善き人のためのソナタ

 主演のウルリッヒ・ミューエという人が、姿勢がまっすぐで、瞳をしっかりと見開いていた。つまりは終始一貫して堂々としていた、それが印象に残った。

 彼は旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)に席を置くキャップ格の男で、反体制的人物の取り締まりが任務だ。あるとき劇場で偶然眼にした劇作家に嗅覚を刺激されて、さっそく彼の家の盗聴に取りかかる。そこで劇作家の生き生きした言動にふれてしだいに魅せられていく……と、私が眼にした映画紹介文では書かれていたが、私はそうではなく、彼ウルリッヒ・ミューエが劇作家のたたずまいにひとめ惚れしたのではないかと思いたい。「傲慢そうで、胡散くさい奴だ。調べれば何か出てくる。」そんな意味のことを言って、劇作家の監視・盗聴を上司に進言したのは彼にはちがいないが、ただそのときは彼は、自分の感情についてよく把握できなかった。私はそんな風にとらえなおしてみたい。一見したところ、ウルリッヒ・ミューエは人相がこわくて、通俗映画の悪役をやらせればぴったり嵌りそうで、この映画でも最初は筋金入りの警察官僚に見えてしまうが、自由へのあこがれをひそかに抱いていたのではないか。勿論私のこの解釈を退ける人もいるのだろうが。

 この映画のなかで終始語られ、訴えられるのは死である。まずは舞台の上演劇のなかで、近親者の死を予感して主演女優が気を失う場面がある。そしてナレーションによる東ドイツの自殺者の多さ。これらは前半においては、周辺的な事柄であると鑑賞者は見なしてしまう。盗聴によってウルリッヒ・ミューエは何を収穫するのか、劇作家ははたして反体制的人間なのか、それならばどんな行動をとるのかという、ストーリー展開の方に当然興味は向くからだ。だがしだいに死とストーリーが結びつきを強める。人物の一人が自殺したことがその助走になる。そして終末近く、主要な人物の一人が、自殺とも交通事故死ともどちらにもとれる痛ましい死に方をしたとき、死がまさに鑑賞者に向かってまっすぐに突き刺さってくる。冷厳な事実としての死である。私たちは誰でも長生きしたいと思うし、たかをくくってもいる。今まで無事にやってこられたからこれからもそうだろうと、ぼんやりと希望を持つ。いわば温室願望だが、映画を見る者と出演者との間にもこの「温室効果」は、すぐれた映画ほど自然に形成される、ともに生きているという感覚だが、それがぶちこわされるのだ。死は予断を裏切って、早く、そしてあっけなくやってくる。熟慮する時間も立ち直る時間もあたえられずに、その人はいきなり死に鷲づかみされる。

 この死は旧東ドイツの国家体制がもたらしたものだと私たちも登場人物も納得するが、私たちの「温室願望」が断ち切られるような形で、私たちもこの映画に参加・鑑賞しているので、とおい国の過去の出来事というよりも、もっと身近に感じられる。そして何か、姿勢を正さなければならない感情にとらえられる。そしてまた、一人で背負うにはあまりも重いこの旧東ドイツの「現状」を主演ウルリッヒ・ミューエはまっすぐに見つめる。彼が手をさしのべたことは間違ってはいなかった。だがこんな惨劇が待っていようとは。

 そして締めくくりに、最初に演じられた舞台劇がすこし装いを変えて、もう一度演じられる。忘れてはならないもの、大事なものとは何かと、私たちに問いかけるように。

22:42 | 映画館で見た映画 | comments (0) | trackbacks (5) | edit | page top↑