大洋ボート

吉野

 過日、法事のために母の実家を訪れた。私にとっては約三十年ぶりである。そこは吉野の山奥で、近鉄電車で最寄の駅まで行って、そこからタクシーで三,四十分ほどかかるところだ。鬱蒼とした杉の生い茂る山のたたずまいは変わることはなかったが、他の面ではおおいに変化があった。山奥にも公共事業は波及するらしく、道路はアスファルト舗装されて道幅がすこしばかり広がり、小川も護岸工事がなされて、こちらは反対に川幅がせまくなった。それにトンネルができて駅との距離がやや短縮されていた。また以前には見かけなかったレストランや宿泊施設もちらほらできていた。一方、田畑は半分以上は放棄されたようで、雑草に蔽われるに任せたり、植林がされていたりだった。大半の住民が六十歳以上で、それ以下の子供、孫の世代の人々はすべて都会やその周辺部に定着してしまったから仕様がないのかもしれない。路線バスもほぼ全廃の状態のようだ。

 しかし何よりだったのは、各方面から駆けつけた叔父さんたちが元気だったことだ。七十歳代後半から八十歳代後半の人たちで、耳がとおくなったり、そのうえアルツハイマーが進行していたりだが、酒が入ると元気になり声も大きく明瞭で、傍目にはたいへん幸福そうだった。相手をするのはたいへんな様子で、久しぶりに会った従兄弟たちも手を焼いていた。私はずるいので、隅っこで酒食に向き合うのがもっぱらだったが。こんなことを書くのは気が引けるが、ボケるなら早い者勝ちかなあ、とも思った次第である。
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Genre : 日記 日記
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ノー・カントリー

 ハビエル・バルデムが解釈不能な犯罪者像を定着させている。彼がひたすら追跡するのはボストンバッグ入りの大金。目的のためには手段を選ばず、という言い方があるが、それ以上である。「誤爆」をして無関係な人を巻き添えにしても一切悔いない。「悔い」という感情が彼にはない。また目的以外に「見せしめ」のためにも人殺しをする。さらに彼は人と対等の立場に立とうとしない。そう見えるときは普段の見せ掛けで、本性は「俺はいつもおまえを殺せる」という優越意識に満ちている。しかも軍隊の優秀な兵のように行動力抜群で冷静で、肉体も打たれ強い。こういう人間性がどんな過程を経て形成されたのかはわからない。またそれを描くことがこの映画の目的でもない。外から見てとにかく無気味で、金輪際近寄らないほうが身のためだ。そういう厭な空気を瀰漫させるのがハビエル・バルデムだ。

 大金を持ち逃げするのが狩にやってきたジョシュ・ブローリンで、この最初の場面が印象的だ。広大な砂漠を俯瞰する丘から身を隠して鹿の群れに向けてライフルの照準を合わせる。だが射撃は失敗し、鹿の群れは逃げ去る。彼は丘から鹿のいた地点に下りていくが、血を流した黒い犬がなぜかそこにいる。やがて犬がよたよたと丈高い草の中に姿を隠す。さらに彼が犬を追っていくと草地はきれ、遺体が数体ころがる壮絶な殺害現場に出くわす。別の犬も射殺されて横たわっている。運転席でぐったりした男はジョシュ・ブローリンに助けを求めるが彼は冷淡だ。丘の上の樹木の影にも車が二台停車していて、そこにも死体がある。彼はその夜、もう一度現場にやってきて、ボストンバッグをようやく発見する。大量の麻薬も同時に発見されたので、どうやら麻薬取引のもつれらしい……。

 アメリカの砂漠を俯瞰図を意識して撮るのはめずらしいのかもしれないが、これが絵画のように美しく、成功している。その余韻覚めやらぬうちに無関係のハンターが偶然大金を手にするいきさつへと移行するが、これまた説得力がある。

 そのあとは、発信機をとりつけたボストンバッグを急追するハビエル・バルデムと逃げるジョシュ・ブローリンとの攻防戦、銃撃戦が延々とつづくが、スリリングながら冷ややかな感触に蔽われる。通俗的なおもしろさは十分過ぎるが、どちらにも肩入れができないのだ。力の差は歴然としていてジョシュ・ブローリンは息をつく暇がないが、彼もまったくの善人ではないため応援することにためらいが生じてくる。こういう戦いの過程を息をつめて見つづけることは果たしてどういうことなんだろう、とは私が見ながらふと思ったことである。

 保安官のトミー・リー・ジョーンズも重要な役なので書いておかなければならない。二人を追跡する彼だが、二歩も三歩も遅れる。たとえばモーテルに到着したときには血の海を見るばかりで、最後まで追いつくことができない。そのため二人に比べると影が薄くなってしまった感がある。彼自身もみずからのふがいなさに打ちのめされるのだろう。だがコーエン兄妹は、彼に彼らの良心を注ぐことを忘れなかった。彼の祖父も父も保安官だった。たぶん彼の身内たちも彼のように無力感にさいなまれながらも、前を向いて歩んだであろうことを想像し、彼もまた職務をつづけることを決意する。記憶がぼんやりしているが、そのとき道が映ったのだったか。 

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トゥヤーの結婚

 心が洗われた気がする。映画を見てこんな心地になるのは年に一度あるかないか、である。とにかく欠点が見当たらない。映像の美しさ、物語の展開のたくみさ、そして主演のユー・ナンは勿論のこと、脇をかためる俳優の面々も力強い。言葉の端々に気持ちがしっかりと乗り移っていて無駄がない。必然性という言葉がぴったりあてはまる。物語のはじまりが奇抜といえば奇抜だが、これはモンゴルとユー・ナン夫妻の厳しい生活環境からどうしようもなく導き出されたもので、映像によって十分に納得させられる。その後の進行はオーソドックスだ。

 砂漠の一家の生活ぶりがたいへん美しくカメラに収められている。夫は井戸掘りの際ダイナマイトによって事故にあい、下半身不随になってしまった。二人のおさない子供を抱えながら生計を支えるのは妻のユー・ナン。飼育する羊のため、また生活に使うため、彼女はとおい井戸へらくだをつれて水汲みに行かなければならない。一日二往復で三十キロという途方もない距離だ。三往復のときもあるという。ユー・ナンがそういうモンゴルの女性になりきっている。甲高い声をときおり出すのもふさわしい。らくだにまたがり、あるいはたくさんの水の入った容器をらくだに乗せて帰る。その水を自宅近くの枯れ井戸に移す、それを羊に飲ませる。羊に草を食べさせる。羊やらくだや馬とともにいるユー・ナン。朱色の頭巾がよく似合う。これがまわりの自然の色彩に対して鮮やかで、生活ぶりすべてが視聴者からみて美しい。観光気分はたしかにあるが、砂漠そのものが美しく撮られているというよりも、そこに人が生活を無理をしてでも定着させているから、砂漠もまた映えてくるのだ。だから水がひときわ美しいし、画面の上方に小さくかかった昼の月も余情を醸し出す。この映像だけでも泣きたい気にもなろうというものだ。

 ユー・ナンもはや重労働には耐えられない身体となり、離婚・再婚を決意する。ただし条件があって、現在の夫の面倒もみてくれる人に限る。夫を見捨てられないのだ。まるで素っ頓狂な話だが、一家の暮らしぶりから夫も納得する。だがこの夫の決意は生半可であることが後にわかる。相手の男は石油を掘り当てたいわば成金でなかなかの好人物だが、やはり元夫との同居は拒まざるをえない。この二人の男の心情は、たぶん視聴者にはたいへんわかりやすいものだ。「面子」という言葉で説明されるが、そうそう人はたやすくそれを捨てきれないのだ。だがユー・ナンはくじけない。時間をおかずに再々婚にまでこぎつける。彼女の決意を端的に示す映像がある。自宅でひらいた結婚式のさい、相手の親類の一人が酒を飲めないからと契りの杯を辞退すると、「私が代わりに」といって、ぐいと飲み干すのだ。だが案の定、再々婚の相手も元夫も変われないのだ……。

 自分が変わろうとしても、まわりの人たちが変わらなかったら、ついてこなかったら自分も変わったことにならない。生活もそれをささえる信条も変わらない、という重々しい現実がある。人間の信条が岩盤のように立ちはだかるのだ。最後はユー・ナンの滂沱の涙で締めくくられるが、だがわたしはこれで物語が終わったとは思いたくない。ここまでやったという充実感がつたわってくるし、微かにではあるが主要な登場人物には未来がまだ残されているのではないか、と思いたい。たとえば、仮に再々婚が破綻が回避されてつづいたとして、今度はユー・ナンが二人の男を同時に愛することができるかという問題が浮上してくる。映画ではまったくふれられなかったことだが……。困難にぶつかれるだけのエネルギーがまだ残っている涙だと受け取りたい。

 蛇足だが、隣家の男の妻のことが、折にふれて男やユー・ナンや夫の口に上る。一度も画面には登場しないが、これがなかなか気になる存在で、この映画の美点のひとつとなっている。今年のベストワン候補だ。

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フォークナー『サンクチュアリ』

サンクチュアリ (新潮文庫)サンクチュアリ (新潮文庫)
(1973/01)
フォークナー

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▲ 自分の生まれ育った環境が、家族もふくめてそこに住む人々の生活様式や因習や感情が、血肉となって自分のなかに流れている。そういうことを強く意識させられることが人によってはあるのだろう。さらには、関心の対象であるという以上に、取り除かなければならない病巣がその環境の中心部にあって、それは自身にも深くつながっているのではないか、という疑念にとらえられる。病巣が自身そのものではないが共通部分がある、あるいは近接した場所に居座っている。何とか対象そのものを明確にして自身とを分離させ、その距離を最適にとらねばならない。だがその作業は容易ではない。そこに的確にメスをとどかせるには知力と体力が並外れていなければできない、生涯のほとんどを注ぎこまなければならないほどの根気が要求される、格闘そのものだ。ウィリアム・フォークナーを読むと、そんな射程の長さを感じ取らずにはいられない。彼の著作のほんの一部分をかじっただけに過ぎないが、書いておきたい。ともかくフォークナーにとっての環境(=故郷)とはなつかしさばかりのものではなかった。親しみよりも嫌悪が先に来た。

▲ フォークナーが追求したのは悪であり、それを体現した悪人である、またその悪人に翻弄されて平穏をうばわれてしまう人々、またそれとはやや隔たった位置にあって取り巻くように存在しながらも、どこかはじめから常軌をうしなった人々、群集である。そしてそれらの「多数派」を形成する人々のなかで、孤立しながらも誇りと自由とひとかけらの倫理を失うまいとする人や、社会的規範を実現しようとする人である。無論フォークナーは後者に希望を託したのだし、小説のなかであれそこに「伝統」と呼ぶべきものを定着させたいと願ったと思いたい。

▲ さて、この小説は同時に起こった殺人とレイプの事件とその後の裁判の経過、それにそこに関わった人々の劇的な体験が描かれる。悪役つまり犯人はポパイという小柄な男で、人を虫けらのように射殺したり、女なら異常な方法で犯してしまって平気な、同情の余地のない文字通り冷酷非情の悪人だ。彼は廃屋となった農家を利用して、数人のグループとともに密造酒を製造していた。一九二〇~三〇年代の禁酒法の時代だ。そこへ無類の酒好きの青年ガワァン・スティヴンズがガールフレンドのテンプル・ドレイク(十七~八歳の女子大生)を車に同乗させてやってくる。あちこちに酒を求めて満足な品が得られなかったためで、そのグループから以前にも買ったことがある。ところが彼はすでに酔いがまわっていて、廃屋の手前の道で事故を起こして車は運転不能になった。テンプルは単身で日没前にそこから離れようとするができず、結局は二人してそこに泊まらなければならなくなる。パーティ用のはなやかな服装をした若い女を見てほとんどの男が欲情を抱く。しかも同伴の青年は酔っぱらっている。そんなグループのなかでトミーという鈍重そうだがお人よしの男と、ルービー・ラマーというグループの食事の世話をするたったひとりの女性がテンプルを擁護する。だが彼らの心配と行動も空しく、一泊した翌日の午前にテンプルは、まぐさ小屋でポパイによって暴行を受ける。さらにテンプルの傍にいたトミーも邪魔者扱いされて銃殺されてしまうのだ。

▲ これが事件の概要だが、物語はつづく。ポパイはすっかり怖気づいてしまったテンプルを車に乗せて逃亡し、ミス・リーバという女の経営する売春組織の館に監禁する。そこでもさらにテンプルに暴行を繰り返すのだ。ミス・リーバという女も悪辣で、ポパイは彼女にとっては金離れのいい上得意客らしくて、好きなようにやらせて眼をつむる。一方、廃屋に残っていたリー・グッドウィンという男がトミー殺害容疑で逮捕される。彼には殺人の前科があった。他の仲間はすでに逃亡したあとなのか、小説では詳しくはふれられていない。グッドウィンは否認したまま裁判を待つことになる。ホレス・ベンホウという弁護士が彼の弁護を引き受けることになるが、グッドウィンは寡黙だ。目撃こそしないものの、ポパイが犯人であることは普段の凶暴と短気から見当がつきそうだが、打ち明けない。彼もまたポパイをおそれ、その復讐に縮みあがるようだ。刑務所の格子つきの窓の外からさえ、ポパイの銃口が向けられるのではないかと心配するくらいだ。

▲ フォークナーは初期にはあまり注目されない作家だったという。最初に話題になったのがこの「サンクチュアリ」で、しかもその煽情性ゆえであったという。ポパイが不能者であり、そのレイプの方法がトウモロコシの穂軸をつかってのものということが読みすすむと明らかになる。売春宿ではごろつき仲間のレッドという男にテンプルとセックスをさせて傍で見て興奮するという異常ぶりが加わる。しかもテンプルは処女で、その出血の様もほんの少しずつだが描写がある。世間の注目を引きたい思いがあったのか知らないが、あまり印象はよくない。しかしそういう要素もまたフォークナーの特色かもしれない。印象の悪さは、この小説の中心部で質を換えてさらに展開されるので、「煽情性」ははずみをつける役目を担わされたのかもしれない。

▲ テンプルはすっかり正常性を失う。病気かどうかはわからないがとにかく異常で、そのことに自身気づいていない。自身がどんなに打撃をこうむったのか正面から受け止めようとしない。あまり残酷だから目をそらすのか。そのうえポパイに対する恐怖心で一杯になったうえでセックスを教えられて、その欲情にも執着してしまう。ようやく彼女を探し当てて事件の核心部を聞き出そうとするベンホウに向かって、彼に言わせれば「いわば女性が自分は人々の注目を浴びていると気づいたときにする派手なお喋り調の独り言」をまくしたてる。そこには「誇り」や「素朴で無邪気な虚栄心」はたしかにあるものの「独り勝手な空想」でつくりあげた話だ。どうしようもなく事件の核心を避けてしまうのだ。

それからあたし言ったの、これじゃあまだ利かないわ。あたし男じゃなきゃだめだわ。それであたし年寄りになったの、長くて白いひげを生やした男にね、するとあの小柄で黒い服の男はだんだん小さくなっていって、そしてあたし、ほらごらんと言ったわ。よく見てごらん。いまあたしは男よ。あたし男になったときのことを考えて、そしてそれを考えはじめたとたんに、そうなったの。あれがね、ぽんというような音立てて出たわ、まるで細いゴム風船を裏返しにして息を吹き込んだときみたいにね。あれは冷やっこい感じだったわ、ほら、口をあけたままにしておくと、内側が冷たくなるでしょ、あの感じ。そしてあたし、いまにきっと彼がびっくりするぞと思いながら笑うまいとしてじっと寝てたわ。あたしのパンティのなかではあの手の行く先でぴくつきが走るのを感じていて、あたし、寝たままで、もう一分もすれば彼がどんなに驚いて怒るかしらと思って笑わないように我慢してた。それから急にだしぬけにあたし眠っちまったの。彼の手があそこに届くまで目をさましてさえいられなかったの。ただすうっと眠っちゃったわ。(289p以下)


▲ これは、すぐには呑み込めない世界だ。無理から事件を冗談にしてしまって笑い飛ばすポーズをとろうとするのか、童話的な世界に逃げこもうとするのか、とにかく正常ではない。強がるのか。ペニスが生えてくればいいとは、一瞬でも頭をよぎったのかもしれないが、針小棒大に語るばかり。相手の男が小さくなったなどとは、そのときは微塵も考えなかったにちがいない。「あれ」とは女性器のことで「裏返し」になったとはそれがペニスに変身したことをさすが、笑いをこらえただの、すべて捏造の世界だ。しかもこれは暴行の直前の様子を語るのではなく、その前夜の未遂におわったときのことらしい。真っ暗闇の部屋のベッドに彼女はガワァンと並んで眠った。しかもルービーが部屋の隅でこっそり見張っていたし、トミーもポパイを尾行していたのだ……。あまりに無残な体験をすると、正面からそれをふりかえることが直ちにはできないものかもしれない。私はその点では同情せざるをえないが、言葉がまるで支離滅裂で、醜い態度であることは否定できない。作家とは、否定的な人間像をも想像力でもってその対象に乗り移ろうとするものではないだろうか。また作家自身の過去にも、現在からみて否定すべき心身の体験があり、それも動員するのかもしれない。だがいつまでもその作業にとどまって入られない。フォークナーはホレスに「あの子は今夜にでも死んじまったらそのほうが身のためなんだ」と憤激と苛立ちを抱かせるが、ここまで書いてきたフォークナー自身に対する吐きすてたい気持ちも多分に反映しているのではないか。

▲ だがほんとうに絶望すべき事態は裁判において訪れる。テンプルは証言者として出廷するが、そこでグッドウィンを真犯人とする検事の主張をあっさりと肯定してしまうのだ。ここは読んでいてがっくりするところだ。たしかに彼女のポパイに対する恐怖心は察してあまりある。なにしろ目前で二人もの命がポパイによって葬られたからだ。トミー、そして彼女が逃亡のためにすがろうとしたセックスの相手のレッドだ。これはポパイ個人への恐怖もさることながら、劣悪な治安状態の小さな町全体への恐怖でもあるのだ。フォークナー書くところの架空のヨクナパトゥファ郡の郡都ジェファスン。ここでは判決後、群集がグッドウィンを刑務所から引っ張り出して焚刑にしてしまって溜飲をさげる。極端だが、アメリカの昔においては警官の数が少なすぎるのだろう。それにしてもだ。この裁判の敗北には不条理を認めざるをえない。テンプルがボディガード四人と父にかこまれて法廷から車に乗る場面は、厭味である。

▲ フォークナーがこの小説で肯定的な人物として描いたのは、ホレス・ベンホウ以外にはルービーがいる。彼女はグッドウィンの妻で、密造酒グループのときも裁判のときもグッドウィンの傍を離れない。しかも彼との間に生まれた赤ん坊も抱えているのだ。一回目の殺人事件のときも軍隊生活で海外に彼が赴任中のときも、貞操を守って帰還を待った。しかも弁護士費用を捻出するために働きつめて、それでも足りないとなると弁護士と寝て代金代わりにした。ベンホウにもそれをもちかけるがベンホウはあっさりと断る。グッドウィンという男がいかにも平凡に描かれるので、そこまでしなくてもという感情を持ってしまうが、列女といえるだろう。ルービーは多弁で、みずからの過去と現在の行動に自信をもっていることがわかる。『罪と罰』でラスコリニコフの恋人となるソーニャを思い出させる。無論、あれほどは多弁ではないが。

▲ ポパイにはまったく魅力がない。まあ、こんなやつは一刻も早く死刑にしたほうがいいという気持ちに傾いてしまう。私個人は死刑には消極的ではあるが反対の立場だが……。虚弱体質に生まれながら、物心がつくと動物虐待にはしり少年院送りとなる人物である。のちに書かれた『八月の光』のジョー・クリスマスも悪人だが、ジョーは性のなかに死を透視したという点で普遍性を獲得しているが、ポパイにはそういうものはない。全体としてみれば、この『サンクチュアリ』はアメリカ社会の混沌と無気味さを描き出すことに力点が置かれたと思う。レイプや暴力はそれをさらにいびつにして拡大したものなのか。私には、それはアメリカに根深くはびこる悪しき因習にも思えた。



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君よ憤怒の河を渉れ(1976/日本)

君よ憤怒の河を渉れ君よ憤怒の河を渉れ
(2008/03/28)
原田芳雄、大滝秀治 他

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 格別のおもしろさはないが、最後まで退屈せずに見られる。

 高倉健は検事。刑事の原田芳雄とともに代議士の不可解な自殺の謎を追っていたが、その矢先強盗の濡れ衣を着せられる。二人の男女が被害者として名乗り出て、高倉を真犯人だと証言したのだ。高倉は間一髪で逮捕をまぬがれて被害者を名乗る伊佐山ひろ子の故郷である能登へとぶが、すでに殺害されていた。さらに高倉はもう一人の「被害者」の田中邦衛の故郷の北海道へとぶ。無論、原田芳雄はじめ警察、検察も彼を追う。追われながら追うという設定は最近のマット・デイモン主演の「ボーン」シリーズとまったく同じ。

 高倉が一度も乗ったことのないセスナに乗って逃亡したり、中野良子と一緒に馬にまたがって大都会東京を駆けたりと大活躍する。また高熱を発して路地裏で苦しんでいると、見ず知らずの倍賞美津子が助けてくれて、自宅アパートで介抱してくれる。こういうことの連続で、荒唐無稽だと一笑に伏すこともできるが、映画とはこんなものだと割り切ることもできる。それに高倉健は東映任侠シリーズで、寡黙だが行動的で正しい、敵が倒れるまでは絶対に倒れないといういわば「不当神話」を築きあげた俳優で、そのイメージがここでもうまく生かされている気がした。

 ちなみにこの映画は、文化大革命終焉後の中国での日本映画上映第一号作品となったという。私の妻は中国人で、当時はテレビのある家庭はまれで、街の空き地でのテレビ観賞だったそうだ。DVDを一緒に見たあとで聞かせてくれた。人気を博したという。また昨年公開の中国映画『孔雀』でもこの映画が引用されていた。
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ティファニーで朝食を(1961/アメリカ)

ティファニーで朝食をティファニーで朝食を
(2006/04/21)
オードリー・ヘプバーン、ジョージ・ペパード 他

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 オードリー・ヘップバーンの悲しげな表情が印象に残る。「ローマの休日」とはちがった彼女が見られる。

 早朝のニューヨークの中心街。イヴニングドレスに濃いサングラスをかけたオードリーがタクシーから降り立つ。そこは宝石店ティファニーで、当然まだ店は開いていない。わずかに小さなショウウィンドウがのぞくことができる。紙袋から何か取りだして口に入れながら興味津々の様子で見ている、もっともこういうことは初めてではなく慣れた様子だ。のちに彼女は「ティファニーには不幸が無い」というようにその店に無類のあこがれを抱いていることがわかる。冒頭のこの場面からでもオードリーの演じる女性の一風変わった生活ぶりが窺い知れる。ここへ来るまでどこで何をして過ごしていたのか、わからない。

 オードリーはやがて同じアパートに引っ越してきた作家志望の青年ジョージ・ペパードと仲良くなり、その交際の進展ぶりとともに彼女の秘密が少しずつ明るみに出される。マフィアの親分に面会するために刑務所に定期的に行って報酬をもらったり、高額の接待費らしきものを男からもらいながら途中で逃げて男を怒らせたり、女優志望でもあるらしく面識のある映画会社の幹部のはからいで大勢の有名人を自宅に呼んでパーティをひらいたりと、とても普通の生活ぶりではない。ジョージ・ペパードはそんな彼女を売春婦ではないかと疑い口にしてなじるが、オードリーは彼をまじまじと見返しながらも否定はしない。売春する場面は直接には出てこないのでそうだとは断定するのもためらわれるが、いかがわしい生業であることは確かなようだ。もっともジョージ・ペパードも富豪夫人と肉体関係を持ち貢がれているから、そういう勘がはたらくのも無理はないのだ。さらに、オードリーの同情すべき過去のことにまで映画はふれるが……。

 富豪との結婚を夢見て、そこにしか脱出路はないと決め込むオードリーに対して「自分という檻からは一生逃れることはできない」と諭すジョージ。それはプロポーズの言葉もかねていて、いささか急激にラヴ・ストーリーへと展開していく。一旦は外へ放り出した飼い猫を探しにタクシーから雨中の町に二人が出る、テレビで見覚えのある場面である。

 私の感想は、はじめに書いたようにオードリー・ヘップバーンの悲しげな表情が、それだけが突出して記憶に残った。映画のなかで彼女の人物像の説明が積みかさねられるが、そこから来た「悲しみ」だけとも思いたくないという欲求が私にはたらく。泥まみれにならず、どこまでも優雅さを引きずってしまうこの女優の資質にあずかるところが大きいのだろう。そして少し飛躍させると、女優とは役柄にはまりきらないところでもその魅力を発揮する存在なのだろう。勿論オードリー・ヘップバーンも女優業と人生でキャリアをかさねた。「ローマの休日」のときには考えられなかった表情と姿勢が、この映画にはある。

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君のためなら千回でも

 少年時代の友情とその亀裂が陰影ゆたかに描かれている。惜しむらくは、そこをもう少し突っ込んでもらいたかった。後の部分は冗長でしまりがない。

 アフガニスタンで生まれた主人公アミールは裕福な家庭環境にめぐまれて育った。とりわけ召使の息子ハッサンと仲がいい。少年たちは凧揚げ合戦をして遊ぶ。これは一対一の対決形式で、自分の凧を空中で操作して相手の凧の糸を切り取れば勝ちという、いささか乱暴なゲームだが、この国の伝統らしく代々受け継がれているようだ。ひとつの凧に二人がつき、一人は糸の巻き出し、もう一人は糸を揺さぶるという分担で、少年二人はつぎつぎと相手のコンビを負かしていく。カメラは地上から上空の凧を撮るのは勿論、上空から凧や青空やその下の街をも撮り、風と光を身に受けるような気にさせられてなかなか開放的だ。

 だが少年二人の仲のよさをこころよく思わない少年三人組がいる。嫉妬もあるのだろうが、それよりも彼らは身分や出身民族のちがいを口にする。アフガニスタンは多民族国家で、多数派で力があるらしいパシュトゥーン人が威張っていて、ハッサンは別の民族だ。三人組はしきりに付きまとい、ついにハッサンを拉致して性的な暴行を加える。ここは陰惨で、見ていてやりきれない。三人組の一人は大きい大人と同じ体格の持ち主でハッサンは無抵抗のまま。しかも尾行して物陰からその現場を覗いているアミールも助けに行かない。怖気ついたのだろう。

 だが二人の関係はそれで終わらない、もっと醜悪さをくわえる。アミールは無抵抗だったハッサンを「弱虫」となじるのだ。数日後のことだ。起伏の多い岩地にたった一本生えた木に真っ赤に熟した果実を、あるい落ちて腐ったそれらをつぎつぎにハッサンの身体と顔にぶつける。ハッサンはやはり無抵抗。そればかりか自分で腐った果実を顔にぶつける、ある種決意を昂然と示しながら。ここは召使の息子でかつ被圧迫民族出身という位置づけをものすごく意識したうえでの自分の生き様を、ハッサンが見せつけたことになろうか。無抵抗こそが身過ぎ世過ぎなのだと。だがそういうことはアミールにはわからない。子供なら誰一人、ちょっと環境がちがえば理解できない世界かもしれない。アミールはかえって侮辱を返されたと受け取ったのか、傍にいることに薄気味悪さを感じたのか、ここで二人の友情はこわれる。のみならずアミールは姦計をもちいてハッサン親子を我が家から追放してしまう。子供の世界ながら、随分ひどいことをするな、と思わずにはいられない。それに暴行を受けたあとよたよた歩くハッサンから地面に落ちる血と果実の赤の色彩の対比。これも厭な気分だ。

 アミールと父はやがてソ連の侵攻によってアメリカ移住を余儀なくされることになるが、このあとの展開はおおざっぱでいけない。子供時代のハミールのことを悔いている以上のこと、それくらいはともかくその内容は伝わってこない。原作の小説をなぞっているのかもしれないが、ハミールと血縁関係があることがわかってさらに彼の息子がタリバン政権下のアフガンの孤児院に収容されていることも判明する。アミールはその子供の救出のため、単身でアフガンに乗り込んで変装までしてタリバン幹部に近づくが、空気はいつのまにかアメリカ得意の行動主義的アクション映画に変質してしまっている。私としては、ハミールとの血の繋がりなどない設定のほうを、映画としては見たかった。 

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