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葬儀

自作エッセイ
01 /16 2007
 生前一度もお目にかかったことのない方のご葬儀に何回か参列したことがある。仕事の上でつき合いがある人の親族の方のご葬儀である。仕事の関係者に義理を欠くことをおそれてのことで、祀られるご本人よりもその方の方を強く意識する場合が多い。不謹慎なことだが、哀悼の意を表するというよりも、そこに参列しなければという気持ちがより多くを占めるものだ。ご親族一同がそろって参列するなか、私は後ろの方のたとえばパイプ椅子に神妙にして座る。そのときは私は、群のなかの一員だと既に思ってしまっている。その位置から御遺影をとおくに拝見する。だが、たとえば僧侶のお経が読まれるなか、焼香の段階になって、順番にしたがって線香台と祭壇の前に、御遺影の近くに赴くことになる。そのときに微妙な変化が私のなかで起こってしまう。

 葬儀とはやはり一対一の対面の場がかならず設けられているもので、決して一人と「群のなかの一員」の関係がすべてを占めるのではない、むしろ前者こそが葬儀の本質に値する部分なのだ。そのことにあわてて気づかされる。そしてお相手がご逝去された方だという認識も徹底してもいない。御遺影は無論生前に撮られた写真だから、また堂々とした身構えに見えて「初めまして、よろしく」と声にこそ出さないが、そんな心構えになってしまう。「初対面 」だから「お前、何しに来たんだ」と御遺影から睨まれているような気がするものである。だがやはり、そういう挨拶ではふさわしくないと当然ながら思い直して、「やすらかにお眠りください」という祈念の気持ちに切り替えようとはするのだが、時間はすでに線香を少量ずつ何回に分けてたし終わり合掌の段階まで来てしまっている。切り替えたあとの気持ちがどっしりとしたものになる時間的余裕がないのだ。せめて、丁寧さと哀悼の意をこめてふかぶかとこうべを下げるのだが、ぎこちない感覚がどうしても残ってしまう。
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seha

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