大洋ボート

ゲットスマート

 お笑い系のスパイアクションで、諜報員のスティーブ・カレルが小さな失敗を繰りかえしながら、つまり笑わせながら任務をこなしていく。最後にはアメリカ本土での核爆発を未然に食い止める、というもの。行動を共にする女諜報員にはアン・ハサウェイ。

 笑いの質は古い。たとえば敵であるロシアの犯罪組織の住居に侵入したとき、ビーズ玉の暖簾がバラバラとほどける。苦笑するところだ。だが彼はあわてない。不思議そうに事態を把握しようとするだけだ。むしろ観客にどうぞ笑ってくださいといわんばかりにすましている、無表情を維持する、つまりは本人は絶対に笑わない。この間がいいのだが、従来から見慣れてきた間である。別に古いからつまらないというのではない。笑いの質が古いから安心できる、むしろもっとやってもらいたいという欲求が自然に生じてくるのだが、十分に応えてくれていない、その点が不満だ。七、八部くらいの力の入れようで、つまりは適度に力を抜いて「スマした間」で終始一貫しようというコンセプトなのかもしれない。派手なドタバタ喜劇にはしないということでもあるが、その狙いはいいとしても、スパイアクションの部分をかなり通常どおりに抱え込むことによって、十分には追求できなかった気がする。

 ロシアの成金犯罪者の豪邸でのダンスパーティの場面。アン・ハサウェィとその成金がペアで優雅に踊り、参加者に賛美される。嫉妬したスティーブ・カレルが、自分もいいところをみせてやろうとダンスの相手に指名したのがなんと小柄な彼を圧さんばかりの肥満の女性。一同が注目するなかでのダンスとなるのだが、ここは意外に笑えない。CGかワイヤーかを使ったトリック撮影でそれが鼻についた。楽をしている。この場面にかぎってはドタバタになってもいいからスティーブ・カレルはもっといじめられなければならない、汗をかかなければならないと思った。

 いいところはクライマックスの、実写とCGをおり混ぜたセスナによる犯人の車への追跡だ。ここへくると通常のアクション映画に変わってしまうが、見応えがある。犯人は核の時限装置を積み、アン・ハサウェイを車のサッシに手錠で括りつけて爆走。そこへセスナから車へなんとか移動しようとするスティーブ。そしてやっと飛び移り、車内での格闘……。一連の過程は、実際にこんなことをやれば何回死んでもおかしくはないという場面の連続。だがそこは承知のうえ。CGというと、人間の肉体表現を安易に省略してしまうきらいはあるが、まだ始まったばかりという気もする。そこは職人芸で欠点を克服し、これからもどんどん進化させていってもらいたい、そんな期待を抱かせるクライマックスだった。ダンスパーティの場面でのCG(もしくはワイヤー)の使用とは質のちがいを感得した。

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ブレイブ ワン(2007/アメリカ)

ブレイブ ワンブレイブ ワン
(2008/03/07)
ジョディ・フォスターテレンス・ハワード

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 ジョディ・フォスターは、日本でいえば性はちがうが高倉健みたいな存在なのか。つまり堂々たるスターの座を占めていて、それを自他ともに認めていて、カッコいい役づくりを映画を作るたびにもとめ、もとめられる。製作者はそういう彼女にふさわしい役と物語を、製作以前に苦心惨憺して構想する。そこには映画製作にたずさわる人たちの間からは何の異論をはさむ余地もない。映画スターと製作者とのこういう関係は少なくないし、私も高倉健の場合はなんの違和感ももたなかった。だがジョディ・フォスターの場合はどうか。私は特にファンというわけでもなく、またアメリカにとっては私は外国人である。そこに口を挟む余地が自然に生じてきた。

 この映画でもジョディ・フォスターは強いし、カッコいい。公園で恋人とデート中、暴漢に襲われ恋人は死亡し、みずからも瀕死の重傷を負う。傷が癒えたときの事態の全体を受け止めるときの彼女の芝居はさすがにいいものがある。自分の背丈よりも高いもの、大きいものを無理をしてでも引き受けようとする姿勢は、見ていてはっとさせるものがある。みずからの手で復讐を遂げようとする決意と闘争心が、しだいに湧きあがってくることもうなづける。だがあまりにも冷静で気丈過ぎるところにはどうしても違和感が生じてくる。

 非合法で拳銃を手に入れて、地下鉄で別の暴漢にふたたび襲われたとき、その拳銃を使用してしまう。ここは正当防衛か過剰防衛か、議論の分かれるところかもしれない。さらに同じようなことがつづけさまに起きるのだが、ジョディはラジオタレントの仕事をやっている。みずからの「犯罪歴」を隠して、生番組で視聴者と明るく応接する場面は、あまりにも気丈で不自然さが目立つ気がした。こんな女、こんな人間、いないんじゃないか、ということだ。これほど人間は完璧に芝居ができるものではない。ジョディのスター性ゆえ許されることなのかもしれないが。

 ジョディは犯罪被害者だから当然警察の取調べを受け、刑事のテレンス・ハワードと知り合いになる。やがて彼はジョディを好きになってしまい、そこまでやるかというくらいにジョディを助けるのだが、ここも不自然。というか助演俳優が主演スターをもちあげる構図は定式かもしれないが。「面白ければいいじゃないか」という反論が聞こえてきそうではある。
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グッド・シェパード(2007/アメリカ)

グッド・シェパードグッド・シェパード
(2008/12/04)
マット・デイモン・アンジェリーナ・ジョリー

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 マット・デイモンという人は「無表情の表情」がすっかり板についてしまった。「ボーン・シリーズ」や「ディパーデッド」というスパイものに立てつづけに出演してコツをつかんだのだろうか。「無表情」といってもそれは上辺で、見た目であるが、その奥底にはさまざまな感情がうずまいて「無表情」を突き破ろうとする。ときにはマット・デイモンに無表情と表情が二重になったさまを見る思いがするが、「表情」が前面に出ることはない。それほど固い「無表情」である。そういうマット・デイモンが見られるところが、この映画の一番の売りか。

 物語は第二次大戦の時代に、マットがCIAの創設に関わってやがて「順調」に幹部にのぼりつめて一九六〇年代初めのピックス湾(キューバ)侵攻作戦に関わるまでを描く。なるほど諜報組織は冷酷無残だ。長年貢献した人物でも組織運営に支障をきたすととるとあっさり殺してしまう。「知りすぎた男」であるからでもあるが、マットが同僚とともにその実行もためらわずにくだんの男に近づくと、すでに別働隊が準備万端で先を越して動いている、といったありさまだ。国家組織だから殺人の一つや二つ(もっと)は容易に闇に葬ることができると、映画は主張したいのだろう。

 きわめつけの場面がある。ソ連の軍幹部が亡命を申し出るためにCIAに面会に来る。自信家で楽天的な男だ。先にアメリカに亡命した××という男が贋者で自分が本物だと主張する。そんな馬鹿なことがあるものかと、自分たちがコケにされたと面会担当者はすっかりのぼせあがる。詳しくは書かないが、そのソ連軍人はまるで虫けら同様の残酷な仕打ちを受ける。マット・デイモンらも別室から覗いているが、ここはさすがにぞっとさせる。

 疑問だったことがある。ピックス湾侵攻作戦が事前の情報漏れによって頓挫したような描き方だが、真相はそうではないだろう。一五〇〇人という上陸作戦の規模があまりにも小さすぎたからだ。その程度の部隊でキューバ軍を打倒すべくもないのだ。作戦に積極的なCIAと消極的なときのケネディ大統領の対立があったとは、スパイ小説家フリーマントルの『CIA』という本で読んだ。

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さらば、ベルリン(2006/アメリカ)

さらば、ベルリンさらば、ベルリン
(2008/02/08)
ジョージ・クルーニー.ケイト・ブランシェット.トビー・マグワイア .

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 モロクロ映像の冷たさがさえる。おそらくはデジタル処理されているのであろう。陰の部分から人物が出てきて光があたって容貌が晒される、このときのヌッとした感触がいい。それと終戦直後のベルリンの市街を映したニュース画像(モノクロ)らしきものが挿入されて、映画映像との微妙な差異もまた心地いい。映画が映像表現にこだわることのいい例を見た。

 ジョージ・クルーニーは新聞記者で、戦争勃発直前までいたベルリンを再訪する。仕事のためだが、恋人であり同僚でもあったケイト・ブランシェットを見つけ出したいがためでもあった。だが彼女はあっさりとジョージ・クルーニーの前に姿をあらわす。彼の専属運転手トビー・マグワイアの情婦であったからだ。さらにケイト・ブランシェットをめぐって不穏な動きがにわかに活発になる。正体不明の人物がケイトの夫を探索中で、トビーとジョージは彼やその一味によって手ひどい暴行を受ける。ケイトによれば夫は死んだという。だが小悪党でもあるトビーは、そこに金になりそうな匂いを嗅ぎつけてソ連占領軍にまでそのネタを持ち込む。かねてから横流しした物資を売りつけていたのでつながりはできていた。だがそのトビーもまもなく殺される。新聞記者魂を発揮して、ジョージは真相解明に乗り出すが……。

 ジョージ・クルーニーは直接ケイト・ブランシェットに真相を聞きただせばもっと事態ははやく進展するかとも思えるが、ケイトはあまりにも変わり果てている。肉体だけは開こうとはするが、口は容易には割らない。堕落しているし不遜に見える。だからジョージはケイトを現在のケイトたらしめているものを、取材活動をつうじて知ろうとする。だがトビー殺害事件からあぶりだされてくるものは、新聞記者ひとりではどうにもならないほどの国際政治の陰謀の力学である。またナチス支配下のドイツで、ドイツ人ひとりひとりがどのように生きていかねばならなかったかという厳しい歴史的現実である。なかでもケイトはそのなかの典型的な人間である。生き抜くということ、ドイツの不幸な歴史のなかでその信念にしがみつき、つまり他のドイツ人を犠牲にして生き抜いた。そして戦争が終わってからも、そういう生き方をとりたてて反省もせず、ジョージの前にひけらかすのだ。これでもわたしを愛せる、とケイトはジョージに絶望とわずかな悲しみをにじませて問いかけるようにみえた。愛どころではなくて、ジョージ・クルーニーからみたケイト・ブランシェットはあまりにも重い。(言うまでもなくこの二人は好演そのもの、この作品の独特の空気をつくっている)

 戦後の名作といわれる『第三の男』と雰囲気的には似ているのか。だが主人公の元恋人に対する未練はほとんど見られない。そんなもの持ちようがないほどケイトは毒に染まっている。そしてその毒は戦争という全体につながる。ジョージ・クルーニーが眼光鋭く全体を見据えて、その全体からはね返される孤独感、これがきわだつ。涙なんて似合わない、しばし茫然とするしかない孤独感だ。またつけくわえれば、「全体」というものは映画の上では第二次大戦だが、ほんとうはそうではなくもっと現在的なもので、大戦はその隠喩ではないかという気がした。このことには、最初に書いたモノクロによる映像表現もくわわって効果をあげている。


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宮廷画家ゴヤは見た

 ハビェル・バルデムやナタリー・ポートマンは現在油の乗った俳優といえるだろう。力のこもった芝居がはまっていて、それだけに見ごたえがある。だがゴヤ役のステラン・スカルスガルドという人はどうか。これは俳優としてよりも、監督やシナリオ作者の問題である。画家という職業に対する造形の念がどこにあるのかというくらいにショボい人物像でしかない。物語の中心にたえず居つづける狂言回しという以上の存在ではない。画家や芸術家がもつであろう誇りが、よく描けていないと思った。

 十九世紀前半のスペインが舞台。ゴヤは女王の肖像画も描くが、ハビェル・バルデム(ロレンソ神父)や資産家令嬢のナタリー・ポートマン(イネス)も描く。ゴヤはことにナタリー・ポートマンを気に入って彼のほかの絵にも登場させる。だがそのナタリーがレストランで豚肉を食ったの食わなかったので隠れユダヤ教徒の疑いをかけられて教会の異端尋問にかけられる。尋問といっても実際は拷問で、ナタリーは「自供」し、長らく獄舎に閉じ込められる。ナタリーの一家は当然激怒し、親交のあるゴヤをつうじてハビェル・バルデムに解決をたのむ。教会に大金を積むことは勿論、同時にハビェルに暴力を行使して言質をとることまでする。これは拉致問題そのままで、どんな手段を使ってでも娘をとりもどしたいという親兄弟の切羽詰った姿勢はたいへん共感できる。

 だが教会に顔が利くはずのハビェルは何も成果があげられない。あげくは獄舎のナタリーに近づき、神父の特権を利用して肉体を奪うことまでする。そして彼はフランスへ逃亡。だがやがて彼は革命思想家としてスペインにもどってきて権力を振るうにいたる。ナポレオン軍の進駐によるものだ。

 このあたりのハビェル・バルデムは悪人ぶりが板についていて見させる。傲岸不遜の面構えで、憎々しい。ゴヤが解放されたナタリー・ポートマンを彼に面会させ、生んだ子供のことを告げさせてもスッとぼける。一方のナタリーは精神が壊れているが、ハビェルのことは昨日のように覚えている。そこで時間がとまっているのだ。視線がうつろで、口を歪ませたメイクが効果的だ。

 ハビェルは悪人ぶりをつづけながらも、少しずつ革命思想家としての矜持に目覚めていく。いきなりではなく、実娘(ナタリーの二役)を探し出したりの過程を経てのことだ。このおくれ具合が思想の転開とはこういう風になされるものかもしれないと、私に思わせた。それに比べるとゴヤはどうか。ハビェルと言い争う場面がある。変節漢だの、ときどきの権力者に媚びる売春婦だのと罵倒しあう。だがゴヤは反論できないのだ。ここは残念だ。私の考えでは、画家という存在は巨大なパトロン無しでは成立しない。つまりは大なり小なり体制内的存在で、そのかぎりではうしろめたさはまぬかれない。だが作品制作に打ち込むことに、いいものを作りつづけることにこそ画家としての意義が、矜持があるのではないか。そんな反論をしてもらいたかったのだが。もっとも、最初のほうにいい場面があった。女王の肖像画の顔が思いのほか不美人で、それを王夫妻に指摘される。だがゴヤは微笑をたたえてひるまない。仕上がりに自信があるからだ。これでこそ画家といえる。

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世界地図2008年版

今がわかる時代がわかる世界地図 2008年版 (2008) (SEIBIDO MOOK) (SEIBIDO MOOK)今がわかる時代がわかる世界地図 2008年版 (2008) (SEIBIDO MOOK) (SEIBIDO MOOK)
(2007/12/12)
成美堂出版編集部

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 さまざまな統計データが併録されている地図帳。というよりも前者のほうが3分の2ほどの分量を占めている。興味をひかれたところをとりあげてみたい。国民一人あたりの食材別摂取量ランキングが意外でおもしろい。(ここでの調査結果はすべて2005年のもの)

1位、ボスニア・ヘルツェゴビナ 7,2kg
2位、ハンガリー 6,3kg 
3位、ジャマイカ 4,9kg
4位、マレーシア 2,3kg
5位、ドミニカ  2,0kg

65位、日本 0,1kg


 これは唐辛子の項目で、数字は一人当たりの年間消費量を示している。食文化という言葉があるように、その国の食の傾向は伝統や習慣にもとづいている。 地理的条件の制約もあり、国民の貧富の水準も関係してくる。しかしここにあげられた国名は、全く予想もできなかった。旧ユーゴ紛争の舞台となったボスニア・ヘルツェゴビナであるが、その食文化については私の知るところではない。背景説明が何も書かれていないのが残念だが、他の項目でも同じように省略が多い。

 唐辛子の世界最大の生産国はインドで、世界シェアの42,8%を占めるが、インドはこのランキングの5位以内には入っていない。カレー好きのインド人のことだから入っていてもよさそうなものなのに。「インド人もびっくり」というところか。コショウについても同じような傾向となる。

1位、ドミニカ 9,1kg
2位、ボスニア・ヘルツェゴビナ 7.2kg
3位、ハンガリー 6,9kg
4位、ジャマイカ 5,7kg
5位、ネパール 4,4kg

35位、日本 1,2kg
(生産国のシェア1位、インド 47,1%



 つぎは肉類。欧米人(南米に移住した人もふくむ)が特に好むとされるが、肉類全般の数字はルクセンブルクがもっとも高い。

1位、ルクセンブルク 137,2kg
2位、イスラエル 100,1kg
3位、チリ 94,0kg
4位、アメリカ 93,7kg
世界平均、39,5kg

80位、日本 34,8kg


 肉類ではアメリカやドイツがトップかとも思ったが、そうではなかった。ルクセンブルクは豊かな国である。それも関係するだろう。別のページの項目では、国民一人当たりの「富」(預貯金+不動産-負債)で世界4位となっている。ちなみに日本は「富」の項目では1位。ほんとかいな。それにしても日本人の肉の摂取量は少ない。いや、それは健康のためにもいい傾向だと思う。さらに肉類のうち牛肉だけにしぼると「1位、アルゼンチン 52,1kg 2位、ルクセンブルク 46,9kg 3位、チリ 41,1kg (世界平均、9,7kg) 80位、日本 34,8kg」となる。豚肉ではハムとソーセージの国ドイツがやっと出てくる。「1位、ドイツ 47,5kg 2位、ポーランド 44,2kg 3位、ルクセンブルク 44,0kg 4位、オーストリア41,6kg (世界平均、9,5kg) 45位、日本 13,0kg」となる。ルクセンブルクの人はよく肉を食うらしい。(ルクセンブルクはコーヒーとミルクの項目でもそれぞれ1位になっている。「へえ!」だ。)また鶏肉は宗教戒律による制限が少ないためにクウェート、イスラエル、という国が1,2位を占めている。3位のセント・ビンセント・グレナディーン諸島とは、私は聞いたことのない国名だったが、西インド諸島の南東部に位置する島国である。羊・山羊肉となるとこれは予想を大きくはたがえない。同じく数字は省略するが、1位から順番に「モンゴル、ニュージーランド、アイスランド、トルクメニスタン、フィジー」である。5位のフィジーは意外だ。

 次に根菜類をのぞく野菜類。これも1位に意外な国名が出てくる。
 

1位、ギリシャ 294,5kg
2位、中国 292,4kg
3位、韓国 253,6kg
4位、アルバニア 230、おkg
5位、ルーマニア224,2kg

38位、日本 130,7kg
世界平均、90,0kg


 根菜類のイモ、ニンジンなどを加えるとデータはちがったものになるだろう。それも見てみたいと思うが、それにしても日本人が案外野菜を食していないことがデータ上浮かびあがって、すこし驚く。同じアジアの中国人、韓国人と比べてその摂取量が約半分とは。肉や野菜、また穀類において、日本人は小食のようである。ただこれは世界的データ上のことで、私個人は食べすぎの傾向があると自覚している。量的平均値からよりも健康面からの考慮によって。

 それでは日本人が世界平均を上まわって食しているものがあるかというと、これがある。卵と魚介類である。卵では

1位、デンマーク 20,1kg
2位、日本 18,7kg
3位、中国 18,3kg
4位、オランダ 17,1kg
5位、メキシコ 16,3kg
(世界平均、6,2kg)


 へえ、日本人は世界平均の3倍もの卵をたべているんですねえ。鶏肉の摂取量は世界平均とほぼ同じレベルの14,8kgだから頑張ってというか、卵が安いから大量に口に入れているんだ。まあ、だからこういう鶏肉と卵の摂取量のアンバランスから推測すると、卵を産んだ鶏が食されずにかなりの量が廃棄処分されることになるのか……。次に魚介類であるが、これは典型的なまでに島国の名が並んでいる。数字は省略して1位からあげると「モルディブ、アイスランド、キリバス(太平洋上)、日本、セーシェル」となる。

 最後に穀物類。一人当たりの消費量(摂取量)となると、これも予想を裏切る。生産量や輸出・輸入量とは必ずしもスライドしないようだ。米では

1位、ミャンマー 361,8kg
2位、ベトナム 278,0kg
3位、カンボジア 254,5kg
4位、バングラデシュ228,2kg
5位、インドネシア 200,1kg

23位、日本 95,9kg
(世界平均、42,3kg)


 小麦では1位から順に(数字省略)「トルクメニスタン、チュニジア、アゼルバイジャン、アルジェリア、キルギス」となる。新興国や貧国が並ぶ。経済水準が低くても、特定の食材は豊富にある、そのかわり高価な食材には手が出せず、バランスのよい食生活が望みえない、ということになるのだろうか。
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アリゾナ・ドリーム(1992/フランス)

アリゾナ・ドリームアリゾナ・ドリーム
(2007/04/01)
ジョニー・デップジェリー・ルイス

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 瓢箪から駒という言葉があるが、この映画に当てはまる。もうすこし意味合いをしぼれば、冗談や遊興から真実にたどりついてしまうということだろうか。ひとつは恋愛であり、もうひとつは死である。やたら騒々しく、人や物や動物が動き回って落ち着かない、けれど何かが生み出される気配があって、気がつくと動かしがたい核につきあたる。そういうエミール・クストリッツァ監督の独特の世界が見事に結実している。

 さらに記しておくべきは、この映画の主要人物をおびやかす強迫観念らしきものの存在だ。現在の自分の生は人の犠牲のうえに成り立っている、そこからさらに進んで、より積極的に生きようとすれば邪魔な人間を排除しなければならないのではないか、だがいったん動き出すととめることができない……。

 大型車キャデラックの販売会社社長のジェリー・ルイスは交通事故を起こして兄弟とその妻を死なせて自分だけが生き残ってしまった。後悔にさいなまれる彼は、できればその一粒種の甥っ子ジョニー・デップに事業を引き継がせたいと願っている。だがジョニー・デップは販売店を訪れたフェイ・ダナウェイに一目ぼれして仕事を投げ出して、彼女の家にすっかり居ついてしまう。ややこしいことにその家には先立った夫の愛娘のリリ・テイラーがいる。フェイは継母であるし、それがなくても二人は犬猿の仲。リリはペットの亀のように動きがのろくても堅実と質素を旨とする人で、貞操も堅い。一方のフェイは「イカレタ女」と陰口されるように浪費家で、若い男が好きで関係をつくるのも早いときている。さらに飛行機作りを夢想する。この一家はブルジョアのようだが、リリがフェイの暴走を食い止めることで成立しているらしく見え、質素な暮らしぶりだ。夫(父)の死によってこの「家族」もまたあらたな段階をむかえて、あやうい均衡のもとに保たれているのだ。そしてジョニー・デップは叔父の思いも痛切に知っているし、フェイとリリの間に入った自分が火種になるであろうことも知っている。だが勢いで突き進んでしまう。それにつれて先に記した強迫観念がジョニーのなかに集約されてしだいに増大していくのだ。

 だが恋愛の大いなる力を描き出すのもこの映画の偉大さである。恋愛に没入してしまうと幸福以外に何も見えなくなる、またその幸福には日々増大していくような進行感覚があるのだ。ジョニーは自分の世界や主張にフェイを引き寄せるのではなく、逆にフェイの世界に没入し、奉仕する。フェイの夢である飛行機制作に日々を浪費する。これが失敗の連続だが、こんなにも楽しい世界はないという空気が驚くほどの実感をともなって伝わってくる。フェイ・ダナウェイが役柄にすっかり溶け込んで素晴らしいのだし、手製飛行機が跳躍台から離陸しようとしてはガクンと頭を垂れてひしゃげてしまう場面の繰り返しもこれまた素晴らしい、痛快だ。浪費と遊興の世界だから失敗ほど楽しいものはないといわんばかり。逆に、ジョニーがしばらく留守にして帰ってきたときのフェイ・ダナウェイのメランコリックで気ちがいじみたジョニーに対する態度も、ああ、女性が恋するとはこういうことか、納得させられる。憤りを鎮めるどころかそれを故意に長引かせて相手の男に少しでも打撃を与えようとする、復讐しようとする、わからないことをまくしたてて困惑させる。

 リリ・テイラーはこの二人に執拗につきまとい妨害する。飛行機をハンマーで壊したり、二人がデートしているところに咥え煙草でアコーディオンをうるさく弾きながらちかづいたりと。彼女もジョニーが好きなこともよくわかり、顔をわざと小さくしかめてジョニーに見せる所作も納得できる。また自殺を試みることも何度か。だがこういうリリの行動にもジョニーとフェイはいっこうにふりむかない。というより理解できないのだし、する気もない。恋愛の最中はそういうものだ。リリは刺身のつまにしか見えないのだ。そういうリリにもやがてジョニーは目を向けはじめるが、悲劇はやはりやってくる……。

 エミール・クストリッツァ監督の描き出す日常世界は、死が近接している。近い過去にも未来にも死が口をあけて待ちかまえている。彼の故郷であるセルビアはこの映画の製作されたころ、旧ユーゴスラビア内戦の最盛期であっただろう。直接的ではないにせよ、それと本作が無縁だとは思えない。さて、もう筆をおくころあいだが、この映画の魅力はまだ語りつくせない。枝葉の部分にもほんとうに楽しい要素がつまっている。
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悶絶!! どんでん返し(1977/日本)

悶絶!!どんでん返し悶絶!!どんでん返し
(2005/12/22)
谷ナオミ宮井えりな

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 浦島太郎ではないが、昨日までのめくるめき世界にはどうしたってもどれない。そんな若い男の寂しさ、落とし穴にストンと落とされたような意外さがよく出た佳作。彼はオカマとしての生活が周囲にも助けられてすっかり身についてしまい、自分の本姓を発見したつもりになって幸福そのものだったが、本人以外の人にとってはそれほど真剣なものではなく、一時的な遊興の世界だったのだ。こういう食いちがいは勿論オカマの世界に限らない。私たちの身の上にも起こりそうな話にちがいない。

 若いサラリーマンの鶴岡修はピンクサロンのホステスの谷ナオミとすっかり仲良しになって、店が跳ねたあと酒の勢いも手伝って、二人で谷の住むアパートになだれ込む。だがそこには当然と言うべきか、谷の夫の遠藤征慈がいる。普段なら美人局も得意なチンピラヤクザの彼だから、鶴岡から金を巻き上げることもできようが、遠藤は若い鶴岡をひと目見て気に入ってしまい、部屋に入れておろおろする谷ナオミが見る前で鶴岡を「犯して」しまう。さんざんな目にあった鶴岡だが、これで遠藤とはすっかり縁が切れると安心したのも束の間、偶然にも遠藤の管理する売春組織の女を買ってしまい、そこで遠藤と鉢合わせになって、またもや「犯されて」しまうのだ。

 この二回目の偶然はシナリオとしては安易でいただけない。だが二回「犯される」ことによって、その世界の恍惚を覚えるというのは、その世界のことはまるで私は知らないが、いかにもありそうで、なるほどと思う。

 このあとの鶴岡修は命じられるもでもなく女装にのめりこんで、遠藤征慈の傍にどっかり落ちついてしまう。谷ナオミも入れて三人でセックスをするが、男二人があまり仲がいいので、谷はやきもちを焼く。これもありそうだ。また若い女が集まる売春組織も彼のねぐら同然となり、オカマの鶴岡が若い女を「やさしく」抱くことにもなる。さらには遠藤が手下とともに女たちを裸にして強引にある種の技を調教する場面がある。これは具体的には書かないが、神代辰巳監督ならではでもあるが、このころつくられたロマンポルノや東映のポルノ系の映画によく見られるの卑小で猥雑で子どもっぽい世界で、苦笑すること受けあいだ。サラリーマン生活を捨ててこういう世界に入りびたる鶴岡は勿論幸福そのもの、何が来たってこわくないという姿勢で、どっしりとかまえる。

 だがこの小さな集まりにもたそがれが来て終わりが来る。客の老人が腹上死してしまう。この事件では全員で埋立地へ遺体を運んで埋めてしまって事なきを得るが、さらにもう一度、取り調べに来た刑事を遠藤が刺してしまった。(ここでも死亡事件が「二回目」であることが応えている)すわっ、逃亡だというときに、鶴岡は足手まといにされて追い出されるのだ。つまり遠藤は長年連れ添った谷ナオミのほうを、情からして当然とはいえ選ぶ。遠藤は鶴岡を「愛して」なんかいなかった。束の間の遊興の相手でしかなかったのだ。それを痛切に知ったときの鶴岡ときたら、ほんとうに竜宮城から追い出された浦島みたいで哀れを誘う。

 惜しむらくは、谷ナオミをのぞいては俳優としてほとんどの人が未熟だということか。もっと面白おかしく芝居すればいいのにと思う。『黒薔薇昇天』に出た岸田森あたりをもってくれば安心して見られただろうに。


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