大洋ボート

ハンニバル ライジング(2007/イギリス・チェコその他)

ハンニバル・ライジング スタンダード・エディションハンニバル・ライジング スタンダード・エディション
(2007/08/24)
ギャスパー・ウリエル;コン・リー;リス・エヴァンス;ケビン・マクキッド;ドミニク・ウェスト

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ハンニバル(ギャスパー・ウリエル)という男の復讐物語。第二次世界大戦中のリトアニアで彼の一家は彼をのぞいては全員が死亡。しかも幼い妹は、盗賊民兵によって「食料」にされて殺された。ハンニバルは成長して、それら元民兵を探しだして、つぎつぎに残酷に処刑していく。

彼が身を寄せるのが、死んだ叔父の妻で日本人(コン・リー)。彼女の一家も原爆投下によって死亡していたという理由で、コン・リーはハンニバルに同情し支援する。しかしここは異和感をもってしまうところだ。原爆を投下したアメリカに対して、復讐心を抱いた日本人は当然いたであろう。だが事態はそれほど単純ではない。原爆投下はむしろ日本人と日本国家の戦闘意欲をくじけさせる効果としてはたらいた面のほうが強いと私は見る。また、戦後の政治運動には、動機として反米ナショナリズムが根底にあったのかもしれないが、左翼イデオロギーや日本国家への怨恨をも同居させていた。だから復讐ということにすぐさま共感してしまうことには、つまづく感覚を覚える。しかしそれもこの映画を「時代劇」として見れば、納得してしまえるのかもしれない。背景は戦争から1950年代であるが、時代劇は物事を単純化するには都合のよい器なのだから。また、肉親を残酷な手段で殺された人に対する同情ならわからないことはない。日本文化に対する誤解といえるものはほかにもある。たとえば、武将の鎧かぶとだが、あれを宗教的信仰の対象にするのは、きわめて珍奇である。

もうひとつ。外国人が日本刀を振り回すと残酷な印象が増す。私たちは「殺陣」という日本独特の様式美に慣れきっているので、日本映画でそれこそ時代劇の切り合いの場面を見ても、ことさら残酷感は抱かない。あるとすれば、切り合いの状況が新しくなったときか。それまでの美剣士から着流しの侠客に主人公が入れ替わったとき、日本刀はたいへんリアルかつ残酷に見えた。しかしそれも様式化されるにつれて、その印象は薄まった。だがそこへ外国映画の日本刀が割ってはいると流れが断ち切られて、また新たに残酷感が生まれる。わざわざ書かなくてもいいことかもしれないが。

ギャスパー・ウリエルは役にふさわしい面構え。この映画の空気を一人でつくっている。


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シンデレラマン(2005/アメリカ)

シンデレラマンシンデレラマン
(2006/10/20)
ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウィガー 他

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 主人公のボクサーは実在した人がモデルらしいが、それはわからなくても差し支えはない。時代は1930年代の大不況の真っ只中。ラッセル・クロウはボクサーライセンスを剥奪される。骨折した右手をかばって十分なファイトができなかったため、無気力試合と見做されたからだ。家族もちの彼は、やむをえず港湾荷役の日雇いの仕事で食いつなぐが、それも毎日ありつけるわけではない。まさに極貧で、食べ物も満足に手に入らず、電気も止められる始末。子供を養子に出そうかとの考えも現実味を帯びてくる。そんなボクサーのラッセル・クロウにも、マネージャーの奔走あって待ちに待ったカムバックのチャンスが訪れた。
 
 ボクシングの場面よりも、クロウや妻のレニー・ゼルウィガー、それに二人の子供たちが貧乏にあえぎながら奮闘する場面に惹かれた。劇場で見たなら試合の場面のほうがおもしろかったのかもしれない。カムバック第一戦に彼は見事勝利するが、家の扉をあけたとたん、しょんぼりした様子を一瞬見せる。それを見てうなだれそうになる妻と子供。だがまもなく芝居をやめて、勝ったことを告げるラッセル・クロウ。肩を抱き合って喜びをあらわす家族。この場面がいちばん泣かされた。ちょっとしたいたずらが喜びを何倍にもする。憎い!

 ラッセル・クロウはボクサーにしてはあまりにも「やさおとこ」だが、「シェーン」のアラン・ラッドも拳銃使いにしてはそうであったように、一見ミスキャスト風なところが狙いなのかもしれない。また、レニー・ゼルウィガーという女優は、頬の肉がたるんだところが人妻の役によく似合っていた。
 
 このあともラッセル・クロウは勝ち続ける。「シンデレラマン」という題名どおりに。

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ジョン・バンヴィル『海に帰る日』(2)

 そこでマックスは、少年時の無意識にも多くおおわれていたであろう心性を現在の言葉で再構成する。クロエは彼にとってのはじめての「現実的存在」となった、というのだ。それまでは、ぼんやりとした広がりを持つ「世界」のなかの自分は一部分だと思っていた。クロエに恋してみて彼は、「世界」に属しているという「内在性」の意識から解き放たれた。世界から突き放され、それが敵対化することによって、クロエは彼に近しい存在、世界から是が非でも守らなければならない存在と化した、というのだ。初恋をとおして大人の自覚に芽生えたということか。映画館や食堂でデートし、キスもするようになって二人は恋人としての自覚を持つ。幸せな時間だ。

クロエと過ごしたあの数週間は、わたしにとっては、多かれ少なかれ恍惚とした屈辱の連続だった。彼女はわたしを女神の前にひれ伏す僕(しもべ)として、こちらが当惑するほど満足げに受けいれた。上の空の気分のときには、わたしが存在することすらほとんど意識していなかったし、まともに注意を向けているときでさえ、彼女の心にはかならずちょっとした隙間があって、なにか別のものに気をとられたり、放心したりしていた。その自分勝手な曖昧さがわたしを苦しめ、憤激させたが、それよりもっと悪かったのは、それが故意ではなさそうなことだった。彼女がわたしを軽蔑することに決めたのなら、わたしはそれを受けいれられたし、それを歓迎して、ひそかに快感を味わうこともできただろう。だが、彼女の視線のなかでわたしがただ蒸発してしまう瞬間があるのだとすれば、そんなことには耐えられなかった。(p157)



 彼の目にはクロエが壊れやすいガラス細工のように見えたので、守ってやらなければという意識にせかされた。マックスの言い様によれば、クロエの目から彼女自身の「欠点」をマックスができるかぎり隠すことが、クロエを輝かすことになる。クロエの自己評価が下がれば、マックスの彼女に対する評価も下がるというのだ。クロエを愛する前に母のコニーの肉体に強く惹かれたこと、それを告げれば彼女は自分を「二番手」として意識するのかもしれない。クロエの歯がかすかに緑色がかかっていること、これは同年代の少年が悪口でいったことだ。また体が古いビスケットの匂いがすること、これはマックス自身は気に入っていたクロエの特徴だったが、クロエは気を悪くするかもしれない。まして「恐ろしい真実」など告げても、他人の口から告げられてもならない。

 それにしてもだ。「恍惚とした屈辱の連続」「僕」というような言い方は、やはり大人が子供の世界をかろうじて翻訳してみせたに過ぎないのではないか。同じ言葉を大人の恋愛世界に適用すればまるっきりちがう風景になるのではないか、と思う。つまりは子供独自の「ごっこ」の世界だ。容易に「僕」にもなれるし「屈辱」があっても甘酸っぱいのだ。それに大人の定義に耐えられるほどの強固さももちえないのかもしれない。曖昧模糊な面があるし、いい意味で柔らかいのだろう。

 そんな風にせっかく再構成された少年の心性だが、少年の彼自身がそれを裏切ってしまう。繰り返しになるが、少年とは子供とはそういうものかもしれない。「秘密の共有」としてクロエに家庭教師ローズに関する目撃談を話してしまった。ローズと父がいい仲だということを。もっとも直接その現場を見たのではなく、ローズとコニーがそういう内容の話をしていたのを主人公が聞いてしまったということだ。マックスは軽い気持ちだったのだろう。それを話すことが親密さの証と思ったのか。だがそれがクロエに深刻な動揺を与える。死には直接のつながりはないが、遠因になったことは疑いない。自己評価を下げるどころではなかった。

 病と事故によるふたつの死。失策をしてしまった、あるいはもっと他にやりようがなかったのか、という痛恨の思いが響きあう。そして主人公の行動。最初に書いたが、それは思い出の地を訪れただけではなかったのである。最後に少し苦言を呈するならばはっとするような指摘、分析が随所に発見できるが、前後の文が余計に感じられ、長所が薄まるようにも思えた。文章の過剰、小説とはそんなものかもしれないが。
                                    (了)

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ジョン・バンヴィル『海に帰る日』(1)

海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)
(2007/08)
ジョン・バンヴィル

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 小説は最後まで読まないとわからないものだな、と思わされた。結末が少し意外で、腑に落ちない感覚が残ってしまった。主人公がそれほどまで憔悴し、やるせない気持ちにとらえられたとは読みとれなかった。彼がみずからを意識する以上にその気持ちは強固だったのだろう。その無意識が彼を少し無謀な行動に走らせてしまった、と見るしかないのだろうか。私には、作家が主人公の口を借りてする分析がたいへん理性的で冷静に見えて、憔悴がしだいにつのっていく様子をそれほどまでとは読みとれなかった。だが作者は裏でストーリー展開を用意していた。私の読み方が悪かったのかもしれないが。

 マックスは六十歳を過ぎた頃か。妻アンナを癌で亡くし、その悲しみを抱えたまま海に面した村を訪れる。そこは五十年前の夏、彼が一家とともに避暑のために滞在したことのある村だった。そこで彼は初恋を経験した。同じく避暑にやってきたグレース一家の長女クロエが相手で、彼女はマックスと同じ年頃。父カーロ、肉体美を誇る母コンスタンス(コニー)双子の兄弟でやや知恵遅れで言葉を話さないマイケルがグレース一家、それに彼ら二人の家庭教師のローズ(十代後半)も同伴していた。マックスが五十年ぶりに訪れて滞在することになるのは、グレース一家が宿泊していた貸し別荘である。マックスたちは経済上の理由から別の、もっと粗末な貸し別荘を利用せざるをえなかった。そういう一家へのあこがれもあってマックスは彼らに近づいたのだ。読みすすむにつれて予想できるので書いてもいいと思うが、クロエは帰らぬ人となってしまう。その直前に彼らの恋が成就したにもかかわらず。

 心の整理ということではない。妻の死という大きすぎる事実。直近の過去だが、過去ともいえない現在そのものとしてマックスの体にのしかかってきて蝕みさえする事実、その大きさ。一方では五十年前とはいえ忘れかけている過去ではない、当初から謎そのものとして引きずってきて、今だ痛手から解放されることのない幼い恋人の死。このふたつの死、そして生とにマックスはゆっくりと向き合う。このふたつの「死と生」は別々ではない。一方への問いかけと答えが他方へ、かすかに響きわたるように感じ取れる。死は大きすぎてどうしようもないが、それに対する憤懣が呼び寄せるのだろうか、妻に対しては、かつて二人がともに暮らした時間やら生活への疑念につながっていく。もっと別のやり方があったのではないかと。妻に対する不満ではなく、マックス自身のやりかたが間違っていたとも思えない。一生懸命だったし、これがベストだろうという選択をしてきた。喧嘩をしたりストレスが溜まったこともあったが、それが問題ではない。

 

わたしたちは、アンナと私は、できるだけのことをした。わたしたちは自分たちがならなかったものについて、たがいを許した。この苦悩と涙の谷間で、それ以上の何ができたというのか? 〈そんなに心配そうな顔をしないで〉とアンナは言った。〈私だってあなたを憎んだことがあるのよ、少しくらいは。なんといっても、わたしたちは人間だったんだから〉だが、そういうすべてにもかかわらず、わたしたちにはなにかが欠けていた、自分にはなにかが欠けていたという想いを振り払うことができない。それが何だったのかはわからないが。(p208)



 引用した部分は、全体の中ではめずらしく主人公が取りみだす場面だ。対話が死によって強引に中断されたことへの怒り、くやしさだろう、それらがこういう言葉を吐かせるのだろうか。いや、それ以上に貪欲なものを受けとることができそうだ。「それが何だったのかはわからないが。」妻アンナはマックスにとっては好都合な生活をおくらせてくれた人だった。美術評論家としての彼の仕事に理解があった。アンナも結婚以前は写真家志望だったからだ。また彼女の父はプチブルともいえる境遇の人で、少なくはない貯金を持っていて、彼らの結婚後まもなく亡くなった。それらの条件は、彼の貧しい境遇からの脱出願望や、現実に「歯向かう」のではなくたえず「避難所」をもとめてきたという彼の人生に対する姿勢には好都合だったのだ。だがアンナにとってはどうだっただろうか。それをマックスは考えたことがあっただろうか。たとえば彼女は、医師から死亡宣告をくだされてののちの入院生活の最中に、急にカメラをもちだしてきて病院の患者たちを精力的に撮影しはじめる。乳癌の手術の跡がなまなましい女性の微笑むポーズなどがおさめられる。死に臨んで思い残すことのないようにとの決意だろうか。こういう行為はマックスを狼狽させる。妻にとって結婚生活は幸福だったのだろうか。マックスはそうだったと思いたい。自分は幸せだった。また精一杯やってきた。だが最後のところでどうしても悔いが残る。

妻への回想は病の顕在から死に至るまでが中心で、強烈な断片のつみかさねの観を呈する。平穏に過ぎたであろう幸福な長い時間は省略されている。これに対して、クロエへの回想は出会いから、水泳を中心にした遊びの楽しさ、一家の人々との交流からクロエの死に至るまで順番に追っていく。短い期間のことだからそうなるのだろう。また夏休みだから開放的な雰囲気が満ちていて、アンナへの回想とは対照的だ。

彼女の手。彼女の目。いつも噛んでいた指の爪。わたしはすべてを覚えている。強烈に覚えている。だが、記憶はすべてばらばらで、ひとつにまとまることができない。たとえそうしようとしても、あえてそうしようとしても、たとえば彼女の母親や、マイルスや、あの原っぱ(ザ・フィールド=ふりがな)の耳の突き出たジョーを思い出すようには、彼女を思い浮かべられない。要するに、わたしには彼女の姿が見えない。彼女は私の記憶の目の前方に、ある一定の距離をあけて、焦点の合う一歩向こうで揺らめいていて、わたしが前に進むと、ちょうどそれと同じだけ後退する。わたしがそのなかに前進しようとしているものが急速に縮まりかけているのに、なぜわたしは彼女に追いつけないのだろう?(p133)



 初恋の女性の死という強烈な体験を主人公は、その女性を中心にして体験以上に精緻に、よりいっそう相手に接近しつつ繰り返そうとするのではないか。そのときの恋焦がれ、崇め奉っていたであろう少年の心性にも則って。対象の少女の映像そのものには感情はない。感情は少女を見る少年の目の側にある。また五十年を経た男にもある。それを分離せずに義務のように引きずるからこそ、少女クロエの記憶の像はあっさりしたものにはならない。体験の中心には謎がある。いくら周囲を埋めていってもそこだけが埋まらずに空白が残る。死んでしまったこともあって、そのうつくしさにはついに到達できないのだ。そして彼女の死の直前の心性が奥深くまではわからないことも、未到達感の大きな理由だろう。

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ポセイドン(2006/アメリカ)

ポセイドンポセイドン
(2007/10/12)
カート・ラッセル、ジョシュ・ルーカス 他

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 これは映画館、それもミニシアターや二番館ではなく、大きく明るいスクリーンと良質の大音響システムが完備されたシネコンで見るのがいい。感想として真っ先に書いておかなければならないことだ。DVDで見るしかなかったので恐縮だが。映画には色んな要素があるが、スペクタクル(見世物)もそのなかの大きな要素になることがある。この映画がまさにそれだ。

 「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)のリメーク版。転覆した豪華客船のなかで十人足らずの人が生き残って、船の上部すなわち船底めざして困難をきわめる船内冒険旅行をする、というもの。前作は状況設定の奇抜さがたいへん受けたと思うが、21世紀の今日では、もはやそういう要素だけでは流行らない。「ミクロの決死圏」(1966)という映画も状況設定の奇抜さで当時評判を呼んだそうだが、今見るとちゃちな部分が多い。(だからネタ切れになってもスペクタクルとして再生できる映画はいくらでもあるだろう)

 水責め、火責めがたいへん見ごたえがある。凶暴な舌となって人間に襲いかかってくる。人間が蹂躙されることを面白がるのではない。よくもこんな風に映像として定着できたなあ、という部分の感心だ。たとえば船底(上部)から油がエレベーター設備の吹き通しの空間にしたたって下部の船室にとどく。するとそこでは火災の真っ最中で、油はすぐに引火して炎がしたたる油を道のように駆け上ってくるという光景になる。他にも、カート・ラッセルが死体の下から出てくるのも、おおっ、という感じだ。

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女は二度生まれる(1961/日本)

女は二度生まれる 女は二度生まれる
若尾文子、藤巻潤 他 (2005/09/23)
角川映画

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 川島雄三という人は、水商売に生きる女性たちやそのもとに群がる男たちの生態をよく知っていたらしい。そのことが彼の作る映画によく反映されているし、また彼の映画の強みでもある。逆にいうならば水商売の世界を外側から覗き込んで同情したりさげすんだり、ということではなかった。彼女たちにとっては、たとえば売春であればそれに対する社会的批判は甘んじなければならないだろうが、それ以前に、その職場で生きることを運命づけられている。それならば多くの客を引き寄せて人気者になるに越したことはない。また人間だから、商売をはなれての恋愛感情もあるだろうし、性欲もこれまた認めざるをえない。生きることは稼ぐことであり、また、それもふくめて何が自分にとって大事なのか、それを決めて行動するのは彼女たち自身である。そういう水商売にたずさわる女性の心の変遷と揺れをたいへん鮮やかに見せてくれる映画だ。

若尾文子はいわゆるみずてん芸者。芸事はあまりうまくなく、客との交渉によって体を売ることを稼ぎの柱にしている。置屋には属しているが管理売春ではないので、客と二人でホテルや旅館へおもむくという次第。彼女は人気者で、山茶花究、山村聡、フランキー堺という面々に抱かれる。売春禁止法が施行されて取締りが厳しくなると洋風のクラブへと鞍替えする。そこで芸者時代の客と偶然再会し、口説かれてその男の愛人になる……という具合に物語は展開する。若尾文子がじつに生き生きとしている。わが世の春というとオーバーだが、少し声を上ずらせてしゃべる。また絶えず動いている。客といっしょになって布団からうつ伏せの上半身を少し出してビールを飲んだり、走行中の車のなかでは、色気のある煙草の吸い方を伝授してもらったり、ばたばたしながら軒につるした風鈴つきの花鉢に水をやったりと。見る側も自然と浮き浮きしてくる。このあたり、商売と恋愛と性欲が若尾のなかでいっしょくたになって突っ走る感がある。美形の大学生に一目惚れしたり、愛人の身になったにもかかわらず、映画館で知り合った勤労青年と関係をもってしまったりと、欲望でどんどん押していく。また逆に男の側からの情熱にも弱いところがある。

だがそんな若尾に転機がおとずれる。愛人の男に先立たれて孤独になってしまったからだ。自分の人生を見つめなおそうとしてか、子供時代(彼女は孤児である)に世話になった親戚を訪ねてみようと信州に旅行する。先に書いた勤労青年をともなって。だがもうひとつの秘かな望みが若尾にはあった。好感を持った客であった男が結婚して信州にいるという情報をえていたので、あわよくば再会したいという望みである。その男との再会は意外にはやく来る。電車内で子供をつれた男を見たからだ。眼をあわせた瞬間にお互いを知る二人。だが言葉がひとことも出ない。次の駅に着くと男は下りてしまう。たいへん鮮やかな場面だ。やがて若尾は青年をとおざけるようにして金を与えて分かれる。青年は何も知らず、出発するバスから手をふる。バスが行ってしまってもベンチに腰を下ろしたまま、考えごとに耽るような、ぼんやりするような若尾。

若尾文子はここで恋愛感情のせつなさに初めてのように気づいたのだ。欠けていたものがあるとすれば大いなる独占欲。遮二無二に相手を手に入れようとする情熱と行動だ。みずてん芸者だから結婚なんてと、無意識に一歩引いていたのかもしれない。それとも、自由奔放さを大事にしすぎたのかもしれない。寂しさといっても自分でもすぐには理解できない寂しさなのだろう。このラストは乾いている。甘ったるく同情するよりも、川島監督は若尾文子をつき放す。ベンチに腰掛ける若尾文子の遠景で映画は終わる。

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プラダを着た悪魔(2006/アメリカ)

プラダを着た悪魔 (特別編) (ベストヒット・セレクション) プラダを着た悪魔 (特別編) (ベストヒット・セレクション)
メリル・ストリープ (2007/11/21)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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 メリル・ストリーブという女優は画面に自分がどう映るかが見える人ではないか。内面の演技とはよく言われるのかもしれないが、それが表に出なかったらどうしようもない。表に出たもの、映画なら映像という外見を通じて、その立ち居振る舞いや表情をとおして、視聴者はその俳優(女優)の内面なら内面をおしはかろうとする。だから映画やもしかしたら俳優自身が要求する内面にふさわしい外面を定着できればよい、内面がなくても外面さえしっかりしていればよい、ということになる。メリル・ストリーブはそういうことをよく知っているのではないか、と思った。この映画の場合は、冷たくて頑丈そうだという外見が要求されるが、この女優は力を抜いてあっさりとそれを実現させている。

 メリルの役は「ランウェイ」という有名ファッション雑誌の編集長。日本で出版されているその類の雑誌とちがって、大きな自社ビルを持ち、専属のデザイナーやモデルも持ち、勇名ブランドメーカーとも商業上のつながりがあり、おおきなイベントも開催し、というような大規模なものらしい。そこの編集長だから一目も二目も置かれる存在で、はやりの言葉で言えば「セレブ」なのだ。当然出社時のファッションも豪華そのもの。(この辺の事情に私はうとい)そして、その編集長の第二秘書として新しく入社してくるのがアン・ハサウェイ。メリルの秘書に対する要求はきつい。仕事の効率を優先するためか、社員教育における信念なのか、「セレブ」は「セレブ」らしく目立つようにふるまわなくてはならないとでも考えるのか、無理難題をつぎつぎと命じる。どこそこの店へ行ってあれを買って何時何分までに届けろ、というような指令を矢継ぎ早に出す。アン・ハサウェイはてんてこまい。悪天候の日に飛行機をチャーターしろ、ハリーポッターの未発売の原稿を手に入れろという無理難題も。アンはどうなりこうなりこなしていき、ダサかったファッションセンスも身につけていくのだが……。

 アメリカ企業における労働の猛烈さ、上下関係のおどろくべき落差、戯画化されているもののその分を差し引けば、これは実情に近いのかもしれないとも思った。また忙しくなると私生活にトラブルを抱えることになる、相談した重役に「君は今、出世の最中だ」というような喜んでいいのかわからない助言をもらうが、これは普遍的な事情だろう。どこの国でもそうやって出世したい人は出世する。後半は、メリルが実は家庭を大事に思って気に病む人であること、彼女もまたサラリーマンでトップの意向に逆らえないこと、アンも私生活を優先させる方向に舵を切ることなどが描かれ、二人は理解を深め合い、ということで人情劇っぽくなる。これはアメリカのフィクションというもう一方の特徴かもしれないと思った。前半がすぐれていて、ある種爽快さを受けとった。

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君の涙ドナウに流れ

 挫折に終わった1956年のハンガリア革命が舞台。そのさなか、オリンピック代表チームの水球選手イヴァーン・フェニェー(カルチ)と女性活動家カタ・ドボー(ヴィキ)のすがすがしい恋が進行する。

 ソ連に遠征したハンガリアチームが、ソ連側審判の露骨なえこひいきによって屈辱の敗北を喫する、この冒頭の場面がまずは印象に残る。ロッカールームに帰ってトレーニングウェアに着替えたハンガリーチームのメンバーがさんざん試合の不満を吐き散らしているところへ、ソ連チームのメンバーが入ってくる。友好的ムードを装いながら、ハンガリー人は言葉の壁を利用して罵倒をぶちまける。ソ連選手はそのたくらみを理解せずににこやかに対応する。だがハンガリー語の「ホモ野郎」を知っていた選手がいてたちまち喧嘩になる。両者とも一歩も引かない。たかが喧嘩という次元ではない。ハンガリーを従属国と見做すソ連とソ連人、その屈辱をはねのけたいとたまらなく思うハンガリー人との非妥協的な対立がくっきりと浮かび上がるのだ。なんで、スポーツの世界でソ連にわざわざ勝たせなくてはならないのか、というハンガリー人選手の屈辱感、憤懣はよくわかる。個人の純粋な屈辱が国家的規模の屈辱にまでじかにつながっている。

 こういう個人から純粋に発した屈辱感を、多くのハンガリー国民がソ連に対して抱いていたとしても不思議ではないだろう。戦争期にはナチ、戦後にはソ連に蹂躙された旧東欧諸国だが、戦前には独立を保っていたから独立を志向する気風はあったのだろう。その願いが切実であったからこそ、武装蜂起ははじめの段階では成功裡に進行したのだ。前後するが、帰国したカルチは友人の勧めで学生集会に見物に行く。官製の共産党系学生組織が一日にして独立系の組織に変わるのを目の当たりにするのだが、「学生がデモをしたくらいで国が変わるものか」と同調を拒否する。だが果敢な発言をするヴィキを見初め、二人の交際がはじまる。ソ連やその手先のような自国政府への並々ならぬ復讐感情をヴィキは抱いていて、その深刻なわけもカルチは知るところとなる。

 ハンガリーのような小さな国では、革命をしたいと多くの人が望めばわりと短期日でできてしまう。学生のデモに市民、労働者が同調し、その輪がひろがる。警察も軍隊も日に陰に協力する。武器を貸与する。政治家も国民に担がれるとその気になる、ということだろう。だが近接する大国が本気で封じ込めようとしたなら、革命はあっけなくついえてしまう。軍事的物量の差がちがいすぎるのだ。この前者と後者の事態の落差はあまりにも大きく、絶望という言葉に真に値するものではないだろうか。身をもってそれを体験することこそが歴史に参加することになるのだろう。一旦は死ぬ気になって武器を持った。革命は成功したが、撤退の約束を反故にしてふたたびソ連軍戦車がもどってきて市民に発砲する。二度目の勇気を奮い起こすこと、一度目よりもさらに危険度が増す戦いにさいして。これは困難にちがいない。武器を捨てて司令部から去って行く者も出てくる。無論踏みとどまる者もいる。だが残念ながら映画は、ここのところ、私がいちばん見たいと思った部分、歴史における絶望の部分を単に時系列の一点としてしかあつかっていない。ここを描きこめばこの映画はもっと深みを増したにちがいない。

 一方、恋愛はうつくしい。ヴィキは偏狭ではなく、オリンピックチームに再合流したがっているカルチ(彼は戦いに参加するために一旦はチームを離脱した)を引き止めずに、勝利を願って送り出すのだ。そしてハンガリーはメルボルンで宿敵ソ連を見事倒し、金メダルの栄光を獲得するのだが、ヴィキには過酷な運命が待っていた……。交換し合ったヴィキの装身具をメルボルンで見入るカルチ。

 ハンガリー映画であり、製作者も女性監督クリィスティナ・ゴダもともにハンガリー出身だが、アメリカ、イギリスで映像の仕事でキャリアを積んでいて、そのため映画作りはたいへん洗練されたのもがある。戦車が動きまわる市街戦は迫力があるし、水球試合の再現も本物の選手が参加したらしく、見ごたえがある。二人の主役の俳優(女優)にも清新な印象をもった。

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