大洋ボート

謀議

街灯
待ち合わせの場所の目印
だがあいつも
別のあいつも来なかった

街灯
単に光るだけでは
原色の紙テープの
蛾を寄せつけるだけでは
汚れてしまう
何も語らないならば

おれも少しは汚れたよ
あの地上では
いろいろやってみたが

待ち合わせの場所に来ても
さらっとしたグラニュー糖の手ざわりの
新しさはない
地上と同じ
地上をあやつるからくり装置
であるかもしれない街灯

あいつも
別のあいつも
身体に染みこんだ汚れを
シャワーで
洗い流すことに余念がないのか
真っ直ぐ前を見ているんだろうなあ

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ジャッカルの日(1973/アメリカ)

ジャッカルの日 [DVD]ジャッカルの日 [DVD]
(2009/03/12)
トニー・ブリトンシリル・キューザック

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 一九六〇年代初め、フランスに軍人を中心とするOASという極右の反政府組織があった。アルジェリア独立に反対し、ドゴール大統領の暗殺を何度かくわだてたが未遂に終わった。やがて彼らはジャッカルという暗号名の殺し屋にそれを依頼した……。世界的ベストセラーになったフレデリック・フォーサイスの同名小説が原作だ。当時から十年以上の時を経ての映画製作なので、なまなましさはなく娯楽作として楽しめる。

 映画はジャッカルと、正体不明の彼を追う特命刑事の捜査のつばぜり合いを描いていく。結末は最初からわかっているので(つまりは最終的には暗殺は失敗するので)それまでの過程をいかにスリリングに見せられるかがこの映画の生命だが、なかなかおもしろく、成功している。

 偽造の身分証明書やらパスポートやらの作成、松葉杖に仕込んだ組み立て式狙撃銃の製造、こういうことに関しては、ジャッカルは一流の腕を持った闇の世界の職人にコネクションを持っている。また自身の銃の腕前や変装についてもプロフェッショナルだ。ただただ彼は作成したプランどおりに動いて迷うところがない。口を割りそうな人物だったら即座に殺してしまう。そしてジャッカルを演じるエドワード・フォックスだが、一見痩せ型でニヒルに見えるが、ちょっとスポーツで汗をかこうかというくらいの明るさがにじみ出ている。十分すぎる確信犯だからで、焦燥や恐怖やじめじめしたところがまったくない。こんな人間はたぶんいないのだ。何を考えているかわからない、心理が描けていない、そういう疑問が聞こえてきそうだが、言ってみれば神秘的でさえあるそういうところがかえっておもしろいのだ。彼に思想はない。ただ暗殺に成功して大金を手に入れることだけが眼中にある。だから金さえ積んでくれればどんな依頼だって引き受ける。また、特命刑事の焦燥と執念とエネルギーが交錯する人物像との比較でも味わいある対照を見せてくれる。

 ジャッカルにミスがあったとすれば、投宿したホテルで美人を見つけてナンパすることか。そのためパリへの侵入が随分遅れてしまう結果になる。だがここで視聴者ははじめてのように彼の人間的な側面を見せられて、これもおもしろい。そういうことがあっても彼は自信満々。狭まってきた捜査網も気にすることもない。記念式典に出てきたドゴールを至近距離から見下ろせるビルの何階かの一室にたどり着き、絶好のポジションを確保する……。

 映画はセリフも大事だが、動き(行動)も大事。この映画ではセリフは動き(行動)の補助の役割を忠実に果していて、出しゃばるところがない。そして動きの描写はジャッカルと捜査陣の二つを追いながら、しだいに見事にからまってくる。捜査陣の追跡を間一髪ですりぬけるジャッカル。そこには風の通った後のような印象がある。一連の動きを追う映画は無駄がなく、淀みのない河の流れのように心地よい。
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ディファイアンス

 今さらユダヤ人救出劇なんてと思いながら、カスタマー・レビューに高評価をつける人が多かったので足を運んだ。しかしやはり……という感じだ。

 第二次大戦下、ナチのユダヤ人狩りからかろうじて逃れてきたダニエル・グレイグをはじめとする三兄弟が森で偶然出会う。すでに両親は殺されていた。場所はベラルーシ。やがて迫害から逃れてきたユダヤ人の老若男女の同胞が森のあちこちからつぎつぎに姿をあらわしてくる。ダニエル・グレイグらは逃走のためには足手まといになると、最初は同一行動をためらったが、意を決して全員一緒の逃亡を開始する。その数は最終的には千人を越えた。

 ナチへの復讐を重視するか、それともあくまで逃亡優先か、というような内部の方針をめぐる確執がある。ソ連軍との共同行動をとるために集団を離脱する者もいる。また、食糧がつきかけたときグレイグは思い切って貴重な馬を殺して肉を全員に分ける。うしろめたさに蔽われたグレイグだったが、大喜びする人々を見て、気も晴れる。また、爆弾を投下されて死者が頻出し、ダニエル・グレイグが朦朧となって自信を喪失する場面もある。こういう劇の部分にはたしかにおもしろさはある。集団をリーダーとしてまとめることの難しさ、そこに要求される資質など、考えさせられる材料はある。だが戦車をまじえたナチとの銃撃戦のシーンはどうか、何回かあるが、これが三〇年も四〇年も前の戦争映画のようで工夫がなく、平凡で退屈といわざるをえない。

 巨悪のナチ、虐殺されるユダヤ人という対立図式はすでに歴史的にも映画の中でも定着した。だが現在のユダヤ人国家であるイスラエルはどうか。ナチとまったく同様のことをパレスチナ人にやってはいないだろうか。それを考えると「悲惨なユダヤ人」というこの映画のテーマには乗っていけないどころか反発さえ感じてしまうのだ。今後もときどきは、こうしたユダヤ人の「悲惨」をテーマとした映画はつくられるのかもしれない。しかしパレスチナに密着した映画はメジャーの映画会社は作りそうにない。記録映画など、ほそぼそとした創造はあるにせよ。これもまた映画をとりまく残念な現実だ。
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厳重に監視された列車

 祖父は催眠術師で、向かいくるナチスの戦車に対して堂々と対峙し手をかざして催眠術をかけようとしたが、あえなく轢き殺された。父は地味な駅員だったが、早期に退職し年金生活でのんびりすごした。そして主人公の青年は、祖父よりも父の生き方にあこがれて同じく駅員となる。これがはじまりで、第二次大戦下のナチスに占領されたチェコスロバキアが舞台。(その地が現在のチェコかスロバキアか不明なので、旧国名で表記しておく)戦争中にもかかわらず、おそろしくのんびりした空気に支配されているし、祖父の話は人を食ったようでおもしろい。

 青年にはまもなく乗務員のガールフレンドができるがセックスがうまくいかずに、ホテルに閉じこもって自殺未遂事件を引き起こす。だが映画全体の話の流れは暗くなく、むしろ、あっけらかんとしている。先輩の駅員も駅長も女性に興味津々で、隙を見て駅舎の来賓室に女性を引っぱりこむ始末。意気消沈した青年に対しても、先輩は年上の女性に教えてもらうことを提案する。すっかり真に受けた青年は駅長の妻にそれを頼むことになるが、当然断られる。いくら年上といっても女はすでに初老にさしかかる年齢に見えて、視聴者はこれはダメだなと思わされ、案の定そのとおりになる、という次第だ。そのときの女性の表情がいい。信じられないという気持ちと何を言ってあげたらよいかわからないという当惑とが渾然一体となった、何ともいえない表情に支配される。こういう具合に表情をあまさずカメラに収められるのが映画の強みだろう。

 青年は別の年上の女性を先輩からあてがわれて同じように来賓質でセックスし、巧みにリードされてか成功する。その翌朝の表情は晴れ晴れとして口笛を吹くさまは先輩のそのときのポーズとそっくり。ここもにこりとさせられる。進駐してきたナチスの兵隊も列車で移動中の看護師の集団と目配せしあって、停車中の車内に乗り込んでいく。無論、初対面だ。兵や女性の表情をこのときもカメラはじんわりと掬いとる。じわじわと心理が形成される時間だ。また先輩の駅員が無線係の若い女性に手を出して母親に食ってかかられる話もある。お尻から下肢にかけて駅でつかう判をぺたぺた押したのが証拠となってしまった。裁判所へ、また鉄道を管理する役所の人へ娘を連れて行く母親。

 このように、映画は敵味方関係なく異性とセックスへの執着を丹念にかつ軽妙に描いていく。セックスにかぎらず自分個人の欲望を第一義に置いて追求すること、そこにこそ幸福の基盤があると、イジー・メンツェル監督(「英国王 給仕人に乾杯」)は主張するのだ。同時に、それができてこそ後ろをふりかえることなくさっぱりした心で、政治や戦争に立ち向かえる自信も形成される、そんな落ち着きがあればこのうえないという。駅長やもっと上の役人は親ナチスだが、平駅員は反ナチス。それこそ当然といわんばかりに目配せひとつで合意ができあがる。ナチの軍用列車に爆弾を投下することを先輩に命じられた青年は、あっけないくらいに余裕を持って引き受けてしまう。省略されているが、先輩と主人公は反ナチとして既に結束が出来上がっていたのだ。それゆえの仲のよさだ。そしてまた、祖父のエピソードがここで効いてくるのだ。私は快調なテンポにすっかり乗せられてしまった。

 また、すがすがしい解放感をえた場面が合ったので、記しておきたい。青年がナチ兵に呼ばれて列車の機関室(先頭の位置)に乗せられる。どうなるのか少しはらはらさせられたが、結局は詰問で終わって青年は飛び降りるのだが、それまでの車内から見下ろす風景の何とうつくしいこと、ありふれた家並みや木立、牧場で遊ぶ動物の数匹だが、この肩の荷をおろしたような安堵感は何だろう。それまでは駅舎やときどきそこへ入ってくる列車、また別の室内など、カメラがある位置に静止した視線が中心だったのが、はじめてここで移動体での視線、しかも「見下ろす視線」にわずかの時間、変換するのだ。映像の神秘といえば大げさだが、このすがすがしさは、私にとってはスペインの「海を飛ぶ夢」以来のものだ。


 ところで、イジー・メンツェル監督だが「英国王 給仕人に乾杯」がベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞して日本でもにわかに脚光を浴び始めたらしく、関東方面で彼の作品の特集上映があったようだ。本作もそのひとつで、一九六六年の製作で、アカデミー外国映画賞を受賞した。メンツェルはチェコの人で、旧ソ連圏ヨーロッパの映画監督としてはセルビアのエミール・クストリッツァが有名だが、イジー・メンツェルも彼に勝るとも劣らない名匠だと私は思う。作風も共通するものがある。未公開作も多く、ほとんどDVD化もされていない。全貌に触れてみたいものだ。 

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谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)
(1951/08)
谷崎 潤一郎

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 この小説が書かれたのは昭和十一年(1936)で、前回感想文を書いた「春琴抄」は昭和八年(1933)の作。この二作を比較すると見えてくるものがある。作者谷崎は後者における佐助的人物像を密室状態においてではなく、もっともっと俗世間にまみれた人として生かしてみたかったのではないか。佐助の核心のある部分は継承させながらも、俗世間に似つかわしく、生かしやすくするためにかなりの部分を変容させ、みすぼらしくさせたとしても。

 「春琴抄」においての主人公二人のなれ初めは、盲目の春琴が三味線の師匠の家にかよう案内役を丁稚であった佐助が主人から仰せつかったことである。佐助にとって春琴はこの世でいちばんうつくしい女性であり、ひとめ惚れという言葉でかたづけられないほどの運命を受け止めさせた。佐助にとっては僥倖だった。また春琴にとっても佐助ほどおのれを捨てて奉仕してくれる男はいなかった。以後二人は実質上の夫婦として長くともに暮らしていくことになるが、実家の二人に対する援助と庇護が手厚くつづけられたので、繭のなかにぬくぬくと居つづけることができた。佐助に対してときに苛烈な春琴であったが、佐助は春琴のことのみに腐心できる環境にあった。春琴が賊におそわれて顔に火傷を負ったことが最大の危機だったが、それも佐助がより強い絆をつくりあげて切り抜けた。みずからの目をつぶして盲目になって、春琴の姿を見られなくしたのだ。

 庄造には佐助ほどの意志の求心的強さはないにしても溺愛という共通点がある。かたやうつくしい女性、かたやリリーという名の猫だ。猫といっても馬鹿にしてはならない。本人は大真面目で、猫の相手をするときはそれ以外のことはまったく眼中にないくらい可愛がる。だが庄造は妻と母、つまりは嫁と姑にはさまれての同居生活で、猫に没頭することもままならないなかに暮らさねばならない。ここが佐助と大いにちがうところである。妻の福子が猛烈に嫉妬するからだ。

 はじめのほうに、庄造が小鰺の焼いたのを二杯酢をつけてリリーに食べさせる場面がある。まず自分の口に入れて硬い骨があれば口でつぶしてやってから与えるのだが、猫が背伸びしたり飛び上がったりするくらいの高さにあげてそれを見せるのだ。箸でつまんだりときには口移しで食べさせる。同じ鯵を庄造と猫が口に入れて引っ張り合う場合もある。本人のためのおかずの大部分を猫にくれてしまう庄三だが、それでも彼は大満足で、至福のときだ。第三者的に見れば他愛がないのだろうが、たまらないのは目の前で一連のじゃれあいを見せつけられる妻の福子のほうだ。猫に示すほどの溺愛ぶりを夫はちっとも自分にふりむけてくれない。そんな嫉妬で平静さをうしなう。また私は、ここには小さな動物を異常なまでに可愛がる庄造という人物の大人に成りきれない幼稚な一面を見る気がするが、どうだろうか。

 おりしも、前妻の品子からリリーを譲ってくれないかと懇願する手紙を福子は受け取ったところだった。品子は追い出された形で出ていったので、庄造には未練がある。また置いていった物もある。思い出の形見分けということで猫を欲しがった。さては猫を餌にして庄造をおびき寄せるつもりなのか。そういう気配を察した福子だったが、庄三には行かせずに第三者の塚本という知人を介して譲ってやろうということに決め、嫌がる庄造を強引に説き伏せたのだった。とにもかくにも庄造から猫を引き剥がしたかったのだ。

 庄造は品子を心から嫌がっているらしい。母と張り合うところがどうにも厄介だし、それに手紙の一件でもわかるように奥底に秘めた考えを表面には出さないタイプらしい。素朴な庄造にとって太刀打ちするには荷が重そうだ。品子と庄造の生活がいかなるものであったか、微細な描写は省かれているが、そんなところだろう。

 庄造はぐうたらである。コックの見習いをしたこともあったが、結局は辞めてしまい、母が細々と開いている金物屋をなし崩し的に継いでしまった。世に対する積極的な意志を感じられない男で、ビリヤードに凝ってみたり、安酒場に通ったりと、遊びに流れるタイプらしい。品子とのなれ初めはやはり省かれているが、おそらくは品子のほうが積極的に働いたのだろうか。それにこの男、母性本能をくすぐるところを持つらしい。品子が追い出されたのも、やはり庄造が率先したのではなく、母や福子の父で、二人でほぼ同じ時期に福子と庄造をひっつけたのだ。庄造とは、このように重大な何もかもを身の回りの人に任せてしまう癖の人物で、またそうやって育てられたのでもあろうか。はけ口である唯一の趣味が猫というわけである。ついでに言うと、私も何をしたいという気もなくずるずると実家の仕事を継いでしまった男だから、共通点はあるのだ。母に対する甘えという点はわからないが、仕事に対する不熱心さは共通する。さすがに今どきだから、結婚相手をひっぱってこられてくっついてしまったということはないが。

 それに猫好きといっても、庄造は子供のころからそうだったのではない。辞めたレストランから引き取らせてもらって夢中になってしまったらしい。よく子を産む猫で、その度に痩せて衰える、跳躍力も眼に見えて少なくなる。憐れむ気持ちが自然に湧いてくるが、そんな風に感情を一番かけられるのが彼にとってのリリーなのだ。肉親や世に対して肩身の狭い思いをしても、猫に接すると忘れられる。それとも、自分に対する憐れみをより弱い小さな動物にそっくり移すことによって慰安を得るのか、単に無意識なのか。

 そんな庄造が猫に二回会いに行くが、一回目は欲に負けての衝動的行動だ。知人の塚本は猫の様子をときどき庄造に連絡する約束ができていたがすっかり忘れていて、庄造が気になって塚本を訪ねたついでだった。そこからふらふらと足が品子のいる場所へ向いてしまう。道筋に住む別の知人に小銭と提灯を借りて品子の家(妹の二階を間借りしている)まで歩いていってその裏手に待機し、猫が出てくるのを根気よく待つのだ。読んでいてものすごく惨めっぽい。庄造はその知人の家でフライパンを貸してもらって近くで買った鶏肉をいためて持っていった。自分の腹ごしらえのアンパンもついでに。鶏肉は猫が迷い出てきたときに与えるためだ。裏手には雑草が生い茂り夜露に濡れる。夕刻から夜に入って冷え込んでくる。心まで寒々としてくる。

 二回目は品子の妹にかけあって、彼女のわずかな留守の間に二階に上がって、ついにリリーと対面を果すのだが、猫は品子になついてしまって庄造のことなどまったく知らない存在になってしまっている。部屋にこもる糞の匂いになつかしさがこみあげ、大いに感情を高ぶらせた庄造であったが、同時に惨めさもたっぷり味わう。なんだか、あらためてどん底につきおとされたような気配に支配されるのだ。

考えてみると庄造は、云わば自分の心がらから前の女房を追い出してしまい、この猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、今朝は自分が我が家の閾(しきい)を跨ぐことが出来ないで、ついふらふらと此処へやってきたのであるが、このゴロゴロ云う音を聞きながら、咽(む)せるようなフンシの匂を嗅いでいると、何となく胸が一杯になって、品子モ、リリーも、可哀そうには違いないけれども、誰にもまして可哀そうなのは自分ではないか、自分こそほんとうの宿なしではないかと、そう思われて来るのであった。(p127)


 これはしめくくりの言葉だろう。庄造は自分への思いに行き着いてしまう。自分がいちばん哀れだということに気づいたのだ。『春琴抄』の佐助は春琴を慮ってではなく自分のために眼をつぶした。自分の欲望に忠実にということだが、欲望実現のためにはよほどの意志の強さが必要だ。ある意味で禁欲的姿勢がいる。また環境にも恵まれなければならない。怠惰で市井の人である庄造にはそれらがない。また妥協を強いられる。『春琴抄』の物語は、もしかするとこういうことがありうるかもしれないという「奇跡」を感得させられるが、この『猫と庄造と二人のおんな』は隣近所にありそうな物語だ。欲望と人間との関係をさぐるうえでは両極端をなしている。

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母べえ(2007/日本)

母べえ 通常版 [DVD]母べえ 通常版 [DVD]
(2008/07/25)
吉永小百合坂東三津五郎

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 部分をとりだすよりも、映画全体を流れる張りつめた空気に注目せざるをえなかった。というよりも見終わった直後は部分をよく思い出せなくて困ったというのが正直なところだ。吉永小百合が顔をぐちゃぐちゃにして泣くところはすぐに思い出せるが。

 この映画は戦争の時代を描こうとしている。しかも戦場の真っ只中ではなく本土の一家庭を舞台にすることによって、それをなそうとしている。戦争やそれに関連する法規によって男手が国家にしょっ引かれた、夫で大学教授である坂東三津五郎が治安維持法で逮捕され長く拘留されるのだ。吉永小百合は悲嘆するが、それを見せまいとして明るくけなげに女の子二人のいる家庭を守る。家庭が明るくありつづけることは獄中の夫の願いでもあり、吉永は何事もないようにして日常を過ごそうとする。教え子にあたる浅野忠信や吉永の親戚の壇れいもそのことをよく知っていて明るい顔を忘れずに何かと手伝ってくれる。のちには浅野忠信も戦地に赴くことになるが。

 坂東三津五郎にもしものことがあったらという心配が、吉永ばかりでなく浅野にも壇にも共有されていて、しかもそれを表面上は見せまいとする意識も同じだ。これがセリフや映像のハイライト的な部分によってではなく、映画全体から醸し出される。夫をみずからの手で取りもどすことはできない。その点では吉永は無力である、その時代は同じく誰もが国家体制に対しては無力である。だがしょげてはならない、怒りすぎてもだめだ。ときにそういうことがあっても、すぐに意識を修正しなければならない、できるだけ平静に明るく。だが心の奥底では主要な人物がみんな死の匂いを嗅いでいる……。そういう二重構造の空気の感覚を山田洋二監督は巧みにまた真面目に定着しえている。もっとうまくその美質を表現できないことが、私としてはもどかしいが。俳優連も勿論山田演出の意図を十二分に理解していると見える。

 戦場の地獄絵図を描くことも当然映画の使命としてあるが、下手をすると安っぽい見世物になってしまう。また戦場や大災害の体験者はわが日本では少ないのが実情ではないか、私もそうである。「平和ボケ」はいいことだと思うが、そういう日常の時間帯から戦場の核心を想像することが困難な時代かもしれない。ただいえることは、戦争とは国家が人を拉致して死なしめるもの、しかも大量の人を死なしめるもの、遺された肉親。友人を悲嘆に突き落とすものであるということだ。この範囲では想像できる。その思いをあらたにさせてくれた映画だ。
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英国王 給仕人に乾杯!

 主人公は二人一役だが、若いときのイヴァン・バルネフという人が抜群にいい。軽妙洒脱な作品の空気にぴったりと合っている。いつも明るくにこにこしているが、その笑顔が素敵で無理がない。また一見ひ弱で、古い言い方だが母性本能をくすぐるところもある。大げさに言えば付き合うとこちらも幸福になってしまえそうだ。

 チェコの小さなカフェの給仕人から出発した主人公ヤンは出世の野望を抱いている、また女が好きで、そのふたつの望みを次々にかなえていき、絶頂期には大きなホテルのオーナーにおさまるという話だ。1930年代の平穏な時代から始まり、やがてナチスがチェコを占領するも衰退し戦争が終結するまでという期間が背景だ。戦争というとその惨禍を思い浮かべることが多いが、その周縁部では案外平穏が支配するものなのかもしれない。また治安警察による逮捕や言論弾圧などあっても、まったく無関係に涼しく暮らせる人もいるだろう。ヤンがまさにそういう人物で、彼にとってはナチスの時代が青春であり黄金時代なのだ。こんな風に正直に戦争の時代をふりかえることは、じつは貴重なのだ。時代が同じでも個人よってまさに人の数だけその通過の仕方はちがうということを看過してはならない。それに第二次世界大戦がもはや昔話になったことも、そういう事情を語りやすくしているだろう。

 ヤンは給仕長に顎でつかわれるが、なじみの娼婦が同情してくれて飲み物をいっぱい注文して自分のドレスにかけたり店にぶちまけたりする。代金をきっちり払って退散する。腹いせだが、こういう場面はほほえましい。何故か娼婦と同じように、イヴァン・バルネフに肩を持ってしまう。くどいが、そういう空気をこの俳優はもっている。彼が貧乏時代にえたものはチェコの各地をまわる行商人とのつながりであった。またナチス占領時代以降通貨に比べて価値が減じないであろうと見做した切手を大量に購入したことが成功につながった。この切手を売って大ホテルを手に入れるのだ。まさに、ふんわりとした空気のようなものによって出世と女を獲得していくという過程が、たいへん軽妙に大人の童話みたいに描かれる。

 コインや札や切手が青空に広がりながら昇っていく映像が最初のほうにある。これと同じか応用された映像がときどき繰り出されるのがリズミカルで心地よい。女の裸体にちりばめる雛罌粟(ひなげし)。つぎに付き合った女には札を一枚一枚、自分の裸体にもそれをやって女に見せる。また行商人の真似をして住まいの床に札を並べる。それがどんどん増えていく。また、コインを何枚か人のいるところに故意にばらまく場面が何回かある。路上だったり、レストランの裕福そうな客の前だったりするが、誰もがそろって拾い集める、それを見てイヴァン・バルネは得意そうな笑みを浮かべる。これは金銭に対する自分の欲望が他人にも共通するものかということを確かめたいがためだ。同世代の友人がいない彼はそうやって孤独を慰めるのだ。リズムとしても共通だ。

 ハイライトはチェコに進駐してきたドイツ人の女(ユリア・イェンチ)とのつきあいだ。ドイツ人女性と交合するにふさわしい精子の持ち主か、病院で検査を受けて太鼓判を押されて後のセックスだ。ユリア・イェンチは壁にかかったヒトラーの肖像画を見ながらのぞむ。イヴァン・バルネがかぶさってくるとその顔を押しのけてまでヒトラーに見入る。セックスという私的領域までナチズムで染めてしまおうという精神主義とでもいおうか。イヴァン・バルネにはそんなことは関係ない、セックスさえできればどうでもいいのだ。恋人であれればいいのだ。これは監督のイジー・メンツェルのヒトラー体制に対する風刺であり無化であり、たいへんおもしろいのだが、この場面を見て腹蔵なく笑えるのに随分と年月を要したことも忘れてはなるまい。しかしこの年月の作用はよかった。

 若い女を並べて高級将校を相手にして稼いだ彼のホテルもやがて負傷兵の療養施設に様変わりする。本物の手足を失った男がプールで泳ぐ場面はせつない。イヴァン・バルネはそれをしみじみ眺めてドイツの敗北を予感する。そして敗戦。彼の前には予想だにもしなかった運命が待ち構えていた……。

 最後に年老いたヤン(オルドジフ・カイゼル)が後生大事にしていた切手のコレクションを風にとばす。気持ちよさそうだ。贅沢だった過去を惜しみながら訣別しようとするのか。

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谷崎潤一郎『春琴抄』(2)

 事件が起こるのは、そういう二人の暮らしぶりが安定して長くつづいたのちのことだ。春琴が三七歳のとき、彼女は宅に忍び入った賊に鉄瓶の熱湯をかけられて顔に重度の火傷を負う。作者は賊の正体を明かさない。というよりも、この小説は遺された春琴に関する小冊子を拠り所にするという体裁をとっているので、その本によっては犯人は明らかではないからだ。また犯人探しが作者谷崎の本作における目的でもない。ただ、疑うべき人物の何人かは挙げられている。春琴に言い寄ろうとした某商家の若旦那のことはやや詳しく書かれているが、これも断定的なあつかいではない。春琴が周囲の人々から怨みを買っていたことの説明で十分だとする。それよりも小説の先を急ぎたいがためで、二番目の大きな出来事を間髪を入れずに書かなければならないからだ。

 佐助はみずからの手で針を使って両目をつぶすのだ。ここは何度読んでも字面から眼をそむけられずにはいられない。作者はもんどり打つような痛みではないと記すが悲痛だ。火傷の後が無残にも顔に残ってしまった春琴の、顔を誰よりも身近にいる佐助に見られたくないという心情を痛々しいばかりに忖度したすえの自傷行為だ。佐助は今まで以上に春琴に近づきたかった。情熱の高まりそのものだがやけっぱちという印象はないし、後悔の跡も微塵もない。佐助のその行為を知ったときの春琴の反応とそれを間近で見る佐助の反応は感動的だ。

程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助は此の世に生れてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった〔中略〕それにしても春琴が彼に求めたものは斯くの如きことであった乎(か)過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難に遭った以上お前も盲目になって欲しいと云う意であった乎そこまでは忖度し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短い一語が佐助の耳には喜びに慄えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えてきて唯感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自(おの)ずと会得することが出来た今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めて犇(ひし)と抱き合い一つに流れて行くのを感じた(p65~66)註、句読点の省略は原文のまま


 谷崎潤一郎は佐助の感情に入りこんでいる。春琴の「沈黙の数分間」のなかに彼女のかぎりない感謝と喜びを佐助が見いだす瞬間は、まるで作者その人の感情であるかのように書かれている。そして読者もまたそこに入りこめる。私はこの場面では、身体を内部から硬直させていた何物かがふわっと溶けてしまうような解放感をえた。佐助も女の傍に仕えることができて肉体を抱くことができても、刻苦忍従の側面はついてまわっただろう。いたわられることは少なかった。そこへきての、どんづまりの「沈黙の数分間」だ。こんな「楽しいとき」はない。また、春琴も人間だ。ここまでされたらいくら傲慢で自己本位であっても、感動が起こらないはずはない。春琴自身、人に対して心底から感謝の念にとらえられるのはおそらく初めてにちがいない。身分差を越えてのめしい同士の対等の関係、セックス以上の男女の深いつながり、心と心がひとつになるという至福感、これは想像を超えているが読者はすでに想像させられていて撃たれるのだ。また、壮絶な行為の果てのあらたな結びつきなのだが、谷崎は興奮を自制して適度な冷静さを保って筆を進める。もうひとつ重要な反転があるのだ。

畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼は何処までも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴を以って観念の春琴を呼び起こす媒介としたのであるから対等の関係になることを避けて主従の礼儀を守った(p70)


 佐助がみずから眼をつぶしたのは、佐助自身がだれよりも顔に焼けど跡の残った春琴を見たくなかった、春琴が顔を佐助に見られたくないという心情を慮ったということよりもそちらの理由のほうがもっぱらではなかったか、私はそう読みたいのだ。現実の目の前の春金をみることによって美しかった頃の春琴の面影が消失することをおそれた。それを永続させるためにあえて眼をつぶしたのだと。驕慢な性格も美しかった春琴に分かちがたく付随するもので、そこからも春琴の美しさを偲ぶことができる。佐助は対等の関係を望んだのでもなければ、異常な行為によって春琴の感謝と感激を引き出したかったのでもない。それはそれでありがたかったのだが、もっと深い本能的欲求にもとづいて自傷行為は行なわれた。これは前に引用した部分の谷崎自身による修正にあたるのかもしれない。もっともうつくしい頃の女性像を焦がれて大事にする、見上げる姿勢を維持するために身分差をもあえて固定してそこに身を置く、いかにもこの作家らしいではないか。「観念」という言葉が黒々しく残る。もはや現実の春琴は盲目の佐助の観念境のなかのうつくしい春琴の材料になってしまった。だがやはり彼女には彼女らしくふるまってもらいたかったので、以前にもまして身を粉にして佐助は世話をしたのである。

 佐助の春琴に対する拝跪と愛は、宗教的信仰に似ていなくもない。信仰の対象を絶対視するという点において。しかし対象はすぐ目の前にあってはっきりした像を結んでいる。私は、信仰には理解がおよばないこともあるが、佐助の場合は、神(春琴)が不可視だったり可視だったりと揺れることはない。また佐助は神(春琴)をとおして世界全体を救出しようなどとは思わない、そういうことには興味を持たない。ただ春琴の傍にいつづけて世話を焼けば天にも上る心地がして満足できる。春琴が救われるかどうかは当面不明だとしても、それを目指して労苦に甘んじるとしても、佐助自身は即座に救われる境地に到達できるのではないか。また、うつくしい女は春琴ばかりではないだろうが、佐助はほかの女性には目もくれなかった。これは無理をしているはずなのだが、谷崎の巧妙な筆遣いのためその気配は読みとれない。これはやはり宗教的と呼んでも差し支えあるまい。

 谷崎が描いた佐助と春琴の世界は小さい。佐助の関心がひとりの女性にのみ向き合っていることとそれは吊り合っていて、小さいことに私は不満が残る。だが小さい世界でも、これほどの求心的な人間の行いを説得力を持って紡ぎだした創作物は多くはない。(了)

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谷崎潤一郎『春琴抄』(1)

春琴抄 (新潮文庫)春琴抄 (新潮文庫)
(1951/01)
谷崎 潤一郎

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 フィクションの強さを感じさせる小説だ。人はここまでやってしまうのかと、うならされる。ありそうもない話だが、だからといって遠ざけてしまう気にはなれない。異性に対する考えられないほどの執着があればこその悲痛な行いであり、その行いによって佐助の執着と欲望は完成する。佐助の行為に対しては手放しで礼賛する気にはなれないが、それはそれで一個の人生を自分自身の力で見事に完結させてしまったなと、羨望さえ湧いてきそうである。だが、佐助の春琴に対する執着は、同時に春琴以外のもろもろへの興味、たとえば平安な生活などに対する大いなる断念なしには持ちつづけることができなかった。またそれを断念とも見做さないほど目の前の異性に夢中だったのか。凡庸で移り気な私のような人間にはたいへんな距離がある。

 江戸から明治にかけての時代で、舞台は大阪道修町。鵙屋琴(もずやこと)は裕福な薬種商(薬屋の古称)のもとに二男四女の次女として生を受けた。大きな町人の家では親が子女に稽古事をさせるのが慣わしで、琴も例外ではなかった。舞踊、歌、琴、三味線に早熟な才能を発揮し師匠筋にも認められるところとなった。春琴という号ものちに音曲の師匠からおくられたものである。だがこの少女九歳のときに病をえて失明してしまう。まもなく店に丁稚奉公のため住み込みでやってきたのが温井(ぬくい)佐助で、このとき十三歳。春琴は琴・三味線の稽古をその後も怠らなかったので、佐助が手を引いて師匠の家まで送り迎えを任せられることになった。これが佐助にとっての幸運の、あるいは運命の始まりとなる。佐助の眼に映った春琴ほど盲目であるにもかかわらず、うつくしい女性はいなかったのである。なおかつ彼は三味線の音色にも魅せられて金をためて三味線を購入し、夜奉公人仲間が寝静まった部屋の押入れで稽古するのだ。このとき佐助は稽古にも身を入れるが、同時に盲人の闇の世界にも思いを寄せ、あこがれる。

 まもなく佐助の行いは家の人たちの知るところとなるが、好意的に受けいれられて、春琴が手ほどきをすることに決まって家の一部屋を使う。ここらあたりから春琴の作者いうところの「驕慢」さが剥き出しになってくる。稽古の厳しさが尋常でないのだ。叱咤にとどまらずに罵倒し打擲(ちょうちゃく)する。春琴の師匠である検校の教えもきびしいことは評判でそれをまねたこともあるが、そればかりではなく春琴の生来の「驕慢」、また嗜虐性が露わになったのでもある。兄妹のなかでひとり盲人であったことから、春琴は親にひときわ大事にされて育てられた結果、我儘放題になった、贅沢三昧にもなった。佐助の三味線は筋がいいとのことだが、それでも天才肌の春琴からするとまだるっこしく、醜く映るのだろう。その不快を隠そうともしないで、ぶちまけるのだ。なにも春琴は佐助を忌み嫌っているのではない、むしろ逆で、好きであればあるほど歯がゆい、そこで感情が高じるのだ。教える立場の人が無理難題を弟子に押し付けて、弟子が苦労して呑みこむのを平然として待つ、そういう要素もあるがすべてではない。こういうタイプの女性は確かに居る。相手にこうあってほしいと思うことを傲然と押しつけてくる。相手の反発をおそれはしないのか、いや彼女は自分が好意を寄せられていることを知っているので、ちょっとのことでは反発されないと高を括って意志をぐいぐい押し付けるのだ。逆に相手のほうは真意をはかりかねるだろうし、こういう女性は好き嫌いいずれの場合も人に接するときは態度がほとんど同じなのであろう。

 佐助はどう思ったのか。罵倒され暴力をふるわれて嗚咽の声が部屋の外に漏れることが記される。だが心理描写は省略されている。この世で一番うつくしいと慕う女性にそこまでされて絶望の淵に落ちたのか、そういう瞬間もあっただろうが、なんとか忍び堪えた。また自身の師匠から見た場合の三味線の腕の不甲斐無さに情けなくもなっただろう、師匠の春琴の顔に泥を塗るような思いにも責められたのかもしれない。師匠の真情がつかめない不安も当然強かったにちがいない。また作者は明かさないが佐助にはマゾ嗜好が感じられる。

 春琴のはげしい稽古ぶりはまもなく家の人に知れて、大きな商家としての内外の立場もあり、春琴は大阪市内に一軒家をあてがわれる。月々の生活費も潤沢過ぎるほど実家から贈られるし、春琴の世話役として家人から当然のように佐助が命じられる。そのため佐助は薬屋の仕事を免除される。奉公の末、薬屋としての開業を約束されていたので家人はためらったのであるが、佐助にとっては本望以外の何物でもなかった。何よりも春琴の真情を知ることができたし、これから将来にわたって春琴の傍に居られることを保障されたからだ。その家で春琴はいまだ検校の師匠のところに稽古にかよっているにもかかわらず佐助に加えてあらたに弟子を何人か引き受ける。また佐助はそれまで以上に春琴の身の回りの面倒を見ることになる。女中もいたが、トイレ、入浴、着替え等とくに身に密着を要することはすべて佐助が行なった。食事の際、食べ物を箸でつかんで春琴の口に運ぶのも佐助の役である。うつくしい女性の身の回りの世話をする幸福感、これは男性なら誰でもがくすぐったくも抱くのかもしれず、わかりやすい。

 春琴は実家からはなれて暮らすことになって「驕慢」はさらに増長する。弟子に対する厳しさ、酷薄さは佐助に対すると同様である。バチで顔を打つこともあった。水準以上の稽古代をとり、盆暮れの届け物にも高額を要求した。女中などへの給料は安くし、細かい銭勘定にも口を挟んだ。だが祝儀に際してや人力車夫へのチップをおもいきってはずむなど外面(そとづら)を飾るところが顕著であった。言葉づかいや仕草も上品で、琴・三味線の腕は無論以前からの高い評判のままだったし、美人だったので一目置かれた存在だった。だが書いたような内面の悪さのために、彼女をよく知る人々からは怨みを買うことも多かったのだ。また食道楽は以前から同様で、ほかにも鶯(うぐいす)や雲雀(ひばり)など高価な鳥を飼育して音色を楽しむという贅沢もくわえた。

 それもこれも佐助がやはり傍にいて骨身を削って助力したから成立ったのだが、佐助にしてみればやはり幸福の連続だったであろう。春琴は佐助とのあいだに何人かの子を生むが、近くには置かずすべての子を養子に出して冷然としていた。この実質上夫婦の二人の特徴がここにあらわれている。子供をもつことは邪魔で二人の関係をとおざけることになる、またそれ以前に子供という存在に無関心なのだ。ここまで書いてきた二人からすれば自然のなりゆきといえるだろう。ずっと後に家人が入籍を勧めても佐助は拒んだ。春琴はそういう彼女であっても年齢のかさなりにつれて柔和さを少しは加えて、身分差は気にならなくなり入籍に対する拒否反応はうすらいだのだが、佐助自身が身分差の固定化をむしろ望んだのだ。奉公人と大きな商家の箱入り娘という身分差からくるあこがれ、お傍につかえることさえ勿体ないというへりくだり、というような以前からの心的習癖、そこからくる肉体拝跪の姿勢を何よりも大事にしたのだ。

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