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イーユン・リー「千年の祈り」

 作者イーユン・リーはこの第一創作集を全編英語で書いたそうだ。そのわけについて「訳者あとがき」によると、リー自身中国語では自己検閲をかけてしまうからだと語っている。言論の自由がなく、うかうか喋ることができない中国での生活から自然にできた習性かもしれない、納得がいく。同じように「千年の祈り」の女性主人公も中国語ではなく、英語という外国語を身につけて話すことによって、自己表現のすばらしさと解放感を実感する。主人公の中では中国語はみすぼらしいようだ。ただその背景にあるものは作者の「自己検閲」という理由とはわずかにちがい、小説独自の仕込みがされている。もっとも主人公は作者ときわめて近い境遇らしいのだが。

 これは父と娘の確執の話である。石(シー)氏は元ロケット工学者。アメリカへ渡った娘が離婚したと聞いて、心配になって娘を訪ねてきた。また、娘が子供のころは家庭内ではろくに口を利かなかった。それは彼の仕事が国家機密に属するので、家庭内でも一切仕事上のことを口にしてはならなかった。融通のきかない父は仕事のことで頭がいっぱいで、話してもいいことまで話さずじまいできてしまった。家族のコミュニケーションはなおざりにされたのだ。そのことへの後悔もあり、肉親として腹を割って娘と話したい、付き合いなおしたい、という気持ちも切実にわきあがってくる。だが娘のほうは、子供時代からのそんな父や家族の世界がうっとうしくて逃げるように渡米してきた。同じ中国人の男とは離婚にいたったが、図書館の司書の職を得て、ようやく自立へと踏み出そうとしている。父がはるばるやってきても、いまさら仲良くはなれず、冷淡な態度をつづける。

 石氏は退職後、料理の腕をみがいたらしく、寄宿する娘の家であれこれつくっては食べてもらおうとする。だが娘は少ししか手をつけない。ここが両者の不仲を端的に示す場面であざやかだ。娘はまた、恋人を新たにつくっている。父が心配するほどには憔悴していない。離婚が大きな不幸をもたらすにちがいないという父の旧来的な先入見を、ごく自然にくつがえしてしまっている。そのルーマニア人の恋人との電話を、父に聞かせるようにつづける場面も印象に残る。それまでは父の前で電話をするときにはひそひそ声だった。

 娘が英語を話すのに耳をそばだてる。これほどきつい声に聞こえるのは初めてだ。早口でしゃべり、何度も笑っている。言葉はわからないが、その話しぶりはもっと理解に苦しむ。やたらとけたたましくふてぶてしく、きんきんひびく声。ひどく耳障りで、ふとはずみで娘の裸を見てしまったような気分だ。いつもの娘ではなく、どこかの知らない人みたいだ。



 娘は、現在の自分らしい自分を父にさらけだすことで、父の自分への認識をあらたにしてもらいたいという欲求が湧いてきたのだろう。うちとけあうにはまだまだ距離がありそうだが、読者としては第一歩にはなりうる気がした。それにここでは、外国語で話すことによる自己解放といったことが書かれている。しかも作者が自分にかさなる主人公になまなましくしゃべらせると同時に、不仲の父の目をとおしてさらにそれを客観化している。ふたつの存在がかさなりあっていて、見事なものだ。父は他人のように見えてしまうそんな娘にとまどうが、切り捨てるのではなく、どうにか思考の回路を解きほぐして肯定的に受けいれようとするのだろう。題名の「千年の祈り」とは、人と人とが会って話すには目もくらむほどの長い時間祈らなければならない、そういう中国の言い伝えにもとづいている。言い伝えを信じるかぎりは、父は娘との和解をあきらめない。

 そんな父の石氏にも楽しみができる。近所の公園でイラン人の楽天的な老婦人と会話することである。会話といっても片言の英語以外は両者とも母国語で話すので、豊富につたわるのではない。自分は幸福で、アメリカがいい国だということくらいだ。ただ石氏は「マダム」の輝くばかりの「生命力」をうらやましいと思うばかりで、それだけで石氏もいい気分になってしまう。娘にはない明るさをもちあわせているように見える。コスチュームはいつもけばけばしいばかりの原色系統で、たとえば「紫の猿のプリントがついた鮮やかなオレンジ色のブラウス」だったりで、「この世を愛してうたがわない」のだ。きっと彼女は夫や家族によって「人生の辛気くさい物事から」まもられてきた、と石氏は推測する。何も書かれてはいないが、父としての自分と娘のことを引き合いに出すと、忸怩たる思いがかすめるのではないか。この老婦人に刺激されて彼もまた、相手に伝わらないにもかかわらず、母国語で身の上話をはじめるのだ。悲しい思い出だが、今まで無口で押し通してきた人が、なんのためらいもなくはじめて自分を語りだす。ここにはやはり語ることの解放感というのか、ようやくのように荷物を背から降ろすことができたときのほっとした感覚が味わえるのではないか。それも娘のけたたましい英語でのおしゃべりが、彼に何らかの影響をあたえていると見るべきではないか。

 ビデオカメラが父のあとからついていくような、人の息遣いが伝わってくる好短編だ。とりあげなかった作品では「縁組」がすぐれていた。これは旧来の強引ともとれる見合い結婚にあきたりず、あくまでもみずからの恋愛の意思を貫きとおそうとする何人かの男女の話だ。既婚の男女それぞれに別の好きな人がいて、その関係をずっとつづける。またその家の養女となった少女が、現実離れしているがみずみずしい恋情を燃やす。

 この第一創作集のいくつかの作品で、イーユン・リーはアメリカでの生活を鏡にして、母国中国の実情、とくにそのひずみの部分をあざやかに描き出すことに成功した。次回作はどうなるのか、アメリカはきれいなままなのか、それともその実情を生活の周りに発見することになるのか、楽しみである。
                               (了)
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イーユン・リー「ネブラスカの姫君」

 女性主人公の心理の移ろいを微妙にえがきだす好短編。中国から留学のため単身渡ってきた主人公の、アメリカという国への生活者としての希望も浮かびあがる。舞台はシカゴのミシガン・アベニューというところで、ちょうどクリスマス・パレードの日で、若いカップルや子供を連れた家族でにぎわう。この様子に対して主人公は最初は無縁の風景として見過ごそうとするが、しだいにそれは、主人公が人生に対して前向きの姿勢へと変わっていく触媒の役目を、目立たないが担うことになる。じわじわと効く薬のように。また、北京での数ヶ月前に終わってしまった恋愛劇のいきさつがふりかえられる。

 薩沙(サーシャ)は渡米の直前に陽(ヤン)という青年と関係を持ち、のちに妊娠したことを知った。薩沙は陽にアメリカへともに行くことを誘ったが断られた。薩沙からの国際電話で彼も妊娠の事実を知るが、まもなく彼は連絡を絶ってしまう。陽は元京劇の男旦(ナンダン)と呼ばれる女性専門に演じる将来性豊かな役者だったが、ゲイの行いがばれてクビになってしまった男。並外れた美青年で、薩沙には陽が「まわりの泥に触れたことのない、白い蓮の花のよう」に映った。彼女は陽のことをあきらめて中絶を決意するのだが、それをなんとか思いとどまらせようとするのが伯深(ポーシェン)という男。三十八歳の医師で、彼もゲイの傾向で、役者をクビになった陽を買春してかこったのである。伯深はまたゲイの擁護やエイズの調査などの人権活動に熱心だったため秘密警察から目をつけられ、その活動も制限された。彼は陽の「浮気相手」の女性が陽の子を身篭ったこと、その女性薩沙が渡米したことを陽から告げられる。彼も陽に二人してのアメリカ行きを持ちかけるが断られ、陽はほどなく彼の前からも姿を消す。そうして彼伯深もレズビアンの女友達と偽装結婚して渡米して、薩沙のもとに駆けつけてくるのである。彼が陽の忘れ形見を育てようとするのは、彼が陽の京劇復帰を実現するという約束を果たせなかったからで、そのせめてもの償いの意味がある。また陽に対する愛情の胎児への反映でもあるだろう。

 二人の共通点は、このように陽と関係を持ったという以外にはない。薩沙は彼にとっての初めての女性で、ごく普通の恋愛をさせてあげたという面で誇りを持っている。だがきっぱりと忘れようとしている。反対に伯深のほうは、未練たっぷり。陽の復帰のため、アメリカへ来てからも在米の京劇の権威に働きかけることを考えたりする。だが陽のようなとびきりの美青年は、いくらでも相手がいるものだ。自分の地位向上のためにより役立ちそうな人間を物色することは不可能ではないのだ。薩沙にとってすでに陽は、思い出の領域に入ろうとする人だ。だが伯深は陽の子を育てることで、陽との関係を持続させたいと考えるのではないか。そして子供をめぐって向き合う二人。陽の相手であるからさぞかし見目麗しい姿ではないかとの想像を両者とも抱いていたが、お互いに裏切られてしまう。女から見て男は平凡で、真面目すぎて面白みがない、男から見て女はちっとも美人ではない。またそれ以前に胎児をどう扱うかは妊婦である薩沙が主体的に決断すべきものであるのに、そこへ見知らぬ男として伯深が割って入ってきたのだから、薩沙としてはしっくりいかないのも当然だろう。そうこうするうちにも子供はどんどん大きくなる。今しもお腹のなかで動いて知らせる。

 マクドナルドで軽い食事を二人がとるところからこの短編ははじまるが、男がすすめたフィッシュサンドを女がつき返して、男のチキンサンドをえらびとる。ここが映像的で印象に残る。これだけで二人の関係の冷たさがわかろうというもの。二人は断続的に話しながら、外へ出て、クリスマス・パレードを見物することになる。薩沙はにぎわう人々が素直にうらやましい。父親の肩車に乗せられた子供。ポップコーン売りに行列を作って並ぶ人々。夕刻ともなればイルミネーションにいっせいに明かりがともる。ディズニーのフロートがやってきてミッキーマウスが乗っている。アメリカの人たちは「生まれつき自然体のままでいられる。天真らんまんで、しかもそれを幸いと思っている。」同時に薩沙が思い出さずにはいられないのが、みずからが生まれた環境と母親のことだ。母は若いときに文化大革命のあおりを受けて、懲罰的処置として都市からモンゴルへ移住させられた。そこで現地のモンゴル人男性と結婚させられて、薩沙ともう一人の子供を生んだ。文革が済んで離婚することはできたが、母はいまだにモンゴルから離れることができない身分でいる。子供だけがようやく脱け出せた。このように子の母への痛切な同情をずっと薩沙は引きずっているのだ。そのことを思い浮かべると、アメリカ人とその地が倍化して輝いてくる。
 

 伯深が肩に腕を回したとき、薩沙は逃げなかった。知らない人から見れば、二人はごく普通の夫婦に見えるだろう。喧嘩してへそを曲げた妻を、夫が心配してなだめているというふうに。あるいはおたがい愛想づかしをした夫婦でもいい。夫はお腹の赤ん坊だけを気にかけていて、妻は胎児のこともふくめ、何に対しても心が動かなくなっている。


 
 だが同時に赤ん坊がお腹のなかで動く。引用した部分は何気ないようでそうではない。自分たち二人が周りからどんな風に見られているか、と単に気を回すのではない。女性主人公が出産へとようやくのように心が傾きはじめた瞬間をとらえているのだと思う。肩に回した男の腕から逃げなかったのは、別に伯深に異性として好ましい感情をにわかに抱いたからではない。胎児を気にかけてくれる伯深のやさしさを受けいれたのだろう。彼は同志的存在なのかもしれない。そして薩沙は今もモンゴルに住む母を思い浮かべる。母が経験したであろう子に対する「どこまでも落下していく」「底なしの愛」を薩沙自身もまた見据えるのだ。薩沙は、母は出産を後悔しなかったことを知っている。

 三十頁あまりの短編だが、主人公を取り巻く人物群、後にしてきた故国、住まおうとする新しい国、故国のなかの古さと新しさ、等々、重層的な環境が不足なく描かれている。そのなかで前向きに生きようとする薩沙の姿が胸を打つ。

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イーユン・リー「不滅」

 この短編集の大半は市井に生きる人が主人公であり脇役でもあるが、「不滅」だけが例外で、一時期、超有名人となってやがて没落する男の話である。それだけに集中、いちばん派手で目立つ。また語り手は「わたしたち」、つまりある町の一庶民の立場をとって、町民なら誰もが共有するであろう「ご先祖様」の伝説と彼らに対する畏敬の念を前提に語る。この町の出身の主人公もまたその伝説を強く意識する。「ご先祖様」とは町から代々出現した宦官たちをさす。
 
 

その葬式は、わが町はじまって以来のとほうもない規模だった。一九〇四年、九番目の月のことである。いまでも葬式の一部始終を、老人たちが語り続けている。白檀を彫った巨大な柩、大量の金塊、絹の服を入れたいくつもの櫃、翡翠の器が入った箱の数々。すべてはあの世で母親がつかうためなのだ。さらに目を見張るのは、山に住む貧しい農民から買った十二歳の少女四人である。彼女たちはそれまで夢にも見たことがないような繻子の服を着せられて、一杯の水銀を飲まされる。するとあっという間に死んでしまうため、その桃色の肌は、輿に乗って柩の先を行進する間も保たれる。火のついた香をにぎらされ、四人の少女は忠実な侍女としてあの世まで母親のお供をするのだ。



 残酷ではあるが、絵巻物のようなきらびやかさを受け取ってしまう。宦官の頂点にたった男が、すでに死んだ母親のために催した二度目の葬式の模様だ。その男は子供時代、子供どうしの喧嘩の際、異常なまでの闘志をふるいたたせた。そうしてみずからの手で局部を切り取ってしまったのである。宦官となって出世して見返してやろうとの思いだが、彼には男兄妹がいなかった。通常は宦官をめざす場合は、他の男兄弟が将来結婚して子孫を絶やさないようにするのだが、彼はそんなことは頓着しなかった。夫にも先立たれていた母は悲しんで自殺した。だが彼はのちに望みどおり宦官になって、同じ身分のうちで最高の地位にまで登りつめたのである。やがて引退して故郷にもどり、引用したように、母の棺を掘り返してふたたび弔ったのだ。「このご先祖様の物語は、わが町の歴史上もっとも輝ける一頁」だと語り手は書く。「わたしたち」の最たる誇りなのだ。

 そうして時は移り、革命後の共産主義国家新中国の同じ町で、この最大の「ご先祖様」をも凌駕しようかという人物があらわれる。独裁者にそっくりな顔をした子供である。(「独裁者」とは名前こそ明示されないが毛沢東であることは明らかである)母と子一人の家族というところ、町の子供仲間にいじめられるという場面など、偉大なご先祖様のなりゆきと酷似している。その場面は印象的だ。それは飢えが国中に蔓延したころで、空から落ちてくる雀を子供たちがわれ先にひろい集めて食料にする。その子は父親が「反革命分子」として処刑されたためいじめられて、雀をとりあげられそうになる。暴行も受ける。だがそこへ母親が助けに入ってきて「この子の顔を見なさいよ。」といって、ほかの子供に食ってかかる。なるほど傷ついた顔からは最高指導者のおもざしが髣髴と浮かんでくる。「不敬罪で訴える」とすごまれて、子供たちは引き下がる以外になくなってしまう。

 それが彼が十歳のころで、以後成長するにつれてますます独裁者に似てくる。町の人も戸惑いながらも認めざるをえない。革命以降、毛沢東の神格化は常識をはるかに超えて浸透した。本編にも書いてある。彼の父は独裁者に対する皮肉を酒場で言っただけで処刑された。主婦が壁紙につかっていた古新聞がさかさまで、当然そこに見出しで出ていた独裁者の名前もさかさまになって、それを見咎められて同じく処刑されたという。そんなことが不思議ではない時代だった。当時の人にとっては無論恐ろしいことで、「そっくりさん」のあつかいもまた慎重すぎるくらいでなければならなかった。やがて高校卒業後、彼は普通の仕事につくのはまずいのではないかとお偉方が相談しあって「革命委員会の諮問機関の議長」に選任される。特に仕事もない名誉職なのだろう。それでもまさに瓢箪から駒、出世である。母も子も、父のことで怨みを独裁者に向けることはなかった。若い女にももてて見合い話も殺到する。だが相手が偉大すぎてみえて、近づくことを過度に恐れる人々も同時に出現する。このあたりの周囲の反応が目に見えるように活き活きと描かれる。

 語り手「わたしたち」は偉大な「ご先祖様」をたえず意識し、彼にその再来を夢見る。彼もまた同じだが、それにくわえて現在の独裁者をも意識し、近づく気分だろう。中国国民全体が独裁者についていった時代だ。「原爆を落とされてもまだ半分の二億五千万人が残っている」と独裁者は、アメリカとの戦争を展望して言い放った。無茶苦茶だったが、それでも国民はぼんやりとだが覚悟を決めて彼のその言葉を受けいれたのである。語り手も主人公も同じだったろう。そして独裁者にもやがて死ぬときがくるが、威光はいっこうに衰えることはない。主人公は独裁者専門に演じる俳優(「特型演員」と呼ばれる)のオーディションに応募し見事合格する。そのあとは映画を撮ったり、イベントに出演したりと忙しい。中国全土をめぐって歓呼と拍手で迎えられる。このあたりが主人公の人生での頂点である。

 だが時代は移りかわる。次の独裁者があらわれ資本主義化政策をとると、さすがに前の独裁者のことは次第に忘れられる。また側近の医者の書いた暴露本(邦題『毛沢東の私生活』)が地下出版されて、その威光も色あせてくる。主人公もちやほやされなくなる。独裁者を演じることが彼にとっては「存在理由」であったが、その需要もなくなる。だが身も心も独裁者であることをやめられない彼は、バランスをくずす。スキャンダルを引き起こして全国に知れわたることになる。例の暴露本の影響で女漁りをして最悪の結果をまねいてしまったのだ。「特型演員」の地位も剥奪されて彼は故郷にもどってくる。

 読みとばしてしまうヵ所がある。彼はずっと独身であり、また童貞でもあったという。前者はみずからの地位にふさわしい最高の女をもとめつづけたから、という理由でとおりそうだ。だが私は後者に関しては腑に落ちない感じを持った。しかしそれは「噂」であり、そうあってほしいという思い入れだろう。「ご先祖様」の宦官を語り手が彼に二重写しするからではないか。そこからさらに彼自身もまた「ご先祖様」にみずからを二重写しするのではないかという推察も生じてくる。それなら童貞であってもおかしくはない。小説的事実よりも、そういう心理的願望の堅さが尊ばれている気がした。

 結末はショッキングである。没落してしまった自身への絶望であることは勿論だが、もうひとつはやはり「ご先祖様」への畏敬の念にすがったということもあるだろう。「殉じた」と書くと正確ではないが、同等の切迫感がある。

事件の夜、寝ているところに尾を引く遠吠えのような声が聞こえてきたので、わたしたちは夜の冷機の中へ飛び出す。そして墓地で彼の姿を見つける。ご先祖さまの伝説を聞いて育ったとはいえ、その光景には骨の髄までぞっとする。こんなことをして何の意味があるのだろう。



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イーユン・リー『千年の祈り』

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)
(2007/07)
イーユン・リー

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  作者イーユン・リーの描く中国には新しさと古さが同居している。前者は開放政策のはじまってから今日にいたるまでの中国であり、停滞しあるいは衰退する国有企業を尻目に私企業が勃興しはじめた。その結果、人目につくに足りる富裕層が出現し、人々がそのおこぼれにあずかる機会もできた。また、アメリカや日本などの商品の優秀さが認知され、言論の自由が保障される社会体制も知られることになって、それら外国へのあこがれがかきたてられるとともに、それまでの自国の社会主義体制への幻滅の感情もあらわになった。また個人が目指す道を、よりいっそう自分自身の思いを中心にして決めるという傾向も強まった。日陰の存在である異端者、たとえばこの短編集にも描かれるゲイ、レズビアン、未婚者のような人たちにも少しではあるが、希望がきざしはじめるように思えるようになった。

一方、古さも岩盤のように依然としてある。言論や信教の自由はまったく保障されないままだし、それは単に窮屈さという次元にはとどまらない。たとえば、革命時代から文革期にかけてほんのささいな言動が元になって極刑にまでいたる仕打ちを受けた人たちが数千万の単位で存在し、その爪あとはその家族の子供(現在の成人)にまで深く刻まれている。処罰的処置によって都会から遠方の地方に飛ばされた人々も多数存在する。独裁体制であることは変わりはないが、その過酷さは文革期まではもっとひどかったということだ。文革期を過ぎてもなお天安門事件のような一大流血事件もあった。そういう政治的絶望は、古さのなかの最も大きな要素で、現代にも大きく立ちはだかっている。古さといえばほかにもある。この短編集にも登場するが、「京劇」のような伝統ある芸能の制度、小さな町に代々つたわる英雄伝説、あるいは言い伝え、ことわざのたぐい、そんなものにまで浸み込んでいる。だから、現在においてすべてが「新しさ」と入れ替わったのではない。また、庶民の中で長い年月にわたって形成された多数意見というものも堅固に存在しつづけ、人々の生き方そのものになっている。これも「古さ」と言えないことはない。先に異端者のことに触れたが、これらの人々は依然として少数派であり、「多数派」から罪悪視されてもまだまだ当たり前の社会なのだ。

さらにもっと人々に接近してみれば、同じような境遇で同じ多数派に属すると外側からみられても、深刻な意見の対立は、場合によってやはり存在する。「黄昏」では、周囲の反対にもかかわらず熱烈な恋愛結婚で結ばれたいとこ同士の夫婦がいる。(この結婚の経緯だけとりだせば、彼ら二人は少数派である)彼らのさずかった第一子の女の子は重度の脳性麻痺を背負っていた。回復する見込みはなく、一生二親が介護しなければ生きられない運命にある。二人ともよく奮闘して面倒をみる。妻は嘲られることをきらって周囲から子供のことを隠そうとする。客を家に招くこともなく、子のうなり声も漏れないように窓やカーテンを開けることがない。妻のほうがより一心不乱に子に向き合うように描かれる。だからいっそ子が死んでくれたらと強く強迫感情にさらされるのも妻のほうだ。そんな気配も察知するのか、夫は妻が息苦しい。第二子をつくろうと夫は提案する。勿論正常な子が生まれてくることが前提で、そうなれば家庭の中もいくらかは明るくなる、妻も障害児ばかりに向き合わずにすむ、気が晴れるのではないか、という目論見だった。障害児の女の子をやたら周囲から隠すことにも夫は反対だ。だが妻は反対する。健康な第二子がさずかっても長女が消えるわけでもない。その負担が軽くなるでもない、むしろ第二子の誕生によってより育児の負担がのしかかる、その分、長女への面倒見がおろそかになると。

こういう意見対立は普遍的に存在するもので、別に新旧の対立という括り方にこだわる必要はない。しいていえば妻のほうが、「恥」や「母性」における考えと構えが古めかしいといえないことはない。また、張りつめている。夫のほうがやや長女から距離を置いて、開明的といえるのだろうか。そして作者はどちらが正しいか、などと無粋な選択をしないし、読者にそれを迫りもしない。中立ということではなく、どちらにも感情移入できる仕組みをつくったうえで書いている。複眼的なのだ、ここが重要だ。読者は小説の登場人物に対しては第三者的ではあるが、ひょんな運命でどちらかの立場に立ってもおかしくはないと思わされる。どちらも自分のことのように思える。さらに作者の複眼はひろがりを持つ。

やがて第二子の男の子が五体満足で生まれ、二十年以上たつと、その子は自立して出て行く。夫は職を定年で辞して、その興味を株式投資に見出して毎日のように株屋に出かけていく。彼はそこに清新な時代の匂いを嗅ぐ。おしゃべりに興じるおばさんたちや、やがて夫の友人となる元マルクス主義者。その友人は彼の妻の服役中(国有企業の幹部であったときに汚職を摘発されて)若い愛人をつくる。友人の妻は早期に出所して、彼の浮気を嗅ぎつけて敵愾心をめらめら燃やし、その騒動は主役の夫妻にも及んでくる……。「株」「愛人」などがここでは中国の「新しさ」である。そしてこの「黄昏」のもつひろがりである。主人公の夫はそんな新しさの空気を少しでも妻に浴びてもらいたいのだが、妻の姿勢は微塵も変わらず、苦しそうな顔つきで障害児につきっきりで介護すること以外は眼中に入らない。第二子の誕生もほとんど妻に変化をもたらさなかった。

人は基本的には利己心や興味で動く。だが思ったほどうまくはいかない。安住できる群れがそうやすやすと転がっているのでもない。人に良かれと思って実現させたことも反発を食らう場合もしばしばで、その結果は引き受けなければならない。人は行動する。それによって社会に流通する「新しさ」「古さ」を自然に身につけてしまう。だが、それらは最初の意志や自分にとっては部分でしかない、ともいえる。和解しがたい夫婦であっても、人はそのもとでさらに生きなければ、行動しなければならない。孤独ということだが、傍には縁ある人が常在する、あるいは近い過去にいた、ということである。この「関係性」は勿論中国にかぎらずどんな社会にでもある。そしてある同じ固有の「関係性」はそこに対峙する人のちがいによって、固有の感情を抱きながらちがってみえる。イーユン・リーはこの同じ「関係性」がメンバー個々によってどう見えるのかを並列的に描いていき、結局は客観的にはそれはどんな風に見えてくるのかを読者に問いかけてくる。

イーユン・リーは一九七二年北京生まれで、北京大学卒業後一九九六年渡米して以来、大学教授の職について現在もアメリカ在住だという。複眼的、俯瞰的な展望を中国や中国人に向けられるのは、その地理的な距離感がいいほうに作用するのか。これからこのすぐれた短編集のいくつかをとりあげていきたい。


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再会の街で

アダム・サンドラー(チャーリー)は9・11事件で妻と幼い娘3人?を失った。以後彼は一見痴呆状態になる。歯科医の職も投げ打ってしまい、テレビゲームに夢中になったり、ロックバンドに参加したりという具合。人付き合いを極端に避けて殻に閉じこもる。そんな彼を元ルームメイトで歯科医のドン・チードルが偶然町で見かける。声をかけるがアダム・サンドラーは思い出せない表情。うつろな表情で、話し声も小さく、すこし裏返っている。ドン・チードルは彼の事情を知っていたし、ルームメイト時代にその人柄の良さも知り、友情をあたためたらしい。友として彼をなんとか立ち直らせたいとの思いで、つきあいが復活するのだが。

映画にも出てくるが「心的外傷後ストレス症」という精神疾患にアダムは罹っている。人生で最大の残酷な仕打ちを受けたものが、立ち直れない。自分で自分をどうやっていいのかわからない。それで事件にまったく関係のない物事に逃げ込んでしまう、というところだ。だが決して彼は忘れているのではない。そんな彼の心象をたいへん大胆かつ率直に切り取った映像に出会った。彼以外誰もいない自宅に一瞬妻と子供(女の子たち)のはしゃぐ姿が映る。せいぜい1秒か2秒の時間で、この1回だけしか出現しない。ことあるごとに、いや毎日のように死んだ家族のことを思い出さずにはいられないという、彼の心象の痛切さを示す映像だ。この一瞬に、私は物凄い切れ味をあじわった。それこそ顔のすぐ前をナイフが横切ったみたいだった。映画はこういうところの直接的表現力がずばぬけている。たぶん、アダム・サンドラー自身が、この突然の記憶の喚起に誰よりも打ちのめされるのだ、と思いつつ。

この映像であとのことがすべて説明がつく。自傷願望にときどき誘われるらしい彼は、ある傷害未遂事件を起こして裁判にかけられる。(その内容や裁判の結果は伏せておきます)検事は彼がいかに危険な人物かを証明するために彼の死んだ家族の写真を彼に見せびらかす。落ち着きをなくして上半身を上下に揺すぶるアダム。この肉体表現も秀逸だ。一見検事の思うつぼに見える。だがアダムの痛切な反論にぐうの音も出なくなる。「俺は街の中で毎日家族をみつける。シェパードでさえプードルに見える(プードルは愛犬で家族と同じ飛行機に乗っていた)」「末の娘には体にアザがあった。あれも体といっしょに炎に焼かれてしまった」正確ではないかもしれないが、そんな意味あいだ。ふりしぼるような吐露である。私もうたれた。健康な家族を思い出すのも記憶だが、炎に焼かれる姿を想像するのも記憶なのだ。そして記憶というにとどまらず、彼はみずからもその炎を家族とともに浴びたいのだ。それが死んだ家族のもとに帰っていくことではないのか。だがそれは痛切な願いであるとともに、思い浮かべるだけでも心身をすり減らすに十分ではないのか。たいへんな恐怖でもある……。ここらは映画の表面には出てこない領域で、私の想像だが、付け加えずにはいられない。

ドン・チードルは、とまどいながらもお手本のようなつき合い方をする。バンド演奏についていったり、テレビゲームを一緒にやったりと。事件のことに触れると不快さを露骨に示すアダムには、さっと引く。「正常」さとやさしさを絵に描いたようで、映画的ヒーローと呼ぶべきか。アダムが平穏さをとりもどすとしたら、何がきっかけになるのだろうか。一つは、友人や周辺の支えてくれる人々に対する「恥」の感覚だろうか。また、新しい幸福の到来だろうか。だがそれには、本人の意気込みが少しずつ回復することを待たなければならない。本人にとっても周囲にとっても根気と時間が必要なのだろう。映画感想文からは、少しはみだしてしまった。

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イナフ(2002/アメリカ)

イナフ コレクターズ・エディションイナフ コレクターズ・エディション
(2007/06/27)
ジェニファー・ロペス、ビリー・キャンベル 他

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 低予算で通俗性のまさった映画をB級映画とよぶのなら、これなんかはそうだろう。ジェニファー・ロペスはレストランのウェイトレス。そこへやってきた強くて裕福な男に見初められてすぐさま結婚へ。子供も生まれ、広い家に住んで幸せを絵に書いたような生活ぶり。だが夫の忘れていった携帯電話に親しげな女の声。どうやら浮気の相手である。

 問い詰めるジェニファーに夫がいきなり鉄拳をくわえるところは驚いた。離婚の要求にも応じてもらえず、こんなところにいてたまるかと、職場の同僚や友人の援助もあって子供を抱えて逃げ出すジェニファー。だが夫はコネが豊富で不良警官(アメリカ映画によく出てくる)まで使って全米中を追いかけてくる。今度はジェニファーが反撃する番だとばかりに、彼女は格闘技の訓練に汗を流す。自分から追跡してくる夫に会いに行き、にわかにシガニー・ウィーバーとエイリアンみたいな決闘になる。

 おもしろいといえばおもしろいが、何度も見させられているたぐいの映画。
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ロスト・イン・トランスレーション(2003/アメリカ)

ロスト・イン・トランスレーションロスト・イン・トランスレーション
(2004/12/03)
ビル・マーレイ、スカーレット・ヨハンソン 他

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 東京へCM撮影の仕事でやってきた俳優のビル・マーレイと、同じく東京に長期滞在するスカーレット・ヨハンソンとの淡い恋を描く。彼女は日本全国をとびまわるカメラマンの若妻で、ホテルで留守をまもることがほとんどで倦怠感にひたされている。ビル・マーレイのほうも言葉が通じないこともあって、日本での仕事に腰が入らない。家のインテリアのことでやかましく国際電話をしてくる妻にもうんざり。そんな同じホテルに宿泊する二人が、知り合って付き合いを始める。

 ビル・マーレイがくたびれかかった中年俳優を好演している。二人きりになってホテルの部屋にこもって、ベッドで寝そべってテレビを見る場面がある。戯れるというほどまでには行かない。退屈さをまぎらわすという程度のものだ。もとよりスカーレット・ヨハンソンは抱かれてもいいと思っている。どうしてだろうか。もしかするとマーレイは性的能力に自信がないのではないかと疑ってしまう。だけどその後には、ホテルのラウンジで毎晩歌う女性歌手と関係をもってしまう場面があって、そうでもないことがわかる。結局は、今さら「愛」をつくるほどのエネルギーがとても湧いてこないということか。夫のカメラマンは真面目で勤勉そうな様子も描かれ、彼から妻を奪うなんてことはとてもおこがましい。またマーレイ自身も現在の家庭を破壊するほどの決意ももちあわせない。あるいは『カサブランカ』のハンフリー・ボガードの「やせがまん」を継承する気もすこしはあるのかもしれない。そんな風に解釈してみた。しかし疑問も湧いた。スカーレットは重大な決意をしたのにもかかわらず、結局は相手にしてくれない中年男に何故ああまで未練を持つのだろうか。ふてくされてさっさと忘れてしまうほうが自然なのではないか。セックスをしてくれなかったことを大事にされたと受け止めたのだろうか。そこのところは描き方が足りないのではないか。女性監督ソフィア・コッポラのスカーレット的女性へのなんらかの思い入れだろうか。

 もうひとつの感想は、去年公開の『バベル』でも同じ印象をもったが、外国人が写す東京の街並みがたいへんきれいだということだ。せまい土地につるつるに磨かれたビルが秩序よく並んでいて、幻想的でさえある。日本人なら汚い場所も知っているので、こういう雰囲気を東京から受け取ることはないと思うが。「きれい」ということが、東京の特徴として外国人には映るのかもしれない。

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onceダブリンの街角で

 男(グレン・ハンサード)がギターをかき鳴らして路上ライブを毎日行なっている。プロデビューを目指しているのだが、芽が出ない。そのせいか失恋もして彼はロンドンから故郷のダブリンへもどってきた。父の電気品修理の手伝いをしているが、定職というほどではない。一方、その歌声に惹かれた女(マルケタ・イルグロヴァ)がいた。チェコからの移民で、こちらは花売りなどアルバイトをして食いつなぐが、生活はやはり苦しいようだ。だが彼女はピアノが達者に弾けて音楽的感性ももちあわせている。男を応援したい気持ちがある。女が掃除機の修理を依頼することから、音楽を通じた二人の交際がはじまることになる。

 歌声がふんだんに流れる映画で、私は音楽をよく理解できないので損をしたのかもしれない。アイルランドの流行歌がどんなものなのかも知らない。しかし、二人の交際がある部分では自然に流れていき、ある部分では音楽へのあこがれにささえられること、そういう全体の進行には舌を巻いた。ときには男が「泊まっていかないか」と露骨に誘う。女は毅然として断るが、まもなく交際は復活する。女は男が音楽に情熱を傾けていること、その姿勢が純粋なこと、そしてやらしい意味ではなく、もう少しでものになりそうなことを知っているからだ。またお互いに好きなことも二人とも知っている。だが女には事情がある。男が無理強いしないことも美しい。

 男は女をともなって銀行に融資の依頼に行く。審査係は仏頂面でとても金を貸してくれそうにない。音質の悪い男の歌のテープを聴いてもその表情は変わらない。だが画面が切り替わると、審査係はエレキギターを片手に歌いだす。俺の歌も聴いてくれ、というわけだ。ここは笑ったし、それまで地味な展開だったので一気に肩がほぐれた。音楽好きの人がアイルランドには多いのかもしれないとも思った。路上ライブの仲間と女とが手伝ってスタジオ録音をするが、ここでもスタジオのディレクターの表情が、しだいににこやかになっていく様がいい。

 恋愛として成就しない、その一歩手前の恋愛。恋愛にそそがれるエネルギーが歌作りに置き換えられる。そういうお互いの気持ちがわかりあえていて、二人とも幸福感をうることができる。羨ましさを抱かずにはいられない。ラストでは女が自宅のピアノの前に座って、顔を横に向けて窓の外を見る。充実した微笑をたたえて。カメラは窓の外の正面からそれを撮る。女から見て、カメラの位置にあるのは男の面影である。そしてメインテーマが流れる。地味ではあるが、芯のとおった作品だ。

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