2007.03.30 投身
夕陽に鞭を入れる
コインを取りだし
コインを穴に入れる

馬の首
青空
アイスクリームをひと匙口にすると
おれもまっ青
底なしの底の鐘の影

両手を水平にひろげると
十字架の形
砲弾

夕陽の鍵穴
鍵をひねると
パラシュートが猛然と吸い込まれる
ドアの向こう側では
何処までも水平に転落していく
女神

2007.03.28 人形を轢く
切り裂くようなフラッシュが焚かれそちらに眼を向けると顔にカメラを貼り付けている男がいる。顔からカメラをとおざける男がいる。カメラを持たない手持ちぶさたの左手はやがて手を挙げて私に合図を送ろうとするのか。だがその気配もない。微笑をたたえるのか能面の無表情なのか咎め立てようとするのかもとおくてわからない。こちらへ一歩二歩と歩みだしそうな気配も感じとれなくはないがそのままで突っ立っている。男は私をカメラに撮った。私が轢いてしまったであろう人形とともに車体ナムバーとともに私をカメラに収めた。とおくてわからない。だがやはりにやにや笑っているのではないかとの疑いが生じてくる。男は優越的な気配に自己満足して得体の知れないこの今はじまったばかりの睨み合い?の事態をやたら長引かせようとするのか。そういう事態の推移に対しても男はあらかじめ体勢を整えており目的のひとつとしてすら据えておりゆがんだ酩酊を見いだそうとするのではないか。それも何度も繰り返し味わい堪能した酩酊であるのではなかろうか。だがもう一つの大きいその先のそれこそゆがんだ目的もちゃんと用意されてあるのであろう。ある種常識では理解しがたい恐喝のつもりかさらに奥に用意した別の手段を隠し持っての恐喝もしくは嗜虐的欲望の自分勝手な企みのたぐいかもしれぬと私は疑念をつのらせた。

少し前私は総毛だった。前方の視界に得体の知れないかたまりが岩とも人体とも判別できない物体がいきなり左側から侵入してきて私はわずかに「最後」を意識しながらブレーキも踏まずにそこを通過した。赤い色彩がわずかに視野に残った。一瞬後物体は視界から外れてそのときに私ははじめてのようにブレーキを踏んで減速し車を止めたのだがいざというときにまずは起こすべき身体反応を放棄して素通りしまう自分自身への後ろめたさに直面した。ブレーキを踏まなかったことその半無意識その一点にふりしぼっては私という人間の致命的欠陥とみなすべきものなのか。または私という個性を含みつつも越えた人間的普遍性の問題としてその行為=非行為はとらえかえされるべきなのか。問題意識はかすめたことはかすめたが当然ながらゆっくりと思いをめぐらす暇もなかった。それよりも前ただ感覚だけは回転して地面をこすりつけていくタイヤの表面に何故か願うように集中していた。ブレーキを踏まなかったにもかかわらず。だが感覚はタイヤの表面に一致させることは不可能なので車体全体にかかるであろう抵抗感それが座席にさらに私の腰部におよぼすであろう抵抗感をもっぱら頼るしかなかった。それら以外のすべての感覚の分野は頭蓋のなかの空想として無い物ねだりのように研ぎ澄まされるしかなかった。意外にも何の手ごたえもなくほぼ水平に通過したのでかえってまるで虚空へのぼりつめるようなフワッとした感覚が残ったのだが。ただ喫緊の課題として私はもしかしたらたいへん重大なことをしでかしてしまったのではなかろうかとの懸念に首を絞められかけそれを一刻もはやく払拭せねばならないという目的意識はしかとあってみずからを落ち着かせつつ眼の前の事態を咀嚼しようと心がけた。

私と男のちょうど中間にはその轢いてしまった人形がまさに人形が赤い血の平面を周囲にひろげて横たわっている。その赤い血はこれ見よがしに今も面積を少しずつ広げていくではないか。人形の毛髪は茶色の毛糸で白のブラウスと肩掛けのついた赤のスカートは綿か化繊かはわからぬがともかくこれらも布で顔の部分も肌色だが人間の皮膚の滑らかさではなくつまりは外観はすべて布製であるために人形だと判断した。私は冷静さを保ちつつ判断した。おそらくは「血」もまた顔料か何かなのだろう。それを水か油で薄めたのであろう。車体の重みでそれが外部へあふれる仕組みが人形製作者かそれを購入してのち細工をつけくわえた者によってなされたのであろう。とするならばカメラを持った男カメラで私を撮った男が直前までの人形所有者だと直観しても間違いないところなのではないか。男は私を人形轢断者と断定するための証拠としてカメラ撮影をしたのではないか。だが何のためにまさかそれが一般的に見て恐喝の種になりうるとでも思っているのだろうか。いやそう思ったからこそそういう人形を作りそしてまた私の走行中の車の前に人形をぽんと投げ出したであろうことまでやってのけたのだから。

そんな細工をされて傍迷惑このうえないが「傍」はこの私なのだ。私は私自身の判断でこの事態を切り抜けねばならないのだが男のねっとりしたなかに痴呆性を切り裂くフラッシュのように貯蔵した視線でもって浴びせつづけられる私とは一体何なのだろうか。今対峙する男の心的傾向に沿ってではなく私の知らない私が今の私を見つめたとしたらどういう具合に見えるのだろうか何故だか私は無性に気になりだした。私の知らない私が今の私を見つめたのなら当然今の私の自己認識しえない部分もまた映るのであろう。つまり私は私という人間を十全に把握できてはいないのではないかという疑念が何故か立ちのぼってきた。だが何もそれは今にわかに生成してきた疑念ではなく私が従来からぼんやりと抱きつづけてきたものであったが切羽詰まったものではなくましてその昂進によって人生に重大な影響をもたらしうるものとも思えなかった。それが今このときになって限度を超えて昂進してきた。地面がたちまち崩れる砂に変貌するのではないかという一抹の不安につかまれた。男の視線は奇怪だが男に変わって正常な視線に置き換えたとするならば私はどんな具合に見えるのか。もしかすると私を糾弾すべき材料をこれでもかこれでもかとトラックいっぱいの書類とともにたずさえてきて隅から隅まで延々と指摘して弾劾するのではないか。倫理の塔が今さらのようにせりあがるのではないか。男の視線は結果的にはあるいはそういう「正常」さの代替装置として機能するのではないかと思えてしまった。私のそんな具合の不安を手に取るように眺めたうえ厖大な計算を済ませたうえで充分な成算をイメージして私の不安を衝いてくるならば男は想像を絶するほどのしたたかさを持ち合わせているのだがそこまで思いを馳せさせ膨らませる私もどうかしているにはちがいないが一旦はとらわれてしまった妄念であることは事実でこの事実は私にとっては忘れることのできない掻き消すことのできない重大な記憶として残った。

私の正常な対処にこのような妄想が入り混じってきたのは男がとおい距離に位置していたために表情が見極めがたかったことからも大いに来ている。それこそ重大な因子だ。私と男を取り囲む空気は無論私と男の間にもありその一粒一粒の極小のまるい頭の群が恣意によって急激に凶暴化してあたかも男の顔の輪郭に侵入して自然界の法則よろしく自在に暴れた結果であるように私の視界のなかで男の顔は半分くらいは溶解して見えた。視線だけがかたくなに溶け残ってその視線の意味をさらに男の固有性からはなれてまでも私に対する視線一般として私に自問自答を強いるように強迫的に押し寄せてきた。そしてまた逆説的に聞こえるかもしれないが男の視線自体が強力でないからこそそれを浴びる時間のある種の弛緩のなかで私の妄想は泳ぐ場所を得たということになろうか。念のため書き加えておくが今この場所で直接的には関係がなく無用な思念であったからこそ妄想だと私は言葉を選んだのであって思念の中味それじたいは妄想として片づけてはならない部分も多分に胚胎している。

見る乃至は凝視するということ。用意万端おこたりなく罠をととのえてその罠に見事に獲物をはめて獲物の様子をじっくりと観察しあとは心地よい手持ちぶたさの時間にひたりながらそれ以後の獲物の推移を余裕たっぷりに眺める。次の手段を行使する用意もぬかりなくととのえながら獲物の変化つまり衰弱や凶暴的変異を待ち望んでいるのではないか男は。現在の男のその行状を度の過ぎたいたずらと見なしながらもその心性をそんな風に想像して描きかけたが中途で放棄した。興味がつづかなかった。白状すればいたずらというものに対する嗜好を私はついこの間といってもいいほどまで長くもちつづけてきた。反抗や純粋という美辞麗句をつけてもつけなくてもだ。私の仕掛けによって他人が翻弄されることあるいは翻弄されたかにこちらが一方的に思いなすことに異様なほど執着をもちつづけあるいは意義づけてきた。彼の仕草一挙手一投足を細大漏らさず観察し凝視し記憶にたたきこむことつまり眼の前の彼の逐一の変化は私の仕掛けのどこそこに関係づけられるのだという牽強付会の自説に陶然となりながら快感を合着させつつ彼と一体になること。彼の崩壊に一部始終つき合うこと。そんな妄想に血道をあげたことがあったにはあった。そこでは世界と私との関係が彼と私との関係に縮小し縮小することでかえって濃密になりそこで勝利すれば世界にも勝利できるのではないかという思いこみに私は支配されたものだった。だが萎えた。興味の腰が折れた理由はわからぬが一旦興味をうしなった彼我の世界を興味を梃子にして語ることなど想像することなどできない相談だった。私は男を軽蔑した。寸断するように大して理解もせずに軽蔑した。私は男に勢いよく手をふって車に戻りその場を後にした。

 アカデミー助演女優賞を獲得したジェニファー・ハドソンの歌声が素晴らしい。情熱的に訴えかける。これだけで自然に泣けてくる。うるうる、なんていう言葉があるがまさしくそうだ。胸が熱くなる。

 彼女は女性ボーカルグループ三人組ドリームガールズのメムバー。R&Bのソロ歌手エディ・マーフィのバックコーラスからデビューして人気を得て、またたくまに頂点にのぼりつめる。だが彼女は歌では自分が一番うまいと思っているのに、レコード会社社長のジェイミー・フォックスはリードボーカルにビヨンセ・ノウルズを指名した。人気の中心はビヨンセ・ノウルズで、ジェニファー・ハドソンは耐えられない。ミュージカルだから彼女の不満や寂しさ、要求が歌声となって、ジェイミー・フォックスはじめグループやスタッフなどにぶつけられる。訴えが渾身からのものであることが豊かな声量で表現されて鑑賞者に力強く伝わってくる。歌によって鬱積していたものが一気に解放されてはじける。歌うことによってもっとも力強くしかも正確に伝わる、そういう彼女の確信も同時に伝わってくる。私の気持ちはこうだ、要求はこうだ、わかってほしい。聴かされる出演者も、真摯に、しかも平常心をうしなうことなく耳を傾ける。だが同情を示しつつも結局は相手は折れてくれない。それでも彼女はめげずに歌いつづける。直接的にはそれは信念を曲げない、曲げようがない、ということだが、歌うこと自体の素晴らしさの訴えであり、歌に一番近い人間は私だ、ということではないか。

 ジェイミー・フォックスもいい。ドリームガールズの売り出しのため、会社の発展のため彼は知恵をしぼる、熱を上げる。ついてこない者や反逆者、落伍者は容赦なく排除する、馘にする。そうして最短距離をひた走る。まさに鋼(はがね)の意志を体現する。そして彼みずからが歌う場面もあるが、むしろ歌の聴き役として冷静かつ受容力をもった人物としての表現がひかる。ホールに集まった観衆が歌手の歌声とダンスに我を忘れて熱狂する。映画を見る私たちもまた、出演者たちの歌手としての、そして歌手という職業を離れた生活面での歌声とダンス、その両方に揺さぶられ陶然となる。だが彼だけがそういう熱狂の全体を吸い寄せて跳ね返すことのない磁場のようにふるまう。歌の興奮を冷ますのではなくて、興奮を相手に心おきなく表現させるために釣り合いをとっている、そんな風に見える。鋼の意志と私が表現した役柄上からも必然のことだが、それがジェニファー・ハドソンはじめ出演者の歌声をかえって盛り立てる役割をも果たしている。

 はじめから終わりまで歌、歌、歌。歌うことによって喜びはより大きくなる。自由を謳歌する時間を味わえる。悲しみは歌うことによってはとりのぞかれはしないが、より透明になって、特定の個人を越えて全体に響きわたる。そして歌がこの世にあるということの素晴らしさ。


2007.03.17 段ボール箱
            
そぼ降る雨の中で
レインコートを着て立つ男
存在感はきわめて希薄で
黒い短冊のようにも見えて
周囲の山肌に溶けいっても不思議でない
足下からややはなれた位置にある段ボール箱にも
関心を示す様子はない
輪郭によって覆われた中味はまして知らぬ
非所有であることによって
取り扱い責任からも免れている
帽子の深い庇によって
斧の機関車の軋みも聞こえぬ
そぼ降る雨の中道に面した納屋の陰で
            
生まれてきたことの是非を
生まれたきたのちの行ないの罪状を
他人に問い糾すことなど想いも寄らぬ
自分でさえ持てあますのだから
人のことなんてどうでもええ手が回らぬ
やるべきことはあったかもしれぬが
何もやらないで今日まで来てしまった虚ろ
音のない飛行機が全身を占拠して
ただただ直線の移動あるのみ人生って長い
身丈よりすこし大きい
それでも約束はまもらねばならぬ生きられぬ
約束から放免されるとぐったりして
何もやらないやらなくていい河馬
赤とんぼがかすめるだけだ
            
動きだす段ボール箱
斜面でもないのにずれるぶきっちょな移動
生き物か電動玩具かそれとも
神の見えざる手の仕業か
男の足下にやってきてすがるように這いのぼる
男は驚きもしないし喜びが零れる風でもない
だがじれったさのなかから邪険な眼差しが煌めく
湯気のたつような中心の血の赤だ
動物本能剥き出しの怒りの心性がはしなくも暴露され
サッカーボールのように蹴飛ばした
行いとは他に関係すること以外の何ものでもないが
男はその自覚をはげしく侮蔑し
侮蔑したことすら瞬時に忘れる肉体労働者
道に転がる段ボール箱
トラックに轢かれぺしゃんこになる段ボール箱
何もないああ何もない
かさばるものの瓦解もあふれる液体も
何もない何もない
皮のようにぺしゃんこになる段ボール箱
「人間の肉体だってああなってしまうんだ」
もう終わってしまっているという自覚が目覚める
だが果たして何が終わってしまったんだ?
そぼふる雨の中 男は煙草をふかす

2007.03.14 とおい街
見知らぬ駅にきみは降り立つ
あの見覚えある膝の角度で
屋根のないプラットホームには西日がさし
きみのながい影が伸びる

あの女にこないだ会った
もうきみのことは忘れたと言ってうつむいたが
そのときの睫が寂しそうだった
私のなかで鳩がざわざわといっせいに飛び立った
たぶんあれは嘘だろう
あの女はずっときみのことを考えてきたのだし
これからもいくらかは落ち着いても
きみのことを多かれ少なかれ考えずにはいられないだろう

あの女がもっとも憎んだのは自分自身という牢獄
感情をどう立て直せばいいか
ばらばらになった鏡の破片で城をつくるというような
途方もない野望にとらえられていた
つまりはきみが最後に会った頃とさほどは変わらない
「愛される自信」「愛する自信」なんて言ってた
それに気がついたときあの女は君にものすごく接近していた

見知らぬ街へきみは歩みだす
あの見覚えある細い肩で
小さい街は駅前からほんの少し離れただけで仕舞た屋の並びで
すべての家に人が棲んでいるとも思えないひそけさ
きみが歩む道は影にすっかりひたされて
屋根瓦や四つ角ばかりが西日でやけに明るい
「海のない街にも港はあるさ」
きみがいつかそんな言葉でうそぶいたからには
大丈夫なんだろう

あの女のことは心配するな
とおい昔をふりかえるように
ときどき思い出してくれるだけで充分だ
私ができるだけのことをするから
話し相手にもなろうものさ
きみのながい影が当分の間
あの女の心臓にまでさしこんできて
食べようとして食べきれなかったとしても

 主演のウルリッヒ・ミューエという人が、姿勢がまっすぐで、瞳をしっかりと見開いていた。つまりは終始一貫して堂々としていた、それが印象に残った。

 彼は旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)に席を置くキャップ格の男で、反体制的人物の取り締まりが任務だ。あるとき劇場で偶然眼にした劇作家に嗅覚を刺激されて、さっそく彼の家の盗聴に取りかかる。そこで劇作家の生き生きした言動にふれてしだいに魅せられていく……と、私が眼にした映画紹介文では書かれていたが、私はそうではなく、彼ウルリッヒ・ミューエが劇作家のたたずまいにひとめ惚れしたのではないかと思いたい。「傲慢そうで、胡散くさい奴だ。調べれば何か出てくる。」そんな意味のことを言って、劇作家の監視・盗聴を上司に進言したのは彼にはちがいないが、ただそのときは彼は、自分の感情についてよく把握できなかった。私はそんな風にとらえなおしてみたい。一見したところ、ウルリッヒ・ミューエは人相がこわくて、通俗映画の悪役をやらせればぴったり嵌りそうで、この映画でも最初は筋金入りの警察官僚に見えてしまうが、自由へのあこがれをひそかに抱いていたのではないか。勿論私のこの解釈を退ける人もいるのだろうが。

 この映画のなかで終始語られ、訴えられるのは死である。まずは舞台の上演劇のなかで、近親者の死を予感して主演女優が気を失う場面がある。そしてナレーションによる東ドイツの自殺者の多さ。これらは前半においては、周辺的な事柄であると鑑賞者は見なしてしまう。盗聴によってウルリッヒ・ミューエは何を収穫するのか、劇作家ははたして反体制的人間なのか、それならばどんな行動をとるのかという、ストーリー展開の方に当然興味は向くからだ。だがしだいに死とストーリーが結びつきを強める。人物の一人が自殺したことがその助走になる。そして終末近く、主要な人物の一人が、自殺とも交通事故死ともどちらにもとれる痛ましい死に方をしたとき、死がまさに鑑賞者に向かってまっすぐに突き刺さってくる。冷厳な事実としての死である。私たちは誰でも長生きしたいと思うし、たかをくくってもいる。今まで無事にやってこられたからこれからもそうだろうと、ぼんやりと希望を持つ。いわば温室願望だが、映画を見る者と出演者との間にもこの「温室効果」は、すぐれた映画ほど自然に形成される、ともに生きているという感覚だが、それがぶちこわされるのだ。死は予断を裏切って、早く、そしてあっけなくやってくる。熟慮する時間も立ち直る時間もあたえられずに、その人はいきなり死に鷲づかみされる。

 この死は旧東ドイツの国家体制がもたらしたものだと私たちも登場人物も納得するが、私たちの「温室願望」が断ち切られるような形で、私たちもこの映画に参加・鑑賞しているので、とおい国の過去の出来事というよりも、もっと身近に感じられる。そして何か、姿勢を正さなければならない感情にとらえられる。そしてまた、一人で背負うにはあまりも重いこの旧東ドイツの「現状」を主演ウルリッヒ・ミューエはまっすぐに見つめる。彼が手をさしのべたことは間違ってはいなかった。だがこんな惨劇が待っていようとは。

 そして締めくくりに、最初に演じられた舞台劇がすこし装いを変えて、もう一度演じられる。忘れてはならないもの、大事なものとは何かと、私たちに問いかけるように。

ベルリン、僕らの革命 ベルリン、僕らの革命
ダニエル・ブリュール (2005/10/28)
レントラックジャパン

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 題名からくるイメージと、主演が『グッバイ、レーニン』のダニエル・ブリュールなので、ベルリンの壁崩壊前後のことが描かれるのかと勝手に考えてしまったが、ちがっていた。ダニエル・ブリュールと彼のルームメイトは住居侵入の常習犯。けれど窃盗はやらない。大金持ちの邸宅に忍びこんで、模様替えをしたあげくに贅沢を批判する手紙を残していく。つまり二人は、ある種の反体制運動の実行者なのだ。さらにルームメイトの恋人のユリア・イェンチ(『白バラの祈り』では主演)も贅沢品の不買運動を公然と行う運動家であるが、彼女は二人の行為についてはまったく知らない。そういうユリア・イェンチにダニエル・ブリュールはひそかに好意を寄せていて、ルームメイトの旅行中に二人は急速に接近する。

 お互いが相手の悩みや秘密を知ろうとする、少しずつ、あるいは劇的に知ることでより親密さを増していく、そして行動を共にする。こういう過程が若い男女をたちまち恋人関係にしてしまうのはよくあることだが、丁寧かつスリリングに描かれる。ユリア・イェンチは交通事故を起こして高額の賠償金を何年も支払わせられる決まりで、その相手の大企業の社長に一泡吹かせてやりたくてうずうずする。ためらうのはむしろ男の方だが、幸いにして社長宅は留守の状態だ。なし崩し的に二人しての住居侵入となり見事に「模様替え」に成功する。

 だが忘れ物をとりかえすために数日後、再度侵入したときに、帰宅した社長とはち合わせになってしまう。ここは緊迫度を加える場面で、二人はいったいどうするのだろうかと鑑賞者は固唾をのむが、結局は旅行帰りのルームメイトにも助けてもらって、社長を拘束しての道連れの逃避行となる。だが男たちはたえず、社長を抹殺することを考えている。社長も身の危険を感じてか従順だ。ストックホルムシンドロームというのか。

 若い男女三人と社長がしだいにうちとけて仲良くなる過程が、映画としてはいいのかもしれない。若者たちはお荷物の彼を、できれば口封じを約束させて解放したいと願っているし、社長も安全のために信頼をえようとするからで、どうなるか興味をつなぎとめられる。だが私は、個人的な見方かもしれないが、不満だった。1968年の頃、社長は学生運動組織の幹部だったことを打ち明けたとき、三人はヤニさがった顔つきになるところが、私としては厭だった。社長もなつかしさを抱いてか、三人の行動を支持しはじめる。三人は義務のように、転向や大金持ちであることや搾取について、社長を糾弾する問いつめ方をするが、社長はかえって堂々としはじめる。「子供にいい教育を受けさせたかったからだ」「俺はルールに従ってやっている」と言う。また妻はコミューンのメムバーだったとも。コミューンとは、ここでは男女の共同生活を指していて、乱交をもふくんだいる。三人はそれ以上の突っ込みはしない。

 若者三人は、自分たちが六八年革命の継承者であるとかねてより自認しているらしいが、社長の賛同をえて、その意を強くしたのだろう。小規模な反体制運動や課題ごとや地域の運動の起点を六八年革命にもとめるのは別にかまわない。だが日本の六八年革命をふりかえると、あれは革命の挫折でもあったのだ。参加者のひとりひとりが、たぶん七〇年代以降内心で革命を侮蔑し、押し殺した。行き場のない力をもてあました人もいたにちがいない。また六八年革命は、嘘を嘘と承知であえてアジテートするところがあった。ヨーロッパでも事情はたいして変わらないだろう。私としてはそれらを社長の口から語ってもらいたかった。若い世代にも、単にあこがれだけで六八年をふりかえって欲しくはないものだ。

 もう一つの興味は、男女三人の恋愛関係がどう決着するのかということだが、省略する。


2007.03.06 さくらん
 子供の頃、吉原遊郭に売り飛ばされた女性がやがて花魁(おいらん)にまでのぼりつめる。そのはなやかな舞台で恋の炎に身を焦がす。主演のひぐらしに土屋アンナ。監督は写真家の蜷川実花。

 原作がコミックということで、蜷川監督はおもいきった映像を見せてくれる。華麗で幻想的で幼児的で、というべきか。吉原から見た外の世界は憧憬をこめた満開の桜。花魁のきらびやかだが閉じこめられて自由のない身は鉢のなかの金魚、というように象徴させる。遊郭の日本家屋もそれとは理解できるものの、とてもあんなものじゃないだろうと思わせるくらいにデフォルメされている。襖など目に付くところに赤と金色を中心にした絵模様が貼られてある。金魚はまた、吉原の出入り口の門の上部にも透明ガラスの器に大量に入れられてある。花魁が身につける着物も赤が中心。かんざしは金色、というように書けばきりがないくらいに極彩色が採り入れられている。それらが女優のアップよりも重要度を増すくらいにアップされ、あるいは前景に映されて後方の映像を見させる、という大胆な構図が随所に採用されている。そして極彩色をより生かすために家屋内のべったりとした暗色が対比される。つまりは柱や格子の影の部分であり、部屋の内外の奥所の照明の当たらない部分だ。これが映画だと映画独特の味わいのある暗色となる。いいところに着目したものだ。

 こういう極彩色がえんえんとつづくと少し飽きてくるものだが、さびの部分もちゃんと用意してある。逆光の位置にある家屋をはさんで、夜空に浮かぶ三日月。この夜空が正確に藍色で、家屋の暗色と明確に区別されている。わずかな時間しかこの映像はないが、心地よいものだった。映像全体の流れはたいへん気に入った。

 物語はどうか。いかに外観が華麗でも、そっけなく言ってしまえば管理売春の世界だ。不特定多数の男性と性交渉をもたねばならない。そのなかから気に入った相手を自分から選び取り、あるいは情念の発展によって選び取らされる。そこから娼婦の性愛の純粋化が起こるのだろうが、こういった物語は何回も焼き直しされて出現する。今回の場合は、細部の特徴はほとんどなく、その点では興味は湧かなかった。原作がコミックであることから、細部の特徴は原作の絵にあるのかもしれない。そうするとその点が欠点ではないとすると、やはり出演者の土屋アンナや木村佳乃の演技ぶりに不満が残るところなのだろう。懸命にやっていることは買いたいが、ぎこちない。八方破れの情念をスケバン的な雰囲気をからめて発散させようとするのかもしれないが、未消化な気がした。

ベニスに死す ベニスに死す
ダーク・ボガード (2006/11/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 ドイツ人作曲家のダーク・ボガード(役名アシェンバハ)は療養のためベニスを訪れる。ちょうど初夏で、太陽と砂浜がまぶしい。またたくさんの観光客が滞在するなかに彼は美少年のビヨルン・アンデルセン(役名タジオ)を見いだして虜になる。

 ルキノ・ヴィスコンティ監督らしく、衣装やインテリアに贅が凝らされている。とりわけ婦人の正装が目を引く。暑い季節にも関わらず、上着は長袖で、襟は首元まであって、ウエストのラインを強調したものだ。スカートは地面にとどくほどのロングで、末広がり。また帽子は花飾りなどを付けたおもおもしいもので、ちょうど西部劇で見慣れた女性の正装姿と酷似している。本編を見ただけでは年代はわからないが、DVDの別の映像によると、1911年だそうだ。女性やその子供たちがホテルの待合室でくつろぐ姿を眺めるだけで、ダーク・ボガードは自身が置き場のないような感覚をもてあますのだ。女性は室内でも帽子をとらないし、堂々とまたゆったりしている。そこここに配置された巨大な花瓶にはあじさいなどの花々が豪勢に盛られている。一方室外では、ホテル客用のバンガローが砂浜に整然としつらえられてある。バンガローの前やホテルとつなぐ渡り廊下の上には、ツートンカラーの日覆いの布が色鮮やかに微風に揺れる。これも映画用のセットなのだろう。ヴィスコンティが構想どおりにつくったのだと思う。ダーク・ボガードにとって、そうした健康な人々や初夏のまぶしさを代表する存在が美少年タジオである。

 ダーク・ボガードは体調がすぐれないほか、作曲家としての業績にもすっかり自信を失っている。友人から作品を罵倒されることもたびたびあった。また妻子には既に先立たれているらしい。こうしたことが回想として挿まれるが、暗鬱そのものだ。

 以上が前半のあらましであり、状況説明をかねてうつくしい映像がゆったりとつづくが、少し退屈だ。映画が動き出すのは、ドイツに帰ろうとしたダーク・ボガードが、駅員がミスで荷物の送り先を間違えたため、ふたたびベニスの元のホテルへ引き返すあたりからである。タジオに再会できる喜びによって、彼の頬はゆるむ。彼はめずらしくやる気を起こして、バンガローの前のテーブルで書き物(楽譜?)をはじめる。だがそれも束の間だ。退廃意識が以前にもまして彼を引き戻すからだ。ホテルのピアノで「エリーゼのために」をたどたどしく弾くタジオを発見して近づいていくダーク・ボガードだが、同じ曲が過去からも聴こえてくる。うしろめたさを抱いて訪れた売春施設で、美少女の娼婦が彼を慣れた笑みで見返しながら、同じようにたどたどしく弾くのだ……。少年と少女がごっちゃになることは、彼の意識がかき乱される、少年のイメージが少女の記憶に侵食されることの表れだろうか。

 ダーク・ボガードは音楽の仕事のなかで美を創造することができなかった。そういう敗北意識と衰弱する身体を抱えながら、彼は彼の外側にある美に近づいていく。その代表がタジオであり、また太陽であり砂浜である。タジオもダーク・ボガードに気に入られていることを知っている。彼の近くに来て目だつ仕草もするが、それ以上のことはない。つまり彼等が口を利いたり、まして仲良しになったりすることもない。ダーク・ボガードは目の前に美を見ているが、それは未練でもある。また未練以前にやはり、この世界に生誕して以来変わらない美なのであり、ダーク・ボガードにとってはついには愛でるにとどまるものだ。私たちがのぞくダーク・ボガードの内面には、恐怖と退廃が巣食ってはいても、嘘いつわりがなく透明である。そして彼がいくら沈み込もうとも、彼の周囲には美が確実に存在することを、彼をつうじて、つまり一個の人間をつうじて知る。そしてまた、沈み込みつつあるダーク・ボガードその人自身も、鑑賞者から見ればやはりうつくしいのだ。

 これも公開当時に見たが、人生の終わりが、それを意識させられることがどんなものなのかは今もってわからない。だが初夏のまばゆい日差しのなかに入ろうとして入っていけない感覚は、以前ほどのもどかしさやじれったさはない。若さからとおざかった所為なのか、むしろ少しは親しみあるものとなった。それにアドリア海に沈む夕陽。たんなる絵葉書ではなく、まさに主人公の人生の終わりを象徴するのだが、それが映画の中盤に登場することの発見も喜びだった。