大洋ボート

自虐の詩(2007/日本)

自虐の詩 プレミアム・エディション [DVD]自虐の詩 プレミアム・エディション [DVD]
(2008/03/14)
西田敏行中谷美紀

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 中谷美紀という女優はよく知らないが、たとえば竹内結子と比べると泥臭いところがあるのかもしれない。もっとも、もっと泥臭い人はいっぱいいるので適度なそれと記さなければならない。また、とくに薄幸そうな顔立ちでもなくむしろ快活さがまさっているが、何故か不幸な星のもとに生れた女性を演じると似合う気がする。これは今風の映画の個性と密接に関連している。不幸を絵に書いたようではなく、むしろ楽天的にふるまう、そうすればするほどどつぼに嵌ってしまう、そういう女性が似合うのだ。「嫌われ松子の一生」がそうだったし、この映画もよく似た風味だ。

 学生時代に父が犯罪者となってしまい、中谷は追われるように故郷を出て大阪の新世界(通天閣近辺)にたどりついた。そこで一緒になったのが阿部寛。無口で腕っぷしは強いが、ヤクザと親しくし、ぶらぶらしている。気に入らないことがあればたちまち食卓をひっくり返す、という、どうにもならない男だが、中谷は健気にもついていく。安食堂の給仕をして家計を支えるのだ。今どき、白の上っ張りに白の髪覆いというふた昔も前の定番の姿が面白い。

 古めかしい話だが、コメディっぽい味付けが主に映像によってなされる。嘘ですよ、笑ってくださいよ、と表面的には言いたげで、その狙いは成功している。しかしまるっきり「嘘」として作っているのでもないというバランス感覚がある。――例えば食卓をひっくり返す場面が何度も出てくるが、決まってスローモーションだ。また、中谷が瀕死の重傷を負ったとき、夢の光景が長く映されるが、これがなかなか素敵だ。中谷が娼婦となって街の片隅で客引きをしていると長髪姿の阿部が近づいてくる。後悔している様子だが、中谷はまるで知らない男のように冷たくあしらう。夢のなかだが、実際の物語のつづきのようでせつない。二人並んで故郷の海を眺める場面、これもいい。中谷が快復したとき、阿部が「海を見に行こうな」という。たぶん、うわごとで聴いていたので、この言葉によって夫婦関係も回復するのだろう。学生時代にたった一人味方をしてくれた友達と再会する場面も涙ものだ。冒頭の気仙沼だったか、漁港の風景もうつくしい。
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ワールド・オブ・ライズ

 CIAのエージェント、レオナルド・ディカプリオがヨーロッパ各地で爆破テロをくりかえすアラブ・テロリストグループの頭目を追う。彼をアメリカ本国から携帯電話で指揮命令するのが直属上司のラッセル・クロウ。ときには予告なしで現地に飛んできてレオナルドの前に姿を現す。

力強くてなかなかおもしろい。派手なアクションは勿論だが、映画はレオナルドを中心にして描くので、ラッセルの有無をいわさぬ指令によっての彼の混乱ぶり、現地サポーターはいるとはいえ、イラクやヨルダンの街中で敵方のスパイにつけ狙われる彼の孤立無援ぶり、またCIAに協力するヨルダン治安組織との提携と齟齬、こういうことが生き生きと描かれている。雑踏の雰囲気もカメラはよくとらえている。

 そういう混乱と錯綜のなかで交戦状態におちいった場合、最終判断はレオナルド自身で下さねばならない。例えば、アラブ・テロリストグループから寝返った情報提供者に対する措置だ。はじめはレオナルドはラッセルにその男の保護と亡命を要請するが、その男が元の仲間に拉致されかかった瞬間に銃殺してしまう。自分の情報が漏れることを怖れたからで、ラッセルは、裏切り者は「どうせ死ぬんだから」とレオナルドの行為を擁護しなぐさめる。レオナルドの行為はエージェントとしての本能みたいに見えてうならせる。こういうときは人道主義よりも自己防衛的本能が剥き出しになってしまうのだろう。

 一方のラッセル・クロウは優雅なものだ。命の心配はないうえ、レオナルドを駒のように使って楽しんでいるみたいだ。自宅で幼い男の子にトイレをさせてやりながら携帯で話すのだ。離婚調停中というレオナルドの境遇と比べても、はるかに幸福に見える。

 そんなラッセルが編み出したのが、贋のテログループをでっちあげて例のテログループをおびき寄せるという作戦だ。即席におもいついた様子だが、これが見事にはまる。一昔前なら成りすましの人物を作ってテログループに接近するはずだが、そんなことをしなくとも、小規模の爆破事件を自演自作したうえでネット上にその情報を流せばよいのだ。贋の頭目もまったく無縁の人物になすりつける。情報漏れを防ぐために携帯やパソコンを連絡手段に使わないテログループであっても、情報収集のため閲覧は怠らない。いかにもネット社会の現代らしい作戦だ。また謀略としてはここがいちばん面白いところで、一昔前の映画ならこの作戦を中心にしてきめ細かく作ったのかもしれない。だが作戦の開始を後半にもってきたところは、先に書いたような現地でのCIAエージェントの混乱振りを重視したからだろう。少々あらくても成功した。

 最後にレオナルドが「中東が好きになった」というと、ラッセルは信じられないような、嘲るような表情を浮かべる。レオナルドを本国へ帰還させて「楽」なデスクワークをさせるつもりだったのが、彼はヨルダン永住を決意してしまった。恋人ができたからでもあり、ヨルダンの治安組織のリーダーと信頼関係を築けたからでもある。同時にこれはリドリー・スコット監督はじめ製作者たちのアメリカ人に対する痛烈な挑発的メッセージとしても読みとれた。

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谷崎潤一郎「盲目物語」

吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)
(1951/08)
谷崎 潤一郎

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 織田信長の妹お市の方の悲劇的な後半生がつづられる。この小説が発表された昭和六年ではどうだったかは知らないが、今日では映画、テレビでたびたび取り上げられてきた素材だからご存知の方も多いだろう。その意味では目新しさはない。すなわち、浅井長政、柴田勝家にお市は嫁ぐが、のちに信長や羽柴秀吉によって両者ともに滅ぼされ、お市は勝家とともに自害する。長政とのあいだにもうけた三人の女児のうちの長女茶々はのちに秀吉の側室となり、秀頼を生む、という流れである。なお、お市の長男の万福丸は幼くして信長の命によって秀吉の手によって殺害される。

 語り手は弥市という盲目のあんま師である。小谷城に奉公にあがったが、三味線の腕も達者なことからお市に目をかけられて傍につかえるようになる。弥市の目をとおしたお市は夫想い、子供想いのやさしい立派な女性だ。長政に死への道連れを懇願するが、浅井家の血を絶やさぬようにと子供の養育をたのまれて泣く泣くひきさがる。その思いはのちに勝家とのあいだで実現する。そんな、失意と憔悴がほとんどだったお市に弥市は深い憐憫の情を寄せる。それはまた恋慕そのものでもある。お市にどこまでもついていきたい、地獄までお供したいという気持ちが連綿とつづられる。またそこに、この作家の特徴である肉体拝跪の性向がかさなる。

当時おくがたは二十をふたつみつおこえなされ、四人にあまるお子たちの母御でいらっしゃいましたけれども、根がおうつくしいおかたのうえに、ついぞいままでは苦労という苦労もなされず、あらいかぜにもおあたりなされたことがないのでござりますから、もったいないことながら、そのにくづきのふっくらとしてやわらかなことと申したら、りんずのおめしものをへだてて揉んでおりましても、手ざわりのぐあいがほかのお女中とはまるきりちがっておりました。(p105)


 恋慕といってもあくまでひそやかなもので、それを発展させようというような野心は弥一には当然ながらまるでない。またお市のほうでもそんな弥市の真情を察知しているようでもあり、弥市と過ごす余暇はたのしみであっただろう。

 柴田勝家は賎ケ嶽のたたかいで大敗し、北の庄の城に籠城するがそこも羽柴軍に包囲される。勝家は自害を決意するがそれを前にして盛大な宴会を催す。だがそこには秀吉方の間諜もまぎれこんでいる。お市とその子供を救出せんがためだ。宴会のなかで朝露軒という三味線引きが歌うが、合いの手の音が怪しいことに弥市は感づく。三味線の音は四八音あって、おのおのが「い、ろ、は……」とかな番号がふられているそうだ。三味線にくわしい人なら解るという。その音を文字に移しかえれば次のようになる。

 ほおびがあるぞ
 おくがたをおすくいもおすてだてはないか(p197)

 
 古典芸能の習得に熱心だった谷崎潤一郎らしい、うなるべき場面ではないか。弥市もそれに対して三味線で答え、城内に積まれてあった枯れ枝に火を放ってお市と勝家が上っていった天守閣をめざす。だが火の手がまわって人々が入り乱れて混乱するなかで、彼が何者かから授かったのは茶々であった。弥市が救いたかったのはお市であったが、茶々を救うのもお市の遺志であろうと咄嗟に考え、茶々を背負って城を後にする……。

 男女の片方が盲目で、身分がちがうという点では後の『春琴抄』と共通している。また現代口語文でありながら句点、句読点がめだって少なく擬古典調であることもそうだ。まったく同じ文体とはいえないが。

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サラエボの花(2006/ボスニア・ヘルツェゴビナ)

サラエボの花 [DVD]サラエボの花 [DVD]
(2008/06/06)
ミリャナ・カラノビッチルナ・ミヨビッチ

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 予告編ですでに明らかにされているので書いてもいいだろう。これは旧ユーゴスラビア紛争において収容所で集団レイプされた結果、妊娠し、父親不明の女の子を産んだ女性の話である。「記憶」や負傷だけにとどまるのではない、こういうことも戦火の爪あとをいつまでも生々しい状態のまま「現在」にとどめおく。

 その女性は子供を捨てることなく一人で育て上げた。子供はやがて成長して多感な時期を迎える。中学生だろうか、修学旅行の費用を工面しなければならないが、特別の資格や技能、学歴のない女性は収入が低く、こういうときには苦しい。女の子も母を不審に思うようになる。父親が戦死者や負傷者の場合は、修学旅行の費用を免除、減額されるのだが、母はその申請書を学校に出そうともしない。自分の出生の事情を執拗に知りたがる女の子に対して、母はぶちきれてしまってついにその秘密を明かす……。

 これが話の骨格で、映画作者なら、この秘密の暴露を中盤あたりに持ってきて、それ以後自分なりの構想で物語を綴っていくのが通常かともおもうのだが、この映画は骨格をそのまま投げ出している。作劇よりも「事実」の重さをより際立たせたかったのだろうか。それとも作劇することに対して自信を持てなかったのか。

 事実を知らされた女の子は、自分の出自に対してどう向き合えばよいのか、わからない。寂しさと厳しさが押し寄せてくるばかりだ。そんなとき女の子は自分の手でバリカンを使って髪を刈って、丸坊主にしてしまう。禊(みそぎ)というべきか。人間誰でも落ち込んで途方に暮れたときは、こんなことくらいしかできないのかなあ、と思った。目先を思い切って変えてみる、それで気分転換くらいにはなればいい。

 どうすればいいのか、簡単には答えは出せない。しかし生きていきながら事実に向き合うしかない。事実に負けてはならない。それが母子の共有の認識であり、そのことによっても力を合わせられるのだろう。野や山に雪の残るサラエボの冬の風景とともに、そんな張りつめたものが表現されていた

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バンク・ジョブ

 イギリスの国家統治のあり方、とりわけ国家権力がイギリス王室をいかに守り抜くかという姿勢があざやかに示されている。

 ジェイソン・ステイサムは中古車販売をやっているが、業績があがらず、借金取りから毎日のように脅迫的な催促をされる。そこへ古い女友達サフロン・バロウズから銀行強盗を持ちかけられる。実は彼女は情報機関の息のかかったスパイであるが、ジェイソン・ステイサムはそんなことだとは知らずに、渡りに船と仲間を集めて実行してしまう。銀行の近くの店をつかってトンネルを掘るという古典的な方法だが、まんまと成功。地下の貸金庫に到達する。札束や財宝がざっくざくで、メンバーは大喜び。だがそれらに混じって王室の某王女のスキャンダラスな写真が出てきた。ほかにも売春組織の帳簿があり、そこに群がる政治家、汚職警官などの写真・実名が秘匿され書かれていた。女は王女の写真を回収するために送り込まれたのだった。

 警察が当然動き出すが、それとは別に売春組織を支配する闇の世界のボスや情報組織(MI5,MI6などと呼ばれる)も独自の追跡を開始する。秘密資料をなんとしてでも取り戻そうとしての三つ巴の追跡で、鉢合わせになる場面もあって、おもしろい。情報組織にとっては王女の写真だけが目的で、国家組織であっても政治家のスキャンダルなどは二の次、三の次に過ぎない。ここはきわめてはっきりしている。日本的にいえば「超法規的措置」にあたる手法を用いての犯人グループとの取引も辞さないのだ。ここにイギリスという国の姿勢と選択があざやかに示されている。主犯ジェイソン・ステイサムをはじめ、犯人グループの個々の運命がどうなるかは伏せるとして……。

 思い出したのは、チャールズ皇太子と離婚して王室を離れたダイアナ元妃だ。民間人となった途端にダイアナはパパラッチというフリーの報道記者に追われ、揉みくちゃにされた。それが背景にあってパリ市内で交通事故にあって死亡したのだが、イギリス国家が彼女に対する保護をやめたことも遠因であったといえなくもなかった。そういう悲劇的な事件だった。

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谷崎潤一郎「吉野葛」

吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)
(1951/08)
谷崎 潤一郎

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 主人公の津村は幼いときに他界した母の面影を執拗に追い求める。父もまた母と同時期に相次いで亡くなってしまったが、何故か彼は母を追い求めることしかしない。その理由は明確には説明されない。というよりも幼い頃から身についてしまった本能的な欲求というように読者は理解するしかない。おぼろげに浮かぶのは師匠の検校とともに琴の稽古をしている場面であるが、これとて祖母の可能性もある。残されたのは小さな写真一枚のみ。彼のなかでは、母はいつまでも若く美しい。それはまた将来自分の妻となるであろう女性を探すことと、またそうでなくても若い多くの女性の姿を目の当たりにすることと、なんとも不思議にまたごく自然に重なってしまうことでもある。過去の母の面影も、現在や将来において身近にあるべき女性像もいずれも「未知の女性」として彼のなかで繋がる、希求するうちにほとんど同じになってしまうというのだ。

 私にかぎっていえば、母は八〇歳半ばで健在であるため、母の若いときをことさら思い浮かべるということはしない。したがって津村の心境は即座には理解しがたいというべきだ。だが、とぼしい手がかりをたどっていってついに母の実家にたどりつく場面では、何かしら飢えと寂しさが一気に解消されたような、長いつらい旅をようやく終えたような解放感を分けてもらうことができた。そればかりではなく、厚い外皮が自然に剥がされて自分の裸の皮膚があたたかい大きなものに包まれる感覚に、束の間ひたることさえできた。子宮感覚というのだろうか。津村は、自分のような境遇でなくても同質の心理はいく分かは誰にでも共通すると言う。そうかもしれない、説得力がある。これは津村をとおしての作者谷崎潤一郎の多くの読者に対する自信でもあるだろう。

 この中編小説は昭和六年(一九三一)のものである。時代背景は同時期で、「作者」が友人津村とともに吉野のひなびた村を訪ねていくという展開になっている。「作者」はかねてより南朝伝説を下敷きにした小説をものにしたいという野心をいだいていて、その取材のために津村に案内を請うたのだ。吉野には他にも歌舞伎『義経千本桜』で知られる義経と静御前の伝説があり、事実兄頼朝に追われた義経の一時的な避難場所であった。その歌舞伎に登場する「初音の鼓」という由来ある鼓の所有者を自称する人がいて、そこも共に訪ねることになる。またそのときにはすでに津村は母の実家を探しあてていて親戚づきあいも成立している。津村にも古来の伝説は興味のあるところだが、本来の目的はある依頼を秘めて、そこに「作者」を連れて行くことであった。「作者」は南朝系の末裔である自天王(北山宮)[南北朝合体後の最後の南朝系天皇・後亀山天皇の玄孫(曾孫の子)]をはじめとする南朝にまつわる故事、伝説や義経伝説、さらには歌舞伎、浄瑠璃、地唄などを津村とともに語る。とくに狐に関する古典芸能からの引用が多い。母や何某かの人物に化けた狐が正体を見破られて逃げていく、あるいは狐の皮でつくられた「初音の鼓」をその狐の子が親恋しさのあまり義経の家来に化けて追いかける、というような話だ。ときには津村が語り、ときには津村に代わって作者が語るという自在さである。狐が人に化ける話は、なにかしらこの世からふわりと身が浮いて死の世界をも招き寄せるような玄妙な気分にさせられるものだ。これは津村の母への思慕とふかく結びついている。

 「作者」は自分の小説創作よりも津村の話により強く惹きつけられる。だがともに昔日の人の面影を追跡するということでは共通している。つまりこの小説は二重奏の形式になっていて、津村の母探しが主奏で「作者」のは伴奏の位置となるが、津村の話を「後出し」にすることでたいへんな小説的効果をあげている。また「作者」の小説の目論見が「材料負け」して頓挫することも納得できる。

 津村の家は大阪の島之内(現・大阪市中央区)で代々質屋を営んでいる。姉妹二人は嫁いだため津村が継ぐことになった。祖母が健在だが母のことを聞いても何故か口が重い。ようやくのように聞き出すと、母は遊郭の出身であり、そこから他家へ養子に出されその家から津村の家に輿入れした。口が重いのもうなずける。祖母の死後、津村は母の遺品を土蔵の中から発見するが、そのなかに混じって実母から母あての手紙がたった一枚残されていた。この母にとっての形見の手紙からわかったことは、母の実家は奈良県吉野郡国柄(くず)村(現・吉野郡吉野町大字国柄)というところで、山深く、和紙の製造で知られる村である。姓は「昆布」という珍しいものだが地元では多い。貧窮のため三女であった母は十代前半のときに売られたのである。

 和紙の最終工程は、紙の繊維の混じった白濁液に底が簀状になった木の枠をつけて何回か漉していく。ついで枠に残ったものをとりだして乾燥させるという具合である。これが軒下や山の斜面に並べられる。行われるのは農閑期の冬である。手紙には「此かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるよふにてたんとたんと苦ろふいたし候」とある。厳しい作業だ。津村がはじめてそんな国柄を訪れたときの感慨はごく自然で、心に染みる。

此処が自分の先祖の地だ。自分は今、長いあいだ夢に見ていた母の故郷の土を踏んだ。この悠久な山間の村里は、大方母が生れた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。四十年前の日も、つい昨日の日も、此処では同じに明け、同じに暮れていたのだろう。津村は「昔」と壁一重の隣りへ来た気がした。ほんの一瞬眼をつぶって再び見開けば、何処かその辺の籬(まがき)の内に、母が少女の群れに交じって遊んでいるかも知れなかった。(p61,62)



 母の面影に静かに、吸い寄せられるようにして接近してしまう瞬間だ。もやもやしたものやもどかしさが吹き払われて視界が晴れわたるようだ。感涙に咽ぶのではない。あっけにとられるといえば近いのかもしれないが同じではない。すぐにでも消え去ってしまう感慨を大事に大事にしたいと思わずにはいられない、そんな感慨だろう。手紙に出てくる母の姉の「おりと」という女性も高齢で健在だった。その女性は津村の母から故郷へ送られてきた琴を披露する。高級な品だが、いつどうゆう経緯で母が送ったかはおりとが忘れているため不明だ。琴の外観の説明が微に入って作者によって説明される。そのあと母が往時はめたであろう琴爪を津村もはめてみる場面があるが、ほのかに官能的だ。

琴爪の方は、大分使い込まれたらしく手擦れていたが、嘗て母のかぼそい指が嵌めたであろうそれらの爪を、津村はなつかしさに堪えず自分の小指にあててみた。幼少の折、奥の一と間で品のよい婦人と検校とが「狐噲(こんかい)」を弾いていたあの場面が、一瞬間彼の眼交(まなかい)を掠めた。(p70)



 肉親の情にもとづいているのであろうが、そういう言葉では隠れてしまうもっと秘めやかな、ぞくっとする世界ではないか。確定できないが、このときにはすでに津村の年齢は早折した母を越えている。女性でもある母を津村は意識している。この小説はさらにこのあと、ちょっとした飛躍があるが、それはこれから読むかもしれない読者のために書かずにおこう。母を慕う津村の心性の延長上にあるもの、先に書いた津村が「作者」を母の実家に連れてきた本来の目的そのものである。

    01:26 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

彷徨

裸電球がともる
テント小屋の脳髄を
歩きまわる男
ときにはふわりと浮くこともあり
すべすべの
盛りあがった球形の中心をもとめ
歩きまわる男
むしろずれる箒の先
遠浅の浜の
夜の潮にかすかに触れていて
サイレンの音が
しだいに聴こえてくる

疣のような瞳孔
地面にいちばん近く
無臭の埃のなか
ガラス片がいたずらに光り
男に囁きかける
生地を切り裂くような鼠の鳴き声
場末の哀愁
ネオンサイン
テント小屋のなかでも河は流れる
星屑

濡れたコートのように
かさばって引き摺るのは
大き過ぎるゴム草履
その下はテント小屋の脳髄の地階
地上である

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告発の行方(1988/アメリカ)

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(2006/11/02)
ジョディ・フォスターケリー・マクギリス

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 エンディング・クレジットの直前に「レイプ被害者は六分間に一人」(一日に二四〇人)というテロップが出る。二〇年前の映画だが、現在においてもアメリカ国内ではそれほど実情は変化がないのかもしれない。おそろしい数字である。映画はレイプ事件をめぐる裁判劇。被害者にジョディ・フォスター、犯人と思われる三人を告発する検事補にケリー・マクギリス。

 事件の現場となったのが酒場であることがちょっと信じられない思いがする。入り口付近にバーカウンターがあり、その奥にゲーム機のコーナーがあって、ピンボールマシーンのうえにジョディ・フォスターが仰向けにされて三人に輪姦される。音楽やゲーム機の音がうるさくて悲鳴がかき消される、またバーカウンターのなかにいる店主からは目がとどかないことも考えられるが、大勢の人間がいる店内でこういう事件が起きてしまうことが、いかにもアメリカらしいというのか、治安の悪さを見る思いがする。

 ジョディ・フォスターがレイプ被害の悲しみ、悔しさ、思いどおりに進行しない裁判に対する苛立ちなど一連の感情表現をごく自然に、しかも力強く演じている。この感情が伝わってこそ女性検事補も何とかしてやろうという気持ちになろうというものだ。だが有力な証拠、証人が集められず、ケリー・マクギリスは弁護側との司法取引に応じざるをえず、ターゲットの強姦罪よりも一ランク低い罪で三人は服役することになる。ジョディ・フォスターの側にも不利な材料があった。その酒場での友人との会話において、冗談ではあるが、後に犯人となる大学生と仲良くなりたいと言い、しかもゲーム機の近くで濃厚なダンスをするに至った。レイプはその直後に起きたから、「和姦」と見做されかねない状況だった。

 だがケリー・マクギリスは、現場にいて一部始終を目撃していた証人を見つけ出す。彼の存在に気づくところがあざやかだ。テレビゲーム機にハイレベルの点数を獲得したプレイヤーの名前が履歴として表示されていた。そのなかに事件当日の日付があった……。このプレイヤーを見つけられれば、あらためて服役中の犯人たちを訴えることができる。

 最後の証言の場面では、それに代わって犯行の逐一の状況が映像となって映される。過去にもどって「真実」が暴露されるということだが、たいへんわかりやすい。例外もあるだろうが、このころの映画は今時のようにせかせかしたところがなく、進行がゆっくりしていて私には呑みこみやすい気がする。それに二人の女優の身体的特徴が対照的で、つまりジョディ・フォスターは比較的小柄で、ケリー・マクギリスは大柄で肩幅も広く、これもこの映画を印象づけた。

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