大洋ボート

ノーマンズ・ランド(2001/フランス・イタリア・その他)

ノー・マンズ・ランドノー・マンズ・ランド
(2002/12/18)
ブランコ・ジュリッチ、レネ・ビトラヤツ 他

商品詳細を見る

 旧ユーゴスラビアにおけるセルビアとボスニアの紛争が舞台。「俺の村はおまえたちによって焼き払われて皆殺しにされた」ボスニア兵が若いセルビア兵に銃をつきつけながら憎しみを剥き出しにして言い放つ。負傷して歯を食いしばってこらえるセルビア兵もひるむことなく「おれたちこそおまえたちに……」と同様のことを異口同音に言い返す。戦争ってこういうことなんだなと思わずにはいられない。「敵」に対する憎しみは個人にも勿論宿るが、それ以上に故郷や仲間、国の憎しみや報復感情が個人にのしかかり、そのうえで個人が支えるのだ。報復感情ばかりではなく、これ以上の被害をなんとしてでも食い止めたいという防衛意識も無論ある。つまりは連帯感で、どちらの国の兵にとっても同じだろう。また、どちらの国が先に仕掛けたのか、どちらが悪いのか、という議論は彼等を立ち止まらせない。たとえ自国が悪かろうと、一方的に攻めつぶされることは身を挺して防がなくてはならない、そのために戦闘を停止することができないのだ。だが敵同士であっても、話すうちにお互いに同質の心情を抱いていることが少しずつわかってくる。私はそこにかすかな希望の光を見る思いもしたのだが。

 うつくしさと残酷さがきわだった対照をみせるふたつの場面がある。ボスニア兵はセルビア兵にとどめをささない。「情けをかける」からだ。だがそれが徒となって、小さな隙を突かれてセルビア兵に武器を奪われ攻守ところを替えることになる。ボスニア兵の措置はそこだけとりだせばうつくしい。だが武器を奪われたことによってボスニア兵は「情け」を悔いる。またセルビア兵はボスニア兵の轍を踏むまいと決意してしまう。「情け」をかけまいとするのだ。自分が助けられたにもかかわらず。視聴者としてはうつくしい行為をないがしろにされた気で残念だが、生死がかかる彼らにとってはそれどころではないのだろう。当面の安全を確保するには、目の前の敵を抹殺してしまうのが一番だ、そう考えるのもやむをえないのか。一方、残酷なものは地雷だ。物語は全滅したはずのボスニア陣地の塹壕にセルビア兵二人が斥候に赴くところからはじまるのだが、生き残りのボスニア兵を発見して仰向けにさせて、身体の下に地雷を敷設してしまうのだ。少しでも動けば爆発する仕組みで必死状態だ。だが、やがてもう一人の生き残りのボスニア兵によって彼らは一人が戦死しもう一人が負傷し、書いてきたような展開となるのだが。

 ボスニア兵は同僚を助けるために、セルビア兵にセルビア陣地に向かって白旗をふらせ、国連監視団の地雷処理係を呼び寄せるまでにこぎつける。このあたりは息詰まる。視聴者は同時に「戦争だから死者が出るのはやむをえない」というような、普段ありがちなぼんやりした諦めの感情が見事に洗い流されることに気づく。惰性を戒めねばならないとも思わされる。ああ、救ってやりたいなあと願わずにはいられないのだ。死者の続出する戦争を向こうにまわして、そのまっただなかにいる一人の人間の命を救いたいとの心情を抱かずにはいられない。たった一人になってもその思いを持ちつづけたい、という決意のようなものが固まってくる。そして結末はたいへん重い。無力感が生じてくるのだが、やれやれという肩の荷を降ろすときの安堵感よりも、このうえなく貴重である。平和と命の尊さを刃のように突きつけてくる映画だ。

スポンサーサイト
    00:04 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

それでもボクはやってない(2006/日本)

それでもボクはやってない スタンダード・エディションそれでもボクはやってない スタンダード・エディション
(2007/08/10)
加瀬亮;瀬戸朝香;山本耕史;もたいまさこ;役所広司

商品詳細を見る

 痴漢冤罪事件の裁判をとりあげた映画。同犯罪で逮捕された容疑者の有罪率は99.9%にのぼるという。冤罪を主張して裁判に訴えでた被告においては有罪率はわずかにさがり97%、つまり3%の割合でしか無罪を勝ちとれない。痴漢のような物的証拠がきわめて少ない事件において、この数字はあまりにも異常ではないかというのが周防正行監督の主張である。「疑わしきは罰せず」という裁判の原則がないがしろにされているのだ。また、これほど有罪率が高いことの背景には、取調べ段階で罪を認めれば略式起訴となり、罰金をはらえば即日に釈放されるということがある。裁判を起こすとなると、拘置所に何ヶ月も留め置かれるし、裁判費用も自前ということになる。つまり無罪を主張するほうが物的損失がはるかに大きいのだ。また「被害」女性に対する社会的な同情を意識してか、裁判所がその主張を鵜のみにする傾向が強いこともあるらしい。これらの数値や背景はこの映画で知りえたことである。映画のなかの言葉や数字は忘れやすいが、これらは強く残った。

 事件は、書いてきた内容にぴったり沿うに足りる典型的なもの。つまり個性的に突出した要素はほとんどない。ラッシュ時の電車に駅員に押されるようにして乗った青年の加亮が降車時に前の位置に乗車していた女子高生に「痴漢」と訴えられて、駅員に身柄を確保されるところからはじまる。彼は身に覚えはないが、警察が駆けつけてきてしょっ引かれていく。彼は頑として罪を認めず、結局は裁判を起こすことになる。

 事件に個性がないと書いたが、被告の加亮、弁護士の役所広司、瀬戸朝香ほか裁判長や傍聴人にも個性がない。つまりこの映画は人間一人か数人の個性をきわだたせることが目的ではないのだ。裁判全体の進行の一部始終と、書いたような不条理性を浮き上がらせることが主眼だ。それには人間のよけいな個性はかえって邪魔になるとの配慮で、この点は見事に成功した。もっとも個性がないといっても、平凡ということでは決してない。加亮は最後まで踏んばるし、弁護士の仕事も誠実で非の打ち所がない。無罪の合理性を証拠立てるために多くの人を集めてきて、状況再現のビデオを製作することまでやる。ただ、こういう潔癖さをおしとおす青年や正義感の強い弁護士は、想像の範囲内の人間像であり、それ以上の裁判の場所以外での人間描写は省かれているので、それをさして私は個性がないと書いたのだ。類型的なのだ。

 はたして無罪を勝ち取れるのか、という興味で映画はまた裁判は進行する。ここでたいへんあざやかな場面のいくつかに出あう。弁護士の役所広司が被告の加亮に向かって質問し、加が答える。すると役所が「裁判長のほうに向かって話してください。」と諭す。裁判長の目をまっすぐに見て話すことで心証を少しでもよくしたいとの配慮で、実際の裁判でもありそうな風景だ。また被害者の女子高生が証言台に立ったときは、人権を配慮して大きなついたてが運ばれてきて傍聴人の目から姿を隠す。これは今日では慣習化しているとはいえやはり裁判長の指揮によるのだろう。こういう細部にわたる配慮はあたたかいものだ。理詰めで流れがちな裁判の窮屈さを緩和して余裕を与える役目もある。裁判において映画において、ともにそうだ。また、この裁判では裁判長が途中で交代し、傍聴人の人数を、定員をオーバーさせるか否かで指揮のちがいが見られる。この場面もふくめると裁判長や弁護士(検事においてもそうだろう)には、おおざっぱな言い方だが小さな自由が付与されているといえるのではないか。だがこの「小さな自由」は裁判の判決にはまったく影響をもたらさないのだ。当然のことだが。ここは大きなブラックユーモアで、すぐれたカ所だ。

 判決は予想通りの有罪。先に書いたように「疑わしきは罰せず」の原則は踏みにじられ、もうひとつの原則の「判例主義」が幅を利かせることになる。まるで裁判全体がおおきな生き物のように見えてくる。人間的な呼吸はそのおおきな図体のそこここではみられるが、全体としてはたいへん非人間的である。誰も動かせない。そしてもしかしたらこの裁判が、法の下に厳粛に執り行われたという安心感さえ視聴者にあたえかねない、そういう逆説をも提示する。裁判こそが主役といっていい、緻密さとにがいユーモアがちりばめられた秀作である。

    23:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

バイオハザード(2002/アメリカ)

バイオハザード〈廉価版〉バイオハザード〈廉価版〉
(2007/10/03)
ミラ・ジョヴォヴィッチ、ミシェル・ロドリゲス 他

商品詳細を見る

 近未来SF.世界制覇をたくらむ某巨大企業の地下研究室で開発中の新型ウイルスが漏出した。まもなく施設のシステムが作動して、地下施設は密封状態となり、研究所の所員全員が閉じ込められる。そこでミラ・ジョヴォヴィッチをはじめとする企業の警護隊が救出に駆けつけることになる。

 ゲームソフトが原作だそうだが、そんな感覚がいかにもありありとしている。施設のシステムは警護隊であろうがなかろうが、外部からの侵入者をだまし、殲滅にかかる。進入に成功したと思ったら後戻りできない。殺人光線まで登場する。エンジニアは施設システムの「シャットダウン」を画策するが、はかどらない。やがてウイルスの影響でゾンビ化した研究員の群れが次々に襲いかかってくるという始末。

 ゲームソフトは、私は子供が操作しているのを見て知っているが、同じような場面が何回も出てくる。ゾンビならゾンビが、少しずつ手段を変え、角度やタイミングを変えて襲撃してくるのだが、傍目からはそれらは繰り返しといって差し支えないものだ。ところがゲームを操作する人にとっては「繰り返し」ではなく「積み重ね」として受け止められるらしい。「積み重ね」は勝利への接近だ。またゲームは操作盤のあつかいによってゲームの進行がまったくちがった展開にもなるが、映画を見る場合はそういうことはない。あらかじめひとつのパターンでつくられたものを見せられるだけだからだ。

 だからミラ・ジョヴォヴィッチの勝利は最初から確定しているので、その過程を製作者のひねりだした設定や映像の工夫で楽しめればよいのだが、やはり「繰り返し」の連続にどうしても見えてしまい飽きてくる。まあ、お気楽な映画というところか。ただしミラ・ジョヴォヴィッチは旬の女優だけにかっこいい。

    01:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ラスト、コーション

 一九三〇年代末期から一九四二年までの上海が舞台。タン・ウェイは同じ学生のワン・リーホンの誘いで学生演劇に加わり、さらに彼女もふくめた仲間五人全員がそのまま抗日スパイ組織へと衣替えしていく。標的は日本軍に宥和政策をとる汪政権のトニー・レオン。彼は抗日中国人組織を探索し、捕縛と殺害を実行する警察組織の司令塔的人物だった。

 ノンポリで明るい学生だったタン・ウェイが、抗日プロパガンダの演劇の舞台に立って復讐を誓う。すると嵐のような声援がかえってきてナショナリズムの大きな渦に呑みこまれていく。そこで確信を深め、さらに小さな組織の秘密と団結の空気を身につけていく。プチブル風の屋敷を借り、貿易商の夫人になりすまして、トニー・レオンの夫人に近づいていく。この仕掛けも学生組織にしては大掛かりだが、若者たちもタン・ウェイもせいいっぱい変貌をとげていく。この過程がたいへん説得力がある。私は日本人だが、日中戦争もとおい昔の出来事で、それにはこだわりはない。一歩一歩標的に近づくことと成功を願わずにはいられない。彼らは「政治的人間」へと成長するのだ。義憤であり義務であると思われるものに彼らは魅せられる。そうして「政治」(戦争)という巣に凝着されて、力以上のものを発揮する。それが彼らは心地よいのだ。偉大な目的に近づくことを思うのだ。省略するが、さらに山場があり危機がある。非常手段まで行使して彼らはそれを乗り切るのだが、まさに固唾を呑む思いがして、これが重くもあるが爽快でもあるのだ。

 一方のトニー・レオンはどっしりした構えと眼差しでタン・ウェイを、また視聴者を迎え入れる。彼の表情には緊張と警戒と冷静さ、さらにはわずかに疲労も見え隠れするようだ。そんな彼が「貿易商夫人」タン・ウェイに惹かれる。レストランでデートしたときにグラスについたタン・ウェイの口紅がアップされる。これだけでトニー・レオンの色情の高まりが端的に表現される。やがて彼の豪邸でのレイプまがいの強引なセックスとなる。

 タン・ウェイはトニーとのあいだで何をすればいいのか。彼の思うがままに身を任せること、「貿易商夫人」を破綻なく演じきること、彼から漏れるかもしれない情報をチェックすること、そして彼の心をつなぎとめておくこと、などであろう。だが心をどうやってつなぎとめるのか、彼が自分を好きならば自分のほうも好きになって気持ちを返せばいちばんいいのではないか。「芝居」といいうことにこだわる必要はない。自然にそういう感情を抱ければベストなのだ。そういう世界にタン・ウェイはずるずる引き込まれる。すると知る必要のないことまでが肉体を通じて直接伝わってくる。トニーが「政治」(治安、戦争)という日々の行いの重い荷をひとときでも降ろしたがっていること、男女の性という別の慰安の、秘密の世界を作りたがっている、現に作りつつあってそれをより確固たるものに築こうとすること。「政治」とはまったく異なる渇望がそこで満たされる。秘密の部屋で相手の肉体を思う存分にいじめ扱う。相手もそれに応える、快感を放出する、すると白熱した感情が相互からたちあらわれてくる、迷宮でもある、「迷宮」はくりかえすことを本能に要求する。二人だけの世界、「愛」の世界。もうやめられない……。

 当面、政治の世界から足を洗わないにしても「裏の世界」としてそれは個人のなかで最重要な位置を占めるのではないか。タン・ウェイもそれは無理なく肯定できるまでになる。それならば、タン・ウェイ自身も性を政治に従属させることはなく、トニーと身も心も一体になってそれを秘かな自立した「裏の世界」にすればいいのだ。欲情にブレーキをかけることなく。政治的立場はとりあえずは変更しないまでも……。そしてタン・ウェイのなかでさらにさらに飛躍するものがある。

 この映画は結末がすべてを語る。結末の衝撃から出発して、二人の関係の世界を思い出し洗いなおす。するとやはり二人の「愛」の世界がこの映画の中心であることが、はっきりとわかる。アン・リー監督の前作『ブロークバックマウンテン』ともおおいに通じる。日中戦争は大いなる舞台装置に過ぎないのだ。トニー・レオンのデスクの上で静まることなく、かすかに音を立てて揺れる指輪。「鳩の卵」と名づけられた指輪。 
    00:52 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

花様年華(2000/香港)

花様年華花様年華
(2004/11/25)
トニー・レオン、マギー・チャン 他

商品詳細を見る

 独特の雰囲気作りに腐心した映画。香港には昼間や空がないのではないかと思わせる映像世界だ。室内と香港のせまい路地の空気をそのまま外部に延長したつもりなのかもしれない。なんだか地下都市のようでもある。

 物語はトニー・レオンとマギー・チャンが同じアパートの部屋を借りて隣どうしになるところから始まる。親しくなった二人はともに食事をする機会をもつが、そのときお互いの伴侶同士が関係をもっているのに気づく。トニーのネクタイはマギーの夫のネクタイと同じ品で、マギーのハンドバッグもトニーの妻のそれとまったく同じ品だった。つまり同じ品を浮気相手と配偶者に、浮気中の男女がプレゼントしたことがわかったのである。二人はこれをきっかけに親密さを増すが、マギーには目の当たりにした事実はやはりショックである。

 「一線を越えてはならない」とマギーが言うように、二人は肉体関係にはなかなか入らない。マギーの悲しみをトニーがなぐさめるという位置関係がもっぱらだ。二人は愛し合っているようだが、それでいて離婚を伴侶に申し入れて結婚を実現させるという方向にも踏み出さない。マギーが夫の浮気を発見して問い詰めるのか、と思わせる場面があるが、カメラが移動すると相手は夫ではなくトニーだ。「練習」をしているというわけだ。そのときでさえマギーは嗚咽がとまらない。いっそ別れてしまおうと二人で納得しあう場面もあるが、やはり「練習」。こんなような、前進も後退もないいわば停滞の時間がながながとつづく。やがてトニーは香港からシンガポールへと職をえて引っ越すが、マギーもついてくる。それぞれの夫婦生活の過程はどうなったのか、離婚は実現したのか、まったく省略されてわからない。そんなことどうでもいい、とでも言いたげに。

 ウォン・カーウァイ監督はこの「停滞の時間」へのたいへん強い思い入れがあるのだろう。外見的に「不倫」であっても本人たちは大真面目、肉体の生々しさよりも悲しみを純化させようとするのか、宗教的な祈願さえ感じられる。そしてこの「停滞の時間」を男女のなかに少しでもながびかせようとする。長びかせることで何か時間が別の相貌をおびてくることを期待するかのように。地上的なしがらみが、長びかせることで消失してかすかに光輝をはらむのだろうか。だが果たしてそれは実現するのか、残念ながらその答えはない。年月が重ねられてこの男女は結局は別れるなりゆきになったようだが、その経過はこれまた省かれる。むしろ、「停滞の時間」への未練がありありと見えてくる。

 香港もふくめて中国の社会は「不倫」や恋愛関係において二股をかけることに厳しい見方を今もするようで、この映画の男女も無論それを意識するのだろう。哀しみを背負うのだろう。それを打開しようとはせずに、そのさなかにとどまってこらえる、そのなかから新たな時間がもしかしたら恵みとなって立ちあらわれるのではないか、という期待があるのだ。

 この映画はいろんな国際映画祭で作品賞などを受賞したようだ。たしかに独自の映像世界と、それと一体になった男女の関係の世界は一石を投じたのかもしれない。しかし私には、この男女の「時間」は先細りするしかない時間としか思えないのだが。監督はこだわりすぎるのではないか。

    23:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

イントルーダー 怒りの翼(1990/アメリカ)

イントルーダー 怒りの翼イントルーダー 怒りの翼
(2006/07/07)
ダニー・グローヴァー、ウィレム・デフォー 他

商品詳細を見る

 ベトナム戦争下でのイントルーダーと呼ばれるアメリカ軍爆撃機の活動を描く。時は1972年。当時のニクソン大統領は北ベトナムの爆撃地域を政治的配慮によって制限を設けていたという。そのため搭乗者は歯がゆい思いをしていた。森の中にトラック基地があるとの情報に基づいてそこを爆撃しても二次爆発がない。つまり戦果を確認できない。情報がガセではないかとの疑いも出てくる。そのうえ、優秀な北ベトナム軍の対空砲火によってつぎつぎに同僚が犠牲になっていく。そういう戦闘行動のくりかえしに、業を煮やした搭乗者のブラッド・ジョンソンは戦隊に復帰してきたベテラン搭乗員とともに禁止された空域の爆撃を画策する。実行が露見すると軍法会議にかけられることを覚悟しなければならない。目標はハノイ郊外に隠されていると推察されるミサイル基地だった。

 ここらあたりは盛り上がる。自軍の犠牲があまりに大きい事態が続くと軍人ならどうするのか、という問題だ。厭戦気分に傾くか、それとも復讐心をより燃え上がらせるか、おおざっぱに二分すればそんなところか。この映画では後者がえらばれる。飛行気乗りでも何でもいいが、最前線の下級兵が自分勝手に動き回ったなら軍隊も作戦も無秩序そのものになってしまう。だが、せめて一矢を報いたいとの強い想いに駆られて二人はやってしまう。個人的には戦争は嫌いだが、この二人の気持ちはわからないではない。さて、それでどうなるのかと注目したが、あとは尻すぼみ。軍法会議以前に二人は不処分にされる。二人の行動の直後に、ニクソン大統領が北爆制限区域の解除を決めたからで、二人の行動は大統領決定を先取りしたものとして評価されるのだ。映画視聴者としては、うやむやにせず軍法会議での論戦を是非見たかったのだが。

 それからラストまでは一転して、ベトナム領内に不時着し負傷した上官ダニー・グローヴァーの救出作戦に変わる。このあたりはいかにも安易。味方の救出というテーマは、戦争映画にとってはもっとも無難で新味がないからだ。

    01:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ヒトラーの贋札

 強制収用所に送られたユダヤ人サリー(カール・マルコヴィックス)がその腕を見込まれてナチスの大がかりな贋札製造作戦に駆り出される、という話。彼はその技術者、製造者の集団のリーダーにさせられる。収容所でのその作業の過程とともに、戦争、ユダヤ人への虐待の問題が節目節目にあらわになる。

 主人公が根っからの正義漢ではないところが、かえって見やすいのかな、と思った。彼は娑婆にいたころ贋札をつくっていい思いをしたことがある。収容所にきてからは、ナチス兵の鉛筆画をこっそり書いて、わざと見つかるようにして収容所のナチス兵に気に入られる。肖像画制作を彼らにつぎつぎに依頼される。つまり如才のないところがあるのだ。贋札作りに移ってからは、彼ばかりでなく、チームの待遇もわずかながら改善される。藁屑を敷いただけの寝台がふかふかのベッドと白いシーツになる、という具合に。ある若い同僚はサボタージュを盛んにし、決起の機会をたえず窺うが、反対に主人公はむしろそれを押しとどめる立場をとる。
 
 ああ、こんなものだったのかなあ、と思わせるのが作業の様子。小さな機械がいくつかあって、それがたえず騒音を響かせる。紙質と原版ができるまでがたいへんそうで、あとは一枚一枚押し付けていく。大規模ではなく、町工場みたいで、雰囲気がよくでている。そしてポンド紙幣の偽造に成功すると、彼らもさすがに一息つく。なにしろ成功しなければ、彼ら自身が抹殺されるおそれが十分にあるのだから。実際には、彼らはその時点で一目置かれるまでにはなったのであろう。だが、収容所のナチの幹部はたえず彼らを押さえつけようとする。ユダヤ人は人にあらずで、屈辱と恐怖を何かにつけて覚えさせる。そのうちの一人が主人公がトイレ掃除の最中に入ってきて、用を足すと同時に、贋札作りを催促しながら小便を顔に引っ掛けるのだ。将校に少し親近感を抱きはじめた主人公にとってはきわめて屈辱的で、穴の底へ突きもどされた気分にちがいない。また、同僚がいきなり銃殺される場面があり、主人公はそれを塀越しに偶然目撃するが、ここもやりきれない。同様の場面はナチスを描いた映画によく出てくるが、いくら見ても慣れることができない、残酷だ。その直後の音響がまたたいへん効果的だ。こもったような、遠ざかったような響きにかわる。音が聞こえない、世界がくらくらしてとおざかる、狂う、自分自身もまた死に近づくという主人公の心象世界をたくみに表現しえている。それも決して煽情的ではなく、控えめに。

 古い映画で『戦場にかける橋』というのがあった。イギリス人捕虜の待遇改善のため、指揮官の将校がリーダーシップをとって、日本軍のための鉄道橋建設に邁進するという話だった。ここでも似たことはある。病気の同僚のために主人公は薬をナチ将校から手に入れることができた。だが書いたようにナチは、いつ何時贋札チームを抹殺するかわからない。日本軍将校の早川雪舟ほどにはやさしくはない。くどいが、贋札作りが命の保障にかろうじてつながっている、またはそのように思い込んで、彼らは希望を持つしかないのだ。

 カール・マルコヴィックスの表情が、進行につれてどんどん冷静さを増してくるように見えた。この俳優自身がどう考えたのかはわからないが、私には贋札というモノづくりにおいて培われた冷静さが、命を保障されるという思いと同時に、冷静な思考と見とおし、周囲への気配り、そして自信をももたらしたのではないかと思いたいところだ。それでも、やや冷静すぎる印象があって不自然な気もしたが……。そして終戦。収容所の別棟のユダヤ人が押しかけてくる。民族同胞とはとても思えない。汚れきって、飢えと凶暴さをたたえた形相に驚く。戦争とは分断され、隔離されることでもある。その外での出来事などなにひとつわからないのだ。

 
    00:45 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ジェシー・ジェームズの暗殺

 いい映画なんだろうなあと、片方の頭で思いながら、どうしても乗っていけない作品に出会うことがある。これがそうだった。少し前なら「ジャーヘッド」だろうか。自分の鑑賞眼はヘボではないかと疑ったりする。

 カメラはブラッド・ピット演じる主人公ジェシー・ジェームズを執拗に追っていく。南北戦争前後に実在した強盗殺人犯で、当時から大衆的人気があったという。現在もその人気はアメリカでつづいているらしい。しかし私は、ちらほら西部劇で名前を耳にしただけでまったく知らないので、興味の持ちようがない。話は少しずれるが、七〇年代にワイアット・アープを、ひ弱で小心者に描いた作品があった。題名も出演者も忘れてしまったが、名作西部劇でアープを知っていたので、固定観念がこわされてたいへん興味深かった。そんな予備知識のあるなしが関係するのかもしれない。

 映画はいいムードで進行する。冗談や猥談をしてうちとけあって団結を図る強盗仲間。それに雨が少なく樹木が大きく育たないアメリカ中部の平原。たまに雨が降ると泥濘状態が長くつづく都市や野原の道。一九世紀のアメリカはこんなだったろうなあと思わせる。列車強盗の場面もあるが、犯罪をあつかうにしては全体的に静かだ。

 ジェシー・ジェームズは激昂すると引き金を引くのをためらわない男らしい。子供にさえも口を割らせようとしてリンチ寸前までいたぶって、仲間に止められるくらいだ。その仲間にも猜疑の目を向けることを忘れない。動物的な勘が鋭いといえば、いい表現になるが。家族思いの面なども描かれるが、重犯罪者にはちがいない。ブラッド・ピットがいくら熱演しても、この人物が私には魅力的に見えないのだ。

 ほっとしたのは、そんなブラッド・ピットが猜疑心を抱き続ける日常に疲れたのか、ガンベルトを腰からはずすところ。視聴者に近づいてくれたように思えた。しかしその直後に彼は題名どおりに「暗殺」されるのだ。銃撃したのは彼を慕って仲間入りした青年(ケイシー・アフレック)。青年もまた殺されるのではないかとびくついていたから、チャンスとみたのだ。

 映画はむしろ、この後の展開のほうががたいへんおもしろい。暗殺者として有名になった青年は、瓢箪から駒のように出世のチャンスをえて天にも昇る気分になるのだが……。
    00:18 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
01 ≪│2008/02│≫ 03
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク