大洋ボート

キャスト・アウェイ(2000/アメリカ)

キャスト・アウェイ [DVD]キャスト・アウェイ [DVD]
(2008/10/17)
トム・ハンクスヘレン・ハント

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 トム・ハンクスは国際的な宅急便会社の幹部で、荷物を搬送中の飛行機に同乗したさい墜落事故に遭う。そして彼一人だけが無人島に漂着して奇跡的に命を取り留める、という話。映画はこの無人島における彼の生活ぶりが大部分を占める。

 めったやたらに体験することではないが、話としてはこういうことは馴染みがある。水と食料を確保し、雨風をしのぐために小屋を作る、また火を起こす。生存のために最低限必要なことを試行錯誤のはてに成し遂げていく。それは心細さや寂しさに打ち勝っていく過程でもある、そして最終的には、流れ着いたアルミの大きな板を帆に利用して筏を組んで脱出するのだが、そこまでの生活ぶりの逐一がたいへんこまやかに描かれる。

 前後して漂着した飛行機の搬送物のいくつかのなかにバレーボールがあった。これに彼は顔の絵を描いて対話する。「顔」といっても彼が手を負傷したときの手形で、そこに目鼻を描きいれただけのもの。シンプルだが、彼の自暴自棄に陥りがちな自分を食い止め、なぐさめるためだ。身の回りにある精神にかかわるものといったらこれひとつだ。だがボールには島の生活の時間においては視聴者に明かされない意味があって、トム・ハンクスが生還したのちみずから明かす。また脱出を決意できたのは漂着物の「帆」のおかげだということも。その直前まで彼は無人島での生活をずっとつづけるつもりだった。偶然島の近くを航行する船に発見されることでも期待したのだろうか。これには重要な意味がある。外部によって私たちは自己内世界では思いつかない希望、積極性をはじめて知らされるということだ。トム・ハンクスのこの事後の説明によって無人島の生活があらたな角度でふりかえられる、この映画の巧みなところだ。

 生還しても彼の以前の居場所は、とくに家庭においては無くなっている。詳述はひかえるが、悲しい場面は島本理生の小説『ナラタージュ』を連想させた。

 島の風景で印象的だったところ。トムが海に面した山の高所に立ったときの海面。突きでた岸壁に向かって波が取り囲むように半円形になってゆっくりと押し寄せる。波頭の白の一本一本は直線だが、全体としては半円形である。不思議な眺めだった。トムは無言だが「俺はたいへんなところに来てしまった」とでも慨嘆しただろうか。
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ブラインドネス

 不快感を催させかねないあらあらしい映像が、全体のかなりの部分を占める。視界が真っ白になって見えなくなる眼病に人々がつぎつぎに感染していくのだが、その視界を代わって表現するかのように白のまさった映像で、ピントを故意にずらしたり、おもいきって省略したり、「眼前」の重要な事物を逆に黒っぽくしたりする。これは従来的な映画の映像に対する挑戦の意味を持つだろうし、かなりの部分成功していると思う。不快ついでに音響のほうも不快さをもっとくわえてもよかったのではないか。というもの最初に眼病を患う伊勢谷友介とその妻の木村佳乃のマンション宅で、ジュウサーが悲鳴のような音を立てるからだ。不自然なほどの大きい音でこれは驚いた。これはその後の展開に期待を持たせるいい意味での私にとっての驚きだった。しかし音のほうは、この部分が最初で最後だった。枕の意味をもたせたのだろうか。

 話は隔離施設に収容された人々が、不自由な目でどういう行動をとるかということだ。絶望と憔悴のなかで希望を失うまいとする人々のなかで、一致団結して待遇改善を勝ち取ろうとする者がいる。また欲望にまみれて少ない配給食糧を独占しようとし、そのうえ暴力支配を確立しようとする者がいる。前者は眼科医のマーク・ラファロで、後者はガエル・ガルシア・ベルナル。さらに眼科医の妻のジュリアン・ムーアは実はたった一人目が見えていて秘密にして夫についてきている。のちには彼女が夫に代わって大活躍するのだが。

 これはSFというよりは寓話だ。今日では考えにくい伝染性の眼病によらずとも、ある特定のせまい地域でほかの病気や貧困が蔓延する場合と状況はまるで同じではないか。つつましく平等に甘んじようとする人々が大部分であっても、必ずや自分さえよければという輩が出てきて非情な暴力をもちいる。そしてその暴力に抗することは並大抵ではないが、ずばぬけた力があれば可能にもなろうというものだ。そしてまた、そういう「力」がなく抗争が早期に決着がつかず泥沼化すれば、どちらが善か悪かということも見分けがたくなる。映画ではそこまではいかない。本作では暴力に抗するたくましい「力」がジュリアン・ムーアの「目」に当たり、映画の時間のなかであっさりと決着がついてしまうので、かえって通俗性を帯びてしまうのだが。

 隔離施設には看護師などはいない。にわか眼病者は誘導する人がいてもときには自分で歩かねばならない。両手を前にさしだしておそるおそるぎこちなく歩く。どこに何が待ち受けているか、目的のものがどこにあるか全くわからないのでけ躓いたり倒れたりが常態だ。またあちらこちらにものを捨てるわ、用を足すわで、建物内部がどんどん汚れていく。テレビ画面から冷酷に呼びかける監視者の映像も、時間の経過につれて何故かしだいにぼけていきよじれていくのも象徴的だ。最初に書いた白が過剰な映像を基礎としてのこれら施設内部の光景の移り変わりは、映像的にたいへん腑に落ちる。

 そして一行が脱出に成功したあとの街の風景はやはり汚れて乱れきっている。皮肉という次元ではなく街全体も眼病に汚染されたことを一行も視聴者もはじめて知る。だがおりから降り出した雨のなんとさわやかなこと。シャワーとして人々は喜んでそれを浴びる。さらにジュリアン・ムーアが自宅に一行を招待しての料理のもてなし。これが私にはたいへんおいしそうに感じられた。生唾が湧いてきた。
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ほほにかかる涙

カンツォーネ~イタリアン・ポップス・ベスト・セレクションカンツォーネ~イタリアン・ポップス・ベスト・セレクション
(1996/11/21)
オムニバスオルネラ・バノーニ

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 歌手のフランク永井さんが先日亡くなられた。フランクさんの歌声も好きだったが、一九六〇年代前半フランクさん同様ラジオで聴いて印象に残った歌曲のことも思い出した。そこでさっそく購入したのが、このコムピュレーション・アルバム。おめあては題名のボビー・ソロの「ほほにかかる涙」である。

 甘い歌声が記憶に刻まれたが、そのほかに外国のレコードの音の素晴らしさにも魅了された。楽器の音色、それに自由にエコーをかけることができる録音技術等、当時はまだまだ日本の音楽業界は遅れていたようだ。

 「ほほにかかる涙」はラジカセで聴くのがふさわしい。記憶に残っている音色に近いからだ。最初DVD再生機(5.1チャンネル)にかけてみたが、音がやわらかく且つ分散してまるで「再生」にはほど遠かった。つまり私にとって「いい音」ではなかった。音源によっては安物の再生機にかけたほうが、より「いい音」を聴けることがわかった。こういうことは音楽評論家も書いているだろう。

 収録曲十八曲をひととおり聴いたが、「ほほにかかる涙」以外にはさして印象に残らなかった。ウィルマ・ゴイク「花のささやき」も覚えている。本人よりも日本でカバーした倍賞知恵子の歌声によって。ボビー・ソロはもう一曲「涙のさだめ」が入っているが、声質がわずかに変わってしまったことで、私にとっては魅力がなかった。全部の曲がヒットした模様だが、大量生産される歌の運命で、すべての曲がファンの心にながく残るものではない、多くは忘れ去られる。そんなことも思った。
Genre : 音楽 音楽
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バタリアン(1985/アメリカ)

バタリアンバタリアン
(2004/04/02)
クルー・ギャラガージェームズ・カレン

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 ゾンビものだが、お笑い的要素が多分にこめられている。笑ってやってくださいという空気がみえみえではなく、気味悪さ、こわさのなかに、ほどよく馬鹿馬鹿しさがまぎれこんで、意外性があっておもしろい。

 倉庫会社に死体が保存されている。特殊な化学性ガスにひたされて密封された状態だが、社員がいたずらをして容器がこわれてしまう。漏出したガスで社員二人は体調を崩し、死体も生き返って暴れだすというのがはじまり。なんとか捕獲してノコギリで「死体」をバラバラにするが、それでも各部位は動きをやめない。こわくなって焼却炉にいれて燃やすが、その煙が雨と混じって墓地に降りそそぎ、そこに眠っていた死体の多くが生き返る。いやいや、煙がそんな力をもっているなんてまったく読めない、やられた!

 それから駆けつけた救急隊員が衰弱した社員二人を診察する場面。体温が21度で脈拍がゼロ。あおざめる社員、「何故生きているのかわからない」という隊員。見ている私もわからない、苦笑するしかない。

 あとは増殖する死体=ゾンビが人間の頭をつぎつぎにまるかじり。警察も歯が立たない。ついに軍の幹部は非常手段をとるが、ここもブラックユーモアが効いている。

 今見ても新鮮さはうしなわれていない。
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画家と庭師とカンパーニュ

 初老の男同士ににわかに友情が生じ、短い時間を幸福に過ごす。その点では今年公開されたアメリカの『最高の人生の過ごし方』と似ているが、私は『最高…』のほうが好きだ。

 画家のダニエル・オートゥイエは故郷カンパーニュで一人仕事をしている。妻とは離婚の話が進行中で別居状態にある。そこへ彼から依頼を受けた庭師ジャン・ピエール・ダルッサンがやってくる。見覚えのある顔で、二人は小学校時代の悪友同志であった。ここから二人のざっくばらんなつき合いが復活する。回想シーンがおもしろい。校長にふたりでいたずらをしかけるのだが、ワルガキだったことがごく短時間でよくわかる。このシーンはのちにも生きてくる。「義理」で二人で行った葬式で、死者の顔をみてその滑稽さにふきだしそうになって途中で退席する場面があるが、ここにつながっている。何をしても何を見てもおもしろい、という時代が確かにあって、その過ぎ去った時代が二人にふってわいたかのようだ。童心に返るという言葉があるが、心のすべてが返れるわけでないにしても、そんな風に錯覚できて楽しめるだけでも幸せだろう。旧友というものはありがたいなと、思わずにはいられない。

 二人は幸せなばかりではない、画家は先に書いたように家族関係がうまくいっていないし、庭師は病によって短い余命であることがわかってくる。ただ家族関係の面においては、庭師は幸福を築くことができた。国鉄を退職して庭師というコースは、経済的にはそれほど恵まれてはいないだろうが、保養地に行って妻と手をつないで歩くシーンは幸福を物語る。いくつかの山を越えてきたんだろうなと思ってしまう。こういう二人の対照は『最高の人生の過ごし方』とそっくりである。

 庭を完成させ、草花を咲き誇らせたあとに庭師は旅立ってしまう。何かのときにきっと役に立つといってナイフと紐とを渡して。ふりかえれば、遺品というものに、私たちはどれだけ多く囲まれているか、またそれによって救われているか、ということに気づかざるをえないのだ。

 しかし画家が、庭師の遺品のスケッチや夫人の肖像画やらをものにして個展をひらき、それが成功するという終わり方には疑問を持った。画家の幸福は旧友と偶然に再会して短いときを過ごす、そこにこそ中心的な意味があるのではないか。淡くても固い芯がそこにはあるのだ。画家としてのいっそうの成功まではそれはもたらしはしないはずだが、そのへんが曖昧で気持ちが悪い。それに他愛ない話の連続はいいが、庭師の仕事ぶりがほとんど描かれないのにも不満が残った。離婚の話もいつのまにやらうやむやになってしまうようで、「幸福」がずいぶん簡単に取りもどせるように見えた。

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メルヴィル『白鯨』(2)

白鯨 中白鯨 中
(2004/10)
ハーマン・メルヴィル八木 敏雄

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 死にいたるかもしれない危険な行為を持続させるには理由がなければならない。だがエイハブは確固とした理由を乗組員の立場に則して明示することができない。ただ戦いたい、ただ自分の力を白鯨との戦いのなかで出し切る、このことのみにみずからが利己的に吸引される。合理主義者である一等航海士スターバックに反抗され殺されそうにもなることは十分頷ける。スターバックによらずとも、捕鯨船は鯨油そのほかの財貨を積んで帰還することが目的である。陸地では乗組員の家族もいれば、ピークオッド号に投資をした多数の人たちも待っている。その人たちのもとへ帰り、また潤わすことがピークオッド号の使命にほかならない。モービー・ディックとの危険なたたかいは避けなければならないのだ。だがスターバック以下の乗組員全員がエイハブの方針に靡いてしまう。その乗組員の内心の変化の過程はあまりうまくは描かれていないが、結局はエイハブの神秘的なまでの旺盛な戦闘意欲に引き込まれるようである。また船長という立場に立脚したうえでの有無を言わさぬ支配力の強さでもある。隻脚で精力的に船上、そして洋上を動きまわるエイハブは目に見え、その姿に引き込まれても、乗員にはどうやらエイハブの内心までは見渡せない。またエイハブ自身も自分を明解に説明することができないようだ。読者にも後姿や影のようなものしかエイハブからは見えてこない気がしないでもない。だからエイハブみずからに語らせることで切り抜けようとする。そこが作者メルヴィルの苦心し、もっとも力を入れて書いたところでもあろうか。またイシュメイルの「鯨学」をはじめとする気宇壮大な語り口はまどろっこしくも、エイハブという人の人となりの外堀を埋めていくようでもある。「気宇壮大」さがエイハブの暗い闘争心を祭り上げる役割をする。イシュメイルによれば、というよりも彼の口を借りた作者メルヴィルによれば、またエイハブの独白によれば、エイハブは宗教論的に戦いを根拠づけようとする人である。

 エイハブは神が不在のままであるかもしれない自然界に挑戦する。その自然の代表格がエイハブにとってはモービー・ディックに他ならない。勝利すれば神の世界が顕現することになる。そこで世界は変わる。いわばエイハブは神の代理人をひそかに自任している。だからみずからに神がかり的な力技を想起する。だが想起以上のことはできない。何故ならモービー・ディックに対する彼の戦闘力は飛躍的に向上することはないからだ。人間の肉体の能力には当然限界がある。想起した彼と実際の彼との落差に懊悩せざるをえない。神に祈っても死ぬ可能性のほうが高い。死が必定ということではないが、ほんのわずか勝利の可能性が残されているにすぎない。また、そういうちっぽけともいえる自分の存在をエイハブはまた、神の代理人であるとともに人間界の代表としても自任するらしいのだ。単に乗組員の代表ということではない。だから自分たちの勝利は人間全体の勝利と見做される。エイハブはかかる志向を、論理づけを、長い年月における鯨との争闘のなかではぐくんできたようだ。妄執といえるものだが、たいへんな力強さを受けとれる。メルヴィル(イシュメイル)は、彼は幸福よりも悲しみに執着したと書く。幸福の何たるかを十分に知ってうえでそれを選んだのだと。

エイハブの考えによれば、この世の幸福には、その至上のものにおいてさえ、ある種の卑小さがひそんでいるのに対して、あらゆるこころの悲しみの根底には神秘的な意味がやどり、人によっては、それが大天使的な壮大さにまで成長する。それゆえ、悲しみの系譜を丹念にたどって行きつく先は自明であって、選択の余地はない。かかる荘厳なる人間の苦悶の系譜をたどり、ついに到達するのは神々の起源のない起源とも言うべき原点で、そこでわれわれが認めざるをえないのは、干し草をつくるのに余念のない歓喜の太陽や静かにシンバルをかなでる中秋の満月の存在にもかかわらず、神々もまたつねに歓喜のさなかにいるわけではないという認識である。人間の額に烙印された悲しみのあざは、同時にまた、それを烙印した神々の悲しみのしるしにほかならないのである。(下巻p161~162)



 エイハブにとって「幸福」とは、たぶん鯨採りの生活から足を洗って陸地で家族とともに暮らすことだろう。命がけともいえる船上生活からの退却であり、待っている人を選び安全を選ぶことだ。また「悲しみ」をうやむやにしてしまうことだ。だが「悲しみ」とは、白鯨に象徴される自然界の猛威とのたたかいのさなかで持続する激しさや、鯨に銛を打ち込むときの本能的な歓びや生の充実感を基盤にしている。たたかうことは、この「悲しみ」を正面突破しようとする試みであり、「悲しみ」それ自体のなかに自己否定の欲求を内包している。それが長く果しえないからこその「悲しみ」なのだ。悲しみは同時的に闘争心の喚起だ。そのなかで想起されるべき自己とは、神々が平和でもって満たしきれない自然界に対して、神の代理として挑みかかるに足る壮大な自己でなければならない。全精力をかたむけてこれからやろうとすることに対しては、傲慢さと想像力は否応なしに膨らむ。当たり前のように宗教的色彩を帯びてくる。

おお、汝、きらめく霊よ、正しき信仰が挑戦であることを、わしはいまにして知る。愛に対しても崇拝に対しても、汝はこころ動かされることなく、憎しみに対してとおなじく、死をもって応じるのみ。汝には、ただ殺戮の応報あるのみ。いまでは、どんな愚か者も汝に反抗しようとはせん。わしのなかにも、汝の言語を絶し、場所を絶した力がある。しかし、その力が無条件かつ全面的に支配することに対しては、わしは自分の、地震にも比すべき全エネルギーをふりしぼって抵抗してみせる。この人格化された非人格とも言うべき自然の脅威のもなかで、わしはひとつの人格として立つ。なるほどわしの存在は微々たる一点にすぎず、いずこよりきたり、いずこに行くかさえさだかではないが、それでも生あるかぎり、わしの内部には女王のごとき人格が君臨し、その王権を主張しているのを感じるのだ。(下巻p249~250)


 ここでいわれる「霊」とは神のことではない。落雷によってマストや帆桁が放電現象をおこして発する青白い炎を指している。怪異な自然の象徴である。

 エイハブのこのような宗教哲学論的探求は、無論みずからの鯨採りという実践を前提にしたものである。実際にやれるかどうかはともかく、私たちが困難な実践に想像力を向けることなく「論」だけをとりあげてあれこれと考えるのは間違いに通じやすいのかもしれない。逆に、無前提に実践に降りることによってエイハブと同じことをしたからといって、エイハブの哲学が体得できるということでもないだろう。またエイハブならずとも、いくら傲慢と想像力を膨張させても、その張りつめた精神が実践のなかで変化をこうむらないわけではない。実践は疲れさせ負傷をおわすもので恐怖をもたらすものだからだ。まさに「膂力」や「偏執」がそのさなかで、はげしく試される。だからといって強さにあこがれること、使命を担ったつもりになって戦いに赴くことが無意味かというと、そんなことはないのだ。人間が挑戦するということのなかには危うさが、愚かさが、多分に含まれている。と同時に誇りそのものでもあるのだ。安全や妥協よりも、ある場面では人間は無謀ともいえる困難な戦いを選びとってしまう。血の沸騰を体感することに魅了されてしまう。全体性をそこにこめてしまう。この小説が私たちを引き込む大きさはそこのところにあるのだろう。

 エイハブは信念につらぬかれて頑な一辺倒になっているのではない。やはり幸福や平和に未練があって揺れ動く。嵐のあと、えもいわれぬ澄み渡った空と海を目にしてエイハブは陶然とした気分になる。そして暫し頑なになった心を解きほぐして涙を流す場面がある。自然はうつくしくもあることを思い出したのだ。慰められたことへの感謝だ。あるいはエイハブの涙は、死の覚悟と、この世への訣別の挨拶として読みとることもできるのかもしれない。一等航海士スターバックは、エイハブのこの涙を見て、急激に彼に親近感を募らせていく。

 だがエイハブは内面はともかくも、モービー・ディック追跡に関しては頑なで冷酷である。ピークオッド号は洋上で何隻もの帆船と出会うが、日本沖で最後に出会った船はモービー・ディックを発見した直後だった。だがその船の船長は息子二人を行方不明になった捕鯨ボートに残してきて、その探索の真っ最中で、エイハブにも探索の協力を依頼する。人道上は依頼を受けるべきだろう。だがエイハブはにべもなく断って息せき切って白鯨追跡に舵を切る。もはや彼の心は燃えたぎっているのだ。
(了)

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メルヴィル『白鯨』(1)

白鯨 上白鯨 上
(2004/08/19)
ハーマン・メルヴィル八木 敏雄

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 この長い小説を読んでいる間、大海原の眺めをちらちらと思い浮かべた。磯の香りも。海洋が舞台の小説だから当然でもあるが、それ以上のたいした意味はない、むしろ異常に長い鯨に関する文献的資料の紹介やら、その徹底したこと細かい追及やらが退屈であって、そこから目をそらすためでもあったかもしれない。だが小説が終わろうとする直前になってこの大海原が目の前に飛び込んできた。つまり語り手であるイシュメイル一人を残して、帆船ピークオッド号は乗組員全員とともに海底に沈んでしまう。青々としているのか黒々としているのかはわからないが、海面が一瞬強い光をはなって私に訴えかけてきたのである。まるでそれまでの人間の営みなど一切合切なかったかのように。これはこわい。現実としての海はたしかに厳しさを有している。

 海へのあこがれは私のように安っぽい質でなくても、それ以前からある。船旅なら寄る港があり帰る港がはじめから予定されているが、そういうこととは別に、もっと遠くへどこまでも行ってみたい、あるいは世界の果てまで行って至上の地にたどり着きたい、そんな漠然とした思いを誰でもが一度は抱くのではないか。そう思わせる魅力を海自身が有しているのではないか。そして反面、現実としての海は峻厳そのもので、人や船をたちまち呑み込んでしまうのだが。もしかすると人類がアフリカを起源にして全世界に居住地をひろげていったのも、こうした海へのあこがれが突き動かす力として、人類の心の根底にやみがたくあったからではないかと空想したりする。太平洋の無数の小島に太古から人々は住んでいるではないか。無論、海のかなたへのあこがれといったものが動機のすべてではないにせよ。この小説は甘くはないが、そんな匂いがたちのぼってくる気がしたので記しておきたい。

 この小説は一八五一年に発表された。作者メルヴィルが三二歳のときである。当時のアメリカは新興国であったが、捕鯨についてはすでに世界一の船団の規模であったらしい。捕鯨といっても食料としての鯨肉が目的ではなく、灯火に使う油の採取が目的であった。石油がいまだ普及にいたらない時代であった。ほかにマッコウクジラの脳内からのみとれる「鯨脳油」と呼ばれる芳香をもつ高級油や高級香水の原料の竜涎香(リュウゼンコウ)、セミクジラの口腔内からとれる「鯨鬚」(ゲイシュ)と呼ばれるブラインド状の繊維質のものなどが採取の対象であった。最後のものは女性用のコルセットなどに用いられた。またマッコククジラの歯は工芸品の材料となる。肉として食されるのは尾鰭付近のみで、とくに好む船員だけがその機会をもったらしい。鯨の体表面をおおう脂肪分を大量にふくんだ部分以外の肉はそのまま海に捨てられる。これは冷凍施設がないのでいたしかたない。航海の期間は未定で、鯨油が満載の状態になればただちに帰還の途につくが、長くて三年もの間洋上にとどまることになる。

 主人公はピークオッド号の船長エイハブである。前回の航海でモービー・ディック(「白鯨」)と呼ばれる世界最大のマッコウクジラに片足を捥ぎとられてしまい、その怪物に再会して復讐を果すべく執念を炎と燃やす。鯨の骨でつくった義足をつけてまで不自由ながら捕鯨ボートにみずから乗り込んで格闘する。乗員には尊敬を受ける反面、煙たがられもする。孤独なことは勿論、「暗鬱」「偏執狂」という言葉が出てくるが、まさにそれらにぴったり当てはまる人物像だ。だがメルヴィルはエイハブをことさら特異な人物として描こうとするのではない。鯨採りのなかから鯨採りゆえの必然を持って出現した典型的なそれとして描こうとしている、ここは留意したい。つまりは鯨採りならエイハブ的心性を賛否はともかくとして、感覚的に少しは理解できる範囲にあるのだ。

 メルヴィルは新米乗組員でもあるイシュメイルをして古今の文献をまさに総動員しながら、鯨と人間の争闘の歴史を語らせる。また航海の逐一を微に入り細を穿つようにして語らせる。無秩序で、思いついたらその方向にどんどん話が展開されて尽きることがなく、過剰だ。だが海と鯨という範囲からは大きくはそれない。鯨がいかに巨体でおそろしい生き物=レヴィヤタンなのか、またあこがれを満たしてあまるほどの神秘を人類(またイシュメイル自身)にもたらしてくれるのか、実際的にもいかに貴重な財貨を陸地にとどけてくれるのか、まるで鯨の広報マンとしてイシュメイルは語る。メルヴィルは若い頃貨物船や捕鯨船に実際に乗り込んで長い航海をしたことがあるらしく、そのときの見聞が生かされることは勿論、やはり捕鯨と海に対する彼自身の人一倍のあこがれを、そしてうんちくをイシュメイルの口を借りて自信いっぱいに語りつくす。

 そして何よりも、長い航海に耐えて鯨に立ち向かって行く男たちの雄姿をこそ語るのだが、実は「鯨学」の記述があまりにぶ厚すぎて目立たないくらいにまでなっている。鯨採り(乗員)は鯨を発見したならばただちに捕鯨用ボートを下ろして立ち向かって行く。とくにマッコウクジラはわずかな数の銛が命中したくらいでは絶命はしない。暴れまわって小さなボートくらいは破砕してしまうので危険である。だが男たちは本能的に立ち向かっていく。その勇猛と冷静、さらに「凶暴」。とくに現に眼前でくりひろげられる鯨との格闘やその後の捕獲と解体作業にまでいたる一部始終の描写は生命力がある。ここまで我慢して読んできた甲斐があったなと思わせて喜びをもたらすことは必定だ。大海の果てであっても義務として仕事を、恐怖と興奮を秘めながら冷静にやりとげてしまう男たちには読んでいて脱帽する以外にない。一種たいへん奇妙な光景(巨体を帆船に横付けにして脂肪分の多い外側の肉を「オレンジの皮をらせん状にむくように」巻き取っていく。さらに体長の三分の一もあろうかという巨大な頭部を切り取ったあと、海水の浮力を利用して半分を沈ませる状態で切り口を上にして吊り下げて、ぬるぬるしたその切り口の部分に男一人が立って、柄杓で鯨脳油をすくいとっていく。)に私たちは感動を覚えるのだが、まさにこれは仕事であり文明の維持であり、その意味でははるか後方の陸地とつながっているし、無論読者ともつながっている。

 イシュメイルは言い訳のように、また照れのように、鯨の壮大さについて語れば語るほど気宇壮大になると自分について言う。蚤(ノミ)についていくら語っても壮大にはなれないとも言う。読者は長さに辟易となりながらも、同時に彼の語りについていきたい気にさせられる。少なくともイシュメイルが読者をしてそんな気分に引きあげてみたいという欲望が見えすぎるくらいなので、私たちもかえって煽られるのだ。鯨と海についての範囲の饒舌であっても、なにかしら地上をはなれて天にしだいに近づくような壮大さと爽快さを感じる。そして彼の壮大さの意図の中心にどっしり腰を下ろしているのがエイハブである。語り手イシュメイルのなかのあこがれとしてもエイハブはある、と私は思う。そしてエイハブ自身もまた、若い時代にはイシュメイルと同じ質のあこがれを鯨と海に向けて抱いたと勝手に想像してしまう。またメルヴィルにとってはエイハブは特定の人物像をモデルにしたのかもしれないが、そうであるよりも、鯨採りのなかから必然的に生まれ出たカリスマ的人物像として苦心惨憺して彫琢したがっているように読める。

 鯨を追う航海が爽快であるならば、また鯨の捕獲と曲芸のような解体が、いったん築き上げた文明を雄雄しく維持して陸地に富を授けてくれる、そういう意味で爽快でたのもしくあるならば、難攻不落といわれるモービー・ディックにのみ執着するエイハブは、そういう爽快な気分や、また安全を願う乗組員にとっては危険でまるでどす黒く、後退する印象を初めはもたらす。エイハブの胸中にあるものは文明や仕事ではない。たとえそうであっても、それはモービー・ディックにたどり着くための、乗員に手助けしてもらうための手段であり口実だ。つまりは彼は闘争者なのだ。エイハブは六十歳に達するという。四〇年あまりの歳月をほとんどを鯨との戦いのために船上で暮らさねばならなかった。その長きにわたって肉体と精神を鍛えあげてきた。死や負傷の恐怖と拮抗しうる「偏執」と「膂力」を築きあげるにいたったのかもしれない。だが彼は同時に戦いが常住の場所だという自覚と「不幸」を背負い込んでしまった。それが彼自身の運命であるとの自覚にたどり着いてしまったのだ。だからモービー・ディックに片足を捥ぎとられたからにわかに復讐の亡者になったのではない。モービー・ディックとの再戦を望む心のなかには復讐心はあっても、それよりも大きく彼の人生の永遠の課題である戦いを継続させたいという切実な欲求がある。
 
 鯨採り、とりわけマッコウクジラ採りはきわめて危険な仕事であり、殺伐さ、凶暴さを捕獲者ひとりひとりに刻印せずには置かない。この凶暴さをじつはエイハブと乗組員は共有していて、乗組員もそれは知っている。ただ乗組員はエイハブのように凶暴さをさらに高めよう、死と負傷の恐怖に対抗しよう、などとはことさら意図しないのだ。同じ行動をする者どうしが知りうる同じ部分を孤独な老人!が拡大し戦おうとするとき、老人の周りの人はそれを目の当たりにしてどう思うのか。危険に巻き込まれるという危機意識や忌々しさと同時に、やはり親近感がひそかに芽生えるのだろう。

 イシュメイルは比較的安全なセミクジラ専門に追う鯨採りを軽蔑するようであり、その気分はピークオッド号の主要な乗員にも共通するらしく読める。(セミクジラばかりを追う方針の船に洋上で出会うカ所がある)彼らはマッコウクジラ採りに誇りを持っている。モービー・ディックはさすがに敬遠するが、気概をふりしぼってまで挑戦しようとするエイハブの心情がわからなくはないのだ。潮吹きを洋上に発見し、ただちにボートを下ろすときの、さらにその巨体に銛を打ち込むときの血湧き肉踊るというべき興奮は、恐怖を忘れさせるほどの本能的なものらしい。

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