大洋ボート

ヒネル・サレーム『父さんの銃』

父さんの銃父さんの銃
(2007/06)
ヒネル・サレーム

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 著者のヒネル・サラームはクルド人の映画監督。十八歳のときにイラクを脱出し、現在はフランスに居をかまえて創作活動をしているという。有名な人らしいが、日本ではその映画はまだ一本も公開されていないという。この本は主にサダム・フセイン体制下のイラクでの、彼の子ども時代から脱出時までの生活と成長ぶりを手記風に綴ったものである。

 映画監督といえばシナリオライターを兼ねる人も少なくない。また撮影に臨むに当たって事前にノートやメモ類を記しておく人がほとんどだろう。だから逆にいうと、それらシナリオやノートは準備段階としての書き物で、完成体としてはやはりできあがった映画作品に席をゆずると、作り手としては認識するのだろう。映画監督としての力や構想は映画の中でこそ全面的に実現される。この本に物足りなさを感じるとすれば、なにかしら来るべき映画のための材料として、著者によって考えられているのではないか、というあたりにありそうだ。なるほど、事実として書かれていることは残酷さに満ちていたり、私たちがなじみのない外国の文化や生活に接したときの驚きにも欠かない。だがすべてが駆け足調で、事実から事実へ通過する感じがして印象に残りにくい。別の角度からみると、感情表現によってその場の光景を押し広げる、立ち止まるということがほとんどないのだ。このことは「準備段階の手記」であるかもしれないというこの本の性格以外にも理由が考えられる。

 「ぼくはそのころ、まだ子供だった。」という語句が最初の頃、何回も出てくる。たしかに子供は感情表現が未熟である。悲しみや怒りといった感情を子供は充分に維持することができないし、それ以前にそれがいったい何のことやらかもわからないものかもしれない。三十歳の従兄が親イラクの民兵と銃で派手にやりあった後、生け捕りにされる。そしてジープの後部に足をしばられて逆さにされる。

車は、反政府派へのみせしめとして、町の中心を三周した。従兄はもう、血まみれのぼろきれでしかなかった。
 その日、ぼくの一族は七人の男を喪った。一家は故郷をあとにした。
 でも、ぼくはそのころ、まだ子供だった。(p8)


 これ以上を、主人公のアザト少年は語らない。語れないのか。やがて、少年は一家とともに別の町に行くが、川で水遊びをして体じゅうをミミズだらけにして川岸に上がると、母の久しぶりの「狂ったような笑い顔」を見る。だが母の喜びややっとこさのような安堵が少年に伝わったのかは、ここでも書かれない。ただ著者の記憶に残ったことはたしかなようだ。その後、少年の視界はすこしずつ開けていくが、やはり感情表現はほぼ同質に切り詰められる。

 「訳者あとがき」などによると、クルド人はチグリス・ユーフラテス河上流のクルディスタンと呼ばれる地域に住む先住民族であり、人口三千五百万人という規模ながら母国を持たない。その居住地はシリア、イラク、イラン、トルコ、アルメニアに跨っている。独自の言語と文化を持ち、独立を志向する気概は旺盛である。アザト少年の一家や親戚もこぞって独立支持派である。父はバルザーニ大将(一九四五年のクルディスタン独立時の指導者。これは国際的に認知されなかったが、その後も抵抗運動の総大将的存在としてクルド人に親しまれる。一九七八年死去)の私設通信士という職を誇りにする人であり、アザトの長兄ものちに抵抗運動に身を投じる。母も父に対してはまったく従順である。そんななか、アザトはクルドの詩や絵を知り、仲間とも交わって、ごくごく自然にクルド独立志向を身につけていく。アザトの一家はまったく落ち着く暇がない、故郷をイラク人に追われたり、イランの難民キャンプに逃れたりと。また、十八歳で中学卒業資格がないとイラク軍に徴兵される決まりがあって、アザトは成績不良でそのおそれが十分にあった。だがそこは賄賂のまかりとおるお国柄である。父の知り合いが役所で身分証明書の係をやっていて、父はその人に鶏二羽と宝石を押し付けて、アザトの年齢を何と四歳!も下げてもらうのである。

 感情表現が少ないとこの本を評したが、わずかに例外もある。そして私がいちばん好きなさわやかな場面である。父に言われて新しく手に入れた「プリムス」という拳銃を使いこなすため、練習をするアザト少年。

 「おまえはもう子供じゃない、一人前の男だ。そいつを持って好きなだけ撃ってこい」
 プリムスのおかげで、父がはじめてぼくを大人としてあつかってくれたのだ。ぼくは銃を持ってるんだ、もう子供じゃないんだ。ぼくは誇らしかった。父がいったとおり、自分が一人前の男になったように感じた。なにか標的になるものはないかとあたりを見まわす。空には鳥が飛んでいるが、すこしばかり遠すぎる。ウサギもヘビも見あたらない。ぼくはとうとう、その銃を空へ、神様のほうへむけてぶっぱなした。頭が変になったか、酔っぱらったみたいだった。あの瞬間なら、ぼくは人を殺せるかもしれない。こわいものなどなにもなかった。また何発か撃った。銃声が、丘のむこうからやまびこになって返ってきた。火薬のにおいがツンと鼻を突いた。大人の男のにおいだ。ぼくは三十六発の弾をすべて空にすると、プリムスの銃口に鼻先をつっこみ、そのにおいを思いきり吸いこんでから家路についた。(p46~47)


 戦争のまっただなかではなく、その一歩手前で、その経験の一度もない少年が戦争を空想する。理由は十分にそろっていてあとは身を注ぎこむことだけが残されている。しかも銃という武器が彼をそそのかす。このときの妖しい感覚。あともどりできないという一種うしろめたい感覚。窮屈さと解放感。「正当な戦争」を前にした世界中の少年や青年がこういう感覚を短い幸福として味わうのかもしれない。戦争のまっただなかでは、おのずからまた別の感慨を受けとるにせよ。
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イントゥ・ザ・ブルー(2005/アメリカ)

イントゥ・ザ・ブルーイントゥ・ザ・ブルー
(2006/03/17)
ジェシカ・アルバ

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  この暑い季節にぴったりのDVD(映画)。バハマの青い海と光が心地よい。

 古い沈没船の発見を夢見るダイバーのポール・ウォーカーはついにそれを実現する。さらに沈没船の付近には墜落したジェット機がほとんど無傷のままで残骸をさらしていた。機内には密輸目的らしい大量の麻薬もあった。ポール・ウォーカーとその恋人のジェシカ・アルバ、さらにはニューヨークからやってきた友人の弁護士とその恋人の計四人で協力して、発掘作業にさっそく取りかかる。これが話の始まりで、滅多にない幸運の発見が二つも重なるのは話としては無理があるが、そこは映画。四人はダイビングに励むなか、麻薬の強奪をたくらむ悪漢どもとのたたかいにも巻き込まれる。

 沈没船の発見とその財宝の探索の過程がおもしろい。まずは海底の砂場でバラスト用の石(船の重心の役割をする)を見つける。そこから手掘りで砂をかいていくのだが、次には送風機が使用される。圧力をかけて砂を噴射するのだ。さらにもっと作業を効率化させるために大型ポンプが用いられる。逆に砂を吸い込んで後部で吐き出す方式だ。金製のナイフが見つかって、やったなという感じ。少し重いものの引き上げの様子もおもしろい。これはバルーンを括りつけるが、最初はぺしゃんこで、海中で酸素ボンベから酸素を送ってふくらます。なるほど。もっと重量のあるものは、比較的大型の海上の船から起重機で引き上げる。

 鮫やエイや小さな魚が群れをなすのも、海中のカメラが仰ぐ角度で撮って、陽光の散乱するさまやボートの航跡をみせてくれるのもさわやか。酸素ボンベの栓を抜いて武器にするのも「へえ」。勢いがついて魚雷のように進む。ジェシカ・アルバといおう女優のビキニ姿のきれいなことも書いておかなくては。

 DVDは、ときどき画面の不鮮明なものや色彩がにじんだようなものに出会うが、これはそんなこともなく、たいへん鮮やかな映像を見せてくれた。
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歩いても歩いても

 人が人を怨みつづけることが果たして正当なことなのだろうか、そうでないとしても、やむをえないことなのだろうか。是枝裕和監督の巧みで丁寧な日常風景の描写によって、私は映画の内部にどんどん引き込まれていった。そしてこの手に負えそうもない大きな問題に行き当たった。壁のような確かな手ごたえだった。開業医の父の跡を継ぐはずだった長男が若い頃に水難事故で死んだ。溺れかかった子供を助けるためだったが、代わりに自分が波にさらわれて命を落としてしまったのだ。その子供は長男の霊前に頭を垂れるために毎年お盆の季節に長男の一家、この映画の舞台となる元開業医の家を訪ねてくる。長男の死からすでに二十年が経過してしまっているが、毎年欠かさずやってくる。男は自分の身代わりになって死去した長男やその一家に当然義理を抱いているだろう。だが父の原田芳雄や母の樹木希林は、その男のために長男が命を落としたことが悔しくてならない。寂しくてならない。その男が死んで長男が生き残ってくれたほうがどんなにかよかったろうという想いを隠そうともしない。そこから男に対する怨みの念が生じてくる。勿論、それを表面立てて男に突きつけるようなことはしない。長男と深い縁のある客として丁重に遇する。しかし「来年も再来年も来てもらわなきゃ」「忘れてもらっては困るのよ」と樹木希林は家族に愚痴る。こういうことを身をもって経験したことがないからなのか、私にはこの両親の想いがある種凄惨さを帯びて映ってしまう。愚痴でもあり、祈りでもあり、怒りであり、怨みなのだ。そして残された自分たちの日常を平和裡に明るく繰りかえすこととこの凄惨さは同居する。矛盾しつつも同居することができるのだ。生きていくためのいわばマイナスの糧のようなものだろうか。生涯において樹木希林と原田芳雄は、この感情のかたまりを忘れることはない。

 私には毎年命の恩人の家へ足を運ばなければならない青年がたいへん気の毒に思えた。彼には遺族(とりわけ両親)の気持ちが毎年足を運ぶうちに、子供から大人へと成長するうちに、ひしひしと伝わってくるのではないか。自分が生きてしまったことに後ろめたささえ感じているようだ。死んだ人のためにも遺族の「期待」のためにも、せいいっぱい生きねばならないという想い。だが就職が思うようにはいかずにフリーターの身分。樹木に問われるままに答えるのも縮こまるようで、ちょっとしたいじめにも見えた。靴下の片一方が黒く汚れているところを発見されて子供にくすくす笑いされたり、正座から立ち上がろうとしてよろける場面など眉をひそめさせる不恰好さだ。彼はほんとうは盆のお参りは、苦しくてもう勘弁してもらいたいのかもしれない。次男の阿部寛も青年を陰でなじることには同調できないようだ。どこでもそうだとはかぎらないが、親と兄妹では長男の死の受け止め方が、この映画の家族の場合は微妙に異なる。

 そしてその想いがいちばん強く、ときにこらえられなくなって吐き出してしまうのが母の樹木希林だ。青年への怨みは裏返せば亡き長男への狂ったような追憶の想いだ。前半の部分で、阿部寛が連れて歩いている子供とともに黄色い蝶を見たとき、「白い蝶が一冬を越したとき黄色になるんだ」という言い伝えを教える場面があるが、これがたいへんうまく生かされる。青年が帰っていってやがて夜が訪れたとき、仏壇のある居間にその黄色の蝶がさまよいこんでくるのだ。樹木はそれを長男の霊として見てしまう。「シンイチ、帰ってきたのかい?」口調は静かだが、洒落ではなく鬼気がうっすらただよう場面だ。腰を曲げてにこやかに蝶に近づきやさしく守ろうとする、うっとりする樹木。原田、阿部、YOUやその連れ合いや子供ら家族は制止することもなく見守るしかない。たじろぐのか、あきれるのか、そうでもあるが、母のあまりにも強い長男への追慕の情に直面してあらためて畏怖せざるをえないのだ。母は蝶が長男だという芝居をいっときでもしてみたい、その世界にひたってみたい、そして芝居であるという意識から自由になったとき、母は長男を黄色い蝶のなかに甦らせることができる。また、周囲の目にも少し狂ったような芝居が芝居でなくなる瞬間だ、つまり蝶を長男であるとする意識が母から自然に伝播してきて成立するのだ。これはもう家族としては、母という場所を許すしかない、尊重するしかない。家族という密閉された空間にのみかぎられたやりとりで、あたたかい無言の約束だ。こういうことがあってこそ家族は家族でありつづけられ、時間を乗り越えることができる。

 母の振る舞いという点では、もうひとつ重要事がある。いしだあゆみの歌「ブルーライトヨコハマ」のレコード(CDではない!)を大事にしていて、ときどき掛けるらしいのだ。父が浮気相手の女性宅かにいたときに、樹木がその家から漏れてきたのがその歌だ。夫の浮気を夫自身に思い出させざるをえない歌「ブルーライトヨコハマ」。これもまた、母の樹木希林のうちに流れる重要な感情、夫への怨みであり、愚痴だ。この歌は四〇年も前に流行ったもので、夫の原田芳雄の立場ならもういい加減に忘れてもらいたい気持ちにちがいないが、樹木はいまだにレコードでちくちく刺すのだ。盆休みに久しぶりに帰ってきた阿部寛やYOUに事情を話すのだ。「ブルーライトヨコハマ」は独特の軽さをもった名曲で、私はいまだに酔うことができるが、まつわる格別の思い出はない、大部分の人もそうだろう。同じ一枚のレコードをはさんで、ここでも人の想いのちがいが巧みに描かれる。またこういう妻の樹木の振る舞いにも夫の原田芳雄は無抵抗たらざるをえないのだろう。無抵抗だからこそ家庭は維持されるのだ。そうしてレコードを掛けることと先に記したように青年を怨むこと、亡き長男を想うことが一個の人格の樹木希林のなかに同居している、樹木は家族の中で自由にふるまう。だが本人には自由の感覚はない、大事に育てようとした希望や明るさが何回かの事件によって砕かれてしまったという欠損感と苛立ち、それが中心を占めている。樹木以外の家族からすれば、自分には許せないことであっても家族には許す、許さざるをえない、そういう感情で樹木に接しているのではないか。これは「妥協」という言葉は適切ではないと思う。性と血の繋がりというところからくる因果とでもいおうか。

 黄色の蝶のことが中断したが、家にまよい込んだ蝶は阿部寛によってやさしくとらえられて夜の闇に放たれる。そしてまだ続きがある。阿部寛の家族が父母の家をあとにするとき、ふたたび黄色の蝶が飛んでくる。子供が言う。「あのチョウチョはおとうさんと一緒に見たことがある」この瞬間、私は泣けた。そして身体がたいへん軽くなった気がした。「おとうさん」とは子供にとっては死んだ実の父、阿部寛からすると妻の前夫である。子供は黄色の蝶を亡き父の思い出と早くも結び付けてしまったのではないか。白い蝶が一冬を越すと黄色くなるという言い伝えとともに、死者を追憶するよすがにすることをこの子供は覚えてしまった。これはいろんな営みを、ひいては生を私たちが子や孫へと引き継いでいくということのすばらしい象徴ではないかと直感したから、私は泣けたのだと思う。つまり、黄色い蝶は樹木希林の長男の亡霊からこの子供の実父の亡霊となった、亡霊も亡霊ををたくす担い手も引き継がれたように私には思えたのだ。

 「引き継ぐ」ということからくる解放感を、私はこの映画ではじめて予感したのかもしれない。だがそこまでに達するまでに私たちは生きねばならないのだ。苦難があろうとも。すると舞台となった海辺の小さな町の変わらぬ山と海のたたずまいや生い茂る緑の中の階段や坂道が、一見平凡そうでたいへんありがたい存在に見えてきた。私たちを生かしてくれる条件という以上に、不可欠な存在として。また樹木希林が手際よく切る大根や、となりでYOUが馬鹿にスローに皮を削っていくにんじんが、ふりかえってみるとたいへん美味そうに見えてきた。詳しくは書けないが、家族同士のユーモラスなやりとりも笑えた。この部分もすぐれていて、これだけ笑いで劇場がにぎやかになった映画も久しぶりの気がする。多面体的な魅力を放つ傑作だ。

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レッド・オクトーバーを追え!(1990/アメリカ)

レッド・オクトーバーを追え!アドバンスト・コレクターズ・エディションレッド・オクトーバーを追え!アドバンスト・コレクターズ・エディション
(2007/08/24)
ショーン・コネリー

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 潜水艦を舞台にした映画は多くあるが、見所はやはり海上の敵艦からの機雷攻撃によって危機にさらされる場面だろう。艦壁に亀裂が生じて水がドドッと流れ込んでくる、もうおしまいだ! という切迫感がある。だがこの映画にはそれがない。大型の原子力潜水艦だからかもしれないが、水の圧倒的な浸入は見たい気は残って、その点では残念かな。模型の原潜やミサイル魚雷の水中撮影がもっぱらなのは無理もないのかもしれないが、肩透かしの感は残る。ヘリコプターから潜水艦に梯子づたいに人が移動する場面は模型ではなく実写で、さすがに迫力があるが。

 冷戦時代が背景で、ソ連原潜レッド・オクトーバーの艦長ショーン・コネリーが艦ごとアメリカへの亡命を目指して舵を切るというもの。コネリーからの手紙で事態を把握したソ連海軍は阻止すべく原潜の大部隊を動員して包囲をめざす。一方、アメリカは原潜の不審な動きを先制核攻撃の可能性ありとして同じく原潜を動員して撃沈をも視野に入れる。だが軍事アナリストのアレック・ボールドウィン(ライアン博士)は一人ソ連原潜の亡命の意図ありと主張する。アメリカ目指して逃げるショーン・コネリー。追うソ連原潜と迎え撃つ用意万端のアメリカ原潜、アメリカ原潜の動きにブレーキをかけようとするアレック・ボールドウィン、という三つどもえ四つどもえの戦いが大西洋で繰り広げられる。

 軍事に興味のある方には面白いのかもしれないが、私にはわかりづらい箇所もあってそうでもなかった。俳優陣については、ショーン・コネリーは貫禄充分だが、アレック・ボールドウィンという人はどうか。なよなよして覇気がなく見えて、軍事アナリストという役にふさわしくない感じがした。


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プラネットテラー(2007/アメリカ)

プラネット・テラー プレミアム・エディションプラネット・テラー プレミアム・エディション
(2008/03/21)
ジェフ・フェイヒーステイシー・ファーガソン

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 文句なしに面白い。だがこの面白さを言葉で伝えるのはなかなか難しそうだ。「さくさく」という言葉が少しは流行っているのかもしれないが、それに当てはまる。ウンカのように湧いてきて襲いかかるゾンビをそれこそ「さくさく」と、つまりは容易に殲滅してしまう、人間同士の団結が自然にできあがってしまって、みんなが一生懸命になってゾンビに立ち向かい、「さくさく」と滅ぼす。悲壮感はあるが深みはない。だから教訓とか人情とかがあってもマンネリズム的なもので、「B級映画」につきものというべきか、新しさはない。新しさはむしろ表面にあって、全編をつらぬくいかがわしさ、怪しさ(妖しさ)滑稽さ等の紛々たる匂いであり、また始まってしまえば最後まで途切れることのない力強いリズムであり、その痛快さである。

 細胞を壊死させて人をゾンビに変えてしまうウィルスが小さな町で蔓延する。その解毒剤もあるようで、軍人のブルース・ウイルスがそれを手に入れようとして、部下を従えて、地元ヤクザと取引にやってくる。だがヤクザは持ち合わせがなく、冷徹なブルース・ウィルスは部下やヤクザ周辺のチンピラに命じてそのヤクザの睾丸を切り取ってしまうのだ。睾丸と解毒剤と関係があるのかないのか、わからない。投げ出された容器には睾丸が一杯入れられている。そしてどうしてだか、敵味方?入り乱れての銃撃戦が始まってしまう。故意に説明が省略されるため妖しい空気が蔓延してくる。

 ヒロインのローズ・マッゴウワンがゴーゴーダンサーを辞めてしけたレストランに行くと、元恋人の男がいる。男は解体業だというが、のちにどういうわけだか逮捕されながら、射撃の名手であるため手錠を解かれて警察と一緒にゾンビと立ち向かう。しかも元恋人ともよりを戻す。マッゴーワンはコメディアンを目指すというが、これにも?マーク。レストランは閑古鳥が鳴いているが、ここのオーナーは何故かバーベキューのソース作りに熱中している。しかも地元警察の刑事とは兄弟。この町では鹿を食する人間が増えたという説明があるから、この店の肉は鹿じゃないかと思ってしまったが、これも不明で思わせぶりだ。こういう店では食いたくないという気にさせる。

 病院ではウィルス感染者で満杯の状態。医師は転移を防ぐため、腕を切り取れというような指示を簡単に出す。患者の口をあけさせてピンセットで舌の様子を見るとピュっと血が飛んで医師の顔を汚す。医師の妻は看護師で、指示されると患者ににんまりとして催眠注射をやってのける。しかも医師は妻の浮気を疑っている最中。

 こまかく書きすぎたが、こういうごった煮状態の人間関係がやがて感染者と非感染者とに整然と別れて、殺しあうのだ。いったん感染するとゾンビになって人に襲い掛かるしかない運命らしく、感染以前の人となりが善人だろうと何だろうと、殲滅するしかない。ゾンビは火器には無力だが、逃げずに本能として人に襲い掛かる。勧善懲悪というのではない。威力を計測できない自然災害でもない。ただ数だけがおびただしいゾンビを「さくさく」と消滅させるのだ。

 ローズ・マッゴウワンは右足の膝から下を食いちぎられるが、そのあとが素晴らしくカッコいい。間に合わせの棒切れを義足にし、次にはマシンガンを義足にして射ちまくる。義足でよたよたの急ぎ足なんてありえないが、ロバート・ロドリゲス監督よく思いついた。
    22:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

シークレット・サンシャイン

 この映画のチョン・ドヨンのような女性は、身近にいる気がする。潔癖症で気位が高い、やさしいようで冷たい、そしてそのことを彼女自身意識していない。かといって性格破綻者というわけでもなく、滅多なことがなければ市民生活をとどこおりなく送ることができる。ひとことで言い表すのが厄介な存在だが、私たちは実人生において、彼女のような人にすでに接したことがあるような感覚をおぼえる。そういうチョン・ドヨンの人となりを浮き彫りにするのがこの映画の狙いで、悲劇あり、恋愛ともいえない恋愛がありで、それらを通過してやがて精神を病んでしまう姿を冷徹に追跡して、大いに成功している。

 チョン・ドヨンは一人息子をつれて、亡き夫の故郷の町「密陽」にやってきた。そこでピアノ教室を開いて新生活を始めるためである。途中で車が故障し、自動車修理の自営業者のソン・ガンホに助けてもらうが、彼はその後もチョン・ドヨンのために何かと世話を焼きつづける。場所やピアノ教室の生徒を探しだしたりと。ソン・ガンホは三十代後半の独身者で、チョン・ドヨンにおそらく一目ぼれの状態だ。だがチョン・ドヨンは彼の親切を受け入れ交流をつづけるが、彼を恋愛の対象としてはまったく見ようとはしない。何故か、彼女の弟はソン・ガンホに「あなたは姉の好みのタイプじゃない」と笑いながら忠告する。ソン・ガンホは愛想笑いを返すのがせいいっぱい。ソン・ガンホは韓国を代表する俳優の一人だが、決してハンサムではなく、顔が四角いがっちりタイプだ。チョン・ドヨンがどう考えるのか、映画では明らかではないが、とりあげたようなことで推測するしかない。

 ソン・ガンホも不思議で、男性としてはなかなかマネができない接し方をする。チョン・ドヨンにまともにプロポーズもせず、かといって諦めてとおざかるのでもない。彼女の傍に居られることだけで幸福そのものといった風情だ。女性の美貌に惹かれてか、こういう生き方をする人もいそうだ。

 そんな中、息子の誘拐事件が起こり、身代金要求の電話がチョン・ドヨンにかかってくる。いても立ってもいられない彼女はソン・ガンホのところに駆けつける。だが、当然何も知らない彼は一人でカラオケに興じている。その様が戸の透明ガラスの向こうにはっきり見える。それを見たチョン・ドヨンは何故か踝を返してしまう。ここははっとする映像で、映画中でいちばん印象に刻まれる場面だ。やはり、ほんとうの親密さは醸成されていないのか、彼に対する冷淡さの表れか、解釈としてはそういうことだろうが、この行動はチョン・ドヨン自身にさえも予想外にちがいない。

 事件は最悪の結果に終わってしまい、やがてチョン・ドヨンはキリスト教信仰に救いを見出そうとするが、ここでも彼女はつまずく。地元の信仰者にいくら親切にされ慰められても、どうしても受けいれられないことが生じてくるのだ。詳述はしないが、彼女は神は自分の家族のような存在だと見做してしまった。世界を見下ろすかにみえる神の位置から彼女もまた人々を眺めようとした。無意識のうちにそうなってしまった。だが神や信仰は万人のもので、誰でも神に許しを請い、信仰が深まればようやく許されたと思える境地に達することができる。だがチョン・ドヨンは自分や家族の問題に関しては、許すことができるのは自分以外ではありえず、他者には断じてその高い位置を認めようとはしないのだ……。

 物語はまだあり、チョン・ドヨンは荒れるが、ソン・ガンホは親切そのものの姿勢で彼女を守ろうとする。題名の「シークレット・サンシャイン」は町名の「密陽」の直訳であるが、ドヨンにとってのソン・ガンホのことでもあろう。だが彼女は最後まで気づかないのだ。

 チョン・ドヨンという人を見るのははじめてだが、いい女優だ。はっきりした不道徳さはないが、気位が高く、普通の人とは言えない、何処かずれている。それでは「普通」とは何かをあらためて考えなくてはならない。そういうところにまで視聴者を引っ張りあげてくれる映画であり、彼女の力演であった。自叙伝かと思えるくらい役になりきっていて不自然さがまったくない。

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チャーリー・ウィルソンズ・ウォー

 アフガニスタンに侵入してきたソ連に反攻する地元ゲリラへのアメリカの支援の実相を描く。アメリカの国際的謀略や途上国に対する冷淡さがテーマだが、アメリカの「支援」なるもののいかがわしさは、かなりの人が直感していることなので、大きい目新しさはない気がする。今頃なんで?と言いたくなる。冷戦時の一九八〇年代初めにさかのぼる話だ。

 トム・ハンクスは題名の下院議員で、歳出小委員会に属している。「酒と女が好き」と公言してはばからない享楽的な議員生活をおくるが、支援者からアフガニスタンの惨状を聞かされる。たとえば、おもちゃと間違えてソ連が仕掛けた爆弾にちかづいて多くの子供が犠牲になっているというのだ。だがアメリカは正規軍を投入できない。冷戦時の不文律で、米ソ両国が直接ぶつかり合うことは許されないのだ。そこでトム・ハンクスの活躍が始まる。歳出小委員会で予算をつける一方で、資産家で反共主義者のジュリア・ロバーツの協力を取り付ける。さらに、CIAで冷遇されているフィリップ・シーモア・ホフマンとタッグを組んで、何とソ連製の武器をイスラエルやエジプトから供給し、パキスタンを経由してアフガンゲリラに渡す。こういう離れ業をやってのけるのだ。イスラム系国家とイスラエルは敵対関係にあるが、冷戦当時のソ連は彼らにとっては一様に敵であり、そこを巧みに衝いた作戦だった。扱いに慣れないゲリラが携帯ミサイルを発射すると、ソ連のヘリに面白いように命中して爆発し、小躍りするさまは、ちょっと愉快である。

 やがてソ連は撤退を余儀なくされる。さらにトム・ハンクスは新生アフガンに学校を建てるための援助を委員会に申請するが、委員長ににべもなく却下される。何百億ドルもの軍事援助とちがって、たった百万ドルで済むのにだ。「お前、そんなことも知らないのか」彼はそう言い放たれたような顔をする。この辺が製作者の描き出したかったカ所だと思うが、アメリカという国は所詮そんなもんなんだなあ。だから私は格別な興趣はもてなかった。アフガンへの民生支援を怠った結果、タリバンのような原始的な宗教的政権の存続を許すことになり、さらにはビン・ラディンの跳梁跋扈を許し、9,11テロを招くことにつながった。製作者はこれをいいたいのだと思うが、それならトム・ハンクスをピエロにするというよりも、わかりきった政治的メッセージになってしまう。メッセージとしても遅い。映画としてはこれではつまらない。

 ブラックユーモアというべきか。他にもっと面白い場面があった。議員会館のトムの専用室にフィリップ・シーモア・ホフマンが打ち合わせのために訪ねてくる。ちょうどそのときトムは、コカイン吸引疑惑のスキャンダルに巻き込まれようかという時で、マスコミ対応など美人秘書数人との打ち合わせに忙しい。そして両方とも密談であるために、ややこしい。一方の話を他方に聞かせたくない、また時間が切迫しているので、CIA職員を部屋に招いたり追い出したりの繰り返しになる。だが盗聴が朝飯前のCIA職員には話はすっかり筒抜けになっている。具体的には書かないが小道具のせいだ。ここでも「お前、そんなことも知らないのか」とトム・ハンクスは言われているみたいだった。学校建設の件とも相通じているのだが。

 大胆事を平静に、しかも飄々とやってのけながら最後には間が抜けているという役柄はトム・ハンクスにはうってつけかもしれない。他方、ジュリア・ロバーツは何を思って資産家の役など引き受けたのだろうか。まったく印象が薄い。

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告発のとき

 イラク戦争によって精神を病み、堕落し転落するアメリカ軍の若い兵士が描かれる。先進国では一様にナショナリズムが希薄になったとは、一部でよく言われることかもしれないが、そのことと戦争に従事する者の精神が脆弱化したという言説を結び付けてはならない。戦争という巨大な暴力はどんな屈強な人間をしても精神のバランスを喪わしめるのではないか。また先進、途上の国によるちがいもほとんどない。今までは、死や肉体の損傷が主だってとりあげられてきて、精神の損傷は見過ごされる傾向があったのではないか。『ディア・ハンター』あたりが先鞭をつけたのかと思われるが、この映画もまたそれをとりあげた。しかもあの映画のように特異な個人としてではなく、兵士の全体像としての精神の損傷である。心的外傷後ストレス症候群ともいわれるさまざまな欝症状や抜きがたい暴力的傾向が、イラク帰還兵の間に蔓延する様がくっきりと描かれている。

 トミー・リー・ジョウンズは軍人だが、イラクから帰還したはずの次男(長男はすでに戦死している)が消息を絶ったことを知らされる。いても立ってもいられなくなった彼は基地へおもむき、軍関係者に詳細を聞く一方で、地元警察の刑事シャーリーズ・セロンにも協力を依頼する。また頻繁にイラク従軍中の息子から彼のもとに送られてきた携帯電話の画像や映像の修復を専門家に依頼する。こうして多方向からの調査によってしだいに真相があぶりだされてくるが、スリリングだ。やがて息子は焼死体で発見されることになる。

 息子はイラクに移動した最初の頃は、非情な暴力に対して批判的だったようだ。轢いてしまったイラク人の子供の安否を気遣って、装甲車から降りてしまうが、これは命令違反だろう。また軍人としての父を尊敬していたこともうかがえる。だが真相は怖ろしいかぎりだ。書かないが、息子が仲間から「ドク」(ドクター)とあだ名で呼ばれていたこと、装甲車に乗せられた負傷者に対して息子が、「どこが痛むんだ、ここか、すぐに手当てしてやるからな」と叫んで言い聞かせる場面も修復されて明らかになる。それらの断片的な手がかりは驚くばかりの真相に到達する。

 戦争はどうにもならない規模の恐怖を生む、また敵としてのイラク人への憎しみも生んでしまう。逃れるために麻薬にも手を出してしまうが、それでも収まりがつかないものらしい。大きい暴力に対する恐怖と無力を、小さな存在に対する暴力と剥き出しの攻撃性で埋め合わせようとする。暴力が深く浸透してしまって自制が効かなくなる。さらにその傾向はアメリカ本国にも持ち帰られる。

 自制といえば、トミー・リー・ジョーンズは身の回りを、たとえばベッドメイキングを丁寧におこたりなくすることで、それを保つことの一環としていることがわかる。だが彼にも若いイラク帰還兵の「損傷」が伝播するのか、髭剃りで誤って顎を切ってしまい、出血する場面がある。どうしようもない重さを抱えてしまった彼の困惑と無力を象徴している。そして彼の前半とはうって変わった無力とみすぼらしさの表情。

 ラストは自宅近くに掲げられる国旗を、彼が係りの人に依頼してさかさまに揚げる映像で締めくくられる。これは最初のほうに説明があるが、救難をもとめる合図である。アメリカはここまで落ちてしまった。もはや自己救済する力も失いかけている、と。

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港にて

海辺にはすぐにでも行ける
海辺の街にはどこにでも港があり
わたしは港をぶらっと訪ねるのが好きだ

「出口の貌」を見せる港
今日も貨物船は停泊し
くすんだ艦首の原色の塗料は
老いさらばえた獣の横顔のようでもある
だらんとした鬣
凪いだ海
凪いだ海の虹色のオイルの曖昧さ
その「出口」じゃないんだよ

入り口ならいくつもあって
わたしはそのうちのどれかひとつの港から上陸したのだが
足の裏の白いタイル……
記憶はきわめて曖昧で
そんなことは別にどうでもよくて
ここにこうしているしかないという真実だけが重要で
真実といっても「帽子の霧」とともにあり……
                     
製粉工場の銀色のタンクは
遍満たる陽を浴びている
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