大洋ボート

クローズZERO

 鈴蘭高校という男子校での「頂上」あらそい。喧嘩で一目おかれる生徒がグループを形成して、抗争をつうじてトップにのし上がろうとする。何のために?強さの証明のためにか、わからない。原作がコミックだそうだから、現実離れしたところはおかまいなしなんだろう。私はそう受け取るしかない。とにかく授業そっちのけで喧嘩ばかり。弱小グループからひねりつぶして吸収合併し、みずからの組織を大きくして、最後には大きなグループに挑戦するという筋書き。主演は小栗旬という若い人。

 殴る、蹴るの喧嘩のシーンがほとんど。金属バットや椅子も出てくるが刃物はない。飽きてしまうかな、とも思ったが、これがなかなか飽きない。私のようなおっさんが高校生の喧嘩に感情移入するのはむつかしいが、最後までひっぱられた。パンチや蹴りの際の音響(擬音)が効果的だ。これが音楽における打楽器のリズムの役割をはたしている。単調なところがかえっていいのか。逆にパンチや蹴りを撮るカメラワークはひとつずつ微妙にちがっていて、工夫が見られる。テーマソングのロックも枕の役をになっている。それに死ぬまで痛めつけはしない。ふらふらになった時点で、お互いに健闘をたたえあったりするのは古臭い気もするが、そういう気質が現代の若い世代にも受けつがれているのかなあと思うと、安心するような、あるいは拍子抜けしてがっかり!するような。とにかく、喧嘩がひとかたまりになって大波のように押し寄せてくる感覚はある。

 それに脇役のちんぴらやくざのやべきょうすけという人の存在もなかなかいい。この人が唯一弱いし、弱いということの無念さを知っている。暴力をこうむる際の痛覚と、ころげまわるような悲しみをよく表現していた。義理と人情の板ばさみというと、東映仁侠映画を思い出すが、やべきょうすけはヒットマンにもなれず、かといって親分に反抗もできない。ただ縮こまるばかり。こういう脇役の存在が映画を立体的のものにしている。だが、こういう脇役のことについて書かずにはいられない私は、旧世代だからかなあ、とも思ってしまう。

 さてこの映画、数ヵ月後に私の中でどんな印象の変化があるのか。それとも忘れ去ってしまうのだろうか。
スポンサーサイト
    00:37 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

帰郷(1978/アメリカ)

帰郷 [MGMライオン・キャンペーン] 帰郷 [MGMライオン・キャンペーン]
ジェーン・フォンダ、ジョン・ボイド 他 (2007/01/19)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

この商品の詳細を見る

 ベトナムから帰還した傷病者が収容されている病院がおもな舞台。冒頭近く、ビリヤードをしながら元兵士たちが議論する場面がある。議論が白熱してきて、ある男が憤懣をこらえた表情で「戦争がまちがっていたというのなら、おれはなんのためにこんな傷を背負ってしまったんだ!」と吐き捨てる。せめて戦争の「正しさ」が確信されることをもって、慰みを得たいのだ。また、精神に変調をきたして歌がうまく歌えなくなった青年がいる。周囲のいたわりにもかかわらず、彼はあっけなく自殺してしまう。このように、重症や後遺症をこうむってしまった者にとっては前線からはなれても、戦争は意識から消えることはない。またその空気は周囲の健常者、ひいては社会全体に瀰漫してしまう性質のものなのだろう。一九七〇年代のアメリカを垣間見る気がした。

 その病院へ看護助手としてやってくるのがジェーン・フォンダ。彼女の夫もまた徴兵されてベトナムへ赴任したばかりだった。ジェーン・フォンダは夫を見送ったあと、奉仕精神を発念させて、女友達がかねてから勤務するその病院に来て、かいがいしく傷病者の世話をする。やがてハイスクール時代に顔見知りだったジョン・ボイトと再会し仲良くなる。彼もまたベトナム帰りで下半身不随の身になっていた……。

ジェーン・フォンダがうつくしすぎてちぐはぐな感じがした。健康で無垢で奉仕精神に満ちていることがいいとはかぎらない。元兵士たちの重くよどんだ空気を最後まで解しようとはしないように見えた。カマトトいう言葉が私のなかで浮かんだが、そういうことではない。自分のやっていることが正しいという自信の内部でしか動いていないのだ。ジョン・ボイトと肉体関係をもつのは、映画としては自然な流れであり、「不倫」のうしろめたさもないことも納得できる。ボイトも幸福をえられた。恋愛がその中心から一対の男女に幸福を発散することもよく描けている。しかしなんだか、ジェーン・フォンダによって、一本の映画のなかで二本の映画を見させられるような不可解さをもたざるをえなかった。

こういうことだ。戦争で重傷を負ったことで恒常的な不幸の感覚におおわれた。それに耐えながら、戦争や時代や自分についてしきりに考えること、それを通じてなんらかの出口を見出そうとするのは、結局は自分ひとりでしかできないことではないのか。また出口は簡単には見つからないのかもしれない。他方、そういう不幸な人々への奉仕といたわりも大事で、負傷者はなぐさめをうることができるのかもしれない。だが、それでもって即、前者の課題が克服できるものでもない。たしかに両者は連関する側面もある。不幸の感覚は別の幸福でやわらげられることもあるだろう。また奉仕することからははなれるが、年月の経過ということも、不幸をいくぶんか忘れさせる効果があるだろう。しかし決して、自分や戦争や同時代についてじりじりと考えることが軽視されてはならないのだ。この映画ではその辺が、両者の区別と連関ということがほとんど作り手によって意識されていないのではないかという危惧を、私はもったのだ。

戦争のような大きな出来事を通過すると、人間は変わるものかもしれない。そのもうひとつの例が、ジェーン・フォンダの夫だ。ベトナムで休暇をえていっとき香港に移動し、そこに妻を呼び寄せるのだが、妻からまた視聴者から見ると明らかに様子がおかしい、表面はとりつくろってはいるが隠し事をしているように見える、暗い。それが何であるかはわからない。こういう何気ない場面にも戦争の真実が隠されているように思える。やがて夫は自傷行為によって、つまり自分の手で膝に拳銃を撃って負傷してアメリカに帰ってくる。本人は事故だと主張するが……。そのときも彼はバツの悪そうな顔つきだ。しかし妻のジェーン・フォンダは夫を深く追求することはない。放置することが思いやりとでも考えるのか。

 家庭内で妻が、病院内で看護助手が、明るく自信家でてきぱき動いてくれれば、それ以上何も言うべきではないのかもしれない。男として患者として身にあまる快適さを得られるのかもしれない。相互理解がまったくなくても、美女が天使のように舞い降りてきて世話をしてくれるなら、重い課題さえ消えてしまうものかもしれない。そういう意味でのジェーン・フォンダの起用であればこの映画は成功している。ジェーン・フォンダほどでなくても異性と同じ時間を過ごすことの幸福を私たちは知っている。だがやはり、このテの映画を見るのなら、私たちは人同士の理解のしあいを、あるいはその試みの失敗の光景をこそ見てみたいという欲求を抑えがたい。現実の生活が円滑に運ばれるかどうか、という問題とは切り離して考えたいのだ。

 批判としては、的からややずれている気がしないではない。しかしジェーン・フォンダひとりがこの映画で浮いている印象がぬぐえなくて、それを掘り下げてみた。
    00:05 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

風林火山(1969/日本)

風林火山 風林火山
三船敏郎、中村錦之助 他 (2004/12/23)
東宝ビデオ

この商品の詳細を見る

 一九六〇年代後半ともなると、日本映画の観客動員数はいよいよジリ貧傾向を増してきた。そこで、映画会社の枠を超えての俳優どうしの共演作をつくろうという機運が起こってきた。目先を変えて巻き返しをはかろうとしたのだ。本作もその一本で、ヒットしたらしい。原作は井上靖の同名小説。三船敏郎がのちに武田信玄の軍師となる山本勘助、信玄に中村錦之助、信玄の敵将の娘でのちに信玄との間に勝頼を生むことになるのが佐久間良子、上杉謙信に石原裕次郎、といった布陣。

 三船敏郎の大根役者ぶりが目立つ。戦国の世らしく彼は謀略を何回かつかうのだが、そのわりにはあくどさがまったくない。二枚目然とするばかりだ。三船もこのころは世界的スターと呼ばれていたが、黒澤明のような監督にしごかれないとダメなのかなあ、という気がした。中村錦之助も遠慮があるのか、暴れっぷりが足りない。石原裕次郎にいたっては謙信の役をひきうける必然性がまったくない。彼の影武者が十人ばかりぞろぞろでてくる場面では、なんじゃこりゃ、と苦笑してしまった。騎馬が大量動員されていて、予算をかけた作であることはわかるが。

 佐久間良子という女優が意外にというか、うつくしかった。
    23:42 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

天然コケッコー

 山間の僻地の町が舞台。小中学生あわせて六人しかいない学校に男子中学生が転向してくる。映画はこの男の子と主人公の女生徒との初恋を軸に、子供同士の仲のよさも描き出す。

 私から見れば嘘っぽい世界だ。だからといってないがしろにしてはいけない。どっしりとした理念が根底にあるからこそ、私個人にとって、とくに私の少年時代に照らし合わせてみての嘘っぽさである。つまり私は、ここに登場する子供にはとおく及ばない凡庸な子供であったということだ。

 女生徒の夏帆は最上級生で、教室でおしっこをしてしまった小学生のパンツをあらってやる。最初のほうにでてくる場面だが、これは立派ではあるが、生徒数が極端にすくないと、そういう互助のはたらきも生まれやすいものかなあ、と思ってしまった。だが脱帽した場面がいくつかあった。

 その近辺の公立高校では男子は丸刈りにしなければならない。規則でそうなっている。上級生の進学時のその様子を思い浮かべながら、黒板に似顔絵を書く下級生たち。長髪の男の子が丸坊主になってしまう様子はたしかにおかしい。笑っても仕方ない。だが子供たちは、それでは可哀想と思ってか、帽子を書き加えて坊主頭を隠してやるのだ。こんな思いやりは、私の少年時にはなかった。坊主頭を見て笑うことは確かだろう。そのあとは似顔絵の当人に見られることを心配して、消してしまうのかもしれないが、それ以上のことはできなかっただろう。

 夏帆はさらに並みの女子中学生とはとても思われないような思いやりと機転を見せてくれる。バレンタイン・チョコを男子中学生に渡そうとする場面だ。ほかの女子二人もチョコを渡したいと夏帆に申し出て、夏帆もこころよく承諾する。男の子は夏帆のおさない弟と一緒に町の食堂にいる。弟が居ることを夏帆は知らなかった。弟にもチョコを渡さないと泣いてしまうことを心配し、食堂に入ることをためらう。しばし三人で相談したのち、三人は食堂へ入る。弟にも三人でチョコを渡すことにしたのだ。ここも、おそれいったと言うしかない。中学生時の私なら、どうだろうか。そういう機転を働かせることができただろうか。できたのかもしれないが、百パーセントできたという自信はない。

 こういう生徒同士なら、いじめなど起きようはずもない。ユートピア的人間関係と呼ぶべきだろうか。ほかにも魅力ある場面がある。

 ラストはファースト・キス。性の目覚めを自己肯定しつつも、たいへん遠慮深く、清楚で、しっかりしている。たじろがない。書いてきたような確固とした土台があるからこそ、それも納得できる。
    00:54 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ユベール・マンガレリ『おわりの雪』(2)

 念願かなって青年はトビを買い、鳥かごごと家に持ち帰る。父の傍にそれをおいてやり、威勢よく肉を食うさまや仕草、かすかな羽音を聴いてともによろこぶ。だが、せっかく買ったトビだったが、青年はどうもすっきりしない。大きな問題としてあるのは無論犬を捨てたことだ。そのうしろめたい思いがなかなかはなれないのだ。

 父も思いのほか、トビを自宅に置いたことをそれほどよろこばないのかもしれない。義理として息子の買い物につきあうのかも知れない。それに犬捨てをさすがに父は知らないが、息子の異変に敏感に気づくのかもしれない。これらは読者としての私の推測である。青年が息子として、それらを果たして察知するのだろうか。少なくとも何事もなかったように、みずからにも家族にもお芝居をしている時間のなかではわからないだろう。

ふりかえれば青年は夢見がちな性質で、父はそれを知っていたし、そういう息子が好きだったのだ。自分に似たところがあるとかねがね思ったであろう。トビを買う以前は、青年は、狩人がトビを懸命の働きで捕獲する話を作って、父に毎晩のように聞かせた。空想をいきいきと語る息子が父は好きで、子守唄のようにそれを聞いて眠った。親子がさかさまになった子守唄である。それが今度はトビを実際にえたことによって、トビが媒介となる父子の関係へと変化したのではないか。息子はそういうことへの父の不満があるとしても、気づかないだろう。また父の病状が悪化していく。父子がともに、トビが威勢よく肉を食うのを見る何回目かの場面。

 

みじかい沈黙があった。父さんが、おだやかな声でいった。
 「どういうふうにかわからんが、父さんはこれからもずっと。おまえといっしょにいるからな」
 それは、ぼくの首をうしろからつき刺した。そして背すじをつたって下へ落ちた。ぼくはぱくぱくと口で息をした。それがさらに下へ下へと落ちてゆき、ついにひざまで達したのを感じたとき、ぼくのなかはすっかりからっぽにおなった。声がでない。父さんがぼくの様子に気づいて、口ごもるようにいった。
 「ああ、わるかった。ゆるしてくれ」(p140)



 このとき青年には父のすべてが一挙に押し寄せてくる。父がさびしいこと、衰弱して死期が近いかもしれないこと、トビを買ったことによって父の相手をすることに手を抜いたこと、自分のやったことに煩悶するあまり、それにかかりっきりになってしまった自分のこと、などだ。難問は後方からも前方からも押し寄せてくるものだ。「わるかった」のは自分のほうだ、と青年は思い、後悔するのだろう。痛い思いが共感できる。

空想癖が強いとはどういうことだろうか。この小説の主人公の場合は、きびしい現実を直視することを無意識のうちに避けるためにはたらくようだ。トビを買いたいと思ったのも、トビと狩人の話をつくったのも、貧しい家庭環境やフリーターとしての自分の気ままさからいっとき逃避するためだった。マイナス的価値ばかりではなく、それが生活に「豊かさ」をもたらす面も否定はできないが。空想癖とはまた、この青年の場合、感受性の豊かさもさす。犬捨てから帰宅してしめったズボンを脱いで椅子にかけた。するとズボンから、しぼりきれなかった水がぽたぽた床に落ちる。その音になぜか心地よさを感じて彼は眠りにつくことができた。するとそれを水道の蛇口をゆるめることによって青年は繰り返す。するとリズムが生まれてきて、あの苦しかった犬捨ての雪原でのながい歩行をも楽に記憶のなかで再現できるようになる。ベッドに横たわってさまざまな光景をよみがえらせては安心をえて、眠りにつく。しかしだ。

 

そうしてやっと、ぼくは眠りにつく。
 ほんとうのことをいえば、ぼくはなぜ自分がそんなことをするのか、はっきりとはわかっていなかった。ただ、これだけはいえる。頭のなかで、あの記憶がありありとよみがえってくるのをじゃまするためだ。国道の上でいつまでもくるくるほどけている綱と、雪の上に犬が残していったカーブの記憶。(p137)



 この部分だけ、唐突に未来から現在をふりかえっているような記述になる。さらに大人になった青年がみずからの過去をふりかえるようである。これは「現在」では意識されない「にせの記憶」だ。私たちは記憶のなかでのもっともうしろめたいこと、痛々しいことをベールにかけたうえでしかふりかえることができない時期があるのだ。このときの青年も犬に直結する事象を無意識のうちに避けている。こういうことは大事であると思うし、作者がどうしても書きたかったことのひとつであろう。私はもぎとるように引用しているが、無論小説という流れのなかで無理なくさりげなく書かれている。よけいな部分をそぎとって、青年らしい感性と傷を定着させたいい小説だ。
                         (了)
    01:16 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ユベール・マンガレリ『おわりの雪』(1)

おわりの雪おわりの雪
(2004/12/10)
ユベール・マンガレリ

商品詳細を見る

 青年が報酬を受け取って、飼い主が居なくなった犬を捨てに行くという話しが中心になっている。彼は骨董屋で見たトビ(鳶)が欲しくて欲しくてたまらない。だがそれを買うには彼の手持ちの金ではとどかない。小遣いをこつこつ貯めることを当初は考えて実行したが、いつトビの買い手が出現して引きさらっていくかもしれず、気が気でない。そんな彼にとって犬の「処分」の話は、渡りに船かとも思えた。報酬はトビの購入にとって十分な額だった。だが一つの生命を得るために別の一つの生命を捨てることは、さすがに青年にとってはうしろめたい。しかも犬の飼い主であった老婦とは生前親しかった。養老院でのアルバイトで、散歩の手伝いをしてやり、話し合った仲だ。老婦が犬を可愛がっていた光景も目の当たりにしている。

 季節は冬。青年は小さな町の駅から、除雪されていない線路に沿って犬を連れて歩いていく。とおくに見えた丘を越え、鉄橋を越え、平原に出る。その間青年は犬の首に結わえてあった綱をほどきポケットに入れる。だが犬は当然彼を覚えていて、見えなくなったと思ったらまたもどってくる。その繰りかえしだ。トビのことを思い浮かべて心を軽くしようとするが長続きしない。だが青年は歩く。犬を捨てるためか、報酬をうるためか、(前もって全額を渡されているのだが)理由の明確さがしだいにあいまいになっていくまま歩いていく。「処分」をやめることはついに決断できないまま、厳寒と疲労にさいなまれながらも、みずからに鞭打つようにどんどん歩いていくのだ。読者の私には「悲しみ」という言葉が台頭してくる。だが主人公の青年は、なにかしらその言葉を認めたがらないようだ。その感情から、また犬から逃げるようにただひたすら歩く。だが私には悲しみが彼の外側から、彼に締め付けるように近づいていく気配を感ぜざるをえなかった。悲しみとは元来そういうものかもしれない。自分のなかに悲しみがあるかないか、そう問われたならば、ないと答えるしかない。だが自分の近くの外側にはあるのではないか、私はそんな風に思ったことがある。凍った沼をわたったところで濃霧に見舞われるときの描写。

 霧がでてきたのはそのときだ。きゅうに夜になったみたいに、みるみる暗くなった。遠くで地平線がぼんやりとかすみ、いまにも消えてしまいそうだ。あたりは灰色と乳白色だけの世界。十メートル先はもう見えない。また急ぎ足になった。雪の音が足もとでさくさくとひびいた。ぼくはなんにも考えないようにして、ただ小刻みに足をうごかした。まるで夢のなかを歩いているようだった。たしかに前へすすんでいると教えてくれるものが、まわりになにもなかったから。
 なにかにつまずいて、ころびそうになった。そしてその瞬間、気づいた。ぼくは犬を引きはなそうとしているのではなく、犬から逃げているのだということに。それはもう、どうしようもなくおそろしいなにかだった。ぼくは歩きながらおしっこをもらした。おしっこのために立ちどまりたくなかったのだ。ももからひざまでが、しっかりとなまあたたくなり、たちまち冷たくなった。なにかが耳元でぶんぶんうなった。遠くを走っている汽車みたいな音。でも、すぐにそれは空想のなかの音だとわかった。ぼくよりも、ぼくの想像力のほうが、このしずけさをこわがっている。(p91)



「おそろしいなにか」とはなんだろう。犬や犬をふくめた全体のおそろしさだろう。人生の根本理念をおぼろげに指ししめすもの、罰を用意して監視するもの、「神」という言葉をつかうならばそういうものにあたるのだろう。さて、とうとう犬はこの濃霧のために青年のまえから姿を消す。彼はそれでも歩きとおすのは、犬から、あるいはほかのなにかからもっと遠ざかりたいがためだろうし、まとまった考えもなしに単に「歩くリズム」を手放すことをもおそれるからかもしれない。惰性かもしれない。国道にまで達するとすでに夜で、車がライトをつけて走行している。乗せてもらって帰りたいが、明確に合図を送るでもなく見送ってしまう。この場面も哀切感が漂う。やがて主人公は雪明りをたよりに元来た道を引き返すのだが、犬の足跡を発見する。無残だ。途中で切れて行く先はわからなくなっているのだが。

 主人公はフリーターだろう。年齢は不明だが学校へは通っていない。父母との三人暮らしだが、父は病によって寝たきりなので、定職について少しでも多く金を家に入れたほうがよさそうなものだが、やろうともしない。そして父もそういう息子を擁護し同調する気配がある。夢見がちな人同士のもたれあいのようなものを受け取れる。母はどうだろうか。そんな父子をあたたかい視線で包むようにも、諦めているようにも両方とも受け取れる。母は夕方以降働きに出ている。そうせざるをえないのだろう。

青年のアルバイト先は養老院で、中庭にでてきた老人の散歩の手伝いをすることだ。それによって老人たちからチップをもらうのだが、チップは無論一定ではなく、冬の季節ともなると一人も出てこないことも多く、収入は不定だ。そんな彼が骨董屋でトビを見つけ夢中になってしまう。彼はまた中庭をよく見とおせる部屋の管理人ボルグマンとも仲がよく、しばしば話をして帰っていくのだが、そこで管理人が、金になる仕事として犬の「処理」をもちかけたのだ。直接の依頼は勿論ボルグマンが受けたのだが、手を汚したくなかったのだろう、彼にその仕事をまわしたのだ。青年は彼に遠慮があったのか、金への誘惑にうち勝ちがたかったのか引き受けてしまう。その少し前にも、管理人は青年に子猫殺しを依頼している。青年は心中穏やかではなかったが、すぐさま管理人の前でそれを実行してしまった。袋に入れて桶の湯の中に押しこんで窒息させてしまったのだ。こあたりが、はじまりから前段までの仕組みだ。小説としては、犬をつれて鉄道線路に沿ってながながと歩行する場面が一番白熱する。だが後段においても、読者の目をきびしく覚まさせるような場面にであう。
    23:22 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

長江哀歌

 中年の男(ハン・サンミン)が十六年前に離婚した妻子をたずねて、三峡ダム付近にやってくる。ダムは工事中。その影響で、住所の一帯はすでに水没していた。男は人から人へたずねまわり、ようやく妻の兄に会うことができる。出稼ぎ中らしい元妻を待って、男は解体業の職を得てその地にとどまる。一方、女(チャオ・タオ)は二年前に音信を断った夫をたずねて同地にやってくる。

 ちょうど酷暑の季節で、男たちはシャツ一枚か上半身裸の姿だ。労働もきびしそうで、食事もゆっくり味わうというよりも、義務のように無表情に口に入れる様子だ。主人公を警戒する様子もうかがえて何だかとげとげしい。すさんでいる部分もあるのかもしれない。だが同時にジャ・ジャンクー監督の映画作法をはやくも意識させられる。台詞がゆっくりめだ。早口かどうかということではなく、沈黙もしくは間が大事にされている。考えながら言う、相手に言われたことを考える、言ったことの反応を相手から読みとろうとする、単に考える、あるいはぼんやりする。そうした際の少しの沈黙もしくは間である。場面転換の際の間も十分にとられる。例外もある。閉鎖された工場の上司にあたる人と、そこの元労働者たちとの言い争い、なかに労働災害を負った人がいて一歩も引かない。上司は権限の限界を理由に反駁する。互いに熱くなる。これは中国映画によく登場する、いかにも中国人気質といった感じをいだかせる場面だ。だが、そういう場面をも包摂するように、沈黙と間が全体をながれている。

 そして視聴者はいつのまにか長江のたたずまいを意識させられるのだ。沈黙と間はすっと持続するが、とってかわられる。主人公は客船で三峡ダムまではるばるやってきたので、その際の長江は外すことのできない背景だが、そのときには長江をとくに意識させられることはない。だが中盤あたりから執拗に長江が食い込んでくる。とくにうつくしいショットが選ばれるのではない。停泊しているようにゆっくりとすすむ客船を浮かべた長江、青く煙る対岸とその上方の雲を見せる長江、解体現場の向こうにたたずむ長江、つまり主人公の男女や町の住民が、ちょっと目を転じれば視界にとびこんでくる日常の風景としての姿だ。

 大規模なダム工事であっても長江は悠久不変ではないか。そんな崇敬の念さえ視聴者にいだかせる感じがしてならない。人間関係は思うようにいかない。元伴侶や連絡が途絶えた伴侶をたずねてはるばるとやってきたのに、その甲斐がない。否応無しに視聴者は主人公の男女への同情に引き込まれるが、彼らの相手もまた申し訳なさそうでありながら、単に逃げるのではなく、正直に苦さを顔に浮かべるのだ。ここでもまた相手の人たちへの同情に誘われる。そしてだ、まったく同時に、視聴者は長江への崇敬の念をもいだくのだ。長江、というよりも、それによって象徴される雄大さというものだ。主人公の男女に自信喪失や諦めの感情が流れると同時に、長江という「生命力」が包摂してきて、さらなる奈落をせきとめる作用をするように思える。

 もういちど見たら、登場人物の前半から後半にかけての感情の移り変わり、また物語のこまごました部分がより明瞭になって、美質を発見することもできるだろう。いい映画だと思うが、苦言を呈するならば、一、二SFっぽい映像が出現するが、これはまったく不必要だ。
    01:25 | Trackback : 1 | Comment : 1 | Top

カラス

 今日は、映画に行った。「テアトル梅田」というところだが、梅田といっても大阪駅からは北東部にずいぶん離れたところにある。ロフトという大きな雑貨店のあるビルの地階である。午前の部に二十分ほど前に駆けつけたが、祝日ということもあってか、ほぼ満席状態。仕方なく二時間以上あとの次の回の切符を買って、周辺をぶらぶらして時間を消費することにした。あいにくの小雨模様で、傘を持参しなかったことを少し悔やんだが。

 隣接する毎日放送のエントランスで、小雨をしのぐためにただぼんやりとつっ立っていた。さあ、これから何をしようかと、ゆっくりと考えていたところ、視界に異変が起こった。車道と歩道をわけるための低い鉄柵のところである。鉄柵も黒く塗られているのでまぎらわしかったが、烏がそんな低いところにとまっているではないか。ちょっと無気味だった。だが、さらにもう一回、私の視界に異変が起こった。色鮮やかなアオムシを口にくわえているのだ。蝶かほかの昆虫の幼虫だ。やがて烏は歩道に降りたつ。烏はアオムシのはしっこをくわえたまま、それを呑み込む気配はない。その間、アオムシは体をぴくぴく動かす。驚きだ。生き物というのはしぶとい、最後の最後まで抵抗をやめない。動きによって、烏のくちばしから体をもぎはなそうとするのだろう。規則性をもっての上下というのか、左右というのか、コマ送りを見るような動きだった。そしてその鮮やか黄緑色。私はうっとりと見入ったのだったが、やがて烏は獲物をくわえたまま、急ぐように遠方へ飛んでいった。

 鉄柵に並行してケヤキ並木が植えられているが、たぶんその一本を探索しての収穫だったのだろう。私にとっても、肉眼にあたえられたちょっとした収穫だった。

 そのあとは、体力を消耗させないためにできるだけゆっくり歩いて、古本屋めぐりなどをした。欲しいものがいくつかあったが、「つんどく」状態のものがあるので、それを片付けてからと、自分に言い聞かせ、買わなかった。
Genre : 日記 日記
    23:33 | Trackback : 1 | Comment : 0 | Top

雲南の少女 ルオマの初恋

  ルオマ(リー・ミン)は雲南省の農村の娘。町の路上で焼きトウモロコシを売る日々。民族衣装に身を包んだ彼女は可憐だ。そんな彼女に目をつけた観光客が、記念写真をせがんでは撮影し、去っていく。それを見ていたのが、町で写真館を経営する青年。ルオマに、観光客相手に記念写真の代金をとる商売をしないかと提案する。彼女もその話に乗り、展望台に待機してその商売をはじめるが、これが思いのほか、うまくいく。ルオマと客を並ばせて、青年が撮影するのだ。写真館がはやらない青年にとっても一時しのぎの稼ぎになる。

  初恋ものだが、話としてはありふれている。しかし、なんといってもリー・ミンという主役の少女が素晴らしい。映画初出演だというが、それだけに初々しさがある。幼さのなかに土の香りがある。映画はやっぱり人(俳優)だなあ、という感を抱かされる。映画が伝えたいこと、空気として定着させたいことを人が代表して実現するのだ。うまい下手という以前に、その人のもっている容貌と雰囲気がそれをさせる。

  ルオマは農村の生活に不満が格別にあるのではないが、やはり都会へのあこがれは持っている。青年からプレゼントされた携帯用音楽プレイヤーを片ときもはなさない彼女。青年が運転するオートバイの後部座席に笑顔で乗る彼女。さらに巧みな進行だが、都会から村へ帰ってきた少女からエレベーターのことを聞かされる。その少女が村の少女全員とともに石材運びをするとき、やはり人一倍疲れた様子で、愚痴りながら、またエレベーターのことを口にし、ルオマに聞かせる。このとき、見たこともないエレベーターが、ルオマのなかで音楽プレイヤーやオートバイやらよりもっともっと、あこがれを抱かせる対象になるのだ。そしてルオマの一貫した素朴で控えめな笑顔。

  家賃を払えなくなった青年は、写真館をたたまざるをえない。都会へ帰ることになるが、ルオマを誘う。はげしく心揺さぶられるルオマだが……。歌にたとえれば森高千里の「渡良瀬川」のせつなさだろうか。

  忘れてはならないのが、雲南省の棚田、そしてリー・ミンが着る少数民族ハニ族の衣装のうつくしさだ。オーソドックスな演出だけに、リー・ミンとともにそれらが目に冴える。
    01:07 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

デス・プルーフinグラインドハウス

 クエンティン・タランティーノ監督が、六十,七十年代のB級映画への共感をこめて作ったという。私は、映画の中心部分よりも装飾的部分がおもしろかった。古い映画に見せかけるため、故意に画面に「雨」を降らしたり、またフィルムを飛ばしたりする。そのため次の場面は何だか途中から始まる印象がある。フィルムが飛ぶ際の「ポッ」という不快な音も故意ゆえに強調されておおきく響く。うん、うん。こういう作り方もあるんだなあ。古着やジーパンに穴をあけたものがファッションとして立派に通用する世の中だ。そういう傾向を映画にもちこんで悪いはずがない。いい着眼点だ。ブルース・ウィルス出演の架空の映画の予告編をわざわざこしらえたのも、やってくれますなあ。

 この前半の時間にしてわずかな部分が、私に好印象をあたえてくれた。あとは肩をほぐして、殺人鬼と二組の女性四人組とのカーアクションの対決を楽しめばいい。けっこう残酷な映像もあるが「これは映画ですよ」とわざわざ断ってくれているのだから、素直に楽しめばいい。私はにんまりできた。殺人鬼の車が「耐死仕様」なんて、真面目な顔で自慢したり。そのくせこの男、追い詰められると、意外なくらいに弱い。
    23:15 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

フォークナー『八月の光』(8)

体はこれまでになく元気であり、食欲はすさまじく、体重は以前のいちばん肥っていたときより三十ポンドも増していた。彼女を眠らせずにいたのはそんなことのせいではなかった。それは闇の中から出てくる何か、大地の、夏そのものの中から出てくる何かだった。それが恐ろしくて惨めだというのも、実は直観的に、それが何も自分に害毒を与えないものだと知っていたからだ。それは彼女を占領し完全に出し抜きはするがけっして害を与えず、それどころか彼女を救って生活から恐怖を消し、平凡に、いや前よりも良い暮しをさせる何かなのだ。ただ恐ろしいことに彼女は救われるのを欲していなかったのだ。(343p)



性の快感を記憶にとどめることは難しいのかもしれない。また性行為をすませたあとには、たちまち性以外の日常がもどってくる。だから性について知ろうとするならば、考えるよりもやってしまうのだ。考えるという以前に性の世界に魅せられたならば、なおのことそうだ。欲望は貪婪で私たちをとまどわせるが、私たちはそれを呑みこみ異様になる。居直ってしまう。人間は半分以上は動物生だ。だが性の中心には何があるのか。死が遠望できるのだとしてその手前には快感以外に何があるのか。過剰でないならば否定的要素はない。食欲と同じく、それを満たすことは私たちに達成感をもたらし、ゆったりとさせる。性の快感は、そのままそっくりとは記憶にとどめおけないにしても、その名残もまた私たちをくつろがせる。また、性によって好ましい異性と結びつくことができたなら、さらにその関係を持続させられたならば、このうえない幸せだろう。当たり前であるが。ジョアナ・バーデンもジョー・クリスマスとの関係を通じてそのことを知った。身をもって知った。だが彼女にとっては、それらのことが大いに不満だったのである。

ジョアナは性の中心にもしかしたら倫理が発見できるかも、と思ったのではないか。つまりは性を知ると同時に、自己を罰してももらいたかったのだ。だが当然、そういう事態は訪れなかった。あとは彼女の選択の問題であるが、結局は彼女は性そのものを肯定的にとらえることができなかった。それが淫行だと決め付けるキリスト教的教義をこわすことができなかった。フォークナーはここでもキリスト教信仰による人間の歪みを刻みこんでいるのだろう。かくしてジョアナはジョーに、改悛や祈りを勧めたり、妊娠したと嘘を言ったり、果ては結婚して一緒に黒人援助の運動をやって行こうと懇願する。だがジョーはまったく耳を貸さず、罵倒してジョアナを殴り倒す。「あたしたち二人とも死んだほうがいいらしいわ」(361p)ジョアナは血を出しながらこう切り返すが、これは本気の言葉だ。そうして、最初に書いたような悲惨な結末を迎えることになる。

ジョーはジョアナの行動に参加することは拒んだが、一緒に居つづけることには前向きだった。やくざっぽい口ぶりで「早く出ていったほうがいいぜ」と第三段階でのジョアナの思いつめを危惧したが、やはり情はあった。彼女の傍にいることを運命として受け入れようとしていた。私はそう読んだ。拳銃を隠し持ったジョアナを最後まで信じようとはしなかったのではないか。

フォークナーは一九三〇年代のアメリカ南部の黒人差別問題をふくめた信教による問題をえぐりだした。ジョー・クリスマスはそういう社会が生み出した鬼っ子である。彼は周囲の迫害と暴力にめげず、欲望と情愛をつらぬこうとした。信教をきらったものの、また暴力好きな悪党でありながら、たいへんまっとうな人物として描かれている。「神」という言葉を使うならば、好きな人と一緒にいたいと願って具体的に行動すること、その人を守ろうとすること、それらは私たちが「神」に一歩近づくことではないだろうか。その素朴さを「既製の神」が、あるいは「既製の神」に篭絡された人々が信念に基づいて妨害する。そういう社会の構造をフォークナーは衝いた。

この長編小説、これからも私を追いかけてきそうな気配がある。だらだら書いていてもいけないので、この辺で終わります。
(了)
    01:53 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
09 ≪│2007/10│≫ 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク