大洋ボート

夜の街で

灯りの色の混じる夜
人通りの多い橋を渡り終え
さらにつづく下り坂をせかされるように歩くと
流れをさえぎるようにあの女
十年以上前には頻繁にあっていたあの女が
誰かを待ち受けるように
人の流れをさえぎって流れの中に立っていた

女の目はあやしく見開かれた
私を発見したことによって見開かれるのを
私はうごきかけた追慕の情とともに見守った
女の腕が何らかの動作をしたのかわからない
鞄の中から何かを取り出そうとしてあわてて途中でやめたのか
鞄などは持っていなかったが

急に女の目は私のうしろから近づきつつあった存在に移った
夜目にも青年とわかるその人の腕をさわると
女は安心したようにその人を連れて行った
窓灯りがちらほら無秩序に点る
向こう岸にそびえるような大きなマンションの
こちらには斜めに背を向けたエントランスに消えた
もはや私のことなど忘れ去ったのだろう
安心して忘れ去ったのだろう
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最高の人生の見つけ方

 目新しさを期待すると裏切られるかもしれない。しかし、心地よさが見終わったあと、少しずつ湧いてくる。金や地位よりも家族のつながりのほうが大事だという、ハリウッド映画でくりかえし描かれる中心線のようなものが、ここでも守られている。

 モーガン・フリーマンは自動車修理の自営業者。ジャック・ニコルソンは資産家の社長で、企業買収を次々に仕掛ける。その二人がガン宣告を受けて同じ病室に入れられて療養に専念する。そこが話のはじまりで、もっと落胆してじめじめしてもよさそうなものだが、案外それは少ない。喜劇仕立てなのだが、私が日本人であるせいなのか、にんまりするよりも不思議な感じにとらえられる。二人の強さでもあるのか、日本人にはこういう発想ができにくいからかもしれない。

 二人は意気投合して、死ぬまでにやりたいことをやってしまおうということで、世界旅行に出かける。ピラミッドに登ったり、香港の夜景を満喫したり、うまい料理と酒を堪能したりと。だがそれらは、どうしてもやってしまわなければならないというほど、切羽詰った思いではない。モーガン・フリーマンは頭脳明晰ながら大学進学をあきらめた、しかし子供を一人前に育て上げた、孫もできた、という自負がある。ジャック・ニコルソンは結婚、離婚を4回した。これも挑戦しつくしたという感慨がある。やるべきことはやり終えて、いつ死んでもいいという達観がある。「やりたいこと」はおまけみたいなものだ。また、目標の一つ「世界一の美女とキスする」は、ふたりにとってはそれぞれ願いでもあり関所でもある。二者二様に思いを果たしたことになり興味深いが、この結末はまったく意外性がない、ああ、そうなんだろうなあ、と私は充分に納得できた。

 ジャック・ニコルソンは芝居を抑制しているように見えた。モーガン・フリーマンを盛り立てるためであろうか。「ディパーテッド」ではマット・デイモンとレオナルド・ディカプリオの主演二人をやはり意識してか抑制気味にみえた。勿論、映画によっては、芝居を思い切りふくらませることもできる人である。映画全体を見渡してバランスをとることのできる俳優ではないだろうか。
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森恒夫『銃撃戦と粛清』(10)

(前略)寺岡君の″革命戦士になりたかった″という最後の言葉や山崎君の何度も胸にナイフを突き立てられてからの″早く殺してくれ″という言葉が、我々が、自らの命を賭けて革命戦士になり切るんだ、と語ったあの革命戦争を主導する革命戦士の真に自己犠牲的な謙虚なプロレタリア的誠実さ秘めた言葉であることを考えると、私は自己の誤りの全く非プロレタリア的なごうまんな姿を改めて自己批判せざるをえない。我々の誤った指導と苛酷な暴力の中で、これらの同志が革命戦士になり切ることを自己の使命として持ちつづけ考えられない程厳しい肉体的な苦痛に耐え抜き死んでいった事は文字通り真の革命戦士としての彼らの姿をはっきりと示している。(p83)


 森恒夫は革命のマインドコントロールが解けないまま死んでいった。そのために手のひらを返したように寺岡と山崎に対して「真の革命戦士」だったと言い換えている。痛恨の謝罪と自己批判を込めるためには、当時の彼としてはこういうたむけの言葉しか吐けなかったということは、わからないではないが、あまりにも安易に過ぎる気がする。他の死者に対しても「革命戦士になれずに敗北死した」から「革命戦士になろうとしていた」と一様に言い換えている。革命戦士になんかなりたくなかったんだ、死者は何を置いても生還したかったんだ、とは何故言えないのだろうか。生き永らえていればともかく、この時点では、まだまだ森は参加者の心情を汲み取ることができていない。

 それに革命戦士なるものの明確な像が、ついに森の口から語られることはない。どんな暴力にもびくともしない鋼鉄の肉体と、もしイメージされたとしても誰もなりきることは不可能だし、ついに不明確なまま至上物に祭り上げられて「革命戦士になりきるんだ」という悲愴で狂気じみた決意を参加者全員に強要したのである。革命戦士像が明確でなければ、それを目標とした「共産主義化」も短期であれ長期であれ破綻せざるをえないのではないか。また、逃亡者や脱落者は出るに決まっている。それを一名たりとも許すまいとしたところにもヒステリックで未熟な完璧主義といったものを見ずにはいられない。

 今日において森恒夫を批判することは容易である。また私は安全な場所にもいる。だが連合赤軍の出来事は昔日の私にかさなっている。黒を白と言いくるめたり、情熱さえあれば多少のいい加減さは許されるという、高校生活動家としての当時の私の浮薄や欺瞞は今でも後ろめたいものだ。勢いあまって暴力を不当に振るったこともある。私のなかのそういうものを、想像を超える規模で拡大再生産されたものがあの出来事だったという見方から、私はどうしても自由になれない。だからこの批判は、過去の私への批判にも通じている。批判はしなければ、忘れるまでは、うしろめたさや羞恥心はずっと記憶の中に居座りつづけるものだ。もっともこの一文だけでそれを成しとげられたとは言わないが。
(了)
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森恒夫『銃撃戦と粛清』(9)

 「気絶から覚めたときには別の人間に生まれ変わって共産主義化を受けいれるはずである」とはあきれる。現実認識にもなりえないまったくの低脳ぶりで、幼稚だ。気絶から覚めたら共産主義化を受けいれるだって? 森はそんなに簡単に共産主義化なるものを考えていたのか。それに殴打がかならず気絶を到来させるとも限らない。現に永田が危惧したように加藤能敬は気絶しなかったし、そのうえ、気絶という目標は暴行の途中で変更されなかったために暴行=リンチはより激しさを増した。森の言葉では「なし崩し的に拡大した」のである。森のこの気絶目標は加藤、小嶋の他尾崎充男にも、坂口によると進藤隆三郎にも適用されたが、進藤は腹部を集中的に殴打されたため一日のうちに惨殺されてしまった。坂口によると、加藤も進藤もいたいたしくも総括をなしとげようとして必死に踏んばったために気絶しなかった。加藤は起立させられて全員から殴打を受けながら一度も倒れなかったそうだ。「本当に驚嘆すべきことだった。」だが森はまったく倒錯していた。

 ところが森君は、倒れないのは素直に総括する態度ではない、とみなして殴打を続行したのである。加藤君の命がけの総括を己が想定したように気絶しないからとして、これをむしろ総括する態度ではないとみなしたのだ。途方もない傲慢な判定である。(同、p263)


 「途方もない傲慢」どころか、森はベースという密室内で専制君主になりはてたのだ。自分は絶対的に正しい、どんな結果が到来しようとも正しい。語義矛盾だが「間違っていても正しい」のだ。そういう誇大妄想的確信と通常ではない勢いが最初にあって、死者を生み出した新たな事態に対しては「敗北死」のような理論を絞りだす。気絶というリンチ当初の目標も何人目かから引っ込めてしまったようだ。別の角度からみれば客観性や結果よりも意図と主観を絶対的に固守しようとする。その固守において森は専制君主であった。死という衝撃さえも森にとっては「共産主義化」の目標にはまったくダメージにはなりえなかった。

 結果には原因がある。原因がすべてわかるのではないが、この場合の死という結果の原因は言うまでもなく「共産主義化」目標にもとづく総括要求という暴行である。だが森は死という結果を偶然とみなした。賽の目が投げるごとにちがうように。だから賽を何回も投げるように総括要求を繰りかえした、「革命的気概」を引き出すために死を近づけた。彼は尾崎充男が最初に死んだとき、大失態を意識したはずだ。だが、責任を認めて指導部を降りることはしなかった。あるいは彼無しでは「殲滅戦」をたたかうべき組織が瓦解するのではとの危惧を抱いたからかとも思ったが、それだけでもない。森自身が書くように「観念的世界」の倒錯に夢中になってしまったようである。

 考えられない程陰惨な、残虐な行為を私が展開し、又その他のメンバーにさせた原因は何だろうか。私自身が文字通り″狂っていた″とは思わない。(客観的には″狂気″の世界であれ)亡くなった(ということは、私が殺害した)一二名のメンバーに対して、私は当初から彼を殺さねばならないなどと思ったことは決してない。ましてや、そうすることが革命の利益であるなどとは決して思わなかったのである。だが、(自己批判書第一部で述べた様に)軍の共産主義化の問題を″観念″の世界に追いやることによって、死=敗北であるという、それ自身階級闘争に於る死の問題としては正しいが陰惨な拷問に等しい行為を続けたあとの死に対しては詭計的である狂気の世界へ入っていったのである。(中略)私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思うし自分がそういう世界をつくりだしたと思っているが、常軌を逸する程前後の見境いがつかなくなっていたとか、物事を判断する能力を失っていたとか思わない。逆に非常に多くのことを考え、判断し処理したのである。それ故、この狂気は一般に云われるそれではないことが明らかである。
 それでは狂気の正体は何なのか、どうも私はこの事については自己批判書で書ききれていない気がしていたし、今でもそうである。今の段階で答えは人間に対するべっ視ではないかと思う。(p267)



 「非常に多くのことを考え」誰の妨害も反対もなく「判断し処理」できたのは専制君主だったからだ。専制君主は必ずしも狂人ではない。やったことが狂気にみえても専制君主が冷静に判断しての結果である、というのだ。だがそれ以上のことがここで突っ込まれているだろうか。「敗北死」理論は詭計であったと書いているが、そうだろうか。森は失態を覆いかくすためにデッチあげたその理論を心底から信じようとしたのではないか。「敗北死」という結果は偶然であり、次回はそうともかぎらない、と。専制君主が信じれば、声高に言いつのれば取り巻きも引っ張られる、君主と同体化しようとする。「詭計」とはだまして陥れることだが、何回も繰りかえすと真実に近づくような錯覚が生じてくるのではないか。さらにそれは既定方針となる。その闇に森は専制君主としての権勢で、参加者全員を自分も含めて陥れた。自己保身も大いにあったにちがいないが、君主という地位ゆえに鈍感だった。観念の世界に没入することで忘れようとした。また、この文の日付は七月十五日となっているが、この期に及んでも殺意はなかったなどといわれると、うんざりする。

(前略)そして彼はすでに立直る事をあきらめたかの様に、彼の活動内容をしゃべり、引継ぎが可能な様に事情を説明したりした。この間、我々が見ていて異常と思われる位夢の中でしゃべるような様子であったので、急いで彼の瞳孔を調べると、半分近くに拡大している状態だった。それで我々は、彼が恐らく精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている可能性がある事、それが瞳孔の異常として表われているので彼をこの絶望の状態から何とか引き出さないと駄目だと思って、詰問調の追及を質問調に変えたところ、その時にのみ彼の瞳孔は正常にもどった。こうした事から、我々は一方で彼が精神的に敗北する過程に入っているという判断をすると共に、もう一方逃亡の危険があると考え、彼の手足を力が抜ける程殴っておく事にし肩甲骨の裏を手拳や膝頭で殴り、大腿部を足や棒で殴ったのち、逆エビ状に再び縛ったのである。(p132~133)



 これは行方正時が緊縛を説かれて森らに追求される以降の場面だ。総括リンチはどれを取り上げても陰惨残酷で、逐一をたどっていくつもりはないが、ここだけは森の倒錯性を顕著にあらわしている場面なので引用しておきたい。食事も満足に与えられないうえ、ベースの柱に三日ほど緊縛されていた行方だから衰弱が著しかった。森らに緊縛中の逃亡の意志のありやなしやを問われて、力なくそれを肯定してしまうのである。むきになって反論する力も、逆にしらばくれる力も残ってはいない。それに逃亡を夢のように望むことはきわめて自然ではないか。哀れだ。だがそういう行方の心的世界を忖度する気持ちは、森にはいささかもない。倒錯観念がこびりついてしまっていて、眼前の現実をあたりまえに見ることすらできなくなってしまっている。肉体のいちじるしい衰弱によるのではなしに「精神的に絶望して」死にかけているというのだ。行方の肉体は森の倒錯の所産たる革命的気概を「探索」するための材料に過ぎないのだ。「詰問調の追及を質問調に変え」るのも、たいへんやらしい。生殺与奪の権利はすべて俺がにぎっていると誇示せんばかりだ。そして死=絶望、敗北、生=逃亡というでたらめな定式が無造作に烙印される。

 総括要求による犠牲者はこのあともつづく。簡単に記しておく。一九七二年一月十八日、寺岡恒一死亡、享年二四。一月二十日、山崎順死亡、享年二一。一月三十日山本順一死亡、享年二一.同日、大槻節子死亡、享年二三。二月四日、金子みちよ死亡、享年二三、妊娠八ヵ月。二月十二日、山田孝死亡、享年二七。先に記した六名とあわせて十二名の死者を出す惨劇となった。なお寺岡と山崎は総括要求ではなく、森によって処刑宣告されての死亡だった。

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森恒夫『銃撃戦と粛清』(8)

 森恒夫のこの本は過激派独特の、また赤軍派独特の言葉づかいのため読みづらい。しかし慣れれば単純な二分法によって成り立っていることがわかる。建軍建党、上からの革命、プロレタリアート、銃による殲滅戦、目的意識性、内在性、共産主義化、革命戦士、革命的気概、等々の言葉が肯定的に使われ、解軍解党、ブルジョア個人主義、爆弾闘争至上主義、一揆主義、待機主義、日和見主義、外在性等々が否定的対象へのレッテル貼りとして使われる。この他にも言葉はまだまだ挙げられるだろう。また自然発生性や小ブル急進主義などはあるときは肯定的に使われ中間的に見られる場合もあるが、どちらかというとやはり軽蔑の対象のようである。そして牙をとぎすまして十二人も殺した森のことだから、二分法にしてもその肯定的許容範囲は非常にせまい。山にたとえるなら頂上とそのわずかな裾野だけが許容肯定の範囲で、それより下に見えるものは一切合切が否定し打倒すべき対象となってしまう。

 再整理すれば、(イ)短期間に個々人の内在的総括をなし切らねばならないという論理、(ロ)暴力による指導、暴力による同志的援助が必要であるという論理、(ハ)総括し切れない者は組織から逃亡する危険をもつものであるという論理(表にでたのは後になってからだが)、(ニ)総括し切れない者には、命がけの状況(ロープで柱に縛りつけ、食事も与えない)を強要して総括させ、決して甘やかしてはいけないという論理、(ホ)縛られた者は、たとえ片腕を失くしても革命戦士になろうとする気概をもって総括すべきであるという論理、(ヘ)縛られた者が総括し切るという事は0から100への一挙的な飛躍であるという論理、etcが、こうした事実経過のなかでつくられた。(p42~43、なお原文ではカナ番号は丸囲みだが、文字化けを避けるためカッコを採用した。)



 このあたりは比較的丹念に書かれたところであろうか。総括要求がどのような論理付けによってなされたのかを記した後、逮捕二ヵ月後の時点での全否定的反省が同時に記される。たとえば

(前略)(イ)′については(a)短気に為さねばならないという設定が高次な広さと深さをもった指導(例えば、メンバーの選抜)の内実を獲得してはじめ為し得る事、が、我々はそうした指導の獲得―中心的には指導部の徹底した政治の深化、共産主義化を獲得していなかった。
 (ロ)′については、(b)暴力はプロレタリア隊列の内部に於いては、裏切りや反革命行為に対する組織的プロ的な制裁としてのみ意味をもつものであり、指導として暴力を用いることは指導の内的な脆弱性、貧弱製の表われに他ならない事、それを同志的援助と云う事は誤った指導の合理化である。
 (ハ)′については、(c)総括を要求された本人に内在的な根拠をもたず、従って本人に充分納得させる事ができずに非人間的な環境に落とし入れた時、当の本人が苛酷な肉体的条件とも合わせて逃走を考えたりするのは、ある意味で当然である。とりわけそうした暴力が明白な反革命的行為に対してなされたものでないが故に。(p44)



 以下、(ニ)(ホ)(ヘ)への自己反駁がつづくが省略する。逮捕からわずか二ヶ月たった時点でよくもこんなに堂々と「反省文」がかけるな、とはまずは思いたいところだが、また腹立たしくもなるが、彼なりに論理構築したうえでの後の自殺(人民法廷による処刑)が視野に入っていて書き急いだのだろう。それに、十二人を殺した時点で、森は組織の解体を実感したとも書いているので「反省」はそのとき既に始まっていたとも考えられる。もっとも反省が起こったとしても逮捕されなければリンチは収まらず、総括による死者はもっと増大したという可能性もある。

 「敗北死」も含めたこうした理論構築は当初からなされていたのではなく、まさに「事実経過のなかで」事後的に森が完成させた。何故なら死者の発生の危険性と可能性はわずかに想定されつつも、必然としては捉えられていなかったからで、死に対する理論的対応は最初はなかった。「短期による共産主義化」という命題付けによって暴力が全面的に肯定され、主武器として行使されたにとどまる。意図としてはそれ以上ではなかった。つまりは、身勝手な主観によって殺す意図はないものの殺すに充分すぎる暴力を加えてしまったのだ。

森はいったんは共産同(赤軍派が分派する以前の組織)内部の内ゲバのさなかに逃亡した前歴をもつ男である。上部クラスの幹部が根こそぎ逮捕させるなかで、呼び戻された。それだけにはりきったのであろう。来るべき「殲滅戦」に向けて率先して暴力を身にまとわなければならないとも思ったのだろう。だが今回の読書で発見したのは、森の暴力への幼児的ともいえる依頼心で、あらためてがっかりせざるをえなかった次第だ。同じことだが、凄まじいまでの暴力への執着、「物神崇拝」において彼は暴力がまるで「打ち出の小槌」のように都合のいい新たな事態を産出してくれるというような妄想を抱いたのではないか。結果、森は暴力の適用を誤った。森がどんなに論理の鎧で固めたつもりでも彼の異常性、幼児性が透けて見えてくる。坂口弘の指摘がなければ、私にはまったく気がつきようがなかったカ所がある。

 一二月下旬、私が旧革命左派のベースに入ってから数日後、我々は後にC.Cとして確立された若干のメンバーに対して加藤、小嶋両君に対して暴力による指導を行う必要がある事、具体的には顔が二~三倍にふくれ上がる程度に殴れば気絶するから、それで止める事を提起し決定した。(P32)



 「気絶」の意味が重要である。森は読者にわかるようには書いていないが、同じ場面を描いた坂口の文を読めば、その錯誤に驚く。なおC.Cとは坂口によるとCENTRAL COMMITTEE=中央委員会の略で、「若干のメンバー」とは森、永田、坂口、坂東、寺岡、山田、吉野の顔ぶれである。

「これまでの総括要求の限界を乗り越え、真の総括をさせるために殴る。殴ることは指導である。殴って気絶させる。気絶から覚めたときには別の人間に生まれ変わって共産主義化を受けいれるはずである」
と説明した。
(中略)
 それは思いがけない提起であった。だが、私も含めて激しく躊躇したり反対する者は一人も居なかった。私は残酷な提起だと思いはしたが、気絶するまでという歯止めがかけられているので、酷い事態にはなるまいと思い、賛成した。しかし、これが大変な思い違いであることを、殴打が始まると思い知らされるのである。
 永田さんが、
「どのくらい殴ったら気絶するの?」
と訊いた。森君は、
「顔が二~三倍に膨れるまで殴れば気絶するだろう」
と答えて、両手で顔が膨れる真似をした。
(中略)
 永田さんはもう一度、
「ほんとうに気絶するの?」
と念を押した。森君は頷いた。こうして加藤能敬君への集団暴行が決まってしまうのである。(『あさま山荘1972(下)』(p256~257))


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森恒夫『銃撃戦と粛清』(7)

 森に不幸があったとすれば、森を諌める存在がメンバーのなかにいなかったことだろう。革命左派のリーダーの永田洋子は森への最大の追随者であった。彼等よりもヒエラルキーのうえで上級に属するとされる指導者は、当時すべて逮捕されていた。彼等二人が、警察幹部によって「二流の指導者」という烙印を押されたのも無理はない。それに山岳ベースが彼等にとってみれば密室と化してしまったことも大きい。六〇年代末期の大学内のバリケードですら大学内はもとより一般社会との間に風穴が通じていたと思う。活動家が自宅との間を行き来することもごく自然にできていた。だが密室になってしまうと、殺人などへの倫理的歯止めがかからなくなる。まるで別世界の感覚に陥ってしまい、指導者が全能感を錯覚することに容易に道がひらかれる気がする。永田洋子の手記『十六の墓標』によると、一月になってからだったと思うが、岩田平治というメンバーが森らに用事を言いつけられて下山した後帰ってこなかった、つまり逃亡第一号となった人のことが記されてあるが、それを知ったときの森と永田が〈ものすごいショック〉を受けたという記述があった。かなり前に読んだが、ここは覚えている。それだけ彼等二人は懸命でもあっただろうが、有頂天になっていて、ごく当たり前の感覚を喪失させていたのだろう。チャンスがあれば逃げるのは当たり前だ。たしかに彼等が「二流の指導者」でなければ、総括死という馬鹿げた理論による十二人もの死者の頻出は防げた可能性は大いにある。だからといって「一流の指導者」であれば平和裡に事が推し進められたかどうかは断言できない。あさま山荘銃撃戦よりももっと大規模な銃撃戦を敢行して、別の悲劇を生み出したのかもしれない。現にその後、過激派諸派によって引き起こされる「内ゲバ」は「一流の指導者」による、下手人がほとんど逮捕されない巧妙かつ大規模な殺人の連続劇であった。

 連合赤軍参加者にとっても山岳ベースが密室と化したことの意味は大きい。逃げられなくなったということが最大である。私も含めてだが、あの頃の活動家は行けるところまで行ってやろう、ただ目先の面白さに、人生にとって社会にとって意義あることに関わってやろうというような好奇心が大いにあった。もっと悪く言えば物見遊山的気分があった。無論、生真面目な部分もあったのであるが、生死をかけてまで戦うという腹積もりは固まっていなかった。不屈の戦士像へのあこがれは抱いていたが、外見をどう取り繕ったかは別にして未だそこには自分は辿りついてはいないという感覚が正直なところであった。どこか隙間があった。あの隙間感は今ふりかえってみると貴重だ。当時は「隙間」に対して苛立ったり恥ずかしかったりしたもので、それをみずからぎゅうぎゅう詰めていってかえって疲れてしまい、私の場合は逃亡、裏切りに至ったのだが……。将来ずっと活動家として生きようとは漠然とではあるが考えていたが、それほどはっきりした見通しではなく、楽観的でおおざっぱな気分が大半であった。目の前で仲間がやり私もやっているということ自体の面白さに目がくらんでいた。念を押せば、連赤参加者は私がやっていたときのようには自由に逃亡ができなかった。

 もうひとつはほとんどの人が指導者に歯向かわなかったという特徴があるが、これもあの頃の運動の性質として共通するものである。とにかく参加し、言われるままに行動することが重要であった。組織の扉をあけて閉め、そこに居つづけることそのものが楽しくもあるが、たいへんな意思を要請される気がした。そして一旦はそれを決断してしまったのである。私ならば、私という個をどうにか成長させ変身させてやりたいという欲求が、組織に属すると同時に芽生えた。考えることの重要さには気づいていたつもりだったが、激しい街頭デモなどで肉体的エネルギーを濫費させる類の行動をひとつひとつやり遂げることで「変身」をより実感できた。肉体的消耗にもかかわらず、「革命」や「反戦」を掲げつづけられるかという自己内部の皮肉な眼差しに打ち勝つことでもあった。特定の行動を繰りかえすことによって肉体は鍛えられ思想的立場はより頑固になっていった。理論武装などといっても、そういう行動への幻想を事前により掻き立てることがもっぱらの目的ではなかったか。考える力が培われていなかったといえばそれまでだが、考えるということから派生する孤独や停滞をおぼろげに怖れたし、考えるという立場を満足に想像することができなかった。だから、そんな風に行動を重視するならば、その機会を豊富に与えてくれるのが過激派党派であった。個の成長は組織に依存していたし、「成長した個」は組織の要請する行動の中でのみ生かされた。だが個の成長をより重視して、そのために組織を利用するという視点は、私の場合、はっきりとは持てなかった。組織が絶対であるとしたほうが簡便であったし、勢いがついた。組織が要請してくる無理難題にも丸呑みの姿勢にごく自然になってしまうというものだ。大学生の指導者が次回のデモに五十人連れて来いと指令を出すと、生真面目にそれを受けて、回りの高校生に声をかけてまわった。私の従前の力では要請を実現できるはずもなかったが。

 こういう姿勢は力量の限界を自己認識させられるか、肉体的疲労がピークを迎えるか、逮捕、長期拘留や負傷などの内外の激変に見舞われないかぎりは変わる機会がない。「境界」にふれなければならないのだが、それでも変わらない屈強な人も多い。つまりは、同質の困難事をどこまで長くやりつづけることができるかという問題で、個々人によって当然ばらつきがでてくる。党派的な立場からすれば個人における耐性の有り無しということに尽きてしまいそうだが、個人も党派的立場にべったりである場合がほとんどなので、自身における耐性の希薄さ、弱さをうしろめたく考えてしまうのだ。組織批判も視野に置くことの可能なほんとうの自己変革を獲得するためには、まずはこういう組織への盲従を基調とした姿勢と心性をいったんは解除しなければならない。だがいかんせん、組織活動とともに形成されて「成長した個」には、それは自発的には気づきにくい世界なのかもしれない。その意味では、連合赤軍参加者にとって「総括死」はまさしく「境界」に触れることであったし、同時にいきなり自己の直近の未来の死に触れることでもあった。恐怖に金縛りになることでもあっただろうか。だが参加者にとっては時間は待ってくれなかった、切迫しながらどんどん近づき、事態は追い越していった。

 組織批判も視野にくりいれられる個は、六〇年代後半以降の党派活動によって「成長した個」が、同じ個人のそれ以前の個もふくめてよほど節操堅固でないかぎりは、即座にその場で、生まれ出るはずもなかった。残念ながら当時の私も例外ではなかったし、連合赤軍参加者の全員もあの無残な結果からして例外ではなかった。彼らはたしかに死の恐怖にたじろいだのだろうが、指導部の方針と指図を丸呑みするという、その場所で力を発揮するという従来の方式を捨てることなく、しがみついた。そこに逃げこんだ。それまでやってきたことの艱難辛苦の積み上げが、みずから手を下すことによって御破算になってしまうことを、何処まで自覚したのかはともかく怖れたのかもしれない。「総括援助」によって被総括者を暴力的に葬ることと、決死の覚悟で森や永田に反抗することと、部外者からみればどちらも同じ無理難題に映ってしまうのかもしれないが、彼等は指導者の指図を丸呑みするという手慣れたほうの無理難題を、前者を選択するしかなかった。あるいは選択という心理的余地もなかったか。「革命戦士になりきる」「仲間を革命戦士になりきらす」という森の贋理論にしがみついたこともあっただろう。無理難題を背負いこんで、時間が過ぎたときの峠を越えたような感覚に期待したのか、なんとかなるさと、それまでの活動と同じように思いこみたかったか。先細りでも何らかの未来の幻想が彼等にあったのか。

 一九七二年一月一日の尾崎充男死亡(享年二一)につづいて進藤隆三郎が総括にかけられ、激しい暴力によって何とその日のうちに死亡している。さらに同日小嶋和子死亡。享年二二。翌日の一月二日には遠山美枝子、行方正時が総括にかけられる。四日、加藤能敬死亡、享年二二。七日遠山美枝子死亡、享年二五。九日、行方正時死亡、享年二二。十二月二七日にはじまった総括要求=リンチは十日あまりの期間に六人もの大量の犠牲者を出した。

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森恒夫『銃撃戦と粛清』(6)

 六〇年代後半以降のあのはげしい闘いにおいて、すでに死者は散発的に出現していたが、積極的に相手を殺そうとする意思がはたしてあったのか、私は当時は、おおむねはなかったと捉えていた。機動隊なり、競合敵対する党派なりの成員に打撃、もしくは重症をあたえようとする意図までだったと思う。結果としてときにやり過ぎてしまうことはあった、と解釈していた。逆に機動隊によって惨殺されたとみえる死者もあったが、これも機動隊側に明瞭な殺意があったのか、もとより証拠はないが、やはりなかったと当時私は解釈していた。事故や傷害致死として私は見なしたし、末端の高校生活動家であった私の仲間も同じような考えではなかったか。それはまた、私達にとって死がかなりとおいものであったという意識の反映でもあっただろうか。たしかに「血みどろの戦い」「血で血を洗う」という類の言葉が機関紙には連日踊っていたが、私達は煽情目的と受けとっていた。そういう日は来るかもしれないが、もう少し先と高を括っていた。若い盛りであるから、死に対しても舐めてかかる姿勢があったのかもしれない。末端の活動家においてはそういう空気は結構ながくつづいたようにも思うのだが。

 遠山美枝子が森に「処刑」という言葉を突きつけられる場面がこの本にあるが、遠山は無論恐怖したにちがいないが、恫喝の可能性として受けとることも捨て切れなかったのではないか、煽情的で血なまぐさい言葉が活動家を少しでも引っ張りあげようとして飛び交う、六〇年代末期。まだ言葉はいくらか割り引かれて、私達の前に現実とともにあるという時代。そういう時代の「空気」を彼女は知っていた、それがわずかな希望になりうると考えていたと思いたい。だがいつからか、とくに七〇年代に入ってからか、活動家の一部において殺意がしだいに明瞭に台頭してきたものらしい。私はそのころは運動からは身を引いていたので、実感として語れることはないが。

 森は、最初から殺意を持って被総括者にのぞんだのではないだろうが、その可能性は意識していた。そして実際そうなってしまった。無茶苦茶な闘争心と冷酷で不遜な心性が、被総括者への配慮をうばってしまった。ベース内とはいえ、寒気のなか、負傷の手当てをろくにしなかったし、食事も与えなかった。最初の死者は尾崎充男である。遠山、進藤、行方が合流した夜の全体討論の渦中で、柱に括られたまま絶息したという。尾崎の死は静かだったので全員にはわからなかったようだが、森はさすがにショックで、かぎられたメンバーで緊縛状態であった尾崎、加藤、小島の三人を外に連れ出して加藤、小島は立ち木に縛りつけ、毛布を与えて見張りをつけた。尾崎は地中に埋めた。三人を除いて重大な討論を始めるという口実だった。

(前略)そして、その様にした後、(今から考えて非常にナンセンスな事だが)全員に食事を出し、尾崎君の死を報せ、我々の厳しい共産主義化の闘いの中で尾崎君が最終的にこの闘いに勝利し切れず自ら敗北の道を辿って死んでいった事、我々にとって共産主義化の獲得こそが党建設の内実であり、これを獲得するためには各個人の文字通りの命がけの飛躍が必要であり、こうした事を為し切れなかった尾崎君の死は、共産主義化の獲得―党建設という我々がはじめて直面した高次な矛盾であるが故に、この現実を厳しく直視しなければならない事、だから彼の敗北―死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないという事もあってはならないと述べた。この事は、私自身が尾崎君の死を暴行によるものではないかと考えた事を“命がけの”飛躍という事によって合理化し、又、肉体的に暴行、食事なし、寒気という異常な条件に対する指導という意味での慎重な配慮を為さなかった為に死なせてしまった事を省みず、死の責任を本人に一方的に押し付けるものであったし、更に、その事実を食事云々という事で他のメンバーに対する踏絵にし前記の誤りの承認を強要したものであった。(p49~50)


 「敗北死」理論がここで登場する。論評でよくとりあげられるカ所であり、この理論によってのちの大量の総括死への道がさらに開かれることになった。尾崎充男の死は森の指導による容赦ない暴行によることは明らかであり、殺人そのものだ。だが森はこの失敗の責任をとることを放棄した。地位の失墜をおそれてか、惰性と傲慢によるのか、みずからリーダーを辞すという選択はなかった。それほどまでに革命を「銃による殲滅戦」をやりたかったのか。森らはやりすぎた、それを百歩譲って「過失」だとしても、尾崎を「敗北死」とすることで責任を死者に押し付け、そのうえ暴行の正当性をも保障し、「過失」という後悔さえ消滅させてしまった。革命的気概があれば暴力と死を乗り越えられる、それを暴行という「総括援助」によって暴力と死を非総括者に近づけることによって、引き出す、ありなしを確かめるということだ。無茶苦茶である。「援助」といっても育成するという姿勢は微塵もない、これは「共産主義化」が「短期」でなければならない方針であったことが口実にされたが、総括、総括援助、敗北死など言葉の乱暴な意味変換がはなはだしい。

 革命的気概がなくても人は死にはしない。ましてや、革命的気概と死との二者択一などとはほんとうに馬鹿な話だ。それを処刑と呼ばずに「敗北死」と呼び責任回避をする。実に悪知恵をはたらかせるものだ。「命がけ」という言葉は恫喝ではなくなり、剥き出しの状態で襲いかかってきた。革命的気概なるものがなくても「殲滅戦」を担える可能性は十分にある。それに参加者のなかの革命的気概をどうやって確かめるのだ。過去の行動ではなく、目の前で遂行されつつある活動や闘争のなかで、その人の行動と言葉を見ることによって確かめる以外にはない。信用できる人物か、そうでないか、それくらいの判断がせいいっぱいではないだろうか。人の未来を確実に言い当てることくらい不可能なことはない。そういう一般論に森は耐えることができずに猜疑心を、否定的評価を、地位を利用して参加者に途方もなく押しつけた。その結果、森の贋理論では、革命的気概がものすごく硬直化した像と化し、はるかかなたに遠ざかってしまって、参加者にとってきわめて獲得困難なものになってしまった。私から見ても参加者から見ても、革命戦士なるものはどんな暴力をも撥ねかえす不死身の肉体をもった鋼鉄のような人間でなければならなくなるが、森は肉体ではなく気概だと、精神だというのだ。そして死を近づけることによってその有り無しを確かめようとする。名目は短気に共産主義化を勝ち取るということだが、できるわけもない。被総括者が死なないにしても、森らが恐怖と衰弱で都合よく支配できるようになるだけだ。革命的気概があってもなくても人は、暴力によって簡単に死んでしまうのだ。だが森らは死を、尾崎充男の死以後も被総括者に近づけた。それを逆の側から闘争と呼んでしまう倒錯。

 この「敗北死」理論の欺瞞と詐術は、参加者に劇薬のように浸透していった。ひとつは正しく総括すれば革命戦士になることができて生還できるという幻想を抱かせることによって。まさに死をもおそれぬ革命的気概を今さらのように自分で育成せねばならぬという目標を据えさせることになった。もうひとつは自分以外の参加者の総括に際しても積極的にかかわり、つまり「援助」という暴力を真面目にふるうことで総括を遂げさせようという幻想を抱かせたことによって。仲間想いという名目と心情がより苛烈な暴力行使に向かわせた。事実、加藤能敬の下の弟は「早く総括しろよ!」といって、加藤に対して泣きながら鉄拳をふるったという。(坂口弘『あさま山荘1972』)今ひとつはやはり、殺されるよりも殺す側にまわろうとドライに考えた人も多かったのであろう、森らにひるむところを見せまいとして、暴力に積極的に関わっていったであろう。


あさま山荘1972〈下〉あさま山荘1972〈下〉
(1993/05)
坂口 弘

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森恒夫『銃撃戦と粛清』(5)

 十二月三一日、遠山美枝子、行方正時、進藤隆三郎そのほかのメンバーが山梨県新倉ベースから合流。(当地は群馬県榛名ベース)翌年の一九七二年一月一日には進藤、二日には遠山、行方の総括が始められる。進藤は以前にフーテン的な生活をしながら複数の女性と関係をもったこと、関係を持った女性が他のメンバーを権力に売り渡して進藤との逃亡をくわだてたこと、それに私にはわからないが「ルンペンプロレタリア的戦役主義的傾向」などが批判された。行方については当初の追求材料は森のこの本では曖昧である。これというものはなかったのではないか。しかし。遠山とともに全体討論にかけられたなかで彼は、自分は闘争において常にうしろからついていく態度で積極的でなかったこと、革命戦士になれないかもしれないと思い、ベースに来る前に自殺を考えたこと、女性問題などをみずから口にした。さらに暴行を受けたあと、権力にばれているアジトに非合法メンバーを行かせようとした、とも話した。少しもどって、合流してきたときの三人の様子を森は記している。三人には総括要求を中心とするさらにすすんだ闘争を指導し、教育しなければならないと全体討論で確認がなされていた。坂口弘『あさま山荘1972』によると、三人は新倉ベースにやってきた坂東国男から、加藤、小島の二名に対する総括要求がはじまっていることを既に知らされていたが、尾崎のことは知らなかった模様である。緊縛については自分たちで目撃するまでは知らなかった。

それで、遠山、進藤、行方等のメンバーがやってきた時、彼等が柱に縛られている加藤、小島、尾崎君の異様な姿を見て驚いた様子で、一様に意気消沈した風であった事から、我々は彼らが合同軍事訓練以降の総括期間を経ながら未だそれを為し切ってはいない様であるとの判断をした。
 特に新藤君は縛られている三名の事を気にして態度に落着きがなく、遠山さんは合同軍事訓練の時に批判された合法活動→非合法活動への転換によって髪の毛も切る必要があるという事に対して形ばかりそうしたのみであり、軍事訓練時のセクト的な、旧革命左派の女性同志に対するライバル的な態度が抜け切ってはいず、行方君は非常に神経質な様子で軽いノイローゼ的な様子さえ見られ一人でふさぎ込んでいる時と皆で話している時の感情的な起伏が激しい事etcが我々の目についた。(p48~49)



 修羅場を目撃して驚いたり、動揺したり、恐怖心に駆られたりはまったく当然の人間的反応である。「意気消沈」もするだろう、誰だってそうだろう。だが森はそれが自分(たち)の戦闘性、正当性に理解がおよばない反応だと受け止めた。そして敵愾心をめらめらと燃やしたのだろう。類まれな迷妄と興奮の穴に陥ってしまっていたというべきか。いや、それは外部からの私たちの見方であり、森は総括要求の正当性にこだわり、そのかぎりで感情を燃やしたのだ。そのうえで三人のまったく自然な人間的反応をないがしろにしてしまった。全員の「共産主義化」という至高目的からすれば、緊縛された三人とそれを目撃してたじろいでしまう三人の計六人は、森にとっては軽蔑と憎悪の炎をいくら燃やしても燃やし足りない存在でしかなかった。その感情の激しさは、私の校長室での仲間に対する思いに繋がる性質のものであろうか。ともに森の言葉づかいを借りれば「自然発生的」なものであっただろうか。ともかくも、これに加えて総括要求理論の「目的意識性」がすでにあって、さらに感情を尖鋭化させる結果となった。

 森はそういう使い方はしていないが、私に言わせれば、遠山、進藤、行方ら三人の意気消沈ぶりもまた然り「自然発生的」だ。「自然発生性」に対する森の評価はさまざまであるようで、まったく否定すべき営為や闘争行為だったり、好ましいがあと一歩及ばないそれらだったりする。それらに目的意識性を「外部注入」して正規的方向に導くことが森らの理論と行動であるが、「自然発生性」という言葉をつかうことで、それらをあまりにも軽く見做してしまう悪癖がまとわりつく。自然発生性を即座に肯定することには気をつけなければならないが、馬鹿にしてはいけないし簡単に変えられるものではない。また眼につくかぎりでの人の営みばかりが自然発生性でもなく、人間のなかの「自然性」はもっと奥深くどっしりしたものでもあるのだ。死と暴力をおそれ嫌忌することは、きわめて自然な大事な人間的反応だ。階級闘争などといっても、そういう感情と倫理が根本になければならない。そのうえでの暴力行使の選択でなければならないのだ。こんな一片の説教で、私としてはこの出来事を片付けられる気にはなれないが、書いておこう。ともあれ、人間としての当たり前の反応と感情を、森は攻撃対象としてしまったのだ。

 すべての人がそうだとはいわないが、過激派の運動家なるものは戦闘意欲や国家権力への憎悪をたえず意識的につちかっている。暴力への親近感といっても同じで、いわばそのエネルギーの表出の機会をたえずねらっている。それが彼等にとっての闘争であり、頂点としてのかかる闘争のためのさまざまな活動であり理論勉強なのだ。自分たちの力がいかに十二分に発揮されるかが問題意識の中心となる。直近の過去の闘争がふりかえられる場合においても、社会的影響がどれほどのものであったかというような評価は、ひととおりなされるにしても、さらに否定的に評価されるにしても、評価自体がともすれば軽視される傾向がある。力がまだまだありあまっているという自負と自画自賛があるからで、当の力を次回の闘争に注ぎ込もうと、あわてたように方針の樹立にとりかかる。こういう傾向は「正当性」が大前提として固定されたままであるからで、正当性とそのときどきでの応用に対して、個人や組織がいかに乖離せずにどっぷりはまりこむことができているか、という問題意識や反省が大部分を占めるからだ。逆から言うと、「正当性」そのものの検証がおろそかになりがちだということだ。「正当性」と社会や世界との関係性よりも、「正当性」と個人や組織との関係性が偏って重視される。

 森恒夫という人も、そのような人であったのだろう。そんな彼のもとに弱小な個人が、森からすれば「意気消沈した」「総括の遅れた」また格下の人間がやってきたのだ。国家権力のようにあまりにも大きいがゆえに一挙的な打倒が不可能な、それゆえ憎悪の標的をしぼりにくい対象ではない。打倒可能な弱い存在であるがゆえに、かえって憎悪は拡大するのだろう。一人一人が切り離されて集団に囲まれるのだから、まさに多勢に無勢だ。そこに闘争としてのエネルギーが、暴力が注がれる。あとには自己や組織に課した制限や倫理をどうするのか、とっぱらうのか否かという問題意識が残るだろう。

 森は暴力の誘惑に負けたのだろうか。「負けた」という言葉をつかうならば好んで負けたのだ。心理面のことは、ほんとうのところはわからない。それよりも「総括要求」「共産主義化」という理論を鎧のようにみずからに着用し、がんじがらめにした、人間よりも闘争を優先させた。さらに死の誘惑にも負けた。おそらく悪を受けいれたのだ。みずから率先して悪人になる道を彼は選んだ。そういう自覚があったからこそ、逮捕後二ヶ月のちにみずからの非人道性をあっさりと認めることができたのではないか。悪と闘争がコインの裏表であることを、山岳ベースにおいて森は十分自覚するに至ったのだ。「銃による殲滅戦」「共産主義化」の実現のために。集中に集中を重ねた意気込みであっただろう。
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森恒夫『銃撃戦と粛清』(4)

(前略)しかし、結果的には「彼女の総括が為される迄、彼女を山から下ろさない事、その総括期間は短期である事」という旧革命左派のメンバーからだされた要求を容認した。
 私はこの要求の全てを間違いだとは今でも考えてはいない。だが、「山から下ろさない」事が旧革命左派の二名の同志の山岳ベースからの逃走―組織的処刑を事実上の前提として(何故なら、この当時この二名の組織的処刑は正しいことと考えられていた)だされた事、極力早く総括を為し遂げようという個人と同志達の自発的な努力を越えて‶短期″という設定がされた事は、この要求の積極的な意義を自ら破壊する大きな危険性をもっていたし、実際上、討論の詰問的展開の中にそれが露わにされていた事こそ決定的に誤りであったのである。その後の事実経過からして、私をはじめとする旧赤軍派のメンバーはこの要求の積極的な意義をくみとろうとしたし、一程(ママ)程度そうできたと思っている。
 しかし、もし短期に総括できなかったら、かつ山を下ろさないとしたら、文字通り彼女を兵士として不適格であるという理由で組織的に処刑しなければならないという、この要求のもつ危険な最後通牒的側面に対して、私は当時全く闘うことをせず、むしろそれすら容認した上で、何とか組織全体で解決しようとしたのである。(p13)


 どうもおかしい。遠山への批判が詰問調になったことへの悔いだが、髪型や指輪という個人の服装を問題化して介入すること自体、すでに詰問調を内包してしまうのではないか。批判を引っ込めたり、妥協しないかぎりは詰問調になることは必然ではないのか。この問題に関するかぎりは、節度ある批判なんて私には考えられない。その一方で森は革左の二名の処刑を「正しいことと考えられていた」と、まるでその判断に自身が参加しなかったような口ぶりであっさりと肯定してしまっている。自身の責任の範囲外という意識からか、本書でのこの問題への森の言及は驚くほど少なく、しかも淡白である。「正しいことと考えられていた」のは直接的には永田洋子ら革左の判断を指すが、森もその判断の最終局面に追認という形式で参加したのではなかったのか。そうだとすれば、その判断を覆すチャンスは森に十分にあったのだ。永田にうちあけられて森は初めて二名の処刑を知ったようだが、過失を糾すことはしなかった。批判しなかった。貸しをつくるという姿勢ならまだしも、まるで革左に借りをつくるような姿勢に陥ってしまった。ついでに遠山批判も受けいれてしまった。それほどまでに意識の上で譲歩して、森は革左との合流を優先したかったのか。革命運動なるものをどうしてもやりたかった?逆に言うと清算するという発想が浮かばなかった。そして処刑や死を、間近なものとしてはじめて実感するに至った。総括要求の危険性に対して「全く闘うことを」しなかったのであるから、おそらくはこの時点あたりから同志殺しを透視していたとしても不思議ではない。「むしろそれすら容認した上で、何とか組織全体で解決しようとしたのである。」堕落してしまった意識がかなりの部分を占めるなかで、遠山批判の部分的正当性などと言われても首をかしげる。遠山批判については獄外の左翼への迎合のつもりだろうか。しかし森が革左の二名の処刑を無批判に受けいれてしまったことは、十二名惨殺にやがて行き着くこの事件においてきわめて大きい意味をもつ。それに比べると、遠山の化粧うんぬんなどまるでちっちゃな話ではないか。森のなかでふたつの問題意識が同居しうることへの違和感をうち消せない。

 いやもっと大きい意味が、森におけるこの二名の処刑と遠山批判の承認には隠されていることに私は気づかなければならない。そうでないと甘い批判にとどまってしまう。引用文の経過をたどることによって森は永田との結びつきを不動にものにしたうえで、連合赤軍内において永田をも牛耳ってしまえるほどの絶対権力をもつに至ったのだ、ということを見逃してはならない。遠山の総括は短期でなしとげねばならない、それまでは山を下ろさない、という革左(たぶん永田の意見)の要求を森は人質にとるように逆用して、永田らの反対をあらかじめ封じ込めてしまったのだ。勿論、暴力的総括路線は森が率先したのであり、永田ら革左も度外れた暴力行使にはためらいがあったようだが、すでに処刑者を出してしまった永田らには今さらそれを正面きって反対できるものでもなかったであろう。森は孤立から免れた、そして永田を巻き込んだ形で絶大な権力を手にしてしまったのだ。このことは、おそらくは坂口、坂東らの幹部もすぐには察知できなかったのではないか。

 革左の二名の処刑は七一年八月に行われており、このときにはすでに行動の統一の全面性はともかくも、連合赤軍は結成されていた。森はこのとき深く関われなかったことを悔いる意味のことを少し書いている。赤軍派で処刑問題が惹起されたとき、かろうじて実行せずに済んでほっとしたことも記している。ともに処刑を問題視するかのようだが、突っ込み不足もはなはだしい。不徹底で曖昧だ。それに、左翼運動全般における仲間殺し=処刑問題への言及も、レーニン、スターリン、毛沢東などを独特の難解さで論じているにもかかわらず正面切っては論じていない。やはり反革命的行為、たとえばスパイなどは死刑にすべしと考えているようだが。森が処刑(私刑)反対という明確な倫理観を有していたならば、この一連の仲間殺しは防げたのだ。

 遠山批判をいったん是認してしまうと、累は当然のように他のメンバーにも及ぶ。目に付く「問題」はごろごろと転がっているからだ。ベースと呼ばれる手製のせまい山小屋に二〇人を越える人数が寝食を共にするのだから、森のような指導部にしてみれば、息苦しさの空気のなかから腹立たしさも自然に形成されるのだろう。これは私にも連想させる体験がある。高校時代に、おろかにも校長室を暴力的に占拠してしまったことがあるが、そのときは私なりに闘争心がみなぎった状態であったから、ただぼんやりとたたずんでいるかに見える仲間が視界に飛びこんでくると、本能であるかのように無性に腹立たしい思いに駆られたことがある。ただそれだけのことで暴力に及ぶことはなかったのであるが、自分が想像しうる自分の範囲を超えての憎悪であったから、驚いたし、たじろいだ。仲間には何の落ち度もなく、それどころか生意気盛りの私たちに義理堅くついてきてくれた人だった。それこれの理由で、鮮明に記憶にのこっている。この事件が明るみになってから、私はこのときの記憶をさらに思い返さずにはいられなかったのだが……。私とちがって森はすでに遠山批判という〈絶好の武器〉を手に入れていた。

 ある資料によると、加藤能敬と小島和子が暴力的な総括要求に引きずり出されたのは一九七一年十二月二七日、この二人が最初であり、ついで二九日には尾崎充男が標的にされる。加藤は女性関係のルーズさが槍玉にあげられた。闘争中に(ベースに来てからのことも含むのかもしれない)複数の女性にキスをしたり手を握ったりしたという。またのちには逮捕されたときに重要事項は黙秘したものの、刑事と雑談したことが批判の対象になった。小島は革左時代に一度ベースから逃亡しようとしたこと、車の運転中に交通事故を起こしたこと、自己中心的に見えるお喋りや態度などが批判された。尾崎は銃砲店から強奪した武器を「合法メンバー」に預けたこと、交番襲撃闘争時に日和見主義に走り参加しなかったことが批判された。加藤、小島は森の指令によって参加者全員から殴打を浴びせられたのちにベース内の柱に縄で括りつけられた。尾崎は巡査阿部(交番所襲撃時の革左メンバーを虐殺したとされる)に見立てられた坂口弘(本書では「某君」とされている)との格闘を命じられた。尾崎はやりたくない格闘をそれこそ真面目に遂行したが、体格と体力に勝る坂口には歯が立たず、そののちやはりメンバー全員による殴打を受け、加藤、小島と同じく柱に縛りつけられた。

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森恒夫『銃撃戦と粛清』(3)

 森恒夫は十二人の仲間殺しを主導したあと、ベース移動中に妙義山付近で永田洋子とともに逮捕された。一九七二年二月十七日のことである。そして翌年の一九七三年一月一日に東京拘置所内で自殺した。本書に収められた文章は逮捕後、東京拘置所に移送されてから自殺するまでの期間に書かれたものの大半である。「自己批判書」(原稿用紙換算約六〇〇枚・高沢皓司「解説」による)をはじめ、日付は七二年四月十三日から七月二〇日までの期間となっており、事件に関する詳細な事実経過の記述と理論的背景、根拠、反省点が記されている。なお『銃撃戦と粛清』という題名は出版社がつけたものだ。「粛清」という言葉は森自身はつかっていない。

 仲間殺しの全貌がほぼ明らかになったであろう時点で、つまりこの本のもっとも早い日付の四月十三日の文の冒頭部で森は「私の行った行為が日本革命史上かってない残虐な非プロレタリア的行為であった事」とみずからの非を全面的に認めて、断罪している。二ヶ月足らずでこうもあっさりと主張を全面転換してしまうのは疑問を抱かないではないが、後の記述によると、森はすでに連合赤軍の最末期において十二人殺害や逃亡者続出によっての組織の解体の危機を直感していたというから、つまりは「大失態」を自己認識せずにはいられなかったであろうから、素直な吐露といえるだろうか。さらに森は自己の死(人民裁判による死刑)を決意していて、その正確な理由づけのために、自己の罪過を洗いざらいぶちまけるべく自己批判書を書き急いだのでもある。

 この一二月初旬から二月初旬にかけての全過程をふり返って云える事は、革命戦争の党建設の闘いのなかで、当然問われる軍の共産主義化―党化の飛躍が、誤った我々の指導の為にプロレタリア革命の魂をも流し去ってしまう悲劇を迎えた事である。確かに、日本革命戦争の本格的な開始を準備するには、自らの生命を省みずに殲滅戦に前進し得る革命戦士の創出が不可避であり、かつその為には個々人の今迄の生に対する内在的な総括とそれをバネとする自己の共産主義的変革の過程が要求されるし、こうした闘いは決して容易なものではない。だが、それ故こうした闘いはその隅々迄プロレタリア的な人間愛に貫かれたものとして展開されなければならない。我々の指導の誤りは、個々人の階級闘争に対する関わりの中で形成されてきた政治的、組織的、思想的な諸傾向を批判しても、それを真に高次な矛盾として、実践的に開示させ止揚させる道を提起せずに、暴力で閉鎖的な空間に閉じ込め圧殺した事である。(99p)


 逮捕されてから二ヶ月の時点で書かれているので、森はまだまだ革命を捨てていない。それどころか確信は再建されてより強固になっている感さえする。そのことによってしか森は自身を裁けないという思い込みがあるのか。やったことの意図や前提は正しかった、山岳ベース作りも軍事訓練も正しかった、だがやったことのあとの半分は、つまりは仲間を死に追いやったことは間違っていたということだろう。だが個々人の「諸傾向」への批判については暴力的方法を排除したうえでのことだが、その内容面で何処までが正しいのか、この文ではわからない。そこが肝心でこの連合赤軍問題の大きな出発点をなすかもしれないのだ。他の部分で、森はどうやら初期の批判は肯定的にとらえかえしている。

 すぐに目に飛びこんでくるのは、遠山美枝子に対する旧革命左派から提起された批判だ。特に革命左派の女性は遠山の服装、化粧、態度などが気に入らなかったようだ。髪が長い、指輪をしている、化粧をしている、女性として男性に頼ったり甘えたりする、という点があげられた。この遠山問題は重要だ。何故なら彼女は五番目の犠牲者だが、最初に批判を受けた人だからで、そのあとを追うように「総括要求」が他のメンバーに次々に拡大していったからである。想像するに、遠山という女性は他の女性メンバーに比べて相対的に美人で派手で、少し軟弱であり、とりあげられた外見的な点を含めて目立つ存在だった。それに永田洋子などが闘争心を中心に据えているとはいえ、虫酸が走ったのだ。悪しき平等主義、まるで中学生の風紀委員がクラスメイトの服装をチェックするような意地悪さを受けとってしまう。小さな差異しか目に入らない輩は何処にでもいるものだ。このような遠山に「命を省みずに殲滅戦を担う革命戦士」になど、いきなり成れようはずもないのだ。時間をかけても成れないのかもしれない。あるいはもしかすると、逆にあっさりと成りきってしまえるのかもしれない。「銃による殲滅戦」という結果を出すことだけを基準にすれば……。同じ政治的主張をし、同じ闘争形態をとる組織体にも、それこそ千差万別の人々が集まってくるものだ。それも善意を抱いて。だからその人の個性にあった持ち場を提供してやればよいのだが。

 森は何故、革左の遠山批判を受けいれたのか。同じ旧赤軍派の遠山を何故庇ってやれなかったのか。永田らにきつい口調で迫られて迎合したのか、あまりにもあっさりと落とし穴にはまってしまった情けなさ、不甲斐無さを感じてしまう。もっとも、重要な事実があることはあった。革命左派がすでに二名を処刑していて森もそれを肯定的に受けいれていた。全員を「山から下ろさない」という方針も固まりつつあったようだ。暗部をそっくり引き受けねばならないといったお人よし的な弱点(無理難題を無計画に背負い込んでしまうという「積極性」の裏返し)も、森に対して私には見えないではない。それでもやはり腑に落ちない点は残る。くどいが、この部分を繰りかえす。

 森は革左の遠山批判を認めつつも「より同志的な広がりと深さをもって慎重に展開されるべき批判であったが、実際にはきわめて性急な一挙的な自己変革を要求する詰問的批判が為された事は大きな誤りであった。」(p12)とする。私は気をつけなければならないと思う。森は本書のいたるところで、このようにみずからの誤りへの断罪を乱発するのだが、獄中や獄外の仲間から圧倒的な非難を浴びつつある身としては「誤り」をあっさりと認めてしまったほうが楽であることは確かだろう。それがすべてではないにせよ……。逮捕される直前まで総括要求はなされていたし、逮捕がもっと後日であったならもっと犠牲者も出たことも考えられる。また逮捕以前には「誤り」を口にしたことはない男であるから、この逮捕後の誤りの認知を心底からしぼりだされた言葉として受けとることには警戒を解いてはならない。御都合主義的な二枚舌であることも大いにありうるのだ。話を元にもどして、森は革左から出された遠山批判を赤軍派全体への批判として受け止め、それを組織的に責任を持って解決していくこと、とくに遠山自身が率先して解決に当たらねばならないと考えていたという。つづいての文。
                       (つづく)



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