大洋ボート

孔雀

 中国の都会に住む5人家族。その長男、二男、長女の3人の半生が描かれる。文化大革命が終わった、というナレーションが最初にあるように、1970年代の後半が出発点になっている。これは、ようやく政治的束縛の重苦しい雰囲気から解放された、新しい自由な時代がこれからはじまるのだ、と誰もが希望を持ったことを意味するのだろう。特に長女のチャン・チンチューにとってはそうだ。飛行機の爆音が聴こえてきて、その方向を追って駆け出すと落下傘部隊の訓練の最中で、複数の落下傘がゆったりした軌跡を描いて、野原に降りてくる。その中の一人の兵士と知り合いになったチャン・チンチューはさっそく落下傘部隊の女性兵士募集に応募するのだが⋯⋯。

 このころの中国の家庭は一様に貧しかったのだろう。またこの一家においては長男の知能がすこし遅れていて、それが一家の負担になっているし、父母が何かにつけて長男の心配をするのが、妹と弟にとっては嫉妬をつのらせておもしろくない。だから妹(チャン・チンチュー)と弟は脱出願望にさいなまれるほどになる。それはまた、当然のことだとこの映画はやさしく描くのだ。チャン・チンチューは結局は入隊を果たせずに終わるが、落下傘を自転車にくくり付けて街中を走りまわる光景はなんとも微笑ましい、またたくましい。これは軍隊への未練ではなく、希望の象徴として落下傘はあるので、代わりのものが見つけられれば「象徴」は捨てられる。そうして彼女はアコーディオンを弾く初老の男とめぐり会う⋯⋯。

 チャン・チンチューは線がやや細いのに対して、長男の俳優はなんともゆったりした雰囲気を出して映画をなごませてくれる。かなりの肥満体で、体の動きに独特の緩慢さがある。ああ、これは一家のお荷物なんだなあ、と一目でわからせる存在だ。人の良さそうな微笑を絶やすことがない。母にことさら可愛がられて、できそうにもない結婚話にまで引っぱっていかれる。その様子もおかしいし、自転車乗りの訓練を一家全員に助けてもらってする光景も、何回も失敗して転んでしまい、おかしいうえに悲惨さがにじみでてくる。そして勤め先では案の定、いじめに会う。けれどおそろしいほど無抵抗だ。困惑のなかに微笑を保とうとする意思さえ感じられる。ふがいないのではなく、これは彼なりの不屈を示す選択かもしれないなどと考えてしまう。しかしまた、こういう彼の姿勢がつぎつぎにいじめを誘発してしまう結果になるのだろう。つまり私はいじめの快感をここでは思い出さずにはいられなかった。しかし大人になってからの彼は、かつて彼をいじめた職場の仲間にものすごい所を見せつけて、あっ気に取らせる。彼独特のやり方で、まったく無意識にやってしまうものだから、ここでも私は驚かされた。具体的には書かないが、長男の人柄の良さ、純朴さがよく表現された場面だ。それもほんの短い映像で示される。

 監督のクー・チャンウェイは監督としては初めての作品になるらしいが、チャン・イーモウなどの作品にカメラマンとして参加した経歴があるので、ベテランといってもいいのかもしれない。長まわしによるカメラの移動はまったくの自然体だ。風景の全体をゆっくり噛みしめるように、鑑賞者は味わうことができる。映像の連関性が、その対比と類似が大事にされていて、重要なことはすべて映像によって理解できる仕組みになっている。先ほど長男を例にして少し書いたが、他にもふんだんにある。例えば、チャン・チンチューがあこがれた落下傘に対応させるかのように、ラストのシーンでは動物園の孔雀が固定したカメラで映される。離ればなれになった一家が集まる機会があって、動物園を訪れた時のことだ。これは「希望」が青臭い過去のものになったのではなく、現実の生活とは一見とおいように見えながら、一家を、そして人々を照らし出す存在にまで高まった、むしろ「希望」に着実に近づいている、落着きの中でそういう位置を占めるに至った、ということを示す映像だろう。孔雀の羽は普段は閉じている。今に開くかな、と私はちょっと固唾をのんで見てしまった。

 それに、中国の都会生活の様子がたいへんわかりやすく撮られている。マンションともいえない高層住宅では、暑い季節、それぞれの家族が食卓を通路に出して食事をする。これは今の日本では考えられない風景だが、冷房のないところではいまだにつづいていると思われる。さらに、石造りの家や塀に囲まれた路地を疾走する自転車。これも中国だ。美しいとも思えないが、作り手の町のたたずまいへの愛着を感じさせるところだ。瓶の洗浄をする工場ではオートメーションの機械ではなく、一本一本をチャン・チンチューなどの女工が洗うのだ。(現在はともかく、70~80年代ではこうであっただろう)中国映画の美質は、日常性にどっしりと視座をすえて入り込んでいくところにある。日常性のなかに非日常性を垣間見せながらも再び日常性にもどってくる。その途方もないくらいの執着を感じさせるところにある。この映画もそのすぐれた一本として列に加わった。またクー・チャンウェイという頼もしい担い手が加わった。この監督は、対象に対して冷静さとやさしさと愛情を併せ持っている。

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青年と組織と行動(メモ)

青年が自己や世界の救済について理念的に興味を持つ、あこがれる。また同じような傾向をもつ青年がいて群れ集う。他方では、そういう青年たちを領導し、方向づけようとする指導者なり組織なりがある。いつの時代でもみられる風景だ。その昔のマルクス主義からオウムのような特異な宗派集団まで、規模の大小やら、社会体制への順応度のちがいなど、それこそ千差万別の組織が入り乱れて存在する。

そういう青年が組織に加入したとして、まず目指すのは第一には組織が喧伝する理念と論理の習得である。ここには現に生活する社会の通念や規範意識、あるいは常識とは相反する主張が、組織固有の教えとして含まれることが大いにありうる。そうすると、ここで青年において自己内確執がはじまっても当然である。思考の糸に忠実にしたがえば矛盾を解くことができず、組織からの離脱に至る場合もあるだろう。

組織に加入した青年が目指す第二は、組織が要請する行動への積極的な取り組みである。示威行動(デモ、集会、ストライキ等)や宗教的意味での修行と呼ばれるもので、自己の参加のみならず、多くの人々に呼びかけて参加を勧誘する。カンパ、お布施と呼ばれる資金集めも、行動に含まれる。組織を拡大したり維持したりするのには資金的支えが不可欠だ。ともかくも、そういうさまざまな行動形態に参加者はつき合わされる。

そうした行動のある部分において、強圧的だったり、暴力的色彩を帯びるならば、当然の如く社会の大部分は反発や非難を浴びせることになるだろう。またそれ以前から、組織のかかげる理念に批判的であった人々もいるので、これらの人々が、組織の理念とともにそのあり方に対してもさらに非難をかさねるだろう。(勿論、すべての政治や宗教的な組織が、私がここで書くような暴力的傾向にあるとはかぎらない。だが私は、私の念頭にあるモデルケースについてもう少し書いてみる)

すると、組織の側も参加者(構成員)をひるませないために、彼ら参加者に闘争心と確信を注入しようとする。思想はより単純化され、繊細さは捨てられる。洗脳である。また、敵対する組織の外の社会や別の組織に対してのみならず、参加者(構成員)に対しても暴力的強圧を加えることも少なくない。恐怖支配を作動させ、組織からの離脱の意思を封じ込める。この段階においては、もはや青年は純粋思考的に針路を選択することはできなくなっている。正しいかどうかではなく、当の組織にいつづけるかどうかの選択であり、「踏ん張れる」かどうか、なのだ。少し先の未来が見えてきてひるむこともあるだろう。極論すれば「俺はどうなってもいいんだ」という覚悟のみが、その場に青年をいさせられる。

外側からざっと眺めて、組織や青年がいかにも頽廃におちいっているように見える。だが組織や青年の内側から眺めた場合は「踏ん張る」ことは強靭さそのものとして受けとめられる。「強靭な精神」は組織が説き、かつ賞揚するものである。そして、そういう強靭さは外部的現実のなかの行動と結びつくことによってのみ実現され、はじめて「強靭」と呼ばれるものである。別角度から見れば心象のなかにある強靭さは、そういう現実的行動の照り返しである側面が大である。行動に身を呈することの連続性が強靭さを結果的に招来せしめるといえる。だから内部がいくらすり減っていようと、貧しかろうと、行動に結び付く状態がつづけられる限りは、外観的には強靭さは、かろうじて保たれることになる。

組織的行動の「正しさ」という側面はどうなるのか。行動に忙殺される青年には点検する余裕がないが、近い過去にそれを行った記憶があり、それに依存する。また個人以前に組織が「正しさ」を説く。青年はそれにも依存しゲタを預ける。当然であるが「正しさ」を頑迷に主張することも行動そのものである。
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鬼火(1996/日本)

鬼火 鬼火
原田芳雄 (2000/08/25)
ハピネット

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 殺人犯としての刑期を終え出所する原田芳雄。彼を迎えに来るのが弟分の哀川翔。原田は哀川の所属する組織の運転手として再出発するが、ピアノ弾きのアルバイトをしていた片岡礼子と知り合う。片岡は身内がひどい目に遭わされたことを打ち明け、復讐の助太刀を原田に依頼する。二人は親密になり、行動をともにする。

 ジャン・レノ主演の『レオン』によく似た話だ。またヤクザを素材にした映画も数多く、哀川翔や奥田瑛二もこの手の映画ではお馴染みらしいので、作り手がいかに二番煎じを避けて新鮮味を出すことができるかが課題となるだろう。その点、目先を変えることには成功している。ストーリー展開が小気味よく予断を裏切ってくれる。また、枝葉末節とも受け取られるカ所がすくい取られていて、薬味の効果を出している。

 目に付いたところを紹介すると、原田が店でお好み焼きをつくる場面がある。片岡礼子を前にして、まずお好み焼きを焼く。次に焼きそばをつくってお好み焼きの上にのせて、そのうえからソースやらマヨネーズやらをぬっていく。海苔をまぶす。原田の手さばきは堂に入ったものだ。表情がほころぶ片岡。ソースの匂いが漂ってきそうなうれしい場面だ。大げさに言えば、主人公の日常性への愛着と親和がよく表現されている。同じく日常性に対する原田の別の面を描いた場面。一時期働くことになる小さな印刷所の社長と将棋を指す。真剣に盤に向かう原田。一方の社長の方は、原田を将棋に誘っておきながら、まるでやる気が無く、ときには競馬新聞に没頭する。その無礼な態度に思わず激高してしまう原田。狼狽する社長にかまわずその場から立ち去る。主人公の潔癖さのあらわれだ。社長は彼なりの日常性に対する「愛着と親和」のやり方を持っているが、原田はそれに馴染むことができない、妥協できない、ということだろう。また原田のなかで「敵」に対する憎悪が連想されたのかもしれない。この二つの場面の対比はあざやかだ。後者の将棋の場面はまた、クライマックスにも内実としてつながっている。

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グッドナイト&グッドラック(2005/アメリカ)

グッドナイト&グッドラック 通常版 グッドナイト&グッドラック 通常版
ジョージ・クルーニー (2006/11/22)
東北新社

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 テレビキャスターのエドワード・マーレーの活躍を描く。1953~54年のアメリカでは、マッカーシー上院議員を発信源とするいわゆる「赤狩り」が猛威を振るっていた。目を付けられた人々が、確たる証拠もないのに、いきなり共産主義者のレッテルを貼られて職場を追放されたり、疑われて、マッカーシー主宰の査問委員会に呼びつけられたりした。新聞、放送などのマスコミは最初は沈黙したが、しだいにマッカーシーに対して反転攻勢をとる。エド・マーレーはその中心人物だった。

 モノクロの画面がなんとも冷たい感触で素敵だ。どういう仕掛けがほどこされているのか知らないが、通常のモノクロではない。それに人物を近くで撮るとき、逆光からカメラを据えたり、うすい陰に被われた顔を多く採用している。暗い部分に対するカメラの感度がそれだけ向上したのだろう。テレビでは、こういう場合、べったりと暗くなって被写体がまったく判別できないことがあるが、この映画はその難から逃れている。テレビでもこうだから、劇場の画面ではもっとすばらしい暗部だろう。また当時のテレビのモノクロ画面はいかにもそれらしい画質だ。これは現在の俳優が映るが、それだけ監督のジョージ・クルーニーはこだわっている。そしてマッカーシーも登場する当時の実写フィルム。ちょっとぼやけているが、なんだか暖かみがある。こういう三通りの画面の対照が面白い。

 それに当時の音楽のひとつの主流だったであろうリズム&ブルース。ロックンロールの出現の数年前という時代を端的に表現している。同じ放送局内の録音スタジオで黒人女性シンガーが小気味よく歌う。ああ、こういう歌を聴いたり、口ずさんだりして、人々は生きていたんだなあ、ここには二度と戻れないんだなあ、という感慨も抱かせる。

 上映時間が意外に短いので、肩すかしを食った感じがしなくもないが、マッカーシズムはまもなく終息することは周知の事実なので、ストーリー的な深追いは避けたのだろう。それでもマーレー役のデヴィッド・ストラザーンや相棒のジョージ・クルーニーはじめ、放送局の現場の人々が緊張感を抱きながら権力に立ち向かっていく様は、きっちりと伝わってくる。冷静沈着で毅然としていながら、しかし内面では薄氷を踏む想いをしている。クビをかけた戦いだから。脇の下にわずかに汗が浮き出るような感覚がないでもない。

 これも忘れてはならない。ところかまわず、ぷかぷか吸う煙草。本番中でもマーレーは煙草を片手に持って、くゆらせている。それがスタイルの時代だった。

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戦場にかける橋(1957/アメリカ)

3MY BOX 歴史大作 3パック 3MY BOX 歴史大作 3パック
ピーター・オトゥール (2005/12/21)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
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 日本軍捕虜収容所での出来事。早川雪舟(斉藤大佐)は連合軍捕虜をつかって鉄道橋建設を指揮していた。だが工事ははかどらず、期日までに完成することが危ぶまれるに至った。そこで早川はアレック・ギネス(ニコルソン大佐)以下の将校に恩赦をあたえて助力を請う。アレック・ギネスらはジュネーブ条約を楯にとって将校の労役をこばんで営倉送りとなっていたのだった。解放されたアレック・ギネスは、意外にも、それまでの不服従を一転するかのように早川の願いを引き受け、橋の建設を陣頭指揮するようになる。捕虜の団結と誇りを回復し、士気を高めよういう考えに基づいていた。また捕虜の待遇改善のためでもあった。一方、それよりも早く収容所を脱走し、九死に一生をえてイギリス軍基地にたどりついたウィリアム・ホールデン(アメリカ軍中佐)は、軍幹部から橋の破壊の作戦への参加をもとめられる。

 同じ連合軍でありながら、捕虜と正規軍との間の思想的対立がくっきり浮かびあがる。そしてこの対立は映像の対照としても引き継がれる。旧ビルマ・タイ国境付近にあるといわれる収容所は、緑が繁茂する山々にかこまれて灼熱の太陽がふりそそぐ、見るからに劣悪な環境下にある。そこで着たきりの汚れて破れた軍服で、労役に駆り出されるのだ。疫病で死者も頻出する。『大脱走』のようなのんびりした捕虜生活ではない。それに対して、ウィリアム・ホールデン以下の山岳行はのどかで開放的だ。またカメラが俯瞰的で、当然一カ所にとどまらない。青い山々のつらなりが美しかったり、同行の荷役の数人の女性たちとの水浴びの場面などまるでハイキングで、戦争のさなかとも思えないくらいだ。だが逆に、こののどかな映像が、クライマックスの苛烈さの前段として効果的にはたらく。

 戦争とは思想の対立にとどまるものではない。とくに作戦遂行は絶対的で、どんな妨害もためらわずに排除しなければならない。誰であっても殺さなければならないときもある。これを強烈に思い知らされるのがクライマックスの場面だ。ダイナマイトの導火線を発見したアレック・ギネスが、それをたどって起爆装置に近づいていく。傍にいる青年兵は誰であるか知っていて、融和的態度をとろうとする。川の対岸にいるウィリアム・ホールデンが「殺せ!殺せ!」と叫ぶ。映像のなかの人物に乗り遅れまいとして、私の中にも怪しいファイトがめらめらと沸き立つ瞬間だ。ウィリアム・ホールデンは取り憑かれたように必死の形相でみずからも泳いで渡る。「You!」「You」と驚愕の再会を果たして茫然となる二人。既に日本軍の銃撃が開始されたなかでだ。ここは熱い。

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バベル

 モロッコ、メキシコ、東京でそれぞれ展開される物語。少年や少女が好奇心や夢を追う、人とのつながりをもとめて大胆に行動する。また、幼い子供を亡くして傷心の真っ只中にいる女ケイト・ブランシェットがいる。一方では、それらの人を支え、いたわろうとする人がいる。また、正しい方向に導こうとする人がいる。妻ケイト・ブランシェットの夫ブラット・ピットであり、モロッコの貧しい二人の少年の父であり、東京の菊池凛子の父役所広司であり、菊池と対話する刑事の二階堂智である。また、ブラット・ピット夫妻の留守時に子供をあずかる家政婦のアドリアナ・バラッザである。

 ケイト・ブランシェットが銃弾に倒れてからのブラット・ピットは、夫としての理想像といえる行動をとる。手遅れになると死んでしまう妻を一刻も早く病院に搬送しなければならない。だがそこはアメリカではなく異国のモロッコ。近くの町の民家を借りて妻のつかの間の安静を保つ。救急車を呼ぼうとするが、政情の不安定やインフラの不備がかさなって思うに任せない。大使館にコネのある人物に連絡をとってねじ込ませようとする。彼は焦る、怒りをぶちまける、だがこらえて冷静になろうとする。頭をしぼる。自分にできることは全部する、そして妻の延命を祈らずにはいられない。彼は泣きたい、一時も妻の傍をはなることはない……。結婚したから夫でありつづけられるのではない。困難時にこそやるべきことをやってこそ、夫であることができる。ここはあらためて教えられるところだ。ともに待機させられたバスツアーの観光客はゲリラの襲撃をおそれて、ブラット・ピット夫妻を置いてきぼりにしたい。だが、ブラット・ピットにとっては妻の生還が一大事で、他人の命のことなど頭に入らない。バスは手元に置いておきたい。バスの客との喧嘩も辞さない。夫としての責務を果たそうとすれば、それくらいの姿勢でちょうどいいのではないかと、映画は訴える。

 ブラット・ピットは格別上手くないのかもしれない。だが下手ではない。悪い方へ悪い方へ刻々と変化する状況の描き方が、シナリオ段階からたいへん細やかでリアルだ。そういう環境によって右往左往しかねない中での懸命の働きにはうたれる。予想を超えた事態が襲ってきて「強いられる」ということが何段も積み重なる。アクション・ヒーローのときのブラット・ピットのカッコよさとは違い、愚直と必死の偉大さでる。また、鑑賞者にとっても家族のありようとして突きつけられる痛みそのものである。ケイト・ブランシェットが小康にもどったとき、器をあてがって尿をさせる場面もいい。たぶん、いつもどおりに夫が傍にいることの安心感が彼女から溢れるのだろうし、「いつもどおり」と思ってくれることはブラット・ピットにとっても鑑賞者にとってもたいへん貴重だと思わずにはいられない。まさに家族の日常が蘇生する。

 ケイト・ブランシェットをカメラは銃撃以前から、たびたび画面いっぱいのアップで撮る。これは彼女の悲しみと疲労の表情の微かさを定着させるためで不自然ではない。被弾することと事実としてはつながりはないが、不幸に不幸が重なるという連続性で見せられる。また、レストランでのランチの場面も細やかに描かれている。彼女が注文したダイエット・コークは無く、通常のコークしかない。さらにコークに氷を入れる夫に彼女は「氷は悪い」と警告する。つまりは水質の悪さを用心するからであるが、こういう描写が鑑賞者を旅気分にさせて、上々の滑り出しで、ちょっと身を乗り出してしまう。

 聾者で高校生の菊池凛子もたいしたもの。彼女のとる行動はマスコミ報道的には「不良」の一言でくくられそうだが、彼女のまっすぐな眼光はそんな安易さを跳ね返す力がある。母の死、ボーイ・フレンドをつくろうとしても障害者を忌避する社会の壁、そして筆談によっても自分の思いの熱さを伝えられないという思い、また伝えることを自己侮蔑的に諦めてしまったかのようなふてくされ、そんな背景のもと、直接的に肉体を押しつけていく。女子高生の肉体の「価値」を自分で知っている。これらの必然性、やりきれなさがなんともあっさりと、しかも力強く伝わってくる。人とつながりを持つために、セックスで短時間でそれを実現しようとするのだが、愛情への飢えは、いびつさのなかに「健常性」そのものとして、ちゃんとある。

 メキシコ・アメリカの国境地帯の炎天下の砂漠に子供二人とともに取り残される家政婦のアドリアナ・バラッザ。彼女も印象に残る。子供を助けなければならないので、疲労困憊した子供を所定の場所にのこして人を探し回る。自分も疲れていて倒れそうだ。当然、心細さとハラハラ感がわき上がる、映画はよくやるようにはそれを安っぽく煽らない、またくどさもなく、私でも同じ状況ならば、あんな風な感覚に支配されるんだろうなあ、と自然に納得できる。等身大であり、身に覚えのある感覚が大切にされている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の腕前である。

    03:18 | Trackback : 6 | Comment : 0 | Top

存在の耐えられない軽さ(1988/アメリカ)

存在の耐えられない軽さ 存在の耐えられない軽さ
ダニエル・デイ・ルイス (2006/01/27)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 1968年の旧チェコスロバキア。トマシュ(ダニエル・デイ・ルイス)はプラハに住む医師。ある日、手術のために小さな町に出張するが、そこでテレーザ(ジュリエット・ビノシュ)とめぐり会う。トマシュにひとめ惚れしてしまったテレーザは彼を追いかけて、プラハへ行く。だがトマシュはもてる男で自由奔放な異性関係を満喫していた。サビーナ(レナ・オリン)という画家とは以前から関係がつづいていたし、他の女性にもつぎつぎと手を出していた。テレーザはやがて、彼のそんなだらしなさに気づくが、結婚してしまう。おりしも自由化を目指す「プラハの春」が最高潮に達していたときだったが、ソ連軍がそれを蹂躙しようとして、戦車とともにプラハに大挙押し寄せて来る……。

 欲張った映画だ。男女の三角関係のうえに、政治的動乱まで描こうとしているが、後者はマスコミ報道で接した印象以上のものはない。古いニュースフィルムと映画用に撮影された事件の様子がたくみに合成されているが、その腕前は今日ではめずらしくはない。上映時間も3時間近くで、長すぎる。

 だが役者はいい。ジュリエット・ビノシュは純朴で一途な地方出身の娘という役柄に見るからにぴったりであるし、レナ・オリンも都会的に洗練された雰囲気を身につけている。そのうえ、気だるさのなかに愛情への飢えを秘めていることもわかる。ダニエル・デイ・ルイスも、女にもてることはこういうことかもしれないという、一見自信過剰と傲慢の雰囲気を発散するなかに節度がちらちら見える気がして、男からみても何とも不思議な人物像だ。

 いいなあ、と思った場面は、写真家志望のテレーザが、サビーナに懇願してヌード撮影をするところ。撮影が進むにつれて二人はみるみるうち解けあって笑い、そして涙する。セリフでの説明がないからこそ、その意味が直截に伝わってくる。同じ男を愛してしまった、だがその男は、どちらの女ともさらに関係を続けようとする、このままではたまらない、私たちはどうしたらいいかわからない、だがそれでも私たちはその男がやはり好きだ、という女二人が同じ情念に絡め取られていることの相互認識であり、相互の憐れみだ。私は妻妾同居という言葉がよぎったが、女性二人はそんなことで難問が解決するとも思わないだろう。

 原作(ミラン・クンデラ)は知らないが、三角関係ははげしい諍いに発展するすることもなく、いかにも映画らしく甘く、夢のように解決する。その後、プラハの春の終焉の影響もあって、トマシュは医者ではいられなくなるが、自信過剰のジュリエット・ビノシュの面構えにはいささかの変化もない。

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