大洋ボート

夜の雨

刷毛
たっぷりふくませた卵白と塗料から
濃霧は生れる
その甘さの直方体
針の光
火吹き竹を水平にかざし
白い咳が
聴こえる闇に向かって
わたしは何を告げればよいのか
示し合わせた言語は
蝶の巻き髭
蝋燭の焔のようにか細い
すでに消えてしまった?
板の一枚欠けた桶
側溝に棄てられている
カラコロ

迷子がさまよい出てくるかもしれない
頭髪のような房だけのモッブ
やがて雨
女の顔をした
猫に
擦れちがう

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愛を読む人

 転変する人生を歩んできて、五十歳をすぎてようやく大きな結着をつけることができた男がいる。愛や縁と呼ばれるものに対して、人生の目的や意義に対して。だが結着をつけたのは男自身ではなく、彼ともっとも関係の深かった女性である。達成感というにはあまりにも苦く、荒漠としている。

 マイケル(若い時代はデヴィッド・クロス、壮年時代はレイフ・ファインズ)は十五歳の時ハンナ(ケイト・ウィンスレット)という年上の女性と知り合い、短い間だったが肉体関係を持った。一緒に旅行にも行った。ハンナは忽然と姿を消すが、これだけなら、マイケルにとってみれば青春時代の甘美な性の思い出となったかもしれない。しかしマイケルは法科の学生となったとき、法廷でハンナと再会するのだ。彼女は戦争中ユダヤ人収容所の看守だった。ナチの戦争犯罪者として裁かれるというわけだ。彼女は懲役二〇年以上の刑を受けて刑務所の人となるが、ここから二人の交流が再開されることになる。

 マイケルのなかでハンナへの執着がよみがえる。ハンナにとってはマイケルは一時の遊びの相手だったようである。また文盲でありながら読書欲が人一倍旺盛でマイケルにたくさんの本を読ませた。つまりマイケルを利用したともいえる。また犯罪者に入れあげてどうなるものか、それよりも日の当たるところを歩まなければならない。理性はそういう声を当然マイケルに言い聞かせるだろう。だがわかっていても感覚はごまかしようがない。結婚しても長つづきせず、子供を一人つくって離婚してしまう。そうかといってマイケルのハンナへの思いは一直線ではない。せっかくの面会の機会をあたえられてもどたんばになって拒絶する。

 過去が過去そのままではなく困難さをともなって出現してくる。過去への執着は同時に現在のハンナの戦争犯罪者という烙印にも向き合うことでなければならない。マイケルは弁護士となっている身だ。ナチスの残党狩りが盛んでその「巨悪」が追及された時代だ。そういう社会的風潮もある。また、愛しているかどうか自信が持てない。ここまで執着させてしまったハンナへの怨みの感情もあるだろう。マイケルは面会しないまま本を朗読したテープを山のようにハンナに送りつけるのだ。とりつかれたように、また憎々しげにマイク片手に朗読するレイフ・ファインズは何を思うのか。そこへハンナから覚えたてのたどたどしい文字で短い手紙が来る。文面は忘れたが、あばずれ女のような調子で末尾に「坊や」と記されてあった。ハンナは故意にマイケルを突き放すつもりなのか。

 身近な他人というものがある。彼女を評価する、どう思うかというのは自分で下さねばならない、自分の感覚にもとづかなければならない。いいかえれば彼女に対する評価や感情が他人と食い違っても、自分のそれを優先すべきではないか。すくなくともそこに親密さの感覚と記憶は残しておくべきだろう。収容所で生き残った女性はハンナを許しはしない。仕方ないだろう。だがそれはそれとしてマイケルはハンナを背負い込むまでに接近するのだ。人生のほとんどを使い果たしたうえの、たいへん長い長い道のりでの結論だ。

 前半部のマイケルがハンナと会って帰宅が遅くなった日の家族そろっての食事。ナイフ、フォークと食器がかち合う音が耳障りだ。これはマイケルの、すでに家族に見透かされているのではないかという不安をうまく拾いあげていた。後半部は二人の関係がどう結着するのかという興味でぐいぐいひっぱられる。ただもっぱらマイケルからの視線で描いたので、ハンナの心理がいまひとつわかりづらいのではないかと思う。とくに裁判の場面、かつての収容所の同僚の女性たちに罪を押し付けられてハンナがいちばんの重刑に処せられるのだが、熱意のこもった反論が彼女から聞かれなかったところは腑に落ちない。自分から身を引くことを何回もするハンナであるが。

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武田泰淳「ひかりごけ」

ひかりごけ (新潮文庫)ひかりごけ (新潮文庫)
(1992/04)
武田 泰淳

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 一部の評者から戦後文学の傑作として支持される作品であるが、私が読んだところではそうでもない。問題提起の鋭さは感じられるものの結局は難解に終わっていると受け止めざるをえなかった。主題は人肉食で、そういう野蛮な行為に手を染めてしまったものは大罪に陥る、だが同時にそれは神仏の聖性に近づくことである、その光輝のなかにつつまれることである、というのが作者のいわんとするところらしい。私にはこの主張の是非を論じることができない。問題が大きすぎるから、また私の現在にとって切実さが即時的に感得できないからだ。仏教やキリスト教において、罪人ほど(病者、貧者もそこに入るようだ)神に近い存在だという教義があることは少しは知っているが、その教えをひけらかすだけでなく、身をもって訴えかける切実さがこの短編からは感じられない。武田泰淳という作家独特のそらとぼけた空気があって、ここではマイナスにはたらいている。膜がはさまっている気がする。

 実際にあった事件に題材を借りている。戦争末期の昭和十九年十二月に軍属『暁部隊』という船団が知床岬経由で小樽をめざして根室港を出航したが、そのうちの一隻の漁船が知床付近で難破した。七名の乗組員は全員陸地にたどり着き無人の漁師小屋に避難することができたが、食糧はなくつぎつぎに餓死していった。その死体を生き残った船員が切り刻んで食べて余命をつないだ。食糧の「死体」が尽きると飢え死にする者が出る、するとまたそれを食糧にするという方式がつづき、最後には船長一人が残って、救助を求めてさまよっているところを地元村民に発見された。そういう話だ。この事件を下敷きにして作者は書き物をものにすべく、事件現場である羅臼へはるばるおもむいて調査する、それが前半部にあたり、後半は事件をやや作り変えた戯曲になる。前半のハイライトは「マッカウシ洞窟」という場所で、名物の「ひかりごけ」を見物するところだろうか。そこは奥深い洞窟というよりも海に面した岩の窪みに近い形状で、地面と岩のいたるところに苔が生えているが、別にめずらしくもない。ところがそこをさまよっているうちに光の反射の具合で苔のある一部が淡い金緑色に光りだす、歩いて位置を変えるとその光は消失し、かわって別のカ所の苔が同じように淡く光る。作者はこの「ひかりごけ」を戯曲において罪人の背光として象徴的に転用するのだ。罪を犯した自身では見えないが、いまだ罪を犯してはいない周りの人からは淡くかがやく背光としてありありと見えるという風に。

 戯曲の登場人物は四人で、船長と三人の船員西川、八蔵、五助である。五助、八蔵の順番で飢え死にしていく。八蔵は五助の肉を食わなかったために死期を早めた。西川は食人を強硬にこばんだが船長の説得に負けて食べてしまう。そののち八蔵の目から西川のうしろに淡い光が生じて映る。西川が人の死肉を食らった直後からその行いゆえに罪人となり、罪人であるが故の光輝をまとう。神仏の栄光としてわかりやすく、だが淡く知らしめるためだ。またその「ひかりごけ」の光を無理なく自然化するために戯曲の舞台は漁民の小屋ではなく「マッカウス洞窟」になっている。

 船長は極悪人としか思えない。飢え死にするよりも天皇陛下のため国のために死んで奉公すべきではないかと西川を説得する。議論が長くなることは控えたいが、私は生き延びるために人の死肉を食べることはそれほどの罪悪であるとは思えない。だからいろいろと口実を作って人肉を食べさせて船員を生きさせようとする船長の言動はことさら異論をはさみたくはない。それよりも、西川が船長に殺害されることをおそれて逃亡しようとしたところを船長に殺害されることのほうがよほど重要だと考える。海に飛びこんで自殺するよりは船長自身が西川を胃袋におさめたほうがよほど合理的だと船長は見なしたのだろうが、エゴそのものである。作者が書いているように人の死肉を食うよりも、食うために殺すのだからはるかに重罪だ。西川にしてみても船長を殺して食べるということは頭によぎったのであろうが、それはやらずに逃亡をえらんだ。作者はそういう西川や、五助を食わずに死んだ八蔵に同情を寄せながらも、書く中心はやはり船長だ。第二幕の裁判では、裁判長や検事にはげしく糾弾させながらも、船長に茫洋とした、また堂々とした態度をとらせている。彼は罪をあっさりと認めながらも涙を流しての謝罪などしない。船長はただ「我慢している」と繰りかえすのみだ。作者はもっと船長に語らせるべきだと思う。

 みずからが生きるために人を殺す、そしてその人の肉体を食べる、そういうことが私たちに万万が一ないとはいえない。それを体験したとしてそののちに自身にではなく、非体験者に示されるのが極悪人=聖人説であり、またそれを拡張したところの全人類=聖人説だ。それをひかりごけの淡いかすかな光で人々に認知させようとするのだ。だがこれは人間が考え出した宗教思想だ。自然の風景が神々しく見えることはあるだろう。また何らかの生理的快感が宗教的感覚につながるものを招き寄せることもあるだろう。だが罪人(非罪人もふくむ)に自然のような背光がみえて、いきなり「思想」を暗示するということが、私にはわかりづらいのだ。思想との距離の変化、つまりはそこに近づいたりとおざかったりすることだが、それをすることによって思想はさまざまな表情を見せるにちがいない。思想と個人との固有の関係のありようによってこそ思想は生き生きと語られるのではないか。体験が何らかの思想につながることはあるが、それがすべてひとつの固定的な思想に収斂されるとは考えたくない。武田は自信家かもしれないが省略的過ぎる。いきなりのように自然=光を借りて思想が提示されるから、引いてしまうのだ。

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百万円と苦虫女(2008/日本)

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(2009/01/30)
蒼井優森山未來

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 蒼井優という女優の演技力は相当なものだ。まだ20代前半らしいが、映画やテレビドラマの本数をかなりこなしているらしいのでベテランの風格がある。セリフの強弱や間、それに芝居は一人でするものではないので、共演者との呼吸などどれをとっても堂々としたもので、主役を安心してまかせられるのだ。本作は前科者の役。飼い猫を勝手に棄てられた蒼井が激怒してその男の所持品を壊してしまい、その男に逆に器物損壊で訴えられた。刑期を終えたのち、蒼井は各地を放浪することになる。実家に迷惑がかかるのを避けるためだ。海の家、若い人のいない山奥の村、地方都市などである。

 蒼井は実家にいると前科者であることをかくせない。近所に知れわたってしまっているからだ。そこで放浪することになるが、それだけではない。人間関係そのものから逃れたいのだ。とりわけ周囲から関係を強引に作られることをおそれる。これは結果として前科者になってしまった経緯でわかる。職場の同僚がルームシェアリング(家賃の負担を軽くするためひとつの部屋を共同で借りること)を提案して蒼井もそれに乗った。だが引っ越してみるとそこに住むのは同僚の元カレであることがわかる。蒼井は愛猫を連れてきていたが、ちょっと留守をした隙にその男が猫をどぶへ棄ててしまった。こういうことがトラウマになって蒼井は人間関係をおそれるのだ。孤独をまもってひっそりとしていたいのだ。だがどこへ行っても蒼井を気にかけてくれる人たちがいる。そこに悪意はない。警戒を容易に解こうとはしない蒼井だが素朴な善意のようなものは理解できる。こういうところの申し訳なさそうな、一歩引こうとする蒼井の芝居はさすがで、若いが年季が入っていると表現したくなる。

 だが人間にはいい意味での本能がある。好ましい人物を目の当たりにすれば好きにならずにはいられない。人間関係をゼロのままにしていたいという目標(理性)とがせめぎあう。結局、双方の熱意がからみあって蒼井はある男と恋人関係になってしまうが、そこでもまた難しい局面に立たされる。よほど運の悪い生まれつきなのかと自分を嘆き、しょげる。

 そうこう映画が進行するなかで、もっとも熱い場面に視聴者は出会う。手紙をやり取りしていた実家の中学生の弟が、同級生のたびかさなるいじめにとうとうこらえきれずに暴力を行使してしまって一時児童相談所へ送られるということが起きた。それまではお互い、あたりさわりのないことしか手紙に書かなかったからさすがに蒼井は驚き悲しむ、号泣する。前科者の姉をさかんになじっていた弟がそんなことをするなんて。映画はそれまでいじめに遭う弟をところどことで挿入していたが、その事実は蒼井は知らなかったのだ。これは悲しむべきなのか、だが私はそれだけではないと思った。人間関係とは避けることのできないものだ。そうならばおとなしくするばかりではなく、嫌なら抵抗するなり復讐するなりすればいいではないか、結果がやりすぎてしまうことはあってもその姿勢自体は正しいことなのではないか。そんな弟の姿をはじめて蒼井は知った。それを知ることで、姉と弟との真実味のある関係がここではじめてできあがったのではないか。そう思って私は蒼井の号泣に共感した。涙には嬉しさもふくまれていると思った。ふりかえって、蒼井が前科者になったのも「正しい」ことだったのだ。人は強くなりうる素質をそなえている。

 日本映画で見る日本の風景の質感。私たちはそれに慣れてしまっているきらいがあるが、あらためてそのうつくしさを楽しむことができた。何回も書くことだが、日本ほど緑豊かな地域は少ない。きびしい寒冷や灼熱や砂漠の乾燥から逃れられている。

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武田泰淳「異形の者」

ひかりごけ (新潮文庫)ひかりごけ (新潮文庫)
(1992/04)
武田 泰淳

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 私からするとつかみどころのない主人公だ。社会に対する野望はもちあわせていない。あれをしたい、これをしたいという具体的な計画もない。実家が裕福な寺であったので、その跡を継ぐことが気楽に見えて自然にその道を選んだ。だがまったく後退的な姿勢のままかというと、そうでもない。学生時代には社会主義の運動に参加して投獄された経験もある。僧侶の資格を得るため、本山の寺に一定期間泊り込んでの集団生活をするいわゆる「加行」(けぎょう)の最中に政治的騒動が起きると、堂々と意見を述べて、火中の栗を拾うこともする。そういう正義感をもちながらも、対話のなかでは愛や憎しみを「誤解のうえに成立するものであります」と身辺からとおざけるようなことも言う。また僧侶の身でありながら禁欲的生活にはまったく自信がないと決めてはばからない。そうかといって観念的世界に興味がないわけではない。どうすれば諸観念にとりまかれながら据わりのいい位置をしめることができるか、あるいはできないか、ということも考えないではいない。自分に対する決定論よりも、むしろ曖昧な部分をより重視する、それと世界との関係に知らず知らずに引きこまれる。そんな人物像が見えてくるように思う。

 作者武田泰淳(1912~1976)自身の経歴をモデルにした短編である。武田の実家は浄土宗の寺であり、武田も加行に参加して僧侶の資格をとったからだ。(川西政明の巻末解説参照)だが順番は現在が先で、加行の物語は後にくる。同棲中の女性が勤務している「特殊喫茶」で彼女の勤務明けを待って座っている場面が始まりである。「特殊喫茶」とはなんだろうか。はっきりは書いていないが売春施設であることも考えられる。その「花子」という女性には上客がいて、花子を「マリア」と呼んで高価なプレゼントをときどき与える。既に肉体関係が生じたのかどうかは不明だが、たいへん好きであり、その感情を抑えられなくなっている。主人公は彼を「哲学者」と呼ぶ以上の説明はないが、インテリのようだ。男二人は花子との関係で知り合いになっている。「何か憎悪に似たものでギラギラ両眼をかがやかし、悲痛な切迫した口調」で哲学者は主人公に話しかけて会話は始まる。要は女性を大事にしなさいよという忠告だ。そこから一転して、彼は自分は地獄に落ちると言う。この部分も説明が省略されているが、女性を愛してしまったことへの自責の念が高じたゆえの思いだと受けとれる。たぶん「哲学者」はそれまで学究に打ち込んできて禁欲的生活のもとにあった。倫理的な土台もそこにあったのだ。女にうつつを抜かすことは、そういう生活を裏切ることになる。だが引き返せない。「地獄」をみずからに言い聞かせることで将来の自己処罰を決定づけて、かえって安心して、今後も花子を愛しつづけようとするのではないか。そして、哲学者のその言葉に対して主人公は意地悪な反論をする。この短編の読みどころのひとつである。

「先生は極楽へ往きますよ」
「極楽?」と学者は不機嫌をむき出しに、眉根をしかめた。
「先生が何と言われても、先生は極楽へ往きます」
「何故かね」
「だって人間はみんな極楽へ往くときまっているんですから」
彼は一瞬、呼吸をとめた。そしてさも憎らしそうに私をみつめた。小学校の一年生が黒板に白墨で大きな数字を二つ三つ書き、あらゆる数学上の計算はこれですと主張したときの、大学教授の目まいと憤怒が彼を襲っているにちがいなかった。
(中略)
そして、極楽というブワブワした軟体動物で、地獄往きのスピードを喰いとめられた具合わるさをモグモグと噛みしめている様子だった。(p77~78)


 虚をつかれて狼狽するインテリの表情が目に浮かんで、ある種痛快さを覚えずにはいられない。インテリは愛憎の急迫する情緒のもとでいそいで地獄の理論構築をした。だが思いこみが強すぎると忘れてしまうことがある。主人公が仏教にたずさわる者であることを「哲学者」が知っていたのかどうかは不明だが、罪人もふくめて人間はすべて極楽往生するという浄土宗や浄土真宗の教義をたぶん彼も知っていただろう。それを指摘されて思い出したはいいが、理論的反駁がただちにできない。すると理論も含めた情緒の世界がぐらついてくるのだ。一方、主人公にしてみればみずからの宗の教えを披露するくらい何の造作もないことだ。「うっかりと」「奥の手」が出てしまったにすぎない。理論の面で渡りあう意気込みなどなかったのではないか。ちょっと意地悪をしてみたかったのだ。それにしても哲学者はあっけなくぐらついた。武田はここでインテリの視野の狭さ、脆弱さを指摘したかったのか、それはあるだろう。もうひとつあるのは、あの世ではなくこの世こそ極楽であったほうがいいという主人公の願いだ。(この願いは後の、ある僧との会話に出てくる)女性を好きになる、肉体関係をつくるということは一種の極楽である。そうでなくても女性を好きになることくらいでくよくよしなさんなというやわらかい忠告もふくまれている。前半の部分はこの会話のあたりで終わり、後半では加行とそこでの「この世の極楽」への主人公の執着ぶりが描かれる。

 人間すべては極楽へ往く、そう言って「哲学者」を狼狽させた主人公だが、実は彼もまた同じことを言われて、哲学者とまったく同じ狼狽をしめしたことがあった。十代後半に体験した加行時のこと、ある僧侶との会話においてだが、この世のもろもろに対する執着がまったく無意味になってしまう、あの世の極楽が至上価値ならば、この世の「青春の悲しみも、歓喜も、毛髪もそそけだつ苦悩も、骨も肉もとろけ流れる快楽も」雲散霧消してしまうではないか。そんな馬鹿な、寂しいことはない。こうして彼は、自分の宗の教義をにわかに嫌悪するのだ。彼にとってはこの世の極楽のほうがよほどおもしろいので、加行という修行につきまとう禁欲ほどつまらないものはない。それに違反することに何のためらいもない。たぶん精進料理しか出ないのであろう、実家の書生からさしいれられた寿司などを口に入れたり、夜、女性のいる飲食店に出かけたりする。用意周到、坊主頭をかくすためのソフト帽や衣装もそろえているのだ。醤油をわけてもらうために炊事場に行って、係の若い僧にマグロの寿司を分けてやる場面など印象に残る。主人公はお坊ちゃんだ。

 若い身空で一定期間とはいうものの禁欲生活を送ること、これに積極的な意義をみいだす人は、それほどはいないだろう。宗教教義によほどの支持や興味を抱かないかぎりは。そういう人はこの短編には登場しない。だから禁欲が人に生じさせる変化を経て、教義にふさわしいと思われる人間像が描かれることはない。(主人公と対話した僧がそれにあたるだろうか。また百歳を超える大僧正も回想場面で出てきて、欲望とはまるで縁のない姿が描写されるが、いずれも「若く」はない)総勢約八十人の一人一人まではわからないが、禁欲生活にはつまらない思いを抱いているのではないかとかってに想像してしまう。主人公のようなお坊ちゃんはきわめて少数で、貧乏な階層が大部分だ。若い頃から寺に預けられて苦労をかさねた人、四十代、五十代にもなってようやく僧侶の資格を取ろうとする人もいる。ほとんどの人が就職と生活のために本山の寺に集まっているのだ。

 禁欲を実践したところで、禁欲的志向が安定することはない、むしろ逆である。自分の欲望のありように直面せざるをえない。なかでも女性への思いが募ってくる。主人公も例外ではないが、穴山という人物が直情径行的だ。隆起したペニスをむき出しにして控え室を仕切っている障子に走っていって穴をあける。彼の取り巻きや主人公が見守るなか、つぎつぎと障子に穴がくっきりとあけられていく。これは主人公のような「恋情のオブラート」につつんだ女性の肉体へのあこがれというものではない、生理的欲望そのものを凝視したうえで、その奥底にあるものの発散である。また破れかぶれのその行為には、現在の禁欲生活への怨みとともに将来にわたる穴山の野望と意気込みもこめられている。穴山は貧乏で、反抗心旺盛で、坊ちゃん育ちの主人公を憎悪している。「おめえは死ね。おめえなんか、もう死んじまったっていいんだ。だが俺の方はそうはいかねえんだ。これからいくらでもやることがあるんだ」と吐き捨てる。宗教的静謐とはまるで縁遠い、主人公とはちがった意味での生臭坊主の典型の人物だ。「若者の陰気なニヒリズム」とも書く。

 そういう穴山と主人公はやがて対決するはめになる。加行係の僧が遅刻してきた加行中の男を殴ってしまって一同は反発し憤慨する。穴山をふくんだメンバーはその僧に報復をくわえるという方針を提起した。もうひとつのグループの方針は一同がそろって下山するというもの。そこへきて主人公は第三の方針を提案する。大殿にこもって断食をすればいいのではないかと。二つの案にくらべると穏健な案で、主人公は加行中の大部分の人のことを慮った。人々のいちばんの望みは加行を無事まっとうして僧侶の資格をうることではないか、二つの案はそれをふいにしかねないものだ。断食(今でいうハンガーストライキ)ならばその最中に寺の監督者との交渉の余地が残されていると。この提案は一同に受けいれられた。さらに提案は寺にも伝わられて、暴行をはたらいた僧は寺によってただちに他の場所に移動させられるという決定が迅速になされる。「大殿」は葬式や法要の舞台として頻繁につかわれるから、寺も困惑して早く手をうったのだろう。主人公は一同の信頼をにわかにえるが、不快なのが穴山で、決闘を申し込んで、主人公も受けて立つ……。この結末は明らかではないが、小説のはじめの加行後の「現在」が書かれているので無事だったのだろう。政治的騒動に首を突っ込んで、危険な決闘にも乗り気はないものの赴く。なかなかの魅力ある主人公だ。腕力がありそうで、憎悪をつのらせる穴山に対し、勝つ自信があるのか、また意思堅固なのかは読んでいて心もとないが、それでも諦めなのか冷静さなのか、ある種のんびりした空気が彼をつつんでいる。卑怯者にはならない、逃げない、それはごく当たり前で、ことさら自慢するに値しないということだろうか。

 作者はこの短編の後半を物語の展開にのみこだわらずに、主人公の「心の風景」を描き出すことをより重視した、ここはもっと魅力あるところだ。意欲旺盛で行動のさなかにある場合、その人にとっては意欲と現にある行動がすべてで、ほかは見えない。だが逆に意欲がはなはだしく減退しているにもかかわらず、なお行動に踏みとどまらなくてはならない、制約がはたらいて行動から逃れられない、そうした情況にある場合には、意欲がそれまで占めていた位置には意欲と反対の力がのさばって作用するのではないか、意欲の残り滓はあるにしてもどんどん浸食される。さらに、意欲との「反対力」は切迫すると死として顕現するのではないか。この「反対力」を象徴するものが、この短編では仏像のまなざしである。加行の最終日近くの深夜、ひとりひとりで大殿の奥深くの「大きな金色のアミダ如来像」(阿弥陀を故意にカタカナ表記にしているのは、作者の意思)の前へいって誓いを立てなければならない。最終の行事らしい。

 (略)国宝に指定され、何回の火災にも焼けのこったとつたわられるその仏像は、人間の魂を吸いよせてしまう、不思議な眼力をもっているといううわさであった。奈良にしても鎌倉にしても、巨大な仏像の名作はすべて、荘厳にして温和な表情のどこかに、この世の生物のすべてを、軽蔑するとまで言えないにしろ、支配し自由にとりさばく一種の強烈さをただよわせているものである。固くつぐんだその唇に、底知れぬ嘲笑がほの見えるものもあった。その眼光のあまりのするどさが、この世にまれに見かける悪相をしのばせる仏像もあった。(p118)



「(略)俺もこうしてあなたの前に座っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。あなたは人間でもない。神でもない。気味のわるいその物なのだ。そしてその物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。俺は自分が死ぬか、相手を殺すかするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人者になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部をみているのだ。仕方がない。その物よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにきめた。」(p122)(下線の部分は原文では傍点)

 
私見だが、仏像をまじまじ眺めただけでこういう仏像観が生れるとも思えない。また固有の宗教教義にのっとって仏像を眺めたとしても生れてこないのではないか。それよりも私は、武田の社会運動や戦争の体験を重視したい。先ほど記した意欲や明るさを損なうもの、その根源のもの、死を、武田は体験によって知らされたのではないか。その世界観が仏像に仮託されたと私は見たい。教義や仏像の芸術に先立つものとしてそれはあるのだ。死であるならば宗教者でなくても意識できるし、意識させられることが否が応でもある。死とのかかわりという意味では、宗教的世界観の入り口に立つことになるが、狭い意味での宗教教義ではない、宗教が全力で対決しようとする忌まわしさの根源である。仏像のやさしいまなざしが、やさしいという以上に何も語らない、何もしない、そこにとどまらず、もっと意地悪で軽蔑的で冷笑的である。「その物」はおどろおどろした地獄絵図ではなく、透徹したまなざしでありながら、たいへん不透明で無気味なものだ。極楽を暗示するといわれる仏像に「地獄」といってもいいものをみいだした主人公はおもしろい。

 仏教者の主人公(作者)が極楽、地獄といった専用の観念にとりまかれて、そこであらためて諸観念との距離をとりなおす、生きざまを語ることで自然にそれをなしとげることに成功した秀作である。ところで、死に臨んだとき、私は極楽往生をねがうのだろうか。まだまだ先のことと思いたい。

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ウェディングベルを鳴らせ!

 生きとし生けるもの、そのすべてを爆笑で包みこんでしまう。悪人も善人も、動物も人間も一切合切を巻きこんで爆笑を起こさせて前へ前へと突き進んでいく。その果てにあるものは何か。生きることは楽しい、生きることはドタバタ喜劇だ、さあ、みんなで笑いあって楽しく生きようぜ、この国を建設していこうぜ、どんなことがあろうと未来は明るいぜ、というような頑固なまでの哲学の実現だ! カメラにおさめられたすべての人間が動物が、その哲学を注入されて輝く、躍動する、巻きこまれる、鬱憤をまるでちっぽけなもののように笑い飛ばす!

 エミール・クストリッツァ監督は今回も素晴らしい映画をつくってくれた。前作の『ライフ・イズ・ミラクル』では旧ユーゴ内戦下で、敵方の捕虜の女性と恋仲になるという主人公の破天荒な人生を描いたが、今回はそういう深刻さは前面には出てこない。もっとも暗さがまったくないわけではないが、前作にもそしてクストリッツァ監督作品の共通項である笑いの創造性に重点が置かれて、これでもかこれでもかという具合に全体に噴出する。暗さといえば、悪役である土建屋兼地上げ屋兼売春業者のグループの存在がある。彼らは瓦解したアメリカの貿易センタービルに匹敵する大建築物をセルビアにつくろうとして農民を敵視するのだが、その一方ではヒロインの女性の母親を売春宿で働かせ、なおかつヒロインまでもそこに閉じ込めようとする。また彼らはたかが無銭飲食をした人を平気で殺したり、獣姦を嗜好する男たちである。ならず者が治安も引き受けて大きな顔をするのは、セルビアのような新興国の現実かもしれないが。しかしこの悪役連中、クストリッツァ監督によってものすごく弱体化、喜劇化されて描かれ、笑いの渦に巻きこまれることによって敗北するという珍妙な結末にされる。獣姦も殺人も残酷ながら、この監督の腕にかかると笑いの拡張された領域にすっぽりとはまってしまう。顔をしかめながらも視聴者は映画というつくりごとのなかで残酷さに共感させられて、ほくそ笑んでしまうのだ。

 物語は、おじいさんの言いつけで孫の少年が牛を引っぱって町に出て行くことからはじまる。牛を売った金でイコン(聖像画)を買ってお嫁さんを連れて来いというのが言いつけだ。おじいさんが老い先短いと考えたからだが、この人、グラマーの愛人と同居していてすこぶる元気だ。またこのおじいさん鐘をみずからの手で鋳造して鐘楼もつくったりと、なんでもかんでも手製でつくってしまう。からくりやいたずらな仕掛けが大好きときて、いたるところで笑わせてくれる。手製の仕掛けはときに失敗し、ときにはハチャメチャに成功する。そしてこの「手製の仕掛け」は少年にも受け継がれて全開状態となる。見初めた美人の高校生(見かけは大学生の雰囲気で、12歳の少年からすると随分年上)を「お嫁さん」にすべく彼女の一家を手助けして奮闘する。おじいさんの友人の孫にあたるスキンヘッドの兄弟とも協力関係を築きあげる。この兄弟も「手作りの仕掛け」が大好きときている。青年らしいセックスへの興味も少年と共有して行動する。最初は彼らは悪人グループと仕事仲間であったのだが、少年の兄弟同様に味方になってしまう、その経緯は忘れた。手前勝手だがそんな細部は忘れてもいいのだ。

 最初に出てくる目覚まし時計の仕掛けがおもしろい。寝過ごすとパチンコ球が頭に落ちてくる。あっ痛い、と視聴者は思うが、痛覚なるものはここだけで、その直後少年が「復讐」して、寝ているおじいさんのベッド全体が起き上がっておじいさんが壁に頭をぶつける、ここではもはや痛覚は視聴者の思いから消し飛んでいる。別の場面では煉瓦が人物の頭に落ちてくるが、ここもおもしろいだけで痛くない。それに見世物小屋の大砲から飛び出した芸人が映画の最中ずっと空を飛び続けるのも記しておかなくてはならない。これは童話だ、喜劇だという断りで、気持ちよさそうにすいすいと空を駆け巡る。スラップスティック・コメディといってもいいのか。だが、見下したニュアンスがそこに含まれるとしたならちがう。猥雑で、残酷なことや悲劇があっても、右往左往しながらもおもしろく生きていこうぜ、元気の源はおれたちにあるぜという自信に満ち溢れた映画だ。今年劇場で見たなかでは、私的にはいまのところベストワン作品である。

[補注]音楽がまたすばらしい。エミール・クストリッツァ監督作品ではおなじみの故意に音程を外した金管を中心としたリズミカルな音楽が全編に鳴りわたる。今まで以上の激しさだ。セルビアに根ざしたものか、クストリッツァ監督のオリジナリティによるものかはわからないが、『スラムドッグ$ミリオネア』に匹敵する軽快さと力強さがある。

    07:25 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

政治的「正しさ」について(メモ)

 「正しさ」とはたったひとつに集約されるのだろうか、概念なり、イメージなりに。問いがあまりにも漠然としていて答えるのが、どうもむつかしい。神にも近づくような道徳的向上であるのか、大多数の人々の生活の安定と平和なのか、「正しさ」は多方面から誘いの手をさしのべてくる。

 問題を局限して、政治的正当性ということでスケッチしたい。政治的な「正しさ」がたったひとつあると仮定する。最低限、その「正しさ」の主張をする組織にとっては選挙や革命で政治権力を掌握できた場合、その社会は「正しい」姿をめざして本格的な歩みを開始することになる。当面、その権力が遂行することが戦争であろうと平和であろうと、政治権力は「正しさ」を喧伝してやまない。ここでは平和と「正しさ」がイコールなのか否かを問題にしない。

 政権奪取に至らない段階でも、政治組織はみずからの「正しさ」を宣伝する。組織の拡大と強化のために、組織員はさまざまな活動に没頭する。組織員を増やすために団体や個人との交渉をこころみる。資金集めや対立する政治組織への非難、論駁なども重要だ。そうした活動に従事することもまた「正しさ」の実現としてとらえられる。つまり「正しさ」の内容をより深く理解するという方面で「正しさ」に近づくのではなく、極言すれば「正しさ」を宣伝して広めることの奴隷となることが、まさに「正しさ」の具現として、とらえかえされる。

 「奴隷」であれば、個人など無きにひとしい存在に成り果てるが、それでも自己陶酔の快感が作用すると、幸福感を得られる場合も少なくない。「正しさ」の実現のために身を粉にしているという自負がある。また主観的な手ごたえもあるだろう。「正しさ」はそうした快感を得て、なおかつ快感を梃子とする個人によって多く支えられる。

 政治組織においては、その員数が多ければ多いほど、死や脱退による個人の消滅は、その人が組織にとってよほど重要な地位を占めていないかぎりはそれほど問題にはならない。また逆に、個人にとっても、みずからの脱退によって政治目的がいちじるしく損なわれることがほとんどないことが自覚される。その個人にとっての思想的課題があとに残されることだけが確からしい。疲弊や倦怠によって、たまらなくなって脱退したのであれば、あらためて喧伝するところの「正しさ」に対して向き合わねばならないからだ。

 政治組織の性格によるが、実力行使を重要視する組織の場合、たとえば「自爆テロ」に殉ずる人がいる。逆に「敵」に斃される人がいる。こういう組織ではたえず死を意識せざるをえない。死はいうまでもなく怖い。逆に相手方に対しては、実現させてどれだけの政治的打撃を与えられるかどうかは別にしても、最大の脅迫になりうる。また個人がみずからの死をイメージさせられることで、みずからに対する脅迫にもなる。脅迫だが、どんづまりにおいてみずからの力を鼓舞しそそのかす作用もある。死が最大の貢献だと組織は位置づけて励まし、個人も感覚的にそれを受容する場合があるからだ。死が最大の力の発揮と見做してしまう感覚がだれにも備わっているからだ。自分の将来にあるかもしれない死も、同時期の組織の仲間の死も、意欲旺盛な期間においては力を増幅させる。もっとも、意欲なるものが永続する保障はない。連続的に生起する死は惨状そのものだからだ。ほんの少しでも平和を味わったことのある者はそれを体で記憶している。その幸福や安楽は自然で、まったく無理がない。別の角度からの視線はすでに着実に潜伏しているというべきである。

    23:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

スター・トレック

 私にとっては不向きな映画。午前中に始まるプログラムしか選べなかったのでこれを見たが、ほかのにすればよかった。人間劇は付属的で、CGを注目すべき作りだとは思うが、新機軸というべきものが、はたしてあるのかといえば疑問だ。もっとも、マンネリのなかにこそこういう映画の醍醐味があるとおっしゃる方もいるんでしょうね。それなら反論の余地はないが、もう少し書いておこう。

 宇宙空間、スペースシャトルの内部、小型シャトル、地球人や異性人のコスチューム、戦闘シーン、どれをとっても驚きがない。勧善懲悪形のつくりのようだが、地球滅亡をたくらむ異性人のシャトルときたら、ゴキブリとウニを合わせたようなグロテスクな見栄えである。いかにも悪人風の印象で、失笑せざるをえなかった。

 おかっぱヘヤーとつりあがった眉の宇宙人(地球人とのハーフで地球人に同情的)が単身で小型シャトルに乗り込んで、地球をはるばる救いにやってくるが、そのとき、それまで真面目な芝居をしていたこの俳優がおもわずニンマリしながら操縦桿を握っている。俳優とは自分の顔がどんな風に場面に映るのか、計算ができる存在なのだと思うが、このときばかりはそれを裏切って子供心が表に出てきたのだろうか。わずかな時間の場面だが、おもしろかった。本筋からはズレた感想です。
    07:34 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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