大洋ボート

投身

夕陽に鞭を入れる
コインを取りだし
コインを穴に入れる

馬の首
青空
アイスクリームをひと匙口にすると
おれもまっ青
底なしの底の鐘の影

両手を水平にひろげると
十字架の形
砲弾

夕陽の鍵穴
鍵をひねると
パラシュートが猛然と吸い込まれる

ドアの向こう側では
何処までも水平に転落していく
女神

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ドリームガールズ

 アカデミー助演女優賞を獲得したジェニファー・ハドソンの歌声が素晴らしい。情熱的に訴えかける。これだけで自然に泣けてくる。うるうる、なんていう言葉があるがまさしくそうだ。胸が熱くなる。

 彼女は女性ボーカルグループ三人組ドリームガールズのメムバー。R&Bのソロ歌手エディ・マーフィのバックコーラスからデビューして人気を得て、またたくまに頂点にのぼりつめる。だが彼女は歌では自分が一番うまいと思っているのに、レコード会社社長のジェイミー・フォックスはリードボーカルにビヨンセ・ノウルズを指名した。人気の中心はビヨンセ・ノウルズで、ジェニファー・ハドソンは耐えられない。ミュージカルだから彼女の不満や寂しさ、要求が歌声となって、ジェイミー・フォックスはじめグループやスタッフなどにぶつけられる。訴えが渾身からのものであることが豊かな声量で表現されて鑑賞者に力強く伝わってくる。歌によって鬱積していたものが一気に解放されてはじける。歌うことによってもっとも力強くしかも正確に伝わる、そういう彼女の確信も同時に伝わってくる。私の気持ちはこうだ、要求はこうだ、わかってほしい。聴かされる出演者も、真摯に、しかも平常心をうしなうことなく耳を傾ける。だが同情を示しつつも結局は相手は折れてくれない。それでも彼女はめげずに歌いつづける。直接的にはそれは信念を曲げない、曲げようがない、ということだが、歌うこと自体の素晴らしさの訴えであり、歌に一番近い人間は私だ、ということではないか。

 ジェイミー・フォックスもいい。ドリームガールズの売り出しのため、会社の発展のため彼は知恵をしぼる、熱を上げる。ついてこない者や反逆者、落伍者は容赦なく排除する、馘にする。そうして最短距離をひた走る。まさに鋼(はがね)の意志を体現する。そして彼みずからが歌う場面もあるが、むしろ歌の聴き役として冷静かつ受容力をもった人物としての表現がひかる。ホールに集まった観衆が歌手の歌声とダンスに我を忘れて熱狂する。映画を見る私たちもまた、出演者たちの歌手としての、そして歌手という職業を離れた生活面での歌声とダンス、その両方に揺さぶられ陶然となる。だが彼だけがそういう熱狂の全体を吸い寄せて跳ね返すことのない磁場のようにふるまう。歌の興奮を冷ますのではなくて、興奮を相手に心おきなく表現させるために釣り合いをとっている、そんな風に見える。鋼の意志と私が表現した役柄上からも必然のことだが、それがジェニファー・ハドソンはじめ出演者の歌声をかえって盛り立てる役割をも果たしている。

 はじめから終わりまで歌、歌、歌。歌うことによって喜びはより大きくなる。自由を謳歌する時間を味わえる。悲しみは歌うことによってはとりのぞかれはしないが、より透明になって、特定の個人を越えて全体に響きわたる。そして歌がこの世にあるということの素晴らしさ。


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善き人のためのソナタ

 主演のウルリッヒ・ミューエという人が、姿勢がまっすぐで、瞳をしっかりと見開いていた。つまりは終始一貫して堂々としていた、それが印象に残った。

 彼は旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)に席を置くキャップ格の男で、反体制的人物の取り締まりが任務だ。あるとき劇場で偶然眼にした劇作家に嗅覚を刺激されて、さっそく彼の家の盗聴に取りかかる。そこで劇作家の生き生きした言動にふれてしだいに魅せられていく……と、私が眼にした映画紹介文では書かれていたが、私はそうではなく、彼ウルリッヒ・ミューエが劇作家のたたずまいにひとめ惚れしたのではないかと思いたい。「傲慢そうで、胡散くさい奴だ。調べれば何か出てくる。」そんな意味のことを言って、劇作家の監視・盗聴を上司に進言したのは彼にはちがいないが、ただそのときは彼は、自分の感情についてよく把握できなかった。私はそんな風にとらえなおしてみたい。一見したところ、ウルリッヒ・ミューエは人相がこわくて、通俗映画の悪役をやらせればぴったり嵌りそうで、この映画でも最初は筋金入りの警察官僚に見えてしまうが、自由へのあこがれをひそかに抱いていたのではないか。勿論私のこの解釈を退ける人もいるのだろうが。

 この映画のなかで終始語られ、訴えられるのは死である。まずは舞台の上演劇のなかで、近親者の死を予感して主演女優が気を失う場面がある。そしてナレーションによる東ドイツの自殺者の多さ。これらは前半においては、周辺的な事柄であると鑑賞者は見なしてしまう。盗聴によってウルリッヒ・ミューエは何を収穫するのか、劇作家ははたして反体制的人間なのか、それならばどんな行動をとるのかという、ストーリー展開の方に当然興味は向くからだ。だがしだいに死とストーリーが結びつきを強める。人物の一人が自殺したことがその助走になる。そして終末近く、主要な人物の一人が、自殺とも交通事故死ともどちらにもとれる痛ましい死に方をしたとき、死がまさに鑑賞者に向かってまっすぐに突き刺さってくる。冷厳な事実としての死である。私たちは誰でも長生きしたいと思うし、たかをくくってもいる。今まで無事にやってこられたからこれからもそうだろうと、ぼんやりと希望を持つ。いわば温室願望だが、映画を見る者と出演者との間にもこの「温室効果」は、すぐれた映画ほど自然に形成される、ともに生きているという感覚だが、それがぶちこわされるのだ。死は予断を裏切って、早く、そしてあっけなくやってくる。熟慮する時間も立ち直る時間もあたえられずに、その人はいきなり死に鷲づかみされる。

 この死は旧東ドイツの国家体制がもたらしたものだと私たちも登場人物も納得するが、私たちの「温室願望」が断ち切られるような形で、私たちもこの映画に参加・鑑賞しているので、とおい国の過去の出来事というよりも、もっと身近に感じられる。そして何か、姿勢を正さなければならない感情にとらえられる。そしてまた、一人で背負うにはあまりも重いこの旧東ドイツの「現状」を主演ウルリッヒ・ミューエはまっすぐに見つめる。彼が手をさしのべたことは間違ってはいなかった。だがこんな惨劇が待っていようとは。

 そして締めくくりに、最初に演じられた舞台劇がすこし装いを変えて、もう一度演じられる。忘れてはならないもの、大事なものとは何かと、私たちに問いかけるように。

    22:42 | Trackback : 5 | Comment : 0 | Top

ベルリン、僕らの革命(2004/ドイツ)

ベルリン、僕らの革命 ベルリン、僕らの革命
ダニエル・ブリュール (2005/10/28)
レントラックジャパン

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 題名からくるイメージと、主演が『グッバイ、レーニン』のダニエル・ブリュールなので、ベルリンの壁崩壊前後のことが描かれるのかと勝手に考えてしまったが、ちがっていた。ダニエル・ブリュールと彼のルームメイトは住居侵入の常習犯。けれど窃盗はやらない。大金持ちの邸宅に忍びこんで、模様替えをしたあげくに贅沢を批判する手紙を残していく。つまり二人は、ある種の反体制運動の実行者なのだ。さらにルームメイトの恋人のユリア・イェンチ(『白バラの祈り』では主演)も贅沢品の不買運動を公然と行う運動家であるが、彼女は二人の行為についてはまったく知らない。そういうユリア・イェンチにダニエル・ブリュールはひそかに好意を寄せていて、ルームメイトの旅行中に二人は急速に接近する。

 お互いが相手の悩みや秘密を知ろうとする、少しずつ、あるいは劇的に知ることでより親密さを増していく、そして行動を共にする。こういう過程が若い男女をたちまち恋人関係にしてしまうのはよくあることだが、丁寧かつスリリングに描かれる。ユリア・イェンチは交通事故を起こして高額の賠償金を何年も支払わせられる決まりで、その相手の大企業の社長に一泡吹かせてやりたくてうずうずする。ためらうのはむしろ男の方だが、幸いにして社長宅は留守の状態だ。なし崩し的に二人しての住居侵入となり見事に「模様替え」に成功する。

 だが忘れ物をとりかえすために数日後、再度侵入したときに、帰宅した社長とはち合わせになってしまう。ここは緊迫度を加える場面で、二人はいったいどうするのだろうかと鑑賞者は固唾をのむが、結局は旅行帰りのルームメイトにも助けてもらって、社長を拘束しての道連れの逃避行となる。だが男たちはたえず、社長を抹殺することを考えている。社長も身の危険を感じてか従順だ。ストックホルムシンドロームというのか。

 若い男女三人と社長がしだいにうちとけて仲良くなる過程が、映画としてはいいのかもしれない。若者たちはお荷物の彼を、できれば口封じを約束させて解放したいと願っているし、社長も安全のために信頼をえようとするからで、どうなるか興味をつなぎとめられる。だが私は、個人的な見方かもしれないが、不満だった。1968年の頃、社長は学生運動組織の幹部だったことを打ち明けたとき、三人はヤニさがった顔つきになるところが、私としては厭だった。社長もなつかしさを抱いてか、三人の行動を支持しはじめる。三人は義務のように、転向や大金持ちであることや搾取について、社長を糾弾する問いつめ方をするが、社長はかえって堂々としはじめる。「子供にいい教育を受けさせたかったからだ」「俺はルールに従ってやっている」と言う。また妻はコミューンのメムバーだったとも。コミューンとは、ここでは男女の共同生活を指していて、乱交をもふくんだいる。三人はそれ以上の突っ込みはしない。

 若者三人は、自分たちが六八年革命の継承者であるとかねてより自認しているらしいが、社長の賛同をえて、その意を強くしたのだろう。小規模な反体制運動や課題ごとや地域の運動の起点を六八年革命にもとめるのは別にかまわない。だが日本の六八年革命をふりかえると、あれは革命の挫折でもあったのだ。参加者のひとりひとりが、たぶん七〇年代以降内心で革命を侮蔑し、押し殺した。行き場のない力をもてあました人もいたにちがいない。また六八年革命は、嘘を嘘と承知であえてアジテートするところがあった。ヨーロッパでも事情はたいして変わらないだろう。私としてはそれらを社長の口から語ってもらいたかった。若い世代にも、単にあこがれだけで六八年をふりかえって欲しくはないものだ。

 もう一つの興味は、男女三人の恋愛関係がどう決着するのかということだが、省略する。


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さくらん

 子供の頃、吉原遊郭に売り飛ばされた女性がやがて花魁(おいらん)にまでのぼりつめる。そのはなやかな舞台で恋の炎に身を焦がす。主演のひぐらしに土屋アンナ。監督は写真家の蜷川実花。

 原作がコミックということで、蜷川監督はおもいきった映像を見せてくれる。華麗で幻想的で幼児的で、というべきか。吉原から見た外の世界は憧憬をこめた満開の桜。花魁のきらびやかだが閉じこめられて自由のない身は鉢のなかの金魚、というように象徴させる。遊郭の日本家屋もそれとは理解できるものの、とてもあんなものじゃないだろうと思わせるくらいにデフォルメされている。襖など目に付くところに赤と金色を中心にした絵模様が貼られてある。金魚はまた、吉原の出入り口の門の上部にも透明ガラスの器に大量に入れられてある。花魁が身につける着物も赤が中心。かんざしは金色、というように書けばきりがないくらいに極彩色が採り入れられている。それらが女優のアップよりも重要度を増すくらいにアップされ、あるいは前景に映されて後方の映像を見させる、という大胆な構図が随所に採用されている。そして極彩色をより生かすために家屋内のべったりとした暗色が対比される。つまりは柱や格子の影の部分であり、部屋の内外の奥所の照明の当たらない部分だ。これが映画だと映画独特の味わいのある暗色となる。いいところに着目したものだ。

 こういう極彩色がえんえんとつづくと少し飽きてくるものだが、さびの部分もちゃんと用意してある。逆光の位置にある家屋をはさんで、夜空に浮かぶ三日月。この夜空が正確に藍色で、家屋の暗色と明確に区別されている。わずかな時間しかこの映像はないが、心地よいものだった。映像全体の流れはたいへん気に入った。

 物語はどうか。いかに外観が華麗でも、そっけなく言ってしまえば管理売春の世界だ。不特定多数の男性と性交渉をもたねばならない。そのなかから気に入った相手を自分から選び取り、あるいは情念の発展によって選び取らされる。そこから娼婦の性愛の純粋化が起こるのだろうが、こういった物語は何回も焼き直しされて出現する。今回の場合は、細部の特徴はほとんどなく、その点では興味は湧かなかった。原作がコミックであることから、細部の特徴は原作の絵にあるのかもしれない。そうするとその点が欠点ではないとすると、やはり出演者の土屋アンナや木村佳乃の演技ぶりに不満が残るところなのだろう。懸命にやっていることは買いたいが、ぎこちない。八方破れの情念をスケバン的な雰囲気をからめて発散させようとするのかもしれないが、未消化な気がした。

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ベニスに死す(1971/イタリア・フランス)

ベニスに死す ベニスに死す
ダーク・ボガード (2006/11/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 ドイツ人作曲家のダーク・ボガード(役名アシェンバハ)は療養のためベニスを訪れる。ちょうど初夏で、太陽と砂浜がまぶしい。またたくさんの観光客が滞在するなかに彼は美少年のビヨルン・アンデルセン(役名タジオ)を見いだして虜になる。

 ルキノ・ヴィスコンティ監督らしく、衣装やインテリアに贅が凝らされている。とりわけ婦人の正装が目を引く。暑い季節にも関わらず、上着は長袖で、襟は首元まであって、ウエストのラインを強調したものだ。スカートは地面にとどくほどのロングで、末広がり。また帽子は花飾りなどを付けたおもおもしいもので、ちょうど西部劇で見慣れた女性の正装姿と酷似している。本編を見ただけでは年代はわからないが、DVDの別の映像によると、1911年だそうだ。女性やその子供たちがホテルの待合室でくつろぐ姿を眺めるだけで、ダーク・ボガードは自身が置き場のないような感覚をもてあますのだ。女性は室内でも帽子をとらないし、堂々とまたゆったりしている。そこここに配置された巨大な花瓶にはあじさいなどの花々が豪勢に盛られている。一方室外では、ホテル客用のバンガローが砂浜に整然としつらえられてある。バンガローの前やホテルとつなぐ渡り廊下の上には、ツートンカラーの日覆いの布が色鮮やかに微風に揺れる。これも映画用のセットなのだろう。ヴィスコンティが構想どおりにつくったのだと思う。ダーク・ボガードにとって、そうした健康な人々や初夏のまぶしさを代表する存在が美少年タジオである。

 ダーク・ボガードは体調がすぐれないほか、作曲家としての業績にもすっかり自信を失っている。友人から作品を罵倒されることもたびたびあった。また妻子には既に先立たれているらしい。こうしたことが回想として挿まれるが、暗鬱そのものだ。

 以上が前半のあらましであり、状況説明をかねてうつくしい映像がゆったりとつづくが、少し退屈だ。映画が動き出すのは、ドイツに帰ろうとしたダーク・ボガードが、駅員がミスで荷物の送り先を間違えたため、ふたたびベニスの元のホテルへ引き返すあたりからである。タジオに再会できる喜びによって、彼の頬はゆるむ。彼はめずらしくやる気を起こして、バンガローの前のテーブルで書き物(楽譜?)をはじめる。だがそれも束の間だ。退廃意識が以前にもまして彼を引き戻すからだ。ホテルのピアノで「エリーゼのために」をたどたどしく弾くタジオを発見して近づいていくダーク・ボガードだが、同じ曲が過去からも聴こえてくる。うしろめたさを抱いて訪れた売春施設で、美少女の娼婦が彼を慣れた笑みで見返しながら、同じようにたどたどしく弾くのだ……。少年と少女がごっちゃになることは、彼の意識がかき乱される、少年のイメージが少女の記憶に侵食されることの表れだろうか。

 ダーク・ボガードは音楽の仕事のなかで美を創造することができなかった。そういう敗北意識と衰弱する身体を抱えながら、彼は彼の外側にある美に近づいていく。その代表がタジオであり、また太陽であり砂浜である。タジオもダーク・ボガードに気に入られていることを知っている。彼の近くに来て目だつ仕草もするが、それ以上のことはない。つまり彼等が口を利いたり、まして仲良しになったりすることもない。ダーク・ボガードは目の前に美を見ているが、それは未練でもある。また未練以前にやはり、この世界に生誕して以来変わらない美なのであり、ダーク・ボガードにとってはついには愛でるにとどまるものだ。私たちがのぞくダーク・ボガードの内面には、恐怖と退廃が巣食ってはいても、嘘いつわりがなく透明である。そして彼がいくら沈み込もうとも、彼の周囲には美が確実に存在することを、彼をつうじて、つまり一個の人間をつうじて知る。そしてまた、沈み込みつつあるダーク・ボガードその人自身も、鑑賞者から見ればやはりうつくしいのだ。

 これも公開当時に見たが、人生の終わりが、それを意識させられることがどんなものなのかは今もってわからない。だが初夏のまばゆい日差しのなかに入ろうとして入っていけない感覚は、以前ほどのもどかしさやじれったさはない。若さからとおざかった所為なのか、むしろ少しは親しみあるものとなった。それにアドリア海に沈む夕陽。たんなる絵葉書ではなく、まさに主人公の人生の終わりを象徴するのだが、それが映画の中盤に登場することの発見も喜びだった。

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