大洋ボート

痒み

 暑い季節になると皮膚がかゆくなる。もともと皮膚は弱いほうで、子供のときはたんぱく質の多く含まれる食品、つまり肉、卵、ナッツ類などを過食すると、じんましんがよく出た。それでも翌日にはすっかり引いていたのであるが、加齢によるのか、一昨年の夏あたりからは食物の種類に関係なく、恒常的に皮膚がかゆくなる状態におちいってしまった。手足がまずその感覚が顕著になって、つぎに首や肩にひろがる。ひと夏を過ぎると、かゆみは弱まるので、一昨年は市販の薬で間に合わせていた。だが昨年はかゆみが激しくなったので、たまらなくなって皮膚科にいった。同じように今年も、昨日はじめて同じ皮膚科に行って、薬の処方箋をもらってきた。

 夏が特に症状がひどいのは、この季節は血流が活発になるからだそうだ。同じように飲酒時も血流が活発になるので、酒は控えたほうがよいと医師から忠告を受けたが、これはわがままであるが止められない。医師には聞かなかったが、入浴時も同じ状態になるのだろう。やはりかゆい。かゆいとどうしても掻いてしまう。すると赤く腫れてふくれる。わずかな出血もある。掻いたところでかゆみが治まるはずもなく、むしろかゆみが増してくる。血液アレルギーが関係するのかと聞いてみたが、それは無関係で、皮膚自体の疾病だそうだ。

 薬局で購入したのは、飲み薬と塗り薬。前者はクラリチンで、一日一錠。去年はレスタミンコーワでこれは一日三回に分けて三錠ずつ計九錠だった。どちらの薬も眠気を催すので、一回の服用だと助かる。レスタミンは市販されているので、処方箋によらないときでも手に入れられる。ほかの市販薬としてはアレギール、ベリー錠など。塗り薬はオイラックスとメサデルムクリームの混合。オイラックスは市販されていて、医者へ行くまでは使用していた。レスタミンコーワ軟膏という製品も安いので使ってみたが、あまり効かなかった。処方箋で購入したほうが、保険が利くので安価にはちがいない。

 これは完治する性質の症状ではないようだから、つき合っていくしかない。糖尿病やら高血圧やらという厄介な症状とは今のところ無縁らしいから、かゆみ程度ならよしとしようか。
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博士の異常な愛情(1963/アメリカ)

博士の異常な愛情 博士の異常な愛情
スタンリー・キューブリック (2002/11/01)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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 アメリカ空軍の狂信的な将軍が、飛行中のB52爆撃機の30数機に対して「R作戦」を指令する。その作戦は、ソ連に対する水爆による全面的な先制攻撃をさしていた。イギリス軍の将校ピーター・セラーズはたまたまその将軍の部下として派遣されていたので、必死になって将軍に作戦の中止を要求するが、こちこちの反共主義者の将軍は頑として聞き入れない。一方、知らせを受けた国防総省では、アメリカ大統領以下の緊急閣議がひらかれる。事態の打開を懸命にはかるが、つぎつぎに壁にぶち当たる。

 米ソ冷戦たけなわの頃につくられた映画だから、その分古さは感ぜざるをえないところか。米ソのどちらかが核ミサイルを発射すれば、報復の連鎖によって莫大な数の人命が喪われ地球は荒廃に帰してしまう、そういう危機感が強まった時代であった。現にキューバ危機もあった。原水爆を本格的に使用し、なおかつ自分たち一握りの支配層が生き延びることができるか、軍人や政治家の一部は真剣に、あるいは仮定という前提をつけながら、つきつめて考えたのかもしれない。この映画に登場するほとんどの登場人物が、そんなことを一度や二度は頭に浮かべたことがあるような顔つきをしている。B52の搭乗員でさえそうである。最初に作戦指令を耳にしたとき、搭乗員は冗談はやめてくれと取り合わないが、本当だと知ったときにも慌てふためく様子はまるで見られない。落ち着き払っている。例外はイギリス軍将校のピーター・セラーズのみで、将軍に刃向かうが、これまたどこか漫才の雰囲気がある。そうした全般の雰囲気(ブラックユーモアといわれる)もこの映画の持ち味である。ピーター・セラーズ(イギリス軍将校)以外の人物には、核という最終兵器に対するあっさりした諦めと、どうってことないと涼しい顔のポーズをとることが奇妙に合わさっている。

元ナチの博士(ピーター・セラーズ)は、水爆攻撃の熱狂的な賛成派。数千万の自国人命が失われても、大統領以下の支配層上層部は、地下生活をすることで安心して生命をまっとうできると豪語する。そしてナチ式敬礼をやりそうになって、その右手を左手が押さえつける仕草を繰り返す。アメリカ大統領(ピーター・セラーズ)に向かって「あなたはヒトラーと並び称される英雄になるだろう。」と賛辞を惜しまない。この博士の人物像が、スタンリー・キュウブリック監督の一番に造形したかった人物像なのだろう。それに、ピーター・セラーズが一人三役だなんて、関連資料に目をとおすまで気がつかなかった。まあ、怪演なんでしょう。

 現在においては、大国による核攻撃の恐怖は弱まっている。むしろ核の不使用による戦争の方が、世界中で勃発、継続している。それとは裏腹に、9・11事件はあったものの先進国と呼ばれる地域内においては、おおむね長い平和がつづいている。そうした現在を意識すると、この映画はやはり題材としては古いのかな、と思ってしまう。だが、先進国と途上国の二重構造の現在性を撃つことにも達しているとこの映画を評価することも、あながち無理ではないのかもしれない。平和と戦争、飽食と飢餓の二重構造を、ピーター・セラーズ博士よりももっと巧妙に立ち回って演出する支配者集団によって、世界は支配されているとしたら。
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女王陛下の007(1969/イギリス)

女王陛下の007 <デジタルリマスター・バージョン> 女王陛下の007 <デジタルリマスター・バージョン>
ジョージ・レーゼンビー (2007/08/25)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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 ジェームズ・ボンド(ジョージ・レーゼンビー)が宿敵ブロフェルド(テリー・サヴァラス)を追って、アルプスの頂上にあるアジトに乗り込んでいく。ブロフェルドが別人になりすまして爵位の公認を申請したので、ボンドの方もその調査員を装っての接近だった。だがばれてしまい、ボンドは捕らえられる。

 監禁された部屋からの脱出劇が見応えがあるところか。そこはロープウェイの機械装置が置かれたカ所で、ワイヤーロープにぶらさがって移動し運転中のロープウェイにたどり着くという目論見だが、ボンドは何回も試みてはためらう。身体のすぐ傍で、巨大な滑車やら歯車やらが轟音をたてて回転するので、ちょっとヒヤッとする。またワイヤーの真下は何百メートルも隔たった雪原で手を離せば死んでしまう……。こういう連続活劇は無数につくられるので、すべてのアイデアが斬新であることは不可能だろう。どこか一箇所新しさや丁寧さがあれば、後の部分もそれに引きずられてよく見えるもので、本作もその例に漏れない。スキー、車、それにボブスレーをつかっての追跡と格闘も、ロープウェイのシーンがあればこそ、その迫力が輝くと見た。

これは公開当時見たが、荒唐無稽なお話としか思えなかった。しかし、近年のオウム事件を思うと、そうでもなく見える。アルプス頂上のアジト、アレルギーの治療を名目にした若い女性の洗脳、そして彼女らに撒布させるための致死性ウィルスの研究開発、等々。もっとも、オウムの方が、漫画的な荒唐無稽をまねたと言う方が事実に近いのだが。

ボンド役のジョージ・レーゼンビーはこれ一作しかやらせてもらえなかった。ショーン・コネリーのそっくりさんというところで見込まれたのか。だが、コネリーの射すくめるような目つきがない、また色気もない。俳優としてまだ駆け出しだったようだ。相手役のダイアナ・リグは気ままなお嬢さんの役どころがぴったりでなかなかだったが、その後の活躍は目にしない。
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アラビアのロレンス(1962/イギリス)

アラビアのロレンス アラビアのロレンス
ピーター・オトゥール (2006/02/01)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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 イギリス軍のピーター・オトゥール(ロレンス少尉、のちには中佐)はトルコと交戦中のアラビアに潜入する。彼はアラビア文化に親しみを持ち、その独立を願っていた。国王の許可を得て、諸部族からなる小さい軍をつくってトルコに戦いを挑む。第一次大戦の頃で、戦力不足のイギリスにとっても好都合だった。

 ロレンスは作戦立案と指導の能力は十分にあるが、人殺しには慣れていない。そのため嫌気がさし、戦果を挙げたものの一旦はアラブから退くことになる。だがイギリスやアラブから請われて再び、アラブ軍を指揮することになる。ついにはイギリス軍に先駆けてダマスカスを占領することに成功する。

 ピーター・オトゥールはロレンスの人物像(実際上の、ということではない)をよく出せている。アラブ文化に傾倒するところは「変人」と言われながらも堂々としている。また戦がうまく行っているときには子供っぽく喜ぶ表情が浮き出てくる。そして情にもろい部分。故郷の村が全滅し村民が皆殺しにされたのを目の当たりにした青年が、復讐の鬼と化してトルコ軍に単身突っ込んでいく。それを見てためらうピーター・オトゥール。もう我慢が限界、といったたいへん情け無さそうな、そして子供っぽい表情を浮かべる。ついには青年に同調し、「捕虜にはしない、皆殺しだ!」と号令して、狂熱にのめりこむ。善人だからこそ、こうなってしまうのだろう、という感慨を抱いてしまう。軍規を守るにはやはり頑固で冷徹でなければならず、それを培うのはふさわしい資質と経験だろう。

 「アラブ国民会議」が、行政能力がゼロであることをさらけ出す場面もおもしろい。しかし、いかんせん4時間にも届こうかという上映時間が長すぎる。(224分)長時間でもぐいぐい引っ張ってくれる映画もあるが、本作は逆だ。公開当時はどうだったかは知らないが、砂漠での戦闘場面など、それほど興味深くはない。ピーター・オトゥールとともに、長時間に閉口したことが印象に刻まれた。
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あるスキャンダルの覚書

ジュディ・デンチ(バーバラ)は中学校の歴史担当のベテラン教師。そこへ新たに赴任してくるのが美術教師のケイト・ブランシェット(シーバ)。美しいが、どこか現実離れしたところも見受けられる。そんな彼女に心を動かされたジュディ・デンチは接近し、友人関係をきづくことになる。だが、デンチはブランシェットの「青年」(仮にそう呼んでおく)との情事の最中を目撃してしまう。

  ブランシェットは、年は離れているが高収入の夫と子供二人を持つ一見、何不自由のない暮らしぶりだ。本人も幸福だとは思っているものの「電車とホームの隙間」のような欲求不満がある。「青年」と関係することでそれが果たして満たされるのか。満たされたとして、彼女の心身の内部にどう跳ね返ってくるのか、そこを私としては見たかったのだが、映画はそういうことよりも「青年」との関係がしだいに露見していく過程を描くことに主眼が置かれる。困惑し、狼狽し、デンチにすがるブランシェット。一方、デンチは秘密を漏らさないことでブランシェットに恩を着せて、特別な関係を持続させようとする。隷属させてそれこそ、あわよくば性的な関係をも築きたいと企んでいる。
  
  ブランシェットは贅沢で優柔不断で甘くもろい、というシーバの人間像をよく出している。またそんななかで、始終、上品さが感じられて好感がもてた。悲しみが表現できていた。ジュディ・デンチは思慮分別がありそうに見えてとんでもない。いきなり欲望とエゴを剥き出しにするところは、この女優の持ち味だ。「ヘンダーソン夫人の贈り物」でもそういう場面に出会ったが、そのつど心地よい驚きがある。この二人の女優はさすがに見ごたえがある。
 
物語のあわただしい展開がそれはそれで面白いのだが、どこか落ち着きのなさ、居心地の悪さを感じないではいられなかった。ケイト・ブランシェットの妻や教師としての地位がどうなるか、周囲の人間の彼女に対する視線がどんどん険悪になっていく様などで興味を引っ張っていくのだが……。またジュディ・デンチが善良でもなんでもないこと、そのくせ、少女のように寂しがり屋であることも暴露していく。

私としては、贅沢さを求めずにはいられない人間の性悪、弱さをじっくりと味わいたかった。善良な人が傍にいても満ち足りないものがある。私の人生これで終わってしまうのか、もっともっと、という願望と空想。それに火をつける人物が出現して、映画は始まるのだが。
 
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伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』(3)

死者は「偉大」なのか。私たちは場面に応じてそういう考え方を取ることがある。だが、偉大になるために、するために、私たちはいたずらに自他の死を人為でもって引き寄せねばならないのだろうか。勿論、そんなことはしてはならないことだ。子供の屁理屈という以上に、それは人間界を冒涜した発想だ。死者は可哀想だと思わなければならない。大往生と呼ばれても、必ずやその人はもっともっと生きたいと願わずにはいられないだろうから。その意味で、若くして死んだ人も勿論含めて、死者はおしなべて「心ならずも」死んでしまった人達である。死者を悼むこと、祀ることは重要だ。また、死者が「偉大」というならば、逆に生者は卑小なのだろうか。「死ぬのはいやだ」という思いは、本能や弱音にすぎないものか。そうであったとしても「死ぬのはいやだ」という思いをまずは躊躇いなく肯定したい。そこからしか生命尊重の思想は生まれないからだ。これは案外、常識と言ってしまえるほどの地に足の着いたものではないのかもしれない。戦前戦中にはなく、戦後になって新しく生まれ出た思想だからだ。この思想が、私たちひとりひとりのなかでどれだけ強固に育つかが、これからの時代の針路を決めていくのだろう。ところで、この生命尊重思想とはまるで逆行する「ポア」なるイデオロギーに直面し実行に移してしまったのが、豊田亨をはじめとするオウム・サリン犯である。よく知らないが、現世の命を抹殺してより浄化された世界へその魂を移行させる、「偉大」化するという行為が「ポア」なのだそうだ。オウム入信以前の通念もあるだろうから、サリン撒布の実行犯たちも、さすがにたじろいだだろう。「ポア」に半信半疑であっただろう。だが彼等はやってしまった。

ある高名な哲学者は、人間の思考段階として本能によるもの、権威によるもの、そして自立した思考という三つをあげた。これらの段階を踏んで、人の思考は発展し、本来的な姿として形成されるというのだ。そして麻原は、みずからを権威に祭り上げるという点では、徹頭徹尾にやった。信者に性的快感を施すことによって魅了すると同時に、信者を自分のやりたい放題に引きまわした。グル(麻原)のためなら何でもする、グルのためなら死んでもかまわない、人殺しもする、というような帰依の姿勢を強圧的に浸透させた。そしてまた、信者の多くは麻原に思考や思考の結論さえも委ねてしまったのだろう。「グルがどう考えるか、それが明らかになるまでは自分で結論を早急に導き出すことはやめておこう。グルは自分よりも頭脳明晰で立派な方だから。」あるいは逆に、「グルが命じたことだから、正しく、偉大なことにちがいない。グルの説明はないが、やがて授けてくださる。時間差にこだわってはならない。」という風に信者は漠然と思ったのではないか。自立的な思考があることさえ知らなかったのかもしれない。それに性的快感の点もふくめて、教団内の生活はそれ自身で快適であったことも想像される。「自他の死」の問題さえも、さしせまったことではないと高をくくってしまったなら、考えることは苦痛ではなくなることもある。伊東が何度か書くように「局所最適、全体崩壊」なのだ。

オウム・サリン犯がずるずると麻原に引きずられてしまった、という以外には恐怖による支配もあったのであり、見逃してはならない点だ。豊田のような隔離状態に近い状態におかれたうえで厚遇された幹部は別にして、多くの幹部はサリン事件以前の教団による殺人に関わっていた。だから「明日はわが身」と思うとすくみあがってしまい、凶悪犯罪実行の指示にも逆らえなかっただろう。幹部ではない一般信者でも同じだったろう。反抗も逆に尻込みもできずに、教団と麻原に黙々としたがってしまう信者たち。何もかもが「修行」にされてしまう。「修行」の一言に信者は何と弱く、従順なことか。マスコミ報道によると、出家信者は教団施設内で、動物の死体の残虐な映像を繰り返し見させられたそうである。誰でもが吐き気をもよおしそうなそんな映像を、飽き足りないくらい見つづけて、いったい信者に何がもたらされるのだろうか。たしかに個別の写真に対する恐怖は薄らぐのかもしれないが、恐怖そのものが人間の心性から消滅することはない。恐怖に対して距離をとりながらもぼんやりと意識させること、そのことで竦みを生じさせるのが狙いなのか。オウムと麻原にたいする信者の従順さをはぐくむため。また、他者の死を受け入れやすくするという別の目的も併せてあったのか。このあたりは私が想像するだけであり、残虐写真をみせた目的の真実をさほど知りたいとも思わないのであるが……。「ゴキブリ一匹殺さない菩薩心」などと言いながら、オウムはそんなこともやっていた。

伊東乾は脳機能可視化装置「NIRS」について紹介している。島津製作所が開発研究中のもので、同じ脳機能可視化装置のCTやMRIと比べて、通常の生活をしながらの測定が可能なところに特長があるという。つまり装置のなかに被験者を拘束する必要がない。NIRSは脳内各部位への血流量を酸化ヘモグロビンの量の変化を基準にして測定する。それがディスプレイに色彩が区別されて映し出される。ニュートラルの状態が緑、活発に血流が供給されているときは赤や白、逆に不活発な場合は青や黒で示されるそうだ。伊東は知人「M君」の協力をえてNIRSの被験者になってもらい、ある残虐映像を見させて、彼と装置を観察した。2004年にイラクで誘拐され殺害された日本人青年が収録されたコンテンツで、インターネット上で公開されたものだ。知人の脳内画像は「まっ黒」になってしまった。恐怖を感じると、血流はたちまち不活発になってしまうということだ。ここで言われている「大脳皮質」「前頭前野」の活動がみるみる低下する。それは思考や知識を司る部位で、脳進化の最後に出現した「人間のもっとも人間らしい」部位にあたる。以下は研究所の助手氏とM君とのやりとり。

「人間の脳というのは、いつも100%活動しているわけではないんです。一部が活性化しているときには別の部位が不活性化します。恐怖の情動に支配されているときには、生物は、あれこれ考える前に反射的に本能行動をとったほうが、生存できる確率が高くなるわけです」
(中略)
「危険が迫っていて、恐怖に支配されているときには、大脳皮質などを使わなくても、小脳や延髄に入っている運動に関する命令だけで、危機を回避した方が賢明だということでしょう。ほら、このあたり、大脳新皮質は、計算速度がとても遅いものなので……」
「俺の脳、計算速度遅かったですか……」
「いえ、誰の脳でも同じですよ、恐怖による思考停止とか、マインドコントロールと言われる現象は、脳血流測定の観点からは、その部分の思考能力が低下したり、あるいは停止したりする、いわば、麻酔のようなものとして考えることができるでしょう」



人間は弱い生き物だ。弱さを知ったところで弱さがなくなるわけでもない。ただ、用心し、慎重になることはできるだろう。だが別の意味で、人間は弱さに惹かれもする。高慢さをへし折られたとき膿のようににじみ出た弱さのなかに、それこそ高慢ちきにも輝きのようなものを探り出そうとする。そのために、ある決定的な弱さを、心の中で何べんも吟味するし、角度を変えて別のアプローチを試みたりもする。「輝き」など容易には持ち帰れずに引き返さざるをえないことがほとんだが、それでも諦められない因果を人間はもっている。この本のいう「再発防止」という観点には、必ずしもかさならないのだが、書いてみたくなった。

豊田亨は困難の極みである。気の毒だが、死刑判決を回避することは絶望的なようだ。林郁夫が無期懲役なら、豊田にも同じ判決がくだされても不自然ではないと思うが。そのうえ、彼が伊東の「再発防止」のプログラム作りに積極的に参加するなら、「輝き」などほとんど探しだせないだろう。死と崩壊そのものの中心点としての過去を見据えつづけねばならない。死刑を待つという恐怖にさらに別の困難が加わる。悪は対象ではなく自分だ。自死に値する以外のものは見つけられないだろう。欺瞞や怠慢が入り込まないかぎりは。表題の「サイレンと・ネイビー」とは、海軍が好んだ言葉で、たとえ失敗してもつべこべ言い訳せずに、男らしく黙って責任を取る、という姿勢をよしとするのだそうだ。伊東は友情もこめて、豊田にそうであってくれるな、活発に口を開いてくれと懇願する。
                 (了)
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伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』(2)

本書は、悪の組織・国家と個人との関係における「騙しのテクニック」を包括的、学問的に解明しようとしたものである。群書からの引用も多く、とりあげられる専門概念も多岐にわたっていて、私のような凡人にはとても全体をすくいとることはできない。私が関心を持ったうえで刺激を受けた部分を書くことしかできない。本書はまた、豊田亨のチェックをとおした後に最終稿として仕上げられているが、それは両者がオウム事件をはじめとする凶悪無残な事件や歴史の「再発防止」の必死の思いを共有するからである。またその理論的プログラムを完成させたいがためである。そのためか、豊田との友情にまつわるエピソードや、伊東の豊田に対する思いの吐露は意外に少ない。まったく無いのでもないが、感傷を排したのだろうか。豊田が書くことを禁じたこともあるのだろうし、そんなことよりも事件について、もっともっと豊田に語ってほしいという伊東の願いもあるのだろう。だが残念ながら。本書で明らかにされた限りでは、豊田の語りはまだまだ少ない。一審、二審と死刑判決を受けるなかで、彼はオウムからの脱会を宣言し、麻原と対決し彼を非難した。遺族に謝罪の意を述べた。重圧のなかで、ようやくそれらを成し遂げた、ということだろうか。

サリン事件以前にも、オウムは多額のお布施や信者の「拉致・監禁」問題で有名になってテレビのワイドショウを賑わせた。統一教会という団体と並行して、怪しげな宗教団体くらいの扱いを受けていた。だが、閉鎖的な統一教会に対してオウムは意外にオープンだった。なかでも耳目をひいたのは柔道場のような道場で、「修業」に励む青年信者たちの姿だった。アイマスクをしたりしなかったり、また例のヘッドギアもつけたりつけなかったりと、さまざまだったが、ポーズはバリエーションが少なかった。あぐらを組んでぴょんぴょん飛び上がろうとするポーズは空中浮揚を試みているのか。うつ伏せになって全身を伸び縮みさせる動作を繰り返す人もいた。首や手を小刻みに動かす人もいた。傍目からはどれもこれも「みっともなさ」をともなう奇妙な光景くらいにしか見えなかったものだが。身体を鍛えるというよりも、意識的に疲れさせて幻影を招来せしめるものか、とも思ったが、まもなく忘れてしまった。だが伊東はそのからくりを見事に解明している。

1987年7月、伊東は東京大学教授見田宗介(みたむねすけ)による「自我論・間身体論」の2泊3日の合宿ゼミナールに参加した。伊東が当時関心を持っていた「ニューアカデミズム」の思想家や見田のことは、私は知らないが、伊東はこの合宿において、私が先に記したオウムの道場における光景を寸分たがわず身をもって体験してしまうのである。「大学セミナーハウス」の一会場に40~50人の学生が集まって、アイマスクをしたうえで、電気を暗くしてリラックスするのだろう、あくびに似た誘導運動のあと全員がごろ寝をする。もっとも、参加学生の全員が見田のそれまでの教室での講義を受けているので、起こるべき事態を、期待と興奮をもって待ち構えているのかもしれない。見田はヨーガの概念を社会学という学問的見地から、つまり宗教的指導という立場からではなく、その身体的影響と仕組みについて教えていた。

私の場合、誘導運動を行い暗い部屋に寝っころがっていると、やがて尾てい骨、仙骨の辺りに「カカカカカ」という感じの自律的な拍動が感じられた。いわゆるクンダリニーの覚醒と呼ばれるものの一種である。迫害された精神分析学者、ウィルヘルム・ライヒは同様のものを「オーガスム反射」と呼んでいる。その「カカカカカ」という活性が、背骨を通って上に上にきて、今度は首が勝手に回り出した。コマの味噌擂り運動のように首が勝手にグルグル動く。アイマスクをしているので見えないけれど、まわりのほかの学生たちにも、いろいろな反応が出ている気配がする。そのことが、余計に自分の活元を増幅するのが感じられた。(中略)次に肩が強烈に痙攣し始めた。北野武がよくテレビで見せる、肩をピクピク動かす癖の激しいものだと思って頂きたい。肩からひじ、そして手の全体が、まるでサルか何かになったように、激しく激しく、自分の意思とまったく関係なく動く、それらを落ち着いて見ている、第三の自分がいるのを、静かに感じた。(p233)



さらに伊東の身体は別の部位の運動をも加えてもっとはげしく動き出そうとするうえ、少しだが「イメージのようなもの」も見えたという。伊東はするべきことをして、見るべきものを見ている。私がテレビで見たオウム道場における信者の様子そのものであり、「クンダリニーの覚醒」を自慢気に語る麻原とも、その身体変容の内容はかなり近接している。同じ現象を、伊東は見田の講義を参考にして、人間の生理学的事実としてとらえた。オウム信者はこれを、麻原の指導と言葉によって宗教的解脱の高度な段階として見做してしまった。伊東によると、見田はこの現象を「活元運動」と呼ぶ。つまり、人間の身体の大部分は不随意的神経経路によってつかさどられていて、意思によって動かすことのできる部位はごく一部分である、心臓の鼓動や呼吸、消化、排泄などほとんどが自律神経系(不随意系)経路の働きによる動きで、意思とは関係がない。また、身体のほとんどの部位が意思と無関係に動くことができるし、「動きたがっている」というのだ。「活元運動」とはこの不随意的神経経路(「錐体外路系」)の「解放」だというのだ。

この1987年の7月の経験は私にとって、ある意味で「信仰」獲得に近い意味合いを持っていた。つまり、特定の神を仮定しなくても、これらの生命にとって本質的な現象を、唯物的、生理学的に理解するという体験自体が、宗教的経験に代わるものとして、私の中にあった、ある「渇望」を満たした。もしこれが、「オウム神仙の会」であったなら、そして脊髄の反射などではない「シヴァ大神」などで説明されて納得してしまっていたら、私は間違いなく別の人生を、しかもかなり強力に歩んでいたに違いない。生理的な現象はそれとして存在する。それを詐術に接木するかどうかは、まったく別の問題なのだ。(p235)



「クンダリニーの覚醒」は「活元運動」と同一であり、生理的現象として説明がつく。伊東は事態を十分にとらえたのだろう。だが私は留保をつけたい。生理的現象を宗教的言辞にくるんで、ここでいう「詐術に接木」したとしても宗教思想にもとづく体験としてはやはり残るのではないか、麻原をどう評価しようとも、彼がそれを利用したとしても、宗教思想としてはたとえ残骸であったとしても信者のなかに残るのではないか。どういうことかというと、信者にとっては「クンダリニーの覚醒」がすべてではない、そこへたどり着くまでの苦闘があったとして、また仲間との語らいや生活、同一行動への参加などが、セットになって総体として記憶のなかにのこり、体験となる。思想もまた、そういう体験と重なったり重ならなかったりしながら、ふりかえられたり、現に考えられたりするのだろう。例えてみれば、山の頂上の風景がまったく同じであっても、そこへ登るのに装備をして徒歩で登るのと、ヘリコプターに搭乗して短時間で降り立ってしまうのとのちがいである。両者は体験として明らかに異なっている。生理現象の一部が解明されたとしても、また特異な宗教的志向が瓦解したとしても、宗教はまだまだ人を魅了するかもしれないのだから。体験自体の共通性のなかに特異性があり、それをふりかえることはさらに個別的営為でしかないのだから。宗教的体験という立場からするならば、「クンダリニーの覚醒」と呼んだときからそれは、生理現象そのものに還元することはできなくなっている。宗教的体験の一環であるという見方は可能だと思う。
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伊東乾『さよなら、サイレントネイビー』(1)

さよなら、サイレント・ネイビー―地下鉄に乗った同級生 さよなら、サイレント・ネイビー―地下鉄に乗った同級生
伊東 乾 (2006/11)
集英社

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 著者の伊東は現在東京大学助教授だが、同大学に理学部物理学科学生、大学院生として席を置いていたときに、地下鉄サリン事件の実行犯の一人豊田亨と同級で親友であった。1986年4月の入学から1992年4月、豊田がオウム真理教に突然出家するまでが交流の期間である。伊藤によれば、豊田は頭脳明晰であり、朴訥でありながらユーモアのセンスがあったという。実験のペアを組んだり、論文について徹夜で話したこともあった。その豊田が、彼の前から姿を消して、気がついた時には、史上まれな無差別テロ事件の犯人の一人であったのだ。伊藤の筆致は冷静だが、そのときのショックは、他人には計り知れないものだっただろう。(伊東は地下鉄サリン事件の直後、電車のなかでめまいを感じ、下車して嘔吐した。まだその段階では、豊田が実行犯にふくまれていたことは明らかではなかった。)

 だが事件後も、伊東の豊田によせる友人としての信頼は揺るがない。伊東の問題意識は、豊田のような好青年が何故オウムの落とし穴に嵌ってしまったか、ということだ。豊田の個性を問題にするのではなく、どこにでもいるインテリ青年として彼をあつかい、対極にオウムのような歪んだ組織を置く。俎上にあげられるのはオウムにとどまらず、ルアンダ内戦やナチスドイツ、日本の軍国主義にまでと広範囲におよぶ。そこに伊東は、善意の青年と大小さまざまな悪の組織集団、また異様なまでに緊張した国家状態との普遍的な因果関係を見出そうとする。豊田とは区別して、憎んであまりある麻原を詐欺師と規定して、彼をはじめとする組織悪の「騙しのテクニック」を全般的に解明しようとするのが伊藤の意図である。同じことだが、被害者と加害者の対立という受け入れられやすい単純構図を伊藤は排除する。つまり。無垢の被害者もまた、偶然のいたずらによって、以前にオウムの勧誘を受けていればコロッとだまされてしまう存在であり、被害者=加害者という等式が成立するのだという。

 伊東は広義の意味での性的快感をとりあげる。麻原はヨーガや宗教的修行の指導によって被験者を性的快感に導くすべを心得ていた。伊藤は自身の少年時代に鉄棒に夢中になった体験も交えて「勃起しない快感」と「勃起する快感」とに性的快感を分ける。後者は直接的に性行為と異性につながろうとするものだが、前者は一見それらとは無縁に見えてしまう。これは私個人にも高校生時代の反戦デモ体験での高揚感などで、身に覚えのあるところである。性的快感と共通するのは、快感物質が身体に湧出することだろう。そこに麻原という男が指導者として介在する。性的快感を自己救済の一過程として褒めそやしたとしたら、被験者たる若い人は悪い気持はしないだろう。ましてそこに「世界救済」やポアの思想まで接ぎ木してしまえば、マインドコントロールはできあがってしまう。

 麻原いうところの「クンダリニーの覚醒」を、伊東は性的オーガスムに類似した性的快感の頂点と分析する。性的行為とは分離したところで実際の性行為以上の快感をえられるものらしい。「勃起しない快感」の頂点である。その境地まで弟子たちを引っぱり上げるのが、麻原の役割なのだろう。上祐史浩は「性欲がズバッと落ちた」と表現したという。麻原の著書『生死を超える』が引用される。

《例えばムドラーを行じているとき、クンダリニーが上昇してわたしは“悦”に入った。何気なく立っているときや、歩いているときにもそれは起こった。それが起こるときには、必ずムーラ・バンダ(肛門の締めつけ)と性器の締めつけが自動的に始まり、体を震わせながらクンダリニーが駆け昇る。その感覚たるや、この世で味わうことのできる、最高のエクスタシーだといえるのではないかと思う。どう表現したらいいのだろうか。セックスの快感とは全く違う。とても優しく柔らかく、溶けてしまいそうな感じである。“悦”に入っている間、その快感は強まることはあっても決して弱まらない。しびれも伴って、それがまた気持ちいい》(本書p103)



ムドラーとは何だろうか、ヨーガや宗教的な身体運動の一種のようだが、私には詳しいことはわからない。ともかくも、体験を自慢気に披露する麻原に対して、一方では「俺も同じことを感じた。」、「俺はあと一歩のところかなあ。」などと自身をふりかえりながら陶然と聞き入る弟子たちの姿が目に浮かぶ。まさしく麻原はグルだ。たぶん弟子たちは、自己の充実と少し先の未来をうっとりと眺めて、そういう世界しか見えなくなっているのかもしれない。その先に「世界救済」のための行動があるとして、この性的快感はそこへ大いに勢いをつけて舞い降りるための噴射ロケットとして弟子たる青年にはとらえられたのだろうか。政治経済的理論が必要などと言うのは野暮かもしれない。だが性的快感は重要ではあるものの、それだけで「世界」は成り立っているのではない。ましてそんなものを通過点としか見ない人も大勢いるのだが、私のことをふりかえっても青年には、自己世界の同心円的拡大にしがみつく以上のことは、なかなか理解できない、理解しようとしないのではないか。
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