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三浦しおん『まほろ駅前多田便利軒』

まほろ駅前多田便利軒 まほろ駅前多田便利軒
三浦 しをん (2006/03)
文藝春秋

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 多田啓介は東京都まほろ市で便利屋を開業している。犬の預かりや、親族に代わっての入院中の老婆の見舞い、小学生の塾への送り迎えなど、何でもしなくてはならない。そんな彼が正月早々、高校の同級生だった行天晴彦と市内のバス停で思いがけず再会してしまう。行天は住む場所を無くしたうえ、無一文だった。ついてくる行天を押し返すことができず、多田は数日間の宿泊くらいのつもりで自宅に泊めてやるが、行天はそのまま居着いてしまって、便利屋の手伝いをすることになる。もっとも、行天は高校時代無口な男で、多田は彼とは一言も話したことがなく、友人といえる間柄ではなかった。そんな彼が何故行天の世話をするのも同様のあつかいをあえてするのか、読み進むにつれて明らかになる。少し言えば、行天は高校時代、工芸室でカッターを操作している最中に小指を切断した。ふざけて暴れていた生徒があやまって身体をぶつけたからだが、多田もそこに居合わせた。幸いにも小指は縫合することができたが、多田はずっと秘密にしていたことがあった。つまり行天に対する負い目だ……。

 その一件も大いに関係するものの、これは正常な家族をつくれない者たちの物語だ。大人がそうならば、その影響はじかに子供に及んでくる。また、家族の正常性という基準に無自覚であるならば、本人(親の場合もある)は痛痒を感じないであろうし、子供も生まれたときからそういう家庭環境ならば、正常性に無自覚でありつづけるだろう。たとえば、親に放任されて体よく塾通いをさせられる子供は、麻薬の運び屋をしてしまう。別の章では親にもっとひどいあつかいを受ける子供がいる。耐えきれなくなって事件を起こしてしまうのだが……。他にも駅前で客引きをする娼婦や、彼女らを管理するヤクザなどが登場する。こういう出来事のかずかずを、読者は「正常性」の幻想を基準にして読み進んで行く。

 だがそれだけではない。主人公の多田も「助手」の行天もともにバツイチであり、正常な家庭を築くことができなかったという苦い思いを引きずっている。(多田は子供を亡くしてしまってさえいる)パートナーの女性が裏切った。または、一風変わった人となりで独特の生活感の持ち主であり、ということだが、原因を一方的にパートナーに押しつけることはなく、とくに多田には過去の自分の至らなさにこだわっている。求めることを相手が裏切った場合、なお信頼をゆるぎないものとして持続させていけるのか、という問題意識だ。その点、人間はおもわず弱さを露呈させてしまうもので、多田は復讐心から自由ではなかった。この弱さが、多田から「正常」な家族の維持を奪ってしまう。原因はそれだけでもないだろうが、少なくとも多田自身は自責によってそうふりかえる。行天の方は、元妻からひどいあつかい方をされたが、詳述を避ける。この部分もかなりおもしろい。

 

多田と行天は、たぶん似たような空虚を抱えている。それはいつも胸のうちにあって、二度と取り返しのつかないこと、得られなかったこと、失ったことをよみがえらせては、暴力の牙を剥こうと狙っている。だが、そちら側には行くなと凪子は言う。行ってはならないと。
 あの夜、あのバス停で俺と会ったことで、行天はなにか変わったのだろうか。そうは思えない。深い深い暗闇に潜ったことのある魂、潜らざるをえなかった魂が、再び救われる日が来るとは、多田には思えなかった。(p192、凪子は行天の元妻)


 私たちもまた毎日、家族の「正常性」の営みに参加している。平穏な日々がつづけばそれは楽な所作に見えるが、一旦厄介事に見舞われたとき「正常」を支えるべき忍耐や信頼を私たちもまた試される。そしてまた、過去にまつわる怨念にも私たちは身に覚えがある。その怨念を見極めるためには、それを何回も引き寄せては、想像の中でさらに徹底して自己同化してしまう、ということも避けられない。そこを通過することによってしか、怨念は客観化できないのではないか。その客観化の度合いによって私たちの現在的な「正常性」もまた試される、ということだろう。
 
 この小説、文体は平易であるが、なかなか読み進めなかった。作者が多田や行天をとおして、真面目な部分に対して距離を取ろうとするのだが、その取り方に馴染めなかったのか。真面目さに対置されるぐうたらさ、まほろ市が醸し出す風俗の細部への目配り、などが私には平板に感じられた。

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緋牡丹博徒 お竜参上(1970/日本)

緋牡丹博徒 お竜参上 緋牡丹博徒 お竜参上
藤純子 (2004/11/21)
東映

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 藤純子(矢野竜子)は嵐寛寿郎が親分の組の賭場を借りて生業を立てている。嵐は浅草一帯で演劇の興行を中心にして縄張りをはる。そこへ触手を伸ばすのが新興勢力の安部徹の組織。暴力的に嵐の組織をつぶしにかかるが、藤純子が任侠心によって嵐の組に助太刀をするというおなじみのストーリー。別のもめ事で安部徹の組員を殺してしまった菅原文太も藤と行動を共にする。

 この頃の邦画は勢いがないと感じるのは私の偏見だろうか。俳優もスタッフもいつも同じ顔ぶれで、話も毎回似たり寄ったり。予算節減のためか、セットは簡略で、エキストラの人数も少なくさびしい。そんななかで、やはり藤純子の凛々しさは当時の女優としては稀なものだと思う。まだ二十代前半で、主演女優として押しも押されもしない存在になっている。

 一旦、故郷へ逃げることになった菅原文太を藤が見送る場面が印象的だ。場所は木橋で雪が降っている。着流し姿の菅原に、ふくさで包んだ重箱らしきものを餞別に持たせようとする藤。ためらう菅原だが、そのときふくさから蜜柑がひとつこぼれ落ちる。鮮やかな色の蜜柑をあわてて拾おうとする藤純子。あっ、これはほのかな恋心だ、と私はすぐに合点してしまう。勿論二人の間に生まれた恋心だ。恋心を語るセリフはいっさい無いが、鮮やかな朱色の蜜柑が何よりもそれを雄弁に語る。加藤泰監督のこの部分の演出にはうなる。

 他では、安部徹らが恋人同士の若い男女をリンチにかけるところか。女は盲目の舞台女優で、浅草の舞台で公演中。つまりは嵐寛寿郎の組に親近感を持つ。一方、男は安部の組のチンピラだが、当然女を助けようとする。ニタニタしながら二人をいじめ抜く安部徹ら。ここでの加藤演出はなんともねちっこい。

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ジェームズ・ライゼン『戦争大統領』

戦争大統領―CIAとブッシュ政権の秘密 戦争大統領―CIAとブッシュ政権の秘密
ジェームズ ライゼン (2006/09)
毎日新聞社

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 著者はニューヨーク・タイムズの記者。豊富な取材活動によって、2001年9月11日の同時多発テロ以降の、ブッシュ政権の戦争政策を批判的にあぶり出している。政権内部の力関係や、それにもとづく政策決定過程の見取り図がたいへん興味深い。

 それによると、アフガン侵攻からイラク戦争までの戦争遂行を主導的に推し進めた人はラムズフェルド国防長官である。彼の側近であり、ネオコンの主要イデオローグといわれるウォルフォウィッツ国防副長官、チェイニー副大統領らとスクラムを組んで、政府内の反対派や懐疑派、穏健派の意見を排除していった。中道主義者といわれるパウエル国務長官(ブッシュ政権第一期)の政治力は無力化された。またコンドリーザ・ライス国務長官(ブッシュ政権第一期では国家安全保障問題担当大統領補佐官)は大統領とラムズフェルドとの間の調整役を期待されたが、それらしい活躍は皆無に近かったという。そして、ラムズフェルドらは政策決定過程の迅速化に成功した。各省庁やら議会、大企業、さらには主要な外国 まで気遣っての根回しと利害調整が、それまでのアメリカ政府の政策決定の伝統的な方法だったが、大部分無視され、独裁的ともいえるやり方で戦争が推進された。情報収集の一元的支配にもラムズフェルドは成功したという。軍事関連情報は軍、CIAをはじめとして複数の機関に跨っているそうだ。

 なかでもこの本のなかで一番やり玉にあげられているのがCIA長官のテネットである。ライゼンによれば、彼はみずからの政府高官の地位を長引かせたいがために、ラムズフェルドに意見の具申らしいことはしなかった。CIAは諜報機関だからCIAなりの情報分析と識見を有しており、特にラムズフェルド一派のイラクへの予断的分析には懐疑的であったが、何も言わなかった。このことはCIAの多くの上層部職員を落胆させ、士気を低下させたそうだ。ラムズフェルド派は亡命イラク人組織INC(イラク国民会議)のアフメド・チャラビを厚遇した。また、イスラエルの諜報組織モサドの情報も欲しがった。いずれもが、イラクの大量破壊兵器所持の推測に肩入れしていたのだが、CIA上層部は両者に対してともに低い信用しか置いていなかった。だが、テネットはその問題について、ラムズフェルド派に注意を喚起するどころか、テネット自身もまた、CIA内での孤立を怖れることなく、あろうことか大量破壊兵器所持という予断を支持する側に回ってしまった。(イラク戦争の前年の2002年にCIAは大急ぎで、イラク人科学者の親戚をスパイに仕立ててイラクに送り込んだが、大量破壊兵器の所持、生産の証拠は無かった。否定的な材料がすべてだった。だがテネットはその立場をとらなかった)

 イラク戦争の大義名分は、イラクによる「大量破壊兵器の所持」であり、フセインごとそれを排除することであったが、今日では大量破壊兵器など無かったことが明らかになっている。だが、ラムズフェルド派は自分たちの先入見に異常なほどこだわった。これは何故だろうか、本書を読んでもピンと来ないところだ。彼等が自分たちの推測にほんとうに自信を持っていたのか、それとも大量破壊兵器はイラク戦争を始めるにあたっての口実に過ぎなかったのか、また第二の9.11を怖れるあまり冷静さを欠いていたのか、早晩崩壊するであろうイラク地域の権力の空白を怖れたのか、またそれを例えば隣国イランへ地理的に圧力をかけるためのチャンスと見たのか、ラムズフェルド派の心のなかを標的にして、私のシロウト推測は駆けめぐる。
 
 ビン・ラディンとサダム・フセインとの結びつきもイラク戦争以前には取りざたされたが、それもどうやら無かった。さらにはイラクの戦後復興政策の構想をラムズフェルド派はなんら持ちあわせていなかった。そのためか、有能な行政手腕の持ち主であろうバース党幹部を大部分追放してしまったという。(これはシーア派対スンニ派の対立構図をアメリカみずからが用意してしまったに等しい)また、復興には民生向上のための援助物資が不可欠だが、ラムズフェルド派はそういうことに関しては不得手なのか、もっぱら軍事的手段(兵員と武器)の投入に執着した。アフガニスタンでも復興はおろそかにされて、その一方では、麻薬生産がタリバン支配以前にもまして激増したが、アメリカは見て見ぬふりをしているという。

 本書を読んで一番唖然とするのは、主役であるべきはずのジョージ・ブッシュ大統領に関する記述が異常に少ないことだ。ジェームズ・ライゼンは新聞社に属する人だから、推測の域を出ないことは軽々に書けないことはわかる。大統領その人に関する情報も入りにくいのかもしれない。イラクでの選挙実施に一番熱心だった人くらいの扱い方しかしていない。そこでまた私のシロウト推測は駆けめぐる。ブッシュはラムズフェルド派と同質の意見でありながら、政府内での汚れ役、面倒ごとの処理役を彼等に任せたのか、それとも逆に彼は無定見に近い人で、体裁良くラムズフェルド派に丸め込まれてしまって、スポークスマンに成り下がったのか。この辺もいずれ、つまびらかになる日が来るだろう。

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柴崎友香『その街の今は』

その街の今は その街の今は
柴崎 友香 (2006/09/28)
新潮社

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 「歌ちゃん」と呼ばれる二八歳の女性が主人公。以前勤めていた会社が倒産して小さな飲食店でアルバイトをして食いつないでいる。その店「シュガーキューブ」は大阪の東心斎橋にある。私は大阪の人間だから少しは知っているが、その一帯はビジネス街と大小の飲食店、売店が混在しているところだ。道路が狭いわりに人や車の行き交いが多い。駐輪自転車も多く、活気がある。すぐ近くには心斎橋筋や大丸、そごう百貨店など商業施設もあり、大阪の中心地といっていい。主人公はこの街一帯に愛着をもっていて仕事に遊びに精を出す。小説はそんなせせこましさや、職業や人間関係にもからむあわただしさ、多くの人が発散する活気、風俗、つぎつぎに壊されては建て替えられていく建築物など街の外観等々が、主人公歌ちゃんの一人称形式で丹念に描きこまれる。

 主人公はまた、大阪の街の古い写真が好きで蒐集している。そこに彼女は趣味という以上に思い入れを込める。大丸は今も昔も変わらぬ外観だが、ほとんどの建物は消えてしまって現在の新しいものに建て替わっている。そして昔同じ大阪の街に住んでいたりたまたま来訪した人々が写っている。主人公はそういう写真のなかの昔の街と今の街を、何度も何度も往還する。往還することによって何かしらゆったりした時間が生まれるのを自覚する。特にそれが何かの役に立つということもないが、「自分」というものの幅を広げる作用がある。幸福感さえにじみ出してくる。写真のなかの街と今の街はわずかに同じものを残すが、様子はまったくちがう。しかし「同じ場所」である。写真の人々と自分は赤の他人だが、人々の未来を今の自分が生きている気がする。あるいは逆に自分の未来の姿ででもあるかのように人々が映る。古い写真はこのように、漠然とはしているものの執着を断ちがたいいわば大きな一体感を主人公に与えてくれるのだ。虚構といってしまえばそれまでだが、このふっくらとした感情は主人公に自信を与え、彼女をやさしくする。そしてまた古い写真にまつわるそういう時間が、現在の時間のあわただしさと二重になるのだ。現在が嫌いだからではなく、現在だけのたよりなさ、かぼそさ、不安、そういった感情の貧しさのようなものに息吹を与えるものとして、古い写真はある。

 「歌ちゃん」の友達づきあいは受身に見える。だがそうではなく友人が根本的には好きだからだ。そこにはわずかに諦めがあるように思える。それは友人とはいっても、こちらから選び取るものではなく偶然によって与えられるものだという謙虚さと重なっている。それならば与えられた友人との時間を大切にしようという思いが占める。異性に関心いっぱいの彼女たちは何回も合コンをする。歌ちゃんもついていく。だがメムバーの誰もが恋人づきあいに発展するような相手にはめぐり会うことができない。表面は華やかでも空疎な時間を彼女たちはもてあます。そして歌ちゃんのボーイフレンドは意外なところから出現する。歌ちゃんはまた、以前不倫関係にあった男とも淡い交際をつづける。一見して女性に持てそうなタイプだが、そんなタイプだからこそ歌ちゃんはあこがれる……。

 主人公の感情表現はもの足りないくらいだ。だが、恋愛とはそこに流れる時間を大事にすること、自分から断ち切らないことによって継続するのだし、その結末も予想外に早くやってくるが、それを押し返そうとしないこと、勿体ぶらないこと、素直になることを主人公は選び取る。異性関係といい、友人づきあいといい、仕事といい、せわしない時間がいっぱい詰まっている。だが、それらに不平不満はあるものの、根本的な次元で好きならばそこに流れる時間を選び取るしかない。大げさではなく、それは運命といえる。異性と結ばれたとすると時間もまた変わるのだろう。それに対して怖れはあるものの根本的には受け入れる。そんな大人にふさわしい覚悟も歌ちゃんから透けて見える気がする。

「そらそうやけど。なんていうか、自分が今歩いているここを、昔もあるいてた人がおるってことを実感したいねん。どんな人が、ここの道を歩いてたんか、知りたいっていうたらええんかな? 自分がいるとこと、写真のそこがつながっているって言うか……。だんだんなに言うてるんかわからんようになってきたけど」
 言葉を選んで言っているつもりなのに、写真を見た瞬間のあの実感を説明するのには全然たりなかった。最初に空中写真で焼け跡の心斎橋を覗き込んだときの、あの感じ。何とかして、あの感じやそれ以上の感覚をもたらすものに出会えないかと思って、私は写真や映像を見ている。(p116)

 
 だが歌ちゃんは出会ってしまう。あらたな写真や映像ではなく、実際の街の景物のなかにそれを発見する。本の裏側の表紙帯に書かれているので詳述しないが、写真で見た光景のモノクロが見事に色彩を付与されて出現するのだ。詩人がよく、詩と詩でないものという言い方をするが、主人公は詩に出会い、確立された詩のイメージと感情を獲得してしまう、そんな瞬間である。そしてこの直後読者は小説を読み終わるのである。
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ブラッド・ダイヤモンド

 1999年の西アフリカはシエラレオネ。政府軍と反政府軍RUFとの間で激烈な内戦の真っ最中。そんななかへ、武器とダイヤモンドの密輸ブローカーのレオナルド・ディカプリオは単身で赴く。商談は成功するが、リベリアへの国境越えの際に政府軍の警備隊にあえなく捕獲される。一方、現地住民のジャイモン・フンスーはRUFの襲撃に遭遇し、一命をとりとめたものの、一家離散の憂き目に遇う。やがて二人は刑務所で出会い、ディカプリオはフンスーの大型ダイヤを隠し持っているという噂を耳にして、釈放後に彼に接近する。

 ダイヤ獲得に並々ならぬ執念を燃やすディカプリオの前半の演技は、すっきりしていてわかりやすい。フンスーの面倒をみたり、身をもって助けたり、ジャーナリストのジェニファー・コネリーや傭兵部隊の協力をえて彼の家族をさがしたりとの大奮闘も、ダイヤ欲しさからくるのだろうと納得できる。だがその行動は、いつの間にか自己犠牲も厭わないほどのフンスーを助けるためのものに変容する。善人でも悪人でもないひとかどの商売人が、善人に変貌するのだ。ディカプリオが主演した『タイタニック』と同様な行動ぶりだ。この変貌が腑に落ちない。なんだか演技的に無理をしているように見える。したがって、後半の彼の演技は濁ってしまった印象がある。

 ジャイモン・フンスーにとっては、ディカプリオの援助は渡りに船だろう。現地人は自己を助けてくれる先進国人に従順なのかもしれない。この場合はRUFはフンスーにとってディカプリオが出現する以前から恨むべき集団なのだが。だがアフリカ人にとっては友好関係にある先進国人の敵の先進国人は、そして敵の先進国人にあやつられた現地人の集団は、必然的に敵となってしまうものだろうか。そうだとすれば内戦劇は、そういう現地人の敵対意識にもあおられることにもなるのだろう。瑣末な部分の推測だが。

 ダイヤの売買は先進国においては自由競争だろう。資本主義だから競争がたてまえだし、制度としてそれは維持しなければならないのだろう。だが先進国圏内での業者間の競争が、資源のある途上国に持ちこまれると血みどろの争いに発展しかねない。Aというダイヤをあつかう会社が途上国政府を援助すれば、B会社は反政府勢力に援助の手をさしのべてA社の独占を切り崩そうとする。(当然、ディカプリオのようなブローカーも暗躍するだろう)十分に考えられることだ。映画では、ベルギーのダイヤシンジケートがダイヤ価格の下落を食い止めるため「RUFにダイヤをばらまかせない」とのディカプリオによる指摘があった。政府軍や傭兵を使ってRUFを軍事的に弱体化させようという意味だろう。つまりは先進国圏内での自由競争を維持しつつも、より平和的な資源国に対する共通のルール作りがなされなければ、事態は改善されないのではないか。ダイヤは奢侈品ではあるが、先進資本主義にとっては深く浸透していて、不買運動などによっては排斥することができないものである。途上国にとっても重要な外貨獲得品で、環境破壊のような問題がないかぎりは秩序ある輸出は必要不可欠だろう。

 大音響による銃撃戦のドンパチも、後半になると飽きてくる。

    23:05 | Trackback : 2 | Comment : 0 | Top

青山七恵『ひとり日和』

ひとり日和 ひとり日和
青山 七恵 (2007/02/16)
河出書房新社

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 若い人が社会に出る、自立するとはどういうことだろうか。人に役に立ちうるだけの技術や知識を最低限身につけなければならないのは自明だが、その他にもモラルや礼儀、周囲の人に対する善意や心配りが要求されるだろう。それらができたうえで、職種が希望に合っていたり、周囲の人が親切でやさしかったならばいうことはない。さらに、同性、異性の友ができればもっといい。だが、こういう具合に自他の環境にめぐまれることは稀なことかもしれない。つまり多くの若い人が完全さから落ちこぼれるだろうし、落ちこぼれないまでも、すっきりしない気分に見舞われる人もいるであろうことが想像できる。つまりは「自分らしさ」からのズレの意識だ。たとえば「型にはめられる」、「流される」というような居心地の悪さやちょっとした喪失感、それくらいの気分ならまだしも、外側から見るといかにも大げさな、はたまた妄想的な被害者意識か、それを反転しての反抗意識に陥ってしまう場合だってありうる。そこまで行き着いてしまうと、自分でも統御ができなくなる。範囲をひろげ過ぎたが、若い人のそういうズレの感情や意識は、社会や職場に慣れるにしたがってはたして解消されていく一過性のものか、いついつまでも引きずるものか。これはとても、若い人というだけで一括して語ることなど、できない。まさに若い人の人の数だけの「症例」と物語があるのだろう。
 
 この小説の主人公知寿も二十歳を過ぎたばかりで、そういう社会に対する不適合性を抱えた若者の一人だ。外側から見ると、そこそこの善意と明るさを備えたごく普通の若い女性に見えてしまうが、そうではない。彼女には盗癖がある。それも被害者が無くしてもたいして痛痒を感じないであろう小物を選んで盗む。煙草の一本、小さな人形、学生時代ならば、消しゴムやクリップなどを、親しい距離にある人からこっそりいただくのだ。つまり知寿は二重構造を抱えた女性だ。自立しなければならない、善意をふりまかなければならない、それは正しいことだし、自分もやって行かなくてはならない。それがわかっていても、あえて盗癖を矯正しようとはしない。矯正しないことが、彼女にとってはバランスをとることらしい。どちらの彼女も真実だし、どちらか片方だけをとりだしても彼女の肖像にはならない、ということだ。

 

急に涼しくなった。
 夏が、終わるのである。
 藤田君、吟子さん、ホースケさん、わたし、の四人で、庭で花火をした。藤田君とわたしは両手にいくつもの花火を持って、めちゃくちゃに踊ってみせた。お年寄りたちはそれぞれ一本ずつ試して終わった。燃やすものがなくなって、縁側でおとなしくビールタイムになったころ、わたしはお代わりを取りに台所に行った。テーブルの上に、ホースケさんのセカンドバッグが置いてある。チャックが開いて、中身が半分飛び出している。覗いてみてもたいした物は入っていなかった。お守りのついた家の鍵、しわしわのハンカチ、黒い財布、本屋のカバーがかかった文庫本、仁丹、飴二つ。もらうなら仁丹だな、と思い、ケースごとポケットに滑り込ませた。(p84~85)


 この小説の構図を凝縮した場面だ。知寿は集いに溶け込んで幸福である。他の人も楽しんでいるし、行く夏を惜しむ気分に気楽にひたっている。だがその一方では、知寿は小さな悪をやめないのだ。楽しみたい、だがそれは嘘ではないのか、動かなければならない、だが動きたくない、という奥底の半分無意識のような意志を、知寿は盗みによって自己確認したがっているように受け取れる。

 吟子は知寿の母の遠縁にあたる人で七十歳を過ぎた老婆だが、理解力と包摂力をもった人として描かれる。知寿が埼玉から東京へ出て来たときの寄宿先の家主で、猫二匹と優雅に暮らす独居者である。死んでしまった愛猫の写真の二十匹ほどを鴨居にずらりと飾り付けてあるのは少し無気味だ。だが知寿は吟子のいわば知恵袋に教えられる。たとえば人生には悲しみも喜びも両方がある、どちらか一方ばかりで占められることはない、という意味のことを諭されるのだが、知寿には喜びも悲しみも理解しえていないのではないか、という不安が、居心地の悪さがつきまとう。知寿にとっては、吟子は理想の人かもしれないという思いも抱きつつ、故のない反発心をも向けてしまう存在だ。ホースケは吟子のボーイフレンド、藤田は知寿がアルバイトの職場で知り合ったボーイフレンドである。また、知寿の母は長期間の中国出張からたまに帰ってきて、知寿と親子ごっこのようなこともする。「血のつながり」の問題として重要だが、省略する。

 読者は知寿の手癖を責める気にはならない。盗癖でないにせよ、自分にもそれに近い出来事や心情があったのではないかと、なつかしささえ覚える。そう思わせただけで成功で、作者は知寿の盗癖に深い分析はくわえないし、知寿による自己分析も最小限だ。そしてまた、二重構造をもつ知寿が、親しい人から何かしらうち解けがたさを嗅ぎとられてしまうことも書き忘れない。人間には肌合いがあって、それが本能的に働くからだ。盗みが発覚しても指摘しないのかもしれないし、それ以前に嗅覚が働いてしまうからかもしれない。そういう人は無論、知寿をとおざける。反対に、知寿自身が、結果的に親しい人からうとまれる存在であることを知るのは、親しい人は勿論、読者や作者よりも遅い。ここがまたこの小説の憎いところだ。そういう時間のズレが、作者のおそらくは自画像に近い知寿という女性の輪郭をくっきりとさせている。そしてまた、知寿は吟子はじめ親しかった人の世界から去って行きもする。そこは自覚的で、単に忌み嫌われた者として自分を扱ってはいない。泣きじゃくったりはしないが、別れのつらさ、痛切さが、ボディブローのようにじわじわと責めてくることを知寿は自覚する。はじめて味わう「悲しみ」なのかもしれない。文体は軽さと丁寧さがあって読みやすく、しかも上品だ。
 
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ナバロンの要塞(1961/アメリカ)

3MY BOX 歴史大作 3パック 3MY BOX 歴史大作 3パック
ピーター・オトゥール (2005/12/21)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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 第二次大戦下のエーゲ海。ドイツ軍の駐留するナバロン島には巨砲が据えられていて、航行するイギリス軍の船舶がことごとく沈められていた。ある島ではイギリス軍部隊が救援を待ち望んでいる。そこで連合軍はグレゴリー・ペックをキャップとするナバロン島攻略のための少人数からなる特殊部隊を編成する。部隊のメムバーは他にデヴィッド・ニーヴン、アンソニー・クインら。

 戦争スペクタクルだが、その点で印象に残ったのは嵐のシーン。島にたどりつくために漁民になりすました一行が、おんぼろ漁船に乗り込んでの航行となるが、その途中で嵐に遭遇する。実際の時化の映像とスタジオセットでの撮影が巧みに織りまぜられて迫力がある。劇場の大画面で見たならもっと満喫できるのだろう。 

 戦闘とともに傷病者やスパイの問題が扱われている。傷病者は担架で運搬しなければならず、少人数の部隊には負担になる。またスパイは地元ナバロン島の抵抗組織のなかにいるが、その処置をどうするか、グレゴリー・ペックは悩まざるをえない。この両者に共通する問題としては、一人の人命でも尊重すべきだが、あまりにこだわりすぎると戦闘行動に支障をきたす、部隊全体の運命をも左右しかねないというジレンマである。その結末は書かないとして。

 スパイの処置に決着が付いたとき、グレゴリー・ペックがアンソニー・クインに向かって「俺はこれから喜んで人殺しができそうだ。」そんな意味のことをニヤリと笑って言い放つ。現在からするとこのセリフとペックの微笑が奇異に感じられる。戦闘のさなか何故今さらのように好戦的姿勢を明確にしなければならないのだろうか。当時のアメリカがベトナム戦争介入以前で、比較的平和であったからこそ戦争へのある種楽観的立場に自然に立てた、それだからこそ「戦争の正しさ」をストレートに表明できた、ということだろうか。

 グレゴリー・ペックは当時のトップスターだが、少し後に出てくるスティーブ・マックイーンなどと比べると動きが少なく、ぴしっとした姿勢で悠然としている。そして説得力あると当時考えられていたセリフを任せられる存在になっている。


 

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サン・ジャックへの道

 中年の男二人、女一人の三兄妹の母が死んだ。遺産相続の話になるが、遺言状管理者によるとキリスト教の聖地であるスペインのサンティアゴへの巡礼が条件だと言う。つまりフランスの某都市からその地まで歩きっぱなしの旅をしなければならないのだ。遺産なんていらない、体調がすぐれない、など三人はしぶるが遺言とあっては無下に断るわけにもいかず、しぶしぶながら巡礼に参加することになる。ガイドのもとには他の参加者も加わり計九人の旅がはじまる。アラブ系の青年二人、若い女性二人、中年女性一人である。

 この映画を救っているのは行く先々での風景である。うつくしい風景ばかりではない。砂漠に近い地もあれば、収穫が終わって枯れ枝ばかりで無惨に見える畑もある。だが羊の群れがのんびりと草を食んでいたりすると、ほっとする。また豊かな水量を誇る小川が両岸の濃い緑の並木とともに出現すると見惚れてしまう。私が巡礼に参加しているわけでもないのに巡礼はいいなあと、感嘆してしまう。風景はやはり豊かな水と緑がなければいいとはいえないのだろう。

 旅の期間中、当然知り合った者同士の交流ができる。若い人の間で恋が芽生えたり、女教師はフランス語を知らないアラブ人青年に教えてやったりと。飲んべえでだらしがないくせに不思議ともてる男がいたりする。だが全員に共通するのは、疲労困憊しながらも歩くことにしだいに充実感を覚えて自信を持つにいたることだろう。それによって団結も自然に生まれてくる。さらに人間関係も深まるという好循環ができあがる。風景とともにもうひとついい場面は、彼等が心地よい疲れのもと、睡眠のなかで夢を見るところだろう。動物のかぶり物をした人々が出現したり、黒ずくめでベールをした憂鬱そうな婦人(アラブ青年の母だろう)が馬に変身して優雅に駆けていったりと、ファンタスティックだ。いい意味で身体からスーッと力が抜ける。いい旅だからいい夢も見るのだろうなあ、と納得できる。反面、やはり人間は変わりえないものでもある。先ほど書いた酒好きで女好きの男は、その性分は相変わらずだし、男をすんなり受け入れる女も以前からそうなのだろうなあ、と推測させる。彼等自身がそういう面では、あえて変わらなくてもよいとたかをくくるからだろう。巡礼による健康志向、よき思い出作りもおのずから限界がある、ということだろうか。また、映画としての難を言えば、前半の人間劇の部分がセリフが多く、煩雑なところだろうか。

 宿が満員のときは教会の門をたたく。牧師は粗末な部屋しか空いていなくても受け入れなければならないらしい。また巡礼者はそれをアテにする。そうやって旅はつづけられるのだなあ、と知った。宗教上の理由でメムバーのある部分を排除しようとした神父?もいたが。

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