大洋ボート

ミニミニ大作戦(1969/アメリカ)

ミニミニ大作戦 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]ミニミニ大作戦 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
(2006/04/21)
マイケル・ケインノエル・カワード

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 この映画は劇場公開当時に見た。下水道のなかを颯爽と走るミニカー(軽自動車)の姿がかなり長く記憶に残ったが、それ以外の場面となると皆目忘れてしまっていた。今回DVDで見ても、他の場面と比べてやはり例の場面がいちばんおもしろい。下水道のほか、階段や川の堰を走り回るし、ビルの屋根から屋根へとびうつったりもする。こういう具合に、ミニカーが縦横無尽に活躍する場面の連続がこの映画の見せ所で、これを撮ることが目的のすべてだったといってもいいのではないか。

 ミニカーはマイケル・ケインをリーダーとする犯罪グループが、輸送車から金塊を見事に強奪したあとの逃走手段として用意されたもので、ほかにも改造大型バスやバンなどの車両も加わる。コメデイタッチの映画だが、作りは雑だ。交通渋滞を引き起こしただけで、はたして輸送車襲撃が成功するのか。ここらの計画は甘いと思うが、それでも成功してしまう。

 マイケル・ケインは硬軟両方の芝居ができる人だが、うってつけの役どころだろう。カッコいい。あと印象に残ったのは、マフィアの大立者の存在だ。彼は刑務所に収監されているが、まるで所長待遇で信じられない思いがした。ほんとうに所長ではないかと初めは首をかしげた。独房はだだっぴろくて、壁一面にエリザベス女王の写真がぺたぺた貼られてあるし(マイケル・ケイン以下の居住地はイギリス)映画鑑賞も自由。マイケル・ケインが犯罪の話を持ちかけるためにわざわざ刑務所に侵入して直談判すると、ほんとうの所長を呼びつけて「警備が甘い」と苦言するまでの地位にある。オーバーに描かれているのは確かだろうが、アメリカやイギリスにおけるマフィアの跋扈を考えると、荒唐無稽とばかりはいえない、わからないが、当国の人が見るとくすぐったいようなリアリティが少しはあるのかもしれない。
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ジャック・ロンドン『白い牙』

白い牙 (光文社古典新訳文庫)白い牙 (光文社古典新訳文庫)
(2009/03/12)
ジャック ロンドン

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 狼を主人公にした長編小説。「ホワイト・ファング」(=白い牙)と名づけられた狼が母との共同生活から引き離され、人間の飼い主の間を転々として、最後には動物愛護主義者の鉱山技師ウィードン・スコットという人物に引き取られて安寧を得るという物語である。私にはあまりおもしろくなかった。

 ジャック・ロンドンという作家は、野生の動物や苛酷な環境などに代表される自然の奥深く入っていくことを課題とした人であった。そうすることで自然の何たるかを知るとともに、自然とのエネルギッシュな一体感とも呼ぶべきものを獲得することが切望された。柴田元幸編・訳の短編集『火を熾す』では、主人公はときにそういう自然との格闘の過程で失敗をやらかす。判断をまちがったり、生か死かという分岐点でわざわざ死のほうへ擦り寄っていってしまう。身を焦がすような悔恨にさいなまれることもしばしばだ。懸命でありながら結果としては愚かで卑小でしかない人間の姿が正直に、克明に描かれて感銘を呼ぶ。つまり、自然との共生というロンドンの目指したものに関心を払う以前に、私たちは人間の愚かさ、不安定さをそこに発見することになって、そこにこそ醍醐味があると思うのだ。

 だが『白い牙』では、そのような人間の愚かさ、弱さはまったく登場しないのではないが副題的なあつかいになっている。人間から見た自然という視線ではなく、逆に狼という自然を象徴する獣からみた人間、および自然に対する視線に沿って小説は描かれる。人間が判断をまちがって死にたちまち呑み込まれるときのような痛切さが見当たらない。本能と習性によって行動する獣が、かなり擬人化されて喜怒哀楽に揺れたり、夢をみたりという内面の描写をともなって描かれる。恐怖の体験もあるが、そもそも動物にそういう身を凍らせる感情があるのか、擬人化という前提にたつものの、どうもしっくり呑み込めない。なるほど、ロンドンは金の採掘のためにカナダ北部に仕事で旅をしたことがあったというから、そこで狼に接することができたのであろうし、動物愛護家としての彼の豊富な知識もよくあらわされているだろう。それはいいとしても。

 ここで書かれたことはありうることだろうか。狼が人間に慣れ親しんで、番犬以上の存在にまでなって人間を保護する立場にまで登りつめるのだが。ほんとうだと仮定しても、言い訳のような理論が用意されていることも腑に落ちない。作者は犬の人間に対する親和性は、先祖代々から受け継がれたもので、血として体内に宿っているという。ホワイト・ファングには犬の血が四分の一ある。母の狼は犬と狼の混血で、犬の血を半分受け継いだ。その母が狼と交合してできたのがホワイト・ファングだから四分の一というわけだ。人間以上に強い存在はなく闘争しても勝ち目はない、だが従順な態度をとると保護してくれる、つまり人間は神であり、そのことを母狼は犬から受け継いだ「血」として知っていて、人間に接したとき、すすんで降伏する態度をとる。子の狼もそれを傍で見ていて「血」を思い出したように自覚するのだが、どうか。私には動物に関する知識がまったくないので、にわかに信じる気にはなれない。あるいは、人間に身をゆだねることが一番安心なのだという「思想」が、作者いうところの「血」に隠されているのではないか。とにかく、この狼、人間に対しておとなしく、予定調和的というべき態度だ。

 私にとって一番おもしろかった場面は、狼とブルドッグとの死闘だ。二番目の飼い主の白人が、狼を使って闘犬の見世物の商売をして荒稼ぎをする。連戦連勝の果てに最後の勝負となるのが、このブルドッグだ。ブルドッグは擬人化されないため自然そのものである。狼が必敗の状況に追い込まれるとなにかしら狼が擬人化という以上に人間に思えてくる。手に汗をにぎる。自然との対決というロンドンの従来の主題がここで急浮上するからだ。人間に身を任せれば安心という狼の「血」のメッセージも読者から忘れられるからだ。

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マイ・ブルーベリー・ナイツ(2007/フランス・香港)

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(2008/09/12)
ノラ・ジョーンズジュード・ロウ

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 ほろ苦さのなかにすがすがしさがある。失恋した若い女性があらたな異性とめぐりあい、幸福をつかみとるという物語だが、そこにいたるまでの旅や人との出会いが彼女を成長させ、理解を深めさせる。いわばそういう人生勉強が私達には覚えのあるもので、ああそうだったなあとなつかしい気にさせられる。

 ノラ・ジョーンズは恋人だった男が別の女性と交際をはじめたことを知って別れを決意する。彼に部屋のキーを返すため彼の行きつけの店らしいカフェを訪れる。直接は渡したくないのだろう。店のオーナーのジュード・ロウも閉店後に親切にノラの長話を聞いてやって引き受ける。実は彼もまた失恋して間もないらしい。この始まりの場面がいい。たぶんお互いに好印象を抱いたことが視聴者にはわかる。だがそこは互いに失恋中、ひっくりかえる可能性はほとんどないが、まだまだ未練を断ち切れないである。そうでなくても失恋の痛みにどっぷりと漬かることによって癒えるのを待たなければならない。失恋から立ち直るためにはそういう時間が必要なのだ。人間はどうやら感情において急カーブをきれない、大回りしなければ次の異性にはたどりつけないようにできているのだ。

 カフェのセットがいかにもオーナーの愛情がこめられた店作りのようで、ここでも私は好印象をもった。手狭ながら、透明ガラスにはメニューなのか宣伝文なのか手書きの文字が書きつけられているし、照明はブルーのようだ。装飾用の置物もいくつか。カフェや酒場のセットは殺風景なものが多くがっかりさせられることもあるが、このセットと色彩は引き込む。

 ノラ・ジョーンズはニューヨークを離れて旅に出る。今度は自分が酒場でアルバイトをすることになるが、そこでは常連客の警官ディヴィット・ストラザーンの未練たらたらの別れた妻へのつきまといを見る。やめときゃいいのに、とは私達のひと目見た感想でもあり、ノラ・ジョーンズのそれでもあるのだろう。恋愛とは魔物で、いったんその病にかかると好きな女性しかみえなくなる。その女のほかにもいっぱいいい女はいるのに、恋でなくても面白いことはいっぱいあるのにと傍では簡単にわかるのに執着を止めない。生真面目な人ほどその傾向におちいるのかもしれない。ましてやノラは彼の別れた妻のナタリー・ポートマンも知っていて、復縁する気はまったくないことを聞かされるのだ。やめときゃいいのにとは、ノラも同じ思いだろう。ノラは当然のようにストラザーンに同情し、忠告もするのだが……。人の恋愛の深刻な場面を目の当たりにすることは、自分のそれまでの恋愛をふりかえるよすがになるものだ。

 ノラはまた凛々しくカッコいい女性ギャンブラーとも出会うが、外見とはうらはらなものをそこに見てしまう。人はだれでも不幸を抱えこんでしまうことは知るのだ。そうするうちにジュード・ロウがノラの居場所をつきとめて電話をかけてくる。いい映画の要素のひとつとして、主人公を応援したくなる気に自然にさせられることがあるが、ここでもそうだった。はやくニューヨークへ帰れ!と私は思い、せかせかした。

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グラン・トリノ

 人殺しをすると人間はどうなるのか。あまり背景を広げないほうがいい。妻に先立たれて一人暮らしをするクリント・イーストウッドは朝鮮戦争に従軍したとき、上官の命令なしに何人もの北朝鮮兵を殺した。血気にはやったのか復讐心に駆られたのか、そのときの心理は語られないのでわからない。だが時がたつにつれてそれは、たいへんな嫌な思いとなってのしかかる。人殺しをしてしまうと、殺された人間は二度とよみがえらないという事実がある。また人殺しをしてしまった人間から「殺人者」という履歴が消えることはないという事実もある。なかには忘れてしまえる人もいるだろうが……。極言するとその殺人が「上官の命令」がたとえあったとしても、また正当防衛であったとしても、やはり「殺した」という事実は人一人の歴史のなかにたいへん嫌な思いを刻み込むのではないだろうか。この映画から特にそう考えたのではなく、以前に死刑執行にたずさわる刑務所の官吏の人たちのことを書いた本を読んでの思いである。加賀乙彦の『宣告』も重たい思いで読んだ。

 最後の場面でこの映画の主張が力強くももの悲しくも描かれる。それはたんに「嫌な思い」にとどまるのではなく、より積極的に、より徹底して非暴力をつらぬこうとする確信ある姿勢である。内にこもっての嫌な思いを転化して外部の世界に非暴力思想を、行動として、メッセージとして残す。たいへん直接的でありシンプルでもある。またその結果、親しい隣人を助けることにもつながる。

 この映画にはまた家族の問題が描かれている。二人の息子はすでに社会人としてそこそこの地位にあるらしい、孫も何人かいる。だが息子や孫との関係はぎくしゃくしている。イーストウッドは、彼らにとってはいずれは面倒をみなければならないということでは厄介の種である。同時に遺産の分け前にも与りたいという図々しさも持っていて抜け目がない。イーストウッドからは彼等の心のうちが透けて見えて、つまらない思いを抱くしかない。そんな彼の前にあらわれるのが、となりの家に引っ越してきた中国人の少数民族の一家である。人嫌いのイーストウッドは最初は「米食い人種」と独り言をつぶやいて嫌がるが、孫と同様の年齢層の少年や少女が不良グループにいじめられるのを目の当たりにして黙っていられなくなる。元来の正義感が頭をもたげてくるのだろう。

 家族には血のつながりがある。これは消すことができないもので、血ゆえに愛情がはぐくまれることが大部分だろう。しかしこの映画のような家族ではそうもいかない、これはわかりやすい。図式的なほどのわかりやすさだ。これに対して、非血縁で異人種の隣人の少年少女との関係は濃密である。アメリカ社会と馴染もうと努力する彼らをイーストウッドは何かと世話を焼く。そして、人間関係のあたたかさが立ちのぼってくるさなかで非暴力思想も同時に熟してくるのだ。

 繰り返しになるが、クリント・イーストウッドがこれほど明瞭で直接的なメッセージを定着させるとは思わなかった。いつまでも記憶に刻み込まれる映画になりそうだ。

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ジャック・ロンドン「世界が若かったとき」「水の子」

 これまで紹介してきた諸短編は、ジャック・ロンドンの体験やそこでの見聞が下敷きになっていたり、ボクシングを扱ったものなら観察と興味が大きい比重を占めている。つまり、事実を土台にしてそこにロンドンの作家的創作をくわえたとみてよいが、この「世界が若かったとき」は創作そのものである。小説的虚構をある部分では荒唐無稽なほどにふくらまして苦笑させるが、読ませる。ロンドンその人のあこがれと煩悶がストレートに表現されている。「野生」にあこがれながらも市民生活をまっとうさせるためには、やむなくそこから撤退せざるをえない、そんな悲哀がこめられている。

 ジェームズ・ウォードは40代の会社社長で、広大な屋敷を所有している。だが子供のときから奇癖があった。夜になると「野生」に目覚め、体がむずむずしてくる。いても立ってもいられなくなって、夜、家を抜け出して周囲の野山を徘徊するのだ。裸同然で駆けまわり、コヨーテを追ったり鶉の卵を見つけては食べたりする。洞窟で何日も暮らしたこともある。やがては帰宅するのだが、両親は当然心配になって医者に相談するが、医者の診察の如何にかかわらず、彼は自分を病気だとは思っていない。そういう風に「野生に戻る」ことがこよなく好きで、そこに大真面目に理想郷を見出すのだ。成長が阻害されることもない。勉強にスポーツに十分活躍し、体躯も群を抜くほどに大きくなる。喧嘩をしてもどんな猛者にも負けない。そんな二重生活を40を越しても毎日のようにつづけてきた。またそういう彼の二重生活を知る者はたった一人彼のの料理人をのぞいては誰も知らない。だがここへきて厄介な問題が出てきた。結婚である。

 ガールフレンドとつきあった経験はあるが、夜になると「野生」がどうしても目覚めてしまい愛撫が乱暴になり、女性は青あざをつけられる。当然つきあいは長つづきしない。異性をあきらめかけたウォードだったがやはり好きな人にめぐりあってしまう。用心して彼は午後8時以後には女性と会わない決まりをつくって自らに課した。徘徊癖も自重した。ベランダに彼専用のスペースをつくってそこを外部から頑丈に施錠し、内部にはトレーニングの器械を運んできて体力の向上にも怠りなきように用意万端整えたのだ。その暮らしぶりも順調に推移するかにみえたが、異変が起こる。サーカスから脱走した熊が彼の住宅の庭に侵入してきたのだ。彼の愛犬も重傷を負う。復讐心も梃子になって「野生」の血が猛然とウォードのなかに沸きあがる。庭へ下りていって熊との決闘となり見事彼は勝利する。だが婚約者やその母も目撃した。彼女達をはじめ何人かの客がその日宿泊していた。

 客たちは彼を喝采し称賛しようと飛び出していったが、ジェームズ・ウォードは突如、大昔のチュートン人の目の端で、自分が愛する、色白でか弱い二十世紀の娘の姿を捉えた。そしてそのとき、脳のなかで何かがぱちんと切れるのがわかった。彼はよたよたと弱弱しく彼女の方に寄っていき、棍棒を捨て、危うく倒れそうになった。何かがおかしくなってしまっていた。脳のなかに、耐え難い激痛が走った。あたかも魂がバラバラに飛び散っているような気がした。興奮にギラギラ光る人びとのまなざしをたどって、うしろをふり向いてみると、そこに熊の死骸があった。その光景が彼を恐怖で満たした。彼は叫び声を上げた。皆に押しとどめられて山荘に導かれていなかったら、きっと逃げ出していただろう。(p207)(下線をほどこした部分は翻訳原文では傍点)



 「脳の激痛」がロンドンのもっとも書きたいことだろう。但し、自分の正体がばれてしまったことへの悔いではない。最高潮にまで発揮できた「野性」の力がそれゆえに急速に衰退せざるをえない、人格交替が意識を圧倒する勢いで今まさに作用しているその際の「激痛」だと受けとりたい。寂しさというよりも生理的苦痛に近いのだろう。それほど「野生」はこの主人公の存在理由そのものとして深く根づいている。この事件のあった後は、主人公からは「野生」は跡形もなく消滅し、幸福な結婚生活を送ることができるようになる。

 ロンドンの一方通行的な理想とその挫折が描かれていて、それだけ彼にとっては切実なテーマであるのかもしれない。「野生」に特にこだわらなければ、広い意味での「異界」へのあこがれと乖離ということでは、多くの人の追求課題とかさなる。「野生」にかぎって言えば、私も若いときに、そういう力ずくの世界に関心を持ったことはある。自分の肉体、体力、闘争心がどれほどのものなのか試してみたいという欲求はたしかにあった。現在においてはそれは私のなかで燃え残ってはいるもののそれほど切実ではない。若さがなくなったからでもあろうか。それは条件としてあるだろう。だが「野生」へのあこがれが若さの消失によって同じように必然的に衰えるのかどうかは簡単には決められない。少なくともロンドンは40歳という年齢でこの世から去るまで、「野生」へのあこがれと関心をもちつづけた。その年齢が若いのか壮年なのかも、人の受け取り方によってちがうだろう。この短編の主人公のように、ロンドンのなかであこがれが挫折したとしても、ロンドンにおいては、その後の普通の生活や人間関係への関心へと作家的興味が移行することはなかったのではないか。本短編集のどれをとっても「普通の生活」に力点をおいて書かれてはいない。その点ではこの作家には不満が残る。

 「野生」と自然が抒情的に語られるのが「水の子」で、舞台がハワイであることも作用してのどかな気分にひたれる。70歳になっても現役をつづける漁師が神話を、そして伝説を話す。この漁師、聞き手の前で伸ばせば3メートルにもなる大蛸を素潜りで採るのだから、語りを信用してみたい気にさせられる。この老漁師自身が、ロンドンの好きな「野生」との調和を果し終えた存在として登場するからだ。伝説とは、鮫と言葉を交わす少年漁師のことで、王の巡幸に際して好物のロブスターを採りたいがため、鮫をだまして共食いをさせてそれが終了した後悠々と漁をやり遂げるという話だ。最後の一匹の鮫はどうなったのか、それは読んでのお楽しみとしておこう。少年はともかくも、ロンドンの老漁師に対する羨望が透けて見えるように思える。たくましい体力をもっての自然との共生。そこでは神話も伝説も真実らしく語られる。ロンドンが望んだ生活にちがいない。

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ジャック・ロンドン「メキシコ人」「一枚のステーキ」

 人間の肉体はどこまで強くなることができるのか、ということがロンドンの主要な関心事であった。みずから肉体を鍛えることによって体力は自然に向上するだろうし、また逆に肉体がいじめられたり打撃を蒙ったりすることも闘争心を養うことになるのかもしれない。当人が強くなろうとする意思を頑強に保持するかぎりはだ。ただし打撃が回復不可能なほどであっては元も子もないが……。ロンドンはそういう強い意思を持つ人間に非常な親近感を寄せていたし、自身も一時期そういう志向を抱いたことがあったのだろうと推察する。彼の文学的彫琢も、そういう人間像を練りあげることに向かった。「メキシコ人」はその典型的な一例で、たしかによく書けていて感心するものの、私などはそう思う一方で、主人公があまりに強いのに対しては警戒心を抱きたくなる。どうやらこれはロンドンの自画像からはややはなれたところに位置する人物像だ。同時にロンドンがあこがれる類のそれでもある。彼は神がかり的な強さを発揮する。しかも革命的精神の体現者として。

 主人公フェリペ・リベラは18歳の若者でボクサー。そしてもうひとつの顔が、1911年に始まったとされるメキシコ革命下の革命派組織の熱烈な協力者である。最初は、読者は彼の正体を説明されない。革命組織フンタに訪れてきて仕事を手伝わせて欲しいと告げる。だがひと目見ただけで、居合わせただれもがその異様な印象に気圧される。世界全体を拒み、憎しみをたたきつけるような表情が張り付いているからだ。読み進むにつれて。それは彼の両親が勤務していた工場で虐殺されたことによる怨念にもとづいていることがわかるが、この出だしは効果的だ。

フェリペ・リベラと名乗り、革命のために働きたいと言った。ただそれだけだった。無駄な言葉はひとつもなく、それ以上の説明も無し。ただそこに立って待っていた。唇に笑みはなく、目には少しの愛想もなかった。威勢のいい大男パウリーノ・ベラでさえ、内心寒気を感じた。若者には何か近寄りがたい、恐ろしい、不可解なところがあった。黒い目には毒々しい、蛇を思わせるものがあった。目は冷たい炎のように燃え、とてつもない、凝縮された憎悪をたたえているように見えた。(p35~36)


 組織の人は彼を受けいれるが、スパイの疑いも捨てない。そのためやがて彼が申し出る寝泊りさせて欲しいという要求ははねのけ、部屋の掃除を命じる。言われたとおりにリベラは黙々とやって済めば帰っていくという毎日がつづく。そして何回かまとまった金を差し入れすることでようやく彼のスパイの嫌疑は晴れる。それどころか「地獄をくぐりぬけてきた」男として絶大な信用をうる。やがて武器購入のための大金をものにするために彼は売り出し中の強豪アメリカ人ボクサーとたたかうことになる。後半はこの試合の精細な描写になる。

 生意気だが、自画像を描くに際しては、想像力は体験してきたことからほとんど離脱できないものではないか。私はそう思っている。体験を行為の中断だと見做したところで、やはり行為の再開をもってしかその行為の延長線は描けないのではないか。想像でそれをやってしまうと、ともすれば架空のもの、嘘になってしまう。嘘だという自覚があればいいのかもしれないが。ただ特定の人間像へのあこがれがあって、作家は書かなければ気がすまないことも認めなくてはならない。作家はともすればそれを手持ちの想像力を使って自分が知っていることのように書いてしまいがちだ。読者もまたその巧みさに真実味を感じて引きこまれることがある。

 リベラのような男がこの世にほんとうにいるのだろうか。いるのかもしれない。ただし相対比較的な印象かもしれない、少なくとも自分よりも強い男はいるだろう。絶対的に強い男、怨念を最高の状態で維持しつづけられる男、また、格闘における勝ち負けではなく、自分を全面的に律して恐怖に立ち向かえる男がはたしているのか。どうも私は頷きたくない。通俗活劇や神話的人物なら別の話だ。だがある短い期間神がかり的な強さを体現する人間はいないことはない。身近な例なら、テレビで格闘技を観戦したとき稀にそういう人間を目撃することがある。そういう男としてリベラを読めば、ようやく私は納得することができる。まわりくどい言い方になってしまったが。

 格闘技においては、敗北がKOなり判定なりで明瞭にならないかぎりは敗北を認めてはならない。自分が負けるという心が忍びこむと負けてしまう。そう思う前にたたかうのだ。勝利の絶対的な自信をうるために練習をかさねる。リベラは競合相手にスパーリングを積んでタフさを獲得してきた。そしてまた革命を成功させようとする怨念がある。レフリーも味方のプロモーターも観衆もすべて相手の人気ボクサーの味方だが、くさったりはしない。それがファイト材料としてはたらく。リベラは革命の大義を背負っているのだ。上昇の過程にある体力とみなぎった精神が結びついた「奇跡」を読者は見ればよい

 リベラを祝う声はひとつもなかった。付き添いもなしに、セコンドが椅子を戻してすらいないコーナーまでリベラは歩いていった。そして彼はロープに寄りかかり、憎悪の目を観客に向けた。その目を場内一帯に、一万のグリンゴ(アメリカ人)全員を収めるまで走らせた。膝ががくがく震え、疲れのあまり目からは涙が出ていた。吐き気に目もくらむ仲、リベラの眼前で、憎い顔たちが前後に揺れた。それから彼は、顔たちが銃であることを思い出した。銃はみな彼のものだった。これで革命は続行できるのだ。(p76)


 この短編の紹介からはずれてしまうが、記しておきたい。革命や政治の世界においては強く見える人間がもてはやされる。集団においては、強い人間の発散する空気が弱さや「日和見」を引っぱりあげる、弱さを自覚する人間を「強く」して集団全体をも「強く」する効果を発揮するものだ。これは政治的にはたいへん有効なことにちがいない。だが反面においては、それは人間において自分の弱さを無自覚化させる危険も孕んでいることを押えておかなくてはならない。

 「一枚のステーキ」もボクサーもの。こちらはリベラのような頂点の強さを発揮する若者ではなく、引退間近のベテランボクサーだ。売り出し中の人気ボクサーの上昇過程における「噛ませ犬」のあつかいだ。主人公トム・キングもかつては花形ボクサーだったが、今は貧乏所帯。借金漬けであらたな借金もできず、満足なトレーニングも食事もできないまま試合にのぞむ。相手のスタミナを浪費させる作戦にでて成功し、もう一歩というところまでもっていくが昔のイメージどおりに体が利かない。やむをえないことなのかもしれないが、作戦の計算とともに肉体の衰えを試合中たえず意識してしまう。試合前にステーキを食べられなかった、会場までタクシーで行くべきところが金がなくて徒歩で3キロ歩いた。こういう悔いもちらついて、結局は敗北に終わる。キングが思い出すのは、その昔倒してのけた相手のベテランボクサーのことだった。彼はボクサー生命の終わりに直面して控え室でさめざめと泣いた。そして今、キングもまた同じように泣いてしまう。若さが老いとなり、さらに新たな若さが追い越していくという永遠の交代劇。「メキシコ人」と比較して読むと興味深い。

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ジャック・ロンドン「生への執着」

 「火を熾す」と類似の短編である。同じくカナダ北部を単独歩行する男の話だが、細部が光彩を放つ。前者とは状況が少しちがっているが、作者がもっとも言いたかったのは、題名のとおり主人公が最後まで生きる望みを失わなかったことだろう。男は飢えにさいなまれたうえ幻覚にも見舞われる。だが死を安寧の境地として受け入れることを頑なに拒否しつづける。幻覚にときおりは支配されながらも生きているという自覚は失われない。生きるとは身体を動かすこと、前へ前へ進むこと、力が残っているかぎりはそれをふりしぼって文字どおり這ってでも進んでいく。それができるうちは死ぬことはない。だからあえて死を受け入れることはないと言うように。身体が動かなくなったときが死ぬときにちがいない。そのときまでは男は現実のなかでも幻覚の中でも「生きる」のだ。

 季節は夏で、砂金採りに仲間と一緒に出かけて成果をあげて帰る途中だった。男は足をくじいてしまい、ビルという仲間から見放された。食糧が尽きていてその隠し場所の中継地点まで早くたどり着かなくてはならない。ビルは男をかばうことなく目的地へ歩を進めた。ついてくるならついて来いという態度だ。それから男の苦難がはじまる。夏だから凍傷が襲ってくることはないし、毛布にくるまって野営もできる。つまりは気候によって死に突き落とされることはないのだ。問題は食糧だ。男はミズゴケと呼ばれる苔や小魚をバケツですくって食べて最低限の食べ物にありつくものの、空腹がどんどん攻めてくる。刺すような痛みであり、やがてそれは重い疲労に変わる。また足首の負傷の痛みも増してくる。おりを見ては焚き火をして暖をとり湯を沸かして飲む。

 食べられそうなものが眼に入れば口に入れてしまう、まずい植物、そして雷鳥の雛。ガツガツ食う。親鳥がそれを見つけて怒るが男は石を投げる。それが幸いにも当たるがとどめをさすほどではなく、飛べずに這って逃げる。男も追いかけるが足がいうことを利かない。このあたりは映像がすぐれて眼に浮かぶ。まるで現場に居あわせるような迫力がある。さらにカリブー(トナカイ)の群れにも遭遇するが、ライフルに弾がない。ここから男の幻覚がはじまる。一発だけ弾倉に残っていると思い込んでライフルを取り出すのだ。カリブーの肉の美味さを思い浮かべながら。そのときは弾がないと合点してもしばらく時が経過するとまたしてもライフルを取り出すというように幻覚はつづく。最後には弾がないことを確認するためにライフルを取り出す。わざわざそんなことをするのは幻覚が幻覚であることを確認するためだろうか。

 私にはこれほどの空腹や疲労困憊におちいった体験はないが、地図もめぼしい目印になるものもないので道に迷うのは当たり前のように思える。南へ下るつもりが男は北へ向かって歩いてしまう。ただただ男は立ち止まることなく歩くのだ。男を幻想に一方的にいざなわせないのは「生への執着」といえば大まかにいえばそのとおりだが、ここで補うと、遭遇する獣への身の毛のよだつような恐怖が「生への執着」に走らせるということを記しておかなければならない。幻想を断ち切るのは視野にとびこんでくる現実、現実の単調でつらい継続にぼんやりしてしまいさまよいこむのが幻想だ。
 

三十分どうにか歩きつづけてきたところで、幻覚が戻ってきた。彼はふたたびそれと戦ったが、なおも幻覚は消えなかった。やがて、もう耐えきれなくなって、弾などないのだと確かめるためにライフルを開けた。何度か、頭はさらに遠くまでさまよい出ていった。男はただの自動人形と化して、ひたすら歩きつづけた。奇怪な思いや突拍子もない考えが蛆虫のように脳を蝕んだ。とはいえ、こうした現実からの離脱は、いつもごく短時間しか続かなかった。胃を齧る空腹の痛みにじき呼び戻されるのだ。一度、目の前に現われた光景に驚いて、そうした離脱から乱暴に引き戻され、危うく卒倒しそうになった。ふらつき、よろめき、酔っ払いが倒れまいとするみたいに体を揺らした。目の前に、馬が一頭立っていたのだ。馬!(p227)


 まもなく、これは馬ではなく熊であることがわかる。そのときの恐怖といったらないだろう。だが男は熊の習性を本能的に思い出したのか。逃げれば追いかけてくるに決まっているし、その足では逃げられるはずもない。またしても男はライフルを取り出そうとするが、思い直してナイフをとりだす。「恐怖のもたらす勇敢さから生気を得て」獰猛なうなり声をあげる。熊も同じくうなるが、横にそれていく。たぶんこれはジャック・ロンドンの体験でなければ彼にとっての信用に足りる見聞であるだろう。恐怖が恐怖であることを電気ショックのように知らされたとき、ふりしぼるような大声がひとりでに出てしまうことはありうるのではないか。私にそれができるかどうかはわからないが。

 さらに今一度男は獣に出会う。病気の狼で男の衰弱を待って食べようと付きまとう。男には追い払う体力もない。頬をざらつく舌で舐められたり、眠っている最中に手に牙を当てられて眼を覚ますところなど、迫真的だ。狼を間近で目撃している気になる。ここでまたロンドンは書き込む。恐怖はべったりした同じ質ではない。
 

元気な狼だったら、男としてもそれほど気にならなかっただろう。だが、あのおぞましい、死んだも同然の奴の胃袋に収まるかと思うと、たまらなく嫌だった。この期に及んで、男はえり好みをしていたのである。頭がまた朦朧としてきて、幻覚に悩まされはじめ、明晰な時間はだんだん稀に、短くなっていった。(p236)


恐怖から抜けきれたのではないものの少し余裕が出てきて、病気の弱った獣への負けん気、不潔感につうじる嫌悪感へと変わっている。「えり好み」という言葉も秀逸だ。この辺の筆力は並ではない。

 結末は男はハドソン湾に停泊していた捕鯨船に救われるが、最後には膝も利かない状態で「芋虫」のように這ってのろのろ進んだ。自分が這ったコースを堂々めぐりして、自分の来た道だと理解できずにビルがとおった跡だと錯覚するのは痛々しい。これは幻覚というよりも識別能力が劣化したゆえの錯覚と解すべきだろう。それから熊や狼だが、これは小説上の「事実」になっているが、男の幻覚だと強引に解釈することも不可能ではない気がする。外部の現実から恐怖や刺激はおそってくるが、内部の夢や幻覚からもそれがおそってこないともかぎらない。

 「火を熾す」では主人公はいったんは死を受け入れたものの夢の中では生き返った。本作「生への執着」では、恐怖心がたえず主人公を目覚めさせた。人間は思いのほか頑丈にできている。そういう人間に備わっているであろう豊かさの本源に遡り、切り拓いていくことがジャック・ロンドンの作家的夢だったであろうか。


火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)
(2008/10/02)
ジャック・ロンドン

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ジャック・ロンドン「火を熾す」

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)
(2008/10/02)
ジャック・ロンドン

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 肉体を鍛えること、または鍛える鍛えないにかかわらず死に近接する苛酷な自然に肉体がいきなりのように投げ込まれること、それらの際の人間の反応にジャック・ロンドン(1876~1916)という人はたいへんな興味を示した。反応は一様ではない。結果だけみても、たとえばボクシングのような格闘競技なら勝つか負けるかというちがいがある。厳しい自然なら生還を果せるかそこで死に絶えてしまうかという重大なちがいがある。だがそういう個々のちがいを超えて、当の人間は否応なく何らかの変化をこうむる、背後にしてきた日常生活ではえられそうもない変化を体得する、ここにロンドンは意義をみいだそうとした。そういう変化を当人が望むかどうかは別問題である。また変化の中身もおのずから一様ではない。持てる肉体の力をすべてを出し尽くしたとき、人は獣や原始に接近することができるのかもしれない。また、あっけなく死んでしまう場合でも、その直前に何らかの幻想に引き込まれて死さえ忘れるほどの心地よさに到達するものかもしれない……。つまりロンドンはロンドン流の非日常性を射程に入れつつそこでのたうち回る人間の実相をたどりながら、それらを人間の理想像の糧としようとした人ではないかと思う。

 ロンドンの伝記的事実は彼の翻訳小説の解説文で書かれたわずかなこと以上は知らないが、なんでも家が貧しかったらしく十代前半からすでに就業させられたそうだ。ゴールドラッシュに沸くカナダ・北極圏にも行った、遠洋漁業船にも同乗した。非インテリということになるが、文学・思想関連は独学で追究した。先に書いたような「肉体の非日常性」への並々ならぬ関心は、したがって彼の体験と見聞にもとづいている。書くならばそこから出発する以外は考えられなかったであろう。危機を間一髪で逃れたことがほんとうにあったかどうかはわからないが、まるでその現場に居合わせたような臨場感にあふれている。

 「火を熾す」はカナダ北部の冬の凍原を単独で踏破しようとする男の話だ。白一色の世界。春になると起こるであろう流木の調査のためで、犬を道連れにして1日の行程で仲間のいる採鉱場へ着く予定だった。利益追求のためであろうか。「古参」の男には止めるようにたしなめられたのだが、ふりきってしまった。だが気候の厳しさによって男は自分の行動の無謀さをたちまち知らされることになる。忠告を聞いたらよかったと悔やむ。「華氏零下50度」(翻訳者柴田元幸の註によると摂氏零下約45,6度)乃至それ以下の極寒にさらされるからだ。たとえば、唾を吐くと着地するまえに霜状に凍ってしまう。噛み煙草で変色した唾液は口の周囲で髭にまつわりついて黄色く凍りつく。吐息もたちまち霧になり顔にはりついて凍る。それだけだったら落語みたいだが、凍傷が無慈悲な早さで彼をおそってくるのだ。用心しいしい、氷や雪の下に流れる水に足をとられまいとして犬を先導させて歩を進めるのだが、やはり犬はザブンとやってしまう。犬を助け出さなければならない。だが手袋を脱ぐとたちまち凍傷がおそってくる。すばやく火を熾して、手足を暖めなければならない。手袋や靴下や鹿革靴(モカシン)を苦労して脱ぐが、指先がすでにいうことが効かなくなっている。自分の身体で指先をたたいて感覚をとりもどそうとする。少しはましになったような気になるがまったくの回復ではない。こういうところは私には未知の世界だが、凍傷のおそろしさはリアルに感じられる。いったん発生してしまうとテンポはどうであれ不可逆的に進行する。火は回復の特効薬ではない。進行を少し遅らせ、症状をほんの少し和らげるだけのようだ。

 マッチが勿体ない。指先が麻痺して一本一本取り出せないので、束にして手首の当たりにはさんで靴で擦るという回りくどい所作でやっと発火させることに成功する。草や木の枝を集めてきて暖をとるのだが、この火が何と消滅してしまう。エゾマツの下で火を焚いたからで枝に蓄えられていた雪が落下して火に当たったからだ。それからの男はしだいに冷静さを失っていく。無論冷静であろうと務めて現実に急接近した死を頭からふりはらうのだが、感覚の麻痺によって今一度火を作ることができないのだ。犬を殺してその死体に入って暖をとろうという考えも浮かぶ。突飛ではなくそういう話を知人から聞いていた。だが犬の直感は鋭く、すぐさま男の心の異変を嗅ぎ取って警戒する。男のほうは考えを捨てるのではないが、やはり感覚の麻痺で手に力がない状態でとてもそんなことはできないことを知らされる。
 

鈍い、重苦しい、死の恐怖が湧いてきた。いまやもう手足の指が凍るとか手足を失くすとかいう話ではなく、生きるか死ぬかの話であって、しかも情勢は自分に不利なのだと思い当たり、恐怖は一気に高まっていった。体はパニックに陥り、男は身を翻して、道筋もはっきりしない道沿いに川床を駆けていった。犬も仲間に加わってうしろから遅れずについてきた。男は何も見ず、何の意図もなく、今まで味わったことのない恐怖に包まれて走った。(p28~29)


 主人公に危機が訪れているにもかかわらず、私は白一色の極寒の地での人間の必死の営み、その細部のいちいちに引き込まれた。またロンドンは男ににわかに生起する恐怖や狂気、孤独、寂しさといったものを驚くほどの冷静さで筆に収めることに成功している。ロンドンにとっては読者を引き込むことは勿論、自分にとっても主人公の心身の変化はたいへん重要な事だ。こういう場所に身をおくことのできない身の私には不遜だが、逆に別天地のような輝きすら帯びて見えてしまう。読書の快感だ。やはりそれはこの短編の勝利の証とすべきであろう。

 主人公はついに死を受け入れようとして眠りにつく。もはや体力の限界を知って採鉱地にはたどりつけないと悟ったからだ。どうせ死ぬとわかれば安らかに受けいれたほうが楽なのか、私には確信はないがそんな気もする。しだいに朦朧となる意識の中で男は、自分の肉体から魂が抜け出して仲間とともに自分を探す「もう一人の自分」になった気になる。この心の変化は私にはたいへん自然なことに受けとれる。死もふくんだ自然界との融合をロンドンは目指したのか。そこはわからないが、先走って書けば、少なくとも肉体の危機をつうじて人間はその幅を拡張することができる。人間にはまだまだ知られざる側面があってそれを眠らせている。それを引き出して鍛えること、また鍛えられることに彼は意義をみいだそうとした。人間の理想像をさえ、そこに構築しようとしたのではないか。

 仲間たちが翌日自分の体を見つける姿を男は思い描いた。不意に、自分も彼らと一緒になって、道を進みながら自分自身を探していた。そして、依然彼らと一緒のまま、道の折れ目を曲がって、雪のなかに横たわっている自分自身に行きあたった。男はもはや自分自身には属していなかった。いますでに自分の外にいて、仲間たちと一緒に立ち、雪にうもれた自分を見ているのだ。こいつはたしかに寒いな、そう思った。国内に帰ったら、本当の寒さとはどういうものか、みんなに教えてやれる。そうした考えから、思いはやがて、サルファー・クリークの古参の幻影へと流れていった。暖かそうに、心地よさげにパイプをふかしている古参の姿がこの上なくはっきり見えた。(p31)


 人間は死に臨んだとき、死をひとりでに忘れてしまえるものかもしれない。そういうことがここには書かれている。死こそが安寧だといくら思い定めてもやはり人は死を根本的に厭う存在なのではないか。だからこそ意志しないままに死を忘れることができる。人間の幻想には自衛作用が備わっている、それが人間の中の「自然」であれば、たのもしいことだ。主人公は引用した部分で、まず自分ではない仲間の一員となり、そこで生き返った心地をえてふたたび本来の「生きた」自分にもどる。こういう過程を経る。読んで、何かしらふわりとした安心感をうることができる。

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