バベル
05/06/2007 (Sun)
モロッコ、メキシコ、東京でそれぞれ展開される物語。少年や少女が好奇心や夢を追う、人とのつながりをもとめて大胆に行動する。また、幼い子供を亡くして傷心の真っ只中にいる女ケイト・ブランシェットがいる。一方では、それらの人を支え、いたわろうとする人がいる。また、正しい方向に導こうとする人がいる。妻ケイト・ブランシェットの夫ブラット・ピットであり、モロッコの貧しい二人の少年の父であり、東京の菊池凛子の父役所広司であり、菊池と対話する刑事の二階堂智である。また、ブラット・ピット夫妻の留守時に子供をあずかる家政婦のアドリアナ・バラッザである。
ケイト・ブランシェットが銃弾に倒れてからのブラット・ピットは、夫としての理想像といえる行動をとる。手遅れになると死んでしまう妻を一刻も早く病院に搬送しなければならない。だがそこはアメリカではなく異国のモロッコ。近くの町の民家を借りて妻のつかの間の安静を保つ。救急車を呼ぼうとするが、政情の不安定やインフラの不備がかさなって思うに任せない。大使館にコネのある人物に連絡をとってねじ込ませようとする。彼は焦る、怒りをぶちまける、だがこらえて冷静になろうとする。頭をしぼる。自分にできることは全部する、そして妻の延命を祈らずにはいられない。彼は泣きたい、一時も妻の傍をはなることはない……。結婚したから夫でありつづけられるのではない。困難時にこそやるべきことをやってこそ、夫であることができる。ここはあらためて教えられるところだ。ともに待機させられたバスツアーの観光客はゲリラの襲撃をおそれて、ブラット・ピット夫妻を置いてきぼりにしたい。だが、ブラット・ピットにとっては妻の生還が一大事で、他人の命のことなど頭に入らない。バスは手元に置いておきたい。バスの客との喧嘩も辞さない。夫としての責務を果たそうとすれば、それくらいの姿勢でちょうどいいのではないかと、映画は訴える。
ブラット・ピットは格別上手くないのかもしれない。だが下手ではない。悪い方へ悪い方へ刻々と変化する状況の描き方が、シナリオ段階からたいへん細やかでリアルだ。そういう環境によって右往左往しかねない中での懸命の働きにはうたれる。予想を超えた事態が襲ってきて「強いられる」ということが何段も積み重なる。アクション・ヒーローのときのブラット・ピットのカッコよさとは違い、愚直と必死の偉大さでる。また、鑑賞者にとっても家族のありようとして突きつけられる痛みそのものである。ケイト・ブランシェットが小康にもどったとき、器をあてがって尿をさせる場面もいい。たぶん、いつもどおりに夫が傍にいることの安心感が彼女から溢れるのだろうし、「いつもどおり」と思ってくれることはブラット・ピットにとっても鑑賞者にとってもたいへん貴重だと思わずにはいられない。まさに家族の日常が蘇生する。
ケイト・ブランシェットをカメラは銃撃以前から、たびたび画面いっぱいのアップで撮る。これは彼女の悲しみと疲労の表情の微かさを定着させるためで不自然ではない。被弾することと事実としてはつながりはないが、不幸に不幸が重なるという連続性で見せられる。また、レストランでのランチの場面も細やかに描かれている。彼女が注文したダイエット・コークは無く、通常のコークしかない。さらにコークに氷を入れる夫に彼女は「氷は悪い」と警告する。つまりは水質の悪さを用心するからであるが、こういう描写が鑑賞者を旅気分にさせて、上々の滑り出しで、ちょっと身を乗り出してしまう。
聾者で高校生の菊池凛子もたいしたもの。彼女のとる行動はマスコミ報道的には「不良」の一言でくくられそうだが、彼女のまっすぐな眼光はそんな安易さを跳ね返す力がある。母の死、ボーイ・フレンドをつくろうとしても障害者を忌避する社会の壁、そして筆談によっても自分の思いの熱さを伝えられないという思い、また伝えることを自己侮蔑的に諦めてしまったかのようなふてくされ、そんな背景のもと、直接的に肉体を押しつけていく。女子高生の肉体の「価値」を自分で知っている。これらの必然性、やりきれなさがなんともあっさりと、しかも力強く伝わってくる。人とつながりを持つために、セックスで短時間でそれを実現しようとするのだが、愛情への飢えは、いびつさのなかに「健常性」そのものとして、ちゃんとある。
メキシコ・アメリカの国境地帯の炎天下の砂漠に子供二人とともに取り残される家政婦のアドリアナ・バラッザ。彼女も印象に残る。子供を助けなければならないので、疲労困憊した子供を所定の場所にのこして人を探し回る。自分も疲れていて倒れそうだ。当然、心細さとハラハラ感がわき上がる、映画はよくやるようにはそれを安っぽく煽らない、またくどさもなく、私でも同じ状況ならば、あんな風な感覚に支配されるんだろうなあ、と自然に納得できる。等身大であり、身に覚えのある感覚が大切にされている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の腕前である。
ケイト・ブランシェットが銃弾に倒れてからのブラット・ピットは、夫としての理想像といえる行動をとる。手遅れになると死んでしまう妻を一刻も早く病院に搬送しなければならない。だがそこはアメリカではなく異国のモロッコ。近くの町の民家を借りて妻のつかの間の安静を保つ。救急車を呼ぼうとするが、政情の不安定やインフラの不備がかさなって思うに任せない。大使館にコネのある人物に連絡をとってねじ込ませようとする。彼は焦る、怒りをぶちまける、だがこらえて冷静になろうとする。頭をしぼる。自分にできることは全部する、そして妻の延命を祈らずにはいられない。彼は泣きたい、一時も妻の傍をはなることはない……。結婚したから夫でありつづけられるのではない。困難時にこそやるべきことをやってこそ、夫であることができる。ここはあらためて教えられるところだ。ともに待機させられたバスツアーの観光客はゲリラの襲撃をおそれて、ブラット・ピット夫妻を置いてきぼりにしたい。だが、ブラット・ピットにとっては妻の生還が一大事で、他人の命のことなど頭に入らない。バスは手元に置いておきたい。バスの客との喧嘩も辞さない。夫としての責務を果たそうとすれば、それくらいの姿勢でちょうどいいのではないかと、映画は訴える。
ブラット・ピットは格別上手くないのかもしれない。だが下手ではない。悪い方へ悪い方へ刻々と変化する状況の描き方が、シナリオ段階からたいへん細やかでリアルだ。そういう環境によって右往左往しかねない中での懸命の働きにはうたれる。予想を超えた事態が襲ってきて「強いられる」ということが何段も積み重なる。アクション・ヒーローのときのブラット・ピットのカッコよさとは違い、愚直と必死の偉大さでる。また、鑑賞者にとっても家族のありようとして突きつけられる痛みそのものである。ケイト・ブランシェットが小康にもどったとき、器をあてがって尿をさせる場面もいい。たぶん、いつもどおりに夫が傍にいることの安心感が彼女から溢れるのだろうし、「いつもどおり」と思ってくれることはブラット・ピットにとっても鑑賞者にとってもたいへん貴重だと思わずにはいられない。まさに家族の日常が蘇生する。
ケイト・ブランシェットをカメラは銃撃以前から、たびたび画面いっぱいのアップで撮る。これは彼女の悲しみと疲労の表情の微かさを定着させるためで不自然ではない。被弾することと事実としてはつながりはないが、不幸に不幸が重なるという連続性で見せられる。また、レストランでのランチの場面も細やかに描かれている。彼女が注文したダイエット・コークは無く、通常のコークしかない。さらにコークに氷を入れる夫に彼女は「氷は悪い」と警告する。つまりは水質の悪さを用心するからであるが、こういう描写が鑑賞者を旅気分にさせて、上々の滑り出しで、ちょっと身を乗り出してしまう。
聾者で高校生の菊池凛子もたいしたもの。彼女のとる行動はマスコミ報道的には「不良」の一言でくくられそうだが、彼女のまっすぐな眼光はそんな安易さを跳ね返す力がある。母の死、ボーイ・フレンドをつくろうとしても障害者を忌避する社会の壁、そして筆談によっても自分の思いの熱さを伝えられないという思い、また伝えることを自己侮蔑的に諦めてしまったかのようなふてくされ、そんな背景のもと、直接的に肉体を押しつけていく。女子高生の肉体の「価値」を自分で知っている。これらの必然性、やりきれなさがなんともあっさりと、しかも力強く伝わってくる。人とつながりを持つために、セックスで短時間でそれを実現しようとするのだが、愛情への飢えは、いびつさのなかに「健常性」そのものとして、ちゃんとある。
メキシコ・アメリカの国境地帯の炎天下の砂漠に子供二人とともに取り残される家政婦のアドリアナ・バラッザ。彼女も印象に残る。子供を助けなければならないので、疲労困憊した子供を所定の場所にのこして人を探し回る。自分も疲れていて倒れそうだ。当然、心細さとハラハラ感がわき上がる、映画はよくやるようにはそれを安っぽく煽らない、またくどさもなく、私でも同じ状況ならば、あんな風な感覚に支配されるんだろうなあ、と自然に納得できる。等身大であり、身に覚えのある感覚が大切にされている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の腕前である。
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