大洋ボート

カナリア(2004/日本)

カナリア カナリア
石田法嗣 (2005/10/28)
バンダイビジュアル

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 少年が児童相談所から脱走する。彼は十二歳で、祖父に引き取られた妹に会いに行くためだった。それ以前に少年は妹と母とともに「ニルヴァーナ」教団に出家入信していて、強制捜査のおりに保護されたのだった。滋賀県から東京へ一文無しの少年の長い旅が始まる。家出少女と知り合いになり、彼女や旅の途上で知り合った人々の助けも得て、少年は旅する。一方、教団の幹部にのぼりつめた母は、凶悪犯として指名手配中である……。

 オーム真理教の事件がモデルになっている。家族の再会が第一のテーマなら、第二のテーマは、少年の教団からこうむったマインドコントロールからの脱却ということになる。これは映画の課題としてはかなり手ごわいものだ。残念ながら、それを十分に果たせたとはいいがたい。教団内で親しかった幹部の青年とも彼は再会するが、そのとき青年が教え諭すように次のような内容のことをいう。「俺は教団に入って世界を変えようとした。俺自身も変われると信じていた。だがそれは失敗に終わった。あとには俺という人間だけが残っただけだ。だがこれからは、その俺という人間を背負って生きるしかないんだ。お前もお前という人間を背負って生きなければならない。」これは正しいことを言っているにはちがいない。だが疑問だ。

 そもそも、映画作りとはここで言われたようなことを鑑賞者にじわじわと納得させるために、映像とセリフを工夫し、創意をちりばめてつなげていくものではないのか。そこに映画作りに集結する人々の艱難辛苦がある。にもかかわらず、こういうナマの言葉を結論めかして投げ出されると、がっかりしてしまう。少年は旅の途中でもマントラを唱えていた。また「万引きをすると地獄に堕ちる」と言いながら、一方では「人殺しには相当の理由がある」と確信犯みたいに言い放っていたのだ。そんな少年がその後どんな心の変遷をたどるのかがさっぱり見えてこないで、こんなセリフだけが浮いた状態で残ってしまうのだ。

 家族がばらばらになったのは、結局はニルヴァーナが原因であることに気づいて少年は、しだいに目覚めていくようだが、それはそれで当然だろうな、という気はする。だが、家族の絆のたいせつさに気づくことと、マインドコントロールの支配は反比例するのだろうか。表面的にはそうであるにしても、奥底ではそうでもないと思う。マインドコントロールとたたかい、引き剥がしながら、客観視する作業を別にしなければならないのだと思う。

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仁義の墓場(1975/日本)

仁義の墓場 仁義の墓場
渡哲也 (2002/12/06)
東映

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 やくざ組織の顧問弁護士をしていた人が、テレビで「たとえアウトローの社会であろうと、協調性のない人は生きられない」という意味のことを語っていたのを思い出す。この映画の主人公の渡哲也は、まるでそれを地でいくような人物である。周囲の空気が読めない、やりすぎる、見境がつかない、そんなところだ。石川力夫という実在した人がモデルだそうだ。

 ライバル組織とのいざこざのなか、渡は相手の若頭格の人に重傷を負わせてしまう。親分同士は棲み分けの協定ができているらしいが、渡にはそれがわからない。賭場でのいざこざのあげく、親分の盟友の愛車に火をつけてしまう。それが原因で親分にリンチを受けると、今度はあろうことか親分に刃向かって負傷させる始末。10年の「所ばらい」の処分を受けて追放されてしまう。

 この人物を突き動かすものは何なのか。プライドの度はずれた高さか、暴力への偏執的な嗜好か、それともいわゆる「激昂しやすい性格」なのか、わからない。ただ渡哲也の表情からは,うそ寒いほどのニヒリズムが漂ってくるだけだ。大阪で麻薬を覚え、ふらふらになっても渡はへこたれない。まだまだ執念の火は燃えさかっていて、追放処分を受けた親分の地元へ舞い戻ってくる。そこでまたしても殺傷事件を起こしてしまう。そして何回かの刑務所暮らし。自滅の坂を好んで転がっていく以外の何ものでもない人生だ。

 公開当時、劇場で見たときは「こんなくらい人生は無いなあ」と暗澹としたものだ。あの頃私は半分ニートの暮らしぶりで迷っていたが、まだまだ自分の方がましにはちがいないと妙に安心したことを覚えている。今回DVDで見ると、それほどの感慨はない。ただ渡哲也をのぞくと、忘れていたことがかなりあった。脇役の三谷昇や芹明香の地べたを這うようなニヒリズムの表現、それにカラーのなかにふんだんにモノクロを使用する深作欽二監督のあらあらしい画面構成が成功していて、 印象に残った。

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欲望(1966/イギリス・イタリア)

欲望 欲望
ヴァネッサ・レッドグレーヴ (2006/11/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 デヴィッド・ヘミングスは売れっ子カメラマン。若い女性モデル相手の仕事ばかりでうんざりしている。だが、好きな題材を集めた写真集の計画もある。そんななか、彼はカメラをもって町中の公園に入る。中年男と若い女(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)のペアが仲睦まじい様子で手をつないでいる。かと思えば諍いの様子も見える。興味のむくまま、シャッターを押しまくるデヴィッド・ヘミングスだが、女の方がそれを発見して抗議する。取り合おうとしないヘミングスに女は仕事場まで来て、ネガの返還を執拗に要求する。ヘミングスはかえってそのことで興味を刺激されたのか、悪知恵で贋のネガを渡して女を帰らせる。さっそくネガの現像に取りかかるヘミングスだが。

 ここからが映画的で実に面白い。現像された何枚もの写真を壁に貼り付けるヘミングス。例の男女ペアが写る一見何の変哲もないスナップだが、鑑賞者は不審の眼差しを向けるヘミングスについていかされる。数枚の写真の一角をねらって撮影し、それを再度現像するという過程をくり返す。引き伸ばしだ。どうやら樹木の下部の影にひたされた部分を狙っている。そして粒子の粗い画像のなかにピストルや死体らしきものがかろうじて浮き出てくる。ゴールにたどりついたという一種の安堵と同時に、あらたな事態の出現に鑑賞者は驚く。だがこれは心地よい驚きで、主人公のデヴィッド・ヘミングスとの感情の一体感を味わえる時間で、映画ならではの幸福でもある。この間、セリフも音楽も一切ないのがまた、いい。ダメ押しは例の公園に夜、再度ヘミングスが訪れるくだり。写真と同じ中年男が死体となって横たわっているではないか。微風が吹いて、恐怖というよりも神秘的なものを私は感じた。

 だがデヴィッド・ヘミングスはいそいで警察に通報することはない。やがて仕事にかまけているうちに、写真もネガも何者かに奪われ、公園の死体も再々度訪れたときには見る影もないというところまで、事態は急展開する。つまり個人の内部に起こった不可解な出来事という範囲に「事件」はとどまってしまうのだ。

 もうひとつ「不条理劇」に私たちはラスト近くで出会う。ジープで多人数で乗り付けてきたヒッピー風の若い男女の集団がパントマイムを演じる。男性のペアがテニスコートでテニスのマネをするのだが、無論ラケットもボールもない。他のメムバーはフェンス越しにプレーを見まもる仕草をする。つまりボールを追うように首を左右にいっせいに動かすのだ。そこを通りかかって彼等を眺めるヘミングスだが、やがてフェンスを越えて架空のボールが彼の足下に転がってくる。拾ってくれとのメムバーの催促の合図に、少しためらったあとボールを投げ返す仕草をするヘミングス。これはどう解釈すればいいのだろう。たぶん、ある集団が(もしくは他者が)不可解に見えたとしても、彼等が要求するルールのようなものを守りさえすれば、すくなくとも支障なくそのなかを通過することができる、大げさに言えば、生きられる、ということだろう。これがこの映画の締めくくりのメッセージである。

 つまり、前段で書いた「事件」は、個人のなかで生起した不可解さは、解決しないかぎりはずっと個人が抱え込むしかないという結論で、後段では、そういう個人から見た他の集団や個人、ひいては社会がまたしても不可解に映る、ということにつなげられる。それは「ルール」を遵守することで、不可解さは残っても折り合いはつけられる、という具合にまとめられる。架空のボールは架空であっても、若い男女の集団にとっては「本物」のボールである。不可解なこの「本物」のボールを投げずに、それこそ贋のネガを渡してしまったら、また一悶着が勃発する。そんな仕組みだ。前段は濃密で鮮やか、後段はそっけなさはあるものの軽快感がある。

 そのほか、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の色彩感覚もうれしい。若い女性モデルのコスチュームの軽快な原色。遊んでずたずたにされる紙のうすむらさき色。それらと公園の緑との対比。ロックバンドの騒音と黙りこくった観客との奇妙な対比。ミケランジェロ・アントニオーニはイタリア人だが、この映画はロンドンで撮影された。そのためかおのぼりさん的な、楽天的な気分が漂っている。同監督の『太陽はひとりぼっち』で見られた先鋭的な印象はない。

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交渉人 真下正義(2005/日本)

交渉人 真下正義 スタンダード・エディション 交渉人 真下正義 スタンダード・エディション
ユースケ・サンタマリア (2005/12/17)
ポニーキャニオン

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 東京の地下鉄で、無人の新型車両「クマ」が暴走をはじめる。大あわての地下鉄司令室。やがて犯人から電話がかかってきて、警視庁の真下(ユースケ・サンタマリア)を指名する。真下は警視庁のネゴシエーターである。犯人には要求はない。ただ、既に地上の何カ所かに爆弾を仕掛けてあって、真下にヒントを与え、それが解けなければ時間切れで爆発してしまうという。つまりは愉快犯だ。またパソコンで「クマ」を自在にあやつれることから、地下鉄のシステム構築にたずさわった人間であろうことが推察される。犯人はまた映画マニアで、古い映画に関するうんちくをヒントにちりばめる。だが真下は懸命のパソコン検索などにも関わらず、ヒントを解けず、爆弾がつぎつぎに爆発していく。「クマ」も暴走をやめない。

 映画などのフィクションにかぎったことだが、奇想天外な犯罪は夢があっておもしろい。愉快犯の気持ちもわからなくはない? パニック防止のためだといって、進行中の犯罪を公表しないのは首をかしげるが、面白さの追求でもあろうか。爆発物を仕掛けられたコンサート会場から人々を避難させないのもどうか。

ユースケ・サンタマリアは新機軸の演技をしているのかもしれない。最初は大根役者に見えて、おどおどしていて、表情を表に出すのが下手に映ったりするが、これが見終わってみるとなかなか印象にのこる。芯がちゃんとできているというのか。司令室のキャップの國村隼が正統派の演技で好演しているだけに、好対照だ。
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パープル・バタフライ(2003/中国・フランス)

パープル・バタフライ パープル・バタフライ
チャン・ツィイー (2006/07/21)
角川エンタテインメント

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一九三〇年代の上海。中国進出をはたした日本軍に対して、大衆的な日本排斥運動が巻き起こる。中国人チャン・ツィイーは、日本軍の要人暗殺をもくろむ諜報機関の一員。一方の仲村トオルは日本側の諜報機関員。二人は表面上は恋人同士だが、両者とも相手の本当の身分を知っている。だが、知らないふりをして相手を情報収集に役立たせようとする。また、リィウ・イエは日本軍に諜報員と誤認されて、その巻き添えで恋人を殺されるという役。やがて彼は復讐鬼と化していく。

 それぞれのナショナリズムと任務。それに相反する男女の感情をロウ・イエ監督は趣向を凝らして描く。セリフを極端に切りつめて、なが回しによる俳優の表情によって情感を浮きだたせようとする。「殺したくはないが、殺さなければならない」といった板挟みの感情を。普通ならスパイアクションになりそうなところを心理劇にもっていこうとする。だが、セリフによろうと、顔のアップによろうと、表現したいことは同じじゃないかと、半畳を入れたくなる。非戦のメッセージだろう。それにじっと動かない顔のアップはジャン・リュック・ゴダール、ゆっくりしたカメラの移動による風景の俯瞰はテオ・アンゲロプロスからの模倣がまるわかりで、シラける。

 当時流行ったであろうスローテンポの歌曲がところどころに流れるのは、時代を感じさせていいなあ、と思った。日本語の歌も流れる。雨が多いのも情感を内にこもらせて、いい。また、上海の街のオープンセットはセットと思えないほど巨大で、威容を誇っている。

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ディパーテッド

 マフィアに潜入した警察官がレオナルド・ディカプリオ。一方のマット・デイモンはマフィアだが、試験を通過して堂々と警察組織の中枢に入りこむ。そのデイモンを子供時代から面倒を見てきたのがジャック・ニコルソンで、マフィアのボス。そういった出演陣。香港映画「インファナル・アフェア」のリメイクだそうだ。
 
 なかなか面白い。ここでは「ネズミ」と呼ばれるが、スパイのことだ。スパイの一番の安全策は敵陣に侵入して何もしないこと。敵の言うとおり動くことだ。だがそれなら仕事にならない。少々の危険を顧みずに重要情報を探りだして見方に通報しなければならない。とりわけストレスが溜まるのがディカプリオの方で、こちらは露見するとたちまち殺されかねない。精神科医の女性に泣きついて薬物を多く分けてもらったり、警察の上層部との密会では怒りをぶちまけたりと、ディカプリオは不安と苛立ちを見事に演じている。「タイタニック」のときと比べて、随分成熟したものだ。一方、デイモンの方は余裕綽々。小狡くおとなしく、ときには「仲間」でごったがえす警察署からジャック・ニコルソンに直に電話したりと、大胆だ。ジャック・ニコルソンは猜疑心とボスならではの見せかけの鷹揚さを併せもった演技で、名優の面目躍如だ。また、このような三者三様の対照的な演技ぶりは、無論マーチン・スコセッシ監督の構想のもとになされたものだ。ディカプリオを一番目だたせていることが、この映画を成功に導いた。

 現代らしく、携帯電話やパソコンがめまぐるしく登場する。それがスピーディな展開によく合っている。大きな麻薬取引の現場を押さえようとする警察。携帯の盗聴に成功しかかるが、マット・デイモンは、その司令室からポケットに隠し持った携帯で指だけの操作でマフィアに連絡するのだ。この離れ業、いかしている。また銃撃戦が随所に見られるが、映画が進むほど、その比重が増してくる。せっかくの緻密で懸命な仕事ぶりも死んでしまっては、それどころではない、水泡に帰してしまう。死ぬということは映画の場合、通常スクリーンから退場して二度と帰ってこない、ということだ。たてつづけにこれがあって、痛切な感覚がよく効いている。そしてまだまだあるストーリー展開。ディカプリオにもデイモンにも知らないことが一杯ある。いや、面白かった。

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魂萌え!

 定年後まもない夫に先立たれた妻、風吹ジュンの自立の物語。それまでとはまったくちがう扱いを他人から受ける、つまり自分がまるで他者になったような時間が訪れる、そこが面白いと思った。だが自分はあくまで自分で、他人の視線にも理由があるので、体勢を立て直して「他者のような」自分を真の自分としてくり込んで行かなくてはならない、その部分に惹かれた。

 葬儀のあと間もない頃、女性から電話がかかってくる。亡夫の知人だと言うが、風吹は知らない。それに電話の声に謎めいたところがある。やがてその電話の主が焼香に訪れるが、この人が亡夫の愛人であった三田佳子である。独特の雰囲気がある。図々しさと亡霊のようなか細さと、それに悲しみをあわせもったというのか。この一連の流れの三田佳子がなかなかの雰囲気で、だてに長年女優をやってはいないな、と思わせる。無論、愛人の存在など風吹ジュンは知らなかったので、愛人の目からすると、自分が「本妻」として妬まれ、また愛人なりの悲しみを押しつけられる存在にまで急変する。それを自覚させられる。

 もうひとつ「他者のような自分」になってしまう話がある。渡米中の長男が葬儀もあって帰ってくるが、遺産相続のことやら、自宅の扱いのことやらを図々しく、母風吹ジュンに要求してくることだ。夫に代わってにわかに家長の役を担わされ、また長男のまったく知らなかった一面を見せつけられるのだが、この戸惑いにも共感を持った。

 あとの部分は冴えない。身よりのない老人、借金まみれの男、一見幸福そうでも長い家庭不和のもとにある男、などが登場するのだが、いくら風吹ジュンがそれまで専業主婦であっても、マスメディアなどで知るところではないか。少女のように驚きの表情を浮かべるだけでは物足りない。小説だったら、「こう感じた」「こう思った」という文章で締めくくってさまになるが。川面をはさんだ満開の桜や、映画「ひまわり」の映像はうつくしいが、映画全体に溶け合うまでにはいかない。
    23:23 | Trackback : 6 | Comment : 1 | Top

白痴(8)

 ドストエフスキーは、ムイシュキンという一個の人物に委託して思想の根っこにあるべきもの、宝石でいえばその原石にあたるものを表現したかったのだろう。ムイシュキンに言わせればそれは、宗教の出発点にゆたかに流れるべき感情であり、ひいては政治思想にとっても看過してはならないものである。全体のなかの中心であり、この世界のはじまりに据えなければならないものであった。またそれは誰でもが手にできるもの、接することができるもの、でなければならなかった。自然の風景でも、子供や女性のうつくしさでもいい。くどいが、そのうつくしさは人間の善への信頼に通じる。それらにうつくしさを感じ取ることが深ければ深いほど、比例的に愛の感情をはぐくみ、隣人への信頼がより増すことにもにもつながる、というのだ。実感そのものと、それにきわめて近い場所で付加された思想がセットになっている。また、ことさら特異な実感やら体験やらではない。ムイシュキンは、彼が抱いたそういう実感が誰にでも共有することができると信じ、そこに希望を置いたのだろう。

 思想といっても、はじめからむつかしい用語を駆使した本を指すのではない。ムイシュキンはちょうど逆で、ロゴージンのような異端思想に真正面から向き合い、知悉して対決するよりも、たえず実感を、そこにある感動を思いだすことに精力をそそぎ、そのゆたかなイメージの懐を大切にした。これは後ろ向きの態度とは言えないだろうか。またそのためもあって、不安を抱えながら他人を、ロゴージンのような死に神を硬直的に信用することをやめない人である。だからこれは青年の成長の物語ではない。ムイシュキンは悪にたいする免疫性を最後まで身につけずに終わる。彼は脆い。てんかんという病もあって、挫折が即退場につながる、あっけないといえばいえる結末をむかえてしまう構造になっている。
 
 思想とは理念をさす。うつくしさを実感として感動としてとらえても、その奥にたしかに存在するであろう本源を肯定的にとらえるか、それとも何も持ち帰らないかの選択は理念に、ひとえにその有り無しにかかっている。そこに「愛」を見いだすためには前もって「愛」という理念がなければならない。つまりは実感と理念がどんなに近接して見えても、両者のあいだには空隙があるのだ。また、理念の裏側には虚無があり、そこにロゴージンのような思想ともいえないような思想が、理念不信が跋扈する余地がある。ムイシュキンはたえず体験した実感や感動に密着したがる。それらをはなれた位置からとらえなおしてみたいという欲求にも人は駆られるもので、客観化のことだが、ムイシュキンにはそういう動きはない。情熱に向き合うことと近接することがもっぱらだ。また同じ実感やら感動やらをたえず、たぐりよせてくり返すことは、それらが擦り切れる運命にさらされることではないだろうか。また虚偽がくわわる怖れもある。だがムイシュキンにはそれはなかった。変化や堕落の時間がないままに、彼は過ぎてしまった、純粋なままだった。この短いがゆえの命の輝きに私たちは惹かれる。ムイシュキンとロゴージンという両極端の二つの人格が、一個の人間のなかに理念の有無の対立という形で、私たちにもドストエフスキーにも平衡をとって棲みついているのだが、この小説にかぎってはムイシュキンに惹かれるのだ。

 それにしてもムイシュキンはいちじるしい理念的傾斜をしめす。ムイシュキンがロゴージンに熱っぽく語るカ所。赤ん坊を抱いた若い母親(百姓女)に接したときのこと。赤ん坊がはじめて笑顔を見せたことが、母の表情変化によってムイシュキンにわかる。母は信心深い様子で十字を切る。

「『おかみさん、どうしたんだね?』ってきくと(あの時分はなんでもたずねてみたものなんだけれど)相手は、『いえ、あなた、はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪人が心の底からお祈りするのを天上から御覧になった神様の喜びと、まったく同じことなんでして』と答えたもんさ。これはその百姓女が言ったことだよ。ほとんどこれと同じ言葉でね。じつに深みのある、デリケートな、真に宗教的な思想じゃないか。この思想のなかにはキリスト教の本質のすべてが、つまり、人間の生みの親としての神にたいする理解のすべてと、親が生みの子を思うと同じような神の人間にたいする喜びのすべてが、いや、キリスト教の重要な思想がことごとく、いっぺんに表現されているんだからねえ! しかもそれを言ったのが、ただの百姓女なんだからねえ! 」(p500)

 赤ん坊の笑顔ひとつが、神と人間の結びつきにまで同時的に広げられている。自分(母)が神ならば赤ん坊は人間だという関係性だ。母子の濃密な情愛関係から自然に漏れ出たであろう感慨だが、それにしても、これが庶民の女性の実感として語られることにちょっと驚く。赤ん坊と罪人の祈る姿が二重写しされているのもそうだが、やはり「天と地」という垂直の関係性への彼女の想いが、何の衒いも飛躍もなく映るからだ。これは私には、あるいは日本人には即座には入り込めない思考習慣ではないか。「地平線からのぼる朝日のうつくしさ」というムイシュキンの述懐は、「こちらとあちら」という水平的な関係性で、これなら私には理解がたやすい気がするのだが。ロシアの庶民には環境的に自然にそなわった思想、連想なのだろうか。もっとも女性にとっては、思想よりも、子供をえて育ちつつあるという歓びの実感の方がたいせつにはちがいないが……。

 ムイシュキンはそれを情熱をもって何が何でも継承しようとする。赤ん坊の笑顔はたしかにうつくしい。だがムイシュキンのこの熱弁は別の意味でうつくしく、かつ危ういのではないか。これまた今日の日本人からは、飛躍的に見えて、ちょっとやそっとでは入り込めない熱っぽさだ。彼の言葉によってくるまれた母子の幸福とその思想を彼は「信念」と呼び、それをつかみとれない無神論は上っ面に過ぎないと批判する。さらにそれは「私たち」ロシア人がロシアから最初につかみとらなければならない「最初の信念のひとつ」とも言う。この熱っぽさからは、ムイシュキンを越えてドストエフスキー自身の情熱が伝わってくる気がする。十九世紀後半のロシアにおいては神が遍在していたのか。まさかそうでなくても、失われて間もないという懐旧の念が行き渡っていたのだろうか。情熱とともに神を実感すること、それが当時のロシアの作家、芸術家たちを焦眉の課題として惹きつけたのかもしれない。無論、言うところの無神論は無神論で、以後ずっと自己主張を喧伝したであろうが。
                   (了)

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白痴(7)

 ロゴージンの住居のなかのひとつのドアのうえに絵が掛けられてある。「たったいま十字架からおろされた救世主の像」の絵で、無論イエス・キリストのことだ。長さが1メートル80で高さが30センチ、ハンス・ホルバインという画家の作品の模写である。触発されたのか、その絵を前にしてロゴージンが「あんたは神を信じているのかね、」とわるい眼つきでたずねる。

「ほんとにきみは変なことをきくねえ。それに……その眼つきといったら!」公爵はついそう注意した。
「おれはあの絵を見てるのが好きでね」ちょっと口をつぐんでから、またしても自分の質問を忘れたかのように、ロゴージンはつぶやいた。
「あの絵をだって!」公爵は思いがけなく心に浮かんだある考えに圧倒されて、ふいに叫んだ。「あの絵をだって! いや、人によってはあの絵のために信仰を失うかもしれないのに!」
「そうでなくても、失われかけてるよ」思いがけなくロゴージンがいきなり相槌を打った。(上巻495p)


 ふりかえると、実に冷え冷えとした会話である。残念ながら、絵の内容についてはこのカ所ではまったくふれられない。作者の例によっての引き延ばしで、それを知るためには、同じくこの絵にふれたイッポリートという青年のノートのところまで読まなければならない。(下巻194p以後)それによると、キリストの肖像画はたとえ死の直後であっても、一般的にはどんな苦痛にさいなまれていてもその表情に神々しい美を添えて描くといわれる。それが信仰のよすがになりうるのだが、ロゴージンが所有する絵のキリストの表情には、全面的な苦痛、そのなまなましさ以外の何ものも存在しない。たしかに死は自然の鉄則であり、何人もそれを逃れることはできない。また死に際する生理神経的な苦痛は何人をも正常さを保てなくするが、そういう事実を、絶対的な消失と苦痛という二つを自己の死に対して想像するだけでも人は耐えられないものだ。その絵はそういう死の暗黒面を、こともあろうに宗教画の体裁において拡大し、強調したものだ。そこには正視したくもない無気味な、あるいは偉大と呼んでもいい死の力が充溢している。これを見て信仰をぐらつかせることはあってもその反対はまず考えられない。ムイシュキンが言うようにそういう怖ろしさを秘めた絵だ。この絵の説明がないと、引用の二人の対話はぼんやりとしかわからないのである。

 ここまでくると好色で乱暴者といった作者がふりまいてきたロゴージンのイメージはくつがえされる。それは表面でしかない。ムイシュキンは美しい自然の風景を見て美しいと感じ取り、そこに善と真実を見いだそうとした。それを思想の基盤にして行動の原理を打ち立てた。「あなたを自身を愛するように、隣人を愛しなさい」というイエスの言葉をまるで鵜呑みにするような馬鹿正直ともいえる実践だ。宗教的な態度であっても、私たちには態度がそれこそ自然に見えるところがあって理解はしやすい。目の前にしないときでも、彼はときおりはそれを思い出した。だがロゴージンはまったく逆である。「おれはあの絵を見てるのが好きでね」というロゴージンは、自然の持つ暗黒面をのみ凝視するのだ。信仰をも滅ぼしかねない死と苦痛をもたらす自然を。だがこれは凡人から見ると異様だ。想像したくないことを無理をして、死に少しずつ近づくようにして想像しつづけるようにしか受け取れない。自然な態度ではない。いくら暗黒面を想像する場合でも、人はそこになんらかの光明や美を逆に見いだしたがるものであるから。反信仰に暗い緩慢な情熱をそそぐのも信仰的態度といえるのか、この小説でしばしば言及される無神論のたぐいだろうか。私は疲労と病理がこの男をむしばんで、ぐったりしているように見える。特異な信仰のもつ毒がまわったのか、もともとの病理がそういう信仰ともいえない信仰に向かわせたのかはわからない。ともかくも、自然のもつ暗黒の力が力であれば、彼をもむしばまずにはおかないのだろう。彼は冷笑的だが、自信家なのかそれとも自信を喪失した男なのか、どちらとも受け取れる。作者はロゴージンとはともかくもそういう男だというのだ。私はここでまたしても「地獄において身のみを滅ぼしうる者をおそれるな。身をも魂をも滅ばしうる者をおそれよ。」というイエスの言葉を思い出す。ロゴージンはどちらだろうか。

 かくして引用した対話において、ムイシュキンとロゴージンは信仰をめぐって相対立するという構図ができあがっている。だがロゴージンは口数が少ない。また「あんたの信仰はまちがっている」とか「おれはあんたを殺したいんだ」とか腹の中はそうであっても、あからさまには言わない。またムイシュキンがロゴージンとナスターシャの二人しての幸福を願っていてそのための行動をいとわないことも知っているから、なおさらその沈黙は無気味だ。あるいは、そこにはロゴージン自身の意志と行動とは正反対の友情さえも芽生えかけている、ととらえることもできるのかもしれない。殺意を具体化する直前には、ふたりは首にかけた十字架の交換をして友情を誓い合ってさえいる。揺れ動いている、そんな風に見えなくもない。一方、ムイシュキンはムイシュキンで、死が自然の一鉄則であることは知っているが、あからさまなそれを人の想像の中心に据えたり、人為によってそれを引き込んで手を染める(殺人)ことは考えることができない。あってはならないことだ。たとえそういう人が目の前にいたとしても、その存在を認めたくはない。ロゴージンがそういう人であることを予感はともかくも認めたくはない。

 ナスターシャはロゴージンをどうとらえているのだろうか。彼等の直接の対話はこの小説にはいっさい出てこない。だからムイシュキンが両者の聞き役になって引き出された言葉から両者の関係を推察するしかないが、これがまた作者の謎かけなのだ。たぶん彼女はロゴージンの人となりを知悉している。表面的には二人とも遊び好きで荒れていて気が強いのだが、それは一過程にすぎない。彼女は自殺願望を持つ女だからこそ、殺人者としての影がちらつくロゴージンに惹かれるととらえるべきで、くっついたり離れたりをくり返すのはナスターシャの「ためらい」なのだろう。ムイシュキンに接近するのも、あともどりしたいとの願いが頭をもたげるからだ。ロゴージンの方もまた彼女の自殺願望を日をかさねるうちに勘づくことになるのだろう。そこではお互いの燃え尽きないしぶとい志向をそそのかし合うほかは考えにくい。

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