大洋ボート

腕の志向

さしだされる腕
何気なしに
驀進する列車が通過した後の
元の木阿弥の闇に
昨日の傷口がいまだかわききらない
記憶の生々しい皮膚の平野に
さしだされる腕

握りつぶされた紙の掌はひらかず
彼岸花は咲かず
白薔薇は匂わない
闇のまた闇の彼方での
かわせみの鳴声は
交接の空耳
豪奢な城
戻ってくるものがある
擦りへるものがある

自己に命名することはできない
他人からの命名なら何でもひっ被る
さしだされる腕
植物的な
あまりに植物的なわたしの大部分
惨状と対峙することができず
わたしのなかに収束する
さしだされる腕の蕾
何気なしに
ときに大声を出す
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角田光代『八日目の蝉』

八日目の蝉八日目の蝉
(2007/03)
角田 光代

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 幸せとは何かと訊ねられたらどう答えるべきだろうか。衣食住がそこそこ満たされていて周縁の小さな人間関係が屈託なく営まれている、これで大きく間違ってはいないだろう。そこにエゴがかさなる場合もあるだろうが、剥き出しのエゴにありがちな、たとえば競争相手を蹴落としてほくそ笑んでいるというような生臭さはない、もしそういう事実が介在したとしても、ほとんど意識されないまま深く沈んでいる状態を指すのではないか、幸せという言葉から私に喚起されるイメージは、そういうものだ。また幸せに対する位置のちがいというものもある。目の前で現に幸せをつくりつつあるという自覚、反対に過去に幸せを実感したものの現在ではそこからとおく隔てられているという実感。つまりは具体的な条件を必要としながらも、そのさなかでは感覚的なものでもある幸せという状態。さらにそれを味わってしまえば後々までも記憶に刻み付けられるであろう幸せ。ぼんやりしているが、うっとりさせられる幸せ。「幸せ」について書き漏らすまいと思うと長くなる。はじめにこういうことを書いてしまうのは、後半の主人公、秋山恵理菜のなかで幸せのイメージが彼女自身の予想を超えて立ち上がってくるクライマックスがすばらしいからだ。やったなあ、よかったなあと、応援したくなる。小説を読む醍醐味を味わえる。だがそこまで辿り着くには、この小説のほとんど全体の時間、長い長い時間がかかっているのだ。

 恵理菜は赤ん坊の頃、野々宮希和子という女性に誘拐されて、以後三年あまりその女性に育てられた。希和子はその子供をどうしても欲しかった。そこまでの気持ちに追い詰められるには同情すべき事情があった。恵理菜がまだ生れる以前に、希和子は恵理菜の父の秋山丈博と肉体関係をもった。秋山には妻がいたので希和子は浮気相手になるが、希和子は真剣で将来の結婚も夢見ていた。やがて希和子は妊娠するが、秋山は将来のことは約束しながらも〈今はその時期ではない〉という理由で堕胎を希和子に頼み込む。言われるとおりにした希和子だが、難手術のために二度と妊娠できない身体になってしまった。そしてそのあとに秋山夫妻にできたのが長女恵理菜だった。復讐感情もあるだろう、自分だけが置いてきぼりにされて秋山の一家だけが幸せになることへの嫉妬もあるだろう、またその子供が「自分の子供」だという激しい思い込みも形成されたのだろう。以降、希和子は恵理菜を抱いて懸命の逃避行をつづけることになる。恵理菜という名を知らないので「薫」と名づけて。

 指名手配をされる希和子だが、行く先々で出会う人はそれを知らない。勿論その赤ん坊が他人の子であることも知らない。だが人々は子を抱えた希和子に何らかの事情を察するのか一様に同情的である。友人〈彼女には他人の子を預かっていると嘘を言う〉、一人住まいの初老の女性、エンジェルホームという女性ばかりの共同生活組織、そのエンジェルホームで友人となった女性の母のいる小豆島と、転々とする。希和子は悪事をしているという自覚は確固としてある。だが「薫」を手放したくない、自分の手で育て上げたいという希望はまるで不屈の意志だ。それが「悪事」を上まわるのだ。泣きじゃくり、オシメを取替え、ミルクを与えつづけることに汲々とした「薫」はようやく物心ついて希和子を母として見るようになった。大部分の子供と同じように「母」に自然になつくようになった。そうなればなお、自分を置いてはこの子供を育てる人はいないというつきつめた決心に立たざるをえないのだ。そうでなければ、子供をおいて自分だけが逃亡したほうがずっと楽だ。エンジェルホームが拉致・監禁などのマスコミの疑惑の的(「イエスの箱舟」や「オウム真理教」がモデルだろう)になったときも、「薫」を連れての逃亡だ。

 もし、二手に分かれる道の真ん中に立たされて、どちらにいくかと神様に訊かれたら、私はきっと、幸も不幸も関係なく、罪も罰も関係なく、その先に薫がいる道を躊躇なく選ぶだろう。何度くりかえしてもそうするだろう。そんなことを思う。(p195)


 希和子は自分ひとりの幸せを求めてはいない。「薫」を優先してそのあとにある自分だ。だが、平穏に育てることができたならば「薫」のなかにきっと幸せの核が形成されるであろうというという思いが強くあるのだ。「母」としての自覚に目覚めたということか、それが彼女の自信であり、希望であり、しいて言えば幸せなのだろう。そういう念願が十二分にかなえられるのが、最期の逃亡の地、小豆島における「母子」の安定した生活である。希和子は先に記した友人の母の元で安定した職を得、「薫」はゆたかな自然の元、幼友達にかこまれて元気一杯に遊びまわるのである。

 ストーリーの説明が長くなるが、もう少しある。誘拐犯の希和子から解放されて実家にもどされた恵理菜〈薫〉だが、家の空気に馴染めない。誘拐事件に至るまでの一家にまつわる人間関係がマスコミ週刊誌の格好の餌食となり、秋山は非難を浴びる一方で、犯人の希和子は同情された。一家は引越しをするが、噂と好奇の目はついてまわる。恵理菜も学校では友達ができない。一家への風当たりは強く、妻の恵津子もおもしろくない。恵理名が小豆島の方言を口にするたびにヒステリックに叱責する、事件を持ちだしては夫を非難する、また夜な夜な遊びに出かける。父の丈博は諦めて傍観的態度に終始する。恵理菜は妹の真理菜とも心底仲良しにはなれずに、大学生になったときから早くも一人暮らしを始める。勿論、こういうことの原因を作った一番の責任者は希和子という女性だから、恵理名は彼女を憎まずに入られない。だが事態は一変する。恵理菜は希和子とまったく同じことをしてしまう。妻のいる男性を好きになってしまって身籠るのだ。まるで合同図形である。またしても男から堕胎を懇願されるのだが、希和子とちがって恵理菜は出産を決意するのだ。またその直前にはエンジェルホームでの遊び相手だった千草という女性とも再会している。希和子に対するかたくなに無視する態度が、同じ境遇に追い込まれたことで、恵理菜のなかで少しずつ氷解してくる。

 作者角田光代は前半部において希和子に寄り添うようにして書いてきた。誘拐犯であることにおいて悪女であることは動かせないが、反面では子供に対する無償の愛を貫こうとした女性であり、角田はここに力点を置いて書いたし、その思いは十分に読者に伝わった。こと子供に関しては希和子は渾身の力をふりしぼってきた。その女性に三年間育てられて恵理菜は今ある。その恵理菜が、読者が先に感得した希和子への思いを「育てられた子」として少しずつ汲み取っていく、この過程が透明感をともなって素晴らしいのだ。これから生んで育てようとする子への思い、未来への思いが、希和子への思い、そしてわずかの期間だが暮らして覚えている小豆島への思いと重なる。それらが何重にもなって重なる。かつてそこで暮らして幸せであったという記憶を恵理菜は封印してきたのだが、それが解き放たれる。恵理菜は千草とともに小豆島に旅に出かける。幸せだった記憶の場所にたしかな足取りで近づいていく――。これもまたもうひとつの幸せでなくて何だろうか。

 実際に再会することはなくても、この二人の不幸を背負った女性は万感の思いをこめて、変な言い方だが小説のなかで再会している。魂と魂が触れ合っている。相思相愛なのだ。角田光代はこの劇的な再会をあざやかな手さばきで見せてくれた。希和子の出所後の静かな生活にも触れられる。「薫」への思いは終生変わらない。それにしても、いがみ合う人間関係の泥沼から脱出して幸せを手に入れることの何とも困難なことか。だが挑戦せずにはいられない。シングルマザーの道が険しいことがわかっていても。恵理菜のその長い長い旅に、私は共感せずにはいられなかった。最後に小豆島行きのフェリー乗り場で恵理菜が幼い頃の記憶に引きこまれる場面を引用しておこう。

 知っている、と気づく。思い出す必要もないくらい私は知っている。あの日、知らない人に連れられてこの場所に着いたとき、すっと消えた色とにおいが、押し寄せるようにいっぺんに戻ってくる。その勢いに私はたじろぐ。
 橙の夕日、鏡のような銀の海、丸みを帯びた緑の島、田んぼの縁に咲く真っ赤な花、風に揺れる白い葉、醤油の甘いなつかしいにおい、友達と競走して遊んだしし垣の崩れかけた塀、望んで手に入れたわけではない色とにおいが、疎ましくて記憶の底に押しこんだ光景が、土砂降りの雨みたいに私を浸す。薫。私を呼ぶ声が聞こえる。薫、だいじょうぶよ、こわくない。
 そんなものは何ひとついらなかった。凪いだ海も醤油のにおいも別の名前も。何ひとつ望んでおらず、何ひとつ選んだわけではない。それなのに私は知っている。自分からは一度も訪れたことのない場所の記憶を、こんなにも持っている。こんなにもゆたかに持ってしまっている(p329)



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ディア・ドクター

 笑福亭鶴瓶が中心の映画だ。人なつっこくて思いやりがあって、お笑いを中心にしているからでもないが、いいかげんなところも少しある、笑顔が自然、テレビで見るタレントとしての鶴瓶から私はこんなイメージを抱いてしまっている。そういうイメージが彼の創意によって作られたものなのか、ごく自然に彼の「素」がテレビに滲み出したものなのか、つきつめて考えるとわからなくなってしまいそうだが、それはともかく、普段テレビで見る鶴瓶とこの映画での彼と、それほど大差はない。人なつっこくて思いやりがあって……という私が抱くイメージどおりの鶴瓶であった。それと鶴瓶は長くテレビ界で生きているので、カメラの凝視に対しておそろしいまでに冷静になれる、カメラを意識しながらもどっしりと構えられる。そのうえで芝居の世界に没頭できるのだ。劇団の俳優が、発声がいいだの動きがいいだのといってみたこところで、彼のもつこの長所はちょっとの年季では、なかなかマネができないのではないかと、感心させられた。

 彼は僻地の山村に赴任してきた医師であるが、医師免許はない。つまりはニセ医者だ。だれもそれを知らないし、優秀な看護師の余貴美子も付き添っているので大部分の医療はカバーできてしまう。老人が大部分の村人たちも「神様」とあがめて大事にしてくれる。村が提供する待遇もいいし、薬品販売の香川照之にも便宜をあたえて見返りをもらっているらしい。だが、居心地がいいだけではなく、やはり老人や病人に対する思いやりは普通以上にもっているようで、彼等と鶴瓶との交流の様子は、まるで教祖と熱烈な信者の関係を思わせる。これでいいと鶴瓶は満足するようだ。また彼の父は本物の医者であったらしく、鶴瓶は父を尊敬し、かつては父のような医者になりたいと願ったこともある。父の名前が刻まれたペンライトを始終手放さないのが、その証拠だ。父のように生きていけている、という自信をもつのだろうか。

 だがニセ医者であることがばれるときが否応なしにやってくる。いくら独学で医学を勉強しても追いつかないのだ。交通事故の患者が運ばれてきたときには応急処置の仕方がわからない。酸素マスクをつけても患者の呼吸はどんどん切迫してくる。左肺が毀損して空気を吐き出せずに肺周辺にどんどん空気が溜まってくる。事態を把握できず、茫然としてなすすべを知らない鶴瓶。顔が赤黒く変色する。看護師の余貴美子は経験から器具(注射器に似たもの)を胸にさして空気を抜くべきだと提案するが、それでも鶴瓶はもたもたしてすぐにはとりかかれない。この間の「間」がたいへん緊迫してすぐれている。俺は「ニセ医者」だ、なにもできない、だが助言のとおりやってしまおう、確信はまったくないが眼をつむってやってしまおう、というような心の揺らぎが、鶴瓶の動きの乏しい表情からかえって生々しく伝わってくる。余貴美子はこのとき鶴瓶がニセ医者か、よほどのヤブ医者であることを見抜いたのだろう。

 私たちにも鶴瓶と似た体験があるはずだ。「ニセ医者」でなくても、仕事や生活の場面で、ぬるま湯的な自信が一挙に瓦解する瞬間を舐めさせられたことがある。逃げ出そうとしてもただちには逃げることができずに、その場をどうやってでもやり過ごさねばならない。俺はもうダメだなあと念じながら。一応は考えてみるが、考えて解決策が見つかるのでもない。ダメだという自虐に打ち負かされる、最良の策かどうかはわからないが、やってみる。泣くとしてもその場ではできない、後でしかできない。鶴瓶はそういう自分の体験に照らして芝居をしていると思えた。それを見る私たちもまた、自分の体験をふりかえりながら鶴瓶に同情するのではないか。

 交通事故の件ではなんとか切り抜けた鶴瓶だったが、別の件で見立てちがいが明らかになって彼は失踪する。だが失踪してからも彼を慕う空気は村人の中にまだまだ残っている。ラストシーンは少し空想的だが、そういう空気を軽く救いあげたというべきか。新約聖書に書かれたイエスの復活を私は連想した。
    22:03 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

湊かなえ『告白』

告白告白
(2008/08/05)
湊 かなえ

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 読後感の悪い小説だ。わが子を殺された中学校の女性教師が、その犯人である担任のクラスの生徒二人に対して、警察に訴えることをわざわざ回避して私的制裁をくわえるという話だが、殺伐としている。「私と同じ目にあわせてやりたい」という復讐感情の奥底から、復讐と暴力を行使する者の快感がストレートにわきあがってくる。女教師は得意になっていて、下品だ。わが子への悼みの感情など、まるで読者は忘れさせられるのだ。「快楽殺人」という言葉が浮かんでくる。「学園バイオレンス小説」とでもいうのか。

 渡辺修哉は成績優秀で科学工作が好きな生徒である。彼は物心ついた頃から母親に科学知識を教えられて、幸福な時間を過ごすことができた。だが母はもともと電気科学の研究者であり、研究への執着が断ち切れずに大学に職を求めて離婚し、修哉を置いていった。このときから修哉の転落がはじまる。母が見ていてくれることを期待してウェブサイトを開設し、そこで人を殺傷する道具を開発しては発表した。母からの連絡はないので新聞に載るほどの大きな事件を引き起こそうとするに至って、クラスメイトの下村直樹を誘った。二人はその標的を担任の森口悠子の幼い娘に決めた。森口はシングルマザーで、娘を預けていた女性が入院したので、彼女が退院するまでの期間、娘(愛美・まなみ)を保健室につれてきていたのだ。愛美がほしがっていた「わたうさちゃん」のポシェットを二人は手に入れて、それに手を加えて、ホックにさわると感電する仕組みにした。プールサイドにいた愛美に二人はポシェットをプレゼントして、愛美は触ってしまい卒倒した。死にはいたらなかったが、狼狽した下村直樹が水死事故に見せるために愛美をプールに沈ませてしまったのである。

 森口は修哉を追求した結果、真相を知った。だが水死事故だと結論付けた警察に訴えることはせずに、この二人に対して私的復讐を実行する。その中学は牛乳普及のモデル校になっていたから、彼女は犯人の生徒二人の牛乳パックにエイズ患者の血液を混入して飲ませるのである。しかも一年の終業式のホームルームの席で、これを堂々とクラスの生徒全員に発表するのだ。森口は退職を決めているから大胆になれるときだ。わが子を殺されて怒りが心頭に達するのは当然としても、教師にしては公共心がおそろしく欠落してはいまいか。昨今の教師という職業の人、とんでもないことをやらかして驚かせることが少なくないので、こういう人がいても不思議ではないのだが。

 小説として一番に疑問なのは、教師が発表したこの「事実」が二年の二学期がはじまるまで外部にまったく漏れないということだ。何故かクラス替えのないそのクラスは重苦しい空気に支配されたとのことだが、それだけで済むとは到底考えられない。真犯人がクラス内に二人いて、悪い血を飲まされたとあっては親なり学校なりにいちはやく伝わるのが確実だと思われる。新しい担任の教師もこのことを当然知らないのだが、それを女生徒の一人が得意げに軽蔑するのもおかしい。作者は密室状態をつくりたかったのだろうが、ちょっとなあ。

 犯人の生徒二人のその後の軌跡はよく書かれている。修哉はいちはやく自分が感染から逃れられていることを発見して、さらに武器研究にのめりこむ。一方の直樹は、じぶんは死ぬ運命であると確信してしまい、学校には行かず「ひきこもり」が常態化する。過干渉の母親も巻き込んで自滅の坂を転がっていく。ここはさすがに同情したくなる。そして森口はまた、修哉に対する第二の復讐に着手する。しかも標的は修哉ではなく、その人が死ねば修哉が悲しみで気が狂ってもおかしくはない人物だ。その人物は事件のことは何も知らない。こう書けばだれだか推測は可能だろう。

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いのちの食べ方(2005/ドイツ・オーストリア)

いのちの食べかた [DVD]いのちの食べかた [DVD]
(2008/11/29)
不明

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 大量生産と大量消費の時代である。道具、機械類は勿論のこと、食糧もまた例外ではない。この記録映画はこの時代特有のそうした食糧生産の徹底した効率化、システム化された姿をつとめて冷静にカメラに収めることに成功している。説教めいたナレーションがあるわけではない。理論的説明もない。作業員は登場するが、インタビューはない。ただただカメラに収められた、見事なまでにすみずみまで機械化され、大規模化され、流れ作業化された、日本人がイメージする農業とはまるでかけ離れた大工場そのものの食糧生産のありさまをしっかりと目に焼き付ければいいのだ。また食糧生産といっても、動物の肉の場合は当然、屠殺という残酷な所業を経なければならないが、その映像もしっかりと収められている。

 熟練を要する作業は見たところ、ほとんど登場しない。トマトの収穫ならおそろしいほどの広さのビニールハウスを作業員が乗った車両がゆっくり動いていって、赤く熟した果実をとり、緑のものはそのままにしておく。ここでは日本の農家とのちがいは規模である。作付け面積あたりの人数が極限まで切り詰められている。コスト削減効果をあげるためだろう。ブラジルあたりだろうか、コーヒー豆の収穫では機械つきの車両が木の幹の根元をアームでしっかり固定したかと見ると猛烈な力でバイヴレーションをかけて豆を揺さぶり落とす。車両の運転手のほかはたった一人。木にわずかに残った豆を棒でたたいて落とすだけの役の人しかいない。さらに地に落ちた大量の豆をすくいあげて運搬するのも別の車両だ。一昔前ならもっと作業員が多くいただろうと推察される。俯瞰映像では、線で区切ったように等間隔にコーヒーの木が平坦な山に植えられている。ヘアブラシみたいに。

 植物食糧なら種まきやら水遣りやら除草やらの時期や量をこと細かく計画し配慮しなければならないと思うが、それは現場の作業員よりも管理者の立場の人が統括するのだろうが、そういう人はこの映画には出てこない。あくまで現場の光景の連続なのだ。

 牛や豚を食肉化する場面は残酷であるが、そうかといってこれをやめると人類は菜食主義者以外は生きていけないことになる。やむをえない。できればこういう職業には就きたくないという思いは、正直言って私にはある。だがどうだろうか、ほかに仕事がなければやるかもしれない。またこういう職業人を忌避してはならないという思いをもたなければならないとも思わされる。しかし軽くはない課題だ。

 間近に迫った死を知らない牛が、囲いのついたベルトコンベアに載せられて寝かされた状態で運ばれてくる。一人の作業員が牛の額にコードのついたパイプ状のものをあてがうと牛はあっさりと気絶する。これは絶命ではなく気絶だと私は解釈したい。その次の工程で牛はブラックボックスのような外部からは見透かせない場所に運ばれるからで、死はそこで最終的に人間の手によってではなく機械によってくだされるのではないか。電気ショックを与える人が屠殺者であれば、この人はノイローゼになってしまうだろう。殺生を人間から少しでも遠ざけることでこういう作業は成り立つのではないだろうか。死を通過した牛は後ろ足をロープに吊られた状態で運ばれてきて、解体の作業に入るが、血液や涎が大量に流れるものの、作業員としては、直接絶命させるよりも死後の肉体をかっさばくほうがよほど気が楽なのではないかと、私は勝手な想像をする。勿論、作業員自身にしかわからない世界である。

 普段接することのできない世界に誘われ見させられ、考えさせられる映画である。

    01:02 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

サブウェイ・パニック(1974/アメリカ)

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(2009/05/22)
ウォルター・マッソーロバート・ショウ

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 ニューヨークの地下鉄車両が乗客ごとジャックされ、ロバート・ショウら犯人グループは高額の身代金を要求する。仮に身代金を受け取ることに成功したとしても、犯人たちは地下鉄構内からどうやって脱出するのか、そこが見どころだが、なるほど犯人は捜査陣の意表をつく手段を用意していた。犯人内には地下鉄勤務経験のあるマーティン・バルサムがいて、ある組み立て工具を用意していた……。地下鉄公安局で捜査の先頭に立つのはウォルター・マッソー。

 犯行は冒頭からはじまるが、映画は前半のんびりムードでなかなか盛り上がらない。黒沢明監督の「天国と地獄」も映画が緊迫するまでにかなり時間がかかったが、まさかマネをしたのでもあるまい。犯行が起こるのと同時期に日本の地下鉄の管理重役連が、ニューヨークの地下鉄管制センターの調査にやってきてウォルター・マッソーが相手させられる。視聴者もまたそこで管制センターの仕組みを勉強することになるが、現在の映画の基準ではここはちょっと長いか。犯人ももたもたする。金を一時間以内に用意しろといいながら、途中から小額紙幣を混ぜろとの要求をかさねてくる。最初からまとめて要求をだせばいいのに。

 それでもロバート・ショウが車掌を射殺するあたりから、にわかに緊迫の度合いが高まる。犯人の一人が機関銃をめくら撃ちするのをたしなめた後のことだから驚く。別の犯人が銃撃によって負傷したことへの復讐だ。

 犯人グループは金をまんまと手にする。その直後、終点のフェリー発着所までの全線路の信号を青にしろとの要求。そこから飛行機をつかって脱出しようとの計画らしい。だがこれは表向きで、先にも触れたが別の脱出ルートが用意されている。あざやかだ。ウォルター・マッソーは乗客の安全を考慮して要求を呑む。ノンストップで驀進する電車の映像は迫力がある。犯罪映画の醍醐味というべきだろう。

 ラストの場面も映画ファンをにんまりさせる機知が仕組まれている。ウォルター・マッソーが操作網に浮上したマーティン・バルサム宅を訪ねるくだりだ。このときはまだマッソーはバルサムが真犯人であることは知らないが、バルサムの一瞬の動作で、たちまちそれを見抜いてしまうのだ。なかなかの秀作。
    00:33 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

オペレーション・ワルキューレ(2004/ドイツ)

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(2005/03/04)
セバスチャン・コッホウルリッヒ・トゥクール

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 今年公開されたアメリカ映画「ワルキューレ」とまったく同じ内容。すなわち、シュタウフェンベルク大佐を中心とする勢力のヒトラー暗殺未遂事件の一部始終を事実にもとづいて描いている。前者ではトム・クルーズが大佐を演じていたが、こちらドイツのほうはセバチャン・コッホという人で「善き人のためのソナタ」では劇作家の役で出ていた。しかし、どちらの作品も盛り上がらない、何故だろうか。

 あらかじめ決められた事実の順序のなかを、出演者がスーッと通過してしまっているからだ。ヒトラーの暗殺は失敗したからその事実は動かせない。だが、もう一歩のところまで行ったという地団太を踏む無念さや、逆にその直前までの計画が着々と進行することの歓びが十分には描けていないのだ。つまり感情面における映像的表現をもっと豊かにしてもらわなくてはと思う。典型的な例が、大佐がヒトラーと参謀本部で対面する場面である。初対面なのかどうか私は知らないが、少し言葉を交わしただけで何事もなかったかのように淡々と過ぎてしまう。実際もそうだったのだろう。興奮をあらわにしてはヒトラーや側近に怪しまれるからだ。だが視聴者としては肩透かしを食らった気がする。ものたりない。〈淡々と過ぎる〉という事実に加えて、架空や想像でもいいから、大佐の感情のうねりを映像的に表現してもらいたかった。
    23:53 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

翼の女


蝶番が外れる
ふわふわの自在となって
別の意思として登場するのか

固い音がする
クレパスの闇に包帯を垂らす
その一方で
新月と虎が大嫌いで

さらに食べて肥る翼
瓦を落とす
あくまで清潔さが売りの
どこから見てもすべすべの女詐欺師

ふわふわの自在の
わたしの部屋の窓をこじあけるバールの
いやらしい腰付き
筒のなかを転がる方解石

その七色を
二人で覗きあうことで
あらたな抽象性を獲得しようとでもいうのか?
わたしは言おう

きみは一人で死んだほうがよくないか
つむぎだすカーテンの生地
アンモニア臭
空想の心血はなおそそがれる

    23:49 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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