大洋ボート

シンシナティキッド(1965/アメリカ)

シンシナティ・キッドシンシナティ・キッド
(2008/10/08)
スティーブ・マックィーンエドワード・G・ロビンソン

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 成長いちじるしいカードのギャンブラー、スティーヴ・マックイーンが、その道では全米に名をとどろかせる老練ギャンブラー、エドワード・G・ロビンソンに挑戦するという話。

 私にはスティーヴ・マックイーンは都会っ子のイメージ、つまりやんちゃで身のこなしが良くインテリではないが生活力はあるという印象があって、こういう役柄はうってつけだと思った。この映画の皮ジャンなんかは彼によく似合う。地元の町シンシナティで名が知れわたってきて子供からもあこがれの的。黒人の少年が彼を見かけてはコインを利用しての小さなギャンブルに引き込むところが、面白い。彼が面倒くさがらずに子供の相手になるのは、そこにかつての自分の姿をみるからだろうか。対するエドワード・G・ロビンソンは引き締まった表情でどっしりと構える。動きが少ないのだが、それは表情もふくめて無駄な動きを意識的にそぎ落としたかのように見えてしまう。これまた子供が、また大人でさえもあこがれを持って眺めても不思議ではない姿だ。ホテルのレストランで、生牡蠣をペロリと貝殻から直に口に持っていくところなんか絵になる。

 二人の勝負をお膳立てするのがカール・マルデンで、かつては自分もギャンブラーだったが、今はディーラーをもっぱらとするようだ。だが彼は八百長を知り合いの富豪から依頼されて悩みの種になる。その男がロビンソンと勝負して、こっぴどく負かされて腹に据えかねているからだ。ロビンソンに一泡吹かせたいのだ。またマルデン自身もマックイーンに勝たせてやりたいと願っている。勝負の最中にマックイーンにその仕草を見つけられて控え室で抗議を受けると、それで八百長は中止される。だが、実力で勝ってみせなければというプレッシャーがマックイーンを知らず知らず蝕んでいく。この辺が勝負のあやというのか興味深いところだ。この勝負、二日も三日もつづけられるので体力勝負でもある。ポール・ニューマン主演の『ハスラー』を思い出させる。小刻みに勝利をかさねるマックイーンであったが……。

 前半ではマックイーンの私生活を中心に人間関係が描かれる。浮き沈みのはげしいギャンブラーの生活をきらってか、同棲中の恋人は彼のもとを去っていく。一方、カール・マルデンの妻アン・マーグレットは真面目で堅物の夫に飽き足らず、マックイーンに誘惑の手を伸ばす、という風に。退屈さは少しはあるが、くどい描写ではない。
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ワルキューレ

 実際にあったというヒトラー暗殺未遂事件をベースにしているが、さして面白くない。最近のテレビでみかける「再現ドラマ」を映画の世界で予算規模を大きくしてやって見せたといえば酷評に過ぎるだろうか。

 トム・クルーズ(シュタウフェンベルク大佐)はアフリカ戦線で左目を失明する重症を負ったことがきっかけで、ヒトラー体制打倒を決意するが、その心の転回があまりにもあっさりと描かれてはいないか。軍人の眼にはドイツが敗色濃厚であることは、たしかに一般国民よりはよく見通せたのだろう。だが、まだまだ士気旺盛であっただろうドイツ国民全体から見るとトムの決断と行動は裏切りだ。また、しくじれば自分は勿論、家族の生命もついえることも承知だろう。だがそれらの敷居をまたごうとするときの悩みや恐怖がずいぶんと省略されている。もしかしたら今日既に定着して久しいヒトラー=巨悪という歴史観に依拠して、それを当時のドイツにそのまま移行させたうえで反逆は当たり前のことだと製作者はいいたいのだろうか。勿論そんなことはなく、暗殺・クーデター計画への参加者は自分たちなりに考え抜いたうえでの決断だったにちがいない。そういうことがこの映画からはほんの少ししかうかがえない。

 近年『白薔薇の祈り』というすぐれたドイツ映画があった。少数の学生組織のメンバーが大学内で反戦ビラを撒いて逮捕され、あえなく処刑されてしまうという筋書きだが、彼等の反逆の動機がたいへんに説得力をともなって描かれていた。アメリカの音楽がたまらなく好きなことかから出発して、やがてその政治制度や文化も吸収していくという経路を彼等はたどった。連合軍の爆撃機さえあこがれの眼を持ってまぶしく見上げたのだ。

 『ワルキューレ』はそのへんははしょって作戦計画の構築と実行を、トムの視線を中心にして経過どおり順番にたどっていく。トムが中心だからトムと他の人物との距離の遠近がそのまま頼りになる同志、日和見主義者、中立派、敵という風に色分けされて見えてしまい、なんだか平板だ。ヒトラー山荘でのヒトラーも交えた最高幹部会議にトムも参加するまでにこぎつける。そこに書類鞄に偽装した爆弾を置いて起爆装置をセットして脱出するのだが、このあたりはさすがにスリルはある。だがそれまでずっと音楽が煽情的に過ぎるのがどうかなと思わざるをえない。不満や疑問はまだまだあるが、この辺にしておきます。
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チェンジリング

 北朝鮮に誘拐拉致された横田めぐみさんのことを思い出した。かの国の公式発表ではめぐみさんは既に死亡したことになっているが、ご両親は生存の希望を捨てていない。送られてきた「遺骨」がDND鑑定の結果別人のものだと断定されたのをはじめ、「死亡」情報がことごとく未確認かつ信用できないものであるからだ。ご両親はなにがなんでも死亡説を排斥するのではないと思う。情報が確実なものでないかぎり、みずから諦めることはしないのだ。当然とはいえ、忍耐強い立派な態度表明だと思う。それと誘拐された直後のめぐみさんの写真が北朝鮮によって公開されたときは、なにかしら暗闇に灯りが一瞬ぽっとともったような気になった。その写真によって少なくともその期間だけは生きていたことが如実に証明されたからだし、空白が一部埋められたからだ。外側から見てもそのときにご両親にはたらいたであろう感動を思うと、肉親の情というものがたいへん神々しいものに見えた。手をのばせば我が子をつかまえられそうな気がしたのではないか。あまり詮索するのも失礼になってしまうが……。

 とにかく、私はこの映画の主人公アンジェリーナ・ジョリー演じるシングルマザーに横田さん親子に対するとまったく同質の思い入れをさせられた。最後近くで誘拐された息子の行動が鮮明にあかされる場面では何度も書くが、北朝鮮に渡った直後のめぐみさんの写真を連想せずにはいられなかった。またアンジェリーナ・ジョリーは誘拐され行方不明となった息子の生存を生涯かけて信じようとする。それを彼女は「希望」という。ここも横田夫妻と同じなのだ。

 クリント・イーストウッド監督の映画作りは今回もまたたいへん巧みだ。二転三転するストーリー展開も流れる水のようで全く無理がない。つまずくところがなく驚きのパンチを浴びせられながらどんどん吸い込まれていく。誘拐された息子が無事保護されたとの知らせを受けてとんでいくアンジーだが、息子ではなくまったく別の子供だ。押し付けられるようにその子を引き取ったものの、当然我慢ならない彼女は担当の警察に猛抗議する。しかしながら警察は頑として相手にしない。まったくあきれるばかりの対応だが、それだけにとどまらずアンジーを精神病院に強制入院させてしまうのだ。さらに一見まったく別の物語があらたに進行する。少年を大人数誘拐し殺害する殺人鬼の話で、まさに身の毛がよだつ世界だ。

 時代は一九二〇年代後半でマヒィアが幅を利かせていた時代だからだろうか。映画に描かれた警察の腐敗ぶりは眼にあまる。教会やマスコミが批判精神を持ち合わせていたことがせめてもの救いであり、共産主義ソ連よりはましということになるのか。また組織全体が腐敗に染まっていればそのなかの個人も引きずられる。上司の命令にしたがうことが仕事の遂行だと合点して特に疑わなければ「良心の呵責」など微塵も感じられなくなる。この映画の警察は手柄をでっちあげたかったようだ。そこに綻びが見えはじめても官僚機構の悪弊で、一旦公にくだした判断はよほどの大きい圧力が加わらないかぎりは変更しない。どっぷり漬かってしまうと悪事をやらかしているという意識すらなくなるのか。担当警部の俳優は、これらのことを想起させて好演だった。

 好演といえば、つねに浮ついた態度から抜け出せない、またそれだけ切れやすそうな死刑囚もそうだし、なによりも子役俳優だ。子供は大人よりも弱い、抵抗できない。だが大人の無慈悲な要求に屈する一方で、抵抗心だけは失いまいとする。罪の意識も持っている。恐怖によって計算によって、やむなく彼等は大人にしたがうが、不服従の意識はたえず大事にしているのではないか。生き残った少年たちは、事件によって計りしれない重いものを背負わされた。だが同時にそれに対して、彼等は意識的に歯向かっていく長い時間がのこされたのだ。その作業もまた彼等にとって、映画を見た私たちにとって「希望」といえる。

    23:31 | Trackback : 0 | Comment : 1 | Top

チーム・バチスタの栄光(2008/日本)

チーム・バチスタの栄光 [DVD]チーム・バチスタの栄光 [DVD]
(2008/08/08)
竹内結子阿部寛

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 「バチスタ」と呼ばれる最先端の心臓外科手術において、たてつづけに死亡事故が起こった。そこで病院長は心療内科医の竹内結子に調査を命じる。スタッフへの聴き取りを行なうが、事故か故意によるものか、なかなか解明がすすまない。そこへ厚生労働省の役人の阿部寛が乗り込んできて、切れ味鋭い調査をあらためて開始するという話。

 ストーリーよりも「バチスタ手術」に興味を持った。心臓の筋肉が肥大し過ぎるとその伸縮機能に支障が生じる。心臓が血液を出し入れしづらくなるということだ。そこで心臓の筋肉を一部切除して小さくして、のちに縫合する手術を行なう。その直前には麻酔で心拍を一時停止させ、その間人工心肺装置で代替させるという仕組みになっている。全く知らないことなので、医学の進歩にあらためて驚いた次第。もっともこれは映画よりも海堂尊という人の原作に負うところだが。

 真相を知った竹内結子が落ち込んだときに、普段はどうでもいいようなことを愚痴る顔馴染みの外来患者が、逆に竹内を慰めるところはほっとする。日常の世界はありがたい。また犯人が大きいマスクでほとんど隠れた顔のなかから、異様な眼の光を一瞬さらけ出すところも印象に残った。(ということは事故ではなく故意によるものです。ネタばれになってしまった。)結論に達するまでにほかの問題点も洗い出されるのも鮮やか。
    21:33 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

悪癖

考えようとして
空想の桶

ずれるずれる
上滑る
コロのうえの板
のうえの
灯台

坊主頭
麦穂やら
発砲スチロールがくっついて

忘れちゃならない?
記憶を踏みかためて
水色の汗


太鼓
鳴らさないなら
密告をおそれる必要もないのに

内と外の分裂の
白と黒のまだら模様の
からまりあう触手の蛸
だがすべては微弱電波に過ぎない

こちらからあちらへ
あちらからこちらへ両手で掬って
さて何を運ぶのか
スカスカ脳の妄執
男爵芋
もうすぐ死ぬ運命ですね

ずれるずれる上滑る
コロのうえの板
のうえの義務
灯台

他の人に考えてもらいましょう
空想の桶
ひと汗掻いて寝る
    22:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

鏡がぶつぶつ言う
おまえをひっかついで
崖の突端まで駆けていってやった
おれの全身に映った
大股を開いた海と空
見ただろう
それなのに
おまえときたら
おれの全身に映すのは
おまえ自身の寂し気な姿ばかり
午前3時

  派生するリズム
  空想の物語
  生でも死でもない「永遠の生命」は
  生でも死でもないので
  さらに地底の太鼓の響きにそそのかされる
  
あのとき見た
大股をひらいた海と空は
おれたちの凝結した力以上の力
雲がいきなり酸性雨を降らせようとも
おれたちが間違っていようとも
幻の中心
すがすがしかったぜ
それなのに
おまえときたら……
鏡がぶつぶつ言う
午前3時
男ひとりのぽつんとした姿に向かって

    00:56 | Trackback : 0 | Comment : 3 | Top

セブン(1995/アメリカ)

セブン [DVD]セブン [DVD]
(2007/11/02)
ケビン・スペイシーグウィネス・パルトロウ

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 猟奇的連続殺人事件がテーマだが、やがて明らかになる犯人像にかなり違和感をおぼえた。ちょっとちがうんじゃないかというのが第一印象だ。犯人はサイコパスであるようだし、それとともに動物的なエネルギーをもてあますくらいの行動性ゆたかな人間、あるいは異常なまでのいたずら好きな、つまり殺人をもいたずら視しておもしろがる人間ではないか、そういう推察を前半部において私はしたのだが、見事に肩透かしを食らった感じがした。思想的な意味では確信犯にあたることは私の推察どおりであったが、犯人はまるで落ち着き払って静か過ぎる。というよりも抜け殻そのものだ。連続殺人はもとより、刑事のブラッド・ピットと銃撃戦を演じて街中を走り回るのだが、そんなエネルギッシュな行動のかけらもこの犯人からはうかがえないのだ。また、それ以前に、こんな大仕掛けな連続殺人をたった一人ですべてやりぬいてしまうことに、映画とはいえたいへんな不自然さを抱かざるをえなかった。黒沢明監督の名作『天国と地獄』では犯人は複数だったが、何の違和感もなかったのを思い出す。

 とはいえ前半部はたいへんに新鮮かつ衝撃的で、百点満点に近い出来だと思う。とりわけ最初の事件の被害者の惨状は「猟奇」そのもので、十分に顔をしかめさせるものがある。保存された殺害現場におもむくブラッド・ピットとモーガン・フリーマンの両刑事だが、真っ暗闇の部屋の中を懐中電灯で照らし出す。それがおそるおそるでもないが、視聴者はそんな感情を自然に呼び覚まされる。椅子に座らされてテーブルのスパゲッティの皿に顔をつっこんだ状態での死である。さらにテーブルの下を懐中電灯の光がさぐっていくと両手と両足がチェーンで縛られている。解剖所見によると死因はスパゲッティを咽喉につまらせたことにある。当然事故ではなく、犯人に「これでもかこれでもか」という具合にスパゲッティを食べさせられた、つまり過食の拷問にかかったのだ。被害者はスパゲッティが大好きな大食漢でいちじるしく肥満していた。棚にはスパゲッティ用のソースの大きな缶が並べられてあった。なんとも凝りに凝った殺人の態様である。犯人は何を意図してのうえなのか、さっぱりわからない。それだけに興味津々といったところ。

 第二の殺人において、犯人の意図がおぼろげながら浮かび上がる。被害者は弁護士だが、死体の傍の床に「BLEED」と血染めの大きな文字が記されていたからだ。宗教的教条を意味する言葉で、モーガン・フリーマンは図書館へ行って資料調べにあたると、キリスト教の「七つの大罪」につきあたる。それを当てはめると第一被害者は「暴食」第二被害者は「傲慢」の罪に該当する。ちなみに残る五つの「大罪」は、今調べると「嫉妬」「色欲」「怠惰」「貪欲」「憤怒」であるそうな。

 さらに犯人は捜査陣を愚弄するように暴れまわるのだが、それとともにデヴィッド・フィンチャー監督は両刑事の日常も描く。ブラッド・ピットはその地区への新任で、先輩格のモーガン・フリーマンを自宅に招待して一緒に食事する。ブラッドの妻のグウィネス・パルトロウは引越しからまもない頃で落ち着かない様子だ。その住宅が電車が通過するたび揺れるという設定も、小さな不安を浮き上がらせてうまい。さらにグウィネスは後日モーガンに直接電話をして不安を訴える。私はこれをまったく別の意味に勘ぐった。もうひとつの場面、ブラッドが犯人からの微弱なベルの電話を捜査陣が揃うなかでいち早く聴き取るところと併せて、もしかしたらブラッドが犯人ではないかと疑ったのだ……。そういういわゆる自作自演の映画も多いから。ここはどうか、不安を増幅させる効果をうまくあげているといえないこともないが、反対におもしろくしすぎてクライマックスにおけるネタバレにつながっているともいえるのではないか。

 最初にこの映画に対する不満を記したが、それをのぞけばサスペンスとしては濃密な印象を残す傑作であることはたしかだ。クライマックスの砂漠の場面は一見雑なようだが、終結部のロングショットは、最初の殺害現場の被害者を舐めるようなカメラワークと見事に対をなしている。それに最初の部分のそぼ降る雨。ブラッドが買ったコーヒーの紙コップを見張りの警官に渡して現場に急ぐ。これも印象にのこる。

    01:52 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

カフーを待ちわびて

 マイコという新人女優の発する上品でピュアな空気が素敵だ。そしてそれをとまどいながらもしっかりと受け止める玉山鉄二。真っ青な海と山と緑がうつくしい沖縄の小島の風景。この前半部がものすごくいい。緻密に構成された『おくりびと』よりもこの部分だけをとりだせば、こちらのほうが優れている気さえする。見ておいてよかった。

 玉山鉄二は小さな雑貨店を生業としている。おばあさんと同居しているが、血のつながりはない。おばあさんはユタと呼ばれる地元の祭司で、子供のころ母に捨てられた玉山の面倒を引き受けたようだ。そこへマイコがいきなり「お嫁さんにしてください」と本土からやってくるのだ。玉山は初対面だが、彼が本土に行ったとき、辺鄙な神社に「花嫁募集」の絵馬を飾りつけたのを彼女が見たからだ。名前と住所もそこに明記されていた。玉山は、戸惑うが同時に先に記したようにマイコの発散する上品さにすっかり魅せられる。多くを語らないマイコだから何らかの事情をもっているのかもしれない。それはいずれは聞かなければならないことだ。だが玉山はせっつかない。いぶかるあまり追い返すこともせずに願いどおりに同居することになる。

 玉山鉄二はマイコに恋するが、その感情は大切にしながらも露骨に表現することはない。マイコが抱えるであろう事情を知らないからなのは勿論だが、もうひとつあると思えるのは「女性不信」とまではいかないにせよ、女性に対する不可解な思いだ。それは子供時代に生き別れになった母を思い出すからで、子を捨てて本土の男のもとへ走ったという母親失格にひとしい女性なのだが、玉山にとってはやさしい母の思い出しかなく、何かしら心の原点のようなものとしてある。だから若い女性が傍にいることが母への追憶をいっそう募らせることにもなるわけだ。追憶のなかの若い母である高岡早紀も、やさしいゆったりとした空気をかもしだす。

 つまり、玉山鉄二は女性への不可解さを抱きつつも、それを何とか氷解させようとしてじっくりとマイコと思い出の母に向き合う、そういう時間をたいせつにし、できればその時間を納得できるまで引き伸ばしたいのだ。この思いが玉山鉄二という俳優からよく伝わってくると私は思った。また沖縄のうつくしくゆったりとした風景がそういう主人公の青年の思いにたいへんに似つかわしい。
 
 だがマイコの謎はやがては解かれなければならない。「お嫁さんになりたい」という彼女の思いは嘘ではないらしい。だがなにゆえ彼女はみずからを語らないのか。おりしも島の観光開発の動きがにわかに活発になってくる。土地の買収の話もちらほら。美しい自然を守るだけでは島の貧しさを救うことができない。この現実は受けいれなければならないものだ。「みんなが幸福ななかでおれの幸福がある」という信条をかねてからもつ玉山鉄二は、島の動きに煽られるようにしてある決断を下すのだが……。後半部は、そういう島全体の動きとともにマイコに関する「謎解き」に比重が置かれることになる。ここも十分に腑に落ちる結末ではあるが、映画や小説でよく取りあげられる話でもあり特に目新しさはない。

 カフーとは沖縄方言で、幸せまたはいちばん大切なものというふたつの意味をあわせもつ言葉だという。マイコは夏にふさわしい白の上下を着て、旅行バッグをさげ日傘をかざして島の小道をゆっくりと歩んでくる。まさにカフーがやってくるように見える。
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