを自覚して、それに則って行動する。たとえそれが犯罪の領域に踏み込んでしまおうとも、かまわず動く。ピリオドが打たれるまで動く。そうして感情の高ぶりと行動が定着されて、後々の人生の記憶にまで刻みこまれる。こういうことだろうか。達成感でありながら、それ以外の人生は抜け殻か余禄のように見えてしまうという虚脱感。だがこれは自分という一点からのみふりかえられる人生観ではないだろうか。あまりにこういう人生観に自信をもちすぎると、他者から投射される人生観がみえなくなるきらいがあるだろう。その証拠というのではないが、この女子生徒・亜美はいまだに、菜摘が自分〈亜美〉のことを「好き」だと信じきっているらしいのだ。これがこの短編のたいへん無気味なところである。無気味さ、またこの頑なさが解けるのには、長い年月を要するのだろう。行動力のある若さは「さわやか」ながら「歪み」も併せ持っている、そういう痛切な例として私は読んだ。つけくわえれば、角田光代の筆が力強く「書ききった」ので、そのぶん読者に「さわやか」さが増すのだ。


 
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角田光代『三面記事小説』(1)

三面記事小説三面記事小説
(2007/09)
角田 光代

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 犯罪を擁護できるのは文学(芸術)だけではないかという感想を持った。明らかとなった犯罪に対してその犯人を警察が捕まえ、法律が裁き、社会が非難する。放置することはできない。これで間違いはないのだが、犯人はいかなる背景と動機にもとづいて犯行に至ったのか、微細に眺めると、だれでもが陥りそうな感情の沸騰がある。「愛」や憎しみという感情を浮かべやすいが、それがどうにもならない状態にまでなって、引きずられるままに犯罪にまで走ってしまう。犯罪者にならずに一歩手前で、理性によってブレーキを掛けることができてもその人間の感情や心理は、犯行直前の犯罪者と共通するところが少なからずあるのではないか。また、犯罪者特有のナルシズムがる。今このときの自分の状態は人生にとって二度と訪れることのないかけがえのないものだ。ならばその「世界」にブレーキをかけて凍結させたり、記憶しようとしながらも少しずつ忘れていくよりは、「世界」に忠実に、生々しさのままに感情を引きつづき解放してやったほうが、人生はそこでひとつの完結を成すのではないか。こういうナルシズムの内実を小説家が言葉で解剖し、救いとる。そうすることで、犯罪は単に犯罪者固有のものから、そこまでには至らなかった人々の内心の葛藤までも広く救い上げることができる。社会や法律の非難や措置とは別に、文学は人間のある種特異な状態を明らかにして、擁護する、やさしい眼差しをそそぐ。そんなことを思った。

 題名のとおり、新聞のいわゆる三面記事における犯罪の記述をヒントにして編まれた短編集だ。ひとつひとつの編に、対応する新聞記事の小見出しと記事の初めの部分が、うすい白抜きの活字で紹介されている。だがあくまでヒントで、モデルとして採用したのではなく、そこは作者・角田光代の想像力とデザイン力が発揮されている。また結末が必ずしも新聞記事と同じではないし、犯行の実際の行為までは描かない場合もある。たとえば、冒頭に来る「愛の巣」では、殺した人の遺体を時効を超えてまでの期間、自宅の床下に隠すという話だが、犯行そのものの記述はない。また人間関係は実際にあった事件とは無縁である。


 「ゆうべの花火」は闇サイトに殺人依頼する話だが、そこまでに至る女性主人公のみずからの立位置への認識と感情が、かなり急なテンポで変化する。また、主人公がそういう変化に乗り遅れまいとして動き回る。荒々しく、また慌ただしく、どろどろしている。それに描写は細部が省略されているので劇画的というのか、読者はふりまわされる。三一歳の独身女性が、同じ会社の同い年の男性と「不倫」関係を持つという、小説としてはよくある話である。

 

誤解して欲しくないのは、最初に好きになったのは私ではなくて向こうだってことだ。



 書き出しである。優越感を大事にするのだろうか。それとも、もっていきどころのない怨みの裏返しだろうか。こういうことを断っておかずにはおれない女性なんだろう、プライドが高いのか。

 ともかくも、その男、田口に声をかけられ食事に誘われるままについていく。田口は背が低いので女性にとっては好みのタイプではない。だが同じ会社の人なので、礼儀として断るのは悪いのではないかという軽い気遣いで誘いを受ける。女性はこだわるが金は男のほうが持ち、何回目かの花火見物のデートのとき、引用したような「実感」を得る。そして肉体関係をもつことになるが、田口が既婚であることがまもなくわかる。田口は見てくれはたいしたことはないが口は巧く、会社でも人気者だ。離婚を考えるようなことを言って女性の気持ちを引き止める。女性のほうも男が発散する親近感にひたりこむようになる。「実感」であり、それは幸福への予感に無防備につながっている。それに女性は、過去につきあった「背の高い」男性と田口とを比較して、はるかに深い恋の「実感」(好かれる)をえたことも勝手ながら納得する。女性の人生にとっては真の「初体験」である。男に一日でも会えないときやメールが来ないとき、締付けられるような寂しさに掻きまわされる。これも「実感」だ。

 だが読者は、まるで主人公よりもいち早く、この男が遊び相手としか女性を見ていないこと、また飽きるのも早いことを記述によって知らされる。女性の幸福の「実感」はほんの短いひと時にすぎないことを。しかしながら女性にとっては「実感」はかけがえのないもののようで、それを中心にして認識が立てられる。男は依然として自分を好きだという、およそ考えられない認識、というよりも思い込みにすがる。男が会うのをしぶると、自分から金を出してまで会う。男からの借金の依頼にも簡単に応じる。そして男が子供ができたこと、離婚する気はないこと告げると、女性は妻と子に怨みを向けるようになる。そこで妻を困らせてやれ、さらには殺してやれ、という闇サイトへの依頼につながっていくのだが、その直前の女性の勝ち誇ったような、やけっぱちのような、男を「買う」記述。

 

私が用いる護符は、しかしたしかに私たちの関係をもと通りにした。今や私は彼より優位に立っている。何しろ私は、彼を買うことができる。お盆休みに、彼が奥さんを連れて愛知万博にいったと聞いたので、わたしも旅行をねだった。一泊二日の拘束費三十万円プラス交通宿泊費で、私は彼と旅行することすら可能なのだ。花火大会は三万円で買った。(p83)


 「護符」とは金のことで、サラ金のATMから女性が無計画に引き出してしまえる。「彼を買う」という言い方は、やはり勝手な優越感にもたれかかっている。書き出しの文にも同質のものがうかがわれる。人や出来事を、過剰な感情を交えて見るタイプなのかもしれない。

 女も女なら男も男だ。ここまで甘えてしまっては怨みを買うことはわかりそうだが、舐めきっているのだ。だがそういうべったりした関係の継続が女性にますますのぼせ上がらせる。好きなのか嫌いなのかここまで来るとわからない状態だが、男を金輪際手放したくない、かかわりつづけたいという最後の欲望に発展する。みずからの「実感」を見据え、大事にしていたころと随分かけはなれている。「好き」「好かれている」というわずかな実感を梃子にしつつも、そこに愛憎の感情が上乗せされる。事態の変転につれて「好き」という自分の姿勢を維持しようとすれば、逆に自分が変わらなければならない、そういう要請に女性は追い込まれるのだ。感情をつのらせて頑なになれば、まわりの環境変化にも不変の姿勢を保つことができる。だから不変であるつもりの一方では、変わるのだ。日常の平穏な感覚からどんどん遠ざかるという意味で。。頑なな感情のなかに自分が拘束されている気分だろうか。そういう感情の沸騰を女性主人公はナルシスティックに大事にする。そして女性の頑なさを支えるのはサラ金ATMから引き出される湯水のような金である。これは女性そのものにはない「外部の力」である。当然だが、犯罪や途方もない行為をなすには、普段の自分にはない「金」や暴力が必要になる。

 自分の人生に刻印を打ち込むため、かかわった男との関係をさらに決定づけるため女性は闇サイトにしきりに嫌がらせや殺しの依頼をし、大金をふりこむ。だが実行はされない。ここからは話の落ちになるが、女性は「最後の賭け」にうってでる。闇サイトを運営する男の話もかなりでてくるが、これは省略せざるをえない。ただ、それまでの月収十四万円の警備員のアルバイトの世界からは雲泥の差の金が転がり込んでくるから、有頂天にならざるをえないだろう。大金はおそろしく人生を、人間性を変えてしまうものだ。この変化は主人公にも共通する。繰りかえすと、ささやかな幸福の実感にこだわりすぎた女性の急速な転変を、この「夕べの花火」は雑然としつつも荒々しくいタッチで描ききっている。

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公園

 今日は公園に寄ってみた。普段、鉢植えの植物以外には緑と縁のない生活をしているので、ときどき緑につつまれた空間が恋しくなる。そよ風がセットされていればいうことはないが、あいにくにも今日はそれはなかった。冴えない暑さがつづくなか、盆休みの最中だからか、野球に興じる少年の姿も見かけられず、散策する人もまばらで、静かだった。とにかくも、緑の下に短時間たたずむのはありがたい気がする。木立は欅が一番多く、その繊細な葉の群れは眺めたり、見上げたりすると涼しげだ。

 蝉の声は聴こえるものの数は少なく、すでに盛りを過ぎていた。足元を見ると一匹の蝉が歩道のスペースの土にうずくまっている。靴を近づけると逃げたが、飛翔力が目立って衰えていて、わずか数メートルしか飛べずにまた別の地面に降りてしまう。もう木の上に上昇するだけのエネルギーは無くなったのか。どうやら臨終直前のようである。地面に眼をやりながらゆっくり歩行すると、あちこちに臨終を追えた蝉のむくろが転がっている。なんだか恨めしそうだ。靴に踏みつけられたものもある。抜け殻もある。

 蝉は何回かの脱皮を経たのち成虫となって地上に出るが、そののちは七日間しか生きられないそうである。その七日間の間に、あんなにもかまびすしい鳴声をはりあげて異性を誘い、交尾をして子孫を残して死んでいくのだ。時間とのたたかいというべきか、何年もの地中の暮らしに比べると、あまりにも慌しい日々にちがいない。
Genre : 日記 日記
    22:37 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

墓参り

 昨日は、父の墓参りに行った。私はズボラで行ったり行かなかったりだが、母は春の彼岸と盆には休むことなくお参りをしている。だが母も八十代半ばの高齢で足腰がかなり弱ってきて歩行が困難になった。まだ車椅子を使用するには至っていないが、長い距離の歩行は不可能になった。そこで私が軽四トラックに母を乗せて墓地まで直行した。バス停、駅、墓地、この間の歩行をしなくて済む。

 それでも、墓地は山林を切り開いて作られたので平地ではなく、要所に階段がある。事務所・販売所のある頂上までは車で直行できるが、そこからは階段をとおらなければ父の墓までは行けない。幸いに階段に手すりが敷設されていたので、それをたよりにして、母はゆっくりゆっくりと上り下りすることができた。その様子を見て、母はこれからあと何回この場所へ来ることができるのかなあと、思わないではなかった。私が背負ってあの階段を上り下りすることも想像しなければならなくなった。

 季節柄、墓地は賑わっていた。墓石に水をかけ、花かざしに溜まった雨水と塵をきれいにし、両手を合わせて父の墓石を後にした。大和平野のひろがりを見下ろせる絶景の場所に父は眠っている。

Genre : 日記 日記
    08:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

さらば愛しき大地(1982/日本)

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(2006/03/24)
柳町光男根津甚八

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 麻薬常習者として落ちぶれていき、やがてはみずからの人生を破綻させてしまう根津甚八が主人公であるが、登場人物全員が主人公であるともいえる。何故なら舞台となった北関東地方の農村共同体のありようが、そこで地を這うようにして生きる人々の身の処し方が、根津甚八に深くかかわっているからだ。根津甚八はすこしずつ迷惑このうえない存在となっていくが、それでも彼の肉親や周辺の人々は彼を見捨てない。最後まで守ろうとする姿勢を放棄しないのだ。普通に見て、村八分にされても仕方のない男なのにだ。農村共同体のこういうありようが、事実に近いのかとおいのか私にはわからないが、そこに柳町光男監督〈脚本も担当〉の思想が力強く込められていることだけは確かだ。農村に生きる人々に対する讃歌なのだ。そして根津甚八もまた、みずからの故郷の人々の、単に自分ひとりに対するものではなく、全体に対する善意と無力をわかりすぎるくらいにわかっていると思える。健全であったときの自分自身の姿でもあるからだ。

 根津の家は稲作を主な収入源とする農家だが、農業だけでは生計が成り立たなくなっている。そこで長男である根津は、おりからの工業コンビナート建設のブームに乗って砂利運搬のダンプカーの運転手となる。農業は残った父母(奥村公延、日高澄子)と根津の妻(山口美也子)に任せて、いわゆるさんちゃん農業の状態だ。やがて根津の子供二人が水死事故にあうという悲劇に見舞われる。子供の名前を入れた刺青をしてさらに仕事に精を出そうとする根津だが、このころから覚せい剤に手を出しはじめる。もっともトラック運転の長時間労働は〈きつさ〉がうかがわれるので、子供の死がきっかけで薬を始めたとは必ずしも言えない。根津の友人の蟹江啓三も薬をやっているので、蔓延していたようだ。映画の冒頭では、根津の粗暴性が描かれる。酔っ払ったのか、食卓が荒らされていて、親戚の人も応援に駆けつけてきて柱に括りつけられている根津を、私たちは最初に眼にするのだ。科白が聴き取りにくいが、東京で働いている出来のよい次男(矢吹治朗)と比較されるのが、気に食わないらしい。そんな根津がさらに逸脱していくさまが映画の後半であり、また同時に季節の循環にしたがって、毎年毎日同じように生活する農家の人々の暮らしぶりが描かれるのだ。

 根津はかねてから知り合いの酒場で働く秋吉久美子と仲良くなって同棲を始め、家を出る。子供の水死事故以来、妻に悪感情を抱いてしまったこともある。砂利運搬の仕事も独立自営に転じるが、うまくいかず、東京から帰ってきた弟の矢吹二朗にきりもりしてもらってなんとか軌道に乗せていく。秋吉との間に子供もできる。だがやがて薬の幻覚作用に見舞われるまでに至って、根津は働かなくなる。

 根津が住居の引き戸からゆたかに実った水田の稲穂を眺める場面が素晴らしい。一陣の風がザーッと水田を渡っていく。何の変哲もない撮り方だが、根津の思いが凝縮されている。水田は故郷の象徴である以上に、根津の原点でもある。そういう思いを込めて根津は眺めるのだが、同時にそこから堕ちていかざえるをえない自分も見据えている。麻薬常習者という以上に、なにかしら理想や根本的なところからずり落ちていく人間というものの存在に気づかされる、そんなところにまで思いは馳せていくのだ。

 柳町光男監督は、俳優全員に抑制的に演技をさせて日常性を印象づけようとしている。もっと巧く演じられるだろう、俳優としても不満じゃないのか、極端な例だが深作欣治がこの映画をもし撮ったなら、随分違う大げさな芝居をさせたのではないかとも思った。だが不満ではなく、こういう撮り方もあるということだ。最後に印象に残った場面をもうひとつあげておく。まったく何の工夫もないように見えて、凄いなあと思わされた。根津の父と妻の山口美也子が二人でコンバインをつかって稲刈りをする。そこへ母の日高澄子が弁当をもってくる。食べ終わった三人は、湯飲みに残ったお茶を周辺に捨てる。普通なら、お茶を捨てるところまではカメラに収めないかもしれない。これも何気ない日常の所作を大事にする柳町光男の創意のあらわれかなと思った次第だ。私のまったくの個人的感想に過ぎないのかもしれないが。

 まだまだ書きたいことがあるが、この辺で。七十年代以降の日本映画における大きい収穫の一本である。


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わが教え子、ヒトラー(2007/ドイツ)

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(2009/04/24)
ウルリッヒ・ミューエヘルゲ・シュナイダー

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 敗色濃厚となったナチスの体制を立て直すため、宣伝相ゲッペルスは1945年の新年冒頭に、ヒトラーに国民を前にして大演説をやらせようと計画した。だがヒトラーは意気消沈してしまっている。そこでゲッペルスはかつてヒトラーに演説指導をしたユダヤ人俳優を収容所からひっぱってきて、ふたたびヒトラーのもとにつかせた。だが新年まではたったの5日間しかない。

 架空の話だろう。ヒトラー体制にあらたな光をあてるというよりは、それを舞台として借りた喜劇である。またそこから私に見えてきたのは、今日のユダヤ人のドイツ(人)に対する優越感であり、また優越感にもとづいた対等の関係構築への意志といったものだ。戦後60年以上経った。ユダヤ人は、逃亡したナチス戦犯を追跡し法廷におくりこんだ。また戦後ドイツから巨額の賠償金をぶんどったという。必要なことだっただろうが、ドイツに対してやるべきことはやってしまったという一服感はあるのではないか。あの戦争から生き延びたユダヤ人の人々も高齢化がすすんでいる。ヒトラーとドイツに対する憎しみは持続させなければならないのかもしれないが、切り裂きたいような憎しみでは少しずつなくなっているのではないか。むしろやるべきことはやったという達成感が占められるのではないか。とくにこの映画の監督・脚本のダニー・レヴィという人がユダヤ人であるだけに、そんなことを思わずにいられなかった。

 ユダヤ人俳優の役は『善き人のためのソナタ』が印象に残るウルリッヒ・ミューエ。姿勢や発声など型どおりの指導をはじめはこわごわ行なうが、この映画のヒトラーは馬鹿に素直である。ウルリッヒ・ミューエをすっかり信用してしまって、意気回復に努める。ミューエは、演説は力を抜いて愛情をこめて話しかけなければならないという。そうなのだろうが、腕立て伏せをやらせたり、果ては犬の四つんばいのポーズをとらせたりするのは、どうなんだろうか。本物のヒトラーがそういうことを承諾しそうにないのではないかという疑問だけではない。ヒトラーという人物を借りてドイツ人を随分と見下そうとしている、それによって溜飲を下げる、それを前提にしてドイツ人との今日的関係を視野に入れようとするのではないか。そんな風に勘ぐりたくなった。優越感にもとづいた同情だろうか。だが、ヒトラーがいくら極悪人であったとしても、映画のなかで、こういう扱いをするのは愉快ではない、つまらないのだ。

 ヒトラー暗殺も一度二度と考えたウルリッヒ・ミューエだが、奇妙にも二人の間には友情めいた感情が生れてくる。これを見せたかったんだな監督は。だが、たった5日間でこんなに簡単に精神が蘇生できるなど、土台無理な話である。最後にはゲッペルスの意図は別のところにあることが暴露されるが、これも歴史的にはありえないことだ。ストーリーを面白くしようとして、かき回しすぎている。
    01:18 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

ブルー・ハワイ(1961/アメリカ)

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(2008/06/20)
エルヴィス・プレスリー

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 エルヴィス・プレスリーの歌謡映画。ということで、彼の歌声が好きな人には何の不満もないだろう。私もそうだ。美声を自由にあやつったり転がしたりするように聴こえて、すごいものだなあと思う。「ブルー・ハワイ」「好きにならずにいられない」などヒット曲のほか、すべての曲にプレスリーの豊かな素質と巧さがつまっている。

 舞台はハワイで、軍隊を除隊したプレスリーが帰ってきて、以前からの恋人のジョーン・ブラックマンとともに観光事業をはじめるという話。プレスリーでなくても、歌謡アイドルは異性にもてるが、そこはやはりメディアの上では品行方正でなければならなかったようで、恋人との関係は揺るがない。最初飛行機のタラップから降りるときに乗務員の女性と長いキスをするのも、思わせぶり以上ではない。アメリカ本土から来た観光客のなかに寂しがり屋の女子学生がいて、しきりに接近を試みるが、これもやはりプレスリーはやんわりはねのける。

 この頃のハワイ。それにこの頃の歌謡映画はのんびりした空気がただよっていて、そこも魅力かもしれない。
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サンシャイン・クリーニング

 長女を中心としたアメリカの白人下層階級の奮闘記。エイミー・アダムス(ローズ)はシングル・マザーでハウスキーパー(部屋の掃除と整頓の仕事)をしている。また高校時代の友人で現在は刑事をしている男と不倫関係にある。高校時代はチア・リーダーとして人気者だったエイミーとしては不本意だろう。かつてのクラスメイトに遭ったときにも職業を正直にいえない。生活も楽ではない。そこで刑事はローズに提案をする。殺人や自殺の現場の清掃作業がいい金になるので、やってみないかと。さっそくローズは同居中の妹のエミリー・ブラント(ノラ)と共同でその商売を始める。悪臭が蔓延するなか血しぶきで汚れた壁を拭いたり、マットレスをゴミ捨て場に運んだりと、一目でたいへんな作業であることがわかる。

 日本映画の「おくりびと」は納棺師の仕事を描いたが、そこでも孤独死したホトケの残された部屋をかたづける場面があったので似ている。だが「おくりびと」が、死者をあの世へ礼節をもって丁重に送りだすことに哲学をこめていたのに対し、この映画にはそういうものまではない。「クリーニング」は単に汚れ仕事だが金になる、貧困から抜け出すためのてっとり早い仕事という以上の位置づけではない。学校で問題児扱いされるローズの長男の私立小学校への転校も金があれば可能なのだ。

 だが、死者は生前に身近に置いていたものをそのままにして死ぬ。たとえば家族の写真であるとか。清掃作業中にそれは容易に手に取ることができる。そこから家族関係の複雑さ、哀れさが見えてくる。そこからさらに自分たちの家族の過去も思い出さずにはいられない。忘れようとしていた悲劇に今一度立ち戻らざるをえない。だがやはりいったん始めてしまった仕事はつづけなければならない。この映画はそこに重点を置く。仕事の内容ではなく、仕事に結集する家族の姿を、その団結を。仕事上の失敗で姉妹が対立したとき、あやしげな卸の商売をしていた父までもが参加してくるのだ。

 とくに目立つ刺激をもらったのではないが、スムースな見やすい進行で、明るくて前向きなアメリカの白人下層階級の家族を描いて、心地よさをもたらしてくれる。

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雨に臥す

塀を
雨の滴がゆっくり流れる
指がなぞる
涙に似ているので
額をつけて
泣く仕草をしてみる
嗚咽によっては
かき消せないものがある
おまえは知っている
炎熱をつめこんだ屍
腐らぬ屍の
不老不死の王
ネオンサインがひときわ明るみ
ザザザーッと
滝のようにおまえを舐める
粉が噴出する

雨の路上で
おまえは仰向けになって動けない
おまえの胴を引き裂いていく
大いなる幻影
列車の車輪
指がなぞれない
腹の上に置いた花束
灯台の花束
未練の滴
反攻をしなければならない
水溜まりにくっきり映った文字
おまえだけがとり残された
だが指がああ どうしてもとどかない
麻酔の痙攣の重層化
粉が噴出する
通過する車輪
咆哮に追いつめられる
通過すべきものの幻影は
あとからあとからやってくる

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