大洋ボート

フォークナー『八月の光』(7)

ジョアナに憎しみを植えつけるはずだった二度目の暴行は、ジョーの意にまったく反して、ジョアナに、彼に対する異常なまでの親近感をかえって植えつけてしまった。それほど確信のないやくざなものだったのかもしれないが、ある目的を持って人にくわえる暴力的行為が、その人に意想外の結果をもたらすという点では、かって養父マッケカンがジョーにくわえた鞭によるせっかんがまったく教育的効果をもたらさなかったことと、たいへん似た事態といえる。かくしてジョーの性的暴力は、ジョアナに性の魅力を教えることになった。ともかくも、「冷戦の期間」をしばらく置いた後、ジョアナはジョーのすむ離れへはじめてやって積極的に話し込む。自己紹介という範囲をはるかに超えた、父方の祖父から自身までにいたる家族の歴史が語られる。それだけジョーという特別な存在になってしまった人に、自分を知ってもらいたいという欲望がはたらくのだが、ジョーはどんな女でもそういうものだ、「『ごたくをならべやがるんだ』」と納得し、また辟易となる。だがジョアナとのセックスはそれどころか、もっと彼を狼狽させる。 

その期間(これを新婚期とはとても呼べないだろう)クリスマスは彼女が恋に落ちた女のあらゆる相を通ってゆくのを見まもったのだ。すぐに彼女は彼にショックを与えたばかりではなく、仰天させ、戸惑わせた。だしぬけに彼を嫉妬めいた狂恋の中に巻きこんだ。彼女はそんな経験を持ちうるはずがなかったし、そんな騒ぎをする理由もなければ、そんな立役者もいなかったのであり、それを彼女自身心得ていることを彼も知っていた。いわば彼女は演技をする目的ですっかりお膳立てをしたのだった。にもかかわらず彼女は実に激しく、いかにも確かな信じこんだ態度でやったので、最初の時には彼は、女が何か思い違いしているのだと考え、三度目のときには女を気違いだと思った。(337p)



その「気違い」の具体例としては、ジョーのささいな嘘に対してひどく泣いたり、かくれんぼのようなことをして室内や庭の藪影に裸体で隠れていてジョーの前にいきなりあらわれたり、わざと破れた服を着て体を煽情的にくねらしたり、「黒人! 黒人! 黒人!(ニグロ)」と彼の嫌がる侮蔑語をわざと用いたり、等々である。

これらは、じゃれあうというものではない。対話でも無論なく、ジョアナは性の歓喜に突きあげられて有頂天になっているのだ。自制を放棄し、放棄することからくる痛快さを全身で味わっているのだ。ひけらかしているのだ。また逆に、ジョーが今にもいなくなりはしないかという寂しさ。そこからの妄想をも呼び込んで物語を作ってしまう世界。自分ひとりの世界、だがジョーという特定の相手にしか見せない自分の性の世界だ。また、それまでの性とは無縁な自身の無味乾燥の人生に対する内的な復讐でもあるのだろう。それら一切合切をつめこんだ有頂天だ。性が遅く訪れたからか過剰にみえるが、第三者的立場でよく読んでみると、それほど異常だとも思えない。フォークナーはジョアナに陰影を付けすぎるのかもしれないが、彼女にいちばん近いジョーの視線を基本においてその狼狽と憂鬱を大事にするから、こういう書き方になってしまうのだろう。

 

六カ月すると彼女は完全に堕落した。彼がそう仕向けたとは言いきれなかった。彼自身の生き方は、たしかに女たちとは無軌道に交わったとはいえ、健康で平凡な悪党がそうであるようにありきたりのものであった。堕落は、彼女にばかりか彼にもなおのこと不可解な源から生れてきた。事実、それは根拠のない漠とした堕落ともいえて、彼女はそれをもって彼を堕落させはじめたのだ。彼は恐れはじめた。彼にはそれがなんであるかはっきり言えなかった。しかし次第に自分自身を遠くのほうから眺めるようになり、それは底のない沼の中にはまりこんだ人間に似ていた。彼はまだそれを明確には考えていなかった。ただ自分の目に映りはじめたのは寂しい、荒れた、涼しい道路だった。そうだとも、涼しい旅の道路なんだ。彼は考える、時には声を出して独り言を言う、「出てったほうがいいぜ。ここから出たほうがいいぜ」(339p)



ジョーはそれほどジョアナを好きではない。当初は、性を通じてもその感情が変わるはずもないと、彼は思っただろう。それでもジョアナにせがまれ、欲情が生起してくると行為を繰りかえしてしまう。これはジョアナが先に自制を放棄したからで、体を一つにしてしまった以上、その自制の放棄がジョーにも伝染するからだ。煽られておのずから妥協してしまうのだ。性が過剰になると、甘さが失われて単に性の費消におちいる。生命の浪費でさえある。自分にとってもっと優先すべき欲望があるのかもしれないが、ふりかえる暇もなく、目の前にぶらさがった欲情に負けてしまう。これをつづけていくと、本来的な生のありようからどんどんとおざかる感覚に本能的にとらえられるのではないか。こういう事態を作者は「堕落」と呼ぶのだ。「涼しい道路」とは、健全さからとおざかった果てにひとりでに見えてくる死の世界なのだろう。実際的な死を遠望しながらの、健全さからとおざかるという意味での「死」だ。そしてジョーは、そういう世界にもいつしか魅せられて引きこまれているのだ。またその瞬間からジョーのジョアナに対する感情もひっくりかえる。「地上」のジョアナではなくて、「堕落」した性のみちづれとしてのジョアナに突然のようにひかれることになる。性のなかのジョアナはいとしい。

ジョアナのほうは、彼の体の下であえぎ、歓喜に征服されるがままの時間だろう。ジョーは、ほんとうはジョアナの世界に入っていけないのかもしれないが、体をひとつにすることで、ジョアナの世界を持続させる役を担う。そのため彼は旺盛で、自己を叱咤しつづける。ジョアナがどこへ行こうとしているのか、ジョーにはわからない。だがジョアナについていくことで答えは出るのだろう。性以外の何物もない性。死がほの見えてくる性。終わらない性。当面はそうであっても。

その間に関係は進み、毎夜の有無をいわせぬ圧倒的な痴情は彼をますます深みへ引き込んでいった。たぶん彼は自分が逃れえないのを悟ったのかもしれぬ。とにかく、彼は、とどまって見まもりつづけた。二匹の動物が一つの肉体になってもがくのを――落ちていく月の下の黒い水面で月光に光る二つの生物が相手を沈め溺らせて苦しめあうのを、見まもった。いかに自分を失ったとはいえ、どこか確固不動のものを残していたのがあの第一段階の落ち着いた、冷たい、満足した姿であった。それから次の第二の姿、それは確固たるものを激烈に否定して自身の黒い淵に肉体の純潔を溺らせようとする姿だ。時おりこの二つの姿は黒い水面へ出た、二人の姉妹のようにしっかりと手をつないで出てきて、黒い水は流れ落ちた。すると元の世界がまたどっと戻ってきた。部屋、壁、この四十年のあいだ夏の窓辺でいつも鳴きつづけてきた虫どもの平和な多彩な声。(339p)



 「第二段階」をしめくくるカ所である。ジョーの立場から眺められたたいへん幻想的な記述になっている。はるかな旅をして地上に舞いもどってきたかのような体験として、ジョーのなかにはっきりと刻み込まれる。こういう際の同伴者がかけがえのない存在になってしまう、心身の自然の流れとしてそうなってしまうだろうことは明らかだ。「堕落」としてとおざけたい気持ちは、まったく湧いてこない。それどころか私は、たまらなく羨ましい。

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フォークナー『八月の光』(6)

  男性の性とは繰り返すことではないか。また単純でもある。露骨に言えばペニスの抽送運動がもっぱらで、それ以外にたいしたことがあるのでもない。だがそれは身体運動の面でとらえた場合で、精神面では、相手の女性がどういう反応をし姿態を見せるかに注目する。こまかい動きまでも瞼に焼きついてくる。それによって性的快感を維持する。女性が歓べば、その姿を見て男性も歓ぶ。だが男性が同じことをしても、女性がことさら歓ばない場合が、無反応な場合がある。人がちがえば同じ女性でもそれはありうるし、ひとりの女性のなかでも、性行為のなかでいつも同じ反応を示すともかぎらない。これは男性の側がすぐにどうこうできるものではないだろう。男性にとっては謎で、女性の意思と身体にゆだねる以外にはない。女性自身にもコントロールが十分にできないものかもしれない。また女性の性にはたいへん奥深いものがあるらしい。男性に比べると、その意識を失うまでの快感は比較にならないほどかもしれず、それがひいては人生観までも変えてしまう結果をもたらすこともある。ジョアナ・バーデンは一時的にそういう事態に陥った。

  ジョアナは四一歳まで処女であり、三二,三歳のジョー・クリスマスの乱暴によってそれを破られた。以降ジョアナは二年間彼と関係をもち、やがて性の深淵に落ちることになるが、最初からそうだったのではない。作者はジョアナにおける性の変遷を三段階に分けている。第一段階は、ジョアナはまるでジョーとのあいだに関係などなかったかのごとくふるまう。ジョーに対する態度は何も変わらない。話し合うことは関係ができた以前とまったく同じく少ない。彼女の二階の書斎に呼んで話し合うことはなく、家の敷地内で短く立ち話をする程度。つまり、ジョーに馴染もうとはしない。作者によれば、彼女には固い防護意識が完成されて備わっている。

   彼女の祖父と父は黒人援助の運動を政府から要請された身分で、ジョアナもそれを引き継いでいるようだ。また詳しくはふれられていないが、黒人問題に絡んで祖父と異母兄は何者かに射殺されたという歴史がある。ジョアナが生まれる前のことだ。(フォークナーの別の小説に経緯が書かれているらしい)そういう運動者にとってのみならず、黒人とは白人全般にとって「重い影」のような存在で、彼女自身もそれを自覚している。黒人は「神によって呪われた存在」で、それを差別する者も援助する者も、白人にとってはいずれも「重い影」として身に纏わされることになる。「固い防護意識」とは、ながく黒人援助の運動にたずさわってきた彼女の歴史が、彼女に身につけさせたものだろう。生半可な覚悟ではつづけられない、それ以上のものを彼女は日々みずからに形成してきた。だからちょっとのことではそれは揺れないということだろう。流れ者にセックスを強要されたくらいでは。ジョアナのプライドでもある。

この第一段階で他に指摘したいことがあるとすれば、彼女は性について自問自答していると私は見る。それもあくまで「性」そのものについてであって、ジョーという個人に思いをめぐらすのではない。彼はその段階では唾棄すべき存在でしかない。性に対して好奇心をにわかに抱きはじめたのだ。だがまったくの束の間の体験でしかないため答えを出せない。重要なことなのかどうかはわからない。そしてそういう自身の心の働きを隠す。自分自身に対して隠すのだ。たしかにジョアナのそれまでの人生には性がなかった。これからもそれはなくてもかまわない。父から受け継いだ黒人援助の運動こそが自分に課せられた義務である。そんな風に切って捨てるのだろうか。また享楽のための性がキリスト教的倫理に反することも、彼女は重々知っている……。また防護意識の表れとして、ジョーの目からも心の動きを隠すのだ。

他方、ジョーにとってはジョアナは、家出以来流れ者となって何人もの女と関係してきた彼のような男にとっては、初めてのタイプだっただろう。最初に関係を持った娼婦ボビー以来、何も書かれてはいないが、彼は女性に対してはたぶん、性急なセックスと暴力をもちいて征服してきたのだ。そしてそれによって崩れるようにねんごろになって、しなだれかかってくる、ジョーにとってはほとんどすべての女性がそうだっただろう。だがジョアナはそうではないのだ。性的関係をつくってもねんごろになれないどころか、固い壁がある。色恋のおもしろさはまるでなく、ジョーは憎しみさえ抱く。だが、ふりかえってただしておくべきだが、ジョーは通常の人からみてやはり悪党である。独身女性の家におしかけて居座り、食事の世話になり性的関係までつくるという彼の行動は弁護の余地はない。ジョー自身はそんなことにうしろめたさを持つ男ではなく、作者フォークナーもあまりに彼に添い過ぎるので、読者はついそういうことを忘れてジョーに肩入れしてしまうが……。二回目に関係を持つ際の彼の心理描写。夜、ジョアナの部屋を急襲する。

しかし女は逃げなかった。ランプが消えたときにいた場所に、闇の中にそのままの姿勢で立っていた。そう気がつくと彼は女の服を引きはぎはじめた。その間も緊張した冷たい低い声で女に言いつづけて、「おまえに見せてやる! この牝犬に見せてやるぞ!」女は何の抵抗もしなかった。いやほとんど彼の手助けをしているようで、どうしても脱げないときには手足の位置をかすかに動かしたりもした。だが彼の両手の下で、その肉体は硬直のはじまる前の女の死体を思わせるものだった。しかし彼は思いとどまらなかった、彼の両手は激しく性急に動いたが、それはただ強い怒りからだけだったのだ。『とにかく俺はとうとうこの女から女を引っぱりだしたんだ」と彼は思った、『さあこの女は俺を憎むぞ。俺はこの女に憎しみだけは教えたわけだぞ』(308p)



だが、その夜以後もジョアナの態度はまったく変わることがなかった。ジョーは屈辱感さえ抱き、ジョアナに接近することもなくなる。彼なりの意地である。次のねぐらをもとめて逃げ出すことも考えたが、三十歳を過ぎてすばしっこさが衰えたのか、居心地のよさを覚えたのか、さらに居座ることになる。その間、彼は製板工場に勤めに出始めると同時に、ウイスキーの密造にも手を染める。「第二段階」を招来せしめたのはジョアナの方からである。ジョーに添ったフォークナーの言葉にしたがうと、あっさりと「降伏」してしまう。
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フォークナー『八月の光』(5)

  ジョーはボビーが売春婦であることも、食堂がその商売の見せかけの看板であることも、最初は知らなかった。付き合ううちに知ることになるが、そんなことはおかまいなしにジョーの情熱はどんどんボビーに注がれる。ボビーもまた彼の気持ちに押されて有頂天になってしまうようだ。彼を客としてではなく恋人あつかいをして付き合う。つまりその方面のノルマを果たしてうえで、彼ともセックスをするので、経営者からもお目こぼしをしてもらう。粗末な菓子箱をプレゼントされて喜ぶボビーが描かれたりする。年下の男の子から入れあげれたのは初めてなのかもしれない。ジョーもその小さな組織の大人と仲良くなって、酒を酌み交わして語らったりして、居心地のよさをすっかり手に入れてしまう。

  ジョーも束の間に終わってしまう恋の喜びに舞い上がっているのだが、その直接の描写は少なく、もっぱら十七歳の少年にしては驚異的な行動力の描写に作者の力はそそがれる。彼が寡黙であるからだが、また小悪党的性質を際立たせるためでもあるが、別の理由としてはこの小説の重要な人物バイロン・バンチという青年との対比のためでもある。

  この長編小説には、ジョー・クリスマスに直接のつながりがない人物も多数登場する。しかも作者によって重要な扱いをされる人物が何人かいて、彼もそのなかのひとりだ。リーナ・グローヴという臨月のお腹を抱えて夫にあたる男を探し回る女に、なにかと世話を焼く男で、年齢は三十過ぎ。ジョーと同世代だが、彼は饒舌でありながら真面目だ。女性に対してはものすごく慎重で遠慮した態度しかとれず、行動も鈍重なタイプだ。何が正しくて、しかもうまい結果がえられるかを、あれこれ考える。しかし結局は行動する……。バイロン・バンチにはくわしくふれる余裕はないが、この青年と比較したときのジョーの不気味さが、小説としてたいへん効果をあげているのだ。行動も週に一度くらいの割合で、夜、二階からロープをつかって外へ出て、五マイル(約八キロ)もへだたった町の中心部のそこへ徒歩で通う。農作業の褒美に養父からもらった若牛を売り飛ばし、さらに養母の金もくすねて、服を新調したり、ボビーとの逢瀬のための小遣いにしたりする。立派な不良ぶり、といえよう。もはやジョーは、決意を固めて後戻りする気はない。

  やがて二人のなかは養父に知られることになって破局する。小さな町らしく、学校の校舎を利用して催されたダンスパーティに二人がいるところへ養父が乗り込んで行った。「淫売婦」と、養父がボビーを罵倒したのでジョーはおもいきりパンチを食らわせ、養父は気絶してしまう。なんのためらいもない全面的な、最初で最後の反抗だった。ボビーはすっかり取り乱してしまい、養父は無論ジョーにさえも罵言を浴びせてそこを去ってしまう。話はここで終わらない。二人の仲はここで事実上終わっているが、ジョーにはそれがわからずになお女を追いかけていく。

  小さな売春宿では、はや荷物をまとめて逃亡の準備に追われている。ダンスパーティ会場での一件を知った彼らは、捜査の手が伸びることを恐れた。家の馬に乗ってジョーはそこへボビーと「結婚するために」駆けつける。無知と純粋と屈強とが結びついたジョーである。青春の無軌道という以上のものを感じさせる。だがボビーはすっかり変わってしまっている。たった今までのことは単なる火遊び程度のものだった。親近感のかけらもなく「畜生目! この阿呆! あたしをこんな騒ぎに引きこんで、――あたしがいつも白人なみにしてやってというのに! 白人なみにだよ!」こう吐き捨てる。結局ここでもジョーは暴力を振るうが、今度は男たちにボコボコにされてしまう。連中が建物を引き払った後に意識をとりもどすジョー。

そこも狭かった。それでもそこにはまだあの金髪女(経営者の妻、私註)の残り香が満ちているようで、そのひどく窮屈で素っ気ない壁はあの強気で冷たい美しさを押し付けてくる感じだった。剥きだしの化粧台の上にはほぼいっぱいつまったウイスキー壜がのっていた。彼はそれを飲んだ、化粧台に身をもたせてまっすぐ立ったまま、その液体の焼けつく感じをまるで感ぜずにゆっくりと飲んだ。ウイスキーは彼の咽喉を味もなく冷たく、糖蜜のように流れ落ちた。彼は空になった壜を置き、化粧台にもたれかかって頭を垂れたが、考えてはいず、それと知らずに待っていた、いや、待ってさえなかったかもしれぬ。やがてウイスキーが体の中で燃えはじめ、彼は頭を左右にゆっくりと振りはじめたがその間に思考力は彼の内臓ののろい熱い渦巻や反転とひとつにとけて、『俺はここを出て行かなきゃ』。彼はまた廊下へ出た。いまや彼の頭ははっきりしたが体のほうが言うことをきかなかった。(291p)


  もっと引用をつづけたいが、長くなるのでこの辺まで。夢遊病者のように建物のなかを出口をもとめてさまようジョーだが、彼の心性の特徴がよく表現されていると思う。敗北感がまったく感じられない、涙を流さない、あってもそれが表面に浮き出てこない、ということだ。ボビーへの未練もない。私ならば、たぶんここでおいおいと泣いてしまうだろう。感情の切り替えにずいぶん時間を要するだろう。ふりかえれば、養父マッケカンに体罰を受けるさいの描写とまるで地続きになっている。屈強だ、とくに暴力に対して屈強だ。そして未来を見据える。そのことに全精力を傾けて、それ以外の思考を、また感傷を排除する。これも力強い。未来像に向かって体を移動させていく。『俺はここを出て行かなきゃ』
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フォークナー『八月の光』(4)

誘拐未遂事件のあった数年後、ジョーは彼を迎え入れてくれる相手先が見つかって養子に出されるが、ここでも不幸な目にあう。養父の名はマッケカンといって小さな農場主で、またキリスト教新教派の熱心な信者だった。家庭においては専制君主で、妻に自分の方針を頑として受け入れさせる男だった。ジョーの教育に対してもスパルタ一辺倒の男として描かれる。命じたことをジョーが果たさない場合は、たちまち体罰にとりかかる。鞭や革帯でジョーの尻を打つのだ。読んでいて痛々しい。別にマッケカンは感情に駆られるのではない。彼の人間観は、人間は放置しておくと怠けてしまう、遊んでしまう、だから信仰と勤労とによって、そしてまた体罰によって絶えず矯正しなければならない、というものだった。体罰はいわばスケジュールに基づいていた。

 

それから少年は、両足首のまわりにズボンをまとわせ、短かなワイシャツの下から両足を剥きだしたまま立った。ほっそりと、まっすぐに立った。革帯が打ちおろされたとき、彼はたじろがなかったし、顔には何の慄えも走らなかった。まっすぐに前方を見ていて、その恍惚とした平静な表情は絵にある僧侶を思わせた。マッケカンは沈着な手つきで打ちはじめた、ゆったりと慎重に力をこめ、それでいて熱気や怒りのこもらぬ打ち方であった。二人の表情はどちらも平静で、揺がず、恍惚としており、その点では二人のどちらがより上まわっているか、誰にも言いがたかったであろう。(194p)



ジョーが養子になって間もないころ、七,八歳だと思うが、マッケカンの靴に靴墨をきれいに塗れなかったとか、教会の教義問答集を丸暗記できなかったとかの理由で、こういう制裁をジョーは養父から受ける。たぶんこの場面は初めての制裁ではないが、それにしても異様なのは、ジョーが泣かず、たじろがないことである。子供らしさがまったく欠けてしまっている。ジョーは暴力に馴れようとしているし、もっと言えば、マッケカンのみならず、世界全体への対抗心を培おうとしていると見える。制裁を避けるためになんとか暗記してしまおうとする努力よりも、制裁の中心に身をおくことをむしろ好むとさえ解釈できる。また、危ぶんで見守る養母に助けをもとめるということもない。子供にしてはずいぶん頑丈で不屈で、また孤独であるといえる。そしてこのような制裁は、ジョーが十代後半になるまで変わることなくつづく。

ジョーのなかではまた、黒人差別が制裁を受けることでより強く意識されたのではないか。いくら祈り、反省しようとも、「神」は何らジョーに報酬を与えることはない。何故ならジョーは黒人であり、それを誰よりも知っているのが神様であるからだ。白人と神が一体となって、彼をやがては迫害する。いや、すでに体罰によって迫害を受けている。だから彼は神に親近感を抱くことなどできない。養父と神の暴力が二重になって、子供のジョーのなかで意識されるのだと思う。神が暴力そのもの、という考え方は子供の妄想としてくくられる範囲の問題かもしれないが、自分が黒人であるという意識がしだいに確固となるにつれて、彼のなかでは妄想ではなくなる。なお、マッケカンはジョーが「黒い血」を有しているなどとは、孤児院の人がその噂を隠したので夢にも思わない。ジョーが彼の前から姿を消す最後の日まで、そうだ。

そんなジョーだが、彼もまた成長するにつれて養父に反抗する。さらには最終的には家出によって養父の前には二度と姿を現さなくなる。その方法は、養父の信仰に対して別の言葉やイデオロギーを対置して引っくり返そうとするものではなかった。成長するにつれて顕著になる青年の性欲を梃子とするものであった。男の子ならほとんど誰でもが興味を持ち首を突っ込む猥談、また性的非行に、ジョーも参加した。そこでジョーはしばし苦しめられることになる。女性器を知りたい思いに抗しきれなくて、羊を射殺して調べてみたりとか、仲間で買った黒人娼婦に逆の反応を示して殴り飛ばして、当然仲間と喧嘩したりとか、フォークナーはこのあたりのジョーの性の混乱を微細にいきいきと、また殺伐とした筆致で描いている。引き込まれるところだ。やがて彼も特定の女性を射止めることができて、その欲望は据わりのいいものになるのだが。

その女性はボビーという男名前で仲間から呼ばれる娼婦だった。あろうことか、その売春組織の表看板である食堂に連れて行ったのは、マッケカンである。詳しくは述べないが、町にジョーをつれていったのだが、弁当を用意していなくてやむをえずジョーと二人でそこを訪れたのである。安い店であるというのが養父の理由だったが、息子への配慮が足りないのは明らかである。傲慢で雑な彼の性分が見えるところだ。それはともかくも、ボビーはそこで給仕をしていて、ジョーの目にとまった。ボビーは背が低くて若く見えたが、実は三十歳を超えていて十七歳のジョーにとっては十以上の年の開きがあった。だがジョーはそのことを知らず、自分と同世代くらいに見てしまう。作者フォークナーはいくぶんか憎しみを込めてボビーについて辛辣に書く。

女は背が高くないばかりか、ほとんど子供じみたほっそりした体つきだった。だが大人の目ならその小柄さが生まれつきのほっそりした体つきのせいでなく、何か内部の精神自体の崩れからきたものだと見抜けただろう――いわばその細さは、かつて若かったことなどまったくなく体つきのどの線ひとつにも若さが宿ったり現れたりしなかったものなのだった。(224p)



「惚れる」ということには、何かしら相手を過大評価してしまう、持ち上げてしまうところがあるらしい。作者はジョーが選択をあやまったと、最初から釘をさしている。「惚れる」以前に、どうしようもない女だと。だがジョーがそれを知るのは、つまり女に裏切られるのは後のことである。ジョーは女と仲良くなることができて短い幸福の期間を過ごす。
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フォークナー『八月の光』(3)

  ジョー・クリスマスはたいへん不幸な少年時代を送らねばならなかった。不幸というよりも無残と言い換えたほうが適切かもしれない。彼はその無残さに屈することなく、独自の抵抗をしたのだが、やはり子供である。稀にみる屈強さを形成したのだが、その裏側には粗暴さと、自分が不幸であるという諦め、またある種曇りのようなものをもまとわせた。それらは将来に、できれば修正されるべきだったが、社会全体に深くつながる性質の問題だけに、彼ひとりの力では如何ともしがたかった。黒人差別のはげしい一九三〇年代のアメリカにおいて、彼はみずからの体内に黒人の血が流れているという意識をもたされたのである。

  彼は乳離れした頃、祖父によって孤児院に捨てられた。(ちょうど当日がクリスマスの日だったので、周囲の人によって彼の名がそんなように決められた)彼が黒い血を有しているというのがその理由で、祖父は狂信的な黒人排斥主義者であった。ただし娘(ジョーのとっての母)の相手がどんな男なのか、じかに会って確かめることはなく、娘に問いただすことも無いままに、ただ伝聞のみを鵜呑みにしての「確信」だった。(それが果たして事実かどうかは読者にも最後まで知らされない。ただ、デマであることをフォークナーは匂わせていると思うが)そしてジョーは、ものごころつくにつれて自分が「黒人」であることを、しだいしだいに知るようになる。つまり、彼は外見は白人そのものであるから、また周囲の大人や子供もそのように扱うので、特別な出来事がないかぎりは、彼は「白人」として自己認識しつづけたにちがいない。祖父や母の素性については、彼は成人して以後もずっと知ることは無かった。だが孤児院での五歳の時、早くも忘れられない事件に巻き込まれる。雑役夫の男(「火焚き部屋の番人」)がジョーを誘拐同然につれだして、黒人の子供専用の孤児院に収容しようとしたのだ。その男も祖父同様、はげしい人種差別主義者だった。当時のアメリカでは彼らのような存在は珍しくはなく、キリスト教信仰と合体して黒人を「悪魔」と見做す傾向が蔓延していたのである。二人は元の孤児院に無事つれもどされるが、このときの記憶がジョーのなかに生涯残ることになる。雑役夫の男の件もふくめた一連の出来事は、私のこの文では深く立ち入らないが、作者フォークナーは書く。

記憶力は認識力が働きだす前に早くも活動する。記憶する力は思い出す力よりも長い生命を保つのであり、認識力が疑ったときでさえ、記憶は揺がないのだ。(154p)



  ジョーは成人してからも、このときのことを度々思い出すようである。子供どうしで校庭で遊んでいるとき、ときに雑役夫の目が粘り強く自分ひとりにそそがれていたことを。俺は周囲の子供とはちがう運命にある、俺ははげしく疎まれている、俺はやがては追放される存在だ、そうふりかえったにちがいない。

  翻訳者の加島祥造も「あとがき」で書いているように、当時の黒人差別のはげしさは、今日の日本では想像不可能なほどだろう。「黒い血」を有しているということ、それだけで白人優位の社会では人間あつかいされなかったのだろうし、口を閉ざすしかなかったのだろう。また、ジョーは一方の黒人に対しても生理的嫌悪を克服することができなかった。成人してから黒人女性と同棲し、その色と「匂い」に馴れようと、気まぐれな努力をする描写もある。黒人は黒人で、隔離されたのでもないが、同じ場所に密集して暮らしており、コミニュティがある。わざわざ黒人の群れに近づいていって、「俺は黒人だ」とはジョーは言ったりしない。つまりは、ジョーはどちらの世界にも馴染むことのできない孤独な存在であらねばならないことを刻印された。

  ジョーは成人してからも主に白人の世界で生きたのだが、仲良くなった女性にだけは、みずからの血のことをうちあけた。信用できる人の前で正直になって肩の荷を降ろす、そして仮の姿ではなく、ほんとうの自分を見てもらうことで、ほんとうの自分として初めてふるまえる、そのことで自己解放される。ジョーの若い頃からの夢で、非凡な行動力でもって何回かはそのことを実現してきた。だが相手の女性が、彼にとって「信用」できる人だったかどうかは別の問題で、しばしば好ましからざる結果を彼にもたらしたのである。
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フォークナー『八月の光』(2)

 それは二年前のことであった。もう二人の背後には二年がすぎ、考えて、俺が癪なのはそこなんだ。たしかに俺はうまく引っかかり、ごまかされてきた。あの女は年のことで嘘をつきやがったし、あの年になれば女にはどんなことが起こるかってことにも、とぼけていやがったんだ 彼は窓の下の闇に立って、声を出していった、「そのうえ俺のことを祈りはじめるなんて、とんでもねえ。俺のことを祈ったりしなきゃあ、あの女もなんてことねえ。年をくいすぎて使いものにならなくなったのは、あの女の責任じゃあねえ。だけども俺のことを祈るなんて馬鹿なまねをやりはじめちゃあ、いけねえんだ」。彼は女のことを罵りだした。暗い窓の下に立ち、ゆっくりと、わざと卑猥な調子をこめて罵った。(140p) 

 

ジョアナ・バーデンは貧しい黒人層のために奔走する福祉活動家であり、敬虔なクリスチャンであった。四十を過ぎるそのときまで独身であり、単独で暮らしていた。そこへ腹をすかしたジョー・クリスマスが不法侵入してきて食べ物をあさったのである。狡猾なジョーは侵入する前に近所の子供にジョアナの暮らしぶりを聞きだしている。女一人、ということで「安心」したのだろう。ジョアナは彼女らしいのか、ジョーを目撃しても咎めず、追い出しもしなかった。無論、歓待したのではなかったが、食事の世話を不定期にするようになる。ジョーは味を占めて、母屋ではなく離れの小屋に居候することになり、食事のときだけ台所にやってくる。ほどなくジョーはジョアナになかば強制的に肉体関係をせまり、それは引用したように二年間にわたって常態化することになる。

この間のジョアナに起きた劇的な変化は後にも触れるが、要は信仰意識と肉体的歓楽とのギャップをジョアナは知り、みずからそれを拡大するとともに、最終的にはそれをふたたび信仰意識によって解決しようとした、ということである。フォークナーは信仰意識そのものには詳しくはふれないが、歓楽のみをもとめる性は信仰にとっては淫行であり「罪」である。それを雲散霧消させるためには、信仰にとって性を合理化させなければならない。つまりは、性を結婚や出産に従属させなければならない。ジョアナはそういう掟にしたがうことを決断し、ジョーにもそれを迫ったのだが、それは関係を持ってすぐにではなく「二年」後のことである。それまでの「二年間」はジョアナが積極的に、性の歓楽の底なし沼に下りていった期間である。肉体の内部には罪責意識がついに存在しない、また、性がほの見せる切迫した「死」の像はついには幻想でしかない、ということをジョアナはジョーを随伴者として知った。またそれ以上に、歓楽への欲求に無条件に屈服し、おおいに呑み込まれたのである。二年という期間は、その炎が最高潮に燃え上がりやがて自然に下火になる時間であった。ジョアナにおいて、性の内部には信仰は入りこまなかったが、性の外部には依然として信仰は高らかにありつづけた。肉体を交わした人との縁を大事にする、ということでは当然あったが、それ以上にジョアナは強固な信仰者であった。信仰意識によって、ジョアナはジョーに同情し、それを押し付けようとした。流れ者であり、肉体労働者であったジョーを法律学校に通わせて勉強させ、やがてはジョアナと一緒に黒人救済の活動に従事してもらう、そういう希望を強く抱いていた。それがジョーに対する「祈り」であった。「祈り」は切羽つまったもので、拳銃を突きつけての脅迫であり、無理心中をも辞さない激烈さを帯びていた。

だがジョーはジョアナのかかる要求を受け入れなかった。それ以後もジョアナとの関係をつづけようとはしていたが、信仰意識は持ちえなかった。なぜなら彼は骨の髄からの反信仰者なのだ。それは少年期の生い立ちから出発して以来の、彼が独力で築き上げた世界観であり、存立基盤であり、彼の刻んだ自身の歴史であり、行動の軌跡であるからだ。それなら何故、彼は拳銃までちらつかせるジョアナのまえから逃亡しなかったのだろうか。ジョアナを見くびった、ということもあるかもしれない。だが、より本質的には彼は、そんなジョアナを信じたくなかった、以前と同じ関係でありつづけて欲しかった、「愛と平和」をそこに築いて落ち着きたかった、ということではないか。理想の女性像を、ジョアナという目の前の女性をつうじて信じたかったのではないだろうか。理想の女性像とは、ぼんやりしているが、彼と一緒に遊んでくれて冒険にもついてきてくれて、最終的には彼に服従してくれる、そんな好都合な人物像だろうと思う。だが、ジョアナはそういう女性ではなかった。あっさり言ってしまえば、ただ女性ということだけが共通したにすぎない。また、ジョーの理想の女性像とは、流布されている信仰のあり方の彼方にかすかに見える、彼にとっての独自の「神」ということもできるだろう。無論、それは現存する信仰の「神」とは似ても似つかない。

ジョーは愚かかもしれないが、そういう愚かさは男性なら誰だって、多かれ少なかれ持つのではないか。女性が星の数ほどいるとしても接することのできる女性はかぎられている。理想像とのギャップに早く気づくことが傷口をちいさくすることにつながるが、ジョー・クリスマスはそういう理想像への病的なまでの執着をときには手放さない人物だった。たとえば、十代後半に関係した娼婦に対してもそうだった。
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