大洋ボート

スピード(1994/アメリカ)

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(2007/11/21)
キアヌ・リーブス

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 いわゆるノンストップ・アクションで、粗さはあるが結構おもしろい。退職警官で爆弾のプロのデニス・ホッパーが路線バスに爆弾を仕掛ける。時速五〇マイル(約八〇キロ)で装置が起動をはじめ、五〇マイル以下になると爆発するという仕掛けになっている。同時に大金も要求する。これをほとんど一人で引き受けて対処するのがSWAT隊員のキアヌ・リーブス。

 すでに運行しているバスを追いかけていって乗り込んで、運転手と乗客に事情を話すことからはじまる。バスはすでに五〇マイル以上で走っているのでそれ以下にスピードを落とすことはできない。そのため五〇マイル以上の猛スピードのままでバスを走らせなければならない。車の台数が多く信号もあるので、こういうことはまず不可能だが、そこは映画。ということでアメリカ映画得意のカーアクションを見せててんやわんやの騒ぎで、やってしまう。途中何人かの人が犠牲になるが、やっとこさ空港にたどりついて同じコースを周回するまでにこぎつける。だが爆破装置を解除しなければ燃料切れによってバスは失速してしまう。そこでキアヌ・リーブス一人だけがバスからはなれて、警察の車輌にロープでつながれた台車に仰向けになって乗る。それでバスの下にもぐりこんで爆破装置に近づく。ここが一番の見所だろうか。

 ほんとうは誰一人バスから降りてはいけないと犯人に釘を刺されているのに何ゆえキアヌだけが降りられたのか。犯人との携帯電話による交渉で許されたのだろうが、そこのところは私は事情を忘れた。だがほかの乗客が降りようとしたときは爆破装置を部分的に作動させてその人は死んだのに、キアヌに対しては何故か甘いのだ。映画のストーリーを引っ張るための強引さを感じてしまう。

 犯人はバス内に監視カメラを設置していて、手に取るように様子がわかる。それを逆手にとって録画映像とすりかえて誤認させるアイデアはあざやかにみえるが、これは「黄金の七人」シリーズの何作目かにすでに使われていた。また犯人が地下鉄車両の屋根上で最期を遂げる場面も「カナディアン・エクスプレス」という作品にまったく同様のものがあったと思う。ケチをつけてみたが、最後まで飽きさせないことは確かだ。
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フィクサー(2007/アメリカ)

フィクサー [DVD]フィクサー [DVD]
(2008/09/26)
シドニー・ポラックジョージ・クルーニー

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 ジョージ・クルーニーは近年油の乗った俳優だ。ときに事態や人物をまっすぐ見つめる。その眼差しは鋭く同時にやさしい。こわくはないのだ。私は別に同性に対してはそのケはないが、もしあったとしたらうっとりするのかもしれない。しかしこの映画自体にはさほど魅力があるとは思えなかった。作品的にも、彼以外の役者連にも。

 クルーニーは大きな法律事務所に属するいわゆる「揉み消し屋」と呼ばれる仕事についている。検事補出身らしいから法律知識は豊富だが、弁護士活動はしない。弁護士が二の足を踏むような揉め事に首を突っこむようだ。映画は軽い精神錯乱をきたした同僚弁護士トム・ウィルキンソンのクルーニーに対する打ち明け話ではじまる。彼は農薬会社からの依頼で、毒性の疑いのある農薬の被害にあった原告団との交渉役をまかされていた。だが仕事は連日長時間にわたる過重なもので、なおかつ原告の被害の深刻さに気づいて同情的になっていく。農薬会社はそんな彼を排除したいが、会社の秘密資料を持つだけに安易にはそれはできない。一方、クルーニーもまた以前から「揉み消し屋」稼業に不熱心で、足を洗いたがっていた。だが副業に挑戦して失敗したりカード賭博で負けたりで借金を抱え込み、思うようにはならない。

 農薬会社の女性重役ティルダ・スィントンが、弁護士と彼に同調するクルーニーに陰謀を差し向ける。これが映画のアクションの部分なのだが、この女性の描き方が不可解だ。自宅でくつろぎながら、鏡を見ながら、会議でのスピーチを練習する場面が執拗に撮られるが、かなりのナルシストであろうということ以上には何も伝わらない。「悪」の何たるかを映像化したかったのかもしれないが、失敗だろう。

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ローマの休日(1953/アメリカ)

ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 [DVD]ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 [DVD]
(2006/05/10)
グレゴリー・ペックオードリー・ヘプバーン

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 これを全編見るのは四〇年ぶりになる。テレビコマーシャルに引用されてお馴染みになっているが、もうそんな時間が経ってしまっていたんだ。そのときは「労映」とかいう商業組織の会員になっていて安い値段で古い映画を月に4本くらいを見ることができた。十代の女性が何故かお客さんの大半を占めていて、若い笑い声を盛んにあげていた。私もつられてよく笑った。今時は映画館は静かなものだが、あれは女子工員の集団か何かだったのだろうか。

 今も昔もこの映画の素敵な印象は変わらない。おとぎ話のような甘酸っぱさだ。ふんわりした夢のような空気がほとんど全編に流れるが、最後にはそこから身を引かなければならないつらさがある。それでも甘さが思い出として強く残る、そんな映画だ。話は簡単。某国の王女のオードリー・ヘップバーンがローマに親善訪問をしていたが、窮屈なスケジュールに息がつまって大使館を夜にこっそり抜け出す。睡眠薬を飲んで朦朧としていたが、新聞記者のグレゴリー・ペックに助けられ、翌日は意気投合してローマの町を舞台にデート。だが恋仲になりかけたところで、オードリーはみずからの地位にようやくのように目覚めて大使館に帰っていく。

 オードリー・ヘップバーンという女優の魅力によってこの映画は成り立っている。おそらくは最初から彼女をイメージして製作されたのだろうから、もし彼女以外の女優が起用されていたなら当然映画の空気が変わったにちがいないが、企画段階からそれはありえなかった。上品さと茶目っ気がひとつの人格にごく自然に合わさって備わっている。しかもそれは現実の荒波に呑まれると無くなってしまいそうな脆い性質のもので、だからこそ貴重で、輝きをもつ。オードリーのそんな特長が結実しているのだ。グレゴリー・ペックの運転していたオートバイに乗って暴走しかけたり、王女オードリーを連れ戻しに来た某国の行動隊の男にギターによる脳天割をかましたり(日本の小林旭よりも早い時期だ!)と、はらはらさせる大活躍。勿論、「真実の口」という彫刻を使ってのペックとのデートの場面も有名だ。それに理髪店でショートヘアーにする場面があるが、その直後化粧のほうも少し変化して、垢抜けしたように見えたがどうだろうか。

 グレゴリー・ペックもオードリーをよく守り立てていい気分みたいだ。話の上で、せっかく手にしかけた特ダネ記事を書かないのは王女への気遣いであることは当然だが、思い出として記憶にとっておきたいためでもあろうか。それにペックに同行するカメラマンもにくい。ふたたび王女に戻った際の記者会見の席で、ライターに擬したカメラを使ってその正体をオードリーに知らせる。そしてそのあとで現像した写真全部をオードリーに返すのだ。

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志賀直哉「城の崎にて」

 志賀直哉は大正二年(一九一三)山の手線の電車にはねられて重傷を負った。病院を退院後、兵庫県の城の崎温泉で三週間の間療養した。本作はそのときのことが題材になっているが、作品の執筆と発表は四年後の大正六年である。また、この文庫本の高田瑞穂の解説によると、志賀には大正三、四、五年の三年にわたる作品発表の空白期があり、その期間を経たのち本作は「佐々木の場合」に次いで発表された。

 電車にはねられたのだから一歩間違えれば志賀は死んでいた。助かったのだが、いわば死が身体を擦り抜けていったようなものだ。それまでは死はとおくにあるとぼんやり思っていたのが、いつ死んでも不思議ではないという感慨を志賀に抱かせた。志賀は「何かしら死に対する親しみ」を抱くに至った。それは諦めでもあり「淋しさ」でもあり、「静まった」心境でもあった。そうした作者自身の心境を中心にして、志賀は宿の周辺に目に付く小動物などの風景を微細に観察する。「死に対する親しみ」といっても深刻さや衰弱した気配は微塵も見られない。むしろ三年の空白期間を設けたことからくる筆力の貯めが感じられ、作家としての十二分の活力を受けとることができる。

 蜂、鼠、イモリの生と死が観察される。屋根から一匹、二匹と飛翔する蜂、だがそのなかに既に死んで動かなくなった蜂がいる。翌日同じ場所を見るとやはりその蜂が同じ姿勢のままそこにいる。鼠が人のせいだろう串を首に刺されて小川のなかを動き回る。人々がおもしろがって眺め、ある人たちは投石する。イモリが小川の岸にたたずむ。志賀が投げた石が偶然当たってしまう。ざっとこんなところだ。勿論、こんな風に下手に要約してしまうと味わいは失われるが。

 小動物の観察は志賀の心境に小波を立てる。例えば、鼠が串を刺されたまま石垣を登ろうとする。だが串がつかえてできない。すると今度は川の真ん中へ泳ぎ出る。生き延びようとする努力だ。志賀は「淋しい嫌な気持になった」。死は静かな境地かもしれないが、その直前には想像を絶する痛みや「苦しみ」がある。

死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう動騒は恐ろしいと思った。


 志賀の観察は微細であるにしても、必要以上に長く対象にとどまることはなく、オーソドックスだ。初めから記述された自らの心境に早く帰ってくる。観察を長引かせていわば発酵させて、そこに独自の想像力を付け加えて渾然一体となった世界をつくる、例えば梶井基次郎のような方法からはとおい。
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志賀直哉「小僧の神様」

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
(2000)
志賀 直哉

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 だいぶ以前にこの短編を読んだときには鮪の鮨の味が口に残ったような感じがした。その美味さがきわだつことが印象的だった。文章が志賀直哉らしく簡潔なことがそういう具合に私に作用したのかもしれない。今度読んでみると鮨の美味さもやはり残るが、作品が複眼的な構成になっていることに驚かされた。つまり秤屋の小僧から見ても、作者の分身である貴族院議員Aまたは最後に登場する作者自身から見ても、どちらからも作品全体を見渡すことができる仕組みになっている。志賀がそれを意図したというよりも、気負わず、衒わず、無駄を排することを心がけた実に落ち着いた筆づかいが見事に結実した、その結果としての複眼的な構成だとみたい。

 秤屋というような店が今どきあるのかどうか知らない。ホームセンターのような大規模店に集約されてしまったのかもしれないが、とにかく主人公の少年はそこで働いている。年齢は明らかではないが、「真鶴」の少年と同じく今どきの中学生くらいだろうか。目上の若い衆が開店した鮨屋の噂をするのを耳にはさむ。彼もまた鮨が大好きなのだが、高価で安易には口にすることができない。やがて用事を言いつけられて往復の電車賃をわたされて外出する。そして帰り道、こっそり片道分の電車賃を浮かして鮨屋に入った。鮪の巻き鮨一個を手にとったが値段を聞いて金がわずかに足らず、鮨をもどして店を出る。それを隣で見ていたのが貴族院議員Aで、少年を気の毒がった。

 たいていの現実ならそこで話はおわってしまうが、小説なので次の展開がある。Aは小さい子供の成長具合をたしかめるため、くだんの秤屋へ体量秤(体重計)を買いにいった。Aは少年(仙吉)を覚えていた。そこでAはある企てをする。品を買って少年にそれを俥宿(運送屋)に運ばせる。そして帰り道、Aは少年に鮨を御馳走するのだ。店の人に十分に金を渡して自分だけ先に帰る。秤屋にはでたらめの住所を告げたので、二人はそれっきり会うこともない。少年は生れてはじめて美味いものを腹いっぱい食べて満足する。

 あとはこの出来事を二人がそれぞれふりかえることが書かれる。Aはあと味がよくない。テレではない。善いことをしたはずなのだが「変に淋しい、いやな気持」に支配される。Aは自分の「本統の心から批判され」ているのではないかと内省するが、「不快」ではなかったので、日にちの経つにつれて忘れる。私が考えるにはこれはたぶん偶然がもたらした「出来心」だから据わりが悪いからではないだろうか。そのほかにも貧しい少年に贅沢を覚えさせたことが悪いきっかけになるかもしれないという心配も起きるのかもしれない。とにかく、ここは余韻があって心地よい。

 一方、少年はAを「神様」か「仙人」か「お稲荷様」かと考えた。自分の心をすっかり見透してたらふく御馳走してくれたからである。また「附け上る事が恐ろし」くて、くだんの鮨屋には二度と行かなかった。まだまだ食べられる分のAの金が鮨屋に残っていたにもかかわらず。志賀はここで少年の性格の真面目さをつくって貴族院議員Aを、また読者をある部分において安心させる。そして最後の最後、志賀はAの気まずい思いを受け継いで、はるかに良質な少年への思いやりを披露する。「作者は此処で」というように作者自身が登場してきて、小説の構想を変更したことを記すのだ。内容は書かないが、小説上の人物への思いやりという、いささか頼りなげなものであるにしても、志賀の思想的姿勢が見られる。この結末は唐突な感はあるが、それ以上に美しさがまさっている。
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志賀直哉「真鶴」

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
(2000)
志賀 直哉

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 少年の性への憧れと妄想があざやかに切り取られている。主人公は年齢は確定できないが、今でいうと中学生くらいだろうか。その年齢になると視野がどんどん拓けてくる。とおくのものが見えてきてあれもこれも触れてみたいという気持ちが湧いてくる。また性欲が自然に内部からつきあげてくることも自覚しないではいられない。そして、そういう欲しいものが視野の中心を占めることがあって、手に入れられるものなら強引にでも手に入れてしまおうとする衝動を抑制することができなくなる。また自分とつながっているはずの欲望の回路が、自分で気づかないうちに混線してしまってとんでもないイメージを結んでしまうこともある。欲望、とくに性欲にはこうした罠が必然的につきまとうものなのだろうか。ともあれ、志賀はこうした少年の一連の心の風景を端的に描いていて唸らせる。

 道具立てが巧妙だ。少年は弟をつれて小田原に出かけて行っての帰路。日の入りが過ぎていて風景が「青みを帯びて見られる頃」である。この風景(背景)が少年を妖しい気分に誘い込むのはもうまもなくだ。真鶴の家までは近いが、少年二人の帰宅時間としては遅い。遅くなったのは兄の少年のわがままのせいで、年末になって二人の下駄を買うために父から金をもらって出かけた。ところが兄は兄の権力にものをいわせて下駄ではなく、自分ひとりがかねてから欲しかった「水平帽」を買ってしまった。こういうわがままは一旦やってしまうとエスカレートするものだ。さらに兄は自分と同世代らしい女の子を連れた「法界節」の一家を見て魅せられる。彼が見初めたのは女の子ではなく、その母のほうだ。「彼は嘗てこれ程美しい、これ程に色の白い女を知らなかった。彼はすっかり有頂天になって了った。」ちなみに法界節とは私は知らないが、巷間芸で、楽器を奏でて歌いながら街を練り歩く人たちのことらしい。今でいえばチンドン屋に近いのだろうか。

 少年が同年代の女性ではなく、一回り以上上の大人の女性にあこがれることは、学校の女教師のことに先に数行だが触れられていたので唐突な感はない。私にも覚えのある感情で、とうてい実現しそうもないことに少年はあこがれこだわるのだ。少年の特権といえようか。法界節の一家が行くところ行くところに少年はついていく。「尨犬(むくいぬ)」のような弟を引きずりまわすのだが、あこがれの対象しか目に入らなくて弟へのすまなさはすっかり忘れられている。そういうことがあって帰宅時間がすっかり遅くなってしまった。海岸線を見下ろす高い道を歩く兄弟。弟はすっかり疲れている。兄の少年のなかで別れてきたばかりの法界節の一家への追慕が日の入り後の風景にかさなる。このあたりはひきこまれる。
 

 ――沖へ沖へ低く延びている三浦半島が遠く薄暮の中に光った水平線から宙へ浮んで見られた。そして影になっている近くは却って暗く、岸から五六間網を延ばした一艘の漁船が穏やかなうねりに揺られながら舳に赤々と火を焚いていた。岸を洗う静かな波音が下の方から聴えて来る。それが彼には先刻(さっき)から法界節の琴や月琴の音(ね)に聞えて仕方なかった。波の音と聞こうと思えば一寸(ちょっと)の間それは波の音になる。が、丁度睡い時に覚めていようとしながら、不知(いつか)夢へ引き込まれて行くように波の音は直ぐ又琴や月琴の音に変わって行った。彼は又その奥にありありと女の肉声を聴いた。何々して「梅―の―は―な」こういう文句までが聴き取られるのだ。(「うねり」の下線は原文では傍点)


 さらに少年は、見物人の前で熟練した踊りを見せる女の姿を思い浮かべたりする。女への未練はつのっていく。周りは夜に近づいて漁火がにわかに海にたくさん灯りはじめる。この風景の夜への傾斜と、夢にも似た朦朧とした少年の意識が作用して、妖しい空想にいざなわれても不思議ではない。おりから列車が明かりをつけて近くを過ぎていく。列車のなかに法界節の一家が乗っていた。それを発見したのは弟。今さらのように彼は疲れた弟が可哀想になっておぶってやる。

「寒くないか?」
 弟はかすかに首を振っていた。
 彼は又女の事を考え始めた。今の列車に乗っていたかと思うと彼の空想は生き生きしてきた。この先の出鼻の曲り角で汽車が脱線する。



 そして空想のなかで女は重症を負いながら何と少年の来るのを待っているのだ。悲惨な出来事を空想して、そのなかでの女との逢瀬の映像につよく引かれる。これは何だろうか。性欲や自由の希求自体のなかに日常性から逸脱させるもの、残酷なものが含まれている。残念ながら私にはそれ以上に言及する言葉をもたないが、少年や青年はそういう危険を意識しながら「こちら側」に踏みとどまらなくてはならない。そして志賀直哉は彼らしく、少年にその健気な意思を与える。兄はいい加減にあつかっていた「こちら側」にいる弟に対して、思いっきりやさしくする。母が迎えに来るという締めもあたたかい。

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おくりびと

 死者は葬儀に際して身を清められる。浴衣にかえて立派な装束を着せられ化粧をほどこされる。死への旅立ちを整えるのだ。本木雅弘が演じる納棺師はそういう仕事だ。葬儀屋の下請け的な位置にあることが多いが、警察から依頼を受けて、発見の遅れた孤独死の遺骸をあつかうこともある。本木は長年の夢がかなって交響楽団のチェロ奏者になることができたが、まもなく楽団は解散し、本木はやむなく故郷の山形に妻とともに帰る。そこで求人広告をみてとびついたのが、山崎努が社長をする納棺師の小さな会社だった。

 猛烈な後悔にさいなまれるのは、やはり孤独死して日にちがたった遺体に触れたときだ。激しい腐臭に悩まされ、映像はさすがに避けているが変わり果てた姿にも衝撃を受けたにちがいない。これは私たちにも理解できる通常の感覚だ。死体は不浄であるという感覚と思想は、ごく普通に私たちの日常に溶け込んでいるし、間違ったこととして引っくり返すことも困難だろう。そこに実際にもっともむごたらしい姿の死体に接するのだから「不浄感」に追い討ちをかけられて当たり前だ。本木は何度も吐瀉する。その仕事をやめようという気持ちに自然に傾いてくる。

 そんなときだ。本木は橋の欄干に身を寄せて川面の清流を見下ろす。すると鮭だろうか、産卵のために急流の浅瀬を川底に身を擦り付けるようにして必死に上流にのぼってくる。その進み具合は遅くまどろっこしい。一方では流れの反対から産卵を終えて死に絶えた魚が、腹を見せてまるでやすやすと流れに乗って下っていく。生の最後と死を同時に本木は見ている。と同時に自分の仕事も二重写しにして見ているのだろう。死とは何か、ということもぼんやりと思うのかもしれない。そこへ銭湯で顔なじみの男が通りかかる。短い会話の中で男は、魚は「本来いたところへ帰っていくんでしょう」と言って去る。ちょっと不意をつかれる感じがした。私は、魚が「本来帰るべきところ」とは海にちがいないと解釈したが、海ではなく「死」ではないかと反論したくなった。だがすでに魚は死んでいる。死体が、死が帰る場所が死とは全く言葉が同義で意味をなさない。つまり死が帰る場所は魚の場合は「海」によって置き換えられる広大な何かなのだ。私はそう思い返した。

 本木はチェロをひとり奏でる。仕事用のものは売り払ったが、子供のときに使ったものが実家にしまってあった。重い心は晴れないが、芸事がある人はうらやましい気がした。ながく打ち込んだ経験があれば、そこにはおそらく心身の「型」があって、奏でることによってそこへ戻ることができる。生(なま)の自分よりも少し越えた自分というものが「型」にはあって、すさんだ気分を少しでも通常にふりもどすことができるのではないかと、羨望をまじえて見た。
 
 本木は仕事を続けるが、それを非難されて妻に去られ友人にも胡散臭い目で見られる。このあたりが中盤で物語はまだまだ展開があるが、映画は想いの大半をすでに吐き出している。本木は割り切れない気持ちをずっと引きずるようである。この映画からだけではないが、私が考えたのは「死」は理解不可能だが偉大だということだ。「死」とは、大いなる痛みであるのか、安楽なのか、死後の世界がどんなものなのか、まったくわからない。しかしともかくも、死者となってしまった人と私たちはお別れしなければならない。納棺師とはそれをつつがなく執り行う仕事であり、またそれは納棺師のみの役目でもなく私たちも心がけなければならないことだ。棺に蓋をする。斎場へ運び、焼却炉へ入れる。火をつける。その節目節目が死者とのお別れである。いくら敬意をはらってもはらいすぎることはない。そんな私たちの思いと本木雅弘の立居振舞いが、映画の進行につれてたいへん落ち着いて重なる思いがした。

    01:29 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

息子の部屋(2001/イタリア)

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(2006/06/23)
ナンニ・モレッティラウラ・モランテ

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 病気の進行による死ならともかく、健康な人の突然の事故死はまったく予測がつかない。とくに家族にとってはそうで、今日も明日も同じような日々がつづくものと思いなしている。予定調和的ではなく曲折はあるものの、生を前提としてあれこれと善後策を考える、そして少しずつ実行する。それが家族の日常といえるだろう。そんななかで高校生の長男がスキューバダイビングの最中に事故死してしまう。日常性がいきなり切断されてしまうのだ。何の罪もないのに奈落に突き落とされたようで、理解を超えている。息子の死を自分自身や家族にどう納得させるのか、家族がどういう道筋をとおって立ち直ることができるのか、そこがこの映画が描こうとしたところだ。

 家族の死ということなら私も若いときに父をなくしていて経験済みであるが、危篤状態であり心の準備は少しはできていた。それでも死は理解を超えていた。死は避けることのできない運命だが、当たり前のことだが運命とは人が乗り越えられないものである。そして乗り越えられないものに直面させられるということもあって、私にはどうにも腑に落ちなかった。重かった。しかし私はぼんやりとそんなことを想ってはみたものの、意識的にその時間に立ち止まることはしなかった。はやく普段の状態にもどろう、生活に向き合おう、という気持ちが勝って、そのときの気持ちはいつしかうやむやになっていったものだ。だから死の不可解さに向き合う自分(人間)についてはぼんやりとは覚えている程度である。また、そういう悲嘆の際の人間が外側からどんな風に映るのか、とはまったく思ってみたことがなかった。他人様の悲嘆のさまを覗き見るのも気がすすまなかったからでもある。

 この映画はそうした死に直面した家族を冷静にカメラにおさめている。もっとなりふりかまわず泣けばいいのではないかと想うくらい父の精神科医ナンニ・モレッティ(監督も兼ねる)は平静に努めようとする。気晴らしをもとめて遊園地に行ってみる。人々の賑わいのなかでアクロバティックな動きをする遊具に乗るが楽しさは湧いてこない。むしろナンニ・モレッティの視線でとらえられたぎくしゃく揺れる遊園地の風景のさまが悲しみをあざやかにすくいとる。母や姉はさめざめと泣くが、これも攻撃的に泣くことによって何かしら憑き物を追い払おうとするたぐいの涙ではなく、堪えきれずに流してしまう涙に見える。ベッドに横になって泣く母ラウラ・モランテが真に迫っていてたまらなくうつくしい。うつくしいという言葉が適するかどうか判断できないが、感じたままならうつくしいと記すほかない。またこの家族は、嵐が過ぎ去るのを身を縮めて待つように、ただ鎮静や忘却を願うのではない。本人たちはそう願うのかもしれないが、なってはくれない。中断された息子の物語が、彼の死後!ふたたび始まるのだ。

 息子の死をいまだ知らないガールフレンドから手紙が来る。ここからも少し曲折があるが詳細は省くとして、両親は彼女に対して生前の息子に対したのと同質の接し方をする。心配し遠慮しながらもやさしくする。それは息子が彼女にそうしたいと願っているのではないかという思いに促されるからだ。つまりは、両親からみれば彼女は息子にとっての形見として映るのだ。
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